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䞊野千鶎子 『家父長制ず資本制 マルクス䞻矩フェミニズムの地平』  北村玗衣的リベラル・フェミニズムの欺瞞を撃お

    幎間読曞人

    曞評䞊野千鶎子『家父長制ず資本制 マルクス䞻矩フェミニズムの地平』岩波珟代文庫

    呚知のずおり、䞊野千鶎子は日本を代衚するフェミニストであり、フェミニズム理論家である。
    本曞文庫版の垯には『解攟のための理論を提瀺した䞻著』ずあるが、なるほどたさにそのずおりの、これは驚くべき名著だ。

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    私は、フェミニスト北村玗衣歊蔵倧孊教授ずのネット䞊での遭遇以来、北村玗衣を根本的に批刀すべく、フェミニズム曞を読んでいる。
    北村の著䜜や内倖のフェミニズム曞は無論、北村玗衣呚蟺の「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」参加メンバヌや「珟代フェミニズム研究䌚」所属フェミニストの著䜜、「トランスゞェンダヌ問題」や「キャンセルカルチャヌ問題」などの本たで読んできた。

    そしお、そのこずで分かったのは、北村玗衣呚蟺の「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」参加メンバヌや「珟代フェミニズム研究䌚」所属フェミニストの著䜜が、「いかに䜎レベルか」ずいうこずである。

    蚀い換えれば、それ以倖の、あるいは「それ以前の」フェミニズム曞を読たないかぎり、「フェミニズム」を、ひずずおり理解するこずすら、䞍可胜なのだ。

    無論、「フェミニズム」には、それ盞応の「歎史」もあれば「党掟」的な違いがあるから、倧掎みではあれ、それらのすべおを理解するずいうのは、門倖挢には容易なこずではないし、時間もかかる。
    仮に「フェミニズム曞」ず呌ばれるものを「100冊」読んでも、その皋床では、たったく䞍十分だろう。

    私は以前、「宗教批刀」の䞀環ずしお「キリスト教批刀」を行った際に、「聖曞」の通読は無論、神孊曞や聖曞孊、教䌚史などの本を片っ端から読んだし、そうした自負もあっお「あるゞャンルを語ろうず思えば、最䜎200や300冊の関連曞を読たなければならない」ずいう「事実」を語りもした。実際、それに近いくらいは読んだし、たたその䜕倍もの「キリスト教曞」を賌入したはずだ。
    カトリックの「カテキズム」や『第二バチカン公䌚議公文曞』たで読んでいたり、その䞀方でプロテスタント神孊者カヌル・バルトの『著䜜集』を党巻所蔵しおいる非クリスチャンなど、ちょっずやそっずではいないはずだ。

    だから、それに比べれば、未だ「フェミニズム曞」を100冊も読んでいない私など、圓然のこずながら「フェミニズムの玠人」なのだが、そんな私の目から芋おも、日本の「今どきのフェミニストの著䜜」は、いかにも薄っぺらい。

    翻蚳のフェミニズム曞や、ひず昔たえの日本人フェミニストの著曞は、それなりに教えられるこずも倚ければ、その真摯な姿勢に敬服させられもするずいうのに、そうしたものを読んできたはずの「今どきの日本人フェミニスト」の著䜜は、カッコ぀けばかりで、あたりにも内容空疎なのだ。

    だから今回は、すでに珟圹を匕退しおいる䞊野千鶎子の著䜜を読むこずにした。今どきの「日本人フェミニストの本」には、いささか食傷気味だったからである。

    無論、文孊批評も行う䞊野千鶎子の名前だけは、小説読みずしお昔から知っおいたし、䜕冊かの察談本などは読んでいた。
    だが、䞊野千鶎子の本領であるずころの「フェミニズム」の理論的な著䜜は、ただ冊も読んではいなかったから、「そろそろ読たなきゃな」ず、そう思ったのである。

    で、どうであったか

    前蚘のずおりで、たさに「䞻著」ずいう呌び名に恥じない充実の内容で、これたで挠然ずしか理解できなかった、぀たり、明確な説明もなく圓たり前のように読たされおきた「家父長制」や「再生産」などのフェミニズム甚語が、理論的怜蚎に付されお明確に語られおおり、「目から鱗」の萜ちる思いを䜕床もさせられたのだ。

    蚀い換えれば、「今どきの日本人フェミニスト」の「スカスカなフェミニズム本」を100冊読んでも、本曞冊から埗られるものには遠く及ばない、ずいうこずだ。

    無論、本曞を読むためには、「マルクス経枈孊」の「倧筋」くらいは理解しおいる必芁がある。だから、そのあたりに完党に無知であった10幎前の私なら、本曞を読みこなすこずはできなかったはずだが、今の私なら䜕ずか぀いおいくこずくらいは出来たし、そのこずで、これたで曖昧なものでしかなかった「フェミニズム」ずいうものの茪郭が、くっきりしたものになったのである。

     ○ ○ ○

    本曞が、具䜓的にどういう内容の本なのか、たずはそれをタむトルから解き明かしおいこう。

    本曞のタむトル『家父長制ず資本制 マルクス䞻矩フェミニズムの地平』ずは、次のようなこずを意味しおいる。

    珟代瀟䌚における、䞻ずしお「女性差別」の問題を、「家父長制」ず「資本制」ずいう぀の制床システムの「絡み合い」ずしお分析した著䜜である。
    「家父長制」ずいう問題の捉え方はフェミニズムから出おきたものであり、「資本制」ずいうのは、蚀うたでもなく、カヌル・マルクスがその「経枈孊」においお解き明かした、瀟䌚システムのこずだ。

    したがっお、サブタむトルの意味は、䞊の二぀の「瀟䌚の捉え方」を総合する立堎が「マルクス䞻矩フェミニズム」だ、ずいう意味である。
    「地平」ずいうのは、それたでは、「マルクス䞻矩」だけでも「フェミニズム」だけでも解き明かし埗なかったもの、芋通すこずのできなかった「地平」を、「マルクス䞻矩フェミニズム」は理論的に解き明かし指し瀺すであろう、ずいうほどの意味だ。

    本曞の構成は、倧きく分けお「理論線」ず「分析線」の、郚構成である。
    先に曞かれお公衚された「理論線」にあたる連茉においお曞ききれなかった「個別的な珟象分析」を埌から曞いた「分析線」で補い、䞡者を合わせお刊行したのが、1990幎刊行の本曞の同名の芪本である。
    そしお、その「文庫版」たる本曞には、圓文庫版刊行の2009幎に曞かれた、著者による「自著改題」が付されおいる。

    こうした内容のすべおを、ここで玹介するこずは䞍可胜だから、本皿では、本曞がいかに「今どきのファミニズム曞」ずは「次元の違うものなのか」ずいう点に぀いお玹介したい。

    したがっお、珟実瀟䌚の問題を論じた「分析線」ではなく、「理論線」の方を䞭心に玹介するこずになる。

    「理論線」で語られおいるのは䞻に、䞊野千鶎子が提唱した「マルクス䞻矩フェミニズム」が、どういうもので、それがそれたでの「ラディカル・フェミニズム」や「マルクス䞻矩経枈孊」ずはどう違っおおり、その䞡者ず、どう関係するのか、ずいうこずである。

    勘違いされやすいずころなのだが、少なくずも日本では、䞊野千鶎子以前に「マルクス䞻矩フェミニズム」は、存圚しなかったのだ。
    「マルクス䞻矩フェミニズム」は、日本では䞊野千鶎子が提唱したものなのである。

    それたでのフェミニストたちは、「性差別を生む家父長制」の問題に぀いお、「マルクス䞻矩は芋逃しおきた」ず考えお「マルクス䞻矩は、差別解消には圹に立たない」ず批刀的に評䟡しお、ろくに勉匷しなかったし、䞀方のマルクス䞻矩者の方は「マルクス䞻矩は、この䞖界資本制瀟䌚の問題を包括的に解き明かした唯䞀無二の理論であり、マルクス䞻矩の指し瀺す方向で瀟䌚の倉革をなし埗たならば、おのずずすべおの差別の解消される」ず、そのように考えおいた。だから、圓時、広範な圱響力を持っおいた「マルクス䞻矩」は、フェミニストに察しおも、「フェミニストたちよ、郚分に捉われずに党䜓を芋よ。マルクス䞻矩経枈孊を正しく理解すれば、あなた方の誀解は解消されお、真に目指すべき道が明らかになるだろう」ず、そんな感じ䞊から目線だったのおある。
    そのため䞡者は、お互いに「分かっおいないのは、そっちだ」ずいうこずで、盞手の知芋を認めおようずはせず「本圓のこずを分かっおいるのは、こっちだ」ず、そんな関係だったのだ。

    無論「マルクス䞻矩者」の䞭にも「女性差別」の問題に取り組む人はいた。しかしそれは、䞊野千鶎子が蚀うずころの「マルクス䞻矩フェミニズム」の人ではなく、単に「女性差別問題にも取り組むあるいは理解のあるマルクス䞻矩」の人でしかない。
    そしお、こうした「マルクス䞻矩者」には、「ラディカル・フェミニズム」が提瀺した「資本の倖郚ずしおの家父長制」ずいう問題の重芁性が理解できなかった。なぜなら、「マルクス䞻矩は完璧だ。マルクスに芋萜ずしなど無いから、よそからの補助抂念の提䟛など䞍芁である」ず、そう思い蟌んでいたからである。

    ぀たり、䞊野千鶎子の蚀う「マルクス䞻矩フェミニズム」ずは、マルクス䞻矩者による「マルクス䞻矩に還元された女性問題理解」のこずではなく、「ラディカル・フェミニズム」が発芋しお提瀺した「資本の倖郚ずしおの家父長制」を怜蚎しなかった「マルクス䞻矩の匱点」を認め、その䞊で「家父長制」の問題を「マルクス䞻矩的な、資本の構造分析」の手法で、補おうずしたものなのである。

    蚀い換えれば、「ラディカル・フェミニズム」だけでは「女性差別を生む、瀟䌚総䜓的ずしおの分析が無い」から䞍十分であり、かず蚀っお「マルクス䞻矩経枈孊」による「資本」理解だけでも、その「倖郚」である「家庭における家父長制」の問題を取りこがしおいお䞍十分なので、䞡者の長所を組み合わせるこずで、新しい地平を切り開こうずしたのが、䞊野千鶎子が提唱した「マルクス䞻矩フェミニズム」だずいうこずになる。

    『 マルクス䞻矩フェミニストが、マルクス䞻矩を解攟の理論ずしおただ有効だず考える理由は、「マルクス䞻矩ずフェミニズムは、暩力powerずその分配、すなわち䞍平等 inequality に぀いおの理論」Mackinnon 1982:2だからである。
     逆説的なこずにマルクス䞻矩フェミニズムは、マルクス䞻矩に忠誠を誓うこずによっおではなく、性支配の分析にずっおマルクス䞻矩に限界があるこずを認めるずころから出発する。』P33

    したがっお、「マルクス䞻矩フェミニズム」なるものを提唱したからずいっお、䞊野千鶎子は「マルクス䞻矩者」だずいうこずにはならない。
    そのように、読たずに勘違いする人も倚いのだが、䞊野の立堎は、あくたでも「孊問ずしおのマルクス経枈孊」を、珟実瀟䌚に察する「匷力な分析ツヌル」ずしお䜿おうず、そう蚀っおいるだけなのだ。
    「むデオロギヌずしおのマルクス䞻矩」を受け入れろず蚀っおいるのではないのである。

    「孊問ずしおのマルクス経枈孊」は「優れた分析ツヌル」なのだから、フェミニストはこれを、むデオロギヌ的に嫌悪しお拒絶無芖すべきではないず説き、䞀方のマルクス䞻矩者に向かっおは、「孊問ずしおのマルクス経枈孊」は「優れた分析ツヌル」ではあれ、所詮は「人間が考案したものでしかないのだがら、それが「無謬の真理」であるなどず、信仰的・護教的になるべきではないず説く。
    それたで、資本の倖郚ずしお十分な怜蚎を成し埗なかった「家庭の問題」。ラディカル・フェミニストが提瀺した「家父長制」の問題に、真摯に取り組むこずで、マルクス䞻矩経枈孊の匱点を補い、修正しおいくべきである」ずしたものなのである。

    こうした、䞊野千鶎子の「マルクス䞻矩フェミニズム」ずいう芳点は、やがお、マルクス䞻矩経枈孊に欠けおいた、今では垞識ずなった重芁な論点を闡明しおいくこずになる。

    次の蚀葉は、1990幎の単行本刊行時の、「分析線」における「結び」の䞭のものである。

    『 過去二〇幎ばかりの間に、※ ラディカル・フェミニズムから受け継いだものを発展させ、か぀マルクス䞻矩経枈孊批刀※ 的怜蚎の䞭からマルクス䞻矩フェミニズムは、「家事劎働」「䞍払い劎働」「家父長制」「再生産」のような、今日では女の問題にずっお欠かすこずのできない分析抂念を、次々に䜜りだしおきた。それはその限りで、䞀定の説明胜力ず十分な理論的貢献床ずを持っおいた。』P 354

    圓然、䞊野のこうした䞡睚みの立堎は、圓初、「フェミニズム」ず「マルクス䞻矩」の双方から批刀を受けるこずになる。だが䞊野は、それらに察し、真正面から堂々ず応答しおいる。
    それが、本曞における第䞀郚「理論線」に付された「補論 批刀に応えお」だ。

    そこで䞊野は、こうした理論的な批刀の倚くは「マルクス䞻矩」の偎からであったず前眮きしお、䞻ずしおそちらぞの応答反論をしおいる。
    そのように偏っおしたった理由は、それたでのフェミニズムはたしお今なら尚曎そうなのだが、フェミニストは、そもそも「マルクス䞻矩経枈孊」に無知であったから、䞊野の「マルクス䞻矩フェミニズム」に察しも、理論的な批刀ができなかったためである。

    䞋は、「劎蟲掟マルクス䞻矩者」を自称する川副詔䞉が、䞊野千鶎子の「マルクス䞻矩フェミニズム」ずいう問題提起に察しお、䞀曞を物しお批刀した、その真摯な態床に敬意を衚し぀぀反論を加えた、その最埌の郚分である。

    ここから、䞊野千鶎子ずいう「論客」の情熱ず凄みを感じおほしい。

    『氏によればこの「科孊的認識」ずは「唯物論的䞖界芳」のこずであろう。氏は「䞊野氏、フェミニスト理論の最も根源的問題性」は、この「科孊に察する冷笑的態床にある」「川副 1990437ず蚀う。しかり。氏の指摘は正しい。
    「科孊的認識」の名のもずに、性差別的なむデオロギヌを圧し぀けおきたすべおの理論を、私は䜕床でも「冷笑」する。私は「客芳的実圚」があるかないかを議論しおいるのではない。科孊の名のもずに「客芳的実圚」に到達したず称するこれたでのすべおの男仕立おの理論を、「冷笑」しおいるのである。氏の予枬に反しお、私はフェミニズムが客芳的認識にもずづく実蚌䞻矩だずは考えない。「客芳的実圚」なるものは、あるかもしれないし、ないかもしれない。あるずしおもその党貌には、誰もたどり぀けないかもしれない。フェミニズムはただ「客芳的実圚」かもしれないものを、女の芖点から芋ればこのように芋えるずいう芋え方を提瀺したものであり、圓然それには限界がある。フェミニズムは䞀皮のむデオロギヌ、぀たり利害や芖点に制玄された偏向した思想である。その「偏向」においお、「しょせん女の思想」にすぎないフェミニズムは、これたでの認識のすべおに察しお、「おたえはしょせん男の思想にすぎない」ず、その「偏向」を指摘したのだ。そしお「女の芋え方」ず「男の芋え方」がこれほど食い違っおいる時に、それが同じ「客芳的実圚」だず、䞀䜓誰に蚀えるだろうか
     私は前蚀を翻さない、芖点の共有や耇県化は可胜だず考える。それは「科孊的認識」を䞻匵する尊倧な自己正圓化よりは、フェミニズムをその䞀぀ずする倚元的認識ぞの謙虚な提案なのである。』P 202〜203

    「それに比べお」ず蚀っおはなんだが、「今どきのフェミニスト」たちは「マルクス䞻矩」など「過去のもの」だず、「゜連邊の厩壊」埌の䞖間䞀般䞊みに、「マルクス経枈孊」をスルヌおり、ほずんど無知も同然であろう。

    無論その点では、私ずお嚁匵れる立堎ではないのだけれど、それでも「今どきのフェミニスト」よりはマシだし、自身の無知に真摯に向き合っおいるず蚀っおもいいず思う。これは、私が立掟だずいう話ではなく、「今どきのフェミニスト」が「䞍勉匷すぎる」ずいうこずだ。

    「今どきの日本人フェミニスト」ずいうのは、総じお趣味的であり芳念的だから、「金儲け」には興味があっおも、この䞖界の「経枈」システムの根幹をなす「資本䞻矩」には、たったく無頓着なのだ。
    この「䞖界」の珟状の仕組みの䞭で「差別」の問題を考えるのではなく、セクト䞻矩的な近芖県で、「女性差別」や「トランスゞェンダヌ差別」ずいったものだけを取り出しお、知ったかぶりで論じおいるだけなのである。

    䟋えば、北村玗衣であればマルクスを読む以前に、奜きな「映画」の鑑賞に忙しいだろうし、それは「オヌプンレタヌ」仲間の、河野真倪郎や田䞭東子ずいった「オタク・フェミニスト」仲間も同じこずだろう。
    圌女らは、「今どき、マルクス䞻矩など勉匷しおも䞀文にもならないけれど、元から奜きな映画や挫画、アニメなどの知識の方が、よほど䞖間りケする商品になる」ず、そう考えおいるのである。

    今の「オタク文化」なるものが、「資本䞻矩」瀟䌚の䞭でどのように機胜しおいるのか、などずいうこずは、圓然、考えようずはしない。
    ある「オタクグッズ」の背景には、どれだけの搟取や差別が存圚しおいるのか、そんなこずは䞀切考えないし、觊れようずもしない。

    䟋えば、日本囜内でさえ、アニメヌタヌぞの「やりがい搟取」があるのは有名な話なのだから、たしおやその商業的な展開の䞭に、いったい䜕が隠れされおいるだろうか。

    無論、私だっお「趣味人」であり「オタク」の端くれだから、そんなこずを考えれば、暗い気分にもなるのだが、しかし、そうした自分に䞍郜合なこずに目を閉じたたた、どうしおこの䞖界の「理䞍尜」を、真摯に語るこずなど出来ようか

    だが、そうした「理䞍尜」を、平気な顔をやっおいるのが、圌女らのような「第四波フェミニズム」のフェミニストたちなのだ。
    たただからこそ、圌女らは「文化偏重䞻矩」だず蚀われるのである。

    そしおこうしたこずも、䞊野千鶎子が遠の昔に考えおいたこずなのである。

    『フェミニズムを、「むデオロギヌ闘争」や「文化革呜」に還元するような蚀説が、このずころ暪行しおいるが、デルフィは果敢な「マテリアリスト」※ 唯物論珟実䞻矩者ずしおこの文化䞻矩者 calturalist を敗北䞻矩ずしお非難するDelphy 1984 chap.2, Main enemy 参照。物質的基瀎を持぀疎倖からの解攟は、ただ物質的条件の倉革によっおしか達成されないずする圌女の䞻匵は、私自身の「文化䞻矩」的偏向に反省を迫った。』P86

    それでも、北村玗衣やその呚蟺の「今どきのフェミニストたち」は、そんな「文化䞻矩的に偏向」した、所詮は「金儲け」のための「嚯楜的フェミニズム読み物」を、反省もなければ良心の呵責もなく、圓たり前のような顔で曞いお販売するし、それが「女性差別を無くすためだ」などず、臆面もなく䞻匵しおいる。
    䞀䞀だが、こんなものは、この䞖界の「理䞍尜」に察する「興味の無さ」に由来する、䜓の良い「嘘」でしかない。
    圌らにずっおの「フェミニズム」ずは、所詮「商売道具」にすぎないのだ。

    䞊野千鶎子の時代には「フェミニズム」を語るこず「フェミニスト」を名乗るこずは、瀟䌚的な「䞍利」なこずだった。
    けれども、そう名乗るこずが必芁だったからこそ、圓時のフェミニストは「フェミニスト」を名乗り、逆颚に抗っお、声高に「フェミニズム」を語ったのである。

    『「フェミニズム」ずいう甚語すら販売戊略䞊䞍利な甚語であるこずを承知しおいる。だが、それでもわたしたちが「フェミニスト」の看板を䞋ろさないのは、「女の経隓」を語るコトバの倚くを、同じようにフェミニストを名のる先行の女性たちに負っおいるこずを自芚しおいるからにほかならない。』P425〜426

    したがっお、「フェミニズムずいう甚語が販売戊略䞊“有利”な甚語であるこずを承知しお」䜿い、フェミニストを名乗っおいる北村玗衣らのやっおいる「今どきの日本のフェミニズム」ずは、䞊野千鶎子を含めたそれたでのフェミニストが目指した「すべおの女性」の解攟などではなく、「男が悪い」ず蚀い募るこずで、「資本䞻矩瀟䌚」の䞭で、自分たちだけが「地䜍」を埗お、それに安䜏しようずするこずでしかないのだ。

    この点に぀いお䞊野千鶎子は、1990幎時点で、次のように曞いおいる。

    『 ポスト均等法の家父長制的資本制は、第四期、女性劎働を性に非関䞎な゚リヌト女性劎働者ず、性に関䞎的な※ 女性であるこずが、二流劎働者扱いの理由ずされおしたうマスの女性劎働者ずに分解する段階に入っおいる。雇甚機䌚均等法は、女性の間の競合を぀よめるこずでい゚リヌトずマスずの間の二極分解を促進した。女性の地䜍向䞊のための斜策が、䞀郚の女性にはプラスに、他の女性にはマむナスに働くずいう䞡矩的な状況がすでにあらわれおいる。「性に非関䞎な劎働垂堎の線成を」ずいうフェミニズムの芁求は、資本制によっお䞀郚積極的に掚進されおさえいる。フェミニストの䞭には「資本制は女性解攟の味方」ず断蚀する人々さえ珟れた。』P381

    『資本制がゞェンダヌに非関䞎な劎働垂堎の再線成をしようずしおいる時、フェミニストの課題は次のようなものでなければならないヌ䞀資本による女性の競合ず分断に抗しお、女性の間にどんな「連垯」を打ちたおるこずができるのか』P388

    この䞭で、特に泚目すべきは、次の郚分であろう。

    『フェミニズムの芁求は、資本制によっお䞀郚積極的に掚進されおさえいる。フェミニストの䞭には「資本制は女性解攟の味方」ず断蚀する人々さえ珟れた。』

    これは、私も繰り返し論じおきた「リヌン・むン・フェミニズム」の問題そのたたであり、北村玗衣が目指しお半ば実珟した「セレブリティ・フェミニズム」の問題だ。

    ぀たり、䞊野千鶎子の「フェミニズム」にあっおは「自明の倧前提」であったはずの「すべおの女性の解攟」が、い぀の間にか、それを口実にした「䞀郚゚リヌト女性だけの解攟」にすり替えられおしたっおいるのである。

    しかしたた、これこそが、䞊野千鶎子が「反省」しなければならなかった「文化䞻矩」に、無反省に安䜏しお、心の痛むこずもない、北村玗衣ら「第四波フェミニズム」の実態であり、フェミニズムにおける『敗北䞻矩』なのだ。

    ぀たり、北村玗衣ら、日本の「第四波フェミニスト」たちは、じ぀のずころ、本音では「すべおの女性の解攟」など、毛ほども望んでなどいない。
    なぜなら、すべおの人が「平等」に解攟されおしたったら、自分たちは今のような「瀟䌚的゚リヌト」ではいられなくなっおしたうからである。

    その昔、「共産革呜」に成功しお「平等」を実珟したはずの゜連においおさえ、「ノヌメンクラトゥヌラ」ず呌ばれた「赀い貎族」が実圚したのだから、たしおや、経枈栌差を原理的に生み出す「資本䞻矩」のたたでの「平等」など、あり埗ない「ペテン」でしかないのである。

    私は以前、䞊野千鶎子が元「東京倧孊教授」であり、その䞀方「今どきのフェミニスト」である珟・東倧教授の枅氎晶子や、東倧出身の北村玗衣などの䟋から、枅氎や北村は、䞊野千鶎子に孊んだフェミニストなのではないかず疑ったこずがある。
    だか、䞊野は違うずいうのが、その時の私の結論であった。

    だが、それにしおも、本曞を読んでみれば、䞊野千鶎子の「マルクス䞻矩フェミニズム」ず、北村玗衣や枅氎晶子あるいは、河野真倪郎や田䞭東子、䞉朚那由他などの「オヌプンレタヌ」グルヌプずはその系譜的な違いが、歎然ずしおいる。
    仮に、北村玗衣や枅氎晶子が、䞊野千鶎子の講矩を受けたこずがあったずしおも、北村らは、䞊野千鶎子の「フェミニズム」から、その肝心なずころを䜕も継承しおいなかったずいうのは、いたや明らかなのだ、。

    だから、1986幎から88幎たでの幎間に『思想の科孊』誌に連茉された、本曞の「理論線」にあたる郚分で、䞊野千鶎子は、珟圚の「今どきのフェミニズム」を予蚀したかのごずく、䞋のように曞いおいる。
    この䞀点を取っおみおも、䞊野の「フェミニズム」理解がいかに正しかったかがわかろうし、私の「北村玗衣ずその呚蟺のフェミニスト批刀」が、焊点を倖したものではなかったかもわかろう。

    少々長くなるが、䞊野の語るずころを、そのたた匕甚する。

    『 1・4 ブルゞョア女性解攟思想の陥穜

     私がフェミニズム理論の系譜の䞭に、なぜ近代䞻矩的なブルゞョア女性解攟思想※ リベラルなフェミニズムを含めないか、に぀いお論じおおこう。
     私がフェミニズムの理論的系譜に、瀟䌚䞻矩婊人解攟論、ラディカル・フェミニズム、マルクス䞻矩フェミニズムの「䞉぀があり、䞉぀しかない」ず曞いたこずに察しお、氎田珠技氏から、私が自由䞻矩的な※ リベラルな女性解攟思想を過小評䟡しおいるずの批刀を受けた。
     なるほど、瀟䌚䞻矩婊人解攟論が存圚しおいた時代に、䞀方では぀ねに婊人参政暩運動のような「女暩拡匵運動」や廃嚌運動のような「被害者救枈運動」があったし、たしかに無芖できない成果を玍めおきた。むしろ、こちらの運動の方が、日本の瀟䌚では少数掟の運動ずしお孀立しおいった瀟䌚䞻矩婊人解攟論に比べお、はるかに倧きな倧衆的基盀を持っおいた。こうした運動があるからこそ、私たちは、私たちの先茩が女性解攟のために闘っおきた、ず蚀いうる茝かしい歎史を持぀こずができる。
     近代の生み出した女性解攟の思想は、「女性の暩利 women's rights」の擁護から始たったが、それは䜕びずからも奪い埗ない自然暩ずしおの「人暩 human rights」の思想にもずづいおいた。「女だっお人間よ」ずいう認識が女性解攟の第䞀歩だずしたら、フェミニズムは近代のもたらした人暩思想のうちにその根拠を持っおいた。したがっおそれは近代の生んだ「人間」ずいう抂念のうちに、その根拠も限界も同時に持っおいたのである。
     だが「女性の暩利」はたしかに解攟の思想だが、はたしお解攟の理論だろうか ブルゞョア女性解攟思想は「女性の暩利」ずいう「正矩」が行なわれるこずを芁求するけれども、この「正矩」がなぜ達成されないかの瀟䌚的メカニズムに぀いおのどんな解明もしない。近代瀟䌚で、なぜ女性が、必然的に「二流垂民」になっおしたうかずいう「抑圧の構造」を分析する理論装眮を、ブルゞョア女性解攟思想※ リベラル・フェミニズムは持たない。
     ブルゞョア女性解攟思想は、原則的に「自由」ず「平等」ずいう「垂民革呜」の原理を共有しおいる。だずしたら「人暩」が「女暩」にたで拡匵されない「䞍正矩」の原因は、垂民革呜が「封建遺制」を払拭しない「䞍培底な革呜」であったか、それずも垂民革呜の途䞭で「男による裏切り」が行なわれたか、のいずれかに垰せられる。前者の堎合は「諞悪の根源」は前近代的な「封建遺制」であり、埌者の堎合は䞍合理な「反動」である。いずれの堎合も、女性の解攟は、※ リベラルな垂民革呜をより培底しおおしすすめるこずによっお達成されるず考えられおいる。
     だが、「封建制」ず芋なされおいる日本の「家」制床がその実、資本制の成立ずずもに誕生した近代的な制床であるずいう指摘䌊藀1982, 青朚1983のように、近代が公領域ず私領域の䞡方をいっきょに析出したずいう芋方が公認されおきおいる※ この点は「分析線」で詳述される珟圚、ほんらい性別を問わず女も男もずもに「自由な垂民」ずしお解攟するはずだった※ リベラルな垂民革呜が、なぜ男だけを解攟し、女は解攟しなかったかに぀いお、構造的な解明がなされなければならない。「※ リベラルな垂民革呜」は「※ マルクス䞻矩的な瀟䌚䞻矩革呜」同様、女にずっおは「裏切られた革呜」に終わった。䞀九二五幎、日本で二五歳以䞊の成人男子のすべおに遞挙暩を䞎えた普通遞挙法普遞法ずはよく恥知らずにも名づけたものだの斜行を、「女に遞挙暩が拒吊された日」ずしお長く蚘憶にずどめたずいう垂川房枝のような婊人参政暩運動家※ の瀟䌚䞻矩フェミニストたちは、※ リベラルな垂民革呜が※ 所詮は女にずっお「裏切られた革呜」だずいうこずをよく知っおいた。氎田珠枝氏自身が、※ 資本䞻矩的なブルゞョア自由思想が、ゞャンゞャック・ル゜ヌのはじめから女性差別を構造的に組みこんでいたこずを論蚌しおいる氎田1979。それは、ル゜ヌが「䞍培底な思想家」であったからだろうか 吊、「男の裏切り」には、それだけの必然的な※ 構造的理由があったはずなのである。それを解明しないでブルゞョア自由䞻矩の理想だけを共有するこずは※ しおしたうならば、あずは、「正矩」の実珟を声高に叫ぶか、さもなくばすでに既埗暩をかくずくした人たちに「恩情」を乞うかのどちらかに堕しおしたう※ しかない。なぜならば理論ずいう凊方箋が、そこには無いからだ。
     解攟の理論を欠いた解攟の思想は、啓蒙※ 真理を知っおいる者が、知らない者に察しお、䞀方的に教え諭しお、その盲を開くこずもしくは運動論に垰着するほかない。女性解攟運動家にずっおは、この䞖の䞭は、「性差別」ずいう「瀟䌚的䞍公正」がはびこる野蛮な瀟䌚であり、この「䞍正矩」を蚱しおいるのは、「男性の暪暎」ず「女性の蒙味」だずいうこず※ が、女性解攟運動家にずっおの、自明の真理ずいうこずになる。「すすんだ理想」ず「おくれた珟実」䞀䞀これが近代䞻矩フェミニストがしばしば陥る※ 教条的で独善的な「フェミニスト進歩史芳」である。そしお「すすんだ理想」ず「おくれた珟実」のあいだを埋めるのは、「啓蒙」ずいう名の、埒劎に䌌た「シゞフォスの劎働」だけになる。
     フェミニスト啓蒙䞻矩者にずっお、問題になるのは人々のおくれた意識だけである。「おくれた意識」を倉えるのは、啓家の力である。啓蒙ず教育によっおも倉わらない頑迷固陋な人々に察しおは、パワヌ・ポリティックス※ 政治的な「力ずく」でしかない䞀䞀぀たり運動の力で政治の堎においお圌らを少数掟に転萜させるこずで※ 発蚀暩を奪い、黙らせるのである。
     啓蒙䞻矩者にずっお真理は぀ねに単玔である。「男女平等」ずいうこの単玔な真理を受け容れるこずのできない※ 圓然のこずだず理解できない人々は、啓蒙䞻矩者の県には、たったくの「䞍可解」※ 理解䞍胜な劣等人皮ず映る。この「床しがたい人々」は、真理の力で※ 四の五の蚀わさず、問答無甚で救枈する※ しかなく、そうしたこずができなければ、※ その次は力の論理※ 匷制で※ その抵抗を封じるほかはないヌ䞀この考え方は、匷姊に反察するあたり、治安察囜家を招きよせおしたいかねない女性運動の背理に通じおいる。フェミニスト啓蒙䞻矩者の陥っおいるワナは、「男女平等」ずいうこの「単玔な真理」に、なぜこの瀟䌚が到達しないか、に぀いおの構造的な分析を欠いおいるこずにある。その䞊で啓蒙家であり぀づけるためには、疲れを知らない粟神の持ち䞻である必芁がある。
     女性解攟の゚ネルギヌが向かうもう䞀぀の方向は、プラグマティックな被害者救枈型の運動である。北米倧陞の癜人䞭産階玚女性の※ リベラルなフェミニズムは、プラグマティックなボランティア掻動の良き䌝統を匕いおいるが、圌女たちは、理論を語るたえに、倫に虐埅された劻のための避難所や、未婚の母のためのクリニックをさっさず開蚭し、運営する。圌女たちは目前の掻動に忙しくお、「理論なぞ必芁ない」状況にある。
     この二十幎、各地にそうした匷姊救揎センタヌやりィメンズ・クリニックができた。そしおそれは、フェミニストたちの粟力的な掻動のおかげで維持されおいる。しかしそこに次々に送りこたれおくる殎られた劻や、劊嚠した十代の少女たちに察しお、䜕が圌女たちを「被害者」の立堎に眮くのかを構造的に知らなければ、圌女たちに揎助を䞎えるフェミニストの掻動は、終わりのない埒劎ではないだろうか。か぀そうした掻動を通じお、運動家たちは自分を「加害ヌ被害」の構図から「郚倖者」ずしお救い出し、フェミニズムの理想の高みぞず、しばしば超越しおしたう。理論を倱いた思想は、しばしば信念や信仰ぞず還元されおしたいがちである。
     くり返すが、解攟の思想は解攟の理論を必芁ずする。理論を欠いお思想は、教条に陥る。女性解攟のために理論はいらない、ず蚀う人々は、反䞻知䞻矩の闇の䞭に閉ざされる。』P14~19

    䞊野千鶎子が、ここで䜕を「予蚀」したのか、それは、最埌の蚀葉、

    『理論を欠いお思想は、教条に陥る。女性解攟のために理論はいらない、ず蚀う人々は、反䞻知䞻矩の闇の䞭に閉ざされる。』

    に尜きおいるだろう。

    ぀たり、「今どきの日本のフェミニズム」が蚀っおいるこずは、「男が悪い」の䞀蚀に尜きる。
    では、どのように悪いのかずいえば、「女性が、男性によっお䞍平等に扱われおいる䞍利な立堎に攟眮されおいる」ずいうこずなのだが、この䞻匵は、䞊野が論じおいたずおりで、「人間は平等である」ずいう「近代䞻矩」的な「自然暩」をその前提ずしおおり、なぜ「人間は平等」なのかず蚀えば、その根拠ずは「人間は皆同じ」だずいう、いささか無理のある「想定フィクション」に拠っおいる。
    ずにかく、そう「信じる」ずころから、人間らしい瀟䌚が実珟できるのだず、そういう「信仰的な思想」なのだ。

    䞀䞀しかし、これを蚀い換えるならば、「同じでなければ、差別しおも良い」ずいうこずになっおしたうし、珟にそうなっおしたっおいる。

    私たちは、人を䜕らかのかたちで、差別や区別する堎合に、必ず「圌女らは、我々ずはここが違うから」ずいう「違い」を芋぀けるこずで、自分たちの差別や区別を正圓化するのだが、これは近代䞻矩的な「同じ人間ならば、平等でなければならない」ずいう「想定」があるからなのだ。

    したがっお、私たちが「差別」に真面目に向き合うためには「人間は平等である」ずいうテヌれ仮定を自明芖しお、それを呪文のように唱えるのではなく、「違っおいおも平等に扱われなければならない」ず䞻匵するための「理論的な根拠」を持たなければならない。新たな根拠を芋出さなければならないのだ。

    そしおそのためには、是非ずも「理論」構築が必芁であり、それには「マルクス経枈孊」ずいう分析ツヌルによっお、今の資本性䞖界を分析するず同時に、ラディカル・フェミニズムが芋出した「家父長制」の分析ず、その批刀的な解䜓が、是非ずも必芁なはずなのである。

    ずころが、日本の「今どきのフェミニズム第四波フェミニズム」は、どうであろうか

    すでに倱効したず考えるべき、近代的に単玔な「人間はすべお平等である」ずいう「教条」を繰り返し、それを根拠ずしお「だから、女性は男性ず平等に扱われなければならない」ず䞻匵するだけなのだ。

    ぀たり、そこにあるのは䞊野が蚀うずころの『反䞻知䞻矩』の「むデオロギヌ」でしかない。
    だからこそ、自ずずそれは「すべおの女性階玚ずしおの女性」を救うものではなく、「男䞊みに優れた女性゚リヌト女性」だけを救うものずなっおおり、倧半の女性たちは、そうした「゚リヌト女性」によっお、䜓よく「利甚されるだけ」に終わっおしたうのである。

    たたさらに蚀えば、こうした「理論を欠いた教条的・宗教的なフェミニズム」は、「男が悪い」ずいう決め぀けず同じかたちで、「私たちの正矩の䞻匵を理解できない、あい぀らが悪い」ずいう態床にも通底しおいく。
    ぀たり、䞊野の曞いおいた「啓蒙䞻矩者の傲慢な決め぀け䞊から目線」である。

    『 啓蒙䞻矩者にずっお真理は぀ねに単玔である。「男女平等」ずいうこの単玔な真理を受け容れるこずのできない※ 圓然のこずだず理解できない人々は、啓蒙䞻矩者の県には、たったくの「䞍可解」※ 理解䞍胜な劣等人間ず映る。この「床しがたい人々」は、真理の力で※ 四の五の蚀わさず、問答無甚で救枈する※ しかなく、そうしたこずができなければ、力の論理※ 匷制で※ その抵抗を封じるほかはないヌ䞀この考え方は、匷姊に反察するあたり、治安譊察囜家を招きよせおしたいかねない女性運動の背理に通じおいる。フェミニスト啓蒙䞻矩者の陥っおいるワナは、「男女平等」ずいうこの「単玔な真理」に、なぜこの瀟䌚が到達しないか、に぀いおの構造的な分析を欠いおいるこずにある。その䞊で啓蒙家であり぀づけるためには、疲れを知らない粟神の持ち䞻である必芁がある。』

    そしおここで、私たちが思い出すべきなのは、北村玗衣を䞭心ずした、かの「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」の発起人呌びかけ人メンバヌが、今幎になっお蚭立した、「珟代フェミニズム研究䌚」の「蚭立趣意曞」に明蚘された、「議論察話拒吊ノヌディベヌト」のスタンスである。

    この趣意曞においお、「珟代フェミニズム研究䌚」は、「トランスゞェンダヌ差別に加担する、フェミニズム研究者」を、決しお蚱しおはならない存圚であるず断定し、こうした「珟代フェミニズム研究䌚」の認識を共有できるできる「フェミニスト」だけに、同䌚ぞの入䌚を求めおいるのだ。

    ぀たり、「珟代フェミニズム研究䌚」は、「トランスゞェンダヌの瀟䌚的な受容」に぀いお、自分たちの「差別的状況の急進的な革新」ずいう考え方を支持しないフェミニストを「差別䞻矩者」だず、䞀方的に決め぀け、その「意芋」など耳を傟ける䟡倀などないず、そう決め぀けおいるのである。

    しかし、「珟代フェミニズム研究䌚」に、自分たちの「急進䞻矩」に぀いおの「説埗的な理論的に根拠」があるのであれば、それこそ、民䞻䞻矩的に議論をした䞊で、盞手を論砎・折䌏すれば良いだけの話なのではないか。

    それなのに、なぜそれをしないのかず蚀えば、それは無論、「珟代フェミニズム研究䌚」には「理論的根拠」が無いからである。「理論的根拠」が無いからこそ、議論するこずは出来ない。
    議論をすれば「負けるかも知れない」し、「正矩の我々が、負けるわけにはいかない」からず、議論を避けお「ノヌディベヌト」に匕きこもるこずになるのだ。

    そしお、そんな圌女らは、おのずず「パワヌ・ポリティックス」䞀本槍ずならざるを埗ない。
    その結果が、「オヌプンレタヌ」であり、「珟代フェミニズム研究䌚」の「頭数集め」であり、「日本女性孊䌚の乗っ取り隒動」なのである。

    珟状分析の理論を欠いた「第四波フェミニズムオヌプンレタヌ珟代フェミニズム研究䌚」は、䞊野千鶎子の蚀うずおり、必然的に、

    『理論を欠いお思想は、教条に陥る。女性解攟のために理論はいらない、ず蚀う人々は、反䞻知䞻矩の闇の䞭に閉ざされる。』

    こずずならざるを埗なかったのだ。

    私はしばしば、北村玗衣らの「フェミニズム」が「男性が悪い」匏の「決め぀け」でしかなく、説埗的な「根拠提瀺」を欠いおいるず批刀したが、それは北村玗衣らが「資本䞻矩」瀟䌚の䞭で、自分たちだけが成り䞊がろうずする「リヌン・むン・フェミニスト」であり、おのずず珟状肯定的な「リベラル・フェミニスト」である以䞊、「すべおの女性を救う」ための理論など、構築しようがない、ずいうこずに由来するものだったのだ。

    北村玗衣らは「平等な瀟䌚」の実珟など、本圓は少しも望んではおらず、自分が「瀟䌚の䞊䜍パヌセント」に入りたいだけであり、その「゚セ教説」が、「ずにかく男が悪いのフェミニズム」だったのである。

    さらに蚀えば、北村玗衣らのフェミニズムを批刀する際に私が指摘するのが、北村玗衣らのフェミニズムが問題にするのは、い぀でも「女性差別」ず「トランスゞェンダヌ差別」であっお、それにせいぜい、銬鹿の䞀぀芚えの劂く持ち出しおくる「亀差性むンタヌセクショナリティ」に関連する「人皮差別」ず「階玚差別」ずいう「蚀葉」でしかなく、日本人ずしおの「圓事者性加害者性」が問われる「郚萜差別同和問題」や「埓軍慰安婊問題」、「朝鮮人城甚工問題」、「圚日朝鮮人差別問題」、「沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け問題」などのリアルな「差別」問題には、なぜ䞀蚀半句、蚀及しようずしないのか、ずいう点だった。

    しかしこれも、北村玗衣らが、資本䞻矩瀟䌚における、珟状肯定的な「リヌン・むン・フェミニストリベラル・フェミニストセレブリティ・フェミニスト」なのであれば、圓然のこずなのだ。
    螏み台にされる人がいなければ、圌女らは、人䞊みより高い䜍眮には「リヌン・むン」出来ないからである。

    そしお、こうしたこずも、すでに䞊野千鶎子は曞いおいた。

    『 子䟛の抑圧ず叛乱は、フェミニズムず぀ながる重芁な課題である。女性ず子䟛は、家父長制の共通の被害者であるだけでなく、家父長制䞋で代理戊争を行なう、盎接の加害ヌ被害圓事者にも転化しうるからである。家父長制の抑圧の、もう䞀぀の圓事者である子䟛の問題ず、それに察しお女性が抑圧者になりうる可胜性ぞの考察を倱いおは、フェミニズムの家父長制理解は䞀面的なものになるだろう。』P133

    私は、この「家父長制」における「幎霢差別」ずいうものを、完党な芋萜ずしおいた。
    しかしそれは「今どきのフェミニスト」たちが「家父長制」ずいう蚀葉を口にはしおも、「家父長制」における差別抑圧ずは、「性差別」だけではなく、「幎霢差別」もあるのだずいうこずを、故意に蚀い萜ずしおいたからである。

    だが、「家父長制」の問題を、たずもに考えるならば、「家長制」ずいうかたちを採る「家父長制」は、男性の䞭でも「幎長者」や「長男長子」ずいった「䞊長」を、差別的に特暩化するシステムだったこずに気づかざるを埗ないのである。

    䞊野千鶎子は、か぀おの「マルクス䞻矩フェミニズム」が、そうした差別の珟実に察する「倚角的な芖野」を欠いおいた点を、次のように反省的に曞いおいる。

    『 垂堎ずの関係が再調敎を迫られおいるのは、したがっお家族だけではない。囜家も䌁業もたた、資本制ずの新しい調停の段階に入ろうずしおいる。そこでは、囜籍や人皮、性幎霢ずいった経枈倖倉数が、たた倧きな意味を持ちはじめおいる。
     フェミニズムはその䞭にゞェンダヌずいう倉数を導入するこずで、諞システムの暪断的で包括的な分析を詊みる。「家父長制」ずいう性支配の抂念を持ちこむこずで、家父長制的資本制のみならず、家父長制的囜家や家父長制的䌁業組織に぀いおも、論じるこずができる。だが、性支配ずいう分析芖角には限界もたた、自ずず存圚する。フェミニズムは、レむシズム人皮差別や゚むゞズム幎霢差別にたで射皋が届くわけではない※ 届いおはいなかった。※ それなのに、これたでのフェミニズムが「あらゆる差別」からの解攟の理論だずいう※ 自己芏定するのは、越暩行為である※ そのように䞻匵する資栌を欠いおいた。※ これたでのフェミニズムは性支配に぀いおは考えぬいたが、※ これたでのフェミニズムで人皮差別のメカニズムに぀いお解けるわけではない。
    だからこそ、今フェミニズムに芁請されおいるのは、ナショナリズム、レむシズム、゚むゞズムなど他のさたざたな差別に぀いおの理論ずクロス・オヌバヌしながら、抑圧的なシステムに぀いおの倚元的な※ 今で蚀う、亀差性むンタヌセクショナリティ的な理論を構築するこず※ が必芁である。マルクス䞻矩フェミニズムずいう「垂堎ず家族に぀いおの理論」をその二元論的構成のゆえに批刀する※ マルクス䞻矩フェミニズムのやり方よりは、むしろ、囜家、人皮等のファクタヌを組みこんだ、さらなる倚元論をこそ目ざすべきなのである。※ マルクス経枈孊のように経枈の蚀語䞀䞀しかもたかだか近代以降の垂堎経枈の蚀語䞀䞀ですべおを䞀元的に語り぀くそうずするより、垂堎が垂堎倖的な領域にいかに包囲され、か぀䟝存しおいるかを知る方がよい。それによっおはじめお、垂堎ず資本制に代わるぞ〈経枈〉のオルタヌナティノを構想する手がかりをうるこずができるだろう。フェミニズムはそのアプロヌチの䞀぀である。』P349〜351

    䞊野千鶎子は蚀う。
    フェミニズムは、『「あらゆる差別」からの解攟の理論』ぞず成長拡倧しなければならないのだず。

    ずころが、「今どきの日本のフェミニズム」は、どうだろうか。
    たしかに、アメリカ由来の「亀差性むンタヌセクショナリティ」ずいうゞャヌゎンを、専門家ぶっお口にはするものの、圌女らの語る差別ずは、実質的には「女性差別」ず「トランスゞェンダヌ差別」だけではないか。

    ぀たり、「今どきの日本のフェミニズム」は、30数幎前に䞊野千鶎子が持っおいた問題意識から、はるかに「埌退」しおしたっおいるのだ。

    だが、こうなったのも、これは、ある意味で必然的なこずであるずも蚀えよう。

    どういうこずかず蚀うず、圓時すでに、䞊野千鶎子は「リベラル・フェミニズム」に察しお、培底した「䞍信」を衚明しおいたのだが、今の「第四波フェミニズム」ずは、たさにこの「リベラル・フェミニズム」の頜萜圢態なのだ。「資本䞻矩経枈に、すっかり取り蟌たれおしたったフェミニズム」なのである。

    『※ 1990幎刊行の本曞の議論は、バブル経枈の厩壊を、たったく予芋しおいなかったにもかかわらず、バブル厩壊埌の「倱われた䞀〇幎」を通しお、本曞が分析備で瀺した予枬の倚くは圓たったように思える。女性間の栌差が拡倧しおそれが䞖垯間の栌差の拡倧に぀ながるこず、婚姻率が䜎䞋しお晩婚・非婚・離婚が増加するこず、専業䞻婊が特暩化し少数掟になっおいくこずなどである。たた性差別を克服するための政策的な提蚀ずしお、高霢者に所埗保障をするこずや、介護の瀟䌚化、児童絊付の実珟などは今読み返しおも先駆的だし、圓時は非珟実的だったかもしれない提案が、今日では珟実性を垯びおきおもいる。』P436

    『「䞻婊」がそう遠くない過去の歎史抂念であるこず※ 恒久的な抂念ではないずいうのはあきらかだし、劎働のフォヌマルセクタヌ※ 生産劎働郚門がむンフォヌマルセクタヌ※ 家庭的な再生産劎働郚門に䟝存し、前者から埌者ぞの移行※ 子育おや介護など、旧来は家庭内における再生産劎働ずされたものの、公の劎働ぞの移行が起きおいるこずを※ 劎働の「䞻婊化」ず名づけるのは、䞀皮のメタファでしかない。この過皋には、ゞェンダヌだけでなく、人皮、民族、囜籍、孊歎、階玚などさたざたな芁因※ 䟋えば、倖囜人劎働者の問題などが関䞎しおいる。ゞェンダヌから人皮抂念を類掚するこずはできるが、人皮はゞェンダヌに還元できない。蚀い換えれば、資本制はありずあらゆる差異、人皮やゞェンダヌ、階玚だけでなく、文化や生掻様匏、䟡倀芳の差たでを利甚しおその萜差から䟡倀を埗る、ず考えた方がよい。その点では、『差異の政治孊』でわたし自身が述べたずおり、「どんな領域も、ゞェンダヌだけで解くこずはできないが、ゞェンダヌ抜きに論じるこずはできなくなった」䞊野 200288のである。』P439

    『 もちろん※ LGBTQ問題に代衚されるような「違っおいおよい」暩利の前提には、あらかじめ「同じ」であるこずの暩利がすでに成立しおいなければならない。その点では氎田さんの指摘通り、「人暩」思想がなければ「差別の䞍圓性」を蚎えるこずもできない。「人暩」には※ 人間は芋ない同じだずいう定矩䞊、性別がないからである。だが、「同じ」であるこずを蚌明するためには、マむノリティは぀ねにマゞョリティぞの「同䞀化 identification」を匷いられる。「人間」のモデルが男性にしかないずころでは、それは「男性」ぞの「同化 assimilation」を意味する。フランス革呜の人暩宣蚀の持぀普遍䞻矩には、すべおの者を「文明化 civiliser」しようずする「同化䞻矩」が組みこたれおいた。その限りで「人暩」思想ずは、性差別ず怍民地差別ずの随䌎物だったのである。「人暩」批刀にはこのような同化䞻矩ぞの批刀が含たれる。
     リベラル・フェミニズムは぀ねに女性にダブルバむンドな問い※ 矛盟したした芁求を抌し぀けおきた。いや、正確にいえば、リベラリズムがフェミニズムにダブルバむンドな問いを匷いおきたずいうべきであろう。こそうしお、折衷的なリベラル・フェミニズムは※ おのずず誕生した時から、その※ 䞡立し埗ない問いず栌闘しおきたのだ。兞型的な䟋をあげれば、「䞭絶の自由」をめぐる「女性の暩利」問題がある。フェミニズムは歎史的に䞀貫しお「䞭絶の自由」を䞻匵しおきたが、それをリベラリズムの法䜓系の甚語で読ろうずたん、それは「自己決定できる䞻䜓」ずしおの「女性の暩利」ずしお構成される※ 理論化され、根拠付けられる。そしおもし劊嚠した身䜓が「個人」ならば、個人が自己に属する身䜓のパヌツをいかように凊分しようずも自由ずいう暩利の承認ずなるが、他方、もし胎児もたた「個人」ならば、䞭絶は母芪ずいう個人が胎児ずいう個人の暩利を䟵す觊法行為ずなる。劊嚠した女性の経隓はそのいずれでもなく、その䞡極のあいだをゆれ動いおおり、たた「自己決定」ず芋える遞択は実はそれほど「自由な遞択」ではありえない。それがリベラリズム法孊の「暩利」の甚語に回収されるこずで、䞭絶が合法化されようが違法化されようが、そのいずれに察しおも、倚くの女性は「自分がのぞんだのはそのいずれでもなかったのに」ずいう埋めがたいズレを感じおきたはずだ山根 2004。』

    P448〜449、ゎシックは匕甚者

    『リベラル・フェミニズムの圢匏平等は、法のもずの平等、実質平等は、「あらゆる領域ぞの男女の共同参画」である。そのわかりやすい指暙は、囜連が定矩するGDIゞェンダヌ開発指数 Gender Development Index、GDIゞェンダヌ゚ンパワメント指数Gender Empowerment Indexであり、それは教育、経枈、政治などの分野䞻ずしお公的領域ぞの女性の参画の皋床で指暙化されおいる。リベラル・フェミニズムの公匏目暙は、これらの指暙においお「女性の過小代衚性 under-representation」を正すこずであり、最終的には人口孊的な性比を反映するたでに、指暙が増加するこずである。
     ここたで曞けば、わたしは自分がリベラル・フェミニズムにいかに深い疑念を持っおいるかを逆に確認するこずができる。男が぀くりあげた瀟䌚の構造ずルヌルずを䞍問にしたたたで、そのもずでの「女性の過小代衚性」を修正するこずがなぜフェミニズムの目暙ずなりうるのか ずりわけ、「あらゆる分野ぞの男女の共同参画」が珟実性を垯びた達成目暙ずなり、そのなかに「軍隊ぞの男女の共同参画」たで含たれようずしおいるずきに
     戊前の瀟䌚䞻矩フェミニスト、山川菊栄は、リベラル・フェミニズムの婊人参政暩運動にすこぶる冷淡だった。女性が参政暩を獲埗しおも、「戊争反察」に぀ながらないずすら考えおいた。そしお山川の予想は圓たっおいた。』P449〜450

    ここでの肝心な郚分ずは、

    『ここたで曞けば、わたしは自分がリベラル・フェミニズムにいかに深い疑念を持っおいるかを逆に確認するこずができる。男が぀くりあげた瀟䌚の構造ずルヌルずを䞍問にしたたたで、そのもずでの「女性の過小代衚性」を修正するこずがなぜフェミニズムの目暙ずなりうるのか』

    ぀たり、「女性差別」や「トランスゞェンダヌ差別」には反察しおも、『男が぀くりあげた瀟䌚の構造ずルヌル』である「資本䞻矩」そのものは䞍問にしたたた、䞀郚の女性゚リヌトを「資本䞻矩」瀟䌚の䞊局ぞ抌し蟌むこずが、フェミニズムの目暙になどなるのか

    「䌚瀟圹員の」「囜䌚議員の」「倧孊教授の」女性の占める割合などずいったこずを問題にする「リヌン・むン・フェミニズム」ずしおの「リベラル・フェミニズム」は、信甚しお良いものなのだろうか

    䞊野千鶎子の答えは、もちろん「吊ノヌ」であったのだ。

    䞀䞀だが、「今の日本のフェミニズム第四波フェミニズム」は、そんな「リベラル・フェミニズム」が本質的な抱え持぀「問題性」を、露骚に瀺し始めおいるのだ。

    本曞を読めば、「今どきの日本のフェミニズム曞」では䞀向にハッキリしなかった問題が、クリアに芋えるようになる。

    だが、それは䞊野千鶎子が危惧した問題が、そのたた珟実化しおいるずいうこずでもあるのだ。

    したがっお、「䞀郚の女性のためのフェミニズム」ではなく、「すべおの女性ず、すべおの被差別者のためのフェミニズム」を求めおいるのであれば、その人は、北村玗衣に象城されるような「リヌン・むン・フェミニズムセレブリティ・フェミニズムリベラル・フェミニズム」の欺瞞性を峻拒・批刀しなければならない。

    そしおたさに、その理論的根拠を瀺しおくれおいるのが、䞊野千鶎子であり、本曞なのである。


    2025幎8月8日


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    ※ 北村玗衣は、Twitterの過去ログを削陀するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべお削陀させおいる。䞊の「たずめのたずめ」にも90本以䞊が収録されおいたが、すべお「削陀」された。そしお、そんな北村玗衣が「Wikipedia」の管理に関わっお入るこずも呚知の事実であり、北村玗衣の関わった「オヌプンレタヌ」のWikipediaは、関係者名が䞀切曞かれおいないずいうず異様なものずなっおいる。無論、北村玗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、倚数にのがるだろう。


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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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