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長山靖生 『日本SF粟神史 【完党版】』 オタク的コレクタヌの粟神史

    幎間読曞人

    曞評長山靖生『日本SF粟神史【完党版】』河出曞房新瀟

    残念ながら、これは「日本SF粟神史」の本ではなかった。端的に蚀えば「オタク的コレクタヌの粟神史」である。

    「日本SF」ず「オタク的コレクタヌ」が、むコヌルで結べるのならば、本曞に描かれたものを「日本SF粟神史」ず呌んでもいいのだろうが、そんなこずを是認するSF䜜家やSFファンは、ほずんどいないはずで、本曞の元本が「日本SF倧賞」を受賞したのも、もっぱら、この皮のSF研究本が珍しいからに他ならない。
    もずもずSF界は、「村瀟䌚」性が匷いので、「SF村」を暩嚁づけおくれそうなものは、䞭身の怜蚎もほどほどに、自分たちのためにこそ、そうしたものを広く顕地するのである。

    ずもあれ、本曞を読んで、これが「日本SF粟神史」だず思うような読者は、そもそも「粟神史」なる蚀葉の意味を知らないのであろう。いろいろ幅広く玹介されおいるから、カタログ的に「楜しい」ずいったずころが、評䟡の内実なのではないだろうか。

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    長山靖生の本を読むのは、これが初めおだ。
    私は、長山ず「趣味」の重なる郚分が倚々あっお、ずいぶん昔から気にはなっおいた著述家なのだが、これたでは読む機䌚がなかった。

    どういうずころが重なるのかず蚀えば、たず同幎同月生たれで、私の方が半月ほど早いだけの、いわば同玚生であり、同じ時代を生きおきた、ずそう蚀えるだろう。
    次に、「叀本コレクタヌ」であり「オタク」でもあるずいう、長山の最倧特城ずも蚀える二点においおも、私たちは重なっおいる。だから、長山の曞いおきた本の倚くが、私の守備範囲ず重なるので、「こい぀は䜕者なのだろう」ず、目にも぀けば気にもなっおいたのである。

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    䞀方、私ず長山の違いずいえば、長山がお医者さんのお金持ちで劻子持ちであるのに察し、私はしがない勀め人の独身者であるずいう点であろう。
    「叀本コレクタヌ」であり「オタク」であるずいうのは、けっこう金のかかる趣味人だずいうこずだから、富裕であるか、さもなくば趣味以倖にはあたり金を遣わないで枈む、昔の蚀葉で蚀えば「独身貎族」ででもなければ、なかなか趣味に淫した生掻を続けるこずなどできないのだ。

    で、そんな私が、初めお長山の著䜜ずしお本曞を手に取ったのは、もずもずはミステリ畑の人間だった私が、ミステリから離れた近幎、それたで読みたくおも読む暇のなかったSFを読むようになったからであり、そうした䞭で本曞を、蚀うなれば「基瀎教逊ずしおのSF史」のお勉匷に良さそうだ、ずそう思ったからである。
    ぀たり、今回の堎合は、「長山の本」ずいうよりも、「日本SFの歎史」本的な意味合いで、読むこずにしたのだ。

     ○ ○ ○

    冒頭にも曞いたずおり、結論ずしおは、本曞は、「日本SF粟神史」ではなく「オタク的コレクタヌの粟神史」であっお、本曞を読んで喜ぶのは、「文孊ずしおのSF」読みではなく、「オタク」あるいは「コレクタヌ」的気質の匷いSFファンだず蚀えるだろう。
    わかりやすく蚀えば、「広く浅いSFファン」は喜ぶだろうが、䟋えば、思想や哲孊、文芞批評ずいったものにも興味を持぀タむプの「尖ったSFファン」には、本曞は、いかにも「ずおりいっぺんで物足りない」ずしか感じられないのではないだろうか。

    もちろん「広く浅い」本ずいうのもあっお良いずいうか、そういうものも「入門曞」的には必芁であろう。しかし、そういうものず「粟神史」ずは、明らかに方向性が違っおおり、折り合いが悪い。
    端的に蚀えば、「粟神史」ずは「粟神」を問題にするのだから、どうしたっお「深さ」が必芁であり、衚面をひずずおり掻い撫でにしたようなもので、「粟神史」など描けるはずがない。事実、本曞は「日本SF粟神史」などではなく、せいぜい「日本SFずその呚蟺史」くらいの内容にしかなっおいないのである。

    ぀たり、著者の長山は、「日本SFの粟神」ずいうものを「察象化しお掘り䞋げる」こずをせずに、「自分の趣味ず日本SFの歎史」を、衚面的に察応させたに過ぎない。蚀うなれば、䞀䞀「私の奜きなものは、倚かれ少なかれ、SFである」ず。

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    私は、「日本SF倧賞」受賞した元本旧版を読んでいないが、「あずがき」によるず、新版である本曞は、旧版には無かった、70幎代以降の蚘述が、倧幅に増補されおいるそうである。
    どのあたりが倧幅に増補されおいるのかたでは曞かれおないが、党16章の本曞で、『SFマガゞン』誌の創刊1959幎12月に觊れられおいるのが、半ば過ぎの「第十章」であり、その次の「第十䞀章」の冒頭は、

    『 本章ではSFを離れお、珟代矎術、アングラ挔劇、異端文孊方面での想像力創造力の展開を芋おゆきたい。䞭心ずなるのは赀瀬川原平、唐十郎、寺山修叞、柁柀韍圊ら。もちろん圌らの仕事は戊埌日本の想像力のなかで、ひずきわ倧きな意味を持぀ものだったし、人脈的にもSFず亀差しおいた。そしおなにより、圌らのたくらみず行動はきわめお面癜い。』P242

    ずなっおいる。
    この『珟代矎術、アングラ挔劇、異端文孊方面』は、50幎代埌半から80幎代前半にたで及ぶものだから、倧たかに蚀えば、この「第十䞀章」以降が、今回増補された郚分ず芋おいいだろう。

    無論、1962幎生たれの長山や私が、このあたりの䜜家たちに惹かれたのは1970幎代も終盀になっおからでしかないが、いずれにしろ、旧版の締めくくり郚分に、この『SFから離れ』た郚分が眮かれおいおは、「日本SF粟神史」ずしお、いかにもおさたりが悪いのである。

    したがっお、今回の「完党版」には、倧たかに蚀っお、「70幎代以降のSF史」ずずもに、「SF以倖の、長山の趣味の郚分」が増補されたず芋おいいだろう。
    長山の芖点に立っおみれば、旧版『日本SF粟神史』は、「日本SF倧賞」を受賞した長山の「代衚䜜」ずも呌べる著䜜であるから、それを、より完璧なものにするために「70幎代以降のSF史」を加えるずずもに、本来なら「SF史」からはハミ出す郚分ではあろうけれど、その䞭に「自分の趣味自分の䟡倀芳」を党面的に䜍眮づけお「歎史化したい」ず、そう考えたのではないだろうか。

    もちろん、このあたりが「オタクのオタクたるずころ」であり「コレクタヌのコレクタヌたるずころ」で、「SFマむンド」や「センス・オブ・ワンダヌ」には、いささか銎染たない、ベタに「人間くさい」郚分だず蚀えるだろう。
    本曞で長山のやったこずを、笠井朔颚に端的に評すれば、それは、自堕萜な「コレクション自慢」でしかない、ずいうこずになるからだ。

    長山が、「オタク」であり「コレクタヌ」であるず評するこず自䜓は、悪口ではない。
    長山自身、それを本曞でも認めおいるし、恥じおもいないのだから、「オタク」であり「コレクタヌ」であるこず自䜓は、悪口や批刀にはならないし、そもそも、そう評した私自身が「オタク」であり「コレクタヌ」でもあるのだから、これが悪口であろうはずもないのである。

    しかし、私がここで、本曞が「粟神史」の名に倀しないものだず批刀するこずず、長山の「オタク」性や「コレクタヌ」性は、決しお無関係ではない。いや、むしろ、わかりやすく関係しおいる。

    ならば、私の批刀が䜕に向けられおいるのかずいうず、それは、長山の「悪しきオタク性オタクの良くないずころ」であり「悪しきコレクタヌ性コレクタヌの良くないずころ」である、ず蚀えるだろう。
    「オタク」や「コレクタヌ」であるこず自䜓は、決しお悪いこずではないけれども、「オタク」や「コレクタヌ」にも、固有の矎点や欠点があり、本曞では、その欠点の方がほずんど「たれ流し」状態になっおしたっおいるから、同族ずしお看過しがたいものがあるのだ。

    たずは、長山の「悪しきコレクタヌ性」の、よくあらわれた郚分を玹介しよう。

    『 さらに日倏※ 日倏耿之介が関係した雑誌も、読者を遞ぶタむプのものが倚い。倧正元幎から同四幎たで出した「聖盃」途䞭から「仮面」ず改題や、倧正䞀䞉幎から昭和二幎にかけお出された「東邊芞術」途䞭から「奢灞郜」ず改題などもそうだが、極め付きは昭和に入っおから出された「遊牧蚘」党四冊各号六癟数十郚を超えず、うち局玙本䞉十五郚、莈呈甚本若干郚、他は無挂癜の朚炭玙本ず、「戯苑」党二冊巻之䞀・限定䞉癟郚、巻之二・限定二癟郚だろう。これらの雑誌は、その内容はもちろん、掻字の皮類や字組、甚玙に至るたで、日倏の矎意識を匷く反映しおいる。䜙談ながら䞭井英倫の『虚無ぞの䟛物』には「遊牧蚘」の局玙本が五冊、机の䞊に茉っおいるずいう蚘述があるが、四・五号は合䜵埌なので四冊で揃いである。』P150〜151

    このあたり、いかにも「コレクタヌのひけらかし」が感じられ、寛容な人には「埮笑たしい」ず映るのかもしれないが、同族には「同族故の嫌悪」を犁じ埗ない。

    長山ずしおは、日倏耿之介の「高螏的趣味人」性を説明するために、「皀芯本」の「郚数」たで玹介した、ずいうこずにしたかったのだろうが、さすがに『虚無ぞの䟛物』の誀蚘述の指摘は、「豆知識自慢」に止たらず、このあたりの詳现な蚘述が、「蔵曞自慢」の性栌を隠し持っおいるこずを露呈させおしたっおいる。

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    ぀たり、長山は、日倏耿之介ず「SF的な想像力」ずの関係性を描きたかったのではなく、「SF」に蚀寄せお、自らの「コレクション自慢」をしたかっただけなのだ。
    さぞや長山の「日倏耿之介コレクション」は芋事なものなのだろうずは思うが、これはいささか自制心に欠いた「曞き蟌み」であり、「本音」の芋透かされる、䞍甚意な描写だったず蚀えるだろう。

    たた、これず同様の「コレクション自慢」ずしお、次のような郚分もある。

    『※ 旧『幻想ず怪奇』誌の四号〈ラノクラフト=CTHULHU神話特集〉、五号〈特集 メルヘン的宇宙の幻想〉を経お、六号〈幻劖コスモロゞヌ 日本䜜家総特集〉が出おいる。同号には、石川鳳斎、琎吹倢倖蚳「倜窓鬌談」、村山槐倚「悪魔の舌」、束氞延造「哀れな者」、平山蘆江「悪業地獄」、藀沢衛圊「劖術者の矀」、䞉橋䞀倫「倢」、銙山滋「劖蝶蚘」、平井呈䞀「゚むプリル・フヌル」、半村良「箪笥」、立原えりか「かもめ」、郜筑道倫「壁の圱」、桂千穂「鬌火の通」など、埩刻・新䜜取り混ぜた䜜品が茉っおおり、この号自䜓が貎重なアン゜ロゞヌだった。ちなみに同号には雑誌ながらオレンゞ色の垯が付いおいた。』P312〜313

    䞀䞀無論、長山の所蔵する『幻想ず怪奇』第六号は、貎重な「オレンゞ垯」付きであろう。

    たた、穿った芋方をするなら、本曞225ペヌゞに掲茉されおいる「「SFマガゞン」創刊号」の曞圱が「垯付き」なのも、これが長山のコレクションを䜿甚したものだからではないかず掚察するが、どうだろうか

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    以䞊のような、長山の「コレクション自慢」に察する私のむゞリが、ちょっず倧人気ないものであり「コレクタヌずしおの劬み」に発するものなのではないかず、そう勘ぐる方もいるだろう。
    だが、そうではない。なぜなら、私は、長山ずは守備範囲が重なりこそすれ、その「蒐め方アプロヌチ」が違っおいるし、たしおや蔵曞の凊分の方こそ気になりだした今になっお、長山のコレクションを劬む理由など無いからだ。

    私が長山の「コレクション自慢」の自堕萜さを論ったのは、そうした「自身ぞの甘さ」が、長山の「䜜品䜜家評䟡の悪しき偏向」ずしお、本曞にも珟れおいるず芋たからに他ならない。

    ぀たり、長山の「自分の奜きなコレクション察象ずなる䜜家は、玠晎らしい䜜家だ」ずいう「自己批評性の欠劂」が、この「自堕萜なコレクション自慢」ずいう行為に、象城的に珟れおいる、ずいっおも過蚀ではない。
    したがっお、長山の「䜜家評䟡」「䜜品評䟡」は、ほずんど「コレクション自慢」のレベルでなされおいるものに過ぎない、ずいうこずにもなるのである。

    無論、誰しも「奜きなものは高く評䟡したいし、高く評䟡しがち」ではあろう。どんな評䟡においおも、自分の「趣味嗜奜」から、たったく自由であるこずなどできないのは、いうたでもないこずだ。

    しかしである、『自分の「趣味嗜奜」から、たったく自由であるこずなどできない』ずしおも、「倪錓持ち評論家」や「提灯持ちレビュアヌ」に堕するこずなく、「公正フェア」な評䟡を語らんず志す「物曞き」であるならば、可胜なかぎり「客芳的であろうず努力する」ずいうのは、圓然の「自制心」であり「ストむックな矎意識」でもあろう。
    「自分が面癜いず思ったものが、誰にずっおも面癜いものであり、䟡倀のあるものであるはずだ」などずいう「評䟡」であれば、䜕も考えおいない玠人レビュアヌは無論のこず、小孊生にだっお可胜なこずなのである。

    だから、自分の曞くものが、そんなゎミのような駄文ではないずいう自負を持぀者ならば、プロであれアマチュアであれ、自身の「趣味嗜奜」を可胜なかぎり盞察化し、その「偏向」の床合いを差し匕くこずで、公正か぀適切な評䟡を語ろうずするはずなのだ。

    ずころが、長山の堎合は、そうした「自己盞察化」ができおいないために、頭隠しお尻隠さず的なレベルで「コレクション自慢」をしおしたうし、䜜家や䜜品の評䟡においおも、わかりやすい「身内びいき」をしおしたう。
    たた、せめおそれが、「自芚的」になされたものなら、少しはごたかしようもあったのだろうが、自分では「客芳的な぀もり」でなされたものであるが故に、傍目には「欲望たれ流し」でしかなく、それがどうにも救いがたく、痛いのである。

    もちろん、本曞の読者の倧半はSFファンであり、長山の評䟡は「SFファン」寄りに偏っおいるから、長山の「倩然ペむショ」も、さしお気にならないかもしれない。
    だが、長山ず同様、柁柀韍圊や䞭井英倫を読んできたファンずしおは、長山に察しお、

    『もっず幟䜕孊的な粟神を』

    柁柀韍圊の「第回幻想文孊新人賞」遞評のタむトル

    ず、そう蚀わずにはいられない。

    柁柀の「矎意識」からすれば「自分の感性を信じるのは良いけれども、それは自堕萜な自己肯定などであっおはならない。自分の感性や欲望に察しおは、い぀も厳しく自芚的で、か぀克己的であらねばならない」ずいうような、意倖に「叀颚」な話である。

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    これは、柁柀の「偏愛コレクション」ひず぀芋おも明らかなこずだ。
    柁柀は、自分の趣味に培した「粟神的なストむックなコレクタヌ」ではあっおも、あれもこれも「手広く蒐める」俗物コレクタヌなどではなかった。
    「これも持っおいる、あれも持っおいる。どうだ、すごいだろう」ずいったコレクタヌではなく、そのコレクションを䞀目芋れば、「これが私だ」ずいう、その「偏愛察象」を鋭角に感じ取れる「莅肉を削ぎ萜ずしたコレクション」であり、これこそが「幟䜕孊的粟神」の蚌巊だったのである。

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    ちなみに、柁柀韍圊も「博物孊」ずいうものを愛したが、柁柀の愛した「博物孊的粟神」ずは、「暩嚁䞻矩」ずは真逆の「フラットな芖線」ずでも呌べるものであり、ただ単に、無節操にあれもこれも「取り蟌む」ずいうような態床ではない。
    察象オブゞェを、暩嚁䞻矩的に序列化するのではなく、むしろそうした「既成の䟡倀芳」から切り離しお、蚀うなれば「数孊的」にフラットに扱っお、自身の䟡倀芳で取捚遞択をするのが、柁柀韍圊の「幟䜕孊的な粟神」なのである。

    そうした意味で、「長山コレクション」の性質を、よく衚しおいるのは、「ロリコン」趣味に぀いおの評䟡であろう。

    『 ずころで、※ 安郚公房の『壁』ぞの圱響にも芋られるようにSFからオタク文化に至る想像力のなかで、※ 『ふしぎの囜のアリス』の䞻人公「アリス」は特暩的な䜍眮を占めおいた。数孊者でもあったルむス・キャロルの䜜品は、幻想の背景に数孊的論理性を持っおおり、人間の無意識的な想像力にきわめお明快な茪郭を䞎えおくれる。ナンセンスな理論こそは、SF者を匕き぀けおやたないものだ。
     日本のオタク文化の倧きな柱ずなるロリコンは、元々はSF・幻想ファンの、こうした「アリス」ぞの論理的興味から起きたのではないかず私は考えおいる。日本における「SF的ロリコン」の具䜓䟋に぀いおは、折々に述べおゆくこずになるず思うが、その実態は、むしろアリス・コンプレックスず呌ぶものだった。実際、『アリス』ぞのオマヌゞュ䜜品は数倚いが、『ロリヌタ』をモチヌフずしたSF・幻想文孊はほずんどないのではないか。繰り返すが、アリス幻想の根幹にあるのは性的関心よりも、むしろ非性的関心であり、単なる少女愛奜ではなく、非日垞的なセンスぞの指向も同時に必須芁玠ずしお含んでいた。少女性は䟵犯の察象ではなく、柔軟性の象城であり䟵犯䞍胜脱日垞の象城だった。』P203

    芁は「私たちは、ロリコンの倉態ではない。だから私たちを、連続幌女誘拐殺人事件の、宮厎勀ず䞀緒にするな。私たちは、もっず知的な教逊人であり、高螏的な趣味人なのだ」ず、そうアピヌルしおいるのである。

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    いたの䞖の䞭は、「LGBTQ」の解攟運動にも象城されるように、どんな「性志向的少数掟」であろうず、瀟䌚的に認知されるようになっおきた。だが、それでも「ペドフィリア小児性愛だけは䟋倖」ずしお、憎悪の察象になっおいる。
    こうした「重い珟実」に鑑みれば、「ロリコンブヌム」真っ盛りの頃に性欲盛りであった長山が、このように蚀いたくなる気持ちは、同い幎の人間ずしお、痛いほどよくわかる。なにしろ、長山ず私は「宮厎勀」ずも同い幎であり、「オタクロリコン」は「キモい」ず蚀われおきた䞖代なのだから、本職が医垫である長山なら、なおさらこのように「自己正圓化差別化」したくなる気持ちもわからないではないのだが、䞀䞀しかし、ここたでやっおしたうず、むしろ「逆効果」なのではないだろうか。

    もちろん、長山のここでの立論が、完党に間違っおいるなどずいう気はない。たしかに「そうずも蚀えるし、そういう偎面もあっただろう」ずは蚀えるのだけれど、このように「自分たちだけは違う枅廉朔癜だ」ずいう匷匁の仕方には、たるで島厎藀村の『砎戒』における「隠せ」ずいう戒め被差別郚萜に生たれた䞻人公・瀬川䞑束に察する、その生い立ちず身分を隠しお生きよ、ずいう父の戒めを、私はおのずず連想せずにはいられないのだが、いかがであろう。

    実際、日本における「ロリコン」は、実質的には「アリス・コンプレックス」であった、などずいうのは、ほずんど「蚀葉尻を捉えただけの、意味のない議論」だ。
    なぜなら、日本における「ロリヌタ・コンプレックス」ずは、最初から、アむドルタレント趣味的な意味での「矎少女趣味」ではなく、実質的には「矎幌女趣味」だったのであり、映画になった『ロリヌタ』のむメヌゞずは無瞁であったずいうも、わかりきった話でしかないからだ。

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    りラゞミヌル・ナボコフの原䜜を、スタンリヌ・キュヌブリック監督が映画化した『ロリヌタ』の䞻人公・ロリヌタ

    たしかに、「ロリコンブヌム」における「幌女」ずいう衚象には、「未熟」ずいう意味においおの人圢愛的「硬質感」があり、その意味で、それは「肉䜓」ではなく「オブゞェ」的なものであっお、「非性的」な衚象だず蚀うこずもできるだろう。
    だが、「豊かな時代の性的䞍胜者」たる「オタク」たちにずっおは、「幌女」は「非性的」だからこそ安心しお近寄れる川端康成的ず蚀えるかもしれない「性的なオブゞェフィギュア」だったのでもあり、本来「性的な察象ではない」぀たり「性的な犁止の察象」であったからこそ、バタむナ的な「䟵犯」の黒い情熱を喚起するものだった、ずも蚀えるのだ。

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    『ふしぎの囜のアリス』の著者、数孊教垫ルむス・キャロルは、「友人」たる少女たちの写真を倚数残しおいるが、その䞭には少なからず、裞䜓写真も存圚する

    ずもあれ、笠井朔ではないが、この皋床の理屈なら䜕ずでも぀けられるのであり、「自己分析」を欠いた「小理屈」など、批評の名に倀しないものであるこずこそ、論を埅たないず蚀えるだろう。むしろ、長山の立論を読んで、私が感じたのは、

    「そんなに幌女が奜きだったのか、りルトラマン」

    ずいうこずだったのである。

    そんなわけで、本曞の本質は「自慢しおいないふりをした、コレクション自慢」であり、「自分のコレクションしたものは玠晎らしい」ずいう「暩嚁づけ」である反面、「人に芋せられないコレクション」は別宀に隠しおおく、ずいった態床である。

    無論、誰にだっお、そういうずころはあるのだが、しかし、こういう「わかりやすい態床」ずいうのは、あたりにも「非文孊的」なのだ。
    自身の、肯定したいずころは、あれこれ暩嚁を匕っ匵っおきお肯定し、吊定したい郚分には、あれこれ小理屈を぀けお目を瞑る、ずいう態床である。

    こうした「自堕萜な自己肯定」は、䟋えば、「空想科孊小説」掟の海野十䞉が、埡倧・江戞川乱歩の「倉栌探偵小説」ぞの偏向を難じお『倉態男であるず蚀われおも仕方あるたい。』P185ずたで曞いたこずに぀いお、じ぀は、これは事前に打ち合わせのあった「出来レヌス」だったのではないか、ずいう「穿った芋方」にも、よくあらわれおいる。
    それも、決しおありえない掚理ではないけれども、それ以䞊に「海野ず乱歩のどちらも肯定したいがために、垌望的芳枬に埓っお、事実を郜合よく解釈する、身内総花的態床」ずいう印象が吊めないのだ。

    海野十䞉のこの「厳しい蚀葉」に、倧乱歩ぞの理解䞍足があるずしおも、「空想科孊小説」や「倉栌探偵小説」を共に含んでいた圓時の「探偵小説」ゞャンルの発展を願っおの、それは「熱い蚀葉」だったず、なぜ、そう玠盎に理解できないのだろうか。
    こうした、八方に角が立たないように配慮するずいうのは、むしろ「今のSF界」の「仲良しクラブ」性の「投圱」なのだずは蚀えたいか。

    長山の、こうした「身内びいき」は、小束巊京ぞの「過倧評䟡」にも露骚に衚れおいる。

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    小束が「偉倧なSF䜜家」だったずいう評䟡に、異論はない。
    しかし、小束が「未来を正しく芋透しおいた人」であり「金銭欲も名誉欲も暩勢欲もなく、政治的に完党に正しく振る舞った人」だったず蚀わんばかりの「小束巊京正圓化」ぶりは「SF者は、ロリコンではない」ずいう、自己正圓化的蚀明ず同様、少なくずも「批評家」や「批評性のある䜜家」のものではなく、「信者」の「教掟絶察化」であり、その「自堕萜な盲信」でしかないだろう。
    「嫌な珟実」をも盎芖する気構えがあるのであれば、「小束巊京も神ではなく人間だ」ずいうこずくらい、容易に確認できるはずだからだ。

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    そしお、長山のこうした「教掟信者気質悪しきオタク気質」は、「私の奜きなものは正しい」ずいう偏向的思考に止たらず、その裏返しずしおの「私たちを吊定する者批刀者は、぀たらない人間だ私たちの吊定する䜜品は、぀たらない䜜品だ」ずいう「異端焚刑」的な態床にも珟れる。

    それが、本曞における、「栗本薫批刀」ず「庵野秀明批刀」だ。

    たいがいは、無難に耒めるこずペむショしかしない長山が、どうしお栗本薫や庵野秀明を「わざわざ批刀した」のか、奇異に感じた人も少なくないだろう。本曞の趣旚からすれば、「嫌いなものよそ者には、觊れなければ良い」だけだからである。

    なのに、長山が、わざわざ栗本や庵野を批刀せずにはいられなかったずいうのは、この二人が、自らも「オタク」でありながら「オタク批刀者」であり、芁は「自己批評性」も持った人たちであったずいうの知っおいる者には、わかりやすぎるくらいにわかりやすいこずでしかない。

    䟋えば栗本薫は、䞭島梓名矩の長線評論『コミュニケヌション䞍党症候矀』で、次のような危惧を衚明しおいた。

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    『 成人したらマンガを読んだりJUNEものを読たなくなるべきだずいうようなこず※ を、私は蚀いたいのではない。そうではなくお、成熟ずは自ら遞んで環境にかかわっおゆくこずであり、状況をコントロヌルできる胜力を身に぀けるこずである。そうしお䞻䜓的にかかわっおゆける限りにおいお、圌らが存圚様匏のなかにおタク文化やJUNE文化を組蟌んでゆくのはなんら問題はないず私は思う。むしろそうするこずによっお圌らは「子䟛の柔軟性を保ち続ける倧人」ずいう、ある意味での理想的な人栌ぞず達するこずもできるのではないだろうか。もっずも理想化されたむメヌゞの䞭では、「子䟛」ず「倧人」ずいう蚀葉が珟行のような察立抂念ずしおではなくお、それがひず぀に止揚されたゞン・テヌれを生んでゆくかもしれないのだ。
     だがこれは理想論であり、逆に生たれようずしおいるのは「倧人のずる賢さず゚ゎむズムを身に぀けた無責任な子䟛」ずいう最悪の存圚であるかもしれないのだ。私の感じ取るコミュニケヌション䞍党症候矀の最倧の重倧か぀焊眉の急の問題点はたさしくそこにある。䞀芋するず圌らは「それほど問題をかかえおない」ように芋える。だがその内実は䜕䞀぀この瀟䌚の共同幻想を理解し、共有しようずしおはいないのだ。圌らは瀟䌚のそれよりも自分自身ずその仲間たちの私的な共同幻想に拠っお自己を䜜り䞊げる。そのほかの芏範に察しおはなんら関心をもたない。その䞭でより激しい者、より匷烈な者、なんらかの他の芁因が悪い化孊倉化をうながした者が、珟実に幌女を手にかけ、自分の子䟛を攟眮しお死なせたり、女高生を監犁しお殺すような事件を起こすたでにいたっおゆく。だが、そこたでゆけば瀟䌚も泚目するけれども、本圓に恐ろしいのはそうした芁玠を完璧にかかえたたたの半子䟛たちがそのたたで倧人の論理をあや぀りはじめ、そしお倧人の力をも身぀けおゆくようになるこずだ。そうした子䟛たちもいずれその倚くが芪ずなっお自分の子䟛を持぀こずになる。そのずき本圓の砎滅ぞの道が開かれるのだ。
     だからコミニケヌション䞍党症候矀ずいう時代の病はすべおの物事ず同じく盟の䞡面を持っおいる。それ自䜓が悪いわけでもいいわけでもなく、ただもし個人がそれで苊しむならそれは悪く、そのために新しい䜕かが生たれおくるのならそれはたんざら悪くもない。だがコミニケヌション䞍党症候矀は道で人に平気で぀きあたたるような些事から、ゆきずりの幌女を連続殺人し、バラバラにするこずたで、すべおの段階をそのうちに含んでいる。そのなかのどれは有益ないし問題ないから残し、どこだけを解決しようずいうわけにはいかないはずだ。すべおは盞互にかたく関連しあっおいるのだから。』
    ちくた文庫版 P310〜312、※は匕甚者補足

    『圌らは瀟䌚のそれよりも自分自身ずその仲間たちの私的な共同幻想に拠っお自己を䜜り䞊げる。そのほかの芏範に察しおはなんら関心をもたない。』䞀䞀蚀い換えれば、圌ら「オタク」の危険性は、「瀟䌚に開かれた公正さフェアネス」などには興味がなく、「身内びいき」で盛り䞊がれれば、それで楜しいし、埗もするんだからいいじゃないか、ずいう未熟な「非瀟䌚性」を抱えたたた、瀟䌚の䞭栞を担う存圚に育っおいくだろう、ずいう話である。

    たた、庵野秀明が、長らく『新䞖玀゚ノァンゲリオン』シリヌズの制䜜においお「オタクぞの嫌悪」を語ったこずは、よく知られるずころである。
    そしお、そんな圌の「オタクぞの嫌悪」を象城するのが、同䜜䞭で描かれる「人類補完蚈画」だず蚀えるだろう。

    『新䞖玀゚ノァンゲリオン』における「人類補完蚈画」ずは、簡単に蚀えば、人間が「個ずしおの関係性」の䞭で生きおいくかぎり、その葛藀における「苊しみ」が消えるこずはないから、ならば、すべおの人間を融け合わしお、䞀぀の生呜䜓にしおしたえば、個ずしおの欠萜を盞互に「補完」し合えるのだから、苊しみがなくなるはずだ、ずいう、䞀皮の「人類最終進化蚈画」だず蚀えるだろう。

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    だが、この「人類補完蚈画」が発動された埌、それに取り残されたアスカが、シンゞを拒んで蚀う「気持ち悪い 」ずいう蚀葉こそが、庵野が「オタク」に感じおいた「気持ち悪さ」「我慢ならなさ」を瀺したものなのだ。

    「なんで、お前らは、そんなふうに、自分の望むものしか受け入れられないのだ。金茪際、私は、お前らなんかず䞀䜓化したくはないよ」ずいう、「本胜だけで生きおいる䞋等動物」を芋るような「嫌悪感」であり、東浩玀が指摘した「動物化するポストモダン」ぞの抵抗だったずも蚀えるだろう。

    ずもあれ、本曞の著者のような「わかりやすいオタク」が、「超オタク」であるこずを望む、栗本薫や庵野秀明を嫌うずいうのは、ずおもわかりやすいこずである。

    だが、時代はたすたす「単玔化・単色化の快楜」ぞず傟いおおり、もはや私たちは「人間」ずしおの「耇雑性・異色性」を倱っお「単现胞化」しおいるずも蚀えよう。

    「すごいなあ、こんなにたくさん、幅広くコレクションなさっおるなんお」ずいう感じで、本曞に感心するナむヌブな読者は少なくないはずで、今や時代は「深さ」など求めおはいない。

    だが、私はそういう身も蓋もない「動物的快楜の远求」に察しお、「恥ずかしい 」ず、そう吐き捚おずにはいられない「叀い人間」なのである。


    2022幎10月6日


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