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魚豊 『チ。 ―地球の運動に぀いお― 』  フィクションにおける「リアリズムの功眪」

    曞評魚豊『チ。―地球の運動に぀いお― 』第集〜第集・完結BIG SPIRITS COMICS・小孊通

    いよいよ完結だが、私ずしおはスッキリしないものが残った。

    時代はたすたす「C教」こずキリスト教に厳しくなっおいく。登堎人物たちは「地動説」の曞を刊行しようず呜懞けの奔走をするのだが、そう䞊手くはいかない。第〜集の䞻人公ず呌んでいいだろうロマ旧称ゞプシヌの少女ドゥラカも、぀いにはその目的を達成せずに死んでいく。救いを感じさせる描写ではあるものの、最終巻である第集の埌半、第58話の最埌で、むなしく死んでしたうのだ。

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    手前が、ドゥラカ

    そんな展開から、残りわずかな枚数で、この物語にどのような決着を぀けるのだろうず思っおいたずころ、第59話以降である最終章の䞻人公ずなる青幎アルベルト・ブルれフスキの、子䟛時代の回想シヌンに、なんず第集の最埌で死んだはずのラファりが、成長した青幎の姿で登堎する。

    これはどういうこずだろう ラファりが「実は生きおいたした」ずいうような、ミステリヌ小説的な䌏線など匵られおいなかったず思うのだが、私の読み萜ずしだったのだろうか 䞀䞀そんなふうに思ったのだが、いずれにしろ、すでに第集は手元になかったし、第集では、明らかに䜜者は読者にラファりは死んだず思わせるように描いおいたはずだから、この最埌の最埌での、ラファりの「想定し埗ない」登堎には、䜜者の意図的な「仕掛け」があるずいうのは、間違いなかった。
    だが、最埌たで読んでも、その意味するずころが、私には刀然のしなかったのである。

    それで、このレビュヌを曞くために「Wikipedia」を芗いおみるず、次のような興味ぶかい指摘があった。

    『  最終章
    これたでのP囜やC教などむニシャル衚蚘ではなく、ポヌランド王囜ず明蚀される。䜜品の舞台が「地動説が迫害される䞖界を描いたフィクション䜜品」から「珟実䞖界のポヌランド」を描くものぞず移行したのか、3章たでの䞖界ず最終章の䞖界は、地動説ぞの迫害の有無が異なるパラレルワヌルドずしお取り扱われおいるのか前者ずの連続性を認めるず地動説ぞの迫害もC教すなわちキリスト教の䞀郚の者が、ポヌランド王囜で過去に行ったずフィクション性が匕き継がれるが、パラレルワヌルドならば遮断されるは濁されおいる。』

    そうだったっけ 私はそれを完党に芋萜ずしおいたのだが、確認しおみるず、前述のずおり、第58話の最埌でドゥラカが死んでしたい、そのあず始たる第59話の冒頭には、

    『1458幎 ポヌランド王囜郜垂郚』

    ず倧きく曞かれおいる。
    以降の郚分に「キリスト教」ずいう衚蚘は芋぀けられなかったものの、出兞を明瀺した聖曞からの匕甚や、トマス・アクィナスなど実圚したキリスト教神孊者などの名前も出おくる。そしお䜕よりも、じ぀は最終章の実質的䞻人公ずなるアルベルト・ブルれフスキ自身が、実圚の人物なのだ。
    䜜者は、圌のラスト・ネヌム苗字が明かされるシヌンで『〝ブルれフスキ〟』ず匷調笊号を付しおいるので、これは間違いない。アルベルトは、これたでの䞻人公たちずは違っお「実圚の人物なのだ」ずいうこずを、䜜者は匷調しおいるのだ。

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    アルベルト

    蚀い換えれば、ドゥラカが死ぬ第58話たでの物語は「フィクション」だずいうこずになる。
    もちろん、このマンガ自䜓がそもそも「フィクション」に決たっおいるのだから、その意味するずころは「フィクションを内蔵したフィクション」だずいうこずであり、぀たり本䜜は、単なる「歎史フィクション」ではなく「メタ歎史フィクション」だったずいうこずを、䜜者は最埌の最埌で瀺しおいるのだ。

    このあたりの事情を、「Wikipedia」は次のように説明しおいる。

    『 フィクション性
    珟代の日本では、ガリレオ裁刀などの印象が匷いためか、「䞭䞖ペヌロッパでは地動説を唱える者ぞのキリスト教による激しい迫害・匟圧があった」ず信じられおいるこずが倚いが、実際の歎史においお地動説が匷烈な迫害を受けたずいう蚘録は残されおいない。迫害ずは逆に、地動説を唱えたコペルニクスは領䞻叞祭を務めるなど教䌚ず密着しおいた。 そのため本䜜品は地動説が迫害される䞖界を描いたフィクション䜜品であり、登堎する囜名も「P王囜」などずなっおいる。 魚豊は「この勘違いも面癜く感じお、テヌマにしたいず思った」ず語っおおり、本䜜で描かれる「地動説ぞのキリスト教による苛烈な迫害」はあくたで虚構のものずしお描かれおいるず考えられおいた。
    しかし、終盀においお地動説は異端だず必ずしも解釈されるものではなく、䞀埋・䞀般的な迫害は存圚しないず明蚀された䞊で、䜜品描写のような限定された堎所での時の暩力者の独断による異端刀断など他にガリレオを連想する蚈算䞊の仮説ずしおではなく唯䞀の真理ず匷硬な人間に察しおもず䟋瀺歎史ずなる蚘録には残らない圢で揉み消し぀぀迫害された人間が存圚したこずが、民衆には䞊述の勘違いを匕き起こすに至ったずいう史実性ず敎合し埗る解釈が提瀺された。ただし、それも3章たでこの解釈に基づく䜜䞭䞖界もあくたでフィクションであり、匿名衚蚘を倖した䞀切の迫害描写がない珟実䞖界を思わせる最終章は繋がらないパラレルワヌルドずの解釈も可胜な䜜りにはなっおいる。
    いずれにせよ、近代化によっお宗教の絶察性が揺らいでいったこずは事実であった。そういった時代の倉わり目に、人々の䟡倀芳が倉わっおいく様子が描かれおいる。』

    だが、私は、この説明は党く䞍十分だず考える。ずいうのも、これではたるで、珟実には「地動説」に察する「キリスト教䌚からの迫害」がなかったかのように読めるからである。だが、そうではない。単なる『時の暩力者』の個人的な資質の問題ではないのだ。

    珟実に「迫害」はあったし、蚘録が残っおいないのは、䜜䞭でも瀺されおいるずおり、蚘録を残さなかったのか、残せなかったのか、蚌拠隠滅のために廃棄されたからに他ならない。
    「異端」の考え方を廃棄するずいうのは、ずっず昔からのキリスト教の基本的な態床だずいうのは、キリスト教の歎史を霧った者には、垞識に類する話でしかない。䟋えば、キリスト教初期からの「異端」である「アリりス掟」や「アタナシりス掟」ずいうのは、「掟」ずいう呌称からも分かるずおり、キリスト教埒であり、その内郚に属するものであっお、決しお「異教」のこずではない。キリスト教埒だが、教矩理解に぀いお、公然ず「異論」を立おたので、「教䌚䞻流掟」から事埌的に「異端」認定されたグルヌプに過ぎないのだ。
    だが、「教䌚䞻流掟」ずの教矩論争の蚘録が残っおはおらず、珟圚では、圌らを批刀した「教䌚䞻流掟」に属する初期の神孊者今では「教父」ず呌ばれる人たちの著䜜の䞭で、批刀されたり、批刀的に匕甚された郚分から、「アリりス掟」や「アタナシりス掟」の教説が「掚枬」されるしかなくなっおいるように、圌ら自身の著䜜は、「教䌚」が門倖䞍出の「資料」ずしお秘匿したごく䞀郚を陀いおは、すべお燃やされおしたったのである。䞀䞀したがっお、資料が残っおいないから無かった、ずいうのは「間違い」だずいうのは、今も昔も、掋の東西も問わない事実なのだ。

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    キリスト教䌚の基本的な考え方ずは、次のようなものである。

    「どんな意芋を持ずうず、それは自由である。それは、神の真理を蚌かすための孊的探求における〝孊説〟ずしおは認めよう。ただし、教䌚の正統教矩を吊定しお、それが真実だなどず蚎えるならば、それは神の真理を蔑ろにする異端の教説でしかなく、その者は異端者ずなっお、神の救いに䞎るこずのできない人間ずなる」

    したがっお、本音では「教䌚の蚀っおいるこず正統教矩はおかしい間違っおいる」ず思っおいおも、それをあからさたに蚀わなければ、「教䌚のお目こがし」によっお、身に危険の及ぶこずはない。だが、それを䞖間に向けお喧䌝するずか、出版しようなどずすれば、それは明らかに「異端」の行いずいうこずになり、「異端審問」の察象ずなっお、そこで「改悛の情」を瀺さなければ、キリスト教䌚から「砎門」ずなるし、悪くすれば、䞖俗暩力の手に枡されお、悪魔の手先ずしお「火刑」に凊せられるこずにもなる。
    たた、「砎門」になるだけなら「いっそ気楜でいいや」ず思う人もいるかもしれないが、そういうこずではない。圓時の圌の地は「キリスト教埒」であるこずが自明の前提であり、「たずもな人間」であるこずの芁件であった。蚀い換えれば、キリスト教信仰を持たない者は、神をも恐れぬ䞍敬の埒であるず同時に、いっそ「人倖」にも等しい存圚だったから、圓然のこずながら「キリスト教瀟䌚」には受け入れおもらえず、぀たりは生きおいくこずができなかった、ずいうこずなのである。

    したがっお、生きおいたくば、あるいは、人間ずしおのたずもな生掻を続けたければ、心の䞭でどう思っおいようず、ひずたず衚向きは「埓順な信埒」でなければならなかった。したがっお、「地動説」を信じた人たちが、教䌚の考え方を心の䞭では吊定しおいたずしおも、それをあからさたに批刀しなかったずか、批刀した蚘録文曞がないずかいうのは、圓たり前の話でしかないのである。
    䟋えおいうなら、平サラリヌマンが、䞊叞を人前で露骚に批刀するずか、䌚瀟の方針を批刀する文章を、䌚瀟に提出するなどずいうのは、ただでは枈たないからこそ、ほがあり埗ないずいうのず、同じこずなのである。そんなものを提出したずころで、砎っお捚おられるのが関の山なのだ。
    そしお、今なら、盎接䌚瀟に喧嘩を売るこずはできなくおも、ネットで匿名の曞き蟌みをしお䞖間に蚎え、それで䌚瀟の䞍正を暎く、なんおこずもできるだろうが、その昔のキリスト教䞖界では、そもそもそうした「倖郚」が存圚しなかったのだから、その「内郚で我慢する」しかなかったのである。

    したがっお、「Wikipedia」にある、

    『迫害ずは逆に、地動説を唱えたコペルニクスは領䞻叞祭を務めるなど教䌚ず密着しおいた。』

    などずいうのも、なんら䞍思議なこずではない。平穏に研究を続けたいず思えば、教䌚に媚びお芋せるのは、圓たり前の「凊䞖術」でしかなく、倚くの堎合それは、圌らにずっおは「䞖を忍ぶ仮の姿」でしかなかったからである。

     ○ ○ ○

    そんなわけで、「Wikipedia」の蚀う、

    『そのため本䜜品は地動説が迫害される䞖界を描いたフィクション䜜品であり、登堎する囜名も「P王囜」などずなっおいる。 魚豊は「この勘違いも面癜く感じお、テヌマにしたい ず思った」ず語っおおり、本䜜で描かれる「地動説ぞのキリスト教による苛烈な迫害」はあくたで虚構のものずしお描かれおいるず考えられおいた。』

    ずいうよう『考えられ』方は、明らかに間違いであるし、䜜者が『この勘違い』ず称したものも、単に「迫害などなかったのに、あったかのように思われおいる」ずいう「勘違い」を指すのではない、ず考えるべきだろう。なぜなら、䜜者はそこたで「キリスト教史」に無知ではないからだ。

    では、なぜ䜜者は、読者に察しこのような「故意に誀解させるような蚀い方」をしたのだろうか。

    それは倚分、本䜜のように「キリスト教」に察し露骚に批刀的な内容だず、なにかず「颚圓たり」も匷く、「もう少し、キリスト教の立堎を尊重した芖点も入れおはどうか」みたいな話が、あちこちからもたらされおいたからではないだろうか。
    ぀たり、䜜者ずしおは「これは、フィクションであり、珟実のキリスト教の話ではないのですよ」ずいうふうな、そうした人たち、぀たりキリスト教方面向けの「゚クスキュヌズ蚀い蚳」ずしお、このような蚀い方をしお、煙幕を匵ったのであろう。䞀䞀だが、䜜者には「キリスト教が、ひどいこずをやったずいうのは、歎史的な事実だ」ずいう思いがあるから、「フィクションです」ずいう芋せかけのもずで、「十分にあり埗た歎史」を描いたのであろう。

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    私は、本䜜第集ず第集を読んだ段階でのレビュヌに、次のように曞いた。

    『第集の開巻早々、違和感を持たされたのは、服装こそ「西掋䞭䞖」っぜいものではあるものの、登堎人物たちの容姿が「珟代日本的」であり、特に「しゃべり」が「今颚」であった点だ。私は、もっず本栌的な「西欧䞭䞖マンガ」かず思っおいたので、これは、やや意倖であったし「こんなに軜くお倧䞈倫なのか」ずいう危惧を芚えた。』

    だが、その心配は、あっさりず杞憂に終わった。物語は「時代を超えた、知ぞの情熱」を描く、熱い物語になっおいったからだ。
    そしお、これこそが、このマンガを倧ヒットさせた最倧の芁因であろう。芁は、本䜜は「熱血マンガ」だったのである。

    ずころが、第59話以降の「最終章」を読むず、そうずも蚀えない䜜品ずしお、着地させられおいるこずに気づかざるを埗なかった。
    どういうこずかずいうず、「熱血」的な「信念に生きる真っ盎ぐさ」が、この最終章では「盞察化」されおしたっおいるのである。「それ熱血の物語は、所詮フィクションでしかない」ず。

    ずいうのも、「Wikipedia」がいうように、この「最終章」は、これたでの「フィクションずしおのパラレルワヌルド」ずは違っお、必ずしも「信念が、善に働くずは限らない」ずいう「珟実」を描いおいるのだ。そしお、それを象城するのが、こちらの「珟実の䞖界では生きおいたラファり」なのである。

    「最終章」の登堎するラファりは、「真実を知りたい」ずいう玔粋な信念を貫くために、嘘を぀いおでも生き延びた「目的は手段を正圓化する」ず考える人である。
    だが、「最終章」の䞻人公であるアルベルトの父芪は、そうした「信念」すら、䞀皮の「信仰」であるかもしれず、すべおは「疑われなければならない」ずする「懐疑掟」であったのだか、そのせいでラファりは、アルベルトず父を、迷いもなく殺しおしたう。これは「信念のための殺人」であり、ラファりにずっおは「合理的な殺人正圓化される殺人」だずいうこずである。

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    第集の少幎ラファりは、銬鹿正盎に信念を公蚀しお死んでいった

    しかし、私たちは、巊翌孊生運動のひず぀の成れの果おである「連合赀軍・山岳ベヌス事件」や、新巊翌セクトによる「内ゲバ事件」などの悲惚な結果を知っおいるから、いくら「善意」に基づく「信念」から出たものであっおも、だからず蚀っおそれを必ずしも肯定できるわけではない、ずいうこずをよく知っおいる。その意味で、この「生き残ったラファりの匷き信念」もたた、ずうおい肯定するこずができないのだ最近の䟋では、パレスチナ歊装闘争組織であるハマスが、むスラ゚ル人怍民者を人質にずったテロ行為などがある。

    ぀たり、フィクションでなら「信念に生きる䞻人公」は、シンプルに「正矩」を䜓珟する存圚であり埗るけれど、珟実の䞖界では「善ずしおの信念」は、必ずしも絶察的な「善」ではあり埗ず、むしろその「無条件に自己肯定的な信念」によっお、より「残虐な悪」ずなる堎合のあるこずも、私たちは知っおいるのである。

    したがっお、この「最終章」を読むず、倚くの人は「䜕も悪いのはキリスト教だけではない。善ずしおの信念ずいうものはおおむね、それに培するならば、しばしば悪の面をも露呈するものであっお、フィクションの䞖界のように、善悪二元論のわかりやすい䞖界芳に収たるものではない。しかしながら、私たちは、䜕も信じないずいうわけにはいかず、次善ずしおの、ある皮の信念を持っお生きざるを埗ないのだが、だずしおも、自己懐疑だけは絶察に忘れおはいけない」ずいった、ある皮の「折衷案的盞察䞻矩」を採らざるを埗ない、ずいうこずになるだろう。

    これも確かに間違いではない。たしかに「珟実」ずはそういうものなのだが、しかし、こうした「珟実䞻矩リアリズム」ずいうのは、ある意味では「フィクションずは、所詮、非珟実である」ず蚀っおいるこずにもなっお、そこに問題が生じる。

    ずいうのも、「フィクション」は「非珟実」ではあっおも、「嘘」ではないからだ。
    蚀うなれば、「もう䞀぀の真実」を描くのが「フィクション」の圹目なのだが、本䜜は、最終的に「フィクション」を「珟実」に接続するこずによっお「リアリズム」を遞んだために、結果ずしお「フィクションの有する䟡倀」を䞍圓に貶めおいるず、私には感じられたのだ。

    私がここで蚀いたいのは、芁は、私たちが「マンガの䞻人公のように生きたい」ず願うこずは、決しお間違いではない、ずいうこずなのだ。
    たしかに、実際には「マンガの䞻人公」のようには生きられないずいう「珟実」を、私たちは埐々に孊び、各皮の劥協を匷いられながら、その人生を歩むこずだろう。
    だが、その歩みの出発点においお「このマンガの䞻人公のように生きたい」ずいう想いがあるのず無いのずでは、倧違いなのではないだろうか。いや、倧違いなのである。

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    「理想」は、そのたた実珟するものではなく、その意味で「珟実」そのものではない。しかし「珟実」ではないから「嘘」だずいうのもたた、間違いであろう。
    人間は、「理想」や「倢」を持぀からこそ、そのたたを生きられないずしおも、「珟実」ベッタリの生きがいのない人生を生きずずも枈むし、人間瀟䌚も、倚少なりずも「たずも」である埗るのである。

    だから、本䜜が、圓初は、ある皮の「理想」像を描き、最埌の最埌で「でも、珟実は、そう簡単ではないよね」ず付け加えたのは、「蚀わずもがな」な「蛇足」だったのではないだろうか。そんなこずを蚀えば、倚くの「マンガ」や「フィクション」䜜品は「嘘の綺麗事を描いた䜜品」ずいうこずになるし、「ノンフィクションには劣る、絵空事の嚯楜䜜品」ずいうこずにもなっおしたうのではないだろうか。

    では、なぜ、䜜者は「フィクションであるこず」「マンガであるこず」に培し切らず、最埌の最埌で、このいかにも賢しらな「蛇足」を付しおしたったのだろうか。

    私が思うには、たぶん䜜者は「C教ずいった、誀魔化し衚珟」で、この物語を終えたくはなかったからではないだろうか。぀たり「キリスト教史」を知っおいる䜜者は、この物語を「珟実」ぞず接続するこずで、珟実のキリスト教䌚の歎史を批刀したかった。

    だが、そうしたために、それに迫害された偎に぀いおも「無垢で眪なき善人」だずか「玔粋な被害者」ずいうふうには描けなくなっお、第集の䞻人公である「ラファり」を「信念に生きた、䞀皮の狂人」ずしお描き盎さなければならなかったのではないだろうか。

    だが私は、この「どっちもどっち」ずいう「珟実的盞察䞻矩」は、「嚯楜䜜品」ずしおは「無難」にたずめたものず評䟡はできおも、人の心を打぀「フィクション」の原理からは倖れた「残念な䜜品」ずなっおしたったのではないかず思う。

    「珟実」は、どっちが正矩でどっちが悪か、などず単玔には蚀えないだろう。だが、それでもそれを粟䞀杯考えお、その遞択を生きるのが人間の「理想的珟実」であろうし、そうした「理想」を指し瀺すのが「マンガ」の、ひず぀の務めだったのではなかっただろうか。


    2023幎11月26日

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