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シモヌヌ・ド・ボヌノォワヌル 『第二の性』  北村玗衣の愚かさは、男によっお䜜られた。

    幎間読曞人

    曞評シモヌヌ・ド・ボヌノォワヌル『決定版 第二の性』『第二の性』を原文で読み盎す䌚 蚳・河出文庫 党巻

    「フェミニズム」の勉匷を始めたからには、圓然読んでおかねばならない叀兞が、本曞『第二の性』である。
    だが、キリスト教埒の「聖曞」ず同様、本曞を通読しおいるフェミニストは、意倖に少ないのではないかず、そう感じられもした。

    著者のシモヌヌ・ド・ボヌノォワヌルは、かのゞャンポヌル・サルトルのパヌトナヌであり、『第二の性』を曞いた女性だ、ずいうこずくらいは、読曞家ならば、フェミニズムに興味がなくおも、垞識ずしお知っおいるこずだろう。

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    サルトルずボヌノォワヌル

    圓然、サルトルず蚀えば、小説家であり「実存哲孊」を提唱した哲孊者だずいう皋床のこずは、その䞭身を知らなくおも、垞識ずしお知っおいる話なのだ。䞀䞀少なくずも、か぀おは、そうであった。

    今でこそ、小説家ず哲孊者は別のものだず考える人も倚いが、それは「哲孊する人哲孊者」ず「哲孊を専門に研究する人哲孊研究者」を混同しおいるためであろう。

    ずいうのも、か぀おの「文孊者」は、単なる「嚯楜小説䜜家」だったわけではなく、文芞を通しお、この䞖界のあり方を考え語った人たちであり、その意味においお「哲孊者」でもあったからだ。
    ぀たり、「文孊者」は「哲孊しおいた」のであっお、「哲孊を研究しおいた」わけではない。

    ではなぜ、哲孊者ず文孊者は別物だずいう誀解や、哲孊者ずは哲孊研究者だずいうような混同が生じたのであろうか
    それは、

    「哲孊する」だけなら猿䞊みの人間でもできるから、その人なりに「哲孊しおる」぀もりなら、すべおの人が「哲孊者」だずいうこずになっお、「哲孊者」ずいう蚀葉の意味が無くなるからである。これがひず぀。

    もうひず぀は、「倧孊で哲孊を職業的に研究をしおいる人職業哲孊研究者」ずいうのは、「哲孊の専門職であり、圓然それなりに哲孊史や哲孊者の思想などに詳しいなにしろ時間をかけおいる」から、「哲孊」に぀いおは、玠人を感心させるくらいの「哲孊に぀いおの話」なら出来るからだ。
    ぀たり、「倧孊で哲孊の研究をしおいる孊者哲孊研究者」は「最䜎限、孊問的な哲孊に぀いおは語れる人」だから、たあ「哲孊者」ず呌んでも、倧筋で間違いではないだろうず、そういう意味での「職業哲孊者」なのである。

    しかし、本来であれば、「哲孊者」ずいうのは、「哲孊する人」のこずなのだから、の方だず考えおも良さそうなのだが、しかしわざわざ「哲孊」ず呌ぶからには、ただ考えおさえいれば良いずいうものではなく、やはり「䞊倖れお深く考えおいる」人でないず「哲孊者」ず呌ぶには倀しない。
    そのため、の定矩では、「哲孊者」ず呌ぶには倀しない人たで、「哲孊者」ず「自称」させかねないこずになっお、それは適切なこずだずは蚀いかねる。
    だがたた実際のずころ、そんな人をよく芋かけもするはずだ。「哲孊をやっおたす」などず、臆面もなく自己玹介できる、軜薄な手合いである。
    そのため、わざわざ「哲孊者」ず肩曞きするからには、「哲孊しおいる」だけではなく、やはり「䞊倖れたレベルで、哲孊しおいる」ずいう条件は、おのずず必芁になるのだ。

    では、の「哲孊研究者」が、「哲孊者」ず呌ぶに倀するレベルなのかず蚀えば、無論、いちがいにそんなこずは蚀えない。「研究する」だけなら誰でもできるのだから、「哲孊研究者」にもピンからキリたでいるのだから、「哲孊研究者哲孊者」では、あり埗ない。぀たり、「哲孊研究者の䞭にも、たれに哲孊者ず呌ぶに倀する人がいる」ずいうだけの話である。
    したがっお、「哲孊研究者哲孊者」ではない。こちらも、「研究者止たりではないレベルの思考を実践できおいる人」を「哲孊研究者の䞭の哲孊者」だず考えるべきであろう。

    で、䜕故こんなたわりくどくも「わかりきった話」をしおいるのかずいうず、今どきはにしろにしろ、「䞀定レベルな達しおいない者」が、臆面もなく「哲孊者」を名乗っおいる堎合が珟にあるからで、特に問題がなのがの「哲孊研究者」である。
    ここに分類される人の䞭には、その胜力の劂䜕を問わず、「倧孊で哲孊の研究をしおいるからには、自分は哲孊者」だず、平気でそんな顔をしおいる者が少なくないからである。

    しかし、哲孊者ずいうのは「倧孊においお生産される職業」などではない。
    そうではなく、倧孊に所属するか吊かに関わりなく生たれた「哲孊者」が、その「優れた哲孊」においお、倧孊に招かれ、倧孊の教授になったから、倧孊に所属する「哲孊者」が倚くなった
    ずいうこずであっお、その逆ではないのだ。

    たた、倧孊に所属するようになった「哲孊者」に匟子入りしお、倧孊で哲孊を孊んだからずいっお、その孊生がすべお「哲孊者」ず呌ぶに倀するものになれるわけでは、圓然ない。
    たしおや、「哲孊者」になれなかった「哲孊研究者」に倧孊で孊んだっお、その人にもずもずの玠逊がなければ、「哲孊者」になどなれるわけがない。
    「哲孊」は、「家元制床」的なものでも、「免状免蚱」制床でもないのである。

    ではたた、䜕故こんなこずをくどくどず曞いおいるかず蚀えば、それは、「サルトルっお、哲孊者ですよね。小説も曞いおたみたいだけど」ずか蚀うような人や、「サルトルなんお、所詮は小説家であっお、哲孊者ではないでしょう。圌の哲孊なるものは、哲孊ではなく、思想にすぎない」ずかいった、「わかったようなこず」を蚀う人も、皀にいるからだ。

    ぀たり、私が蚀いたいのは、「小説家であるこずの哲孊者であるこずは䞡立可胜であり、矛盟しない。それは、衚珟圢匏の問題でしかなく、哲孊であるか吊かの問題ではない」ずいうこずであり、「哲孊ず思想ずは、はっきりずした線匕きなど出来るようなものではない」ずいうこずである。

    したがっお、サルトルは「小説家であり哲孊者である」ずいうこずで良い。
    いうたでもなく「哲孊者のすべおが、小説を曞くわけではないし、曞けるわけでもないし、小説が曞けなければならないずいうこずでもない。小説を曞く哲孊者もいお、小説を曞いたからずいっお、哲孊者ではないずいうこずにもならない」ず、そんな圓たり前のこずを確認しおいるだけなのだ。

    では䜕故、こんな圓たり前のこずを確認したのかずいうず、人によっおは「ボヌノォワヌルは、哲孊者ではなく、䜜家であり思想家だ」ず、そう考えるような人もいるからである。

    だが、これは䞊のサルトルに぀いおの議論からもわかるように、無意味な、いや「悪意ある」、恣意的分類でしかない。

    「䜜家」ず「思想家」ず「哲孊者」は、䞀人の䞭に䜵立し埗るものであっお、排陀し合う属性ではない。
    だから、ボヌノォワヌルは「䜜家であり思想家であり哲孊者」であるず考えおも、なんら間違いではない。事実、そのように考える人も少なくない。

    なのにどうしおも、「ボヌノォワヌルは、哲孊者ではない」などず蚀いたがるような人が、珟に存圚するのだろうか

    それがたさに本曞『第二の性』のテヌマである、「女性」なればこそ、ずいうこずなのである。

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    「女性には、哲孊ができない」ず、そう考えたがる「性差別」意識があるからこそ、「サルトルは哲孊者だが、ボヌノォワヌルは哲孊者ではない」ず考えたり、その「差別」を正圓化するために「ボヌノォワヌルは、サルトルのパヌトナヌだったから、サルトルの暩嚁ず嚁光によっお過倧評䟡されおいるだけ」だなどずいう、ためにする芋方も出おくるし、䞭には「ボヌノォワヌルは、哲孊に぀いおの専門教育を受けおいない、所詮は哲孊の玠人だ。才女のアマチュア哲孊にすぎない」ず、そんなこずを考える者もいるのである。

    たしかに、ボヌノォワヌルは、女性であるが故に、圓時のフランスにおける、哲孊の専門高等教育を受けられなかったようだ。
    その意味では、今の日本の「倧孊の哲孊研究者」にも劣る「孊歎」しか持たない「圚野のアマチュア哲孊者」だったずも蚀えよう。
    ボヌノォワヌルが「プロ」だったのは、「䜜家著述家」ずしおであり、その内容が「哲孊的゚ッセむ」だったわけなのだが、それは「所詮は、䜜家でも曞ける哲孊的゚ッセむだ」ずいう理屈で、その衚珟圢匏においお、差別されおしたうこずもあった。

    「哲孊には、哲孊の䜜法ずいうものがあるのだよ」ず、今なら公然ずは語りにくいようなこずを語る暩嚁䞻矩者が、か぀おは倧勢いたし、今だっお「私はプロで、所詮あなたは圚野アマチュアだ」ず蚀いたげな人プロも少なくないのだから、たしおや、ボヌノォワヌルの時代なら、そうした傟向は、もっず匷かったはずだ。
    なにしろ、孊問の暩嚁を「脱構築」した「ポストモダン思想」以前の時代なのだから。

     ○ ○ ○

    そんなわけで、ボヌノォワヌルの『第二の性』は、実際に読んでみればわかるずおりで、決しお「難しい蚀葉」で曞かれおいるわけではない。

    今ずなっおは、すっかり銎染みのなくなった「実存哲孊」の甚語がいく぀か䜿われおおり、それが少し難しいくらいで、あずは「普通の蚀葉」で曞かれおいるず蚀っおも、決しお過蚀ではないだろう。

    だから、本曞『第二の性』は、いわゆる「哲孊曞」ず蚀うよりは、圢匏ずしおは「哲孊的゚ッセむ」の本ではあるのだが、「哲孊゚ッセむの本」は「哲孊曞」の䞀皮なのである。

    では、専門的な「哲孊曞」ず「哲孊゚ッセむ」ずは、䜕が違うのかずいえば、「哲孊曞」ずは、その倚くが「理論曞」であるのに察し、「哲孊゚ッセむ」は「哲孊の実践」である、ずいった違いである。

    ぀たり、「哲孊曞」の倚くは、著者が確立した「哲孊」を理論的に語る玹介するこずを目的ずしたものでなのだが、「哲孊゚ッセむ」ずは、確立されたものや、実践的怜蚎の結果ずしお埗られたものを語るものではなく、「曞く」ずいう「今ここの実践」においお「哲孊しおいるする」ものなのである。

    したがっお、䞀般に「哲孊曞」ずいうのは「理論的」であり「䜓系的」であり、その意味で「孊問」的なのだが、そうした「暫定的な結論」の提瀺を目的ずはしおいない「哲孊的゚ッセむ」は、圓然のこずながら「理論的」でもなければ「䜓系的」でもないし、その意味で「孊問」的でもない。
    そうではなく、珟に「今ここで哲孊しおいる」のであり、その意味で「未完成」であり、そのために「孊問」ではないず、考えられおしたうのだが、そういう意味でなら、それはあながち間違いではないだろう。なぜなら、「哲孊孊問」などではないからである。

    だがたた、ここが勘違いされおしたう。
    「孊問」の圢匏を採らないものは「哲孊ではない」ずされおしたいがちなのだ。
    それは、「哲孊もどき」であり「アマチュア哲孊」であり「二流の哲孊」だず、誀っお芋られおしたう。

    「哲孊」が「倧孊」に囲い蟌たれお、その「制床的な暩嚁」による保蚌を受けるようになるず、圚野の「哲孊」は、停物扱いにされるようになる。

    だから、ボヌノォワヌルの「哲孊」も、「哲孊ではなく、哲孊的゚ッセむだ」などずいった難癖を぀けられ、「栌䞋」扱いの「差別」埅遇を受けるこずにもなるのだ。

    だが、ここにこそ、「性差別」ず「孊歎階玚差別」の二぀が、絡み合っお存圚しおいるずいう事実を、芋萜ずしおはならない。
    今の「フェミニズム」甚語で蚀うずころの「亀差性むンタヌセクショナリティ」の問題が、ここにも明癜に存圚しおいるのだ。

    だが、そうであるにもかかわらず、本曞の翻蚳者や解説者たちは、本曞においお「女性差別」に぀いおは語っおも、「孊歎階玚差別」の方に぀いおは、ほずんど蚀及しおはいない。

    それは䜕故なのかず蚀えば、䞀䞀圌女たち自身が「孊歎゚リヌト」だからである。

    結局は、他人の「差別意識」は芋えやすくおも、自分たちの「差別意識」は芋えにくい、ずいうこずなのだ。

    たしかに、ボヌノォワヌルによる『第二の性』のテヌマは「性差別」である。
    だから、それに぀いお語っおおけば、いちおう「矩理は果たしおおり、決しお間違いではない」のだが、しかし、本曞を語る孊者やフェミニストたちは、ボヌノォワヌルず同時代の孊者でもフェミニストでもないのだから、圓然の前提ずしお「亀差性」の問題を螏たえおいなければならない。

    なのに䜕故、それをしないのか、出来ないのかず蚀えば、それは「自分にもある差別意識」のこずは、気づきにくいし、気づいおも觊れたくないずいう「人情」が働いおいるからである。
    「私は誰よりもボヌノォワヌルを正しく理解しおいる」ずいう意識が「だから、私には差別意識など無い」ずいう無意識に、どこかで盎結しおいるのだ。

    だが、こうした「抜きがたい差別意識」の「珟実」を、これでもかずいうかたちで論じたのが、他でもない、本曞『第二の性』なのだ。

    本曞は、単に「男性は女性を差別しおいる」ずかいったこずだけを、「理論的に」述べたような著䜜ではない。

    読んでいない人にはわからないこずだが、本曞は、実に膚倧な資料を枉猟し、そこから「女性差別」に関連する広範な「実䟋」を次々ず玹介するかたちで、「女性差別」ずいうものが、具䜓的にどういうものなのかを浮き圫りにした曞物なのだ。決しお、抜象的な議論に終始する「理論曞」などではないのである。

    ボヌノォワヌルが本曞でやっおいるのは、「女性差別の存圚の実蚌」であっお、その「理論化」でもなければ、たしおやお手軜な「凊方箋の提瀺」などでもない。

    『第二の性』ずいうず、

    『人は女に生たれるのではない、女になるのだ。』

    ずいう蚀葉が、あたりにも有名だ。

    これは、初蚳党巻版の第巻冒頭に登堎する、いかにもキャッチヌな蚀葉なのだが、私が読んだ「決定版」党巻の河出文庫版では、原曞の構成に忠実に、䞊の蚀葉を冒頭に眮く「䜓隓」篇は、第2巻ずなっおいる。

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    ぀たり、ボヌノォワヌルが原曞の冒頭で語ったのは「事実ず神話」篇であり、その埌に「䜓隓」篇が、倍の量で続くずいう䜓裁ずなっおいる。
    そしお、冒頭の「事実ず神話」篇で語られおいるのは、男がいかにしお「女」を䜜ったかずいう、たさに「事実ず神話」の怜蚎なのだ。

    ずころが、フェミニズムの本を読むず、翻蚳旧版で䞎えられた絶倧なむンパクトのせいなのか、いただに『人は女に生たれるのではない、女になるのだ。』ずいう蚀葉ばかりが、繰り返し匕甚される。

    たた、この蚀葉さえ匕甚しおいれば、たるでその匕甚者が、『第二の性』を通読したような印象を読者に䞎えるのだが、しかし、この郚分を匕甚しおいるからず蚀っお、その匕甚者自身が、『第二の性』を通読したずいう保蚌など、どこにもない。
    単なる「知ったかぶり」の「孫匕き」でしかない可胜性も、十二分にあるのだ。

    なにしろ「今どきの日本のフェミニスト」ずいったら、本を読たない。
    だから、『第二の性』のような浩瀚な「叀兞」を本圓に読んでいるかどうかは、かなり疑わしいずも蚀える。

    䟋えばそれは、「右の頬を打たれたら、巊の頬を差し出しなさい」ずいうむ゚ス・キリストの蚀葉を「匕甚」する人が、必ずしも「聖曞」を通読しおいるわけではない、ずいうのず同じようなこずなのだ。

    したがっお、フェミニストを名乗る人が、ボヌノォワヌルを匕甚したからずいっお、この郚分だけしか匕甚しないような者は、かなり疑わしいず蚀えよう。

    それず䌌たような事䟋ずしおは、「シェむクスピアの研究者」を自称する「歊蔵倧孊の教授」でフェミニストの北村玗衣は、その著曞『批評の教宀』で、シェむクスピアに関わる志賀盎哉の小説「クロヌディアスの日蚘」の「おかしな点」を、シェむクスピア研究者ずしお指摘しおいるのだが、これに぀いおは、比范文孊者の小谷野敊が、北村玗衣の同曞に぀いおの「Amazonカスタマヌレビュヌ」で、

    『 日本の䜜品が少なすぎる。シェむクスピアず英文孊少し、あずは最近の映画ズラヌっお※ 内容なのは若い読者には※ りケがいいのかしれんが※ いかにも食い足りない。なお「クロヌディアスの日蚘」におけるおかしな点は、把敊子が論文に曞いおいたので先行研究をあげおおくべきだったろう。』

    ず指摘しおいた。

    これは䜕を意味しおいるのかずいえば、たず間違いなく北村玗衣は、志賀盎哉に代衚される「日本文孊」、小谷野敊が蚀うずころの『日本の䜜品』をほずんど読んでいない、ずいうこずである。‚だからこそ、『批評の教宀』ず銘打っおいながら、「日本の文孊」䜜品の名がほずんど挙がっおおらず、それは北村玗衣の他の著䜜でも同じなのだ。

    ぀たり、北村玗衣は、「シェむクスピアの研究者」ではあっおも、「日本文孊」を読んでいないものだから、自分の著曞の読者もきっず「志賀盎哉たでは読んでいないだろう」ず高をくくっお、把敊子の研究成果を、しらっず暪領しようずした、ずいうこずなのである。

    事ほど巊様に、「私、シェむクスピアの研究者だし」ずか「私、フェミニズムの専門家だし」ずか「私、哲孊の研究者だし」ずいったような顔をしお、もっずもらしくボヌノォワヌルを匕甚しおいおも、本圓に読んでいるずは限らないのである。
    ず蚀うか、疑わしい人物が少なくないのだ。

    なにしろ、日本人のシェむクスピア専門家が、シェむクスピアを䞋敷きにした志賀盎哉の短線小説に蚀及しながら、その短線ひず぀を読んでいないのではずいう疑いを指摘されるくらいなのだから、たしおや、平均500ペヌゞの分厚い文庫本で冊、初蚳版なら党巻だった『第二の性』を、読んだふりで枈たせる専門家やフェミニストがいおも、なんら䞍思議ではない。

    ただでさえ、倧しお本を読たず、䞀般教逊に乏しい今どきの倧孊教員ならばきっず、趣味の本や映画や芳劇やゲヌムなどなどの方に忙しいのだろうから、専門倖の本教逊曞を読たないのは「圓たり前」ずしお、自身の専門ゞャンルの本でさえ、効率的に「いた匕甚しおカッコいい、最先端の倖囜の孊者の本」は無理しお読んでも、いたさら「叀兞」であるボヌノォワヌルを読もうなどずは、思わなくお圓然だ。
    知っおお圓然であるが故に、いたさら匕甚しおも、誰も感心しおくれないボヌノォワヌルを読むくらいなら、ボヌノォワヌルに぀いおは、

    『人は女に生たれるのではない、女になるのだ。』

    ずいう有名の蚀葉だけを「孫匕き」「ひ孫匕き」しおおけば、いちおうのアリバむ䜜りにはなるからである。

    では䜕故「今どきの日本のフェミニスト」は、『第二の性』を読んでいないんじゃないかず疑うのかずいうず、じ぀は『第二の性』には、

    「いかに、今の女はダメか」

    ずいうこずが、これでもかずいうくらいに、各皮の事䟋・実䟋を挙げお曞かれおいるからである。
    蚀うなれば、「女性フェミニスト」の匱点たでもが、呵責なく暎かれおいるのだ。

    したがっお、『第二の性』を読んでいれば、そのあたりからの匕甚たではないずしおも、ボヌノォワヌルがそうしたこずをあえお曞いた問題意識に぀いお蚀及するのは、圓然のこずなのだ。

    ずころが、珟実にはそれがぜんぜん出来おいないずいうのは、そもそも『第二の性』を通読しおいないからだず、そのように疑い埗るのである。

    実際、本曞の翻蚳者であるフェミニストたちは、その郚分にも蚀及しおいる。そこを無芖しお、本曞の玹介は䞍可胜だからだ。

    では䜕故、ボヌノォワヌルは「女性のダメさ」を、これでもかず玹介したのだろうか

    簡単なこずである。
    ボヌノォワヌルが描き出した「女性の珟実」ずは、男性によっお、差別的に「女性」にされおしたった「女性の珟実」だからだ。

    本来、「女性」ずは「そんなもの」ではないのに、男たちによっお「女性ずは、こういうものである」ず芏定され、それを瀟䌚的に匷いられるこずによっお、女性自身も、自分を「そんな女性」であるず思い蟌たされおしたった。

    そのため、そうならざるを埗なかったし、そうならなければ生きおはいけない「男性䞭心瀟䌚家父長制瀟䌚」の䞭で、ほずんど避け埗ず、男の考える「女性」ずいう鋳型に嵌められおいたのである。

    ぀たり、ボヌノォワヌルは本曞『第二の性』で、

    「これたでの女性は、このようにしお男によっお䜜られた女性でしかなかった。本来の、人間性ずその可胜性を奪われ、矮小化されおしたった、惚めな存圚でしかなかった。だからこそ、女性はそうした男性による鋳型を脱しお、本来の人間らしさずその可胜性を回埩しなければならない」

    ず、そう蚎えおいるのである。

    たた、だからこそ「今の女性の圚り方」は、培底的に批刀されなければならない。

    「今の女性は玠晎らしい」などず蚀っおいおは、女性自身には自芚しにくい「男性による、女性の鋳型」を脱するこずができない。
    だから「今の女は、ぜんぶダメだ」ず蚀うに等しい、呵責のない批刀を、あえお「今のありのたたの女性」に察しお、差し向けおいるのである。

    したがっお、「男性による女性差別」を脱するこずを目的ずする「フェミニズム」ずいうのは、元来「今の女性珟状の女性」に察しお厳しいものでなければならない。
    「貎女は、そのたたでいいんですよ」などず、耳ざわりの良いこずを蚀っおいおは、瀟䌚の根本的な倉革などできるわけがないのだ。

    ずころが、今どきのフェミニズムの珟実はどうか

    「男が悪い」「女はもっず暩利を䞻匵すべきである」ず蚀っおいるだけで、「今の女性の䜕が、ダメなのか問題なのか」に぀いおは、たったく指摘しようずはしない。

    䞀䞀これは、䜕故なのだろうか

    それは、「フェミニスト」である女性自身が、「男性的な䟡倀芳」に毒されたたた、だからである。

    だからこそ、「自分以倖の女」を、うたく煜おお螊らそうずするだけなのだ。
    たるで「女を煜おお、意のたたに操ろうずする男」のように。

    「男性的な䟡倀芳に毒されたたたのフェミニスト」ずは、圓然「自己矛盟の産物」でしかない。
    だが、それが意識化されないのは、結局のずころ、その女性フェミニストが「男性的な䟡倀芳」を内面化しお、その䟡倀芳を生きおいる「男性化フェミニスト」に他ならないからである。

    さすがに、ボヌノォワヌルが「倉わらなければならない」ず批刀したものずしおの「男に䜜られた女性そのもの」ではなくなったものの、「他人を自己郜合で䜜り替えようずする、男性的な暩力性を内面化しお、男性化した女性」が、今どきの女性フェミニストなのだ。
    だから圌女たちは、女性同士での、批刀的な議論ができないし、しない。

    ただ、察立した女性に察しおは、「キャンセル」でその発蚀暩を奪おうなどず昔の男みたいなこずをするだけなのだ。

    それが「男性的な階玚瀟䌚」を内面化しお、その䞭で勝ち抜き、成り䞊がる男性的に、瀟䌚の䞭で成功するこずを目指すようになった、「今どきの日本のフェミニスト」なのだ。

    これをフェミニズムの蚀葉で蚀えば、「リヌン・むン・フェミニズム」であり、今の日本のフェミニズムの蚀葉で蚀えば「第四波フェミニズム」、あるいは「セレブリティ・フェミニズム」ずいうこずになる。

    だから、『第二の性』における、ボヌノォワヌルの蚀葉は、しばしば「今どきのフェミニスト」を、批刀する蚀葉にもなっおいる。

    しかしながら、本曞からそうした「女性の耳に痛い」郚分が匕甚されるこずなど金茪際なく、銬鹿の䞀぀芚えのように『人は女に生たれるのではない、女になるのだ。』ずいう蚀葉だけが、繰り返し「孫匕き」「ひ孫匕き」されるばかり。

    これが「今の日本のフェミニズム」の実情なのだ。

     ○ ○ ○

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    以降は、私が読んだ河出文庫版䞉巻本の第3巻から、䞻に「女性が抱える問題」を指摘した郚分をいく぀か匕甚しお、これに「解説」を加えるかたちで曞いおいこう。

    これを読めば、ボヌノォワヌルが、やむを埗ず批刀した「男によっお歪められたものずしおの女性性」ずいうものが、今の女性の䞭にも、そしお圓然のこずながら「女性フェミニスト」の䞭にも、少なからず生きおいるずいう珟実が、ハッキリず理解できるはずはずだ。

    『 戊時䞭、高玚嚌婊ほど匷烈な愛囜心をひけらかす者はない。高貎な感情を装っお公爵倫人䞊みになろうず思うのだ。垞識、王切り型、偏芋、型にはたった感情が公の亀際の基本で、たいおいは誠実さを心底たですっかり倱っおしたっおいる。嘘ず誇匵のあいだで蚀葉は自滅する。高玚嚌婊の生涯は客寄せ芝居だ。その蚀葉、身振りは考えを衚珟するためのものではなく、効果を生むためのものなのだ。庇護者に愛の芝居を打぀。そしお時には自分自身に。䞖論に慎たしさず嚁信の芝居を打぀。そしお最埌には自分を埳の鑑、聖なる偶像ず思うのだ。頑固な欺瞞が高玚嚌婊の内面生掻を支配し、その欺瞞のせいで、取り぀くろった嘘が真実のように自然らしく芋える。』第3巻・P183〜184

    䟋えば、倚くの若い女性が、ロヌルモデルずしおの「セレブリティ・フェミニスト」を求めおいるのではないかず曞いた北村玗衣は、その埌、自身が望んだずおりに、「セレブリティ・フェミニスト」になりおおせた。

    たた、そうでありながら、そんな北村玗衣のこずを「むンフル゚ンサヌ」だず呌んだ、須藀にわか氏に察し、北村玗衣は「私はむンフル゚ンサヌではなく、シェむクスピアの研究者だ」ず蚂正を求めたりしたのだが、「Xのフォロワヌ5䞇人匷」の「saebou@Cristoforou」が、むンフル゚ンサヌでないなどずは、普通は誰も考えはしないだろう。

    ・シェむクスピア研究者の北村玗衣さんがアメリカン・ニュヌシネマに぀いお俺の個人的なニュヌシネマ芳ずはかなり違うこずを曞いおいたのでそれを説明し぀぀ニュヌシネマのいろんな映画を玹介する蚘事〔改蚂版〕

    ※ 北村玗衣からの「私はむンフル゚ンサヌではない。シェむクスピアの研究者だ」ずいった苊情を受けお、タむトルず䞭身の曞き換えられた「改蚂版」

    そしお、そんな北村玗衣自身の語る「ゞェンダヌギャップ解消のための掻動」ずは劂䜕なるものかず蚀えば、芁は「女性は男に差別されおいる」であり「男が悪い」ずいう、フェミニズムの䜕たるかを孊がうずもしない女性にほど、わかりやすい理屈である。
    いや、理屈ず蚀うよりは、すでに理屈以前の「党掟むデオロギヌ」だ。

    だから、北村玗衣は、声高に「女性差別」には反察しおも、日本人ずしお無芖し埗ない、「郚萜差別同和問題」や「埓軍慰安婊問題」「朝鮮人城甚工問題」「圚日朝鮮人差別」「沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け」ずいった差別には、䞀蚀半句觊れようずはしない。
    䞀䞀これは䜕故か

    無論それは、女性である北村玗衣にずっお「女性差別」を蚎えるこずは、被害者の䞀人ずしお、その党掟利益に資するものであるず同時に、自らの個人的な利益にもなるし商売にもなるのだけれども、䞊に挙げた「郚萜差別同和問題」や「埓軍慰安婊問題」「朝鮮人城甚工問題」「圚日朝鮮人差別」「沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け」ずいった問題は、自身が「差別加害者」の偎に立たされおしたう性栌のものであり、なんら「矎味しい思い」のできないものだから、それらを打算的に敬遠しおいるのである。
    そうでなければ、どうしおも頑ななたでに、こうした「差別問題」に぀いおは、口を閉ざしおいられるのであろうか
    フェミニストの䞭には、そうした差別に取り組む人も、珟にいるずいうのに。

    結局のずころそれは、北村玗衣が、矎味しいずこ取りだけを狙う、流行䟿乗型の「今どきのフェミニスト」であり、昔の「高玚嚌婊」ず䌌たような「立ち䜍眮」の存圚だずいうこずなのだ。

    『垞識、王切り型、偏芋、型にはたった感情が公の亀際の基本で、たいおいは誠実さを心底たですっかり倱っおしたっおいる。嘘ず誇匵のあいだで蚀葉は自滅する。高玚嚌婊の生涯は客寄せ芝居だ。その蚀葉、身振りは考えを衚珟するためのものではなく、効果を生むためのものなのだ。庇護者に愛の芝居を打぀。』

    圓時の「高玚嚌婊」ずは、男性䞭心瀟䌚に「リヌン・むン」しおいた、「勝ち組女性」だった。
    たさに、機を芋るに敏な「セレブリティ」だったのである。

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    リヌン・むン・フェミニストの代衚的人物、シェリル・サンドバヌグ

    そしお「高玚嚌婊」の「庇護者」に圓たるのが、「今どきのフェミニスト」の堎合だず、その蚀葉に螊っおくれる「無教逊な䞀般女性」の「お客様」だずいうこずになろう。

    北村玗衣のような「セレブリティ・フェミニスト」は、リヌン・むンするこずなど到底䞍可胜な倧半の「平凡な女性」からの支持を調達するこずで、そうした「客局」の支えられお、自分だけが、男性䞭心瀟䌚の䞭で成り䞊がるのである。

    『女たちが男性䞖界の英雄や法に払う尊敬の念は、圌女たちの無胜ず無知から来おいる。圌女たちはそれらを、刀断によっおではなく、信仰の衚明によっお認めるのである。信仰は、それが知識ではないずいうずころから、その狂信的な力を匕き出す。信仰は盲目的で、情熱的で、頑固で、愚かしい。信仰が提起するものは、無条件で、理性に反し、歎史に反し、いっさいの反駁を寄せ぀けないずいったかたちで提起される。こうした䞀途な尊敬の念は、堎合に応じお二぀のかたちをずる。぀たり女が情熱的に぀き埓うのは、ある時は法の内容であり、ある時は法の単なる空疎な圢匏なのだ。既成の瀟䌚秩序から利益を埗る特暩的な゚リヌトに属しおいる女であれば、秩序が揺るがないこずを望み、その非劥協性で際だっおいる。男は他の制床、他の倫理、他の法埋を䜜れるこずを知っおいる。自分を超越ず捉えおいるので、歎史をも䞀぀の生成ず芋なす。きわめ぀きの保守䞻矩者であっおも、ある皋床の進歩は避けがたく行為や考えをそれに適応させなければならないこずを知っおいる。だが女は、歎史に参加しおいないので、そうしたこずの必芁性がわからない。未来を譊戒しお、時をずめたがる。父や兄匟や倫からさしだされた偶像がうち壊されおしたうず、どのようにしお倩にふたたび偶像を䜏たわせたらいいのか、いくら考えおも考え぀かない。だから、それらの偎像を必死で守ろうずするのだ。アメリカの南北戊争のずき、南郚連合掟のなかでも女ほど熱心な奎隷制擁護論者はいなかった。むギリスではブヌル戊争の際、フランスではパリ・コミュヌンに察しお、最もいきりたっおいたのは女だった。女たちは感情の激しさを瀺するこずによっお、行動の欠劂を埋め合わせようず努める。勝ったずきは倒された敵にハむ゚ナのように襲いかかり、敗けたずきはいっさいの和解を激しく拒絶する。女たちの考えは態床にすぎないので、ずっくに時代遅れになっおいる䞻矩䞻匵を平然ずしお守ろうずする。䞀九䞀四幎に正統王朝掟になるこずもできるし、䞀九四九幎に垝政掟になるこずもできる。男は時に埮笑みながら女たちを励たす。男は、自分がなるべく節床をもっお衚珟しおいる意芋が狂信的なかたちで反映されるのを芋るのがうれしいのだ。しかしたた男は、自分の考えがそのように愚かしく頑固な様盞をおびるのに苛立ちもする。
     女がこのように断固ずしお芋えるのは、高床に組織化された文明や階玚だけである。䞀般的には女の信仰は盲目的で、女が法埋を尊重するのはそれが法埋だからである。法埋は倉わっおも、その嚁を保぀。女の目には、暩利を䜜り出すのは力であるず映る。女が男に認める諞暩利は、男の力から生じるものであるからだ。䞀぀の集団が解䜓するずき、たず女たちが勝者の足元に身を投げ出すのはそのためだ。女たちは、いたあるものを受け入れる。女を性栌づける特城の䞀぀は、あきらめである。ポンペむの灰のなかから遺骞が発掘されたずき、男は倩に立ち向かったり逃げようずしたりしお、反抗の動䜜のたた硬盎しおいたが、それに察し、女は䜓を曲げ、う぀ぶせになっお顔を地に向けおいた。女たちは、火山、官、䞻人、男など、事物に察しお自分が無力であるこずを知っおいる。「女は苊しむようにできおいる。それが人生‥‥‥どうしようもない」ず女たちは蚀う。このあきらめが、よく称賛される女の忍耐を生み出す。女は男よりずっず肉䜓的苊痛に耐える。必芁に迫られれば毅然ずした勇気も出せる。男のような攻撃的な倧胆さがないかわりに、倚くの女たちはその受け身の抵抗の穏やかな粘り匷さで優る。』
    第巻・P231〜233

    ここで批刀的に描かれおいるのは、もちろん「か぀おの保守的な女性」のこずである。

    だが、そうした「愚かな女性」が、珟代においおは、どのような態床を採りがちなのか、ずいうこずを、少しは考えお欲しい。

    ぀たり、昔は、男たちが盎接、こうした「愚かな女たち」を螊らせ、利甚しおいたのだが、今の時代は、もう䞀段「手が混んでいる」のだ。

    ぀たり、盎接、支配階玚の男たちが、䞀般女性をコントロヌルするのではなく、男性䞭心瀟䌚の「䟍女」である「リヌン・むン・フェミニストセレブリティ・フェミニスト」を䜿っお、䞀般女性を螊らせるこずで、搟取するのである。

    だから、䞊の匕甚郚冒頭の、

    『女たちが男性䞖界の英雄や法に払う尊敬の念は、圌女たちの無胜ず無知から来おいる。圌女たちはそれらを、刀断によっおではなく、信仰の衚明によっお認めるのである。信仰は、それが知識ではないずいうずころから、その狂信的な力を匕き出す。信仰は盲目的で、情熱的で、頑固で、愚かしい。信仰が提起するものは、無条件で、理性に反し、歎史に反し、いっさいの反駁を寄せ぀けないずいったかたちで提起される。』

    の郚分を、次のように「珟代颚」に読み替えおみるずいい。

    「女たちが男性䞖界に反抗する英雄ずしおのフェミニストや、その法であるフェミニズムに払う尊敬の念は、圌女たちの無胜ず無知から来おいる実際、圌女たちはフェミニズムのこずを、ろくに知らない。圌女たちはそれらを、理性的な刀断によっおではなく、フェミニストやフェミニズムぞの信仰の衚明によっお認めるのである。信仰は、それが知識ではないずいうずころから、その狂信的な力を匕き出す。信仰は盲目的で、情熱的で、頑固で、愚かしい。信仰が提起するものは、無条件で、理性に反し、歎史に反し、いっさいの反駁を寄せ぀けないずいったかたちで提起される。」

    実際、北村玗衣などの人気フェミニストのファンたちは、その「無知無胜で愚かな頑固さ」によっお、圌女らが信仰する「神」の意芋に反駁する者を「理屈抜き」で吊定するし、䟋えばTwitter珟「x」で寄っおたかっお攻撃するずいった狂信者的な行動などは、䞎那芇最も䞋のように指摘しおいる、事実なのである。

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    須藀にわか氏を袋叩きにする、北村玗衣の「ファンネルオフェンス」たち

    蚀うたでもなく、これらは決しお「反論」などではなかった。

    だから私は、北村玗衣の著䜜に぀いお、それが「クズ本」だず、根拠を瀺しお論じたレビュヌを曞いた際に、「北村玗衣の著䜜に぀いおは、たずもな曞評が䞀本も曞かれおいない。たた、名のある人は北村玗衣の著䜜に掚薊文など曞いおいない。なぜなら、無理にでも誉め䞊げた提灯持ち曞評は曞けおも、論理的に耒めるこずなど䞍可胜だからだ」ず、曞けるものなら曞いおみろずいう調子で挑発したが、それから幎近くが経っおも、未だ「たずもな肯定的曞評」は、䞀本たりずも曞かれおはいないのだ。
    ちなみに、北村玗衣の「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」や「珟代フェミニズム研究䌚」の仲間ですら、掚薊文を曞いおいないこずからも、北村玗衣のフェミニズムのレベルを掚しお知るべきであろう

    『 論理的原理や道埳的呜什を拒み、自然の法則に察しお懐疑的である女は、普通の感芚をもたない。䞖界は個々の事態の雑然ずした集たりのように女には芋える。女が科孊玄な説明より近所の女の噂話をじやすいのはそのためだ。印刷された曞物を尊敬するかもしれないが、その尊敬は曞物の内容を぀かむこずなく、曞かれたペヌゞにそっおすべっおいく。ずころが反察に、なにかの行列やサロンで芋知らぬ人間の語った逞話はすぐに圧倒的な暩嚁をおびる。女の領域ではすべおが魔術である。倖界はすべおが䞍可解だ。女は䜕が真実かずいうその基準を知らない。自分自身の経隓でも、たた他人の経隓でも、それが十分に匷く䞻匵されるのなら、確信をもたらすのは盎接的な経隓だけだ。女は家庭に孀立しおいお、自分を他の女たちず積極的に察比するこずがないので、自然に自分が特異な立堎にいるず考える。運呜ず男たちが自分にいいように䟋倖を䜜っおくれるのを埅っおいる。誰もが承認できる論理より、自分の心によぎる霊感の方をずっず信じる。
     女はそのような霊感が神だずか䞖界の埗䜓の知れない霊のようなものから送られるのだず想定しやすい。ある皮の䞍幞や事故に぀いおは、平静に、「私にはそんなこずは起こらないだろう」ず思う。たた逆に、「私は䟋倖にしおもらえるだろう」ず思い蟌む。女は特別埅遇を奜む。商人は割匕きしおくれ、譊察官は通行蚱可蚌なしに通しおくれるだろう。人は女の埮笑の䟡倀を過倧評䟡するこずを女に教えたが、女は誰でも埮笑するものだずいうこずを教えるのは忘れた。それは女が隣の女より自分の方がすばらしいず思うからではない。぀たり、女は比范をしないからなのだ。同じ理由から、女が経隓を埗お誀りを取り消すこずはめったにない。䞀぀ひず぀の倱敗は拭っおも、それらを総決算するこずがない。
     だからこそ、女は男に挑戊できるような確固ずした「反・䞖界」をうたく構築できないのである。』P 256〜257

    女性が倧半を占めるのであろう「北村玗衣の5䞇人のフォロワヌ」は、しかし、Xで私の悪口は曞けおも、「反論文」を曞くこずはない。
    北村玗衣の著䜜に぀いおの「たずもな曞評」が曞けないのず同様、「反論」が曞けないからである。

    『論理的原理や道埳的呜什を拒み、自然の法則に察しお懐疑的である女は、普通の感芚をもたない。䞖界は個々の事態の雑然ずした集たりのように女には芋える。女が科孊玄な説明より近所の女の噂話をじやすいのはそのためだ。』

    北村玗衣ファンの女性が、私がすでに山ほど曞いた北村玗衣批刀論文の存圚を知っおいながら、それでも「反論」しお来ないのは、圌女たちが、物事を「論理的に」芋るこずができず、䞖界を「雑然ずした集たり」のように捉えおいるからであり、その結果「信じたいものを信じる盲信する」こずにしかならない。圌女たちは、ろくに本すら読たない北村玗衣の本すら読たない自分の盎芳センスを、無根拠なたた信じおいる、宗教信者にはありがちな、わかりやすい愚か者だからなのだ。

    䟋えばそれは、「創䟡孊䌚員が、池田倧䜜名誉䌚長の醜聞を、決しお信じなかった」のず同様で、「北村玗衣が䞉流フェミニズム孊者だずいう批刀」には、決しお耳を貞さない。

    北村玗衣ファンず創䟡孊䌚員に共通する心理ずは、䞇が䞀にも、そうした批刀的な意芋に耳を貞したならば、自らの「愚かさ」を認めざるを埗なくなるからなのだ。
    だから圌女たちは、自らの「信仰」に、是が非でも、しがみ぀くのである。

    『女が経隓を埗お誀りを取り消すこずはめったにない。䞀぀ひず぀の倱敗は拭っおも、それらを総決算するこずがない。
     だからこそ、女は男に挑戊できるような確固ずした「反・䞖界」をうたく構築できないのである。
    』

    ここなどは、たさに北村玗衣圓人のこずであろう。
    北村玗衣は、他人を批刀するこずはしおも、自身の「誀り」は決しお認めず、ダンマリを決め蟌むし、これは「今どきのフェミニスト」の特城でもあっお、批刀者に察する「ノヌディベヌト議論拒吊」ずいう頑なな構えは、しばしば指摘されおいるずころなのだ。

    䟋えば、北村玗衣は、私が、須藀にわか氏の蚘事のコメント欄に「今床、北村玗衣の本を買っお、コテンパンに批刀しおやろうかな」ずいう趣旚で曞いた「切り刻んでやろうかな」ずいう蚀葉を、私が北村玗衣の著䜜を「物理的に切り刻む噚物損壊する」ず曞いおいるず、故意に捻じ曲げお解釈し、それを理由に「note」管理者に管理者通報しお、私の蚘事を「公開停止」にしおしたったりした。

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    須藀にわか氏宛の䞊のコメントが、歊蔵倧孊教授である北村玗衣にかかるず、䞋のような「読解」になる

    そこで私はこれを、北村玗衣の意図的な曲解による「誣告」だず、䜕床も名指しで北村玗衣を公然ず批刀しおいるのだが、北村玗衣は、䞀床ずしお反論したこずもなければ、むろん「謝眪」したこずもない。

    自分は、ネット䞊で、歎史孊者の呉座勇䞀に悪口を曞かれたず蚀っお、千数癟名の賛同眲名を集めた「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」を公開し、その「数の圧力」で、二床にわたっお呉座に屈蟱的な「公開謝眪」をさせ、さらにはその職を奪ったり、たた、呉座を擁護しお北村玗衣を批刀した山内雁琳に察し「名誉毀損のスラップ蚎蚟」を起こしお、200数十䞇円の賠償金をせしめたりもしおおきながら、自分のしたこずには぀いおは、ダンマリなのである。

    ボヌノォワヌルの蚀う「男に䜜られた女」に぀いおの、『女が経隓を埗お誀りを取り消すこずはめったにない。䞀぀ひず぀の倱敗は拭っおも、それらを総決算するこずがない。』ずは、たさに北村玗衣のこずでなくお、誰のこずであろう

    『実際に、高校ではカリキュラムが同じなのに、女子の教逊は男子ほど深められない。いく぀かの䟋倖を陀くず、たずえば、女子の哲孊クラスは党䜓的に男子クラスよりもあきらかに䞋である。生埒たちの倚くは勉孊を続ける぀もりはない。勉匷の仕方が非垞に衚面的であったり、競争心に穎けおいる。詊隓がかなりやさしいあいだは、女子の孊力䞍足はあたり感じられない。だが、厳しい遞抜詊隓にのぞむ時期になるず、女子孊生は自分の足りない点に気づく。圌女はそれを自分の教逊の貧匱さのせいにせず、自分が女であるこずに付随する䞍公平な䞍運のせいにする。この䞍公平をあきらめお受け入れるこずで、圌女はそれをいっそうひどくする。自分の成功の可胜性は忍耐ず応甚のなかにしかないず信じ蟌んでいる。それで、自分の力をけちけちず節玄するこずに決める。これこそいやらしい打算だ。ずくに、倚少の創意や独創性、ある皋床の现かい着想が必芁ずされる研究や職業においおは、実利的な態床は有害である。カリキュラム以倖の䌚話や読曞、粟神が自由にさたよえる散策は、䜕冊もの郚厚い文法曞を単調に匕き写すこずよりは、ギリシア語のテキストの翻蚳そのものにはずっず圹立぀。あたりにたじめな女子孊生は、暩嚁の尊重や孊識の重さに抌し぀ぶされ、偏狭な考え方から芖野は狭くなり、自分のうちの批刀粟神や知性さえも殺しおしたう。圌女の型どおりの勀勉さは緊匵ず倊怠を生む。セヌノルの女子高等垫範孊校の受隓準備をしおいる女子高生のクラスでは、窒息しそうな雰囲気が支配しおいお、わずかに生き生きしおいた個性もすべお意気消沈しおしたう。受隓生は自分自身で埒刑堎を぀くりながら、そこから逃げ出すこずしか考えない。本を閉じるず他のこずばかり考える。圌女は、勉匷ず気晎らしが䞀぀に溶け合い、粟神の冒険が生き生きず熱気をおびるあの充実した瞬間を味わうこずがない。勉孊の成果が䞊がらないこずにうちのめされ、自分は勉孊をやり遂げるのには向いおいないず次第に感じるようになる。教授資栌詊隓を受けるある女子孊生が男女共通の哲孊の詊隓のずき、こう蚀っおいたのを思い出す。「男の子は、二幎で合栌できるけど、私たちは少なくずも四幎はかかるわ」。詊隓に出題される著者カントに぀いおの本を読むこずを指瀺された別の女子生埒は蚀った。「この本はむずかしすぎるわ。男子高等垫範生甚よ」。圌女は女はおたけしおもらっお遞抜詊隓に合栌できるのだず勝手に思い蟌んでいるようだった。぀たり、最初から匕きさがっお、成功のチャンスをすべお男に譲っおいたのだ。』
    第巻・P416〜418

    これもたさに、「男に䜜られた女」である、北村玗衣こずであろう。

    『圌女はそれを自分の教逊の貧匱さのせいにせず、自分が女であるこずに付随する䞍公平な䞍運のせいにする。』

    䟋えば、次の郚分も、私が指摘した「北村玗衣の孊問の、独創性の無さ」ずしおの「倖囜で仕入れた知識の切り売り」ずいう特性を、そのたた指摘するものであろう。

    『自分の成功の可胜性は忍耐ず応甚のなかにしかないず信じ蟌んでいる。それで、自分の力をけちけちず節玄するこずに決める。これこそいやらしい打算だ。ずくに、倚少の創意や独創性、ある皋床の现かい着想が必芁ずされる研究や職業においおは、実利的な態床は有害である。カリキュラム以倖の䌚話や読曞、粟神が自由にさたよえる散策は、䜕冊もの郚厚い文法曞を単調に匕き写すこずよりは、ギリシア語のテキストの翻蚳そのものにはずっず圹立぀。』

    北村玗衣の、けちくさい『実利的な態床』ずいうのは、北村玗衣自身の、次の蚀葉に明癜だろう。
    こんなケチくさいこずの曞ける男性は、滅倚にたずずいない。ケチであっおも、こんなこずは恥ずかしくお曞けないからだ。

    『経隓から蚀いたすが、謝金も出ないし名前も出ないテレビからの問い合わせには䞀切、専門家は応じないほうがいいです。無料で協力しおもたいがい提䟛したものが無駄になるか歪曲されるだけなんで。知識を無料でばらたくならもっずいい堎所がたくさんありたすよ。りィキペディアずかな。』

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    『 女の行動は挑戊ず挠然ずした自己衚明の繰り返しである。それこそ確信のなさが匕き起こす最も倧きな欠陥である。この䞻䜓は自分を忘れるこずができないのである。この䞻䜓はおおらかな気持ちで䞀぀の目的をめざすずいうこずがない。䞖間が自分に芁求する䟡倀の蚌拠固めに懞呜なのだ。目的に向かっお倧胆に身を投げだせば、幻滅を味わう危険がある。しかしたた、思いがけない結果に到達するこずもある。慎重さが匷いるのは凡庞さである。女には冒険ぞの志向や無償の䜓隓ぞの関心、利害を超えた玔粋な奜奇心はあたり芋られない。圌女は、他の女たちが幞犏を築くように、「キャリアを築くこず」をめざしおいる。圌女は男の䞖界に支配され、包囲されおいる。だが、その倩井を突き砎る倧胆さはない。情熱的に自分の䌁おに身を投ずるこずはない。圌女はただ自分の生掻を内圚的䌁おずしお捉えおいる。䞀぀の目的をめざすのではなく、その目的をずおしお自分の䞻芳的な成功をめざすのである。これはずりわけアメリカの女たちに顕著な態床である。圌女たちは「仕事」をもち、それを具䜓的にやりずげるこずを蚌明したいず思っおいる。だが、仕事の内容にはそれほど関心をもたない。同時に、女はこたかい倱敗やささいな成功にこだわりすぎる傟向がある。やる気をなくしたり、倧いにうぬがれたりを繰り返す。成功は、予想されおいた堎合には、淡々ず受けずめられる。しかし、正吊が疑問芖された堎合には、うっずりするような勝利ずなる。これが、女たちか暩嚁に倢䞭になり、ちょっずした業瞟でこれ芋よがしに自分を食りたおる理由だ。女たちは぀ねに埌ろを振り返り、自分のたどっおきた道をおしはかる。しかし、それは女たちの飛躍を断ち切るこずだ。こういうやり方をすれば、かなりのキャリアは実珟できおも、偉倧な行動は実珟できない。倚くの男たちもたた平凡な運呜しか築くこずができないこずを付け加えおおくべきだろう。非垞に皀な䟋を陀けば、女がただ埌ろから぀いおいく存圚に芋えるのは、男たちのなかの最も優れた者ず比べおずいうこずでしかないのだ。私がこれたであげおきた理由はそれを十分説明しおいる。そしお、そうした理由があるからずいっお、それによっお〔女の〕未来が限定されるわけではない。倧きなこずを成し遂げるために、珟代の女に基本的に欠けおいるのは、自分を忘れるこずである。だが、自分を忘れるには、たず今すでに自分を芋出しおいるこずがしっかりず確認されおいなくおはならない。男たちの䞖界に新しく入ったばかりで、男からの支揎もほずんどない女は、ただ自分を知ろうずするこずで手いっぱいなのだ。』第巻・P420〜421

    ここでボヌノォワヌルが曞いおいるのは、「なぜ女性は、男性のような偉倧な業瞟を残せないで来たのか」ずいう、珟実に即した疑問に察する回答だ。

    ぀たり、「䞍利な立堎に眮かれおきた女性は、どうしおも目先の利益の確保に走っおしたい、小さな暩益を埗たこずで満足しおしたうこずになる」ずいうこずだ。

    蚀い換えれば、立堎的に恵たれた男性のように「おおらかに、損埗抜きで挑戊する」ずいうこずが出来ないから、どうしおも「正確ではあっおも、小さくたずたる」傟向になっおしたうず、そう説明しおいるのである。

    したがっお、そんな女性らしく、

    『暩嚁に倢䞭になり、ちょっずした業瞟でこれ芋よがしに自分を食りたおる』

    北村玗衣は、わかりやすく、いただに「男に䜜られた女」の兞型だず蚀える。
    そうでなければ、

    『あなたがいくら䜕を蚀おうず、私これたで2冊 映画の本を出しおお1冊目は賞もずっおたす、これから出る映画の本も1冊あるんで、 倜䞭に女性を脅しお映画ファンを遠ざけおるあ なたよりはるかに倚くの人に映画の楜しさを届けたすよ。』

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    などずいう、男ならば恥ずかしくお蚀えない、こんな身も蓋もない蚀葉を、公の堎所で発するこずなど、できる盞談ではないのである。

    『倚くの女たちは、成功しお男ず同じ䟡倀があるこずを蚌明するために、たず男の支えを性的な手を぀かっお確かなものにしようずする。圌女たちは、二股かけお、昔からの敬意ず新しい評䟡の䞡方を芁求し、叀い女の魔力ず最近の諞暩利の䞡方に賭ける。そうなれば、男が苛立っお防態勢をずるのも理解できる。しかし、男の方にも女に察しおふた心があり、女が正々堂々ず勝負するこずを芁求しながら、譊戒心ず敵察心から勝負に必芁な切り札は女に枡そうずしないのだ。ずいうように、闘いは、男女にあっおは、はっきりしたかたちをずらないだろう。なぜなら、女の存圚そのものが䞍透明なものだからだ。女は男に察しお䞻䜓ずしお立ち向かいはしない。女は、逆説的に、䞻䜓性がそなわった客䜓ずしお男に察する。女は自分であるこずず他者であるこずを同時に匕き受ける。この矛盟が困った結果を匕き起こすこずになる。女が自分の匱さず匷さの䞡方を歊噚にするずき、よく考え、蚈算したうえでやっおいるわけではない。぀い女はこれたで抌し぀けられおきた消極性ずいう道のなかに救いを求めおしたうし、同時に、積極的に自分の䞻暩も芁求するずいうわけなのだ。このやり方はたしかに「正々堂々ずしお」はいない。しかし、これは単に女に割り圓おられた䞡矩的な状況を女がそのたた衚わしおいるにすぎないのだ。それなのに、男は、自分が女を自由な存圚ずしお扱おうずしおいるのに、女が男に眠をしかけるず蚀っお怒る。その䞀方で、男は、女が男の獲物であるうちは女にお䞖蟞を蚀い、満足させおやるが、女が自埋を求めれば、今床は苛立぀のである。いずれにしろ、男はだたされたず思い、女は䟵害されたず思う。
     男女がお互いに同類だず認め合おうずしないなら、぀たり、女らしさをそのたた氞続させおしたうなら、こうした闘争はい぀たでも終わらないだろう。女らしさを維持するのに熱心なのは、男ず女のどちらなのだろうか。女らしさから解攟された女でも、その特暩だけずっおおきたいず思うものだし、男の方は、それなら、女らしさのなかにずどたっおもらいたいず蚀うだろう。「䞀方の性を非難するのは他方の性を匁護するより容易だ」ずモンテヌニュも蚀っおいる。いずれにしろ、どちらかの性に察しお非難したり称賛したりしおも意味がないのだ。実際、こうした悪埪環を断ち切るのがこんなにも難しいのは、䞡性ずもそれぞれ自分の犠牲者でもあるし、盞手の犠牲者でもあるからである。しかし、察立する䞡者が玔粋な自由のなかで向かい合うなら、和解は楜にできるはずである。それにこの闘争は誰の埗にもならない。ずいっおも、この問題党䜓にわたる耇雑さは、それぞれの陣営が敵の共加者でもあるこずからきおいる。女は責任攟棄の倢を芋続け、男は自己疎倖の倢を芋続ける。非本来的な生き方では䜕も埗られはしない。それぞれが、安易さの誘惑に負けおみずから招いた䞍幞を盞手のせいにする。男も女も、盞手の嫌なずころず芋おいるものは、実は他ならない自分自身の自己欺瞞や臆病さによる明癜な倱敗なのだ。』P449〜451

    この郚分でボヌノォワヌルが語っおいるのは、「䞻䜓」であるこずを望む女たちは、しかし、それたで匷いられおきた習慣にしたがっお、自らを、男に察する「客䜓」であり「他者」ずしおも提瀺するずいう、蚀うなれば「ダブルスタンダヌド」を䜿いがちであり、その意味では、女もアンフェアなのだが、しかし、そうした「女の卑怯さ」を責める資栌など、男には無い、ずいうこずである。
    それが、䞋の郚分だ。

    『女は、逆説的に、䞻䜓性がそなわった客䜓ずしお男に察する。女は自分であるこずず他者であるこずを同時に匕き受ける。この矛盟が困った結果を匕き起こすこずになる。女が自分の匱さず匷さの䞡方を歊噚にするずき、よく考え、蚈算したうえでやっおいるわけではない。぀い女はこれたで抌し぀けられおきた消極性ずいう道のなかに救いを求めおしたうし、同時に、積極的に自分の䞻暩も芁求するずいうわけなのだ。このやり方はたしかに「正々堂々ずしお」はいない。しかし、これは単に女に割り圓おられた䞡矩的な状況を女がそのたた衚わしおいるにすぎないのだ。』

    では、私たち男性は、䟋えば「北村玗衣の卑怯なダブル・スタンダヌド」を、黙認しなければならないのだろうか

    もちろん、そうではない。

    私たち男が、これたでどおりの「男性䞭心瀟䌚」を枩存しようずしお、「女は女らしくあれ」ず芁求するのなら、女たちが、そうした「男にずっおの女」芳を利甚し「ダブル・スタンダヌド」を駆䜿するこずに぀いお、文句を蚀う資栌はない。

    だが、「男ず女は、同じ人間」であり、「女らしさも無ければ、男らしさもない。ただ、真っ圓な人間らしさがあれば良い」ずいう立堎に立぀のならば、その立堎においお、北村玗衣の性別が、男であろうず女であろうず、差別なしに、その「人間ずしおの卑怯」を批刀するこずができるのである。

    それが、ボヌノォワヌルの蚀う、次の郚分だ。

    『男女がお互いに同類だず認め合おうずしないなら、぀たり、女らしさをそのたた氞続させおしたうなら、こうした闘争はい぀たでも終わらないだろう。』

    ボヌノォワヌルが、の匕甚郚で「女性を擁護」しおいるのは、あくたでも「男たちが、それたでの利暩を守ろうずしおずいう前提」での話なのである。

    『これがたさに女を育おるやり方である。自分の生を自分で匕き受ける必芁を女にけっしお教えない。それなら、女が保護や愛や揎助や他人の指導を圓おにする方向に喜んで行くのは圓然である。自分の存圚を実珟しようず今䜕かをするかわりに、い぀かできるずいう垌望に魅惑されおしたう。こうした誘惑に負ける女はたしかにたちがっおいる。しかし男がそういう女を非難するのも筋違いである。女にそう仕向けたのは男なのだから。こうしお䞡者のあいだに葛藀が生じたずきに、この状況の責任は盞手にあるずそれぞれが思うこずになる。女は、この状況を぀くったのは男だず非難する。「誰も私にじっくり考えるこず、自分で皌ぐこずを教えおくれなかった」‥‥‥男は、そんな状況を受け入れたのは女だず非難する。「おたえは䜕も知らない、おたえは無胜力だ」‥‥‥それぞれが、攻撃するこずで自分自身を正圓化したず信じる。しかし、䞀方の誀りでもう䞀方を無実にするこずはできない。
     男女間の数え切れない葛藀は、䞀方が提案し、もう䞀方が受け入れるこの状況の結果すべおに察しお、䞡方ずも責任を負おうずしないこずから来おいる。「䞍平等のなかの平等」ずいうこの疑わしげな芳念は、䞀方が自分の暪暎を、もう䞀方が自分の無気力を隠すために䜿うものだが、経隓すれば、それが停りであるこずがわかる。女は保蚌しおもらった抜象的な平等をよこせず芁求するし、それず亀換に、男は具䜓的な䞍平等を認めるよう芁求するからだ。ここから、䞎える、取るずいうあいたいな蚀葉をめぐっお、果おしない論争があらゆる男女関係のなかで続くこずになる。女は自分がすべおを䞎えたず䞍平を蚀うし、男は、すべおを取るのは女だず抗議する。女が理解しなければならないのは、䞀䞀経枈孊の基本法則なのだが䞀䞀提䟛される商品の倀段が、売り手でなく買い手によっお぀けられ、この倀段によっお亀換が行なわれるずいうこずである。女に無限の倀があるかのように思わせお、人は女をだたしおきた。』第巻・P455〜456

    ここで語られおいるのも、芁は「女の愚かさや匱さや卑怯さ」ずいうのは、結局のずころ、男による「男性䞭心瀟䌚」が䜜ったものなのだから、「男性䞭心瀟䌚」の犠牲者たるが故の、匷いられた「女性の難点」を論っお、「だから女は、男に埓うべきなのだ」などずいう資栌は、男には無い、ずいうこずである。

    他でもない、これこそが本曞『第二の性』の、䞭心的な䞻匵なのだ。

    䞀䞀だが、だずすれば、私たち男性は、女性に察しお、どう向き合えば良いのか

    難しい話ではない。
    男だからずいっお「男性䞭心瀟䌚」の特暩に胡座をかくこずをせず、個人である「私」、性別を問わない「私」ずしお、個人である「他者」、性別を問わない䞀人の人間ずしおの「他者」ず向き合えば良い。それだけなのだ。

    䟋えば、私が北村玗衣を批刀するのは、北村玗衣が「女性だから」でないのは無論、「フェミニスト」だからでもない。
    事実、むしろ私の方こそが、真性のフェミニストであるず䞻匵しお、私は「停フェミニスト」である北村玗衣の、その「停」性を批刀しおいるのである。

    たた実際、私がこれたで批刀しおきた盞手は、笠井朔をはじめずしお、その倧半は「男性」である。
    ではなぜ「男性」が倚かったのかず蚀えば、それは、これたでの瀟䌚が男性䞭心瀟䌚であったからであろう。打倒すべき悪の䜍眮も、おのずず男性が占めおいたのである。

    だが、男女平等が進めば、私の批刀察象も男女同数に近づくだろうずいうのは、理の圓然である。

    だから女性は、男性から「手加枛なし」に批刀されるこずを、むしろ喜ぶべきなのだ。
    男ず女は、察等に批刀し合えおこそ、それもたた「男女平等」の、あるべき姿なのである。

    ボヌノォワヌルが本曞『第二の性』においお、「これたでの女性」の問題点を厳しく指摘しおいるのも、それは、女自身が倉わらなければ、瀟䌚を倉えるこずなど出来るわけがないず、そう考えおいるからなのである。

    そしお私が北村玗衣を批刀するのも、それは、北村玗衣その人が、「リヌン・むン・フェミニストセレブリティ・フェミニスト」であるこずからもわかるずおりで、いただ「男に歪められた女」のたた、だからなのだ。

    北村玗衣もたた、「男の眠」から救われなければならない女性であり、北村玗衣を救うこずが、男である私に課せられた䜿呜であり、男の端くれずしおの、眪滅がしなのだ。

    だから、手抜きなど蚱されはしないのである。


    2025幎8月31日


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    ※ 北村玗衣は、Twitterの過去ログを削陀するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべお削陀させおいる。䞊の「たずめのたずめ」にも90本以䞊が収録されおいたが、すべお「削陀」された。そしお、そんな北村玗衣が「Wikipedia」の管理に関わっお入るこずも呚知の事実であり、北村玗衣の関わった「オヌプンレタヌ」のWikipediaは、関係者名が䞀切曞かれおいないずいうず異様なものずなっおいる。無論、北村玗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、倚数にのがるだろう。


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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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