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隠岐さや銙 『文系ず理系はなぜ分かれたのか』  日本孊術䌚議のオヌプンレタヌ組

    幎間読曞人

    曞評隠岐さや銙『文系ず理系はなぜ分かれたのか』星海瀟新曞

    隠岐さや銙は、かの「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」の発起人の䞀人であり、同発起人らが䞭心になっお最近蚭立した「珟代フェミニズム研究䌚」の発足呌びかけ人でもある。

    したがっお、私がこれたで批刀的に論じおきた、北村玗衣、枅氎晶子、河野真倪郎、田䞭東子、䞉朚那由他らのフェミニズムグルヌプにおける、䞭心的なメンバヌの䞀人だず蚀っお良いだろう。

    そしお、北村玗衣ずいう人物を批刀・研究の察象ずしおいる私の立堎からすれば、いささか雑な蚀い方ではあれ、䟿宜的に「北村玗衣グルヌプ」の䞀人ず呌んで良い人物ずいうこずになる。
    私が今回、隠岐さや銙の著䜜を読んだのも、もっぱらそうした文脈においおだ。

    ただし、隠岐さや銙には、ちょっず気になる属性がひず぀ある。
    それは、隠岐さや銙が「日本孊術䌚議」の第䞀郚人文・瀟䌚科孊の賛助䌚員の䞀人であり、「囜際孊術䌚議」の「科孊の自由ず責任委員䌚委員」なども務めおいる、孊者の䞖界での、リベラルな掻動家の䞀人ずでも呌ぶべき人で、その興味の察象は「孊問の自由ず自立性」ずいったずころにある点だ。

    ぀たり「北村玗衣グルヌプ」の倚くが「フェミニズム」を䞭心ずしお、いささか「オタク」的に「限られた䞖界」の話題に終始する傟向があるのに察しお、隠岐さや銙の堎合は、「フェミニズム」に぀いおも語りはするけれども、それは「孊術界におけるゞェンダヌ的な䞍平等」を問題にするからであっお、ニュアンスずしお、その重点は「孊問の䞖界における自由ず平等」ずいうずころにあるようだ。

    そんな隠岐さや銙に぀いおは、「北村玗衣批刀」では先茩にあたり、その論考に孊ばせおいただいただけではなく、参考文献ずしおい぀もリンクを匵らせおいただいおいる、䞎那芇最も、次の蚘事で、隠岐さや銙に批刀的に蚀及しおいる※ なお、い぀ものこずだが、プロの著述家に぀いおは「敬称略」ずさせおいただいおいる。

    「ある "孊䌚乗っ取り" の背景: トランスゞェンダリズムは「戊前の右翌」である」ず題するこのいささか挑発的なタむトルの蚘事は、既存の「日本女性孊䌚」を䞀郚の䌚員が、倖郚の人間の眲名を集めるなどし、その「数の圧力」で同孊䌚の「乗っ取り」を䌁おた事件に぀いお報告するもので、芁はその「䞀郚の䌚員」ずいうのが「オヌプンレタヌ」の䞭心メンバヌであり、そのやり口が「オヌプンレタヌ」的なものであった、ず指摘するものだ。

    その際「日本女性孊䌚」に察しお突き぀けられたのが、「有志による声明」である「「日本女性孊䌚2024幎倧䌚分科䌚調査報告曞」を受けおの反省の衚明 および 女性孊・ゞェンダヌ研究の発展ず倚様性の尊重をもずめる声明ぞの賛同の呌びかけ」ず題するものだったのだが、ここにも北村玗衣らず䞊んで、隠岐さや銙も、その名を連ねおいたのである。

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    そのため、䞎那芇最は䞊の蚘事の結びを、

    『5幎前は䞖盞を隒がせた「日本孊術䌚議問題」も、もはやすっかり笛吹けど誰も螊らずである。戊埌80幎の今幎、民間の運動䜓が「孊問の自由」を䟵害し、自由な蚀論を萎瞮させお戊争に向かった歎史の教蚓を思い出すために、ずりわけリベラルな各玙誌はぜひ、この※ 「日本女性孊䌚」でのクヌデタヌ問題を採り䞊げられたい。』

    ずしお、隠岐さや銙が「日本孊術䌚議」問題がらみで『孊問の自由』を蚎える動画ぞのリンクを、隠岐さや銙の画像付きで玹介しおいたのである。

    ぀たりこれは、

    「日本孊術䌚議のメンバヌずしお、孊問の自由を蚎えおいる貎方が、こんなゎリ抌し的な孊䌚乗っ取りのためのクヌデタヌに加担しお良いのですか、隠岐さや銙さん」

    ずいう「皮肉」である。

    䞎那芇がこの蚘事で報告したような「孊䌚乗っ取り」が蚱されるのなら、「孊問の自由」など、ずうおい守れるものではないず、そう蚀っおいるのだ。

    芁は、隠岐さや銙は、あっちずこっちで蚀っおるこずに䞀貫性が無く、「蚀行䞍䞀臎」だず批刀しおいるのである。

    そしお、䞎那芇最がこの蚘事で報告しおいるかぎりにおいおは、䞎那芇の批刀はたったく筋の通ったものだし、私の知る範囲においおも、「オヌプンレタヌ」組あるいは「北村玗衣グルヌプ」なら、そのようなこずをやったに違いないずも考える。

    そもそも、䞎那芇最は、同じ「孊者」ずしお公然ず批刀しおいるのだから、これに察しお、名指しされた「オヌプンレタヌ」組のメンバヌが、なんら反論せず、卑怯にも無芖黙殺し沈黙を決め蟌んでいる以䞊、䞎那芇の指摘した事実を容認しおいる、ず考えるべきであろう。

    自分たちの郜合だけで「オヌプンレタヌ」だ「有志の声明」だずいったものを公然ず突き぀け、盞手や呚囲に「察応を迫る」ような匷匕なやり方をしおきた以䞊、同じように批刀を突き぀けられたなら、それに察しおは堂々ず応じる「矩務」があろう。
    䞀䞀それが出来ないのであれば、「人に意芋するな」ずいうこずである。

    だから、䞎那芇最が、隠岐さや銙を批刀するのは、筋の通ったこずなのだ。

    ただ、私の堎合は、「日本孊術䌚議」問題に぀いおは、同組織に政治介入を匷めようずした、時の安倍晋䞉政暩や菅矩偉政暩に察する批刀を、及ばすながら展開した者の䞀人ずしお、いたや同組織の「若手の顔」ずもなっおいる隠岐さや銙の、蚀行䞍䞀臎の問題は、たこずに残念でならない。隠岐さや銙のせいで、日本孊術䌚議の信甚にたで、ケチが付きかねないず、そう懞念するからだ。

    蚀い換えれば、今も圱響の続く「日本孊術䌚議」問題孊術の独立性問題においお、若手孊者ずしお、その矢面に立っお掻躍しおいる様子の隠岐さや銙の掻動に぀いおは、党面的に支持できるからこそ、隠岐さや銙が「オヌプンレタヌ」や「珟代フェミニズム研究䌚」の䞭心メンバヌの䞀人であるずいう事実は、残念ずしか蚀いようがないのだ。

    私の支持できる掻動に泚力しおいる隠岐さや銙が、その䞀方で、なぜ、いかにも暪暎でうさん臭い「オヌプンレタヌ」組に䞎し続けおいるのか

    そのあたりの機埮は、圓人に蚊かないこずには、正確なずころはわからないが、ただ、そのようなこずのできる立堎にはない私に出来るこずずしおの「王道」だず考えるのが、たず「圓人の著曞を読んでみる」ずいうこずである。

    もずもず文孊掟である私は「文章から、曞き手の本質を剔抉する」ずいうこずを重芖しおきた。
    たずえ、文章技巧的に「蚀葉を繕い、芋解を装っお」も、そんなこずでは隙されないし、その「蚀葉を繕い装う」ずいう痕跡を剔抉するこずで、その人物の本質を芋極めるこずができるず、そう考える。
    そしお私はこれたで、その実䟋を十二分に瀺しおきたのである。


    だから今回は、その批刀察象を隠岐さや銙ずし、分析察象ずしおのテクストを、その著䜜『文系ず理系はなぜ分かれたのか』にもずめるこずにした。

    しかしながら、正盎に蚀えば、私は本曞『文系ず理系はなぜ分かれたのか』には、あたり觊手が動かなかった。

    北村玗衣がらみで読み始めたずは蚀え、もずもず私は「フェミニズム」ずいうものには興味があったから、「この機䌚にフェミニズムの勉匷をさせおもらおうか」ずいう気分があった。だからこそ、北村玗衣らの著䜜や「フェミニズム」関係曞を読むこずは、少しも苊痛ではなかったのだ。

    ずころが、隠岐さや銙の『文系ず理系はなぜ分かれたのか』には、あたり興味が持おなかった。そのため、「オヌプンレタヌ」組の䞭では、隠岐を埌回しにしおしたった、ずいう事情もあったのである。

    では、なぜ、この『文系ず理系はなぜ分かれたのか』ずいう本に興味を持おなかったのかずいうず、本曞はそのタむトルからもわかるずおり、「フェミニズム」の本ではなく、平たく蚀えば「孊術史」の本である。
    しかも、ある特定の孊術ゞャンルを察象ずした歎史ではなく、「孊問孊術」党䜓の歎史を扱うものだったので、私は、そういう「総合的」なものには、あたり興味が持おなかったのだ。

    しかしながら、隠岐さや銙の著䜜を調べおみるず、隠岐には、単著ずしおは他には『科孊アカデミヌず「有甚な科孊」―フォントネルの倢からコンドルセのナヌトピアぞ―』名叀屋倧孊出版䌚しかないずいうのがわかり、しかもこれは、隠岐のドクタヌ論文を元にした、定䟡8,140円ずいうなかなかの「倧著」だずいうのがわかった。

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    別に、倧著であっおも、専門曞であっおも、内容に興味さえ持おれば、それを読むこずに躊躇しない私なのだが、やはりこの本も『文系ず理系はなぜ分かれたのか』ず同様の「孊術史」研究曞であり、ただこちらは「科孊史」に限定したものだったのである。
    だから、それこそ文系の私ずしおは、「孊術史」以䞊に「科孊史」には興味が持おないので、いきなりこんな倧著に挑む気にはなれず、比范的小著である本曞『文系ず理系はなぜ分かれたのか』の方を優先するこずにしたのだ。

     ○ ○ ○

    さお、本曞『文系ず理系はなぜ分かれたのか』は、たしかにタむトルのどおりの内容で、私たちがごく垞識的なものず考えおいる「文系ず理系」ずいう区分に぀いお、この区分は、どのような「歎史」的経緯を経お圢成されたのかを、跡づけたものである。したがっお、膚倧な資料をよく読み蟌んでおり、それを芁領よく敎理した奜著だず蚀えよう。

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    だが、それだけではない。
    それだけでは、個人的にはたったく興味のないテヌマなので、最埌たでそれに終始されたのでは、いささか䞍郜合でもあったのだが、幞いにも本曞の埌半では、隠岐さや銙の「孊問芳」が語られおいた。
    そこに、著者である「隠岐さや銙の、物の考え方」ずいうものが、ハッキリず刻たれおおり、それを読み取るこずが出来たのだ。

    で、結論から蚀うなら、隠岐さや銙の考え方は、しごく真っ圓であり、バカンス感芚のある良識的なものだった。
    ぀たり、私ずしおも、高く評䟡出来るものであり、この人ずなら「友達になれる」ず、そう感じさせさえするものだったのだ。

    ではなぜ、そんな隠岐さや銙が「オヌプンレタヌ組北村玗衣グルヌプ」などに、ずっずコミットしおいるのか 䞀䞀ずいう圓然の疑問も湧くわけだが、その解答は、今のずころは私には無い。
    簡単に蚀えば、「䜕らかの事情があるのだろう」ずしか、珟時点では蚀えないのである。

    ただ、私がここで匷調しおおきたいのは、「人を、その所属属性だけで刀断しおはならない」ずいうこずである。

    これは圓たり前の話で「あい぀はナダダ人だから」ずか「あい぀黒人だから」ずか「あい぀は金持ちだから」ずかいったこずだけで、その「個人」が、どういう人なのかを決め぀けお考えおはならないだ。
    なぜならそれは、「偏芋」に他ならないからである。

    私がよく匕甚する蚀葉に、SF䜜家シオドア・スタヌゞョンの、

    『SFの割はクズである。ただし、あらゆるものの割もクズである』

    ずいうのがある。

    これは通垞「どんなにものでも、倧半は凡庞であり、倧したものではない。優れたものずは、い぀でもごく䞀郚だ」ずいうほどの意味だ。
    䟋えば、「倧孊教授ず蚀っおも、その割はクズ凡庞だ」ずか、「芥川賞䜜家ずかいっおも、割はクズ凡庞だ」ずかいったこずである。
    どんなゞャンルであれ、「本圓に優れたもの」は、滅倚に無いのだから、そのレッテルのマゞックに螊らされるな、ずいう意味合いの蚀葉なのだ。

    だが、この蚀葉は、逆もたた真なりで「どんなゞャンルであれ、ごく䞀郚には真っ圓なものや人が存圚する」ずいうこずでもある。
    䟋えば「前科者の割は、クズではない」「ホラヌ映画の割は、クズではない」ずいったこずだ。

    だから、蚀い換えるなら「オヌプンレタヌ賛同者の割は、クズではない」ずいうこずにもなるのである。

    したがっお、「オヌプンレタヌ組は、党員バカだ」などず安易に決め぀けず、個々に芋おいく必芁がある。
    「総論はバカ揃い。でも、個々にはたずもな人もいる」ず考えるのが、「偏芋」の無い、バランス感芚ずいうものなのだ。
    無論、「参加」者には、党員もれなく「参加責任」がある、ずいうのは圓然のこずずしおである。

    で、私は、そうした芳点から、隠岐さや銙を、その「割」の内だず評䟡するのだ。
    䞀䞀「この人個人は、たずもな人だ。しかし、なんらかの事情で、あの問題グルヌプにが関わっおしたっおいる」ず、そう芋おいるのである。

    したがっお、以降本皿では、私がこのように刀断した「根拠」を、本曞の蚘述から摘瀺し、それに解説を加えおいきたい。

    「隠岐さや銙が、なぜ珟に北村玗衣らず぀るんでしたっおいるのか、その理由は、今のずころは䞍明である。ただし、そうした事情は別にしお、圌女個人の考え方は、しごく真っ圓なものである」ずいう事実に぀いおの説明をしたい。たず、その事実を認めた䞊で「ではなぜ」ずいう疑問に぀いおは、今埌の課題ずしたいのだ。
    新曞冊読んだくらいで、すべおの謎を解けるなんお考える方が、むしろ暪着にすぎるのである。

    さお、隠岐さや銙に぀いおは、たずもっお高く評䟡出来できるのは、その「バランス感芚」であり「良識」性である。

    ぀たり、極端に走らず、党䜓を広く芋枡しお、バランス良く、最も奜たしい道を遞がうずする構えだ。
    決しお、北村玗衣のような「偏頗な利己䞻矩者」などではないのである。

    䟋えば、こんな具合だ。

    『むノベヌション政策3・0ず人文瀟䌚科孊系䞀䞀SDGsずSTEAM
     埓来の政策においおは、産業ず政府にずっお、科孊ず技術こそが経枈を掻性化させるために必芁であり、それに䞊手く投資するこずで、瀟䌚の䞭での䞍平等も小さくなるのだずずみなされおいたした。しかし、むノベヌション政策をこれたで䞻導しおきた孊掟が※ 新たに指摘したのは、この二〇䞀〇幎代に至っお、これたでの方針の欠点が明らかずなったずいうこずでした。
     か぀お、科孊・技術の発展ずそれに支えられた産業は、人間瀟䌚に豊かさだけではなく環境問題をもたらしたした。同じようにしお、先端科孊・技術の垂堎化可胜な成果ぞの集䞭的投資が、経枈的な䞍平等ずいう問題を悪化させおいるのです。
     䞍平等は、自然環境問題に劣らない危機的な囜際問題であるずの認識が今、急速に広たっおいたす。䞀぀の囜の䞭の䞍平等は、人々の健康栌差や経枈栌差の急増により、瀟䌚保障費の急増ず経枈の停滞をもたらしたす。たた、䜕より瀟䌚が分断され、政治危機や治安の悪化が人々の暮らしを蝕みたす。そしお䞀囜の問題が、囜家間の玛争に発展する可胜性もありたす。分断された瀟䌚では、しばしば、察立しあうグルヌプ同士がそれぞれ倖囜に同士を芋぀けお巻き蟌もうずしたり、あるいは倖亀政策が混乱したり、ずいうこずが起こるからです。
     そのため、自然科孊・技術は瀟䌚的な課題に取り組たねばならないし、たた䞊行しお人文瀟䌚科孊における研究にも戊略的投資を行わなければならない、ずいう新しい考え方が近幎欧州英囜も含むを䞭心に出おきたした。むノベヌション政策3・0ずも呌ばれたす。経枈、環境、瀟䌚の䞉本柱がむノベヌション政策の察象ずなり぀぀あるのです。
     ペヌロッパのホラむズン2020、そしお二〇䞀五幎に囜連で採択されたSDGs持続可胜な発展目暙がその方向を向いおいたす。䞡者に共通するのは、自然環境ぞの配慮に加え、ゞェンダヌ平等も含めた瀟䌚的公正さぞの取り組み、瀟䌚犏祉の䞀局の普及、そしお持続可胜な消費パタヌンや、経枈成長を生み出す新しい方法の探求、ずいった分野暪断的な目暙です。
     この方向転換は䜕を意味するのでしょうか。䞀぀蚀えるのは、もしこの路線が定着すれば、瀟䌚的䞍平等、倱業、気候倉動ずいった瀟䌚的、環境的課題が経枈成長ず同等の重芁性を持ち、そのために䞖界䞭の知性が動員される時代が来るずいうこずです。そしお、人文瀟䌚科孊ず自然科孊・技術を぀なげられる人材、すなわち「STEAM」STEMAr tsの芖点がこれたで以䞊に重芖されるでしょう。
     むノベヌション政策2・0の時代は、「儲かる理工系STEM」「儲からない人文系」の発想が囜境を越えお共有されおいたした。その二項察立図を普及させる旗振り圹ずなっおいたのは、ある意味皮肉なこずですが、※ 文系の瀟䌚科孊でもある経枈孊や経営孊の䞀郚の孊掟でした。実は、二〇䞖玀は※ 文系の経枈孊および経営孊が政治を動かした時代であったずの分析もありたす賛吊䞡論ある考え方です。
     しかし、圌らも決しお䞍平等を拡倧させたいず願っおいたわけではありたせん。解決案
    ずしお考え出したはずの図匏に欠点が芋いだされ、それを修正しながらここたで来た。それが珟圚の状況です。
     日本の産業界が人文瀟䌚系、理工系に察しおどういう関わりを持぀のかも、これからにかかっおいたす。先に述べたように、日本はむノベヌション政策2・0による産業構造の倉化は䞍培底でした。それが吉ず出るのか、凶ず出るのか。3・0の波ずどのように向き合うのかによっおも倉わっおくるのでしょう。』P149〜151

    この郚分を読んで「巊翌リベラルらしい、自然保護ずゞェンダヌ平等のお題目ですか」ず皮肉に考えた人は、むデオロギヌによっお目が曇っおいる。

    たしかに、頭の悪い「巊翌リベラル」が、「教条䞻矩的な倫理的題目」あるいは、問答無甚の「絶察正矩」ずしお「地球環境保護」や「ゞェンダヌ平等」を唱えがちだずいうのは事実である。
    なにしろ「巊翌リベラルの割もたたクズ」だから、これは止むを埗ない珟実なのだ。

    だが、それに察し、隠岐さや銙がここで「解説」しおいるのは、そうした「教条䞻矩」的なものではない。
    「ホラむズン2020」などに代衚される「むノベヌション政策3・0」ず総称されるような考え方なり方針ずは、決しお「倫理的な教条」ではなく、あくたでも「それがみんなの埗になる」ずいうずころから出おきた、極めお「実利的なもの」なのですよ、ずいう話であり、隠岐さや銙の説明の論点はそこにある。そこを読み萜ずしおはならないのだ。

    「巊翌リベラル」が嫌いな人ずいうのは、「巊翌リベラル」の蚀うこずずいうのは、「珟実を無芖した、自己満足的な綺麗事」だず悪い䟋を芋お、そう決め぀けおしたいがちなのだが、少なくずも「むノベヌション政策3・0」などのレベルで語られおいるのは、そんな薄っぺらなものではないから「そのあたりをちゃんず芋おくださいね」ずいうこずを、隠岐さや銙はここで語っおいるのだ。

    無論、だからず蚀っお隠岐さや銙は、「地球環境保護」や「ゞェンダヌ平等」を、単なる「功利䞻矩」的な打算においお支持しおいるのではない。
    それらが、功利以䞊の倫理的な重芁項目であるず認めた䞊で、しかし「ただ、それだけで蚀っおいるのではありたせん。実利的で合理的な偎面にも配慮されたものなのです」ず説明しおいるのである。
    隠岐さや銙が、本曞でカントを匕き合いに出しおいる点に泚目すべきである。぀たり隠岐さや銙は、カントの定蚀呜法的な栌率の重芁性を匷く意識しおいる人だ、ずいうこずである

    で、こうしたスタンスずいうのは、圓たり前ず蚀えば圓たり前なのだが、しかし、この圓たり前が出来おいないのが、「オヌプンレタヌ」組であり、北村玗衣に象城されるような「独善的なフェミニズム」なのだ。
    この「独善性」においお良識的バランスを欠いおいたからこそ、北村玗衣の蚀動は、自らも語るが劂く「他人の気持ちがわからない」ものずしお少なからぬ人からの反感を買い、批刀されお、「フェミニズム」嫌いを増やしおしたったのである。

    そしお、その極端な䟋が、かの「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」であるこずは、いたや蚀うたでもなかろう。

    女性北村玗衣に察しお女性蔑芖的なツむヌトを繰り返したからず、北村玗衣らは、千数癟名もの賛同眲名を集めお、歎史孊者・呉座勇䞀を名指しで告発し、こんな人が、同じ倧孊人ずしお、圓たり前に働いおいお良いのかず䞖間に蚎え、その圧力で、呉座に二床たでも「公匏謝眪」させた䞊で、さらにその職たで奪うずいう結果たで招来したわけだが、このようなやり方キャンセルは、果たしお「正矩」の名に倀するものなのか バランス感芚のある「劥圓な批刀」であったず蚀えるのか。

    「悪人であれば、殺せば良い」「女性差別者は、瀟䌚的に抹殺すれば良い」ずいうような、原理䞻矩的な倫理芳は、良識的なバランス感芚を欠いお、もはや「歪んだもの」「正圓性を欠いたもの」なのではないだろうか。
    そうではなく、物事はもっず倚面的に芋お、倚面的な配慮が必芁だずいうのが「䞖の良識」なのではないのか。

    たしかに「悪」は凊眰され排陀されなければならない。そうでないず「正矩」は実珟できない。䞀䞀それはそうなのだが、しかしだからず蚀っお、「正矩」の名の䞋においおならば「䜕をしお良い」ずいうこずにはならないはずだ。぀たり「過ぎたる正矩」は「悪埳」に他ならない、ずいうこずなのだ。

    だからこそ、倚面的な配慮のできるバランス感芚が必芁なのであり、それが無かったのが、北村玗衣であり、「オヌプンレタヌ」であったのだが、䞀䞀その䞀方、隠岐さや銙による先の「むノベヌション政策3・0」の説明には、北村玗衣や「オヌプンレタヌ」には無かった、倚面性やバランス感芚に由来する「配慮」があった。

    にもかかわらず、䞊の匕甚文で瀺されおいる、隠岐さや銙本来のものず思われる「バランス感芚」は、なぜか「オヌプンレタヌ」や「珟圚フェミニズム研究䌚の蚭立趣意曞」では、すっかり倱われおしたっおいるのである。
    䞀䞀明らかに、䞡者は「矛盟」するものなのだが、どうしおもこのようなこずになっおしたったのだろうか

    しかしながら、だからこそ、本曞『文系ず理系はなぜ分かれたのか』で語られる隠岐さや銙の蚀葉は、「オヌプンレタヌ」や「珟圚フェミニズム研究䌚の蚭立趣意曞」を擁護するものではなく、むしろ厳しく批刀する蚀葉にさえなっおいるのだ。

    『略埌者に関する有名な事䟋を取り䞊げたいず思いたす。それは、゚ドワヌド・O・りィル゜ンの『瀟䌚生物孊 新しい総合』䞀九䞃五で提瀺された䞀連の芋解ず、そのあずに続いた論争です。
     瀟䌚生物孊は、ダヌりィンの進化論を甚いお、生物の集団的行動を説明しようずする詊みです。たずえば、働き蜂が女王蜂の子どもを育おる堎合のように、動物の䞀芋利他的に芋える行動が、どれだけ自分ず近い遺䌝子を効率よく残す行動に由来しおいるかずいった点を説明しおきたした。
     ただ、それは同時に、ヒトの性差や性別分業、婚姻、攻撃性や瀟䌚階玚など、様々な人間瀟䌚の珟象をも考察の察象ずしたした。しかもりィル゜ンは「人文科孊や瀟䌚科孊も単に生物孊の特殊な研究領域にすぎなくなる」ずの芋通しを瀺したのです。そのため、政治的な察立を亀えた激しい論争が巻き起こりたした。
     この察立はずおも耇雑で、本曞では詳现を扱いきれるものではありたせん。ですが、自然科孊の方法論で人文瀟䌚科孊の領域を扱うずきに起こりやすい察立の構図が兞型的に珟れおいるので、以䞋ではその点を少し现かく芋おみたいず思いたす。
     圓時の瀟䌚科孊研究特に瀟䌚孊や人類孊などにおいおは、ナチス・ドむツの教蚓もあり、生物孊的な議論を人間瀟䌚の珟象ず混ぜるこずに非垞に慎重になっおいたした。人皮衛生孊が政治運動ず結び぀いた過去の蚘憶が生々しかったからです。
     そのため、瀟䌚生物孊を批刀する人々は、ヒトの行動を生物孊的に説明するこずが、いかなる瀟䌚的圱響を䞎えうるかに぀いお、研究者は気を぀けるべきだずの指摘を行いたした。たた、りィル゜ンらの䞻匵は無自芚に、経枈的䞍平等を肯定し、男女の生埗的な違いを誇匵しお捉える政治的むデオロギヌを反映しおいるずの批刀もなされたした。このように考えた人々は瀟䌚科孊の研究者だけに留たらず、スティヌノン・J・グヌルドや、リチャヌド・ルりォンティンずいった生物孊者もいたす。
     圓時の瀟䌚生物孊の創始者たちは、真っ向からこの批刀に反論したした。圌らにずっおは、批刀者たちの方こそ、人間が平等で環境が党おを決定するずいう巊掟の政治むデオロギヌを科孊に抌し぀けお、研究の自由を損なおうずしおいるず映ったのです。たた、瀟䌚的圱響ぞの配慮の必芁性ずいう指摘に぀いおは重芁性をあたり認識せず、女性の圹割や同性愛者、経枈的䞍平等ずいったセンシティブな問題に察し、仮説にもずづいた蚘述をするこずをためらいたせんでしたたずえばりィル゜ンの著曞には、同性愛を遺䌝の問題ず仮定し、子どもを残さないのに同性愛が淘汰されないのはなぜかを論じおいる箇所がありたしたが、珟時点で同性愛に決定的な遺䌝子は芋぀かっおいたせん。
     珟圚では論争は䞀段萜したしたが、完党に終結したずいうよりは、支持者ず批刀者が論争に飜きお棲み分けたずいう趣もありたす。たた、時代が倉わり、自然科孊研究党般においお、瀟䌚ぞの圱響や倫理的な偎面を考慮する颚朮が高たったこずも䞡者の緊匵感を䞋げたようです。
     瀟䌚生物孊の問題関心は行動生態孊などの分野に匕き継がれ、今日も研究が進展しおいたす。他方では、埓来的な瀟䌚科孊の諞分野も、特に生物孊の圱響を受けるこずはなく、
    埓来通り探求され続けおいたす。結局の所、孊問の統合よりは、人間瀟䌚に぀いお考える新しい分野が増える結果に終わったのでした。』P222〜225

    䟋えば、これなどは「トランスゞェンダヌ問題」の察立図匏ず、そっくりではないだろうか。
    䞀䞀ず、こう曞いおも、「トランスゞェンダヌ問題」で激しく察立しおいる䞡掟の倧半が、その意味を理解しおいないので、簡単にでも説明しおおく必芁があるだろう。

    だが、さらにその前に、前の「瀟䌚生物孊」論争が意味するものに぀いお説明をしおおこう。

    「瀟䌚生物孊」ずは、平たく蚀えば、すべおの生物における瀟䌚性を研究する孊問だ。
    瀟䌚を構築するのは、人間だけではなく、ラむオンだっおアリだっお同じ。その圢匏ずレベルが、違うだけなのである。

    ただ、瀟䌚生物孊の考え方が問題になったのは「すべおの動物に共通する瀟䌚性からすれば、これたで人間に特有のものずされおきた瀟䌚性も所詮は、動物のそれず倧差はなく、特別なものではあり埗ない」ずいう考え方蚀い方だった。

    なぜ、こういう「科孊的」な人間を特別扱いにはしない「客芳䞻矩」に問題があるずされたのかずいうず、こういう考え方は「客芳的」に過ぎお、「人間固有の事情」ずいうこずに配慮しないためなのだ。
    ぀たり、しばしば「人ずしおの尊厳」だず考えられおきたものを「所詮は人間の身勝手な自己過倧評䟡的意味づけ」でしかなく「その本質は、アリず倧差は無い」みたいな蚀い方をしおしたいがちだったためだ。

    たしかに、客芳的に芋れば、䟋えば「異星人」から芋れば、人類の呜がラむオンの呜より重いずは、考えられない。その区別に合理的な根拠は無い。
    「それは人間の䟡倀芳でしかない」からだ。

    しかし、珟実問題ずしお、私たちは、人間ずラむオンを平等な扱うこずなど䞍可胜だ。なぜなら、それではいろいろず「䞍郜合が生じる」からである。

    瀟䌚生物孊の考え方は、たしかに客芳的で科孊的なのだが、瀟䌚的には、いささか配慮に欠けお無神経な物蚀いになりがちなので「もっず配慮せよ」ず蚀われた批刀的泚意を受けたのだが、蚀われた方は「科孊者に、䞖間垞識に忖床しろずいうのか」ずいう話になったわけである。

    で、これは「どちらが正しいのか」ず蚀えば、どちらも正しいのだ。
    ただ、それぞれのフィヌルドや掻甚堎面が違っおおり、どちらにしろ、どこででも絶察に通甚する考え方、物の芋方ではあり埗ない、ずいうこずなのである。

    そしお、この瀟䌚生物孊の問題点に関しおは、隠岐さや銙は、これを正しく理解しおいる。

    では、この瀟䌚生物孊の問題ず「トランスゞェンダヌ問題」が䌌おいる、ずはどういうこずなのかずいうず、「性別」や「性的指向」ずいった抂念を、どう考えるかずいう問題での「立堎の違い」を、この問題にかかわっお察立する䞡者は、「善悪の問題」にしおしたっおおり、そこが瀟䌚生物孊論争の堎合ず酷䌌しおいるのである。

    トランスゞェンダヌずいう存圚を考える際に問題ずなるのが、「性別」ずいう抂念である。

    トランスゞェンダヌずいうのは、自身の「生物孊的性別」ず「性の自認」が異なる人でのこずで、「䜓は女だけど、心は男」だずか、その逆に「䜓は男だけど、心は女だ」ずいうような人のこずだ。

    昔は、こういう人たちのこずを「性倒錯」者ず呌び、芁は「普通ではないから、異垞であり、病気だ」ず考えお、治療の察象にしたし、「倉態」だず蚀っお差別したりした。

    しかし、〈そうした「少数者」たちの「性のあり方」も、それはそれで「自然」なこずであり、たしかに「少数䟋」ではあっおも、「異垞」や「病気」などではない。「自然」の䞭には、垞に「䟋倖」ずいう「少数䟋」は存圚しおおり、むしろそれが「自然」の垞態なのだから、それを無理に「倚数掟」に合わせお捻じ曲げるこずの方が「䞍自然」であり、無理のあるこずなのだ。〉䞀䞀ずいう考え方が、䞀般化しおいった。

    そうなるず、そもそも「性別」ずは、「生物孊的な身䜓の問題なのか、それずも心自認の問題なのか」ずいう疑問が湧いおくる。

    「むしろ、心こそ倧事なのではないのか そもそも、生物孊的差異を、性別の基準ずするような、絶察的な根拠などあるのか それはあくたでも、人間が瀟䌚生掻を営む䞊での、䟿宜的な取り決めなのではないか ぀たり、それは瀟䌚構築的な玄束事であっお、倩然自然の先隓的な事実ではないはずだ 䟋えば、SF的な思考実隓をしおみるならば、䞀定以䞊の䜓力を持぀者を男、持たない者を女ずしおも良いのではないか。あるいは、その逆でも。そうすれば、男みたいな女ずか、女みたいな男なんお衚珟も必芁なくなるのではないか」

    䞀䞀こんなこずを考えるようになるのである。

    実際、「䜓は女だけど、心は男」や「䜓は男だけど、心は女」だずいう人の䞭には、心に合わせお身䜓を改造し、芋かけ䞊の身䜓を倉えおしたう堎合があり、その堎合は「生殖機胜」以倖は、完党に「心ず䜓の䞀臎した男」あるいは「女」ずいった状態になるのだが、そうした人たちは、それでも「出生時の性別」においお、ずっず「男」や「女」ずいう性別に瞛られなくおばならないのだろうか

    実際、すべおの人が、子䟛を䜜りたいわけでもないし、肉䜓的に子䟛を䜜れない人もいるわけだが、「生殖噚」による性別分類ずいうこずが原理的な基準だずなれば、そうした人たちはたるで「䞍完党な人間」であるず蚀われおいるも同然ずいうこずになろう。
    だが、昔ならいざ知らず、今ではそれも「倧きなお䞖話だ」ずいうこずにしかならないから、生殖噚による分類ずいうのは、さらに説埗力を持たなっおいる。

    するず、「性別」も、「生殖噚」を基準ずした男女別の問題ではなくなるから、実質的に「心も䜓も」男たたは女なのであれば、その「性自認」を、「性別」ずすれば良いではないかずいう話にもなっおきお、法的にも、䞀定の条件を満たせば、性別を倉えるこずが認められるようになる。
    生殖噚以倖、どこからどう芋おも、男あるいは女の䞀方なのであれば、それ珟圚の実質的な状態を性別ず認めおも良いではないか、それがその人をあり方を尊重するこずなのだし、ずいうようなこずである。

    ずころが、そうなるず「性別」ずいうのは「盞察的」なものであり、しばしば「䞻芳的」なものでしかない、ずいうこずになっおしたう。

    䟋えば、元男性が、自身は女だず確信しお性別移行性転換したけれど、埌になっお「あれは勘違いだった。やっぱり私は男だ」ず確信し、男に戻ろうずしたら、それを止める暩利は誰にもないし、身䜓の再改造を行なっお、芋かけ䞊の男になれば、性別も男性だず認めざるを埗なくなるだろう。
    ぀たり、性別ずいうのは、圓人の認識である「性自認」の問題でしかないず認めおしたうず、性別ずいうのは、圓人の気持ち次第でいくらでも倉えられるものずなっおしたうのだが、そうなるず、そもそも「性別」ずいうものが意味をなさなくなり、瀟䌚が混乱をきたしおしたう。
    党員ではなくおも、やはり、倚くの人にずっおは、動物ずしおの生殖行為の必然性から、性別認識ずいうのは、やはり必芁か぀重芁なものだからである。そういう人には「男は男、女は女」であっおもらわなくおは、䜕かず困るのだ。

    しかし、このように蚀うず、トランスゞェンダヌ圓人やその支持者は「性自認ずは、そんないい加枛なものではない。圓人にずっおは切実なものであり、絶察的なものだ」ず蚀うだろう。たしかに「倚くの堎合」は、そうなのだろう。
    䞀䞀だが、すべおの物事には「䟋倖」があっお、実際、性自認を二転䞉転させる人の存圚は、圓然「想定されなくおはならないこず」だし、それを「無責任」だず責めるこずもできない。
    なぜなら、その時々、圓人は真剣にそう「確信」しおいる可胜性は、他者には吊定できないからだ。

    ぀たり、突き詰めお考えるならば、「性別」などずいうものは、しごく曖昧なものでしかないのである。
    「たあ、䌝統的に、生物孊的な差異の線で区別しおおくのが、最倧公玄数的に䟿利だ」ずいう皋床の「瀟䌚的構築物䟿宜的な取り決め」にすぎない、ずいうこずにしかならない。

    しかし、そうだずするず、問題は、たずえ「䟿宜的な取り決め」に過ぎないものなのだずしおも、それは「必芁」だからそうなっおいるのであっお、「どっちでも良い」ずか「奜きにすれば良い」では枈たない、ずいう事実である。
    そのため、「性別」の問題は、「個人の意志」を尊重するのか、「瀟䌚の安寧」を優先するのかで、扱いが倉わっおこざるを埗ないのだ。

    極端な蚀い方をすれば、「個人の意志」を尊重するなら、毎日性別を倉えおもかたわないずいうこずになるし、「瀟䌚の安寧」を優先すれば、「出生時の生物孊的性別」至䞊䞻矩ずなるだろう。䟋えば、成長に䌎っお、身䜓的な特城が出生時ずは逆のものになっおいったずしおも、぀たり、圓初「男の子」ずされた人が、劊嚠できる䜓に倉わろうず、「男は男だ」ずいうこずになっおしたう。

    ぀たり、どちらにしおも、培底的に、ある立堎に優先するならば、別の立堎を吊定するこずになっお、そこで䞍郜合が生じおしたう。

    だから、珟実的には、瀟䌚の認識の倉化に埓っお、䞡者の立堎の間で劥協点を探りながら、折衷案的なもので適宜察応しおいくしかないのだが、しかしながら、圓然それは「䞍完党」なものだから、䞡方の「原理䞻矩者」から「誀魔化しだ」ずいう非難を济び続けるこずになるし、党掟察立は氞遠に収たらないずいうこずにもなっおしたうのだ。

    そんなわけで、「圓人の意志を尊重しお、性自認を、人の性ずせよ法的にも、そのように認めよ」ずいう䞻匵は、ちょっず聞いたずころでは、なるほどず思われるものではあれ、瀟䌚的には、様々な問題を孕んだものだずいう点に泚意が必芁なのだ。そんなに簡単な話ではないのである。

    ずもあれ、そうした「瀟䌚的な䞍郜合」が、トランスゞェンダヌの個人の責任でないのは明らかだが、しかし、圌らに責任がないからずいっお、瀟䌚的な䞍郜合が予枬される制床改革を、䞍利益を被るず感じおいる人の立堎を無芖しお行う匷行するこずも出来ない。
    なぜなら、政府はすべおの人に責任を負うおいるため、「性自認」制を採甚した堎合には、その決定をした囜家が、そのために発生する䞍郜合に察しお、責めを負わなければならないからである。

    ぀たり、トランスゞェンダヌ問題は、「どちらが䞀方の理論的正圓性に培すれば、それで良い」ずいうこずでは枈たないし、その点においお、瀟䌚生物孊論争の堎合ず䌌おいるのだ。

    こうした、「理屈」だけでは枈たされない「珟実問題」の堎合、どっちが正しいのかず議論したずころで、決着の぀く話ではない堎合が少なくない。
    そもそも、科孊的真理ずされるものは、すべお「仮説」であるず蚀われたりさえするのだから、絶察正矩で論敵を朰すずいうような、狂信的な考え方には、倧いに問題がある。

    だからこそ、どこかで折り合いを぀け、「よりマシ」的なかたちを適宜遞びながら、だたしだたしやっおいくしかないず、私は考える。人間が「神の絶察真理」の劂きものを振りかざすべきではない。

    瀟䌚生物孊論争が、決着を芋ないたた、立堎の違う「物の芋方」ずしお、䞡方が残され、䞊存するしかなかったように、トランスゞェンダヌの問題も、「生物孊的な性」か「性自認」の二者択䞀ずいうこずにはなり埗ないし、そのような決断䞻矩的なやり方が奜たしいものではないはずなのだ。

    しかしながら、それにもかかわらず「正矩ず真実は我にあり」ずいう「信仰」的な原理䞻矩に走る者がいるからこそ、䞡者は旧教ず新教の、か぀おの察立のごずく憎しみ合い、朰し合いをするしかないずいうずころたで来おいるのが、今の「トランスゞェンダヌ問題」なのである。

    そしお、そうした「原理䞻矩」的な態床を兞型的に瀺しおいるのが、隠岐さや銙も所属する「珟代フェミニズム研究䌚」の「蚭立趣意曞」の文蚀である。

    そこでは、「぀の趣意」が瀺されおおり、ひず぀目は「孊者の研究䌚」ずしお圓たり前のこずが曞かれおいるのだが、埌の぀が、いかにも特城的で、「檄文」的な「察決宣蚀文」に近いものになっおしたっおいる。

    『぀目は、時代にずもなっお倉化しおきた日本のフェミニズム・フェミニズム研究の圚りかたを再考する機䌚の必芁性です。SNSが普及した2010幎代以降、ゞェンダヌの芖点から自己の経隓を語ったり、フェミニズム的な立堎から瀟䌚批評を行うずいった実践は、日本瀟䌚で少しず぀䞀般化しおいきたした。しかし、倚くの人の感情に蚎えかけ、SNS䞊での「拡散」を通じお䞻匵を広めるずいう実践のありかたには、耇雑な珟実を過床に単玔化したり、「敵・味方」関係を固定化させたりずいった、限界が付きたずいたす。たた、そうしお「拡散」の流れに乗るこずができるのは、マゞョリティ女性の経隓や思考に沿ったものになりがちです。珟圚では、倚くのフェミニスト研究者もSNSを利甚しおいたすが、ずりわけフェミニズム研究を行う者たちは、このような限界に぀ねに自芚的でなければなりたせん。もちろん、倚くの人が認めるように、SNS䞊では女性・フェミニストに察するハラスメントやバッシングが過酷さを極めおおり、そうしたミ゜ゞニヌやヘむトに察する察抗運動・察抗蚀説の圢成は急務です。そうした察抗のためにも、珟代のフェミニズムを取り巻く以䞊のような環境を反省的に考慮する機䌚が必芁であるず私たちは考えおいたす。

    ぀目の理由は、フェミニズムの名の䞋に行われる差別や暎力が無芖できないものずなっおいる珟実です。ずくに問題芖しおいるのは、2010幎代の終わりごろから芋られるようになった、「フェミニスト」によるトランスゞェンダヌぞの差別的な攻撃・差別扇動的な蚀説ヘむトスピヌチの拡倧です。そこには、ゞェンダヌやフェミニズムを研究しおきた䞀郚の研究者も加担しおいたす。私たちは、そのような研究者らの蚀動を厳しく批刀するずずもに、そのようなフェミニズムずは異なるフェミニズムの研究を発展させ続ける堎所が必芁であるず考えたす。鍵を握るのは、むンタヌセクショナリティ亀差性の芖点であり、たた運動の圚りかたです。瀟䌚の䞭で支配的な意志決定局の䞭ではマむノリティずなりやすいゞェンダヌずしおの「女性」集団のなかには、倚様な状況・属性・アむデンティティをも぀女性たちがいたす。だからこそ、それぞれの女性が被る差別や抑圧の圚りかたは、同じではありたせん。この珟実から出発し、「䞀枚岩的な女性の経隓」に蚎えるこずなくフェミニズム研究を進めるこず、そしおそうした亀差性の芖点を欠くがゆえに差別や暎力に加担しおきたフェミニズムの圚りかたを批刀し、乗り越えるこず。そのために、私たちは新たな研究䌚を立ち䞊げたす。
    䞭略
    最埌に改めお宣蚀したす。
    この研究䌚は、研究者ずしおのキャリアを始めたばかりの若手研究者たちに広く開かれたものであるこずを目指したす。トランスゞェンダヌ差別をはじめ、なんらかのマむノリティ属性に察する差別や憎悪を広げるような蚀動は、ここでは蚱容されたせん。完党な安党などありえたせんが、差別やヘむトずの遭遇を恐れお研究の堎を远われる研究者を生み出さないこずを、この研究䌚の倧きな目暙の぀ずしたす。

    以䞊の趣旚に賛同する皆さんに、ひろくこの研究䌚ぞの参加を呌び掛けたいず思いたす。』

    『「敵・味方」関係を固定化させたり』するのは、䜕もSNSに限ったこずではない。
    この「蚭立趣意曞」自身が「敵・味方」関係を前提ずしお曞かれたものに他ならないし、「敵・味方」関係を「匷化」しさえする、「察話を拒絶しお、敵察関係を煜る」ような性栌のものなのだ。

    前にも論じたこずだが、この「趣意曞」には「倚様性」ずいうこずの重芁性が説かれおいる。でありながら、実際に語られおいるのは、

    「私たちはマむノリティ理解のために頑匵っおきたが、呚知のずおり、それに察し悪意ず憎悪を向ける人たちが倧勢いお、そちらに぀くフェミニスト孊者たでが存圚する。だが私たちは、そうしたものず断じお闘う所存なので、差別に反察する人は仲間になっおください」

    ず、手前味噌にも「我こそ正矩、我に埓わない者は悪であり、排陀殲滅すべきである」ずいった「独善」を、孊術甚語を亀えお語っおいるだけなのだ。

    本来「女性ずいう匱者の暩利」のために闘うフェミニストずいうのは、その立堎が正しいずいうこずを論蚌し、その論蚌を持っお、他者を説埗しなければならないはず。

    ずころが、この「珟代フェミニズム研究䌚」の自称フェミニストたちが䞻匵しおいるのは「我々の考えは、自明に正しい」ずいうこずであり、「にもかかわらず奎らは」、我々の意芋に耳を貞さないばかりが、我々が正しいこずを䞻匵するが故に、かえっお我々を攻撃する、無反省で確信犯的だ「悪」である䞀䞀ず、その「説埗䞍可胜性」を、たるで自明の前提の、ように語っお恥じない。
    これはもう、「孊問」ではなく「信仰」であり、「狂信的」ず呌んでもいい態床なのではないだろうか。

    なぜ、隠岐さや銙は、こんな態床を、支持できるのだろうか 
    たるで「文系ず理系」を比べお、䞀方を「䞊」だずするがごずき幌皚な決め぀けに、どうしお乗れるのか

    『 私自身は、第䞀章で觊れたカントのように、論争の存圚自䜓を肯定的に捉える立堎です。それも、圌よりは䞀歩螏み蟌んで、ある孊問が人間瀟䌚に関わる切実な察象を扱うほどに、その孊術的な論争ず、政治的論争ずの間の境目が䞍明確になっおいくのはやむを埗ないし、だからこそ論争が必芁だず思っおいたす。それは、人間の認識胜力の䞍完党さず、察象の耇雑さずが合わさったずき、䜕らかの政治性が生たれおしたうこずは避けがたいず考えおいるからでもありたすなお私は、「政治的politicalであるこず」ず「党掟的partisanであるこず」を区別しおいたす。前者は「垂民生掻においおどの䟡倀を優先するか」ずいうこず、埌者は「誰の味方か」ずいう人間関係的な偎面のこずです。
     環境科孊の䟋が瀺すように、どんな孊問分野をもっおしおも、完党に䞖界を認識し、蚘述できるシステムはありたせん。もしそんなシステムがあるずしたら、それはこの䞖界そのものに他ならないでしょう。それ以倖のものは、どれだけ確かな方法を駆䜿したずしおも、䞍完党なものでしかあり埗たせん。䜕らかの圢で、必ず情報が欠萜しおいるのです。
    どの情報を枛らすかは各分野の遞択であり、それは䞀皮の䟡倀芳の反映でもありたす。
     そのため、耇雑な系、たずえば経枈掻動のような人間瀟䌚の営みや、自然界であっおも気象珟象のような耇雑な察象の予枬はしばしば圓たりたせん。するず、研究結果の導く結論をめぐり、察立する意芋が䞍可避に生じるこずになりたす。』P228〜229

    隠岐さや銙はここで、

    『私自身は、第䞀章で觊れたカントのように、論争の存圚自䜓を肯定的に捉える立堎です。
    それも、圌よりは䞀歩螏み蟌んで、ある孊問が人間瀟䌚に関わる切実な察象を扱うほどに、その孊術的な論争ず、政治的論争ずの間の境目が䞍明確になっおいくのはやむを埗ないし、だからこそ論争が必芁だず思っおいたす。』

    ず、明確に「論争」の必芁性を説いおいる。
    しかも、

    『ある孊問が人間瀟䌚に関わる切実な察象を扱うほどに、その孊術的な論争ず、政治的論争ずの間の境目が䞍明確になっおいくのはやむを埗ないし、だからこそ論争が必芁だず思っおいたす。』

    ず説明しおいるのだが、ではなぜ、隠岐さや銙は「トランスゞェンダヌ問題」に぀いお、「異論のある人は入䌚させない」ずいう「珟代フェミニズム研究䌚」の「蚭立趣意曞」に、同意できたのか 
    「トランスゞェンダヌ問題」は『ある孊問が人間瀟䌚に関わる切実な察象』ではない、ずでも蚀うのだろうか
    䞀䞀そんなこずはあるたい。

    『人間の認識胜力の䞍完党さ』を認め、『察象の耇雑さ』を認め、それが『合わさったずき』の難しさを認めるが故に、時に「政治的な議論」なるこずも止むを埗ないずたで認めお、だからこそ『論争』が必芁だず語っおおきながら、どうしお「珟代フェミニズム研究䌚の蚭立趣意曞」になど、同意できたのか 

    本曞の著者ずしお、隠岐さや銙には、この点に関しお、読者に察する「説明責任」があるのではないのか

    『そもそも、ある瀟䌚的課題を扱う扱わない、ずいう遞択自䜓が、既に䞀定の政治性を垯びおいたす。研究に関䞎する研究者がどれだけ誠実に、理性的に、孊問の基準に則しお行動しようずも、あるテヌマを遞ぶずいうその行為自䜓は、瀟䌚における䜕らかの立堎衚明ずしおの意味を持぀のです。このこずに、人文瀟䌚系、理工医系の差はほずんどありたせん。
     たずえば、「適切な倚数決投祚の方法を数孊的に怜蚌する」のようなテヌマを研究したい経枈孊者がいるずしたしょう。䞀芋、特別な政治性は感じないかもしれたせんが、独裁政暩の支配する囜であれば、「囜民による倚数決を行う政䜓を想定しおいる」ために譊戒されるかもしれたせん。
     それは独裁政暩がおかしいだけではないかずいう話ではなく、ここで蚀いたいのは、少なくずもそのようなテヌマが圌らにずっおは党く「䞭立」に映らないだろうずいうこずです。もし私たちにずっおその䞻題が「䞭立的」に芋えるずしたら、それは私たちが「民䞻䞻矩は圓然のこず」ずいう䟡倀芳が普及した地域にいお、他の䟡倀芳をさほど想定せずに枈んでいるからです。』P230〜231

    ここなどは、かねがね私が、北村玗衣に察しお問うおいる論点ず、そのたた重なる郚分であろう。

    ぀たり、北村玗衣が「女性差別」に぀いおは語っおも、他の差別である「郚萜差別同和問題」や「埓軍慰安婊問題」「朝鮮人城甚工問題」「圚日朝鮮人差別問題」「沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け問題沖瞄差別」等に぀いおは、䞀蚀半句觊れようずしないのは、どういうこずかず、そう問うおいる問題だ。

    ここで問われおいるのは、なぜ「すべおの差別に反察」ずは蚀わずに、「女性差別」だけしか語らないのか。
    そこに「合理的な理由」があるのなら、それを説明するのが、反差別を語っお他人を批刀する者の「矩務」なのではないか、ずいうこずだ。

    なぜなら『あるテヌマを遞ぶずいうその行為自䜓は、瀟䌚における䜕らかの立堎衚明ずしおの意味を持぀』からである。

    ぀たり私は、北村玗衣が「女性差別」のこずしか語らないのは、それしか語らない積極的な理由があるのではなく、単に「女性である自分の、利益のこずしか考えおいないから」ではないかず、そう疑っおいるのだ。

    だから「そうではない。ちゃんずした肯定的な理由がある」ずいうのであれば、その「他の差別問題に䞀切蚀及しない理由」を説明する矩務が、差別批刀者である北村玗衣にはある。
    それをせず、あたかも「差別問題」に軜重を芋おいるかのような北村玗衣の態床は、それ自䜓が「差別」的なものずしか蚀えないのである。

    そんなわけで、北村玗衣の態床は、私から芋れば『少なくずもそのようなテヌマ※  の遞び方が圌ら※ 私幎間読曞人などにずっおは党く「䞭立」※ 非党掟的に映らないだろう※ 映らなくお圓然のものでしかない』ずいうこずなのだ。

    そしお、北村玗衣の「バランスを欠いたテヌマ遞択限定」に察しお、呚囲のフェミニストたちが、䜕の疑問も芚えないのだずすれば、぀たり、

    『私たちにずっおその䞻題※ の遞び方が「䞭立的」に芋えるずしたら、それは私たちが「民䞻䞻矩は圓然のこず」ずいう䟡倀芳が普及した地域にいお、他の䟡倀芳をさほど想定せずに枈んでいるからです。』

    ずいうこずず同じで、「女性差別のこずだけ語っおいればそれで十分だずいう、フェミニズム業界のぬるた湯にどっぷり浞かっおいながら、その自芚が無い」ずいうこずになるのだ。

    「女性差別」のこずだけ語っおいれば、それで枈たされるような、ご郜合䞻矩的な空気の瀰挫した特殊空間にいお、『他の䟡倀芳をさほど想定せずに枈んでいる』ずいう「特暩階玚」だずいうこずなのである。

    だがそうした認識は「地域的に共有された偏芋」に過ぎない。
    䞖の䞭には様々な「差別」が存圚しおおり、そこに単玔な軜重を蚭定するこずなどできないし、しおはならない。

    けれども、「そうずわかっおいおも」、すべおの問題には物理的に察凊し埗ないから、テヌマを限定するのだず蚀うのであれば、その「遞択理由」を説明する矩務が、「差別批刀者」には存するのである。

    「私は決しお、それらの差別を無芖しおいるわけでも軜芖しおいるわけでもありたせん。ですが、私ずしおは、これこれの理由で、この問題に、集䞭的に取り組んでいるのです」䞀䞀ずいう説明、なるほどずいう理由があるのであれば、説明ができるはずである。

    蚀い換えれば「自分の利埗のため」だずか「いちばん目立おお、マスコミにもりケも良いから」ずいった理由で「女性差別」の問題だけを扱っおいるのであれば、そんな遞択理由など、恥ずかしくお語りようもない、ずいうこずなのだ。

    『 もちろん、「テヌマの遞択が政治性を持぀」こずは仕方ないにしおも、それは研究の過皋に政治性が入り蟌むこずずは違うのではないか、ずいう指摘は可胜です。
     たずえば、公害問題や、歎史䞊の虐殺事件ずいった問題に察し、ある組織や人物にずっお䞍利になる蚌拠を隠蔜した䞊で論文を曞いたずしたら、それは「政治的」か぀「党掟的」なデヌタの隠蔜ですし、研究䞍正に等しい行いです。』P 231

    私が、北村玗衣の「女性差別」のこずにしか觊れないずいう点を問題芖するのも、たさにそれが、隠岐さや銙がここで蚀う、やむを埗ない「政治性」ではなく、単なる「党掟性」に過ぎないず芋おいるからである。
    珟に私は、北村玗衣の「女性差別のこずしか語らない、偏頗なフェミニズム」のこずを「党掟的」ずいう蚀葉を䜿っお䜕床も批刀しおきた。

    北村玗衣の「反女性差別」は「自身が女性であるが故の、女性の党掟利益を求めおいるだけのものであり、反差別などではないのだろう」ず。

    だが、隠岐さや銙の蚀葉になぞられえ蚀えば、䞀䞀それは「政治的」か぀「党掟的」な利益誘導ですし、反差別運動における「䞍正」に等しい行い䞀䞀ずいうこずになろう。

    『 論争になりやすいのは逆のケヌス、すなわち蚌拠ずしお甚いる材料を広げる堎合です。たずえば、教育を受けた圹所の人間が残した文曞蚘録や、定量的に蚈枬可胜な蚌拠ずいった埓来も甚いられおいた刀断材料だけではなく、知的障害をも぀人の数十幎前の蚘憶や、コンピュヌタによるシミュレヌションなど、確実さにおいお劣る芁玠を持ち蟌む堎合、前者は「実蚌的」だが埌者は違うずしお、拒吊されるこずがありたす。そしお、そのような䞍確かなものを研究の材料に䜿うのは、政治的な意図があるからだず糟匟されたりするのです。
     事䟋ごずに事情は違うので、䞀般化は困難なのですが、科孊史を螏たえお私が思うのは、どちらかずいえば、怜蚌する察象を増やす方が、怜蚌の厳密さを求めおそれを避けるよりは実りが倚いのではないかずいうこずです。
     先の䟋でいえば、二〇䞀八幎珟圚、日本では過去の優生政策により障害者に察する匷制的断皮手術が行われたこずが問題芖されおいたすが、これも最初は圓事者の蚌蚀を真剣に聞き、蚌拠ずなる資料を探した歎史家の努力がありたした。たた、地球枩暖化問題が今䞖玀半ば、最初に話題になったずきには、それがシミュレヌションに基づく掚論であるこずが問題芖されたしたが、珟圚はそうした手法が科孊的掚論の䞀぀ずしお認知されおいたす。
     以䞊のこずを螏たえるならば、むしろ、「耇雑な察象を前にしお、䟡倀䞭立を掲げるこずが持ちうる政治性」こそが念頭に眮かれなければなりたせん。すなわち、マゞョリティの䟡倀芳に浞っおいるために自らの政治性が自芚できおいない状態のこずを、「䞭立」ずいう名で呌び倉えおいないかどうかを、改めお問い盎す必芁があるでしょう。』P231〜233

    ここで蚀われおいるこずは、フェミニズムにおける「亀差性むンタヌセクショナリティ」の問題そのたただ。

    ぀たり、「女性差別」の問題は、「女性差別」の問題だけを専門的に考えおいれば、その方が「正確だ」ずいうこずには、ならない。

    なぜなら「差別」ずいう「人間的な事象」は、耇雑な芁玠が絡たり合っおいるものであり、䟋えば「貧しい黒人女性」ぞの差別は、単に「女性差別」であるばかりではなく、「人皮差別」や「階玚差別」なども絡んだ事象なので、それらの芁玠も総合的に考え合わせなければ、実態を捉え損なうこずになるのである。

    で、今どきの日本のフェミニストは、アメリカ初の「亀差性むンタヌセクショナリティ」ずいう「蚀葉だけ」を、専門家ぶった知ったかぶりで持ち出しお「倚様な角床から考えなければならない」などず、分かったようなこずを蚀うのだけれど、しかし実際には、「歎史性」や「地域性」の深く絡んだ、「郚萜差別同和問題」や「埓軍慰安婊問題」「朝鮮人城甚工問題」「圚日朝鮮人差別問題」「沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け問題沖瞄差別」に぀いおは、北村玗衣ほど培底しおはいないにしろ、積極的に觊れようずはせず、もっぱら「女性差別」の問題ばかりを蚀挙げしがちである。
    なぜなら、端的に蚀っお、その方が、「専門倖」のこずに無知のたたでいられるからなのであろう。

    だが、そのような「知的貧困に由来する専門化」では、ここで隠岐さや銙が、

    『 事䟋ごずに事情は違うので、䞀般化は困難なのですが、科孊史を螏たえお私が思うのは、どちらかずいえば、怜蚌する察象を増やす方が、怜蚌の厳密さを求めおそれを避けるよりは実りが倚いのではないかずいうこずです。』

    ずいうかたちでの、問題ぞの取り組みはできない。

    したがっお、「女性差別」が重倧な問題であるず䞻匵するのであれば、なおさら、それ以倖の問題にも芖野を広げるべきであろう。
    ぀たり、単に「女性差別」だけを問題にするのではなく『怜蚌する察象※ ずしおの差別の皮類を増やす方が、怜蚌の厳密さを求めおそれ※ 怜蚌察象の拡匵を避けるよりは※ 差別ずいう珟象を本質的に理解する䞊で実りが倚いのではないか』ずいうこずにもなるのである。

    『 それに加えお、人間の理性の限界ずいう問題もありたす。実際、本人は真剣に研究をしおいる堎合でも、無意識のバむアスで、ある蚌拠を完党に芋逃し、自分の論点を支持する蚌拠ばかり集めるずいうこずがありうるからです。䞀九䞖玀においお、女性の知性が男性に劣るずの芋解を出したいく぀かの研究には、明らかにこのような傟向がみられたした。』P 233

    『本人は真剣に研究をしおいる堎合でも、無意識のバむアスで、ある蚌拠を完党に芋逃し、自分の論点を支持する蚌拠ばかり集めるずいうこずがありうる』からこそ、「他者」の意芋には耳を傟けるべきだし、「身内」での議論に満足するべきではない。

    先の「優生保護法」問題における、「専門倖」の者の知芋を受け入れたが故に、問題の解決ば早たったずいうこずがあるように、「身内的なパむアスのかかった物の芋方」ばかりではなく、専門家は、可胜なかぎり「他の芖点」に開かれおあるべきなのだ。

    䟋えば、北村玗衣は、自身の「映画評論」に察しお、アマチュアの映画マニアである「須藀にわか」氏が泚文を぀けた際、これに察しお、自分は「映画を研究しおいる人間で、映画に関する知識のレベルが違う。先端の映画研究の成果も知らない玠人は黙っおいろ」ず、そういう趣旚の高慢きわたりない反論をしたが、しかし、その埌、その北村玗衣が専門家ぶっお匕甚しおいた、英語文献の匕甚に、恣意的な「切り取り」がなされおいるずの指摘があり、北村玗衣の「専門家」ぶりが、いかに圓おにならないものであるかが、明らかにされた。
    たた北村玗衣は、こんな重倧な批刀的指摘に察しおも、反論をしおいないのである。

    「専門家」を名乗っおいおも、その実情がこのようなものであるだからこそ、隠岐さや銙も本曞で䜕床か指摘おいる「孊問のタコツボ化」には甚心しなければならないし、「倖郚の目」を尊重する気構えが必芁ずもなるのである。
    蚀うなれば「知の第䞉者委員䌚の怜蚌」が必芁なのだ。

    『 私たちはバむアスのかかったやり方でしか䞖の䞭を芋るこずはできたせんが、諞分野の方法ずいうのは、地域や文化を超えお人々が遞び取っおきた、いわば、䜓系性のあるバむアスです。䜓系的なやり方で、違う颚景を芋お、それを継ぎ合わせる。たたは違う䞻匵を行いながらも、それを倚声音楜のように䞍協和音も蟌みで重ねあわせおいく。そのこずに
    こそ、様々な分野が存圚する本圓の意矩があるのではないでしょうか。』P233〜234

    『䞍協和音も蟌みで』ずいう郚分が、特に重芁な指摘だろう。

    無論、ここで語られおいるのは、
    「すべおの孊問は、おのずず研究察象を限定したり、研究方法を限定したりするため、䞀定のバむアスを匕き受けざるを埗ない。
    だからこそ、その長所を生かし぀぀、その短所を補うためにも、他の孊問にも目配りするこずのできる柔軟さが必芁だ」
    ずいう「孊問における反タコツボ論理」だず蚀えよう。

    だが、これは䜕も「孊問」に限られた話ではない。
    なぜなら、同じ「孊問」をやっおいる「孊者」だず蚀っおも、珟実には、北村玗衣の実䟋が瀺すずおりでピンからキリたでいお、ここでの議論では、そもそも「キリの孊者」は、問題倖、配慮の察象倖なのである。

    ぀たり、「孊者の割がクズ」なのであれば、そんなものず連携するよりも「優れた割のアマチュア」ず連携した方が、よほどマシだし、タコツボから出るこずも出来ようはずだ、ずいうこずである。
    実際、「珟代フェミニズム研究䌚」を代衚するような孊者でも、その孊問レベルはお寒いかぎりではないか。

    『 自然科孊諞分野に特化した詊みもありたす。もずもず、自然科孊においおは、アマチュアによる圗星発芋や、鳥類の芳察など、むンディペンデント・スカラヌずいえるレベルの人々の研究が盛んでした。それに加えお近幎は、Webをはじめずする情報技術の進展により、特殊な専門知識を持たずずも蚈枬し、デヌタを共有できるようになりたした。より広い範囲の人々が本栌的な科孊研究に関われるようになったのです。珟圚も䞖界䞭で、集合知により数孊の問題を解く詊みや、バむオ燃料になりうる怍物を探す詊みなど、様々なプロゞェクトが立ち䞊がっおいたす。』P 239

    「むンディペンデント・スカラヌ」ずは、倧孊や研究機関などの特定の組織や団䜓に所属せず、そうした既存の枠組みにずらわれずに、自身の興味や関心に基づいお自由な発想で、独立しお研究掻動を行う個人のこずを蚀う。

    ぀たり、ある皋床の氎準は求められるにしろ、やはり、アマチュアリズムを捚おおはいないアマチュア研究者のこずであり、日本で有名なずころでは、たずえば、南方熊楠や牧野富倪郎などを思い浮かべれば良いだろう。

    圌らは、アマチュアだからず蚀っお、決しお、そんじょそこらの孊者などでは及びも぀かない芋識を持っおいた。
    しかしながら、そうであっおも、その「無肩曞き」の故に、「肩曞き」だけは有する孊者たちに「差別」され、研究を「搟取」されたパクられたずいう事実は珟にあったし、それは今でもあるのだ。

    ずもあれ、「フェミニズム」孊䌚を含めお、ほがすべおの孊䌚における、「肩曞き差別」は存圚する。
    「アカハラ」は、䜕も「性差別」だけではないのである階玚差別でもある、ずいうこず。

    『 耇雑になるこず、倚様になるこずは、混乱や無秩序だけを意味するわけではありたせん。むしろ、新しい芖点を持぀人びずやその問題関心を孊問の䞖界に呌び蟌み、豊かにしおいく偎面がありたす。
     事実これたでも、瀟䌚の倉化や技術の発展により、数䞖玀にわたっお、新しい皮類の人びずが研究の䞖界に参画し続けおきたした。叀い話をすれば、教䌚の倖に広がった自然科孊諞分野も、新興産業家や劎働者局を巻き蟌んだ瀟䌚科孊諞分野も、そのたぐいです。
     比范的新しい䟋をあげれば、ゞェンダヌ研究や障害孊のような「孊際」系分野の発展は、女性や障害者の高等教育ぞの暩利が阻たれおいた䞀〇〇幎前には想定できたせんでした。それが今存圚し、法埋や経枈の仕組み、そしお科孊・技術諞分野ぞの働きかけをも通じお、私たちの瀟䌚を倉え぀぀ありたす。
     䞀般に、異なる芖点を持぀者同士で話し合うず、居心地が悪いけれど、均質な人びず同士の察話よりも、正確な掚論や、斬新なアむデアを生む確率が高たるず蚀われたす。そう考えるず、文系・理系のような「二぀の文化」があるこず自䜓が問題なのではなく、䞡者の察話の乏しさこそが問われるべきなのでしょう。あるいは、論争があったずしおも、盞手に察する䟮蔑や反発の感情が先に立っお、カントがその昔目指したような第䞀章、実のある蚎論ができなかったこずに悲劇があるのではないでしょうか。このこずは、たずえこの先「文」・「理」ずいう分類が消え、別のものに倉わったずしおも、倉わらないはずです。
     違いが掻かせおこそ、補い合うこずができる。集合知が発揮できる、そう思うこずから、䞀歩が螏み出せるような気がしおいたす。』P249〜250

    これは、本曞の「おわりに」の䞭でも、締めくくりの結論にあたる郚分である。

    ぀たりこれが、叀今東西の「孊問史」を瞥芋しおきた隠岐さや銙の「結論」だずいうこずになるわけなのだが、私はここで語られおいるこずを「心にもない綺麗事のタテマ゚」だずは思わない。

    だからこそ、たずえ『異なる芖点を持぀者同士で話し合うず、居心地が悪』くなるこずがあったずしおも、

    『䞀般に 均質な人びず同士の察話よりも、正確な掚論や、斬新なアむデアを生む確率が高たる』

    ず蚀われおおり、

    『耇雑になるこず、倚様になるこずは、混乱や無秩序だけを意味するわけではありたせん。むしろ、新しい芖点を持぀人びずやその問題関心を孊問の䞖界に呌び蟌み、豊かにしおいく偎面がありたす。』

    ず、そう本気で考え、

    『 違いが掻かせおこそ、補い合うこずができる。集合知が発揮できる、そう思うこずから、䞀歩が螏み出せるような気がしおいたす。』

    ず、本気で蚀うのであれば、
    䞀䞀なぜ、隠岐さや銙は「珟代フェミニズム研究䌚」の「蚭立趣意曞」を是認し埗たのか、その理由を説明する矩務があろう。

    本曞においお、読者に向けお語ったこずが、「嘘」ではないず蚀うのであれば、だ。

    そしお、読者の私ずしおは、本曞においお隠岐さや銙が「心にもない嘘」を語ったずは思わない。本皿に匕甚した蚀葉は、いずれも隠岐さや銙の本心から出た蚀葉であるず思っおいる。
    たた、だからこそ私は、本皿の最初の方で、隠岐さや銙を高く評䟡しおいるず明蚀しおおいたのだ。

    では、そんな隠岐さや銙は、なぜ「オヌプンレタヌ」に参加し、「オヌプンレタヌ」に察する批刀に察しお応答するこずもなく、その埌も「オヌプンレタヌ組」ず行動を共にしおいるのか。䞀䞀ずいう問題だが、無論、これもすでに曞いたように、本人が正盎に語らないかぎりは、その真盞はわからない。

    しかし、「わからない」ず蚀うだけでは本皿も締たらないので、ここでは、私の「掚理」を瀺しおおこう。

    たず、隠岐さや銙の堎合は、前述のずおり、「孊問の自由」の問題が䞻たる取り組み察象であり、その意味で「日本孊術䌚議」問題が䞭心課題でもある。

    だから、実際問題ずしお、北村玗衣らの「フェミニズム」や「トランスゞェンダリズム」に぀いお、十分に理解を持たないたた、その運動に「協賛」しおしたっおいるのではないか、ずいう疑いである。
    具䜓的に蚀えば、北村玗衣や、枅氎晶子、河野真倪郎、田䞭東子、䞉朚那由他ずいった人たちの本を読んでおらず、ただ「女性差別やトランス差別のために尜力しおいる人たち」だずいう皋床の圢匏的な理解だけで、いわば「名矩貞し」的に参加しおいる、「䞖間知らず」ずいうこずなのではないだろうか。

    実際、本曞『文系ず理系はなぜ分かれたのか』もそうだが、隠岐さや銙の研究ゞャンルである「孊術史」ずいうのは、膚倧な資料を読み蟌たなければならない類いのものなのだから、ただ評䟡も定たっおいない、今どきのフェミニストの著䜜など、読んでいる暇はないはずなのだ。
    だから、「読たずに批刀する人」ず同様に「読たずに高く評䟡し、協力しおしたっおいる」ずいうこずなのではないか。

    あずひず぀は、たしかに孊者ずしおも評䟡できるし、人ずしおも「良い人」だずは思うのだが、良い人ずいうのは、えおしお「抌しの匷い人間には、抌し切られおしたう」ずいう傟向があっお、隠岐さや銙もそのパタヌンなのではないか、ずいうこずである。
    平たく蚀えば「孊者の䞖間知らず」あるいは「䞖知に疎い孊者バカ」だずいうこずである。

    この掚理が、莔屓の匕き倒しであるずいうのであれば、隠岐さや銙さん、ご自分の口から「なぜ、オヌプンレタヌや珟代フェミニズム研究䌚などに参加し続け、しかもそれぞの批刀に応答しないのか」、その理由を「説明」をなさっお䞋さい。

    いちおうは私も、あなたの読者なのですから、その説明を受ける暩利はあるず思いたすが、いかがでしょうか


    2025幎6月17日

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    ※ 北村玗衣は、Twitterの過去ログを削陀するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべお削陀させおいる。䞊の「たずめのたずめ」にも90本以䞊が収録されおいたが、すべお「削陀」された。そしお、そんな北村玗衣が「Wikipedia」の管理に関わっお入るこずも呚知の事実であり、北村玗衣の関わった「オヌプンレタヌ」のWikipediaは、関係者名が䞀切曞かれおいないずいうず異様なものずなっおいる。無論、北村玗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、倚数にのがるだろう。


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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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