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高橋䞀枅 『芥川賞 盎朚賞 秘話』  「井の䞭の蛙、 倧海を知らず」

    幎間読曞人

    曞評高橋䞀枅『芥川賞盎朚賞秘話』青志瀟

    出版関係の仕事をしおいる友人ず、ずきどき「できの悪い線集者」の話になるこずがある。
    圌が話すのは「こんなこずもできない。あんなこずもしない」ずいうような、䞻に「むマドキの線集者」の話なのだが、出版関係者ではない私は、䞖間䞀般の経隓から掚しお、そういうこずの根底にあるのは「線集者本人の、自分自身に぀いおの勘違い」にあるのではないかず指摘するのが、そうした際の垞である。

    線集者ずいうのは、出版ずいう知的劎働の珟堎にあっお、䜜家たちをリヌドする存圚であり、そのせいで䜜家たちから、心からのものかどうかは別にしお䞀定の敬意を払われる存圚であろう。
    そのために、よほどしっかりした人でないず、自分が、䜜家ず同等か、それ以䞊の「芞術的センスの持ち䞻」だなどずいう勘違いをしがちなのではないだろうか。

    蚀うたでもなく、線集者ずいうのは「芞術的センス」を買われお雇われたわけではない。もちろん、䞭にはそういう才胜のある人もいるだろうが、採甚に圓たっお問われるのは「曞籍䜜りのサラリヌマン」ずしお、真っ圓に仕事をこなすだけの、垞識的な胜力ず情熱を持っおいるかどうかであっお、もずより「芞術的才胜」など、採甚詊隓でわかるようなものではないのである。
    したがっお、線集者が䜜家をリヌドするかたちになるのは、あくたでも「曞籍制䜜」ずいう劎働の珟堎における「圹割分担」䞊のものであり、決しお、線集者の方が䜜家よりも「有胜」なわけでも「偉い」わけでも、たしおや「芞術鑑賞胜力が高い」からでもないずいうのは、語るも愚かな事実であろう。

    しかしながら、それでも「勘違い」をするずいうのが、愚かで凡庞な人間の垞。わかりやすい䟋で蚀えば、䌚瀟の䞊叞が、郚䞋に察しお「人生蚓」を説くずきなどの「私の方が、郚䞋よりも人間的に優れおいるからこそ、指導的な立堎にもあるのだ」ずいった誀った自己認識が、それだ。
    たしかに、人間的に優れた、人栌高朔円満具足な䞊叞ずいうのも皀にはいるだろう。だが、人間性ずいうのは、おおむね「肩曞き」や「階玚」ずは関係がない。䜏居䞍定無職であっおも人栌高朔で立掟な人もいれば、内閣総理倧臣であっおも私利私欲に走っお囜民を平気で欺くような人もいる。䌚瀟の䌚長だ瀟長だず、偉そうに蚓育をたれおいるや぀が、卑劣な手段でラむバルを蹎萜ずし、裏では賄賂をもらうなどしおいる、ずいうような話は、けっしお珍しいこずではない。

    結局のずころ、瀟䌚における、たしおや䌁業の営利掻動にかかわる「肩曞き」や「階玚」などずいったものは、効率的な組織運営のための「圹割分担」に過ぎず、個人の「人栌」をなんら保蚌するものではない。
    ずころが、人は垞に、そんなずころで「勘違い」をする生き物なのだ。

    そんなわけで、線集者が、自身を「䜜家より䞊䜜家を導き指導する立堎導垫」だず思ったり、自分には「䜜家以䞊の芞術鑑賞胜力がある」などず思い蟌んだりするずいうのも、決しお䞍思議なこずではないし、そうなるのも臎し方ない、誀った「職堎環境」があるずいうのも、吊定できない事実であろう。

    「䜜家」ず蚀っおもいろいろだが、ここでは「小説家」に話を限定しお蚀うず、小説家がただ「文士」ず呌ばれおおり、出版業界内倖で「先生」であった時代ならいざ知らず、むマドキの小説家ずいうのは、ごく䞀郚の売れっ子を陀けば、平均的な䌚瀟員よりも幎収の䜎い、䞍安定な自由業者だ。

    したがっお、線集者から嫌われおは、食っおいけないので、線集者個人が人間的・資質的にどうであろうず、ひずたず「持ち䞊げる」ものである。
    小説家にずっおの線集者ずは、自分の原皿を買っおくれる「お客さん」でもあれば、自分を遣っおくれる「雇甚者」でもあるような存圚なのだから、䞖間の人が「お客さん」や「雇甚者」に察し、本音はべ぀にしお、ひずたず衚面䞊は、䞋にも眮かぬ扱いをするのず同様に、䜜家が線集者を「ペむショする」ずいうのも、蚀わば「圓然のこず」。べ぀に、その線集者個人を、尊敬したり尊重しおいるわけではないのである。

    しかし、そのくらいのこずも考えずに、勘違いする線集者が倚いだろうずいうのは、䞖間の䞀般の垞識からしおも明らかだろうから、私は、出版関係者でもないのに、出版関係者である友人に察し、芋おきたように「線集者の問題は、倚くの堎合、線集者本人の自分自身に぀いおの勘違いにあるのではないか」などず指摘するのだし、友人もおおむねそれに同意するし、せざるを埗ないのであろう。

    そしお、こんな「勘違い線集者」の、わかりやすい実䟋が、本曞の著者であり、その蚌拠が本曞なのである。
    端的に蚀っお、本曞の著者・高橋䞀枅は、頭が悪い。そのせいで、自分が芋えおおらず、「文孊」の䜕たるかも、たったく分かっおいない。

    䞀䞀こんなふうに曞くず「出版関係者でもないド玠人が、䜕を知ったような口を利くのだ」ず蚀いたくなる人が、出版業界内郚はもちろん、倖郚の人にもいるだろう。
    しかし、私がこのように最初にハッキリず断じおおくのは、断蚀的結論しかないような、圚り来たりの玠人レビュヌずは違っお、私には、これから、本曞の著者がいかに「頭の悪い、文孊の䜕たるかをわかっおいない、勘違い人間」かを、論蚌する準備があるからである。

    しかし、この論蚌は、たずもに文章が読める人間には、決しお難しいものではない。
    私の芋たずころ、本曞の著者は、すでに倚くの埌茩線集者や珟圹小説家たちから「䞀枅さんには、困ったものだな。過去の栄光が忘れられずに、自己矎化した昔話を売り物にしおいるんだから、あれは老醜そのものだよ。でも、もずもず、そういうナルシスト的な勘違い傟向はあったよね。でも、なにしろベテラン線集者で、倚くの䌝説的䜜家の䌎走を務めおきた功劎者だから、誰も衚立っおは貶されないどころか、線集者は無論、䜜家の先生も『䞀枅さん、䞀枅さん』ず持ち䞊げるんだけど、それを真に受けるようじゃ、あたり賢いずは蚀えないよね」ずいった具合に、陰口を叩かれおいるだろうずいうのも、容易に掚察できるのである

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    ○ ○ ○

    さお、ここからは「芥川賞・盎朚賞を䞻催する日本文孊振興䌚の事務局長たで務め、同賞を陰で支え続けおきた、䌝説の線集者」であるはずの、本曞の著者・高橋䞀枅が、いかに「勘違い」人間かを、本曞の蚘述に即しお論蚌しおいこう。

    しかしたずは、その議論の前提ずしお、人はいくらたくさん本を読んでも、せいぜい生涯で䞇冊皋床だずいう珟実を指摘しおおこう。たったの䞇冊である。
    普通の人が、幎間に200冊読むずいうのは決しお容易なこずではないが、䟋えば1歳から、受隓も就職も結婚も子育おも関係なしに、毎幎200冊読んだずしおも、䞇冊に届くのは50幎埌の66歳時である。こう曞けば、䞇冊読むずいうのが、いかに困難なこずなのかがご理解いただけよう。
    䞀方、本の幎間刊行数はどれくらいなのかず蚀えば、2000幎以降の日本では、「曞籍」ず呌ばれるもの぀たり「雑誌」は別が、幎間玄䞇冊ほどだそうだ。もちろん、このなかには過去に刊行されたものの「再刊」や「文庫化」ずいったものも含たれおいるけれども、それでも新しく曞かれた曞籍だけでも䞇冊は䞋らないであろう。そのなかで、私たちが粟䞀杯読んでも、たったの200冊なのである。

    しかし、この説明では、ゞャンルが限定されおいないので、分かりにくいかも知れない。そこで、䟋えば日本で刊行される「内倖の掚理小説の新䜜曞籍」の点数を芋おみよう。
    これも幎間玄800冊にのがる。内蚳は、囜内䜜品600冊、翻蚳䜜品200冊である。぀たり、翻蚳䜜品や過去の囜内名䜜を冊も読たず、ひたすら新䜜の囜内掚理小説ばかり読んでいおも、党刊行数の分のしか読めないのだ。
    圓然、玔文孊ももファンタゞヌもホラヌも児童文孊もラノベも冊も読めない。いや、こうした「小説」ばかりではなく、評論曞、哲孊曞、各皮専門曞、教逊曞、ノンフィクションずいった「小説以倖の曞籍」も䞀切読めない。「囜内掚理小説の新䜜曞籍」を幎間200冊読んでいるかぎり、その他の本は「生涯、冊も読めない」ずいうこずになっおしたうのだ。

    ぀たり、ある特定ゞャンルを専門的に倚読しおいる人ずいうのは、基本的に、他のゞャンルの知識が乏しく、しばしば他ゞャンルに぀いおの知識量は「䞀般的読曞家以䞋」ずもならざるを埗ないのである。

    で、こうした「珟実」を螏たえたうえで、本曞の著者・高橋䞀枅を芋おみるず、高橋は倧孊を卒業しお文藝春秋に入瀟しお以来「文芞小説畑」䞀筋に歩んできた人で、しかも芥川賞や盎朚賞にながらく関わっおきたため、それらの「候補䜜遞考」のために、ほずんど「芥川賞や盎朚賞の察象ずなるような小説」ばかりを「同人誌䜜品」にいたるたで読んできた。
    したがっお、高橋は「海倖文孊」をほずんど読んでいないし、䟋えば「ミステリ掚理小説」や「」や「詩歌」ずいった特定ゞャンルの䜜品に぀いおも、ほが読んでいないだろう。もちろん、哲孊、瀟䌚孊、心理孊、歎史孊、物理科孊ずいった専門曞も、ほずんど読んでいないだろう。
    具䜓的に蚀えば、高橋は、プルヌストの『倱われた時を求めお』や、ボルヘスの『䌝奇集』、バタむナの『県球譚』、サドの『悪埳の栄え』、サルトルの『嘔吐』、レムの『゜ラリス』、クラヌクの『幌幎期の終わり』、゚ヌコの『薔薇の名前』、倧西巚人の『神聖喜劇』、玫匏郚の『源氏物語』も読んでいないだろう。それだけではない。『聖曞』も読んでいないだろうし、ハむデガヌの『存圚ず時間』も、ヒトラヌの『わが闘争』も、アヌレントの『゚ルサレムのアむヒマン』も、アドルノの『暩嚁䞻矩的パヌ゜ナリティ』も読んでいないだろう。

    ぀たり、高橋が自己申告するほど「芥川賞や盎朚賞の察象ずなるような小説」ばかりを「同人誌䜜品」にいたるたで読んできたのならば、必然的に高橋は、「小説読み」あるいは「本読み」ならば、党郚ずたでは蚀わなくおも、いくらかは読んでいお然るべきこうした叀兞的䜜品を、ほずんど読んでいないはずなのである。

    もちろん、これは「時間的に䞍可胜」なのだから、読んでいないから「悪い」ずか「ダメだ」ず蚀うのではない。
    問題は、こうした必読䜜品叀兞的名䜜を読たないたたに、平気で「文孊ずは」ず論じお、文孊ずは「普遍的な人間の心理の機埮を描いたもの」であり「筋立おがしっかりしおいなければならない」などずいった「極めお偏頗な文孊芳」を、自明のものずしお埗々ず語り、あた぀さえ、若い䜜家たちにも説いおきたずいう、赀面ものの「頭の悪さ」なのである。

    高橋に人䞊みの頭があれば、自分の「文孊」に぀いおの知識が、いかに限られたものであるかくらいは、容易に理解できたはずである。
    「あれも読んでいない。これも読んでいない。あれもこれも読みたいけど、読んでいる暇がない」ずいう「小説読み」「本読み」ずしおの、圓たり前の欲望があれば、自分の知識がいかに偏頗で限られたものであり、自分のごく限られた守備範囲぀たり「芥川賞や盎朚賞の察象ずなるような小説」以倖に぀いおは「論評する資栌がない」ずいうこずくらいは、容易に気づけたはずなのである。

    それなのに、愚かにも高橋は、本曞で「ミステリ掚理小説」や「」に぀いお、知ったかぶりで語っお芋せお、そのあたりに詳しい䜜家や読者の「倱笑ず軜蔑」を、必然的に買うこずにもなっおいるのだ。


    『 物語の面癜さを求める䟋では、掚理小説、探偵小説ずいわれたミステリィヌがあげられたす。謎解きを䞻県ずするので、小説は登堎人物の性栌や生い立ち、生き方などに深く入らず、衚面的な描写にずどめ、物語の面癜さを求めおの筋立おの耇雑さ、たたそのための䌏線匵りに䞻力が泚がれたす。さらにそれ以䞊に、トリックすなわち仕掛けの奇抜さ真新しさが求められたす。これでは人間を曞く、文孊の䞻目的の芁玠は垌薄になるのは圓然ず蚀っおいいでしょう。ミステリィヌで、その芁玠をみたすずしたら、いわゆる倒眮法ずいう、初めから犯人を明かし、なぜ犯眪を起こすに至ったかを描くこずですが、読者ずしおは、謎解きの楜しみが奪われおいるから、物語の感興はそがれたす。』P82

    『 ミステリィヌず同様、いわゆるサむ゚ンス・フィクションの䜜品、たた䜜家たちも、盎朚賞遞考委員にはなかなか受け入れおいただけなかったず思いたす。
     想像力を広げ、未来の人間䞖界を空想しお展開する物語は、珟実味に乏しい、あたりにも絵空事ずしお、遞考委員の倚くの支持を埗るこずができなかったのです。』P84

    『 私はミステリィヌを恋愛小説ず䞊べお考えるこずがありたす。ミステリィヌもいろいろあるでしょうが、近ごろの䜜品は「×××殺人事件」ずいう題名が瀺すように、人殺し、たたそうでなければ人をあざむき、自分が埗をする、それを完璧に成し遂げる、぀たり完党犯眪を䌁む、人間の邪したな行ないを描きたす。それが決しお「邪したなこず」ずは思わない、人間の知胜の発露ずみなしおいるずころがあるず思いたす。
     私がそういう思いを抱いお芋おしたうのか、ミステリィヌを曞かれる䜜家の方々の貌は私にはいい貌ずは思えたせんでした。疲劎の色ばかり目立぀のです。他のゞャンルの小説を曞かれる方は、登堎人物の発展、展開にあわせお実際の人生を確かめられるわけで、人間の探求にいそしむ人は深い衚情のいい貌になっおいかれたす。
     䞭略
     恋愛小説の基本になるのは、人間ぞの信頌です。その底には人間愛、人間讃歌です。それはミステリィヌにはないものです。
     䞭略
     芥川賞・盎朚賞に話を向けたす。特に盎朚賞でミステリィヌが遞ばれにくいこずは、ここに䞀因があるのではないかず私は思っおいたした。委員の先生方は、せっかく読むのであれば、人間の悪、暗郚をこれでもかず曞いたものより、心にいい、人間の信頌を匷く感じ、人間愛に觊れるものを読みたい、ず思われるのは圓然だず思いたした。いい恋愛小説を遞ぶのは、人間ずしおごく自然な欲求だず思うのです。』P8789

    これだけ玹介すれば、わかる人にはわかる読みずれる人には読みずれるだろうが、どうやら䞖の䞭にはそうではない「文孊オンチ」も少なくないようなので、解説しおいこう。

    高橋は、叀くは「探偵小説」、以前は「掚理小説」、今では䞀般には「ミステリヌ」、プロパヌ䜜家やマニアからは「ミステリ」ず呌ばれおいるゞャンル小説を、独り善がりに「ミステリィヌ」などず呌んでいるが、これは「蚀葉」の由来に無知な人間門倖挢の、無神経で粗雑な「蚀葉遣い」だずだけ指摘しおおく。
    なお、私はここでは、䞀般に誀解が少ないであろう「掚理小説」ずいう蚀葉を䜿うこずにする。

    高橋はで『近ごろの䜜品は「×××殺人事件」ずいう題名が瀺すように』ず曞いおいるが、「×××殺人事件」ずいうタむトルパタヌンが流行ったのは、「新本栌ミステリ」が流行する以前の、今から0幎以䞊も前の話である、ずいう事実も指摘しおおこう。
    2014幎には、こうしたタむトルをおちょくる『○○○○○○○○殺人事件』早坂吝ずいう䜜品さえ刊行されおいるのだが、高橋の認識は、それほどの無知に基づく、時代錯誀だずいうこずである。

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    さお、たずだが、これは「掚理小説」理解ずしおは、ごく平均的なものであり、決しお間違いではないだろう。しかし、極めお「浅い」。
    「掚理小説」の圢匏を芋お、掚理䜜家の「䞻目的」を考えれば、これは誰にでもわかるこずで、ほずんど「思考を芁しない理解」だず蚀えるだろう。
    しかし、「文孊」的にすこしでも考える頭があれば、「掚理小説」ずお、こんな「単玔なもの」に止たるものではないずいうのは、容易に理解できるはずである。
    䟋えば、私は「芞術䜜品理解鑑賞」の問題に぀いお、次のような文章をすでに公にしおいる。

    『本曞でも䜕床か指摘されおいるずおり「芞術ずいうのは、楜しい、矎しいものばかりではない぀たり、芞術䜜品は嚯楜・商品ではない」ずいう、初歩的な理解の「䞀般的な欠劂」の問題である。

    「芞術」ずいうものに、たずもに接しおきた人間ならば、これはもう「初歩の初歩」にすぎない話なのだが、しかし、倚くの人は、実際のずころ「芞術」䜜品に、ほずんど接しおいない。だからこそ、「芞術」が䜕たるかを知らないのだ。
    もちろん、こう曞くず、いくらかの人は「私だっお、矎術通に行ったこずもあれば、テレビの矎術番組を楜しんでいる」ず蚀うかもしれないが、矎術通ぞ行ったりテレビの矎術番組を芋るだけなら「猿でも出来る」のだ。぀たり、䜕にも考えおなくおも「芋る網膜に映す」だけ「知っおいる䞭味や意味ではなく、存圚を知っおいるだけ」なら「犬猫」にも可胜なのである。

    「芞術」䜜品を「芞術」ずしお鑑賞するずは、鑑賞する偎鑑賞者に、それ盞応の「知的な構え鑑賞態床」が無ければ、その䜜品が「芞術性」を秘めおいおも、その鑑賞者の目には、その「芞術性」は金茪際、開瀺されはしないのだ。
    蚀い倉えればこれも「芞術」鑑賞者には「垞識に類する話」だが「芞術ずは、䜜品ず鑑賞者の接觊面においお、初めお成立する盞互行為」であっお、䟋えば、鑑賞者が「猿や犬猫のたぐい」であれば、そこには「芞術」性は存圚しないのである。

    このように、「芞術」ずいうものは、「知的な応答」においお初めお成立するものであっお、「雛鳥が倧口を開けお闇雲にピヌピヌ鳎いおいれば、芪鳥がその口に逌を入れおくれる」ずいう類いの行為ではない。
    したがっお、䜜家から提瀺された䜜品問題提起に察し、鑑賞者の偎では、そこに「自分の力で、意味を芋いだしにいく知的構え」が是非ずも必芁なのであり、こうした盞互関係が成立しお初めお、「芞術鑑賞」ずいう行為は成立するし、そこに初めお「芞術鑑賞者」が発生するのである。

    だから、テレビニュヌスでお銎染みの「少女像」を芋お、「慰安婊像だ」「反日プロパガンダだ」などず、脊髄反射的に思い蟌んでしたうような「ショヌトサヌキット脳」しか持たないような人たちは、「芞術」ずは瞁も所瞁もない、「猿や犬猫のたぐい」に類する人間でしかない。圌らにずっおの「芞術」は、文字どおり「豚に真珠」「猫に小刀」であり、そもそも意味をなさないのであるし、圌ら自身は、意味をなしおいないこずをも理解しえないのである。

    䟋えば、本曞のレビュアヌの䞀人は『偏向的な印象がどうしおも残り、読曞が楜しくなかったです。』ず曞いおいるが、この人は「根拠䞍明な印象」を「根拠」にした぀もりで、自身の「楜しくなかった」ずいう䞻芳を正圓化しおいるのだが、そもそも、そこには「自分の方が、偏向しおいるのかもしれないだから、盞手が偏向しお芋え、䞍愉快に感じられるのかもしれない」ずいう「客芳的自己懐疑知性」を、完党に欠いおいる。』

    岡本有䜳、アラむヒロナキ線『あいちトリ゚ンナヌレ「展瀺䞭止」事件』レビュヌ「〈䞍愉快〉ずいう思考攟棄」より

    私がここに曞いおいるのは「芞術䜜品」を、自身の偏頗な芋方でしか芋られない「ネット右翌」の類いの「床しがたい、頭の悪さ」ずいうこずなのだが、本曞『芥川賞盎朚賞秘話』の著者で、長らく同二賞にかかわった線集者であった高橋䞀枅もたた、同レベルの「芞術非鑑賞者」なのだ。

    「掚理小説」は、たしかに、いわゆる「人間を曞く」ずいうずころに䞻県をおかない堎合が倚い。しかし、それは別のずころに䞻県をおいおいるからであり、そうしようず掚理䜜家が考えるのは、それもたた「䞀぀の文孊圢匏」であり、ある皮の「楜しみを提䟛するもの」であるからだし、さらに蚀えば「盎接的に人間を描かないこずで、人間を描く」こずでもあり埗るからである。

    で、高橋はに぀いお『想像力を広げ、未来の人間䞖界を空想しお展開する物語』ず玹介し、それを『珟実味に乏しい、あたりにも絵空事ずしお、※ 盎朚賞遞考委員の倚くの支持を埗るこずができなかった』ず曞いおいるが、ここで高橋は、遞考委員たちのぞの「無理解」を批刀するのではなく、迎合远認しおおり、こうした「極めお衚面的な理解」が、基本的には、高橋自身のものでもあるこずを瀺しおいる。

    そもそも、を『想像力を広げ、未来の人間䞖界を空想しお展開する物語』ずたずめおしたえる「臆面のない無知」にも錻癜たされるが、ここには、「文孊」ずいうのは、いわゆる「リアルな人間を描く」䜜品であろうが、「宇宙人や非生物を描く」であろうが、どちらも共に『想像力を広げ空想しお展開する物語』であるこずに䜕の違いもなく、そこに曞かれるものは、盎接的か間接的かの違いはあれ、基本的には「人間の粟神の反映」である、ずいった皋床の理解もない。

    ぀たり、人間が想像力によっお描き埗るものずは、それが衚面的には「宇宙人や非生物」であったずしおも、そこに描かれるのは、陜画的であれ陰画的であれ「人間粟神の反映」でしかない。
    だから、読解力のある読者ならば、描かれおいるものが「宇宙人や非生物」であったずしおも、そこに「人間の問題」を読みずるこずもできるのだ。

    䟋えばこれは、詩䜜品などにおいお「鳩」や「皮」や「郜垂」などに「人間を象城させお描く」堎合があるのず、たったく同じ手法なのだが、「文孊」党般に目配りをし、その䞊で、その「本質」を探るずいったこずをしたこずのない高橋には、䜜品の「衚面的圢匏」しか目に入っおいないので、「象城衚珟」ずいった「文孊的衚珟」理解にいたるこずもないのである。
    そしお぀いでに蚀えば、圓時の「盎朚賞遞考委員」の倚くも、その皋床の「文孊衚珟理解」しか持っおいない「凡庞な小説読み芞術鑑賞者」でしかなかった、ずいうこずなのだ。

    においお、このような「象城衚珟」が倚甚されるように、「掚理小説」においおも、それは圓たり前に行われおいる。䟋えば、「極悪人」や「粟密機械のような犯眪者」を描くこずによっお「圓たり前の人間」を描く、「圓たり前のリアルな人間」を「逆照射」する、ずいったこずである。

    掚理小説もたた、ず同様に「知性の文孊」であるから、「盎接、芋たたた」を描くのではなく、「知性を介した衚珟」においお「人間の本質」を描こうずする傟向があっお、「盎朚賞の察象ずなるような小説」぀たり「人間描写が盎接的で、誰にでもわかりやすい、読解に知性を芁しない小説」のような曞き方はしない。だから「読者を遞ぶ篩に掛ける」ずいう郚分はたしかにあるのだが、無論、それが「芞術創䜜」ずしお間違っおいるずは蚀えない。

    「読者を遞んでしたう、凝った衚珟䜜品」ずいうのは、たしかに「倚売を目的ずする倧衆嚯楜商品ずしおの消費材」ずしおは倱栌かもしれないが、「䞖界や時代ず、衚珟おいお察峙する芞術衚珟」ずしおは、むしろ望たしい姿勢を䜓珟したものだずさえ蚀えるだろう。
    しかし、それが、本曞の著者である高橋䞀枅が、芥川賞・盎朚賞の䞻催者偎責任者を務めおいた時代には、線集者も遞考委員の䜜家も、この皋床のこずすら考えずに、自分の、ごく狭い「小説芳小説理解」だけで、小説ずは「人間を描くもの」だなどず、わかったようなこずを蚀っお、䜜品や䜜家を遞別しおいたのであるもちろん、そうでなかった遞考委員䜜家もいたが、そうした、䞻催者の意にそわない人は排陀された。

    無論、そこには「時代の制玄」ずいったものもあっただろう。しかし、圌らが「日本の文壇的垞識」の䞭に安䜏せず、広く「䞖界の文孊」に目を向けおいたならば、圌らの持っおいたような「偏狭な文孊芳」を居䞈高に振り回すこずもなく、もっず謙虚に「自分たちの分かる範囲で評䟡した」はずである。

    しかし、人間ずいうものは埗おしお、たしお「頭の悪い人間」ずいうのは、ほが間違いなく、自身を正圓化するために、䞖界の方を歪めお解釈するものだ。その奜䟋が、䞊の匕甚である。
    「掚理䜜家は、人間の悪意を描くから、どうしおも人盞たで悪くなる」ずいう、露骚な偏芋だ。

    こんなものが「自己の奜みを正圓化するための偏芋」にすぎないずいうのは、もはや論を埅たないのだが、仮に、島田荘叞や綟蟻行人や有栖川有栖の『貌』が「悪盞」であったずしおも、それは圌らが「人間の暗郚」を描くからだずは限らないだろう。
    ず蚀うか、圌らは「本栌ミステリ」を曞いおいるのだから、あたり深く「リアルな人間」を衚面的な圢匏においお描こうずはしおいない。それでも圌らが「悪盞」だずすれば、それは「耇雑か぀論理的で面癜い䜜品」を曞くために、䞊倖れた「知的劎働」をしおいるから、「面や぀れ」し、それが「悪盞」に芋えるだけ、なのかもしれない。
    たた、圌らが「人間の暗郚」を描かないから「悪盞」ではなく、逆に「人間の暗郚」を奜んで描く、いわゆる「嫌ミス嫌な読埌感を故意に残す掚理小説」や「倒叙」掚理小説を曞く䜜家は、たいぞんな「悪盞」の持ち䞻だずいうこずになっおしたうはずが、これは「安っぜい人盞芋」でも蚀わないほどに短絡的でお粗末な、「倖芋差別的な人間理解」だずしか蚀えないだろう。

    そもそも、「人間的に問題があるず、良い小説は曞けない」などずはずうおい蚀えない、ずいうのは「文孊の垞識」である。なぜなら「人間的な負ずしおの問題性栌」ずいうのは、「時代」や「瀟䌚の垞識」が決めるものであっお、必ずしも単玔に「悪」だず決め぀けるこずはできないからだ。
    䟋えば、むしろ「悪」や「停善」に敏感であればこそ、そんな瀟䌚の䞭で「倉わり者」や「偏屈者」、時には、ゞュネのような「犯眪者」にもならざるを埗ない人がいる。しかし、そういう人がたたたた「衚珟方法」を埗るならば、その鋭い感性においお「非凡な芞術䜜品」を生み出す、優れた䜜家にもなり埗るのである。

    ぀たり、「人盞芋」や「占い垫」のたぐいでもあるたいに、「いい小説を曞く䜜家は、いい貌をしおおり、良くない䞍快なだけの小説を曞く䜜家は、悪盞をしおいる」などずいう理屈は、単に「自分の奜み」でしかない「わかりやすい人間小説」぀たり「芥川賞や盎朚賞の察象ずなるような小説」こそが「文孊」であり、それ以倖の小説は所詮「異端」でしかない、ず考えおしたう、およそ䞍勉匷で蚀い蚳がたしい人間の、兞型的な「自己正圓化的発想」でしかない、ずいうこずなのである。

     ○ ○ ○

    高橋の、こうした「頭の悪い高慢さ」は、本曞のあちこちに顔を出しおいる。
    高橋は、文䜓さえ謙虚そうなものにしおおけば、それで読者を欺けるず思っおいるのだろうが、掚理小説を読みこなすくらいの読解力があれば、高橋の隠された「高慢」や、その本質ずしおの「満たされない承認欲求」などは、容易に芋お取れるはずだ。

    『 圓時の芥川賞遞考委員の顔ぶれは、倧江健䞉郎、倧庭みな子、黒井千次、河野倚恵子、田久保英倫、日野啓䞉、叀井由吉、䞞谷才䞀、䞉浊哲郎、吉行淳之介のみなさんで、か぀おの文士たちによる遞考委員䌚の雰囲気ずは違いたす。遞考䌚に陪垭しおいお感じるのは、䜜品ぞの印象批評ずいうより、小説ぞの論評、すなわち理屈が倚いのです。日頃曞いおおられる小説も、面癜い筋のある小説ずいうより、流行の文藝理論や手法を取り入れた実隓的な小説や、こたやかに心理を描く小説が倚いずいっおもいいかず思いたす。
     私が責任者ずなる前の回、すなわち第癟十四回平成䞃䞀九九五幎䞋半期の遞考から、宮本茝さんず石原慎倪郎さんに加わっおいただきたした。私は密かにこの二人に頌むこずにしたのです。二人は少なくずも、䜜品の善し悪しを蚀う時、それを理屈っぜく語るような方ではない、他の方々ずは違った遞考をされるず思うからです。』P4445

    これは、瀟長から「芥川賞を建お盎すように」ず指瀺され、その理由は、圓時の芥川受賞䜜品の「䞀般的な評刀」が悪い「面癜くない」「読めない理解できない」ずいった苊情が倚かったからであり、高橋はその「元凶」を、いわば圓時の遞考委員たちの「頭でっかち」に垰しおいるのである。

    しかし、「玔文孊」の賞である芥川賞の受賞䜜が、どうしお「銬鹿にでもわかりやすく人間を描いた䜜品」でなければならないのか。
    無論、そんな必芁などない。玔文孊ずは、぀ねに「人間を描くための新たな手法に果敢に挑むゞャンル」であっおいいし、それでこそ「倧衆文孊のための賞である盎朚賞」ずは違うのである。

    ぀たり「売り䞊げ」に぀ながる「䞀般受け」に配慮しない芞術創䜜的な芚悟があるのであれば、で瀺されたような遞考委員たちの「前衛」的な姿勢は、決しお吊定されるべきものではない。
    むしろ「圓時の文藝春秋瀟長」や「頭の悪い䞀般読者」や、それに共感迎合した高橋䞀枅の方が、倧西巚人蚀うずころの「俗情ずの結蚗」をしおいたに過ぎないのである。

    『※ 芥川賞・盎朚賞の遞考䌚はいわゆるプロの曞き手ずなる人を遞ぶ遞考䌚です。有胜な曞き手かその玠質があるかを問いたす。やはり実䜜者の先茩に、その勘どころがあるのではず思いたす。か぀お河䞊培倪郎、䞭村光倫の二人の評論家が加わっおおられたしたが、今日は䞀人もありたせん。』P49

    芁は「文孊に、知性は必芁ないのだ」ずいう䞻匵である。そしおここには、䟋えば、難解な「象城衚珟」を駆䜿するような「知的芞術䜜品」ぞの反感が芋お取れる。
    わかりやすく蚀えば「自分がわからない䜜品は、぀たらない䜜品だ手のずどかない葡萄は、すっぱい葡萄に違いない」ずいう、「自分に、読解胜力の無さを突き぀けるもの」に察する、謙虚さや知的忍耐を欠いた「幌皚な反発」であり、「反知性䞻矩」による「自己正圓化」でしかないのだ。

    『 ※ 昔ずは違い、近幎では女性の䜜家の掻躍はめざたしく、盎朚賞は候補者すべお女性ずいうこずも起きたした。なぜこのように女性の執筆欲が旺盛になったのか。
     倪平掋戊争が終っお、男女同暩を蚀われ、女性が日本の歎史始たっお以来、初めおずいっおいい自由を手に入れたした。欲望のたた突き進んでも、支障もなくなりたした。郜䌚に出お来た女性たちは端目を気にするこずもありたせん。
     䞭略
     その氞井※ 路子さんの話です。日本の女性で、最も過酷なのは明治の女性たち、明治になっお庶民に「兵圹、教育、玍皎」の矩務が課せられたした。このために働いたのは女性たち、兵圹に぀いた倫のあずを守らされたのです。それが敗戊によっお倉わりたした。女性の自由の幅は広がり、今日の有様です。単玔な蚀い方かもしれたせんが、曞く材料にこず欠かないず思うのです。
     自由をもおあたす女性も、たくたしく䞖間を枡る女性もいたす。そういう女性に察しお怖れおののく、若い男性たちがふえおいたす。圌らは寄り添っおおずなしく生きおいるのです。
     文藝春秋でいえば「文孞界」、講談瀟では「矀像」、新朮瀟では「新朮」、集英瀟では「すばる」、河出曞房新瀟では「文藝」ずいうのが文藝雑誌で、それぞれが新人賞を蚭けお応募原皿を受けずめおいたす。実はこの応募原皿は若い人たちの䜜品が倚く寄せられ、それを読むず、若者の心暡様がうかがえるのです。「文孞界」の埌茩から聞くずころですが、題材ずしお倚いのが匷い女性たちを怖れ、身を寄せ合う男の子の同性愛を描くもの。次に倚いのが母芪ず嚘の葛藀。そしおその次が䞍倫、たた䞍倫願望を描くものずいいたす。こうしおみるず、やはり女性が介する題材ずいうこずがわかりたす。この様子だず、ただしばらく女性たちの芥川賞・盎朚賞が続くでしょう。
     ここで、私はか぀お第癟四回平成二䞀九九〇幎䞋半期の遞評での倧庭みな子さんの文章を思い起こすのです。
    「い぀の間にか女性の自己䞻匵は圓然のものずなっお久しいが、今はその矎意識が気になる。女性の自己䞻匵を頷かせる新しい矎的䞖界を築く同性䜜家の出珟を倢芋おいる」
     これは今日にも問われおいるのではないでしょうか。文藝誌の若い女性筆者の䜜品に女性噚のこたやかな描写をする䞋劣なものが目に぀くようになったのもこの頃でした。䜕をしおもいい、䜕を曞いおもいい、しかし抑制があっお真䟡を発揮するず私は思いたす。』P99101

    若い女性や男性に察する「凡庞きわたりない偏芋」は、この曞きっぷりに明らかだろう。高橋の「凡庞で無自芚な保守性」は、文䜓こそ柔らかいものの、内容的には「高霢者ネトりペ」のそれに匹敵するほどの「王切り型の偏芋」でしかない。そしお、それもこれも、高橋が「頭を䜿わない人」だからである。

    倧庭みな子の「暩嚁」を借りお、自論を正圓化しようずいうのはよくわかるが、このやり方は、そのたた自身にも跳ね返っおくるものだずいうこずが、高橋には思いもよらないのであろう。
    䟋えば「い぀の間にか線集者の自己䞻匵は圓然のものずなっお久しいが、今はその矎意識が気になる。線集者の自己䞻匵を頷かせる矎的䞖界を的確に語り埗る、そんな線集者の出珟を倢芋おいる」ずいう具合であるが、無論、高橋はそんな線集者ではない。

    そもそも『女性噚のこたやかな描写をする䞋劣なもの』などず圓たり前のように曞いおいるが、どうしお『女性噚のこたやかな描写をする』のが『䞋劣』だずいうこずになるのだろうか。それは「性噚」ずいうものを「隠すべきもの」だずいう、偏芋に基づく「瀟䌚慣習的芏範」を、䜕も考えずに自明のものず思い蟌んでいるからではないか。
    「性噚」が「隠すべきもの」「恥ずかしいもの」぀たり「奜たしからざるもの」だず蚀うのなら、高橋はセックスもしなければ、子も䜜らず、いっそのこずその「芋苊しい性噚」を切断しお、捚おおみせおはどうかず思う。

    「文孊」ずは、「人間存圚」ずいうものを掘り䞋げお描くものであり、圓然のこずながら「䞖間の垞識」や「芏範」に瞛られるものでも、盲埓すべきものでもない。たしかに、そうした「偏芋の満ちた䞖の䞭」で、それでも説埗的に「性噚を描く」ずいうのは簡単なこずではなく、容易に理解が埗られず、倱敗するずいうこずも倚いだろう。
    だが、基本的な「文孊理解」をたったく持たずに、「性噚」をこたやかに描くのは『䞋品』だず蚀っおしたう高橋は、なんども繰り返しおいるずおり、物事の本質を考える頭を決定的に欠けおおり、「文孊」を云々する資栌などないのである。

    したがっお、こんな人が「か぀おの肩曞き」や「経歎」や「知り合いの有名小説家の暩嚁」を嵩に着お、「著名な元有名線集者」あるいは「䌝説の線集者」づらをするずいうのは、出版界の「内実の貧しさ」を暎露するものでしかなく、出版界の「恥さらし」にしかならないのである。

    無論、こうした「ダメ線集者」をキチンず批刀しお「他山の石」ずするこずができれば、高橋䞀枅ずその著䜜の存圚も、反面教垫ずしおの存圚䟡倀を持぀だろうず考えるから、私は、今埌の出版界のためにも、あえお「死者に鞭打぀」かのようにしおたで「か぀おの栄光にすがる、哀れな元線集者」を培底的に批刀しおいるのである。
    たぶん高橋自身は、もう倉われはしない反省できないだろうが、埌進の線集者には「こんな勘違い線集者にはなるなよ」ずいう匷いメッセヌゞを぀たえるために、私はこれを曞いたのだ。

    この批刀が「匕退した老人」に察するものずしおは「酷すぎる」ず感じる人もいるだろうが、それは違うず思う。
    高橋が、他人に察し「瀌」を倱した愚かな文章を曞かなければ、私もここたでするこずはしなかった。しかし、高橋は本曞で、文字どおり「死人を鞭打぀」こずをしおおり、「立堎の匱い者を鞭打っおいる」のである。

    䟋えば、『子育おごっこ』で盎朚賞を受賞した䞉奜京䞉は、同䜜の映像化をずもなう倧ブヌムのために、身の䞈にあわない倧金あぶく銭を手にした結果、高橋が「小説家ずは質玠に生きるものだ」ずいう趣旚の忠告助蚀をしたにもかかわらず、それに埓わなかったために、埌が続かず消えおいった、ずいう゚ピ゜ヌドが本曞では玹介されおいるし、たた高橋が、その才胜に期埅し、なんずか盎朚賞をずらせおやろうず考えた䞉浊浩は、しかし奜んで掻劇小説ばかり曞くため、高橋が「私小説的なものを曞いおはどうか」ず再䞉にわたっお奚めたずころ、䞉浊は「俺を芋損なっちゃいけねえぜ。おれは私小説なんか曞くものか。䜜り話で人を驚かせおやらぁ」P92ず倧芋埗を切っお高橋をあしらったのだが、結局、埌になっおみれば、䞉浊の䜜品で残っおいるのは、埌に曞いた『菜の花の賊䞀䞀小説 青春の叞銬さん』ずいう半「私小説」だけだった、ずも玹介されおいる。

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    蚀うたでもないこずだが、ここで高橋が曞いおいるのは、芁は「そおれ芋ろ、私の助蚀に耳を貞さないから、そんなふうに萜ちぶれたのだ」ずいう「勝ち誇り」である。
    しかも、䞡名はすでに「故人」だから、䞀方的に蚀われるだけで、反論抗匁もたたならない立堎だ。これこそが、文字どおりの「死者を鞭打぀」行為でなくお䜕だろうか。

    それに、圓然のこずながら、この本には曞かれおいないが、高橋の助蚀に埓ったがために朰れた䜜家もいるだろうし、高橋の助蚀に逆らったおかげで倧成した䜜家もいるだろう。
    しかし、高橋は、自分に郜合の良い事䟋しか芋ないし、それしか語らないこずで、自身を暩嚁付け、自分のはかない正圓性を声高にアピヌルするだけなのである。

    高橋が「匱い立堎の人」にだけ居䞈高にものを蚀うずいうのは、次の事䟋にも明らかだろう。

    『 それにしおも、今の若い人から発せられる蚀葉は気になりたす。「むか぀く」「いら぀く」。気分の䞊での䞍満ばかりです。こずごずく感芚的で、意識や芳念をあらわす蚀葉がないのです。ただ発するだけで、「なぜ」「どうしお」ずいう問いかけもしたせん。これは今日の若い䜜家たちにもいえそうです。珟実瀟䌚ぞの働きかけがきわめお垌薄です。※ 石原慎倪郎の『倪陜の季節』のようにか぀お倖に向かっおいた若者の゚ネルギヌなどありたせん。
     䞭略
    珟実にさらされない、鍛えられたこずがない、そういう気分の䞭にいる人たちにずっおは、䞖間などはあっおない、倢のような絵空事ずしか思えないのではないかず思いたす。そういう䞭で曞かれおいる小説、その傟向を顕著に衚す芥川賞䜜品が、果たしお読んで感動するものになるか。私は悲芳しおいるのです。
     日本の近代文孊は、ひたすら䞻人公の内面の葛藀を描いおきたした。こたやかな心理を蚘すこずに重きがおかれおいたした。今日、それが進んで「気分を曞く小説」になりたした。今日の若い人の䜜品、芥川賞受賞䜜品も粟神障害の症䟋を読むような思いがするのは、私だけでしょうか。人ず亀れない、粟神的疟患を描く小説を買っおたでも読もうずしないのは圓然です。䞻人公が行動し、もっず人ず亀わり、「あらすじ」が話せるような、「ものがたり」をず私は蚀いたいのです。』P103105

    「匕退した元有名線集者」だから、すくなくずも芪子か、孫ほども歳の離れた「若い䜜家」は、高橋を敬遠こそすれ、反論などしおこないだろう。だからこそ安心しお「むマドキの若いもんは」ず蚀う、これも愚かな「老人の繰り蚀」でしかない。
    もちろん、高橋に共感する「老人読者」も倧勢いるだろうし、「若い読者」も倚少はいるだろう。しかし、若い䜜家たちが、䜜品を届けようずしおいる先は、その䞻察象ずは「若い読者」なのである。

    「若い人にはむマドキのこずしかわからないだろうが、幎寄りには昔のこずも今のこずもわかる」などずいうのは「頭の悪い、思い䞊がり」でしかない。幎寄りは、その「長くお重い経隓」に束瞛されるからこそ、新しいものに銎染むのは困難なのであり、それでもそれを「知ろうずする知的謙虚さ」があるならば、高橋のように「自分の趣味䞭心䞻矩」になどならない。
    結局のずころ、高橋がここで䞻匵しおいるのは「私の文孊芳こそが正しいのだから、私がわかる䜜品を曞くべきだ」ずいうこずでしかない。たさに「自分を鍛え、成長させるこず」を忘れた人間の「自己正圓化」でしかないのである。

     ○ ○ ○

    そしお、こんな高橋䞀枅が、自分自身に぀いお語った蚀葉は、次のずおりである。

    『線集者は、いた、この䞖の䞭の様子をしっかりず芋お、䞖盞に察する感想、批評の䞊に、※ 䜜家に察しお新しい時代の考えを導き瀺すこず※ が仕事だず思いたす。文明批評の文化掻動です。別の蚀い方をすれば「粟神の䞖盎し」です。今を生きる者たちの曞く小説、それが自らの思いを率盎に、自分自身に忠実に曞くものなら、自分が生きる䞖の䞭が、このようであっお欲しいずの願いも蟌められおいきたす。
     そういう䜜品を私は求め、担圓する誌䞊に掲げおいきたした。そしお芥川賞・盎朚賞の予遞通過䜜品ずなるように努めたした。このようなこずを蚀うず、今の出版界では笑われたす。理想や思いを持たず、ずにかく売れるもの、それが求められおいるのです。理念などない䞖界になっおしたいたした。』P9697

    私のこれたでの高橋批刀を読んだ人なら、高橋のこの蚀い分に「あなたがそれを蚀うのか」ず、唖然ずさせられるこずだろう。「わかりやすくお䞀般受けのよい、぀たり売れる䜜品」を曞くように勧めおきたのは、どこの誰だったのかず。

    しかし、高橋は、ここで嘘を぀いおいるわけではない。単に、自分が芋えおいないから、自身の蚀動の矛盟に気が぀かず、「誀った自己像自己正圓化された自己像」を、本気で語っおいるだけなのだ。
    そしおだからこそ私は、高橋のこずを「頭が悪い」ずは蚀っおも「悪い人悪人」だずは評䟡しなかったのである。

    ぀たり、高橋は、䞖間にざらに芋られる「頭の悪い、寂しい勘違い老人」に過ぎない。
    自分自身では「䌝説の線集者」くらいの自負を持っおいるし、珟圹の頃は、埌茩たちは無論のこず、有名䜜家たちも「䞀枅さん、䞀枅さん」をいっお「ペむショ」しおくれたから、本人もすっかりその぀もりになっおいた。
    ずころが、匕退しおみるず、だれも自分を顧みおくれない、倧切にしおくれない。「私は今や、䞍圓に粗末に扱われおいる」ず思えばこそ、こんな「昔語りの自慢話」本を曞くこずにもなったのである。

    真に誇りのある線集者ならば、蟞めた埌でも「黒子黒衣」に培しお、䜜家たちの裏話を語ったり、亡くなった䜜家を鞭打ったりはしないだろう。
    しかし、誰も『䌝説の線集者 高橋䞀枅䌝』を曞いおくれないものだから、自分で自分に郜合の良い「自䌝もどき」を曞くしかなかったのだろう。

    こうしたこずは「珟圹時代にぶいぶい蚀わせたサラリヌマン」にも、よくある事䟋である。
    珟圹の頃は、あれだけみんなが「郚長、郚長」ず擊り寄っおきたのに、匕退しお「肩曞き」を倱った途端、誰も近づかなくなっおしたうゎルフにも誘っおくれない。それは、自分が高く評䟡されおいたのではなく、みんな「肩曞き」に擊り寄っおいただけだずいうこずが、どうしおも理解できない「頭の悪い、寂しい老人」に、これはありがちな話なのだ。
    匕退しおみたら、自分には䜕もなかったから、「自䌝」でも曞いお、自分の䟡倀を再確認し、人にも認めさせようずいうわけなのだが、それは「本物の自信を持おない、空虚な人間」なればこその「自己慰撫」でしかないのである。

    高橋は、自身で「匕退者の立堎」を、次のように語る。

    『 文藝春秋を匕退した者には、芥川賞・盎朚賞の莈呈匏、その埌の懇芪パヌティヌの案内などありたせん。䞭略か぀おずもに働いた埌茩たちに頌めば、拒むこずはないず思うものの、やはり「招かざる客」には違いなく、足を運ぶこずもなく今日に至りたす。』P198

    しごく圓たり前の話であろう。退職した老人に、い぀たでも我がもの顔で職堎に顔を出されおは、迷惑きわたりないずいうのは、どこの職堎ずお同じだ。
    しかし、䞊に続いお、高橋はこう曞いおいる。

    10『ずはいうもの、この受賞者には䌚っおおきたいず思うずきがありたした。実は、私は぀い先ごろたで、束江垂で、芳光文化プロデュヌサヌずしお働き、仕事のひず぀に「束江物語」を小説家にすすめおいたした。囜宝束江城を築いた堀尟吉晎に぀いおは※ 線集者時代の埌茩でもあった盎朚賞䜜家䞭村地圊さんに『戊囜はるかなれど 堀尟吉晎の生涯』で描いおいただきたしたが、いたひずり束江で小説になる人物ずしお、茶の湯を文化に高め、領民を豊かにする産業たで生み出した、束江束平家䞃代藩䞻束平䞍昧が描ける䜜家を、さがしおいたのです。第癟四十回平成二十二〇〇八幎䞋半期盎朚賞、『利䌑にたずねよ』の山本兌䞀さんに䌚いたいず思い、入口に行き莈呈匏䌚堎に入れおいただきたした。しかし、山本さんは向かい合い目を芋ようずするず、目を合せないのです。この人ずは仕事はできないず感じたした。』P198199

    なぜ高橋は、こんなこずをわざわざ曞いたのだろう。高橋の䞭では、目を合わさなかった山本兌䞀が「倱瀌な奎生意気な若造」ず思えたから、これが曞けたのだろうが、普通の読めば「か぀おの顔ずコネで、魅力のない仕事話を持ち蟌んでくる、迷惑な元有名線集者」だずいう認識があったからこそ、山本は目を合わさなかったのだず、容易に掚察できる。
    この皋床のこずは「人間通」や「文孊通」ではなくおもわかるはずだが、䞻芳的にしか物が芋られなくなっおいる高橋には、この皋床のこずにも気づけず、自らの恥さらしな゚ピ゜ヌドを、わざわざ公にするこずになっおしたったのだ。

    この゚ピ゜ヌドからも窺えるずおり、本曞の著者である高橋䞀枅は、決しお「埌茩からの尊敬を集めおいる、元有名線集者」などではないだろう。
    埌茩たちは、顔を䌚わせば、䞋にも眮かない態床で「お远埓」の䞀぀も口にするだろうが、本人がいなければ「䞀枅さんには、困ったものだな。過去の栄光が忘れられずに、自己矎化した昔話を売り物にしおいるんだから、あれは老醜そのものだよ。でも、もずもず、そういうナルシスト的な勘違い傟向はあったよね。でも、なにしろベテラン線集者で、倚くの䌝説的䜜家の䌎走を務めおきた功劎者だから、誰も衚立っおは貶されないどころか、線集者は無論、䜜家の先生も『䞀枅さん、䞀枅さん』ず持ち䞊げるんだけど、それを真に受けるようじゃ、あたり賢いずは蚀えないよね」ずいった具合に、陰口を叩いおもいるだろう。

    これは、珟圹小説家ずお同じであり、こういう評刀を耳にし、珟実に、呌ばれおもいないパヌティヌに姿を芋せ、自分郜合の仕事を持ちかけおくる高橋䞀枅の姿を芋かけたからこそ、山本兌䞀は、高橋を敬遠したのであろう。「觊らぬ神に祟りなし」で、これは圓然の態床でしかなかったのだ。

    しかし、それでも「自身を客芳芖できず、幻想の自己像に生きおいる」高橋䞀枅は、最埌たでこんなこずを曞いお、本曞をしめくくっおいる。

    11『※ 䜜家を受賞者にたで育お䞊げるための長幎の努力を耒めお、ひずこず「よかった。でも、これからですよ」ず蚀っおみたいものの、浅井君※ 文藝春秋の埌茩線集者である浅井茉莉子のずきず同様に尟圢君※ 河出曞房新瀟の珟圹線集者で、芥川賞受賞䜜家を育おた、尟圢韍倪郎にも蚀葉にならないのです。黙っお、互いに顔に笑みを浮かべお、ただただ頷きあったのでした。浅井君、そしおこの尟圢君に、文藝線集者はこのようにあるべきなどず蚀ったこずはありたせんが、遠く近く私の仕事を芋聞きしお、䜕かを感じおいたのかもしれたせん。

     この日、私は初めおの経隓をしたした。䌚堎右手の遞考委員の垭の顔ぶれを目にした時、ほずんどが、私がデビュヌに立ち合った䜜家、たた受賞決定を知らせた方々であるのに気づいたのです。
     この䜜家たちず日本の小説の五十幎の歩みをずもにしおきたのだず思うず、胞にこみあげおくるものがありたした。』P200201

    「めでたしめでたし」ず蚀いたいのだろうが、客芳的には「おめでたし」ずしか蚀いようがない。

    こんな「独り善がり」で「井の䞭の蛙、倧海を知らず」を絵に曞いたような線集者が、今埌も再生産され、嚁匵っおいるようでは、日本の文芞界はたすたすダメになっお、「売れる゚ンタメ」しか残らなくなるだろう。
    「倧人の鑑賞に堪える知的な小説」をすこしでも生き延びさせおいくためには、䜜家や読者の自己錬磚をは圓然ずしお、「黒子黒衣」で目立たない存圚でありながらも、䞀定の圱響力を持っおいるであろう線集者にも、独り善がりに安䜏しない、知的謙虚さず自己錬磚を求めたい。

    「それをしなければ、この人のようになるぞ」ずいう、これは痛たしい「症䟋報告」なのである。

    初出2020幎2月10日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀
    転茉2020幎2月12日「アレクセむの花園」
      2022幎8月1日、閉鎖により閲芧䞍胜

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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