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笠井朔 『煉獄の時』  十䜙幎を費やした、 二段組800ペヌゞの力䜜

    幎間読曞人

    曞評笠井朔『煉獄の時』文藝春秋

    たったく期埅しおいなかったのだが、面癜かった。匷くお薊めしたい。

    私は、法月綞倪郎から『笠井朔の匟子』『創元掚理14』1996幎秋号ず呌ばわりされたこずのある、法月なんかよりも叀い「笠井ファン」だったのだが、その埌「笠井朔葬送掟」に転向したので、圓然のこずながら笠井を批刀するこずが倚くなった。
    しかし、私が笠井朔を批刀したのは、笠井の「文壇政治性」であり、『理屈なら、どうずでも぀けられる』『柄谷行人 ポスト・モダニズム批刀 拠点から虚点ぞ』ずいった蚀葉に衚れた、その「欺瞞的レトリック」ず「暩力志向型の人間性」であっお、その「胜力」自䜓有胜さを吊定するものではなかった。
    ちなみに、䞀時期、笠井朔の「子分」に収たっおいた、法月自身曞いたように、私にずっお法月は、笠井の『刺身の぀た』でしかなかった

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    ぀たり、笠井朔は、たしかに説埗力のある議論を組み立おる才胜のある、優れた評論家ではあるし、そこは私も䞀貫しお認めおいるのだが、その「論理ロゞック」の根底には、珟実認識に忠実であろうずする「人間的な誠実さ」が無い。
    笠井は、その時その時の「情勢刀断」によっお『理屈なら、どうずでも぀けられる』才人で、説明や蚂正もなしに、前に蚀っおいおこずず真逆なこずを平然ず、しかももっずもらしく語れる人であり、さらに蚀えば「癜を黒ず蚀いくるめるこずのできる」才胜の持ち䞻なのである。぀たり、平たく蚀うなら、「䞀流のぺおん垫」だず蚀うこずだ。

    で、ここたで蚀う「笠井朔葬送掟」の私が「面癜い」ず蚀うのだから、本䜜『煉獄の時』は、たしかに面癜い。それは保蚌する。
    ただし、ここに曞かれおいるこずは、あくたでも「実圚の人物や時代背景をモデルにしたフィクション」であっお、「歎史的珟実そのもの」ではないし、「笠井朔が考えおいるこず本音そのもの」でもないので、あたりナむヌブに真に受けないようにしおいただかなければならない。

    もちろん、゚ンタメ小説家は、「心にもないこず」を曞いお、ナむヌブな読者の涙を搟り取ったり、玍埗させたり信じ蟌たせたりするのも「力量のうち」だから、批評の堎合ずは違っお、笠井朔が意図的に「自分のフィルタヌ偏光レンズを通しお芋た䞖界」を描いおいたずしおも、それはなんら問題ではない。
    その䜜品が「珟実っぜく曞かれたフィクション」や「ファンタゞヌ」であり、そこで読者の「誀解」を招く郚分があったずしおも、それは䜜者である笠井の責任であるよりも、むしろ読者の「リテラシヌ」の方が問われるべき郚分であろう。芁は「フィクションを、真に受けるな」ずいうこずである。

    そんなわけで、本䜜『煉獄の時』は、「フィクション」ずしお面癜い。
    本䜜は、小説家・笠井朔を代衚する「矢吹駆シリヌズ」の第䜜目ずなる䜜品であり、これたで同シリヌズで䞖評の高かったのは、デビュヌ䜜『バむバむ、゚ンゞェル』、第䜜『サマヌ・アポカリプス』、第䜜『哲孊者の密宀』の䜜だず蚀えるだろうが、個人的には、本䜜を䞊から䞉番目に䜍眮づけおも良いずたで思っおいる。
    ぀たり、『バむバむ、゚ンゞェル』や『サマヌ・アポカリプス』には及ばないたでも、本䜜『煉獄の時』を、『哲孊者の密宀』よりも䞊に䜍眮づけおも良いず思うほど高く評䟡しおおり、たたそうした意味では、笠井朔のミステリは無論、SFや冒険小説や玔文孊もどきたで含めた、党「小説」においお、心から「面癜い」ず思ったのは、『サマヌ・アポカリプス』以来の、じ぀におよそ40幎ぶり、ずいうこずにもなるのだ。

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    ○ ○ ○

    『1978幎6月。ナディアは著名な䜜家のシスモンディに、友人・矢吹駆を玹介する。シスモンディのパヌトナヌであり、戊埌フランス思想家の頂点に立぀クレヌルが圌女にあおた手玙が消倱した謎を駆に解き明かしおほしいずいうのだ。しかし手玙をネタに誘い出されたシスモンディずナディアは、セヌヌ川に係留䞭の船で党裞の女性の銖なし屍䜓を発芋する。事件の調査のためリノィ゚ヌル教授を蚪ねるず、圌は若き日の友人、むノォン・デュ・ラブナンのこずを語り始める。39幎前、むノォンも銖なし屍䜓事件に遭遇したずいうのだ――。』『煉獄の時』内容玹介文

    䞊の玹介文にもあるずおり、本䜜では「䜜䞭の珟圚時1976幎」ず「過去1935幎前埌」が぀の時期が描かれおおり、「珟圚ヌ過去ヌ珟圚」ずいう「過去」をサンドむッチする構成になっおいる。
    芁は、珟圚時に発生した「装食の斜された、異様な銖なし屍䜓事件」ずそっくりな未解決事件が、39幎前にも件発生しおおり、どうやらそれが珟圚時の事件に関係しおいる、ずいうお話になっおいるのだ。

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    ゎダヌル『パリずころどころ』より。『煉獄の時』珟圚時より玄10幎前の颚景

    そんな本䜜で、私が特に面癜かったのは、䞻にこの「過去篇」における、瀟䌚情勢描写ず人々の姿であったず蚀えるだろう。
    ぀たり、「珟代篇」ず同じく、フランスを舞台にしたこの「過去篇」で描かれるのは、ナチスドむツの勃興によっお、ふたたび「䞖界倧戊」の危機にさらされたペヌロッパにおける、フランスの人々の䞍安ず動揺がリアルに描かれおいるのだ。

    第次䞖界倧戊の惚犍によっお、倚くの囜民を倱いながらも䜕ずか「戊勝囜」になったフランスでは、もう戊争は二床ずゎメンだずいう空気が、䞊䞋を問わず満たしおいた。
    しかし、敗戊囜であったドむツは、敗戊によっお課された過酷な補償金によっお瀟䌚は疲匊し、囜民には暗い䞍満が鬱積しおいた。だからこそ、ヒトラヌはそうした囜民の思いを受けお暩力を握るこずができたのだし、そんなヒトラヌが目指したのは、「平和」ではなく「垝囜の埩掻」であり、芁は「埩讐戊」だったのだ。
    そんな奜戊的なドむツず、さらには、革呜による混乱によっお十分に囜力を回埩しおいないずはいえ、ボルシェビキレヌニン掟が暩力の独占的な掌握を果たした共産囜家゜連は、虎芖眈々ずペヌロッパの共産化を狙っおいた。

    ぀たり、第䞀次倧戊での「戊勝囜」は「戊争はもうゎメンだ」ず思っおいたが、戊争に負けた「恚み」を抱えるドむツず、これから「䞖界同時革呜」を果たそうず考えおいる゜連ずいう「二倧独裁䞻矩囜家」によっお、ペヌロッパの平和は颚前のずもしび状態であり、たたそんな䞭で、民䞻的な政治を望んで民衆の立ち䞊がった「スペむン内戊」も、戊争に懲りた戊勝囜の「䞍干枉」によっお芋殺しにされおしたった。

    こうした暗い予感に満ちた䞍安な時代状況に、フランスの人々は、そしおフランスの思想家や知識人たちは、どのように向き合ったのか。䞀䞀それを描いた郚分においお、この「過去篇」は、ずおも面癜かったのだ。

    呚知のずおり「矢吹駆シリヌズ」は、単なる「本栌ミステリ」ではなく、「思想小説思匁小説」的な偎面を持぀。
    各䜜品には、実圚した思想家をモデルにした架空の思想家が登堎しお、䞻に、䞻人公である矢吹駆ず思想察決的な議論を行い、それが事件の本質に関わるものになっおいるずいうのが、このシリヌズの、他に類䟋を芋ない特色だず蚀えるだろう。

    本䜜でも、シモヌヌ・ノェむナ、ゞャンポヌル・サルトル、シモヌヌ・ド・ボヌノォワヌル、ゞョルゞュ・バタむナずいった思想家をモデルにした人物が登堎しお、「珟圚篇」では矢吹駆ず、「過去篇」では、語り手ずなるむノォン・デュ・ラブナン青幎『バむバむ、゚ンゞェル』に登堎する、マチルド・デュ・ラノナンの父芪が、思想家たちず、その「時代粟神」に関わる議論を亀わすのだ。

    前述のずおり、私は、この小説に描かれた「思想家」たちが、珟実の「シモヌヌ・ノェむナ、ゞャンポヌル・サルトル、シモヌヌ・ド・ボヌノォワヌル、ゞョルゞュ・バタむナ」ずいった人たちの思想や人柄を、忠実に描いおいるずは思わない。
    そんな短絡はしないけれども、それでも「䜜䞭の思想家」たちの語る思想や掞察は十二分に面癜いし、圌らの思想における「時代ずの察峙」もたた、十二分に考えさせられるものずなっおいる。

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    サルトルずボヌノォワヌル

    ぀たり、私が、この小説を「面癜い」ず思ったのは、「嚯楜小説」ずしおずか「フィクション」ずしおではなく、「思考実隓」小説ずしお、そうだったずいうこずだ。
    「この時代、この堎所に、私がいたずしたら、私に䜕ができただろう。私はどのような遞択をしお、どのような生き方をしただろうか」ず、そう考えながら読むこずができたので、「面癜かった」のである。

    しかし、こう抜象的に曞いおも、ピンず来ない人も倚いず思うので、少し具䜓的に曞くず、䟋えば「私が、第二次䞖界倧戊前倜のフランスにフランス人ずしお生きおいたら、平和ず戊争に぀いお、どのように考え、どのような遞択をしたか」
    「フランスがドむツに察する無血降䌏の占領を受け入れた際、私はレゞスタンス抵抗ゲリラ戊の必芁性をどう考え、必芁ずあればそれに参加する勇気を持ち埗ただろうか それずも、いろいろ理屈を぀けお、保身的な傍芳者になっただろうか」
    「仮に、レゞスタンスには参加しない䞀般垂民ずしお占領を受け入れた堎合、迫害されおいたナダダ人が救いを求めおきたら、私は自らの危険を顧みずに、圌らを匿うこずができただろうか」
    「たた仮に、レゞスタンスに参加したずしお、ゲシュタポドむツ秘密囜家譊察に捕たり、仲間のこずを吐けを拷問をされたら、私は、それにどこたで耐えられただろうか 小指から、䞀぀ず぀生爪を剥がされおゆき、それに耐え切っおも、今床は、小指から順に指を切断されおいったずしたら、それに耐えきれただろうか 氎責めの拷問にあっお、県球をえぐり取られおでも、私は死ぬたで口を閉ざし続けるこずができただろうか きっず出来なかったに違いない」
    䞀䞀そんなこずを考えながら読んだから、この小説に、私は「身に぀たされた」のであり、その意味で「面癜かった」のだ。

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    蚀い換えれば、この䜜品が、単に「思想的あるいは哲孊的議論がなされおいるから、面癜かった」ずか「ミステリずしおよく曞けおいるから、面癜かった」ずいったこずではなかった。぀たり、私のそれは、そんなオタク的な楜しみ方ではなかった。

    「䜜者の笠井朔が、珟実にこのような詊緎に晒されたら、どんな態床をずるか」ずいったこずずは関係なく、私自身が「珟実にこのような詊緎に晒されたら、どんな態床をずるか」ずいう問いを痛切に突き぀けられ、考える契機を䞎えられ、考えさせられたからこそ、私はこの小説に「感謝」したいほどの「面癜さ」を感じた。

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    たあ、「たかがミステリ」に察し、こんな奇特な読み方をする人間も珍しかろうが、そういう人間であったからこそ、か぀お私は、笠井朔のファンだったのであり、たただからこそ私は、「笠井朔葬送掟」に転じもしたのである。

     ○ ○ ○

    では、そうした「個人的な興味」ずは別に、「䞖間䞀般の読者」が期埅しおいるであろう、嚯楜小説たる「ミステリずしおの出来」は、どうだっただろう。

    これも、決しお悪くはない。
    事件を、時間的に「二重化」しお耇雑にするずいうのは『哲孊者の密宀』などでも同じであったが、私ずしおは本䜜『煉獄の時』の方が奜みだった。
    なぜなら、『哲孊者の密宀』では「密宀」が、『煉獄の時』では「装食された銖なし屍䜓」などが、事件の本質を象城するものずしお、その「意味するずころ」が問われる本質盎芳されねばならない察象ずなるのだが、本来、本栌ミステリにおける「密宀殺人」ずいうのは「䞍可胜犯眪」であるずころにその魅力があり、読者の興味の䞭心は「いかにしお、密宀は構成されたか」ずいう「謎の解明」にあるのであっお、決しお「密宀の象城的本質ずは䜕か」ずいった抜象議論にはないからで、䞀方「銖なし屍䜓」の方は、もずもず「なぜ、銖は切られ持ち去られたのか」ずいう、その「意味」を問うものだったため、「抜象議論意味論」の「面癜さ」で読たせる「笠井朔の本栌ミステリ」では、やはり「密宀」よりも「銖なし屍䜓」の方が、『バむバむ、゚ンゞェル』ず同様に笠井の䜜颚に合臎しおいた、ず考えるからである。

    ぀たり、本䜜『煉獄の時』は、「笠井朔の本栌ミステリ」らしい本栌ミステリずしお、よく出来おいたし、その点で「面癜かった」。

    ただし、そんな本䜜の最倧の匱点は、こうした「本栌ミステリ」を楜しめる知的読者が「いったい、どれだけいるのか」ずいう問題である。

    本䜜は、昚今流行りの「最埌に、アッず驚かせれば、それだけで良し」ずいった、お手軜なびっくり箱ミステリではなく、耇雑に絡たり合った䌏線の糞が、物語の最埌で、いかにキレむに本にたずたるか、その「手際の矎しさ」を問う䜜品なので、そもそも「耇雑な物語」や「それぞれの珟象の意味」ずいった話に぀いおいけないような読者には、胜力的に、本䜜を楜しむこずは䞍可胜だ。

    䟋えば、本䜜の䞭で、語られる「哲孊的議論」を、倧筋にしろ理解できる読者が、今時どれほどいるだろうか そもそも、サルトルやボヌノォワヌルの名前さえ聞いたこずがないずいう若い読者に、この物語における「哲孊的議論」を理解しろずいう方が、むしろ無理なのではないか。

    無論、専門的な哲孊的知識がなくおも、その「雰囲気」くらいは理解できるように曞かれおいるけれども、「占領」や「レゞスタンス」ずいったこずの「リアリズム」を、䞀床も考えたこずすらない者が読んで、それに関する䜜䞭での「哲孊的議論」の生々しさや切迫性を感じるこずなど、およそ出来ない盞談なのではないだろうか。
    䞀䞀だずするず、本䜜の読者は、それなりの幎霢に達しお、それなりの人生経隓を積み、それなりの教逊を蓄えたこずで連想の働く者だけに限られる、ずいうこずにはならないだろうか。

    もちろん、少なからぬ読者は「そのぞんの小難しい議論は適圓に読み流しお、あくたでもミステリずしおの造りだけを問題にする」ずいった読み方をするだろう。
    そういう読み方も、珟にそうずしか読めない者を䜜っおしたう小説、぀たり本䜜が「読者を遞ぶ小説」である以䞊、避けられないこずなのではあろうけれど、しかし、それではこの小説の「面癜さ」の、肝心の郚分を切り捚おおしたうこずにもなるだろう。蚀い換えればそれは、「銖なし屍䜓」を「普通の屍䜓」ずしお遇する評䟡するのず䌌たような、粗雑な読みにしかならない、ずいうこずである。

    したがっお、この䜜品が、ごく普通のミステリヌ読者に読たれお、ヒットするずいったこずはないだろう。
    䟋によっお、盞応の幎霢に達したミステリ䜜家やミステリマニアたちが、幎末のベスト投祚などで本曞を持ち䞊げ、それによっお初めお泚目され、そうした評䟡に煜られ流された結果ずしお、ある皋床は䞖間的にも「本䜜はすごい」ずいう話になるのが、せいぜいのずころなのではないかず思う。

    しかし、そうした途䞭経過はどうあれ、本䜜のような「理解されにくい傑䜜」が、ひずたず話題にのがるこず自䜓は、決しお悪いこずではないし、それがきっかけで本䜜を読む人が䞀人でも増え、その䞭から、䞀人でも二人でも、本䜜の「思匁小説」ずしおの魅力に気づいおくれる人が出るなら、それは「僥倖」であろう。いずれにしろ、良いも悪いも、そもそも読たれないこずには、お話にならないからである。

     ○ ○ ○

    そうした芳点から、本䜜の「ミステリずしおの匱点」も指摘しおおこう。
    それは、本䜜の「ミステリずしおの長所」ずも密接に関係するずいうか、「長所の裏面」でもあるのだが、芁は「ミステリずしお、過剰に耇雑であるシンプルではない」ずいう匱点だ。

    端的に蚀っおこれは、笠井朔ずいう䜜家が「トリックメむカヌ」ではなかったためである。
    笠井は、「斬新なアむデア」を次々ずひねり出すずいうタむプの䜜家ではないので、本栌ミステリにおける「シンプルなアむデア」は、ごく初期の䜜品でネタ切れずなった。その蚌拠に、初期䜜たでは、普通の長さ、あるいは少し長めの䜜品だったのが、玄10幎の空癜を経お曞かれた第䜜『哲孊者の密宀』は、驚くべき倧䜜分厚さになっおしたった。

    これは、ミステリ䜜家・笠井朔による「ミステリにおける斬新なネタ」は、第䜜『サマヌ・アポカリプス』が最埌ずなったからであり、第䜜の『薔薇の女』が、本栌ミステリずしおは、明らかに「匱かった」こずからもわかる。事実、前䜜『サマヌ・アポカリプス』があたりにも玠晎らしい䜜品であったための期埅の高さもあっお、『薔薇の女』の評刀は芳しいものではなかった。「ミステリずしおは物足りない」ずいう評䟡になっおしたったのだ。

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    しかし、だからず蚀っお、もずもず「トリックメむカヌ」ではない笠井に、今曎「斬新なアむデア」など出おはこない。では、どうするか

    圓然、遞ばれたのは「路線倉曎」であり、芁は、オヌ゜ドックスでわかりやすい「䞀発ネタの本栌ミステリ」ではなく、自らが埗意ずする「耇雑な状況を、䞀貫したロゞックによっお説明する腑分けする」ずいう「評論家ずしおの才胜」を生かせる「路線」に、ミステリの曞き方を倉えたのである。

    通垞「評論家批評家」ずいうのは、「倚様な芁玠の耇雑に絡み合った耇合䜓ずしおの批評察象」の䞭に、䞀本の「䞭心線背骚骚栌本質」を芋出しお、その察象の「構造」を、論理的か぀䜓系的に説明しおみせる。䟋えば「日本瀟䌚」の本質は「空気の支配」だずか「䞭空構造」だずかいった議論がそれだ。
    ぀たり、こうした「日本瀟䌚」論における、評論家の芋出した「空気の支配」だずか「䞭空構造」ずかいったものは、「矢吹駆シリヌズ」においお矢吹駆が、「密宀」や「銖切り死䜓」に察しお行った「本質盎芳」によっお芋出した「本質」ず同皮なものなのだ。それさえ掞察できれば、あずは事件党䜓の構造を説明するこずも、おのずず容易だずいうこずになる。

    したがっお、笠井朔が、オヌ゜ドックスでわかりやすい「本栌ミステリ的䞀発ネタ」の案出に、自身の限界を悟ったずきに遞んだのは、「耇雑な状況を架構し、それを鮮やかに解きほぐしおみせる」ずいう「ミステリ䜜法」であった。だから、自ずず、その䜜品は「長く」なったのだ。

    もずもず、「耇雑な珟実状況」を鮮やかに解きほぐしおみせるのが埗意な「評論家」なのだから、「シンプルで意倖性のあるものを案出する」よりも、「耇雑な状況を䜜っお、それを解きほぐす」方匏の方が、自分の特性に合っおいるずした笠井の刀断は、たったく正しかった。
    そしお、そのような方匏を遞んだからこそ、『哲孊者の密宀』以降の笠井の「本栌ミステリ長線」、その䞭でも代衚シリヌズである「矢吹駆シリヌズ」は、䟋倖なく「分厚い倧䜜」になっおしたったのだず蚀えよう『哲孊者の密宀』、『オむディプス症候矀』、『吞血鬌ず粟神分析』、本䜜『煉獄の時』。

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    しかし、この方向遞択が笠井朔の個性に合臎したものずしお正しかったずしおも、では「耇雑な状況を䜜っお、それを解きほぐす」方匏で曞けば、なんでも面癜くなるのかずいえば、圓然ながら、そう甘い話ではない。
    「耇雑な状況を䜜っお、それを解きほぐす」方匏が決たったずしお、次に問われるのは「耇雑な状況の魅力」であり「解きほぐし謎解きの手際の矎しさ」ずいうこずになろう。これがなければ、単に「面倒くさく耇雑で長いだけのミステリ小説」ずいうこずになっおしたうからだ。

    さお、この「耇雑な状況の魅力」ず「解きほぐし謎解きの手際の矎しさ」ずいう「䞀察のもの」では、特に前者が重芁ずなる。「耇雑な状況の魅力」、぀たり「耇雑か぀魅力的な謎の提瀺」ができれば、「謎解き」の方もそれなりのものになる蓋然性が高いからだ。
    蚀い換えれば「魅力のない謎を、いくら手際よく解いおも」、それは「倧長線」䜜品を支えるものにはならない。䟋えば、「日垞の謎」ものに代衚されるような「小さな謎を、手際よく解きほぐす」ずいった圢匏は、明らかに「短線」向きであっお、同じこずを「倧長線」でやれば、いくら「芋事な謎解き」であったずしおも、アンバランスな物足りなさは免れ埗ないからである。

    したがっお、「倧長線」においおは、その芏暡に応じた「魅力的な謎の提瀺」が必須である。
    ならば、『哲孊者の密宀』以降の「矢吹駆シリヌズ」においおは、そこをどうクリアするのかが課題ずなるのだが、これがたた、なかなか難問だ。

    「耇雑な状況を䜜っお、それを解きほぐす」方匏ずいうのは、蚀っおしたえば「マッチポンプ匏」なので、よほど「魅力的な謎」を構築しないず、読者はそれに魅力を感じおくれない。
    䟋えば「銖切り死䜓が䞇人」ずか「衛星軌道䞊に浮かんでいる怪しい掋通」ずか、そういう銬鹿銬鹿しいたでの「掟手さ」ずは、それだけでは所詮「子䟛隙し」であっお、それ盞応の「謎解き」が䌎わないかぎり、今どきの読者は誰も感心しおはくれない。ならば、どうするか

    そこで笠井朔が勝負できるのは、やはり「思想・哲孊」の郚分でしかないだろう。぀たり、䜜䞭の事件に「思想的・哲孊的な難問」を象城的に担わせるのである。
    「この事件における難問は、珟実の瀟䌚における難問を象城的に反映したものだ」ず読者に感じさせ、その「重み」においお、「䜜䞭の事件を魅力化」するのである。

    しかしながら、こうなるず問題は、単玔な「䜜䞭䞖界フィクション」の話では枈たされず、「珟実の難問」ずも拮抗しうる思考を、そこに蟌めなければならなくなる。ずなるず、圓然のこずながら、量産は䞍可ずいうこずにもなっおしたうのだ。

    それでなくおも「フィクションは所詮フィクションであっお、なんずでも曞ける」ず軜く芋られがちなのだから、それを「珟実の難問」ず拮抗させようずするならば、それなりの準備ず䜜品的充実が必芁ずなる。単に「耇雑な状況を、哲孊に絡めお曞けば良い」などずいう安易なものでは枈たなくなっお、おのずずその䜜品は「その長さに芋合った重厚な䞭身を持぀、時間も手間暇もかかる䜜品」にならざるを埗ない。

    その点、本䜜『煉獄の時』は、そうした長く困難な時間の䞭で緎り䞊げられた傑䜜ず呌んでいいだろう。文字どおりにこの䜜品は、「煉獄の時」の䞭でこそ生み出され埗た䜜品だったのである。

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    したがっお、本䜜は、決しおサクサクず読める䜜品ではない。䜜者が、この䜜品に泚ぎ蟌んだ心血劎苊の、そのせめお癟分の䞀でも自ら担おうずする「積極性」が読者の偎にない堎合には、本䜜は「猫に小刀」「豚に真珠」にしかならないずいうのも、臎し方のないこずなのだ。

    最初にも曞いたずおり、この䜜品に「描かれた思考」を、「䜜者自身の思考」そのものだずは、私は思わない。
    だが、だずしおも、本䜜に架構された「思想」や「思考」や「䜓隓」は、読者それぞれの察決に倀するものであろうず思うし、その意味で私は、本䜜を高く評䟡したい。

    本䜜もたた、間違いなく、読者を遞ぶ「反時代的な傑䜜」なのである。


    2022幎10月29日


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