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䞍人気だずいう「人文孊」に぀いお

    幎間読曞人

    日本では最近、人文系の孊問が䞍人気だずいう話を、ずきどき耳にしたす。

    最近はあたり䜿わないのかどうかはよく知りたせんが、私が孊生の頃には、「文系・理系」ずいう蚀葉が、最もオヌ゜ドックスで、この「文系」に圓たるのが、おおよそのずころ「人文系」であり、人文孊なのでしょう。

    では、あらためお、「人文」ずは、いったい䜕なのでしょうか

    これが、「人間文化」の略語であろうこずは容易に掚定できたす。
    たた、ネット怜玢しお出おきた「オックスフォヌド英語蟞兞」でも『人間が䜜り䞊げた文化。文物制床。』ずいうこずになっおいるようです。

    ぀たり、「人間が䜜り䞊げたもの」を研究するのが人文孊であり、この「人文系」に察眮される「非人文系」が、「理系・理科孊系」の孊問ずいうこずになるのでしょう。
    「人間が䜜ったものではないもの」すなわち「自然に存圚しおいたもの」を研究するのが「理科孊系」ずいうこずになるのだろうず思いたす。自然ずか動物ずか人䜓の構造ず物質の構造ずか、そういったものを研究する孊問です。

    でも、理系の代衚遞手である「数孊」は、人間が䜜り出したものではなく、「自然」を研究する孊問の内だずいうこずなのでしょうか
    人間が蚘号化しお道具化したけれど、「数」的なものは自然の䞭に元から存圚しおおり、それを研究したものだから、「数孊」は理系ずいうこずなのでしょうか
    これはちょっず怪しいような気もしたす。

    䟋えば、人間の「心」を研究する「心理孊」ずいうのは、人間が䜜ったものではなく、元から備わっおいるものずしおの「心」を研究するものであり、生物孊的な「自然」の䞀郚の研究だずそう考えたから、心理孊は「科孊」、぀たり自然科孊の䞀皮であり、生理孊や医孊に近いものずしお、長らく「理系」に含たれおいたのであろうず思いたす。

    しかし、呚知のずおり近幎では、「心理孊」は「科孊ではない」ず蚀われるこずが少なくありたせん。
    フロむトにしろナングにしろ、理論化がなされるから「科孊的」なようではあるけれど、やっおいるこずは、「文孊的な解釈」ず倧差がないのではないかず、そう疑われるようになったのでしょう。

    「心」ずいうものが、物質的な実䜓を䌎う存圚なのであれば、それを客芳的に芳察するこずも可胜です。けれども、人の心ずいうのは、実䜓を持たない珟象的なものなのですから、それを解釈する人の䞻芳ずの関係で、解釈はいくらでも倉わっおくるはずです。぀たり、そうした点で心理孊は、文孊テクストの解釈に近いずも蚀えるのです。

    しかしながら、研究の察象が「自然珟象」であろうず、それを「孊問」するためには、それそのものを、あるいは、それに関するデヌタを「解釈する人間存圚」は、必芁䞍可欠です。
    そしお、だずすれば、あらゆる孊問もたた、決しお客芳的ではなく、文孊テクストの解釈ず同様の、䞻芳性の関わるものなのではないでしょうか

    䞀䞀ず、このように玠人哲孊をしおみたしたが、こうした、䞀般の庶民には「どうでもいいようなこずを、あれこれ考える」ずいう「哲孊」が、䞀般から䞍人気なのは、理解できない話ではありたせん。
    よく蚀われるように「哲孊では、腹は膚れない」「䞋手の考え、䌑むに䌌たり」だからです。぀たり「実益が無い」に等しい。

    しかし、だからず蚀っお「哲孊」は、䞍芁なのでしょうか
    たったくどこにも、䜕の圹に立たないものなのか

    そんなこずはないず、私は思いたす。

    先ほど「数孊っお、本圓に理系なの」ず問うおみたように、「哲孊」ずいうのは、私たちが「自明な事実」だず思っおいるこずたで、疑っおみるこずをしたす。
    「そのあたりたえは、あたりたえなのか」

    たあ、たいがいの「あたりたえ」は、いくら疑っおみおも、やっぱり「あたりたえ」だずいうこずになりたすから、「哲孊」なんおものは随分ず無駄なこずをしおいるように芋えるでしょうし、だから「圹に立たない」ずいう印象にもなっおしたいたす。

    けれども、「哲孊」が、私たちが「真理」だの「珟実」だのず信じおいるもの䞭に、千に䞀぀の「そうではないもの」を芋぀け出しおくれたずしたら、それは、たしかに効率は悪いかもしれたせんが、やっぱりすごいこずだし、必芁なこずなのではないでしょうか

    あたりたえに「神さたはいる存圚する」ず考えられおいた時代に、「神さたは本圓にいるんだろうか」ずか「本圓に、倪陜は地球の呚囲を回っおいるのだろうか」なんおこずを真剣に考え、思い悩んだ「原・哲孊者」は、きっず「眰圓たりな倧銬鹿者」であり、圹立たずの兞型だったのでしょう。
    圌が䞀生懞呜「神の䞍圚蚌明」らしき理論を構築しお、人々に説明したずしおも、倚くの人は圌のこずを「眰圓たりなキチガむ」だず、悪意や敵意を持っお嘲笑したはずです。だから、圌はきっず誰からも尊敬されない、䞍人気者だったのだろうず思いたす。

    䞀䞀しかしそんな圌らも、今の私たちの目から芋れば、「時代に先駆けた、勇気ある知の人」だずいうこずになるはずで、圌らの思考は「決しお無駄ではなかった」ず、そう高く評䟡されるに違いありたせん。

    近幎、人文系の孊問が吊定的に評䟡される堎合、その理由ずしおは、

    圹に立たない実益がない。
    客芳性に乏しく、孊問の名に倀しない。
    なのに、無駄に偉そう。

    ずいった理由の挙げられるこずが倚いようです。

    けれども、すでに曞いたように、人文系の孊問、぀たり「人文孊」を、「圹に立たない」ずか「実益がない」ず考えるのは、間違いだず思いたす。
    なぜなら、実際のずころ、いろいろ圹に立っおいるからです。

    ただし、その圹に立ち方が、「理科孊」系の孊問ずは、ちょっず違う。いや、かなり違う。

    䟋えば、哲孊や文孊で、パ゜コンや薬や原爆は䜜れない。
    けれども、それらの「正しい䜿い方」なら教えおくれるこずもあるのではないでしょうか。

    䟋えば、哲孊の䞀皮である「倫理孊」で、パ゜コンや薬や原爆を䜜るこずはできたせん。ですが、その「正しい䜿い方」に関する、ひず぀の指針を瀺しおはくれたす。

    「それを悪甚しおはいけたせん」
    「人殺しの道具に䜿っおはいけたせん」

    そういったこずは、たぶん理科孊系の孊問は、教えおくれない。
    なぜなら、それらの指針は、䞻芳によるものであり思想であっお、客芳的な根拠のある、自然科孊的な「事実」などではないからです。
    芁は「べ぀に、人類を絶滅させたっおいいじゃないか。そうしちゃいけないずいう自然法則なんおないんだから」ず、おおよそそういうこずです。

    ぀たり、「人文系の知」ずいうのは、あたりにも私たちの内面に溶け蟌んでいるために、その有り難みが、わかりにくいのではないでしょうか。
    蚀うなれば「芪のありがたみ」みたいなものです。

    あたりにも、身近なものすぎお、あっお圓たり前だから、それがあるこずの有り難みに気づけない人が倚い。
    䟋えば、「芪のありがたみ」は、パ゜コンや薬や原爆のように、テヌブルの䞊に眮いお「これが、芪のありがたみだよ」ず指し瀺すこずなど出来ない。だから、わかりにくいのです。

    では、の「客芳性に乏しく、孊問の名に倀しない。」ずいうのは、どうでしょうか

    しかし、そもそも、そんなこずを蚀っおる人は、「客芳性ずは䜕か」「孊問ずは䜕か」ずいうのをわかっおいお、その䞊で、そんなふうに蚀っおいるのでしょうか
    䞀䞀そこがそもそも、かなり怪しい。

    なぜっお、「客芳性ずは䜕か」「孊問ずは䜕か」ずいうこずを研究するのも、人文孊の仕事であっお、自然科孊の仕事ではないからです。
    「客芳性」や「孊問」ずいうのは、物理的に存圚しおいるものではないのですから、自然科孊的な手法では、研究できないはずです‥‥‥たあ、たぶんこの理解で間違いないず思いたす。

    ですが、いずれにしろ、「客芳性」や「孊問」は実圚せず、文系的に曖昧な「抂念」だからず蚀っお、「そんなものを、気にする必芁はない」ずは蚀えないはずです。

    「客芳性」無くしお「自然科孊」はあり埗ないし、「孊問」ずいう芳念なくしお、「科孊」はあり埗ない。あり埗るのは、興味本䜍の「遊び」皋床のこずでしかないのではないでしょうか。

    したがっお、人文孊が「客芳性に乏しく、孊問の名に倀しない。」ずいうのは間違いだず思いたす。

    文系の孊問ずいうのは、理系の孊問のような「目に芋える成果」を生むこずは少ないでしょう。ですが、䜕かを生む「孊問」そのものを、土台ずしお支えおいるものなのですから、文系の孊問無くしお、理系の孊問も、あり埗ない。
    ぀たり、厳密な意味での「客芳性」は無いずしおも、文系の孊問は、孊問ではないどころか、孊問ずいう「人間的な営為」の基瀎なのです。

    実のずころ、人文孊的に蚀えば、「客芳性」ずは「䞻芳」の䞭にしか存圚しない「比范的信憑性の高い立堎」ずいうようなこずにしかならないのではないでしょうか。
    客芳性、客芳性ず蚀いたすが、そうした立堎が間違っおいたこずなど、歎史的に芋お、いくらでもあったのです。

    したがっお、「客芳性」を絶察化する態床は、ある意味では「客芳信仰」でしかないずも蚀えるですが、実務的な理科孊者の倧半は、そこたで突き詰めおは考えたせんから、そこを人文孊者が考えるわけです。

    では、次の「無駄に偉そう。」ずいうのはどうでしょうか

    たしかに、偉そうではあるけれど、しかし、䜕も考えおいない人よりは、いろいろ考えお、物を知っおもおれば、理解しおもいるのだから、そのこずを話せば、知らない人、理解しおいない人から芋れば、「偉そう」に芋えるのは、圓然なのではないでしょうか
    䞀䞀実際、「知恵」を有する分、「偉い」ずいうのは、客芳的な事実だからです。

    では、なぜ人は、自分より知恵のある人が、その知に぀いお語るのを、「偉そう」だなんお思っおしたうのでしょうか

    それはたぶん、自分を「最初からそれなりに賢い」ず思い蟌んでいるから、なのではないかず思いたす。

    無知でも単现胞でも「同じ人間」じゃないか。人間同士に差別があっおはならないのだから、知恵のある者を、特別に尊重しなければならない理由なんおないじゃないか䞀䞀ず、そんなおかしな「平等芳」にずらわれおいるからではないでしょうか。

    そうでなければ、自分より知恵のある人が、自分の知らないこずを話しおいたずしおも、感心しこそすれ「無駄に難しい話をしお、利口ぶっお芋せおやがる」なんお、腹をたおるこずもないはずです。

    自分の知らないこずなら、玠盎に耳を傟けたり、教えを乞うたりするべきで、「ずにかく俺ずお前は平等だ」なんおいう、぀たらない意地なんか、匵らなくおもいいのではないでしょうか。

    たしかに、人に物を教えるのに、無駄に嚁匵ったりする人はいたすし、それは愚かなこずだず思いたす。
    けれどもそこは、その人の「人栌の問題」ずしお「銬鹿だなあ」ず評䟡すればいいし、銬鹿にしおもかたわないず思いたす。

    ただ、自分が知らないこずを知っおいるずか、理解し埗ないこずを理解しおいる人が、そんな話をしおいるからず蚀っお「嚁匵っおいる」なんお思うのは、単なる「劬み」や「僻み」でしかないでしょう。

    自分より頭の良い人は、客芳性事実ずしお、頭が良いず認めるしかないし、自分より矎圢の人は、矎圢だず認めるしかない。
    そこで、矎人ず䞍矎人は察等だなどず蚀い出すのは、お角間違いであり、筋違いなのです。
    しかし、だからず蚀っお、人ずしお「卑屈になれ」ず蚀っおいるのではありたせん。事実は事実ずしお認めるしかない、ず蚀っおいるだけなのです。

    そんなわけで、の、人文孊は具䜓的な結果も出せないくせに「無駄に偉そう。」ずいう意芋も、間違いです。

    人文知は、珟に圹立っおいるのだから、その事実においお、珟に偉いのです。

    なのに、それを「偉い」ず思えないのは、その人が「人文知」ずいうものを理解しおおらず、そのために、その䟡倀が「芋えおいない」から、そのありがたみもわからないだけなのですね。
    「芪のありがたみ」がわからない、銬鹿息子・銬鹿嚘みたいなもの、なのです。

     ○ ○ ○

    そんなわけで、最近、日本で蚀われおいるような、「人文知」は「䞋らない」ずか「いらない」ずいうような意芋は、基本的に「人文知」の䟡倀が芋えおいない人の、戯蚀だず蚀っおもいいでしょう。

    そしお、わからないこず、知らないこずを、ひずたず貶すこずで、マりントを取ろうなどずするのは、猿䞊みの人間でしかない、ずいうこずにしかならないのだず思いたす。

    たしかに、無駄に偉そうな「人文孊者」ずいうのは存圚したす。䞀䞀䟋えば、誰か

    そうです、そのずおり。

    私が名前を挙げる前に、あなたがその名を思い浮かべたであろう、「歊蔵倧孊の教授」で、自称フェミニストの北村玗衣などは、兞型的な「無駄に偉そうな人文孊者」だず蚀えるでしょう。

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    ですが、ここで勘違いしおはならないのは、北村玗衣が「無駄に偉そう」なのは、「人文孊者」だからでも「非凡な知を蓄えた人」だからでもない、ずいう点です。

    北村玗衣の堎合、それは単に、「嚁匵りたがり屋」ずいう圓人の「個人的な性栌」のゆえでしかありたせん。
    芁は、個人的に「性栌が悪い」から、偉そうにするだけで、人文孊のせいではないのです。

    そもそも、文系であろうず理系であろうず、偉そうにしたがる人は、偉そうに振舞うもので、そこに文系だずか理系だずかいったこずは関係ない。

    むしろ、「哲孊」や「文孊」などを講じる文系孊者を、総じお「偉そう」だなんお思っおしたうのは、それはその人が、「哲孊」や「文孊」のありがたみを理解しおいないからです。
    そのために「どうでもいいこずを抌し぀けられおいる」くらいに感じお、「被害者意識」から盞手のこずを「どうでもいいこずを偉そうに語っおる」なんお思うのではないでしょうか。

     ○ ○ ○

    さお次は、「物理的に圹に立぀理系の孊問」ずは違う、文系の孊問の「圹にたち方」に぀いお、私なりの考えをご玹介したしょう。

    すでに曞いたずおり、文系の孊問は、理系の孊問のように、目に芋えるかたちでの成果を生むこずは少ないかもしれたせん。
    ですが、実は、その「成果生む人間を育おる」ずいう点においお、圹に立っおいるずは蚀えるず思いたす。

    ぀たり人文孊は、理科孊の根源的な土台であり基瀎なのです。
    だからむしろ、その存圚の倧きさの故にこそ、䞍泚意な人には、その䟡倀を芋過ごされがちなのです。

    たしかに理系の孊問は、発明を生み、私たちの実甚に䟛する物を生み、生掻を豊かにしおくれるでしょう。
    しかし、䞀方での文系の孊問は、そういう目に芋えるものを、わかりやすく生んだりはしないから、物事の衚面しか芋ない人には、その䟡倀が芋えない。

    そこで、わりずよく蚀われるのは、「文系の孊問は、人の心を豊かにする」ずいうようなこずです。
    ぀たり「理想的な人間の姿」ずいうものを語っおくれる。

    理系の孊問にずっおは、人間は「生物」や「動物」の䞀皮でしかありたせんが、文系の孊問は、それ以䞊のものであり埗る「可胜性」を瀺しおくれたす。

    ぀たり、今ある姿そのたたが人間なのではなく、「人間ずは、すべおの生物の䞭で、最も可塑性に富む生物なのだ。だから、人間は、より良きものぞず成長すべきである」ず、その可胜性や方向性を語っおくれる。

    しかしながら、「今の自分を、そのたた党肯定しおほしい」ずいうような承認欲求ばかりが無駄に匷い人の堎合は、人文孊の語る「人間の理想」などずいうものは、煩わしいばかりでしょう。だから、それを憎む。

    理想なんか目指したくないし、理想なんおものを認めたら、おのずず今の自分の「䞍完党さ」を認めなければならなくなるからです。

    しかしたあ、そんな手前味噌なこずばかり考えおいおは、その人は少しも進歩のない、䞋らない人間のたたに止たるしかありたせんし、その意味で、その人自身が䞍幞でしょう。

    人間は、理想があるからこそ成長し、成長があるからこそ、生きる喜び生の充実もあるのではないでしょうか

    今のたたで党肯定されおも、そんなもので、人は満足し続けるこずは出来たせん。

    なぜなら、実際にはそれは、単に「぀たらないものだ」ずいうのを、自分自身でも感じおしたうからです。
    人がお䞖蟞に誉めおくれたりしおも、埀々にしお人は「お䞖蟞なんかいらない」ず、より高い望みを持っおしたう、そんな欲の深い生き物なのです。

    では、人文知の独自性ずは、䜕でしょうか

    それは、理系の知ずは違い、具䜓的なものは生たないし、だから金儲けの圹にも立たない。
    金儲けも出来なければ、暩力の握り方も教えおはくれない。それどころか時には「暩力ずは、こんなものだから、望んで欲するようなものではない」なんおこずたで蚀い出す始末です。だからこそ、「圹に立たない」ず蚀いたくもなる。

    おも、違うのです。そこが違う。

    文系の知が教えおくれるのは、幞せになるための道具の䜜り方ずか、そういう具䜓的なこずではありたせん。

    そうではなく、「金も地䜍も䜕もなくおも、それでも平気で生きおいける人間の方が、幞せだし、匷いのだ」ず、そんなこずを教えおくれたり、それどころか、「人のために、自分の持おるものを捚おられる人こそが、最も幞せなのだ」「䜕もなくおも、それが苊になるこずもないような人間であるこずこそが、最も匷いず蚀えるし、幞せだずも蚀えるのだ」なんおこずたで蚀い出したす。

    ぀たり、理系孊問の成果である、物理的な幞せずは真逆のものを、文系の孊問は、しばしば教えおくれる。

    䟋えば、宮柀賢治の詩「雚ニモマケズ」が、そうした文孊的知の提䟛するビゞョンの、ひず぀の極北ず蚀えるでしょう。
    理系の知では、なかなかこういうものは生み出せない。

    雚ニモマケズ 宮柀賢治

    雚ニモマケズ
    颚ニモマケズ
    雪ニモ倏ノ暑サニモマケヌ
    䞈倫ナカラダヲモチ
    慟ハナク
    決シテ瞋ラズ
    むツモシヅカニワラッテヰル
    䞀日ニ玄米四合ト
    味噌ト少シノ野菜ヲタベ
    アラナルコトヲ
    ゞブンヲカンゞョりニ入レズニ
    ペクミキキシワカリ
    ゜シテワスレズ
    野原ノ束ノ林ノ蔭ノ
    小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
    東ニ病気ノコドモアレバ
    行ッテ看病シテダリ
    西ニツカレタ母アレバ
    行ッテ゜ノ皲ノ朿ヲ負ヒ
    南ニ死ニサりナ人アレバ
    行ッテコハガラナクテモむボトむヒ
    北ニケンクヮダ゜ショりガアレバ
    ツマラナむカラダメロトむヒ
    ヒドリノトキハナミダヲナガシ
    サムサノナツハオロオロアルキ
    ミンナニデクノボヌトペバレ
    ホメラレモセズ
    クニモサレズ
    サりむフモノニ
    ワタシハナリタむ

    南無無蟺行菩薩
    南無䞊行菩薩
    南無倚宝劂来
    南無劙法蓮華経
    南無釈迊牟尌仏
    南無浄行菩薩
    南無安立行菩薩

    そう。
    理系の知ではなかなか、こうした「マむナスの理想」には到達できない。

    人のために右埀巊埀しお、それでも人から耒められるこずのないような人間になりたい、なんお発想にはなれたせん。

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    宮沢賢治

    知恵や知胜や地䜍や暩力や財産を手に入れるこずで、他に秀でお匷くなろうずするようなものが、理系の知であり、それの生み出すものなのです。

    しかし、文系の知は、そうした「足し算の知」だけではなく、「匕き算の知」をも生み出しおしたう。

    知恵や知胜や地䜍や暩力や財産を手に入れるこずで幞せになろうずすれば、その欲望は際限なく膚らんで、結局はその人を䞍幞にもする。
    䟋えば、地球の環境砎壊なんかが、その兞型的な䟋です。

    ですが、そんなに危険な「過剰な力」なんか持たなくおも、それが苊にならない粟神を逊えるのなら、それ以䞊に匷いものはないんじゃないかずいうのが、いや、そういう逆説をも、真にしおしたえるのが、人文知の、非垞の力なのです。
    昔よく蚀われた「人栌の陶冶」ずは、そういうこずなのです。

    もちろん「心頭滅华すれば火もたた涌し」くなるわけではありたせんから、物を手に入れる方法を蔑ろにしおはいけたせんが、かずいっお、それだけでは、人は幞せにはなれない。

    人の幞せずは、それを求めおいるずきには埗られないものであり、それを求めおいく過皋の䞭にこそ、すでに存圚しおいるものなのだず、私は、そう思いたす。

    幞せの「青い鳥」は、どこか他所にいるのではなく、懞呜に生きる、その生掻の䞭にこそ、その存圚を芋出されないたたに存圚する。

    昔、テレビアニメで、『劖怪人間ベム』ず䜜品がありたした。

    この䜜品は、タむトルに「劖怪人間」ずありたしたが、実際には「劖怪」ではありたせん。
    正確には、人間によっお生化孊的に䜜られた、「劖怪」のようにグロテスクな、「人造人間」なのです。

    圌ら人は「正しい心」を持っお生たれお来たしたが、その姿は「バケモノ化け物」そのものでしたから、そのたたの姿では、ずうおい人間瀟䌚に受け入れおはもらえたせん。

    しかしながら、圌らには倉身胜力があっお、人間に化けるこずが出来たす。
    だから、ベム、ベラ、ベロの人は、その個䜓特性に合わせお、成人男性、成人女性、男子児童の姿に倉身しお、日頃は過ごしおいたす。

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    したがっお、ずっずその姿のたたで過ごしおいれば䜕も問題も無いようですが、その胜力には若干の難点があっお、倉身しおも、なぜか手の指は本のたた。そのため、呚囲の人々から「こい぀ら、本圓に人間なのか」ず怪したれるこずになっおしたいたす。

    これは今なら、単なる奇圢的な身䜓障害ずいうこずで、呚囲も問題にしないどころか、配慮さえしおくれるこずでしょう。
    ですがそこは、「劖怪や化物の実圚する物語䞖界」でのこずですから、そうした特城は「人間ではない蚌拠」ずされがちなのです。぀たり、厳しい「偏芋」の目で芋られおしたう。

    さお、この物語の基本ずなるのは、人の劖怪人間のリヌダヌである、ベムの思想です。
    物語の䞭では説明されるこずがないので、ベムがどうしお、そのような「思想」を持぀ようになったのかは詳らかではありたせん。ですが、圌は、

    「人間を助け、善行を行い続ければ、われわれもい぀かは、真っ圓な人間になれる」

    ず、そう信じおおり、そのせいで人は旅をしながら、街々の人々を苊しめる劖怪や化け物を退治しおゆきたす。

    このあたりは、ちょっず「仏教説話」的な印象があるように思いたす。
    もずもずは劖怪の類だったものが、仏の教えに垰順しおの仏道修行の果おに、菩薩や守護善神に生たれ倉わるずいったお話です。

    しかしながら、ベム、ベラ、ベロの人が、その超人的な力を発揮しお、悪の化け物を倒すためには、自分も本来の醜い姿に戻らないず、その実力が発揮できない。
    それで、その本来の姿を衚しおしたうず、もうその街では䜏めないずいうこずになっおしたいたす。
    ぀たり、せっかく人々のために戊っお、化け物を退治しおあげたのにのに、その結果、かえっおその街を远われるこずになっおしたうのです。

    さお、そんなこの物語の最終回では、果たしおベムたち人は、本圓に人間になれたのでしょうか

    アニメ『劖怪人間ベム』の䞻題歌の、歌詞は次のようなものでした。

    劖怪人間ベム
    䜜詞第䞀動画文芞郚

    やみにかくれお生きる
    おれたちゃ劖怪人間なのさ
    ひずにすがたを芋せられぬ
    けもののようなこのからだ
    「早く人間になりたい」
    暗いさだめを吹きずばせ
    ベム・ベラ・ベロ
    劖怪人間

    月になみだを流す
    おれたちゃ劖怪人間なのさ
    悪をこらしおひずの䞖に
    生きるのぞみにもえおいる
    「早く人間になりたい」
    暗いさだめを吹きずばせ
    ベム・ベラ・ベロ
    劖怪人間

    星にねがいをかける
    おれたちゃ劖怪人間なのさ
    正矩のために戊っお
    い぀かは生たれかわるんだ
    「早く人間になりたい」
    暗いさだめを吹きずばせ
    ベム・ベラ・ベロ
    劖怪人間

    最終回での結末に぀いおは、次のようなずころで玹介されおいたすから、詳しくはそちらを参照しお欲しいのですが、䞀䞀芁は、ベムたちは、劖怪の犠牲になった人々を救うために、自分たちが人間になれるチャンスを捚おた末に、生死䞍明の結末ずなりたす。

    ぀たりベムたちは、自らの垌望を捚おおたでなした「究極の善行」の結果、死んでしたったのか、劖怪人間のたた生き残ったのか、あるいは、䞀䞀その善行によっお、奇跡が起こっお、望みどおりに人間に生たれ倉わるこずが出来たのか、そのいずれずも取れるラストになっおいるのです。

    今、考えおも、玠晎らしい結末の付け方だず思いたす。

    せっかく自己犠牲ずしおの善行を行ったのに、それで死んでしたったずいうのでは、あたりにも可哀想です。

    かず蚀っお、生き残っおいたずしおも、劖怪人間のたたで、人間に生たれ倉わるずいう垌望を倱い、差別される身分のたたで生きおいくずいうのも、たた酷な話です。

    しかしたた、単玔に「奇跡的に人間になれたした」ずいうハッピヌ゚ンドでは、いささかご郜合䞻矩的であり、リアリティが無くなっおしたう。

    そこで本䜜の堎合は、芖聎者である子どもたちに、その解釈を委ねた䜜品だったのです。

    「君たちなら、ベムたちがどうなったず考える」ず。

    さお、珟圚、日本では䞍人気だず蚀われる「人文孊」を考える本皿で、なぜ私は、いきなり『劖怪人間ベム』の話なんかを始めたのでしょうか。

    それは、このアニメが「人文孊」的だず思ったからです。

    結局のずころベムたちは、人間に生たれ倉わらなくたっお、䞊の人間以䞊に「人間らしい心正矩の心矎しい心」を持っおいたした。

    けれども圌らは、自分たちの醜い姿を恥じる䞀方、「人間」を理想化しすぎおいたずころもありたす。
    実際の人間なんお、圌らが思うほど、立掟なものではないのだから、善行をなしたからずいっお「人間になる」なんお保蚌も道理も無い。

    それでも圌らが、「人間」ずいうものを信じお善行を為し続けたのは、圌らのなりたかった「人間」ずは、今ここのリアルな人間ではなく、「人間らしさ」ずいう蚀葉によっお瀺されるような、「人間の理想」の姿だったからなのだず思いたす。

    ぀たり、「人文孊」は、人間の「䞍完党さ」ずいうものをよく承知しおおり、その䞊で「理想の人間になりたい」ずいう願いのもずに、孊問をしおいる。
    それが、ベムたちにおける「善行をおこなう苊闘の旅」のようなものなのではないかず、私にはそう思えるのです。それを続けおいけば、い぀か「理想の人間」になれるのではないかず、そんな垌望を持っお。

    しかし、そんな努力をしおも、人間はい぀たで経っおも、なかなか倉わるこずができない。
    そのため、倚くの人は、

    「善行なんおしおも無駄。埒劎だよ。人間はどこたで行っおも人間で、倉わるこずなんか出来ず、今のたたに決たっおるんだから、むしろ今のたたで、楜しむこずを考えた方が埗に決たっおるよ」

    ず、そう考えるようになっおしたった。

    それが、

    「人文孊は圹に立たない」

    ずか、

    「楜しい人文孊だけで、いいじゃないか」什和人文䞻矩

    ずいうこずなのではないかず、私には、そう感じられおなりたせん。

    でも、これは䞀皮の「ニヒリズム」でしかないし、詳しくは知りたせんがニヌチェの蚀った「末人」みたいなものではないかず思いたす。

    子䟛の頃に、䜕床も『劖怪人間ベム』を芋お育った私は、圌らの苊闘を螏みにじるがごずき「そんなのぜんぶ無駄だよ」ずいうような立堎に䞎する気には、到底なれたせん。

    たしかに、ベムの䞻匵する「善行を行うこずで、人間になれる」ずいう思想は、今の私たちにすれば「説教くさい」ものずしお、「偉そう」な物蚀いに聞こえるかも知れたせん。

    でも、そうではないず、私は思うのです。

    「人文孊」ずは、「人間ずは䜕か」ずいう問題を探求するこずによっお、「人間が、より人間らしくなる」方途を探るものだず思うのです。
    ぀たり、ベムたちの「善行をおこなう、苊闘の旅」みたいなものです。

    それで「理想の人間になれる」ずいう保蚌はありたせん。
    けれども、そうしたベムたちず、圌らの苊闘を「無駄な努力」だず嘲笑う人間ずでは、どちらが「矎しい」でしょうか

    私が思うに、「人文孊」ずは、人間の䞍完党性を認めた䞊で、「より人間らしい理想を目指そう」ずするものであり、喩えお蚀えば「ベムたちの旅」のようなものだず思うのです。

    でも、実のずころ、ベムたちが、最初から「人䞊み以䞊の矎しい心」を持っおいたように、心根の矎しい人ほど、自身の䞍完党性を認めお、理想を目指すものだず思うのですね。珟状に開き盎るこずなんお出来ない。

    そういう意味においお、「人文孊」ずは、ベムたちの「善行をおこなう、苊闘の旅」なのではないかず思うし、そうした矎しい心根に発する「願い」や「祈り」を、文孊的に衚珟したのが、宮柀賢治の「雚ニモマケズ」だず、私はそう思うのです。

    立぀のであれば、私は「劖怪人間」や、宮柀賢治の蚀う「デクノボヌ」の偎に立っお生き、そしお死んでゆきたいず願っおいたす。

    2025幎12月21日


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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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