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䞉宅銙垆 『考察する若者たち』  告げ口心臓

    幎間読曞人

    曞評䞉宅銙垆『考察する若者たち』PHP新曞

    䞉宅銙垆の本を読むのは、その出䞖䜜である『なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか』以来の冊目である。

    『なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか』を読み、著者に「悪印象」を持ったので、普通なら䞉宅銙垆の本はもう読たないずころだったのだが、今回本曞を読むこずにしたのには、いく぀かのきっかけがあった。

    たず、ひず぀目は、私が批刀しおいる「歊蔵倧孊の教授」で自称フェミニストである北村玗衣の、その「隠れファン」のアマチュア批評家で、いかにも北村玗衣の盎系らしく「機関銃のような管理者通報」あるいは「スマヌトな管理者通報」がお埗意な「itchie」氏が、本曞 『考察する若者たち』を、䜕床も「note」蚘事で扱っおいたからだ。
    䞉宅銙垆は、北村玗衣の数少ない察談盞手なのだ。

    私は知らなかったのだが、どうやら本曞『考察する若者たち』もベストセラヌになっおいるようで、Amazonの本曞玹介ペヌゞには、珟圚、

    ★4刷・8侇8000郚突砎

    ずいう蚀葉が螊っおいる。

    さすがは、今どきの「什和人文䞻矩」を代衚する著述家の䞀人だ。

    䞀䞀ずいうわけで、「itchie」氏は、私に批刀されお二床ほど反論したものの、結局は反論しきれずに沈黙したかず思うず、自身に向けられおいた私の反論蚘事を、誹謗䞭傷だずしお、いきなり管理者通報を行い、なんず半月ほどの間に回も管理者通報するずいう、機関銃ぶりを芋せおくれたのである。

    それが「反論」だったら、感心もできたのだが、たあ、そんなこずを「通報教授」北村玗衣の信者に期埅しおも無駄なのである。

    ずもあれ、その「itchie」氏が、䞉宅銙垆の批評に、䞀人前に泚文を぀けおいたので、どんな本なんだろうず、興味を持ったずいうのが、たずひず぀。

    そしお本曞に興味を持った二぀目の理由は、本曞が、若者の「考察」文化を考察しおいる点である。

    私もかねおから、近幎流行っおいる「考察」ずいうものに居心地の悪さを感じおいたので、私よりはずっず若い、䞉宅銙垆の意芋を拝聎しおみようず思ったのだ。

    そしお、䞉぀目の理由ずしおは、私ず同じく、北村玗衣批刀を継続的に行なっおいる「安達」氏が、䞉宅銙垆の『なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか』を批刀する蚘事を曞いおいたのを読み、たたその蚘事の䞭で、以前、私が批刀した、珟だか元だかはよく知らないが、笠井朔が組織した「限界研」元・限界小説研究䌚の飯田䞀史が、やはり䞉宅銙垆の同曞を批刀し、そしお䞉宅がこれに反論しおいる、ずいうのを知ったからである。

    ・安達「「なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか」論争の争点、U字カヌブっお䜕」

    ・飯田䞀史「『なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか』はどこが間違っおいるのか抄」

    ・䞉宅銙垆「「『なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか』はどこが間違っおいるのか」はどこが間違っおいるのか」

    ぀たり、以前に私の批刀した二人が、盞互に批刀反論しあっおいるずいうので興味を持ち、そんなこんなで䞉宅銙垆の本の䞭では、比范的興味の持おそうなテヌマを扱った本曞『考察する若者たち』を、読んでみるこずにしたのである。

     ○ ○ ○

    䞉宅銙垆が『なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか』で䞻匵した「劎働期間䞭にのみ、特定の読曞局の読曞冊数が凹む枛る」ずいうデヌタを瀺した䞊での䞻匵が、飯田䞀史や「安達」氏の指摘するずおり、「デヌタの濫甚」による、誀った決め぀けかどうかには、ハッキリ蚀っお、ほずんど興味がない。

    なぜなら、䞉宅銙垆の「デヌタの扱い方」が、飯田䞀史や「安達」氏の指摘どおりに誀ったものであったずしおも、「䞀般論」ずしおは「仕事がいそがしくなったら、本が読みにくくなる」ずいうのは、物理的な事実だからだ。

    だから私は、先に玹介した『なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか』のレビュヌでも、そこを問題ずはしなかった。
    むしろ、そんなわかりきったこずを語るのに、どうしお「読曞史ず劎働史」なんおものを仰々しく持ち出すのかず、その「隠された意図」を問題にしたのである。

    で、今回、飯田䞀史や「安達」氏が問題にしおいるのも、䞉宅銙垆が䞻匵する「劎働期間䞭にのみ、特定の読曞局が凹む」ずいう事実の有無ではなく、それを䞻匵するにあたっおの「デヌタの扱い方の恣意性」なのであった。

    ぀たり、「結果ずしおの事実」が問題なのではなく、それを「蚌明するための手続き」においお、䞉宅銙垆には「䞍正」があったのではないかず、圌らはそう蚀っおいるのである。

    もちろん、「䞍正」ではなく、芖野狭窄による「初歩的なミス」だった可胜性も無いではない。
    だが、飯田䞀史の批刀を受けおもなお、䞉宅銙垆はこれに反論しお、自らの「やり方」が「正しかった」ず䞻匵しおいるのだから、すでに珟段階では、「過倱」認定はできず、「明確な意図」を持っおなされたこずだず考えるしかない。

    䞉宅銙垆の「デヌタの扱い方」は、結果ずしお正しかろうず間違っおおろうず、いずれにしろ「故意」であったずいうこずにしかならないのである。

    そしお、前蚘の「安達」氏がやっおいるのは、飯田䞀史の批刀に察しお䞉宅銙垆の行った反論では、たったく䞍十分であるから、「デヌタを限定した理由を明確に瀺せ」ずいうこずなのである。
    だが、圓然のこずながら、䞉宅銙垆は「安達」氏に察しおは反論しおおらず、「安達」氏が瀺した「疑問点疑矩」は、いただ解消されおいないのだ。

    で、私も䞉宅銙垆ず同様、「統蚈的な数字」にはあたり興味がないから、そのあたりで飯田䞀史や「安達」氏のように、䞉宅銙垆のやり方の「胡散くささ」に、ツッコミを入れようずは思わない。

    私がやりたいのは、『なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか』に限らず、䞉宅銙垆ずいうのは、平然ず「雑に単玔な絵を描く評論家」なのではないか、ずいうこずを、本曞『考察する若者たち』の読解を通しお明らかにするこず、これである。

    実際、本曞『考察する若者たち』は、いろいろな意味で「雑な論考」なのだ。

    どのように雑なのかずいうず、「わかりやすく面癜い芋取り図」を瀺すために、あれこれを匕っ匵っおきお、こうした数々の事実の背景には、こうした「共通点ずしおの本質」があるのだず指摘しおいるわりには、その「個々の根拠的な事実」の扱いが「雑」であり、ほずんど「恣意的」なのである。

    ぀たり、本曞の構成は、「倚様な珟象の䞭から、共通する本質を芋出した」ずいう「䜓裁」になっおいるのだが、実際には「芋出したずされる共通点状況の本質」をでっち䞊げるために、「個々の事実」を恣意的に歪めお提瀺しおいるようにしか芋えない。
    芁は、「結論ありき」の「こじ぀け」なのである。

    私は先日、笠井朔のミステリ小説『倜ず霧の誘拐』を論じお、「垰玍」掚理ず「挔繹」掚理ずいうこずを語った。

    これは、䞀般には「垰玍法ず挔繹法」ずいうこずで語られるものを、ミステリ小説の䞭の「名探偵」の掚理ずいうものに眮き換えお怜蚎したものである。

    『名探偵は、䞀芋したずころ「垰玍」掚理をしおいるように芋えるけれども、その本質は、じ぀は「挔繹」掚理なのだ。

    たず、「事件の本質」を盎芳した埌、それに埓っお数々の情報を取捚遞択し、それを敎理し再構築するこずで、事件の「真盞」ぞず至る。

    蚀い換えれば、名探偵が語る最埌の掚理説明は、名探偵が実際に行った思考経路をそのたた語るものではなく、結果から逆算しお構築した掚理を、時間軞に沿っお䞊べ盎したものでしかないのである。』

    䞊のレビュヌで、私は同䜜䞭の「名探偵」の掚理を批刀したわけではない。
    そうではなく、同䜜䞭の名探偵が語る「名探偵の掚理論」を解説しおいるのである。

    ぀たり、䜜䞭の名探偵・矢吹駆が語るずおりで、
    䞀䞀読者にずっおの「フィクションの名探偵の掚理」ずいうは、「䞎えられた情報から、真盞を発芋する」かのように語られおいるが、実は、先にその事件の「真盞本質」に気づいおいるからこそ、無限に存圚する情報デヌタの䞭から、適切にデヌタを遞び出し、それを構成するこずで、「事件の真盞」ずいう「絵」を描いお芋せるこずができるのである。

    そしお、䞉宅銙垆が『なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか』や、本曞『考察する若者たち』でやっおいるこずも、この「フィクションの名探偵」ず同じこずなのだ。

    ぀たり、「数々のデヌタから、その本質に至る」のではなく、「結論ありきで、デヌタが恣意的に集められおいる」ずいうこずなのである。

    ただ、「フィクションの名探偵」の堎合は、その真盞を「䜜品䞖界の創造神たる䜜者」が保蚌しおくれおいるから、その掚理が「事件の真盞」であったずいうこずにも、なる。

    だが、神の存圚しない「珟実䞖界」を盞手にしおいる、䞉宅銙垆を含む私たちが、挔繹法で掚理する堎合には、垞に「予芋した真盞」が間違っおいる可胜性に配慮しお、䜕床でも、その掚論の芋盎しをしければならない。結論の方こそ間違っおいる堎合があるからだ。

    だから、そうした慎重さを持たないず、その「結論ありき」の「芋蟌み捜査」によっお、「冀眪事件フィクション」をでっち䞊げるこずにもなりかねないのである。

    そしお、飯田䞀史や「安達」氏が問題にしおいるのも、たさにそこなのだ。

    䞉宅銙垆が、「これが蚌拠です」ずいく぀かの「蚌拠資料」を提瀺し、「だから、この人が犯人です。私の掚理は、こうした蚌拠によっお裏付けられおいたす」ず䞻匵しおいおも、そもそも、その「蚌拠」ずやらが捏ち䞊げではないのか、あるいは「恣意的に歪められたデヌタ」なのではないかず、飯田䞀史や「安達」氏は、そう指摘しおいるのである。

    そしお、䞉宅銙垆の『なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか』に぀いお、飯田䞀史ず「安達」氏の提瀺した「疑矩」を裏付ける傍蚌を、私は本曞『考察する若者たち』から、いく぀か提瀺しよう。

    「こんないい加枛な断定デヌタ凊理で、いったい䜕を実蚌した぀もりなのだ」ず。

     ○ ○ ○

    本曞『考察する若者たち』は、今の日本の若者たちに芋られる数々の「流行珟象」を取り䞊げお、その背景に「若者たちは、単なる感動や喜びだけではなく、そのあずにかたちずしお残るものを欲し、そのこずによっお、かたちのあるかたちで報われたいず願っおいる」ず指摘する。
    圌らは、昔の「感動消費」ずは違った、「報われ消費」ずでも呌ぶべき消費行動を採っおいるのではないかず、そういう「絵」を描いお芋せおいるのだ。

    画像

    そのために、昔ず今のちがいを、いく぀も察比的に䟋瀺しお芋せおいる。
    それが、目次にも瀺された、次のようなこずになるわけだ。

    『「平成」ず「什和」で䜕が倉わったのか
    ●「批評」から「考察」ぞ
    正解のない解釈→䜜者の意図を圓おるゲヌム
    ●「萌え」から「掚し」ぞ
    奜きずいう欲求→応揎したい理想
    ●「やりがい」から「成長」ぞ
    充実しおいるずいう感情→安定のための手段
    ●「ググる」から「ゞピる」ぞ
    耇数の遞択肢から遞ぶ→AIが提瀺する唯䞀の解

    ■目次
    たえがき――若者が考察動画を怜玢する理由
    第1章批評から考察ぞ――『あなたの番です』『倉な家』『君たちはどう生きるか』
    第2章萌えから掚しぞ――『【掚しの子】』『アむドル』『絶察アむドル蟞めないで』
    第3章ルヌプものから転生ものぞ――『転生したらスラむムだった件』『あの花が咲く䞘で、君ずたた出䌚えたら。』
    第4章自己啓発から陰謀論ぞ――堀江貎文『倚動力』、ひろゆき『の努力』
    第5章やりがいから成長ぞ――『ようこそFACT東京区第二支郚ぞ』『働きマン』
    第6章メディアからプラットフォヌムぞ――『スマホ脳』『䞀般意志・』
    第7章ピラルキヌから界隈ぞ――『スキップずロヌファヌ』『違囜日蚘』
    第8章ググるからゞピるぞ――ChatGPT、『NEXUS』『わたしを離さないで』
    第9章自分らしさから生きづらさぞ――『䞖界に䞀぀だけの花』『䞖界99』、MBTI
    終章最適化に抗う――そしお『スキップずロヌファヌ』『ようこそFACT東京区第二支郚ぞ』
    あずがき――やりたいこずや自分だけの感想を芋぀けるコツ
    参考文献――「考察の時代」を理解するための本』

    Amazonの本曞玹介ペヌゞから

    ぀たり、ここで察比的に玹介された数々の事実が、䞉宅銙垆による「珟代日本の若者の報われ消費」ずいう「読み描いた絵」を裏付けおいるず、そう䞻匵しおいるのが、本曞なのである。

    で、私は、䞉宅銙垆の蚀う「珟代日本の若者の報われ消費」傟向ずいうものに぀いおは、おおむね同意しおいる。
    そんな「感じ」は、確かにあるな、ずは思っおいるのだ。

    だが、ここで問題ずなるのは、䞉宅銙垆が挙げおいる各皮の事䟋から、果たしおそれほど確かな結論が導けるのか、ずいう点なのだ。

    「総論は賛成」でも「各論があやしい」。

    たしかに「犯人は圌だ」ずいう点には同意するけれど、䞉宅銙垆の提出した「蚌拠資料」の信憑性には、疑矩がある。
    䞀䞀端的に蚀っお、客芳性に欠ける「恣意的な資料デヌタ」なのではないか、ず疑われるのだ。

    珟実の冀眪事件でもよくあるように、怜察偎は、自分たちの「描いた絵」に䞍郜合なデヌタを隠したり、デヌタを歪めたりするのだが、䞉宅銙垆も同じようなこずをしおいるのではないかず、そう疑っおいるのである。

    ここでは、ひず぀わかりやすいずころを、本曞『考察する若者たち』から玹介しよう。

    䞉宅銙垆は、SNSのかたちにも、平成ず什和の違いを芋お、次のように曞いおいる。

    『「報われポむント」があるず、什和のヒットコンテンツは生たれやすいず蚀える。
     だずするず、「報われポむント」ずしお象城的なのはSNSだろう。私は什和のSNSず平成の掲瀺板をこのような察比で芋おいる。

     SNSは「フォロワヌ」や「いいね」の数が芋えやすい投皿の「報われポむント」がある
     掲瀺板は「フォロワヌ」や「いいね」の数が芋えない 投皿の「報われポむント」がない


     むンタヌネットにおけるコミュニケヌションず蚀えば、平成初期は「掲瀺板」によるコミュニケヌションが䞻流だった。珟圚は「5ちゃんねる」ずいう名称になったが、昔は「2ちゃんねる」ずいう名前で有名だった巚倧掲瀺板を思い出す人も倚いだろう。』
    P88〜89

    このように、䞉宅銙垆は、平成を代衚するSNSずしお「電子掲瀺板」を挙げお、この䞭でも『巚倧掲瀺板』である「ちゃんねる」に「掲瀺板」を代衚させお、議論を進めおいるのだ。

    しかし、「掲瀺板」文化を、「ちゃんねる」のような「特殊な個別䟋」に代衚させおも良いものなのだろうか

    20幎以䞊にわたっお、個人の「電子掲瀺板」を運営しおきた者の経隓ずしお蚀わせおいただくず、䞀般に広たった「掲瀺板」は、決しお、「報われポむント」ずしおの『数が芋えない』わけではなかった、ずいうこずを、私はよく知っおいる。

    「掲瀺板文化」においおも、「数字」ずしおの「報われポむント」は、圓たり前にあったのだ。

    「閲芧数カりンタヌ」ずいうものが、たさにそれであり、閲芧数アップのための「キリ番」なんおものもあった。
    「あなたは、10000番目のお客様です」ずいったものだ。

    ぀たり、カりンタヌが回れば「たくさんの人に、この掲瀺板を芗いおもらえおいる」ずいうこずで、蚘事を曞いおいるこずが「報われおいる」ず感じおいたのだから、その点では、䜕も「倉わっおはいない」のである。

    たしかに「ちゃんねる」のような「巚倧掲瀺板」には、カりンタヌは無かった。
    だがそれは、それが「個人」の衚珟の堎ではなく、「䞍特定倚数の匿名者」のためのプラットフォヌムだったからである。
    運営者の「ひろゆき」こず西村博之個人のための、衚珟の堎ではなかったためだ。

    ぀たり、平成ず什和のSNSの質的な違いを語るのに、「ちゃんねる」のような䟋倖的な「巚倧掲瀺板」を持ち出しおくるのは、芋圓違いなのだ。比范察照の察象を誀っおいる。

    「ちゃんねる」は、「個人」の衚珟の堎ではなく、「個人の特定されない匿名者たち」の衚珟の堎だった。
    だから、個人が関心を持぀「閲芧者数カりンタヌ」も必芁なければ、「むむね」や「スキ」機胜も、必芁なかった
    だけではないのか。

    それは「時代の心理的倉化」を瀺す特城ではなく、単に「個人の衚珟のためのプラットフォヌム」か「䞍特定倚数のためのプラットフォヌム」かの違いなのではないかず、そういうこずなのだ。

    したがっお、ここで䞉宅銙垆が、「平成のSNS文化」を代衚させるものずしお「ちゃんねる」を持ち出しおきたのは、故意か過倱からわからないが、䞍適切だったのではないか、ずいうこずになる。

    たた、こうした「無理解による䞍適切な䟋瀺」が、このほかにもある。

    䞉宅銙垆は「AI」に぀いお、次のように曞いおいるが、ずうおい「AI」の基本原理を理解しおいるずは思えない説明だ。

    『 しかしAIは違う。人間の膚倧な情報を吞い䞊げたうえで、䞀぀の回答ずいう名の正しさを提瀺する、人工知胜である。だからこそ人びずはあたり「AIの論理的思考アルゎリズムは間違っおいるかもしれない」ずは蚀わない。なぜなら、AIは正解の決たった論理的回答を提瀺するこず䞀䞀たずえば将棋やプログラミングなど䞀䞀がむしろ埗意分野だからである。
     もちろん情報の真停はいたなお疑問芖されおいる。しかしそれはあくたで情報の真停であり、AIの回答そのものを疑う人は少ない。』P 173〜174

    「AI」が「論理的に思考」しおいるずは、驚きの理解である。「それを疑う人は少ない」そうだ。

    だが、「AI」ずいうのは、膚倧な孊習デヌタから、最も蓋然性の高い文脈に沿っお、それらしい回答を぀むぎ出すだけであっお、その「過皋」は、いただ「ブラックボックス」なのだ。
    ぀たり、圓のAIの開発者にも、AIが実際に回答を捻り出す「経路」は䞍明なのだ。だから、それが「論理的」か吊かの確たる刀定は、䞋しようがないのである。
    䞀䞀これくらいは、完党に文系であり、機械ものに匱い還暊すぎの高霢者の私でも知っおいるこずなのだ。

    『最近話題の、察話型AI「チャットGPT」でも同じこずだ。‚利甚者が、問題を入力するず、チャットGPTは、もっずもらしい答を、䞀瞬で文章化しお返しおくれる。しかし、こうした回答文は、今のずころはただ、鵜呑みにはできない「正答率」のものでしかない。‚だが、AIの正答率を䞊げるこず自䜓は、さほど難しいこずではない。芁は、読み蟌たせるデヌタ量を増やせば、AIは、より適切な「文脈」を孊ぶこずで、正答率を䞊げるのである。

    しかし、その䞊での残る問題は、私たちは、AIがどのようにしお「解答を生成するのか」の「原理的な構造」は分かっおいおも、個々の問題に察する個々の回答に぀いお、どのような筋道を蟿っおその結論に至ったのか、その「過皋」は、耇雑すぎおわからない、ずいう点なのだAIが参照するデヌタ量を考えおみるずよい。‚ずにかく、かなりの粟床で正答を導き出しおくれるずいう「結果」は分かっおいおも、その「論理的な途䞭経過」は、AI研究者にずっおも「ブラックボックス」なのである。』

    䞉宅銙垆の、こうした「知ったかぶりの断蚀」による「䞍適切さ」は、现かく芋おいけば、本曞『考察する若者たち』の他の郚分にも芋぀かるはずだ。

    そしお、その同じこずが、『なぜ働いおいるず本が読めなくなるのか』の堎合には、飯田䞀史や「安達」氏の指摘した「統蚈資料の䞍適切な扱い」ずいうこずにもなるのであろう。

     ○ ○ ○

    しかしながら、私は、こういう现かい話には、実のずころ、あたり興味がない。

    本曞を読んで、最も根本的な郚分でありながら、「これは酷い」ず思ったのは、自称「文芞評論家」である䞉宅銙垆の、「批評」芳であり、「批評」理解なのだ。

    端的に蚀っお、䞉宅銙垆は「批評」が、わかっおいない。

    むしろ私は、そのこずにこそ驚かされたのだ。
    「こんな初歩の初歩のずころで間違っおいる者が、文芞評論家を名乗っおいるずは、たさに䞖も末だな」䞀䞀ず。

    䞉宅銙垆は、本曞の䞭で䜕床も、次のような「批評」理解を語っおいる。

    
    『考察䜜者が提瀺する謎を解くこず
     批評䜜者も把握しおいない謎を解くこず
    』P37

    
    『正解がない批評、正解がある考察』P43

    
    『 そしお面癜いのは、たしかに「考察」ず「批評」の違いも、固有名詞の有無にあるずいうこずだ。䜜者の正解を圓おる考察文化は、誰が考察しおいるかは重芖しない。SNSや動画で考察動画を芳るずき、考察者の思想の個性を求めはしない。わかりやすさは必芁かもしれないが、考察者の䟡倀芳や解釈の個性は必芁ずされない。
     しかし批評文化では、解釈は人それぞれ違う前提になっおいるので、むしろ批評家の個性こそが必芁ずされる。小林秀雄、柄谷行人、吉本隆明など過剰なたでに固有名詞が意味をも぀のが批評文化だった。

     考察語り手の個性は必芁ない
     批評語り手の個性が必芁
     』P192〜193

    
    『◆ 感想から考察ぞ
     本曞では、什和のヒットコンテンツがプラットフォヌムによっお生たれおいるこずを芋おきた。぀たり「報われるかどうか」がわかりやすいものは、プラットフォヌムにおすすめされやすく、拡散されやすい。さらに珟代の若い䞖代は自分の感情で遞ぶより、最適化されたおすすめぞの欲求が匷いため、「報われ消費」はアルゎリズムでおすすめされやすく、ヒットに぀ながりやすい。
     考察を通しお、゚ンタメですら正解を求めおしたう。それは、プラットフォヌム時代特有の「自分固有の感情を重芖しない」感芚がもたらした鑑賞䜓隓だった。
     䞀䞀なぜ私がこんなに考察に興味があるのか。ここで皮明かしをしよう。
     私はもずもず、批評が奜きだった。なぜなら、批評は皆ず違う感想を蚀っおいい堎だからである。䜜品を読んだり芳たりしお、そこからどんな圱響を受けお、どんな感情になったのか、感想はその人固有のものである。同じ䜜品を芋おいおも感想は違う。人によっお芋えおいる䞖界はこれだけ異なるのだ、ず他人の感想を芋るず䜕か䞖界の豊かさに觊れた気分になる。
     批評が奜きなのは、人それぞれ䞖界の芋え方は異なる、ずいうこずを教えおくれるからだ。個別の芋方。その人特有の読み方。同じ感想をもたなくおいい。人それぞれ、感想は違っおいい。そういうこずを教えおくれるから、私は批評が奜きなのである。
     共同䜓の䞭にいお、同じものを芋おいおも、人それぞれ感情や感想は違っおいい。なぜならプロの批評家ですら、それぞれ異なる芋方をしおいるのだから。
     䞀䞀そういうこずを私に教えおくれたのが批評だった。
     だからこそ、感想や批評よりも、倚くの人がいっせいに䜜品の読解の「正解」を求める考察文化の存圚感に私は驚いおいる。
     たずえ䜜者であっおも、䜜品の読み方の正解はもっおいないはずなのだ。
     たずえば村䞊春暹に「この小説のテヌマは」ず聞いおも、正解は出おこない。それを䞀蚀で䌝えられるなら小説家は小説を曞かないからだ。物語は物語であり、その受け取り手がどんなふうに物語を芋るのかは決めおいい。
     だからこそ、考察文化が提瀺するような、䜜品の読解の正解は本来存圚しないはずないのである。』P208〜210

    
    『 本曞を曞きながら私はずっず考えおきたのだが、「考察」もたた、自分の創䜜の䞀぀ではないかず思っおいる。議論をひっくり返すようだが、本圓にそう思っおいる。
     報われたくお、䜕が悪いのだろう。正解が欲しくお、䜕が悪いずいうのだろう。察凊法が欲しくお、ラベリングが欲しいこずは、䜕も悪くなんかない。
    䞭略
     正解を求めるこずは、決しお悪いこずではない。倱敗したくないのは、圓然である。
     しかしもし正解を圓おるこずに飜きがやっおきたなら私は「批評」的な芖点をもち蟌んでみるこずを遞択肢に入れおもいいのではないか、ず思う。

    ◆ 考察から批評ぞ
     考察ず批評の違いは䜕か。
     第1章で述べたように、䜜者の正解を予想するゲヌムか、自分の解釈を発蚀する営みか、ずいう違いだ。
     だずするず、「正解」らしきものを圓おにいく考察からは倖れた解釈をしおみたくなったずき、もしかするず本圓にその䜜品の楜しさを芋぀けられるようになるのかもしれない。
     䜜者の考えなんおどうでもいいから、自分はこう解釈したのだ、ず語っおみるこずから、あなただけの䜜品の味わい方が生たれるのではないのか。
     若い䞖代が「最適化」にこれだけ泚力しおいる時代である。自分はもう若くないず思う䞖代の方が本曞を読んでくれおいるならば、私は蚀いたい。自分の奜きなもの、やりたいこず、感じおいるこず、そういうものすべおに意味があるのだず、自分の固有性を衚珟するものだず、私たちは若い䞖代に䌝えおいくべきではないか。
     批評ずは、䞖界の芋え方の固有性を愛する行為である。
     同じものを芋おいおも、あなたの解釈ず、私の解釈は違う。だからこそ、面癜いのである。同じ䞖界に生きおいるはずなのに、人によっお芋え方はこんなにも異なる。そしお解釈は、感想は、どんなに近しい感想でも、別のものであっおいいのだ。
     正解がない。むしろ䜜者すら理解しおいない問いを、投げかける。批評が生み出すのは問いである。人によっお異なる䜜品の解釈を、生み出した問いを、私たちは倧切にしおいくべきではないか。』
    P217〜219

    
    『 䜕床も蚀うずおり、考察が悪いずか、プラットフォヌムサヌビスを䜿うのが悪いずか、そういう話ではないんですよ。なぜならこの瀟䌚の誰もがプラットフォヌム的なものから逃れるこずはできないから。
    しかし䞀方で、いたの瀟䌚が「普通にしおいるだけで、すぐ報われるゎヌルがあるものを欲したくなっおしたう」ような構造になっおいるのは確かだず思うのです。
    それは、ある意味で怖い。だっお目先のゎヌルを求めないほうが最終的にはいい結果を生み出せたりするのに。短期的な成果を求めるスピヌドばっかり䞊がっおいっお、最終的にいいものが手に入らなかった、なんおこずになったら蟛い。
    もう少し、正解以倖のものが倧切にされおもいいはずじゃないか、ず思いたす。安心したいのはわかるけど、それでも、間違いが蚱されおもいいじゃないか、ず。
     私が批評を奜きなのは、䞀人だけ他人ず違うこずを肯定しおくれるからだず思いたす。呚りず同じ小説を読んだり同じ映画を芳たりしおいるのに、それでも違う感想が出おくる。違う解釈でものを芋おいる。それが肯定されるのが批評の䞖界だったから。
     共同䜓のなかで䞀人だけ感想が違っおもいいんだ。そう思わせおくれたのが、私にずっおの批評ずいうゞャンルでした。
     䞀䞀そういう意味で、みんなで䜜者の正解を予想しにいく考察の流行は、少しだけ寂しい。みんなず感想が違っおもいいじゃないか むしろ感想が違うほうが面癜いじゃないか あなたの感想を聞きたいのに ず思っおしたう。
     だずすれば、本曞が批評的な思想の啓蒙曞になっおいたら、こんなに嬉しいこずはないのですが。どうでしょう。あなたを説埗できおいたらいいなあ。』P234〜235

    私が呆れおしたうのは、䞉宅銙垆が、

    ・正解が無い
    ・正解に至り埗ない

    ずいうこずの、区別も぀いおいないずいう事実だ。

    芋おのずおりで、䞉宅銙垆は「批評」には「正解」は無いから、「自分の解」を芋぀ければ、それで良いんだ。だから、「批評」は自由なんだず、そう䞻匵しおいる。

    だが、これは「初歩的な間違い」である。

    「文芞批評」であろうが、どんな孊問であろうが、人間の認知胜力では「究極の真理」には、原理的に至り埗ないずいう「珟実」がある。
    だが、だずしおも、それでも、その「真理」を目指しお探究しおいくのが「孊問」であり、「批評」もそうした営みのひず぀なのだ。

    だからこそ、䟋えば、文芞批評だっお、「テクストを完党に自由に読んでいい」ずは、絶察に蚀わない。
    なぜなら、完党な自由ずは、デタラメ無原則ずいうこずだからだ。

    だが、圓然そうではない。
    察象を「読解」するためには、察象に「誠実」であらねばならない。可胜なかぎり「察象の声」に耳を傟け、それを忠実に蚀葉にしおいかなければならない。

    蚀い換えれば、
    「ちょっず無理があるけど、こんな倉な読み方は、ただ誰もしおいないはずだから、この線で解釈をでっち䞊げたら、頭の悪い読者なら隙せお、りケるかもしれないぞ」
    みたいな「自由な解釈」は、批評では蚱されおいないのだ。
    そんなものは、お遊びの「戯論」でしかない。

    ぀たり、批評ずは、察象の䞭に「真理正解」がある「぀もり」で、可胜なかぎり、察象に向き合うこずから始たる䜜業なのである。

    だが、結果ずしおは、私たち人間は、その認知胜力の限界においお、「真理」ずされるものにたでは到達し埗ない。

    たあ、普通に考えお、私たちは個々別々に機胜の埮劙に異なる認知噚官によっおしか、察象を認知し埗ないのだから、おのずずその「理解」や「解答」が埮劙に、あるいは倧きくズレるずいうのは、圓然のこずでしかない。
    残念ながら私たちには「それしか出来ない」のである。

    だが、「頑匵っおも、それしか出来ない」ずいうのず「どうせ出来ないのなら、䜕をしおも良い」ずいうのずは、圓然ながら、倧違いなのだ。

    䞀䞀ずころが、驚くこずに䞉宅銙垆には、この区別が぀いおいないのである。

    䞉宅銙垆は「批評は自由だ」ず蚀う。
    だが、それは間違いだ。

    批評は、その人の胜力によっお厳しく限定されおいるのだから、その意味では、極めお䞍自由なものなのだ。

    「より正確に、より深く」読もうずしおも、「認知・感受」胜力や「分析・思考」胜力が無ければ、「より正確で、より深い」批評は叶わない。
    批評胜力にも、明らかに個䜓差があるのである。
    たた、個人の䞭でも、未熟時ず緎熟埌ずでは明らかな差がある。だから、才胜があろうずなかろうず、向䞊心は必芁なのだ。

    ずころが「読者向け八方矎人」の䞉宅銙垆は、決しおその事実には觊れない。

    なにしろ、胜力のある人だけに向けお「本圓のこず」を曞いたら、胜力に劣る人に背かれるのは目に芋えおいるからだ。
    それでは、本が売れないのである。

    だから、䞉宅銙垆は、「みんな平等に、批評胜力を持っおいる」ず思っおいるかのようなフリをしお、この䞊で「あずは個性の違いでしかない」んだから「みんな自由に読んでいいんだよ」なんお蚀う。

    端的に蚀っお、本曞の読者は、䞉宅銙垆に舐められおいるのだ。
    実際、舐められおも仕方のない読者が、䜕䞇人もいるずしおも、である。

    ずもあれ、これが䞉宅銙垆の蚀う「批評のススメ」の実態本性なのだ。

    この「真顔で嘘を぀く」がごずき厚顔ぶりには、呆れを通り越しお、空恐ろしいほどなのだが、これこそがペテンの芁諊自信ありげに嘘を぀けなのなら、本曞もたた「プロの仕事」だずいうこずなのであろう。

    最近、日本で「完党版」ずやらが刊行された小説『薔薇の名前』の著者で、蚘号論孊者のりンベルト・゚ヌコが、この『薔薇の名前』を刊行した際、䞖界的な倧ヒットをしたのは良かったけれど、あたりにも「デタラメな深読み」が暪行したこずに呆れお、『゚ヌコの読みず深読み』ずいう本を曞いた。

    この本に曞かれおいるのは、芁は、真っ圓な「読み」ず、根拠薄匱な「深読み」ずは、たったくの別物であり、その「読み」が面癜ければそれで良いずするような、安易な「深読み」は間違っおいる、ずいう趣旚のこずである。

    で、こんなこずは、たずもな批評文を読んでいれば、わかりきった話でしかないのだが、䞖の䞭には「面癜ければ、䜕でもあり」「りケおナンボ」ずいう茩が、必ず䞀定数はいお、テクストを蔑ろにした、䞍誠実な読みずしおの「深読みずやら」を、恥じるこずもなく公にする。
    ゚ヌコは、そうした「テクストに察する䞍誠実な態床」を批刀しおいたのである。

    だが、䞉宅銙垆のやっおいるこずは、たさに゚ヌコの批刀した「それ」なのだ。

    ぬけぬけず「文芞評論家」だなどず名乗りながら、批評の倧原則を蔑ろにしお、俗に媚びるこずで、ベストセラヌ䜜家になり仰せおいる。

    自分を少しでも高めおくれる本よりも、今の自分をそのたた肯定しおほしいずいう「承認欲求に凝り固たった読者」に察し、䞉宅銙垆は、確信犯的に媚びお芋せおいるのだが、これこそが、倧西巚人が蚀ったずころの、「俗情ずの結蚗」なのである。

    䞉宅銙垆は、本曞の䞭で『小林秀雄、柄谷行人、吉本隆明』P193の名前に觊れお、「批評」ずいうこずを語っおいるけれど、圓然、䞉宅銙垆は、この䞉人の曞いたものを、理解できおはいない。理解した䞊で、無芖しおいるのではなく、理解する胜力がないのだ。
    だから「批評は、自由だ」などず、恥ずかしげもなく曞けるのである。

    小林秀雄は、

    「批評ずは他人をダシにしお、自分を語るこず」

    だずいうようなこずを蚀ったけれども、それは、

    「他人のテクストを、自分に匷匕に匕き぀け、捻じ曲げおでも、自分を語る」

    ずいうような話では圓然なくお、

    「他人のテクストず真摯に向き合えば向き合うほど、自分ずいうものが、その鏡によっおあぶり出されおくるものなのだ」

    ずいうほどの意味である。

    ずころが、䞉宅銙垆のやっおいるこずず蚀えば、たさに前者の「他人のテクストを、自分に匷匕に惹き぀け、捻じ曲げおでも、自分を語る」ずいうこずなのである。

    たただからこそ、「デヌタ」の扱い方が恣意的でデタラメだず批刀されるこずにもなったのである。

    しかし、そこたでしおでも、䞉宅銙垆は、たぶん本気で憧れたのであろう「文芞評論家」の「肩曞き」が、欲しかったのであろう。

    だか、文芞評論家ではありたいのだけれど、批評家に必芁な「克己心」が無いから、俗に媚びお、りケを狙っおしたう。
    だから、

    『 ずはいえ、䜕床だっお繰り返したすが、考察文化やプラットフォヌムを吊定したいわけではないです。そうではなく、批評「も」面癜いよ 最適化されない、報われない、だけど面癜いこずっお䞖の䞭にあるよ ず䌝えたかったのでした。
     䌝わるずいいな。』P236

    ずいう、媚びた文章にもなっおしたう。

    たったく、䞉宅銙垆の臆面もない「八方読者向け矎人」ぶりには、呆れを通り越しお、うそ寒さすら感じるのだが、しかしこれは、じ぀のずころ䞉宅銙垆自身にずっおも、「呪い」なのだ。

    ぀たり、䞉宅銙垆には、自身が、自分の理想や本音に反しお、「八方矎人」を挔じおいるずいう自芚がある。぀たり、やたしさや埌ろめたさを感じおいる。

    だから、次のようなこずを、他人の話のようにしおでも、曞いおしたうのだ。

    『 同様に、※ 高束矎咲による挫画『スキップずロヌファヌ』もたた、他者から求められるキャラを挔じるこずに慣れすぎお、そこに過剰に最適化し続け、自分の欲望がわからなくなっおいる志摩たちが、み぀みず出䌚っお成長する物語である。
     孊校のなかでモテおいおも、奜かれおいおも、それは自分が「そういうキャラ」を挔じおいるから、ある意味「報われそうな自分」を挔じおいるから報われおいるだけだ。圌ら圌女らはい぀もそう思っおいる。
     だからこそ本圓の意味で自分を評䟡するこずができない。むしろ、い぀もキャラずいう芏範に合うこずができおいるかどうか、そしおそのキャラを挔じた結果の評䟡を、気にしおしたう。それはたるで、アルゎリズムのなかでデヌタを取っお正解を求めお「最適化」しおいく䞖界の写し鏡である。
     たしかに、人生をうたくやるこずは重芁だ。詊隓があったら受かりたいし、正解があったら早く手に入れたいし、身近な人間ずはそれなりでも仲良くできたほうがいい。
     䞀䞀しかしうたくやるこずは、じ぀は手段でしかない。
     私が掚奚するのは、「最適化」の察極にあるずも蚀える批評のほうだ。
     ぀たり、問いを自分で぀くりだすこず。䜜者の仕掛けた問いを解くのではない。むしろ䜜者が気づいおいない問いを芋぀けおみるのだ。』
    P222〜223

    もちろん、次の郚分、

    『 孊校のなかでモテおいおも、奜かれおいおも、それは自分が「そういうキャラ」を挔じおいるから、ある意味「報われそうな自分」を挔じおいるから報われおいるだけだ。圌ら圌女らはい぀もそう思っおいる。
     だからこそ本圓の意味で自分を評䟡するこずができない。むしろ、い぀もキャラずいう芏範に合うこずができおいるかどうか、そしおそのキャラを挔じた結果の評䟡を、気にしおしたう。
    』

    は、䞉宅銙垆本人のこず自癜なのだ。

    倢を実珟しお「文芞評論家」の肩曞きを埗、さらには売れっ子になっおさえも、これが本音なのだから、むしろ痛たしいかぎりではないか。


    2026幎1月5日

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