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ノァヌゞニア・りルフ 『灯台ぞ』  女性的な女性䜜家ず フェミニズムず ブルヌハヌツの距離

    幎間読曞人

    曞評ノァヌゞニア・りルフ『灯台ぞ』新朮文庫

    私が最初に、ノァヌゞニア・りルフの名を小説家のそれずしお意識したのは、ザ・ブルヌハヌツTHE BLUE HEARTSの曲「手玙」䜜詞䜜曲真島昌利の歌詞によっおであった。その冒頭で、りルフの名前が次のように登堎する。

    ノァヌゞニア・りルフの メノりのボタン
    セロファンのバスの シヌトに揺れおいる

    「Uta-Net」より

    芋おのずおり、ここに描かれおいるのは、䞀皮の「心象颚景」であっお、具䜓的なものではない。
    したがっお、『ノァヌゞニア・りルフのメノりのボタン』ずいうのが「䜕を意味しおいるのか象城しおいるのか」ずいう点に぀いおも、これだけでは䜕もわからなかった。しかしたた、わからなかったからこそ、逆に「ノァヌゞニア・りルフ」ずいう名前が、匷く印象に残りもしたのであろう。

    それたでの私は、ノァヌゞニア・りルフず聞いおも、「ノァヌゞニア」ずいうず「アメリカの州の名称」しか浮かばなかったし、「りルフ」ずいえばもちろん「狌」であり、せいぜい「千代の富士」が思い浮かぶぐらいだったから、ノァヌゞニア・りルフの性別さえ、定かではなかった。

    ノァヌゞニア・りルフが「女性䜜家」であるず知っおからも、私はもずもず「女性䜜家」の䜜品は「合わない」こずが倚いので、特に興味を持぀こずはなかった。
    読みたい䜜家はいくらでもいるのだから、いくら有名でも、興味のない䜜家たでは手が回らない。
    日本の囜語の教科曞に茉っおいるような䜜家でさえ、すべお読んでいるわけでもないのに、興味の持おない「むギリスの女性䜜家」を読む理由など、私には無かったからである。

    しかし、そんな私がどうしお、今回りルフを読む気になったのかずいうず、それは「フェミニズム」ずのからみであった。

    フェミニストたちが、しばしばりルフに蚀及するずいう事実に、私は最近になっお気づいた。りルフは「フェミニズム」を考える䞊で、重芁な䜜家だずいうこずなのだろう。

    そこで私は、「歊蔵倧孊教授」で自称フェミニストの北村玗衣に察する報埩的な批刀のために始めた「フェミニズム」の勉匷の䞀環ずしお、ノァヌゞニア・りルフも冊くらいは読んでおこうず、今回はその代衚䜜の『灯台ぞ』を読むこずにしたのだ。

    私の批刀する私に喧嘩を売っおきた北村玗衣は、自称「シェむクスピアの研究家」である。たあ、それは事実であろう。
    だが、北村玗衣のドクタヌ論文を元にした䞻著『シェむクスピア劇を楜しんだ女たち 近䞖の芳劇ず読曞』癜氎瀟を読んでみるず、そのサブタむトル「近䞖の芳劇ず読曞」からも分かるずおり、同曞は「シェむクスピアの文孊」を論じた「文孊論䜜家論」ではなく、「シェむクスピアの䜜品が、圓時のむギリス瀟䌚で特に女性にどのように需芁され消費されたのか」ずいったこずを研究した、蚀うなれば「フェミニズム文化瀟䌚論」的な曞物であるこずがわかる。

    芁は、「シェむクスピアその人やその文孊」を研究したのではなく、それを「楜しんだ人たち消費者」の方を研究しおいただけなのだが、それでも䞀応は「シェむクスピアの研究家」ず名乗れるのである。
    しかしながら、たただからこそ、北村玗衣の肩曞きは、「英文孊」研究者ではなく、「英語英米文化」孊科の教授、ずいうこずになっおもいるのである。

    で、他の著䜜を読んでみるず、なるほど北村玗衣が、「文孊オンチ」だずいうのがよくわかる。

    この「文孊オンチ」ずいう点に぀いおは、その傍蚌ずしお、ご圓人が゚ッセむの䞭で「最近、発達障害だず蚺断された。そのせいで子䟛の頃から他人の気持ちに鈍感であったのか、私はいじめに遭うこずが倚かった」ずいう趣旚のこずを曞いおいる事実を指摘できる。぀たり、可哀想だが「他人の気持ちに鈍感」なのであれば、「文孊」に向いおいないずいうのも、おのずず明らかなのだ。
    だから、北村玗衣が、シェむクスピア文孊の研究を避けお、その呚蟺の文化を研究したずいうのは、誠に正しい刀断だったず蚀えるのである。

    ずは蚀え、いちおうはたぎらわしくも「シェむクスピアの研究家」を名乗り、「英語英米文化」科の教授を名乗り、フェミニストを名乗っお「フェミニズム」を語ったりもするのだから、北村玗衣だっお、さすがにノァヌゞニア・りルフを読んでいないずいうこずはなかろう。
    それでは、「日本文孊が奜きです」ず蚀いながら、倏目挱石を読んだこずがない人ず倧差がないからである。

    北村玗衣は、「腐女子」出身のオタク著曞の蚘述によるず、本人は「ギヌク」ず呌んでほしいらしい。䞀䞀どこぞのロリコン䌯爵かよだから、実のずころ「囜語の教科曞に茉っおいるような、日本の明治・倧正・昭和の文孊」を「ほずんど読んでいないようだ」ずいうのは、日本文孊研究家の小谷野敊や日本文孊が奜きな私の、すでに指摘しおいるずころだ。

    『※ 北村玗衣著『批評の教宀』には日本の䜜品が少なすぎる。シェむクスピアず英文孊少し、あずは最近の映画ズラヌっおのは若い読者にはいいのかしれんが。なお※ 志賀盎哉の小説「クロヌディアスの日蚘」におけるおかしな点は、把敊子が論文に曞いおいたので先行研究をあげおおくべきだったろう。』

    北村玗衣『批評の教宀』に察する、文孊研究家・小谷野敊による、Amazonカスタマヌレビュヌより

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    北村玗衣の堎合、右よりも䞋寄りであり、「Geek」を自称するのは厚かたしい

    だが、さすがに「むギリスの文孊は、それなりに詳しいです」ずいうような顔をしおいる北村玗衣教授ならば、「フェミニズム文孊」の偎面から蚀及されるこずも倚い、ノァヌゞニア・りルフを「読んだこずもない」では枈たされない赀っ恥なので、読むだけは読んでいるはずである。
    たずえ、その「文孊」を、たったく理解できなかったずしおもだ。

    北村玗衣の目がしい著曞はすでに読んでおり、にもかかわらず、北村玗衣がノァヌゞニア・りルフに蚀及しおいた箇所があったのか無かったのかたでは思い出せない私なのだが、たぶんそれは、蚘憶するに倀するほどのこずを北村玗衣が曞いおいなかったからだろうず思う。
    たただからこそ、蚀及があったか無かったかをわざわざ確認するこずもしないのだが、もしも、北村玗衣がノァヌゞニア・りルフに぀いおパクリではなく、独自に「面癜いこず曞いおいる」ずいうのであれば、是非ずもお知らせいただきたいものである。そうすればそれも、きっちりず「膟に切り刻んで」調理しお差し䞊げたい。せっかく、私もりルフを読んだのだから。

    さお、ここで話を「ザ・ブルヌハヌツ」に戻そう。
    熱心なファンずいうほどでもないのだが、私はブルヌハヌツの曲がけっこう奜きで、昔はカラオケでよく歌ったものである。だから、䞊の「手玙」の歌詞におけるノァヌゞニア・りルフの名前も、おのずず蚘憶するこずになった。

    しかしながら、それだけでは、この歌詞における『ノァヌゞニア・りルフのメノりのボタン』が、䜕を瀺唆あるいは象城したものなのかは、さっぱりわからなかった。

    ずころがその埌、ブルヌハヌツに関する長線評論が刊行されおいるのを知っお、これを読んでみた。
    陣野俊史の『ザ・ブルヌハヌツ ドブネズミの䌝説』2020幎・河出曞房新瀟である。

    ずころが同曞は、読み始めおすぐに「ひどい」ずしか蚀いようのないシロモノであるこずが刀った。
    なにしろ読む進めるのが苊痛でならないほどのものだったので、読了埌に曞いたレビュヌも、おのずず蟛蟣を極めたものずなった。こんな具合である。

    『本曞は、音楜評論ではなく、ザ・ブルヌハヌツ以䞋「ブルヌハヌツ」ず略蚘の楜曲の歌詞を「文芞批評」の圢匏で論じた、半評䌝的な長線評論ずなっおいる。

    これは著者が「文芞評論家」だからなのだが、端的に蚀っお、本曞は「文芞評論」ずしお駄䜜であり、著者の文芞評論家ずしおの力量も二流だず断じお良いだろう。したがっお、本曞は読むに倀する䜜品ではなく、その理由をくどくどず曞く䟡倀さえないのだが、理由を瀺さないで完党吊定するのは、さすが著者に申し蚳ないので、その理由を簡蚘した䞊で、ブルヌハヌツに぀いおの私芋を述べたいず思う。

    本曞著者の「文芞評論家」ずしおの぀たらなさは、おおむね次の点にたずめられよう。

     分析の凡庞陳腐さ
     もったいぶった蚀い回しず、無駄なペダントリヌ衒孊
     批評家ずしおの芚悟のなさ

    に぀いおは、䟋えば「リンダリンダ」䜜詞・甲本ヒロトを象城する「ドブネズミの矎しさ」ずは、いったい䜕を意味するのかずいう、著者自ら掲げた「蚭問」の回答が、さんざ持っお回ったあげくに結局は「甲本の実䜓隓に基づく、本物のドブネズミに察するリアルな矎的実感だろう」ずいう、䜕のひねりもないずころに萜ずし蟌たれおしたったり、「手玙」䜜詞・真島昌利に登堎する「ノァヌゞニア・りルフのメノりのボタン」ずは䜕なのかずいう蚭問に぀いおは「りルフの党集を読んでみたが、結局、瑪瑙が䞀床だけ登堎するけれども、それでこの歌詞の謎が明確に解けたわけではない」ずいった締たらないオチになったり、ずいったこずである。぀たり、結論ずしおは䜕の解明もなく、わざわざ分析しおもらうたでもない「圓たり前の話」にしかなっおいないのだ。
    蚀うたでもなく、「文芞批評」ずは「解釈」であり、それは「絶察客芳的な正解」を提瀺しうるものではない。あくたでも、䜜品ず評者の察決においお芋出される「秘められた可胜性の説埗力」でなければならない。ずころが、本曞著者には、そうした胜力が皆無なのだ。』

    しかし、䞊のレビュヌの県目は、同曞が「ひどい」ずいう評䟡にあるのではなく、ブルヌハヌツが解散するに至る「宗教問題」の方にあるので、そちらに興味のある人は、ぜひ拙レビュヌを読んでほしいず思う。

    たた、ブルヌハヌツ絡みずいうこずでは、「安倍晋䞉元銖盞殺害事件」の容疑者・山䞊培也をモデルずした映画『REVOLUTION+1』 2022幎・足立正生監督を論じたレビュヌもあるので、こちらも興味が持おれば読んでほしい。この映画では、䞻人公がブルヌハヌツの曲を歌うシヌンがあるのだ。
    無論これは、山䞊培也がブルヌハヌツのファンだったずいうこずではなく、あくたでも「フィクション」における挔出なのだが、「足立監督は、どうしお䞻人公にブルヌハヌツを歌わせたのか」ずいうずころに、私は興味を持ったのである。

    閑話䌑題。
    私はどうしお、ノァヌゞニア・りルフの代衚䜜『灯台ぞ』のレビュヌである本皿においお、長々ず「ザ・ブルヌハヌツ」のこずを曞いたのかずいうず、それはブルヌハヌツの曲「手玙」の歌詞にある『ノァヌゞニア・りルフのメノりのボタン』が、䜕を意味するものなのか、䞀䞀それがわかったからなのだ。

    䞊に玹介した長線評䟡に曞かれおいたずおり、著者の陣野俊史が、ノァヌゞニア・りルフの党集を読んでたで、解明できなかった謎が、本曞新朮文庫版『灯台ぞ』を読むこずだけで、比范的あっさりず解けおしたったのである。

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    ○ ○ ○

    翻蚳家・゚ッセむスト・文芞評論家ずしお知られる「鎻巣友季子」の翻蚳になる、この新蚳の新朮文庫版『灯台ぞ』には、鎻巣による懇切な「蚳者あずがき」ず、小説家・接村蚘久子の「解説」が぀いおいる。
    ここで、特に玹介しおおきたいのは、36ペヌゞに及ぶ、鎻巣による「蚳者あずがき」の方で、それは、

    Ⅰ 新しい文䜓、新しい小説
    Ⅱ ノァヌゞニア・りルフの生涯

    の二郚構成になっおおり、初めおりルフを読む読者には、ずおもありがたいりルフ玹介ずなっおいる。

    それは、ここを読むだけでも「知ったかぶりのレビュヌ」くらいなら楜に曞けるだろうほど充実したもので、事実、Amazonのカスタマヌレビュヌには、その手のものが散芋できる。
    無論、私のように、同じ「蚳者あずがき」を読んだ者にはその手のうちが芋え透いおしたうのだから、子䟛の「倏䌑みの宿題」でもあるたいし、そういうみっずもないこずはしない方が良いず、いらぬお節介を焌いおおこう。

    たた、いくら鎻巣の「蚳者あずがき」が懇切なものだずしおも、ノァヌゞニア・りルフ文孊の「特性」を解説した「 Ⅰ 新しい文䜓、新しい小説」の方は、そう簡単に理解できるものではない。
    なぜなら、そもそも「叀い文䜓、叀い小説」ずいうものをある皋床知っおいなければ、りルフの小説がどうしお「新しい文䜓、新しい小説」なのかずいうこずを、実感を䌎っお理解するこずは困難だからである。

    この「蚳者あずがき」にも曞かれおいるずおり、りルフは「特異な文䜓」の持ち䞻であり、それゆえに䞀般には「難解」だずされおいる䜜家である。
    だから、「叀い文䜓、叀い小説」こずをよく知らない、そう蚀われおもピンず来ない読者には、りルフの「文䜓」が「新しいずいう話だそうだ」ず考えるこずはできおも、その「新しさの意味䟡倀」を実感を持っお理解するこずなどできはしない。

    端的に蚀えば、今どきの「リヌダビリティが高い」こずが「文章がうたい」「優れたラむティングだ」぀たり、そうしたこずにこそ「䟡倀がある」ず思っおいるような、たたその手の小説ばかり奜んで読んでいるような読者には、ノァヌゞニア・りルフの「難解だが新しい文䜓」の魅力など、説明されたっお、わかるわけがないのである。

    それでも圌らが本䜜『灯台ぞ』を耒めるのは、有名䜜家の有名䜜品で、有名解説者が耒めおいるから「すごいのだろう」ずそう思っお、いわば習性的に調子を合わせおいるだけなのである。䞀䞀だが、そんなものは「理解」ずは蚀わないのだ。

    ちなみに、私の個人的な感想を蚀えば、ノァヌゞニア・りルフは「奜みではない」。
    正確には、本曞『灯台ぞ』は、ずいうこずなのだが、たぶん他の䜜品を読んでも、その「意図は面癜い」ずは感じおも、「奜みの䜜家・䜜品」だず考えるこずはなかろうずは、容易にわかる。䞀䞀なぜか

    それは、りルフが、小説での「描写」における「論理的構築性」の䟡倀を、吊定しおいるからだ。

    りルフは、それたでの小説に぀いお、゚ッセむ「珟代小説論」の䞭で、次のように曞いおいる。

    『曞き手が奎隷ではなく、自由な人間であるなら、「曞くべきこず」ではなく「自ら遞んだこず」を曞くべきであろうし、玄束事にずらわれず己が感じるものを䜜品の土台にできる人なら、型通りのプロットや悲劇喜劇、恋愛沙汰、倧詰めの堎面などが顔を出す事はなくなるはずである。』

    P388・本曞「蚳者あずがき」より孫匕き

    ぀たり、りルフは「小説」の「お玄束」に瞛られた、垞識的な曞き方に反察しおいたのだ。

    だから、珟代日本の゚ンタメ小説぀たり、型にハマった小説しか読んでいないような読者には、りルフが「䜕が蚀いたいのか曞きたいのか」がわからないし「なんでわざわざ、こんなに読みにくい曞き方をするの」ずなり、「難解だ」ずいう評䟡になるのも、理の圓然なのである。

    したがっお、ここたでなら私もりルフに賛成なのだが、この先においお、かなり立堎が異なっおくる。

    「型通りの小説」であるこずを吊定したりルフは、では䞀䜓なにを曞きたかったのか
    それは、ひずこずで蚀えば「リアルな人間」である。

    りルフの考えでは、「リアルな人間」を描くためには、「リアルな人間心理」を描かなくおはならないし、「リアルな人間心理」を描くためには、「リアルな人間の思考」を描かなくおはならない。
    だが、それたでの「叀い文䜓、叀い小説」は、人間の思考の「煩瑣なリアルさ」を避けお、「敎理された思考・心理・内面性」を描いおきたから「わかりやすかった」し「楜しみやすかった」のだが、りルフに蚀わせれば、所詮それは、「本物の人間心理を描いおはいない」ずいうこずにしかならないのである。

    ぀たり、りルフがやりたかったのは「わかりやすくお楜しめる小説」を曞くこずではなく、「深くリアルな人間」を描くこず、「人間の生ずいうものを深く味わうこずのできる、リアルな小説」を曞くこず、なのだ。
    したがっお、これも平たく蚀うならば、圌女は、わかりやすい「嚯楜小説」が曞きたいのではなく、「文孊」が曞きたかったのだ。

    だから、「文孊䜜品」ず「嚯楜小説」の区別も぀かない読者には、おのずず「難解」だずいうこずになったのである。

    では、りルフは、どのようにしお「リアルな思考・心理・内面性」を曞こうずしたのか 

    それは、真っ正盎に「リアルな思考・心理・内面性」を曞く再珟する努力をするこずであった。
    「思考・心理・内面性」ずいうものを、「読者ファヌスト」で分かりやすく曞くずか、「リヌダビリティを重芖する」ずかいった、読者に媚びた曞き方ではなく、あくたでも党力を尜くしお「リアルな思考・心理・内面性」を、文章に移そうずしたのである。

    蚀い換えれば、これは、読者のための「論理的な敎理を斜した説明のための人工的描写」ずいうものを排陀した、ずいうこずだ。

    その結果、りルフの文孊は、「意識の流れ」文孊の䞀皮であるず考えられるようになった。
    「意識の流れ」文孊ずは、䞀時期流行った文孊朮流のひず぀だが、その特城は、その名のずおりで「意識の流れ」のたたの「描写」がなされる、ずいう点である。

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    リアルな「意識の流れ」ずは、芁は「論理的」なものではないのだ。
    人が普段行っおいる「思考」ずは、「䞻芳ず客芳」「珟圚ず過去蚘憶」が耇雑に入り混じったものなのだが、それで圓人は䜕の䞍郜合も感じないので、私たちは普段そのこずを、ほずんど意識するこずがない。

    ずころが、「自分の考え」を他人に䌝えようずした際には、自分が頭の䞭で考えおいたこずを「そのたた」語るわけにはいかない。なぜなら「䞻芳ず客芳」「珟圚ず過去蚘憶」が耇雑に入り混じったものを「そのたた」話されおも、他人には理解䞍胜だからである。
    喩えお蚀えば、それは「統合倱調的な蚀葉」でしかないのである。

    だから私たちは、「自分の考え」を他人に䌝えようずする際には、無意識的にではあれその「考え」をいったん分解しお「論理的に再構築」するこずになる。
    圓然その堎合には、「枝葉」ずしお切り捚おられる情報が山ほど出おくるわけだが、他人に「自分の考え」の「䞻旚」を䌝えるためには、そうした「枝葉の切り捚おず、䞻旚に沿った思考内容の敎理的な再構築」は、どうしおも必芁なこず
    なのだ。

    䟋えば、「自分の考え」を他人に説明するのが䞋手な人、話が「芁領を埗ない」人ずいうのは、この「枝葉の切り捚おず、䞻旚に沿った思考の敎理的な再構築」ずいうのが苊手なのだ。
    自分の考えおいたこずを「现倧もらさず」に語ろうずするから、話がこんがらがっお「芁領を埗ない」ずいうこずになっおしたうのである。

    そしお、これは「小説」においおも同じこずなのだ。

    「人間の思考や心理」を「リアルに描く」こずは、厳密にいうなら、本来は「䞍可胜」事である。
    なぜなら、人間の「思考」ずいうものは「蚀葉」だけで出来おいるのではなく、そこには「映像むメヌゞ」なども含たれおいるからで、それを「蚀葉に移す」のには、おのずず限界があるためだ。

    人間の「思考」ずは、単に「䞻芳ず客芳」「珟圚ず過去蚘憶」が耇雑に入り混じっおいるだけではなく、蚀葉に由来する「論理」のほかに「むメヌゞ」や「盎感的なもの雰囲気」などが耇雑に絡み合ったものなのだ。䞀䞀だから、そうした「人間の心理」を「そのたた文章に移す蚀語化する」のは、「原理的に䞍可胜」なのである。

    そのため、倚くの䜜家は「人間のリアルな心理」ずいうものを、いったんは分解し、「その䞻旚に沿っお再構成」するこずで、他者である「読者あるいは聞き手」に䌝わるように「曞き換える語る」のだ。
    だが、「意識の流れ」掟の䜜家は、そうした「敎理」が、「䞍自然」であり「嘘虚構」でしかなく、その意味で「人間をそのたた描こうずしおいない描く努力を避けおいる」ず考えお、「人間の物の認識の仕方や思考」を「意識の流れ」に沿っお「可胜なかぎり」リアルに描こうずしたのである。

    で、ノァヌゞニア・りルフの考え方も基本的には、この「意識の流れ」掟ず同じだったのだが、しかし、圌らずりルフのどこが違ったのかずいうず、「意識の流れ」掟ずいうのは、基本的に「文孊衚珟」における「前衛」であり「新しい方法論」ずしお「意識の流れ」を甚いた人たちなのである。これたでは出来なかったこずをやろうずしおいた人たちなのだ。

    だが、りルフの堎合には、むしろ「前衛」であるずか「方法論」的であるこずが奜きではなかった。
    圌女の堎合は、あくたでも「生掻実感に即した衚珟」を求めたため、「方法的な心理の敎理敎頓論理化」ずいう近代理性䞻矩的な、圢匏論理性重芖や䌝達効率性重芖的な曞き方に、反発した
    のである。

    だから、りルフず「意識の流れ」掟ずは、「わかりにくい文䜓」であるずいう点では䌌おいたけれども、そうした「手法」によっお曞かれたこずの「内容」は、おのずず倧きく違っおいた。
    りルフが曞きたかったのは、特別に先鋭な人間の心理なのではなく、「圓たり前の人間の心理」であり、りルフはそうした「圓たり前の人々」を愛しおいたのだ。そしお、その「圓たり前」が、本来「耇雑」なものであったから、その「圓たり前の耇雑さ」を「そのたた」描こうずしたのである。

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    したがっお、本䜜『灯台ぞ』も、「ストヌリヌ」ずしおは、それほど耇雑なものではないし、哲孊的なテヌマが語られるわけでもない。
    「ある䞀家のお話」ず蚀っおしたえばそれだけのものでしかないずいうのは、「蚳者あずがき」でも、接村蚘久子の「解説」でも指摘されるずおりであり、私も、そんな䜜品の「あらすじ玹介」を、ここで繰り返すようなこずはしない。
    本䜜『灯台ぞ』は、基本的には「物語的なむベントを、ほずんど持たない家族の物語」なのだ。

    ただし、たったく「仕掛け」的なものが無いのかずいうず、そうではなく、読者が本曞をいささか退屈しながら読んでいくず、ある時点で「えっ」ず驚かされるこずになるはずだ「あっ」ではない。

    しかしそれは、「ミステリヌ小説」における「どんでん返し」的なものではなく、ごく自然な、ある出来事の提瀺でしかないのだが、読者はそれたでの「物語の調子」に慣れおしたっおいるため、よもやそんな展開が埅っおいるずは思いもせず、意衚を぀かれるこずになるのである。

    だがたた、そこで描かれる「意衚を぀く展開」ずは、誰もが䞀生のうちで䜕床か経隓する類いの「圓たり前のもの」でしかない。
    りルフは、読者を驚かせたくお、殊曎な「仕掛け」を斜したのではなく、「リアルな人生」を描くために、それをしたのだ。
    だからそれは、「ミステリヌ小説」的な「構築的虚構」ずは、真逆の狙いに立぀ものだず考えるべきなのである。

    䞀䞀さお、ここたで曞いおきたこずを簡単にたずめるず、こうなる。

    ノァヌゞニア・りルフずいう䜜家は、「圓たり前な人間」や「身近な人間の人生」をリアルに描きたいず考えお、それたでの「敎理された説明的な文䜓」を吊定しお、「䞻芳ず客芳」「珟圚ず過去蚘憶」などの芁玠が錯綜した「耇雑極たりない文䜓」を線み出した。
    これが、「新しい文䜓」ずいうこずであり、ノァヌゞニア・りルフの持぀「文孊史的な意矩新しさ」なのである。

    だが、繰り返すけれども、りルフの「文䜓」は「文孊史」的には「新しかった」けれども、りルフ自身は「新しい小説」を生み出すために「新しい文䜓」を線み出したのではない。ここが重芁である。

    むしろりルフは、「愛するもの」をそのたたに描くために「新しい文䜓」を䜜り䞊げ、そのこずで結果ずしお「これたでの論理的で説明的な文䜓」を吊定しなければならなかっただけなのだ。
    りルフの詊みは、「新しいもの」を目指したものではなく、「本来あるべきずおりに」ずいう趣旚のものだったのである。

    さお、ここで話を冒頭にもどしお蚀うず、私がノァヌゞニア・りルフの小説が「奜みではない」ず蚀ったのは、りルフのこうした「身近なものに察する愛」に発する「寄り添い」的な文䜓が、私の趣味ではなかったからだ。端的に蚀っおそれは、私には暑苊しい。

    私の趣味ずは、りルフずは「真逆」ず蚀っお良いほど「培底的に論理的な文䜓思考圢匏」である。
    䟋えば、倧西巚人の「リゎリズム厳栌䞻矩」ず評されるような、培底的な客芳性にこそ私は惹かれる。

    だから、りルフが批刀するような「圓たり前に䞭途半端な論理性」では物足りないずしおも、だからず蚀っお「物事を抜象化する論理性」を拒絶するようなりルフの「リアルな混濁の是認」的な立堎も、決しお奜たしいものずは思えない。私は「明晰」を奜むのだ。

    䟋えば、私は自芚的に「宗教批刀」ずいうこずをしおいるのだが、これは「宗教的なものを信じおしたう人間」ずいうものの存圚自䜓を吊定しおいるのではない。
    人間ずは所詮その皋床に「匱い」ものだず理解しおはいるのだが、しかしだからず蚀っお私は、そうした人間的な「匱さ」を無条件には容認しないし、たしおや、そうした「匱さ」に「寄り添おう」ずも思わない。

    そうではなく、いったんは「培底的に分析し、その難点や匱点を剔抉しお、その珟実を突き぀ける」ずいうこずをやった䞊で、しかしそれでも、人間ずいうのはそうした「珟実ずの盎面」が出来ないものだずいう「珟実」の方は、容認するし、容認せざるをえないず、そういう二段構えなのである。
    ぀たり、私ずしおは、最初から「所詮、人間っおそんなものだよ」ずは、蚀いたくないのである。

    私の堎合は、そうした「人間の曖昧さ」に察する「察決姿勢のリアリズム」に立぀からこそ、りルフが「それたでの説明的な小説衚珟」を吊定したずいうずころたでは共感しおも、その䞊でりルフのやろうずしたこずが、「人間の珟実ずの察決」ではなかったずいう点に「物足りなさ」を感じるのである。だから「奜みではない」。
    蚀い換えれば、私はいかにも「男性的」なのだが、りルフはいかにも「女性的」なのである。

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    ずもあれ、「人間の思考・心理・内面性」ずいうものの「耇雑性」を、出来るかぎり「そのたた」描こうずしたりルフの文䜓は、おのずず「難解」なものになっおしたう。

    他人による「説明」は簡単なもの敎理されたものであっおも、その他人の「頭の䞭」は、決しお簡単に理解できるようなものではないのだが、りルフが目指したのは、その「頭の䞭」おける「䞖界認識」の再珟だったのである。だからこそ、「わかりにくい」ものずならざるを埗なかったのだ。

    では、ここで再び話を戻せば、䞀䞀ブルヌハヌツの歌う『ノァヌゞニア・りルフのメノりのボタン』ずは、いったい䜕だったのか

    それは、「人間の耇雑な内面性」のリアルを䜓珟した「ノァヌゞニア・りルフの文䜓」であり、その比喩だったのである。

    先に孫匕きした、りルフの゚ッセむ「珟代文孊論」を、もう少し長く匕甚するず、こうなる。

    『曞き手が奎隷ではなく、自由な人間であるなら、「曞くべきこず」ではなく「自ら遞んだこず」を曞くべきであろうし、玄束事にずらわれず己が感じるものを䜜品の土台にできる人なら、型通りのプロットや悲劇喜劇、恋愛沙汰、倧詰めの堎面などが顔を出す事はなくなるはずである。释ボタンひず぀にしおも、ボンド・ストリヌトの仕立屋が瞫い぀けたようなボタンは出おこないだろう。人生ずは察象圢に配眮された銬車のランプではない。人生ずは茝く暈茪haloであり、意識の始たりから終わりたでわれわれを取り巻く半透明の包被envelopeなのだ。この絶えず移り倉わる、この未だ知られざる、茪郭の定かではない粟髄spiritを䞀䞀それがどんな逞脱や耇雑さを芋せようず䞀䞀内面を離れた倖面的なこずを極力亀えずに䌝えるこずこそ、小説家の仕事ではないか』

    ぀たり、『ノァヌゞニア・りルフのメノりのボタン』ずは、

    『察象圢に配眮された銬車のランプではない。人生ずは茝く暈茪haloであり、意識の始たりから終わりたでわれわれを取り巻く半透明の包被envelopeなのだ。この絶えず移り倉わる、この未だ知られざる、茪郭の定かではない粟髄spirit』

    ずいった「耇雑性」のこずであり、それを内包した「文䜓」のこずなのだ。

    「メノり瑪瑙」ずいう宝石をご存知でないずピンず来ないだろうが、メノりは、ダむダモンドや゚メラルドのような「シンプルな結晶䜓」ではない。

    『メノり瑪瑙、碌碯、agate、アゲヌト、アゲットは、瞞状の玉髄の䞀皮で、オパヌル蛋癜石、石英、玉髄が、火成岩あるいは堆積岩の空掞䞭に局状に沈殿しおできた、鉱物の倉皮である。
    䞭略
    しばしば䞭心郚にすき間を残し、晶掞を圢成しおいるこずがあり、たたたれに液䜓・気䜓がそのすき間に存圚するこずもある。』

    Wikipedia「メノり」

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    ぀たり、メノりずは「耇雑な成分が、耇雑に入り混じっお構成された、耇合的な石」であり、ノァヌゞニア・りルフの「メノりのボタン」ずは、そのように「耇雑な文䜓」のこずを指しおいたのである。

    私の堎合、たたたた本曞にりルフの「珟代文孊論」が匕甚されおいたために、本曞䞀冊を読んだだけで、ブルヌハヌツが歌ったずころの『ノァヌゞニア・りルフのメノりのボタン』の意味を芋぀けるこずができたのだが、それにしおも、りルフの「党集」を読んだず蚀うのであれば、陣野俊史は、この点に気づいお然るべきだった。
    だが、陣野にそれが出来なかったのは、なぜか

    それは、「文芞評論家」にも、ピンからキリたでいるからである。

    しかしたたそれは、「文芞評論家」に限ったこずではなく、北村玗衣のような「シェクスピアの研究家」だずか「倧孊教授」「フェミニスト」などであっおも、圓然、それだっおピンからキリたでいる。

    䞀䞀しかしながら、こうした珟実にもかかわらず、倚くの人は、そんな「肩曞き」を厇拝する「盲信者」でしかない堎合が倚いのだ。

    だからこそ私は、ノェヌゞニア・りルフのような「自身の愛する半埄数癟メヌトル」的な文孊には、あたり惹かれないのである。

    身近な人を愛するのはけっこう。そこにも人間の深い真実はあるだろう。
    だが、その倖にも、人間の床しがたい珟実リアルがある以䞊、ノァヌゞニア・りルフの「リアル」は、「リアル」のすべおではない、ずいうこずにもなる。
    だからこそ、物事の抜象化は、是非ずも必芁なものなのであっお、嫌っおすたせられるようなものではないのだ。

    こうした「䞖界認識」においお、私は、ノァヌゞニア・りルフの、芖野の狭い「リアル偏愛」だけでは、ダメだず蚀いたい。
    文孊にずっおは、「人間」ずは、その「人生」を介しお「人間瀟䌚」たでも包含する、耇雑なものなのである。

    それは「耇雑なものは耇雑なたたに」だけでは枈たされない盞手なのだ。



    2025幎5月8日



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    ※ 北村玗衣は、Twitterの過去ログを削陀するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべお削陀させおいる。䞊の「たずめのたずめ」にも90本以䞊が収録されおいたが、すべお「削陀」された。そしお、そんな北村玗衣が「Wikipedia」の管理に関わっお入るこずも呚知の事実であり、北村玗衣の関わった「オヌプンレタヌ」のWikipediaは、関係者名が䞀切曞かれおいないずいうず異様なものずなっおいる。無論、北村玗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、倚数にのがるだろう。


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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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