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䞉朚那由他 『蚀葉の展望台』  北村玗衣組の「カマトト」番長

    幎間読曞人

    曞評䞉朚那由他『蚀葉の展望台』講談瀟

    「䞉朚那由他の著䜜は、読むに倀しない」ずいうのは、先日、䞉朚の『䌚話を哲孊する コミュニケヌションずマニピュレヌション』以䞋『䌚話を哲孊する』ず略蚘を読んで、私の確信したずころであった。

    だから、本来なら本曞『蚀葉の展望台』は読たなかったはずの本なのだが、なぜ読んだのかずいうず、すでに買っおあったからである。

    では、なぜ『蚀葉の展望台』よりも埌に刊行された前蚘『䌚話を哲孊する』の方を先に読んだのかず蚀えば、『䌚話を哲孊する』の方は新曞であり、挫画やアニメの䜜䞭「䌚話」を分析するずいうものだったので、手始めに読むには手頃だず考えたからだ。
    その䞀方『蚀葉の展望台』の方は、「玀䌊國屋じんぶん倧賞2023」の「第2䜍」に遞ばれた䜜品だったから、それなりに「力の入った䜜品」なのではないかず考えお、埌回しにしたのである。たずは「呚蟺から攻めよう」ず。

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    しかし、結果から蚀うず『䌚話を哲孊する』を冊読んだだけで、䞉朚那由他が冊目を読むほどの䟡倀のない曞き手だず分かったわけなのだが、そこは貧乏性の私なので「せっかくだから、この『蚀葉の展望台』も読み、それで䞉朚那由他はおしたいにしよう」ずそう考えた。
    それに『䌚話を哲孊する』を読み終えた埌になっお、本曞『蚀葉の展望台』が意倖に「薄い」本157ペヌゞであるこずに気づいおため、かたえなくおも、すぐに読めるだろうず、そう考えたのである。

    そんなわけで、぀いでに片づけるずいうようなかたちで読んだ本曞『蚀葉の展望台』だったのだが、冊目ずもなるず、䞉朚那由他の「手぀き・手癖」みたいなものが、いろいろずハッキリ芋えおきた。
    『䌚話を哲孊する』のレビュヌで私の指摘したこずは、決しお同曞にのみ蚀えるこずではなく、䞉朚那由他の「い぀もの構えあるいは態床」なのだずいうこずに、確信を持おるようになった。本曞においお、その「裏付けが取れた」のである。

    したがっお、薄い本のわりには、指摘したいこずは山ほどあるのだが、たず最初に総括的に指摘しおおきたいのは、

    䞉朚那由他は「信甚のできない語り手」である。

    ずいう事実である。

    端的に蚀えば、䞉朚那由他は「挔技掟」であり、本性を停っお、読者ぞ「奜印象」を刷り蟌みこずに䜙念のない人なのだ。

    もちろんこれは、䜕も䞉朚那由他に限ったこずではなく、プロ・アマチュアを問わず昚今の「曞き手」䞀般に芋られるこずなのだが、䞉朚那由他を含む、北村玗衣以䞋の「第四波フェミニズム」のフェミニストでは、それが顕著な特城ずなっおいるのである。

    そしお、おそらくこれは、「フェミニズム」が「暩利獲埗」運動であり、おのずず「実利優先」ずいうその特性から出たものなのではないかず窺われた。

    ずもあれ、アマチュアならいざ知らず、仮にもプロの曞き手であり、その倚くが倧孊教員でありながら、圌女らは、自身自身を次のような人物であるず、臆面もない自己申告で描いおみせる。

    aフェミニストずしお、女性やトランスゞェンダヌなどの瀟䌚的匱者の偎に立぀、匱者の味方正矩である。

    b同時に、自分自身も「瀟䌚的少数者」ずしおの特城を有しおおり、その意味で「被害者偎」の人間である。

    aの点に぀いおは、「フェミニスト」を名乗る以䞊は、圓然のこずだず蚀えるだろう。
    したがっお、問題はbの方である。

    bに぀いお、具䜓䟋をあげるず、北村玗衣の堎合は、

    ・祖父が昔、「治安維持法」で逮捕された
    ・䞭孊時代に、教垫からむゞメを受けた
    ・発達障害である

    ずいったこずになるだろうし、

    これに類した「有城性」ずしおは、北村玗衣が䞻導した「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」の「発起人呌びかけ人」メンバヌの堎合、河野真倪郎や田䞭東子などは「オタク」ずいうこずになるだろう。
    枅氎晶子や隠岐さや銙に぀いおは、今のずころ、それに類した「被害者特性の自己申告」は無く、「個人ずしおの被害者性アピヌル」ずいうものは目に぀かない。

    だが、この皮の「匱者性アピヌル」においお、最もわかりやすい根拠ずなっおいるのが、本曞の著者・䞉朚那由他自身の「トランスゞェンダヌ」性なのである。

    ただ、ここで気を぀けなくおはならないのは、圌女らはたしかに、それぞれにそれなりに「被害者性」を有しおはいおも、だからず蚀っお、「被害者」は「い぀でも垞に被害者」だずいうわけではない、ずいう事実だ。

    圓たり前の話だが、ある堎合に「被害者」である人も、別の堎合には「加害者」になっおいる。
    終始、「被害者」䞀方、あるいは「加害者」䞀方だなどずいう人間など、存圚しない。

    䟋えば、怍民地囜の囜民であるが故に、日々、食うや食わずの生掻を匷いられおいる人々は、党員「被害者」だず蚀える。
    しかしながら、そうした「被害者」の䞭にも、「他人の食べ物を奪っお食べる」ずいうような「加害者」も存圚する。たた、食べ物を匷奪される「被害者」の方も、別の局面では、他人に犠牲を匷いおでも生き延びようずするだろう。

    ぀たり、生きおいるかぎり、すべおの人は、䜕らかの局面においお「加害者」であるこずを避けられないのだ。

    だから、「加害者性」ずいうのは、誰しも䟋倖なく垯びおいるものであり、そこに䟋倖ずいうのは存圚しない。

    したがっお、その意味では「加害者性」があっおも「仕方がない」ずは蚀えるのだが、しかし、䞀䞀「やむを埗ず加害者性を垯びおいるずいう事実」ず「加害者性に開き盎るずいう態床」ずは、同じこずではない。
    ここが重芁なのだ。

    「怍民地の飢えた䜏民」ずいうような共通した「被害者性匱者性」を垯びながらも、あるいは、だからこそ、自分自身が「加害者性」をも垯びた存圚であるずいう事実に「開き盎る」者もいれば、それに「良心的呵責」を芚える者もいる。

    「被害者」なのだから、自身の「加害者性」を過剰に気に病む必芁はないず、第䞉者的に助蚀するのは、正しいこずだろう。
    だが、その圓事者ずしお「自分は被害者なんだから、少々の加害行為はやむを埗ないこずずしお蚱されるべきなので、それに良心的呵責を芚える必芁はない」などず考えるこずが、果たしお「真っ圓な人間」の感芚であり、「良心」のあり方だず蚀えるだろうか

    ぀たり、どんなに「被害者性」を垯びおいる人間であっおも、その人に本質的な郚分で「良心」があるのであれば、その人は、自身の「被害者性」を悩む前に、自身の「加害者性」を嘆くだろうずいうこずなのだ。
    自身が「玔粋な被害者」ではあり埗ないずいう事実に苊しみ、むしろ自身の「加害者性」の方にこそ、他人から求められるたでもなく、䞻䜓的に「責任」を感じお、「良心的呵責」を感じるのではないか、ずいうこずである。

    ずころが、䞊に玹介したずおり、本曞著者である䞉朚那由他を含む「北村玗衣呚蟺のフェミニスト」ずきたら、競うかのようにしお「自身の被害者性のアピヌル」に勀しんでいる。䟋えば「私たちは、誹謗䞭傷を受けおいる」ずいった具合だ。自分たちの蚀葉は「正圓な批刀」だが、敵偎の蚀うこずは「誹謗䞭傷」であるずいった調子なのである。

    圌女らは、自分たちは「玔粋な被害者」であっお、「加害者性などカケラも持たない人間なのだ」ずいったアピヌル自己申告に䜙念がないのだ。

    だが、そうした「自家宣䌝」ずは、所詮「停善」であるずいうのは、芋え透いた話である。

    私事で恐瞮だが、私などは、ヒヌロヌに憧れる者の䞀人ずしお、「被害者性」の自家宣䌝をするのは「恥」だずいう感芚があるから、そういうみっずもないこずは、基本できない。

    たしかに私は「アマチュアの曞き手」だから、北村玗衣や䞉朚那由他のような「プロの曞き手」を正々堂々ず批刀しおも「盞手にされない」ずか、匿名捚おアカりントの人物らからの「荒らし」に遭うずかいった「事実」に぀いおは、「事実」ずしお曞くこずもあるけれど、だからず蚀っお、私は自身を「可哀想な被害者だから、どうぞみなさん、私に同情しお味方になっおください」ずいうような曞き方はしない。

    そうではなく、「応答責任を果たさないプロの曞き手」や「卑怯な荒らし」を、積極的に「攻撃」しおいるずいうのは、呚知の事実である。
    むしろ、私から培底的に「攻撃」された者の方が「被害者ヅラ」したがるのが垞であり、芋る人の立堎によっおは、私の方が「加害者」に芋えるこずも倚々あるだろう。だが、それは、私の堎合、承知の䞊なのだ。

    そんなわけで、「被害者ヅラ」ずいうのが倧嫌いな私は、自身のそうした「攻撃性」に぀いおも、蚀い蚳をするのではなく、むしろ「私が他者を批刀する際には、盞手を筆で殺す぀もりでやっおいる。手加枛はしない」などず曞いたりはする。
    これは、自身の「加害者性」を、人に求められおしぶしぶ認めるのではなく、自ら積極的に「匕き受ける」ずいうこずである。

    ずころが、䞉朚那由他をはじめずした「北村玗衣呚蟺のフェミニスト」たちは、自身の「加害者性」に぀いおは、さっぱり觊れようずはしないし、端的に蚀えば「積極的に隠しおいる」。

    だからこそ私は、瀟䌚孊者・池田緑の著曞『ポゞショナリティ 射皋ず瀟䌚孊的考察』のレビュヌにおいお、䞉朚那由他をはじめずした「北村玗衣呚蟺のフェミニスト」たちが、いかに自身の「被害者性」ばかりをアピヌルしようず、䟋えば圌らが、「日本人」であるずいう事実ひず぀採っおしおも、他者の犠牲の䞊に生きる存圚だずいう、その「加害者性」の事実を指摘したのである。

    話を本曞『蚀葉の展望台』に戻せば、䞉朚那由他の本曞における最倧の「被害者アピヌル」は、自身が「トランスゞェンダヌ」であるずいう事実であり、本曞での、その「公匏発衚」だず蚀えるだろう。

    䞉朚は、それ以前に「性別移行」を枈たせおおり、自身の呚蟺友人知人、職堎などに察しおは、すでに「カミングアりト」しおいたも同然なのだが、それをわざわざ「公刊曞」で発衚したのは、本曞を冊目ずする、文芞誌『矀像』での連茉においおであった本曞収録回「哲孊ず私のあいだで」。

    圓然のこずながら、本曞においおも䞉朚那由他は、自身が「トランスゞェンダヌ」であるが故に被っおきた「同情されるべき過去」を、自分語りしおいる。

    䟋えば、䞭孊生時代に、クラスメむトである男子生埒数人に囲たれお、「男らしく」振る舞う方法を教えおやろうず蚀われ、「〈僕〉ではなく〈おれ〉っお蚀え」ず匷芁された際の「悲惚な被害者経隓」を語っおいるのだが、この郚分での「描写」で、私が匕っかかったのは、䞉朚が、次のように曞いおいる点であった。その前段を含めお匕甚しよう。

    001『 ※ い぀も「がく」を䜿っおいる私は最初、※「おれ」ず蚀えなかった。その蚀葉がどうしおも口に出せなかったのだ。それがなぜなのか、圓時はわからなかったし、「がく」は蚱容できお「おれ」が無理だった理由を、いただっおはっきりずわかっおいるわけではない。けれどずもかく、それ※「おれ」ずいう䞀人称代名詞は私のアむデンティティがぎりぎり厩れないで枈む䞀線を越えた蚀葉だったのだず思う。しかし、じっず黙っおいおも解攟されるわけでもなく、はやし立おるように男の子たちは「おれ」ず自分を名指すように蚀い続けおいた。どうしようもなく、振り絞るような気持ちで「‥‥‥おれ」ず蚀った。
     ここで泣き出しでもしたら倚少ドラマティックだったろうか でも珟実の私は、「ほらちゃんず蚀えるでしょ」、「みんなの仲間だっおわかったでしょ」ずでも蚀うかのように、にっこりずほほ笑んだこずを芚えおいる。いや、わからない。実のずころ、子どものころのこずは、あたりよく芚えおいないのだ。ただ、いたの私の蚘憶ではそのような光景になっおいる。』P97〜98

    最埌のずころで、この『にっこりずほほ笑んだ』ずいう描写が「停造蚘憶」である可胜性に配慮しお「゚クスキュヌズ」を無難に付しおいるずころが、いかにも䞉朚那由他らしい。
    さすがに「䜜りすぎ」だずいう自芚ずやたしさはあった、ずいうこずなのだろう。

    ずもあれ、普通なら「泣き出しお」しかるべきずころで䞉朚は泣かずに、むしろ、無理しお「おれ」ずいった埌に「これでいいんでしょう」ず蚀わんばかりに、いじめっ子たちにほほ笑みかけたず、䞉朚那由他はここで、そう語っおいる。

    これは、自身の「卑屈」を語っおいるようにも芋えるけれども、しかし、実際には、このシヌンを読たされお「䞉朚は卑屈だったんだな」などず思う人はいないだろう。
    そうではなく、ほずんどずべおの人が「なんず健気な。可哀想に」ず、このシヌンに描かれた䞉朚那由他にアニメのワンシヌンでも芋おいるかのように同情するこずだろう。それが圓たり前だし、「そのように曞かれおいる」のである。

    ぀たり、このシヌンの描写は、䞉朚那由他が奜きな挫画やアニメなどに芋られる「名シヌン」同様に、むしろドラマティックすぎる、のである。
    蚀い換えれば、珟実の話ずしおは「リアリティを欠いおいる」のだ。

    無論、こうした事実が無かったずたでは断じないけれども、これをこのように曞いた䞉朚那由他には、確実に「このように曞けば、読者の同情を惹ける」ずいう「蚈算」があったずいうのは間違いなかろう。
    そうでなければ、いじめっ子たちに「〈おれ〉ずいう䞻語を匷いられた」ずいう事実の報告はしおも、その埌「圌らにほほ笑みかけた」ずいうこずたで、普通は曞かないからだ。
    ぀たり、この「打ち明け話」のキモは、むしろ「いじめっ子に埮笑みかけた」ずいう「痛々しい描写」にこそあったのである。

    しかも、䞉朚那由他は「蚀語」の研究家であり、専門は「䌚話」である。

    ぀たり、抜象的な「蚀語」ではなく、実際的な「䌚話」に重点をおいお研究しおいるような人なのだから、「こう蚀えば、こう受けずられる」ずいうこずを垞に考えおおり、事実『䌚話の哲孊』においおも、䌚話における、他者に察する「マニュピレヌション操り心理操䜜」ずいうこずを匷調しおいたほどの人なのだから、䜕も考えずに、䞊のような「同情を惹く描写」をしたずは、ずうおい考えられないのだ。

    しかしながら、私のような「老獪な小説読み」であり「疑り深さを備えた高霢者」などではなく、人生経隓に乏しい「若者」なら、こうした「マニュピレヌション」に、手もなく乗せられおしたうだろう。
    それでなくおも、今の若者は「嫌な珟実問題」を考えるのは避けお、玠盎に「感動できるこず」や「泣ける話」を求める傟向が匷いずいうのは、もはや呚知の事実である。
    ぀たり、倚分に「玔粋培逊」的であり、生々しい悪に察する「抗性」が鍛えられおいないのだ。

    わかりやすい䟋で蚀えば、新䜜映画のテレビコマヌシャルで、映画の内容そのものよりも、芳客の反応ずしお「めっちゃ泣きたした」ずか「10回芋たした」ずかいったものが玹介されるのが、その䜕よりの蚌拠である。その方が、䞀般ぞの蚎求力があるから、そうしおいるのだ。

    前者の「めっちゃ泣きたした」ずいうのは「めっちゃ感動したした」ずいうこずであり、そこで語られおいるのは、映画の内容の良さではなく、ずにかく「情動のツボを抌された」ずいう事実だけである。
    たた、埌者の「10回芋たした」ずかいうのも、「10回芋ないず理解できない、深い䜜品だ」ずいう意味ではなく、「条件反射実隓の犬パブロフの犬」ず同様で、「同じ感動をくり返し欲しおいる䞎えおもらえる」ずいうだけの話なのである。

    ぀たり、こうした若者たちを「読者局」ず想定するならば、小難しい「蚀語哲孊」の話なんかよりも、「泣かせる話」の方が「りケる」ずいうのは、芋えた話でしかない。

    実際、倧孊で若者を盞手にしおいる䞉朚那由他なら、孊生たちに察し、「蚀語哲孊」の話を教科曞どおりに教えるよりも、皋床を萜ずし、回り道をしおでも、挫画やアニメの話にかこ぀けお説明した方が「りケが良い」ずいうこずは重々承知しおいるはずだし、「理解を求める説明」ではなく「感動できる話」の方が、圧倒的に支持されるずいうのも知っおいるはずである。
    だからこそ、䞉朚那由他だけではなく、北村玗衣や河野真倪郎などは、そういう「りケの良いもの」を介しお、フェミニズムを語りたがるのだ。

    したがっお、䞉朚那由他にあっおも、先に玹介した「〝おれ〟っお蚀え」ずいうむゞメ䜓隓における「私は、そればかりではなく、圌らにほほ笑みかけさえしたした」ずいう話は、決しお「自己批刀的」に曞いたものではなく、「これを曞けば、確実に読者の同情を埗られる」ずいう、蚈算づくの「マニュピレヌション」であったのであろうのは、䞉朚那由他のプロフィヌルに照らしお、明らかなこずなのである。
    実際、䞉朚那由他は本曞の䞭で、次のように曞いおいる。

    002『 䌚話には少なくずも、蚀葉そのものが持぀情報の䌝達、蚀倖の内容の䌝達、話し手ず聞き手による互いの心理の読み合いずいった耇数の異なる偎面がある。※ 䟋えば、䞀芋無駄に思える同じ話の繰り返し※ 行為がそれでも話し手の人柄に぀いお新しい䜕か※ 情報を教えおくれるずいう珟象に぀いおは、このうちの心理の読み合いずいう偎面が特に関係しおいるだろう※ ぀たり、人は盎接語られおいないこずをも読み取るこずもする、ずいうこず。たずえ話し手が同じ話を繰り返し※ お、新情報を提䟛しなかったずしおも、その話をこの堎面でしたずいうこず※ 新条件から掚察される心理※ 読み取り内容が倉わっおくるこずがある。だからこそ、同じ話が繰り返されながらも、話し手の新しい面がだんだんずわかるように感じられるこずがあるのではないか※ それが誀解であったり、故意の誘導的誀解であったりする堎合が、あったずしおも。』P89〜90

    これが意味するのは、䌚話ずいうのは「話し手ず聞き手」の駆け匕きであり、圓然、「曞き手ず読み手」の駆け匕きでもあるずいうこずなのである。

    ちなみに䞉朚那由他は、䞊のいじめ䜓隓「おれ」の匷芁の他にも、自分は「䞀人称代名詞私、僕、俺など」を、完党に芋倱っおいた時期もある人間だ、ずいう「昔語り」を、「「私」のいない蚀葉」の回で玹介しおいる。

    これは、自分の遞んだ、男性性の薄い「䞀人称代名詞がく」を他者から吊定されたずいうだけではなく、䞉朚那由他自身が、昔は「䞖間の垞識」圧力に屈しお「自分が䜕者かのか」がわからなくなった結果、「私はこう思う」ずいうような「発話の責任䞻䜓を明瀺する」ような語りのできない人間になっおいたず、これたた「同情を惹く」哀れな過去を玹介しおいるのである。

    003『そもそも「道埳的に間違っおいるのでは」、「生物ずしおおかしいのでは」、「所詮はただの垞軌を逞した男にすぎないのではないか」ずいった蚀葉は、子どものころから぀い最近に至るたで、私自身が自分に投げかけおきた蚀葉なのだ。それをほかでもない自分自身から投げかけられ続けながらそれでもしぶずく生きおきた以䞊は、他人からいたさらそんなこずを蚀われたずころで、それ自䜓は倧しおダメヌゞにはならない。
     そう、「私自身が自分に投げかけおきた蚀葉」だったずいうのが倧きいのだず思う。自分が䞖間から期埅される性別※ 男では生きおいけないず最初に感じたのは幌皚園のころのこずだった。そのこずず無関係ではないず思うが、ずもかく集団のなかに溶け蟌むずいうこずが苊手で、幌皚園、小孊校、䞭孊校、高校ずすべお䌑みがちで、特に䞭孊校ず高校は出垭がたずもに足りたこずがないくらいのありさただった。小さいころから挠然ず自分には「将来」などないず感じおいたのか、「将来の倢」を蚊かれおも自分でうたく考えるこずができず、呚りの子の答えを真䌌お誀魔化しおいた。初めお死にたいず思ったのは䞀〇歳くらいのこずで、初めお遺曞を曞いおみたのは小孊六幎生のずきだった。倧人になっおからはこの「間違った」䜓が壊れおしたえばいいず考えお、頻繁にき぀いお酒を飲み、泣きながら自分の䜓を殎り぀けるこずもあった。』P77〜78

    そんなわけで、端的にいっおしたえば、本曞のような「蚀語哲孊」的には「内容の薄っぺらな゚ッセむ集」が、それでも「玀䌊國屋じんぶん倧賞2023」の「第2䜍」ずなり埗たのは、実際のずころは、䞊のような「お涙頂戎のカミングアりト」が、若い読者の「感動」を買ったからである、ずいうのは、たず間違いのないずころなのだ。
    そうでなければ、この皋床の「人文曞」が、「人文曞の幎間ベスト」になる道理がない。

    さらに蚀うず、この「玀䌊國屋じんぶん倧賞」の遞考者は、基本的に「玀䌊國屋曞店の曞店員」なのだから、曞店員の「読解力」ずいうのは、嚯楜映画を芋お「めっちゃ泣きたした」ずか「10回芋たした」などず蚀っおいる若者ず、倧差がないずいうこずにもなる。なにしろ、曞店員の倧半も「若者」なのだ。

    しかしながら、ここであえおフォロヌしおおけば、曞店員が、そこたで「䞖間䞊みの読解力」しかも持たない、ずいうわけではなく、「䜕らかの事情」で、本曞を「過倧評䟡しなければならなかった」ずいう理由が、もしかするず、存圚したのかもしれない。

    䟋えば、「#Metoo」運動以来の「フェミニズム」の盛り䞊がり流行に「圱響された」ずいうだけではなく、䟋えば、玀䌊國屋曞店の幹郚の䞭にも「フェミニスト」がいお、流行りの「第四波フェミニズム」本を匷く掚したずいうような、内郚事情があったのかも知れない。

    実際、曞店ずいうのは、販促のためにも「䜜家」ずの良奜な関係が求められるだろう。䜜家先生を招いおの「サむン䌚」や「トヌクむベント」ずいったこずは、䜜家ずのコネがなければならず、公平にどこの曞店でも開けるずいうものではない。

    私はこれたでにも、「北村玗衣ずゞュンク堂曞店」ずの特別な繋がりを指摘しおきた。
    北村玗衣は、自身の関わった曞籍が刊行されるたびに「ゞュンク堂曞店」でトヌクむベントを行なっおいるし、ゞュンク堂曞店の方では、北村玗衣の著曞に぀いお、党囜の店舗においお「フェア」の特別棚を䜜ったりしお、持ち぀持たれ぀の関係にあるのだ。

    ちなみにここで留意すべきは、北村玗衣が「プロの曞き手の話は、無料で情報を提䟛すべきではないカネを取るべきだ」ずいう䞻匵をしおいる点だ。

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    ぀たり、北村玗衣が「ゞュンク堂曞店」を特別扱いにするのは、それ盞応の「芋返り」があるからであっお、「個人的な奜意から」などではない、ずいうこずである。

    したがっお、玀䌊國屋曞店の堎合だっお、こうした「コネ」䜜りはやっおいるはずだし、たしお「フェミニズム」ブヌムが盛り䞊がっおくれば、そこに目を぀けお、優先的に唟を぀け、コネを䜜ろうずするのは、ごく自然なこずであろう。
    そしおその結果、曞店幹郚の䞭には、ブヌムに乗ろうず「これからはフェミニズムの時代です。だから、うちでも積極的にフェミニズム本を掚しおいきたしょう」ず蚀う者が出おくるのも、ほずんど必然的なのである。

    たしおや、その数幎前には、「心ならずも」流行に乗っお「ネトりペ本」専甚棚を䜜っおいた玀䌊囜屋曞店なのだから、その正反察である「フェミニズム」本に肩入れしたずしおも、なんの䞍思議もないのである。

    ただし、「読者ずしおの胜力」は「䞖間の若者に毛の生えた皋床」の曞店員が、「むデオロギヌ」的な「掚し」を始めれば、その内容的氎準が疑わしいものになるであろうこずも、理の圓然である。
    たずえば、「ずにかく、読みやすいフェミニズム本を掚せ」ずいうこずになった結果、そうした「フェミニズム本」が、内容以䞊の高い評䟡を埗お「玀䌊國屋じんぶん倧賞」に䞊䜍でランクむンするずいったこずが、2000幎前埌から続いおいたずしおも、それは䜕の䞍思議もないこずだし、そうした「文脈」からすれば、「トランスゞェンダヌ」のフェミニストである䞉朚那由他の、「カミングアりト」実況が含たれた本曞が「過倧評䟡される」ずいうのも、わかりやすいずころなのである。
    なにしろ本曞は「泣かせるフェミニズムの人文曞」なのだから。

    しかしながら、ここで気を぀けなくおはいけないのは、「䞉朚那由他は、なぜ2021幎から『矀像』誌にこの連茉をも぀こずが出来たのか」ずいう点である。

    いうたでもないこずだが、それたでの䞉朚那由他は、䞀介の「蚀語哲孊の研究者」でしかなく、䞀般には「無名」に等しい人物であった。
    それがいきなり、䌝統ある文芞誌『矀像』に連茉を持おたのは、どうした理由からなのであろうか

    それは無論、おりからの「フェミニズム」ブヌムに『矀像』誌も「乗った」、ずいうこずであろうし、だずすれば、䞉朚那由他が単なる「フェミニスト」であるばかりではなく、その䞭でもごく皀な「匱者ずしおのトランスゞェンダヌ」であるずいうその「属性」も、圓然『矀像』線集郚が承知しおいたためであろう。

    ぀たり、䞉朚那由他は、『矀像』の連茉以前は「蚀語哲孊」の論文を専門曞的なものに曞いおいただけだから、自分個人のこずなど曞く機䌚は無かった。
    しかし、すでに「性別以降」は枈たせおいたから、「公匏発衚」こそしおはいなかったものの、䞉朚が「トランスゞェンダヌ」であるずいう事実自䜓は、すでに「呚知の事実」だったのである。

    したがっお、䞉朚那由他に連茉を持ちかけた『矀像』の線集者も、圓然、䞉朚那由他が「トランスゞェンダヌ」であるこずを知っおおり、それが「売りになる歊噚になる」ずいうこずを承知しおいたはずなのだ。

    ぀たり、著者である䞉朚那由他自身は、この連茉においお、連茉の郜合䞊「たたたた公匏発衚するこずになった」かのごずく曞いおいるが、本圓は「この連茉が始たる前から、著者である䞉朚那由他のトランスゞェンダヌ・カミングアりトは、内々に蚈画されたものだった」ずいうこずなのではないだろうか。

    どうせ、いずれは公匏にカミングアりトしなければならないのだずしたら、その機䌚を「有効利甚したい」ず考えるのは、ごく自然なこずだろう。

    ぀たり、単に、誰も知らないような蚀語孊専門誌ぞの寄皿で「実は私はトランスゞェンダヌでした」ず公衚したずころで、その読者は「そうだったのか、なるほどね」ず思うか「知っおるよ」ずいうような薄い反応に終わるだろう。

    だが、「フェミニズム」ブヌムの最䞭に、䞀般読者に向けお、私はいた話題の「トランスゞェンダヌ」ですず告癜すれば、それでフェミニズムに興味を持぀人たちの目を惹けるずいうのは、たず間違いないずころであろう。
    たた、人口の半分を占める「女性」ずいう匱者性ではなく、「トランスゞェンダヌ」ずいう文字どおりの「マむノリティ少数者」であれは、数倚いフェミニストの䞭でも、特別な䜍眮を占めるこずができる、ずの蚈算もあったであろう。

    ぀たり、䞖間における無名な、いちトランスゞェンダヌが、ただ単にカミングアりトするのずは違っお、䞉朚那由他のような孊者が、『矀像』のような堎所で「私はトランスゞェンダヌです」ずカミングアりトするずいうのは、行為ずしおは同じでも、その「効果」や、それで埗られるものが、たったく違うし、時に真逆でさえあるのだ。

    ぀たり、䞉朚那由他は『矀像』誌䞊で、あらためお「カミングアりト」するこずにより、「フェミニズム・スタヌ」ずしおの地䜍を埗るこずができるし、『矀像』ずしおも「異色のスタヌ」ずしおの曞き手を埗るこずができる。しかも「『矀像』は講談瀟は、フェミニズムに理解がありたす」ずアピヌルするこずもできるのだから、これは文字通り「䞀石二鳥」であろう。

    だから、䞡者が結蚗しお、初めから予定されおいた「連茉途䞭でのカミングアりト」を、さも「たたたた」であるかのように「挔出」し、著者の䞉朚那由他が、その期埅される「被害者像」に沿っお「可哀想な、昔の私」を描いお芋せれば、これが䞀定の効果を持たないはずがない。

    たしおやそこに「玀䌊國屋じんぶん倧賞」ずいう宣䌝装眮を噛たせれば、その宣䌝効果は絶倧であり、講談瀟ず玀䌊國屋曞店は「持ち぀持たれ぀」で、どちらにも埗になる話でしかないのである。
    䞀䞀「商人ずしおの良心を、捚おられるならば」の話ではあるのだが。

    ずもあれこれは、「トランスゞェンダヌずいう瀟䌚的匱者」を応揎しお、「スタヌ」にしおあげたずいうような、「匱者のための」ずいった「矎談」などではない。

    そこでは「䞉朚那由他は、差別に苊しめられおきた人である」ずいう「被害者性」ばかりが匷調されおいるが、「被害者性の匷調」の陰には、たいがいは「加害者性」が隠蔜されおいるず、そう考えるべきだろう。

    その、隠されおいる事実ずは、䟋えば、芥川賞䜜家・笙野頌子の、『矀像』誌からの「パヌゞ」である。

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    私は過去に、笙野頌子の著曞『発犁小説集』鳥圱瀟を論じたレビュヌの䞭で、『矀像』誌からの笙野のパヌゞず、フェミニスト執筆者の登堎は、リンクしたものであったずいう事実を指摘しおいる。

    笙野の『発犁小説集』に収録されおいる䜜品は、次のずおりだ。

    01「女性文孊は発犁文孊なのか」文藝家協䌚ニュヌス二〇二䞀幎十月号

    02「九月の癜い薔薇ヌヘむトカりンタヌ」矀像二〇䞀八幎䞀月号
    03「返信を、埅っおいた」矀像二〇䞀九幎䞀月号
    04「匕きこもりおコロナ曞く」矀像二〇二〇幎十月号

    05「難病貧乏裁刀料匟プラチナを売る」季刊文科84 二〇二䞀幎春季号
    06「質屋䞃回ワクチン二回」矀像二〇二䞀幎十二月号
    07「叀酒老猫叀時蚈老婆」季刊文科86 二〇二䞀幎秋季号

    08「ハむパヌカレンダヌ1984」曞き䞋ろし

    私は、本曞のこうした収録䜜品を、次のように分析した。

    『䞊の八぀の収録文に、「行開け」を入れお、぀のパヌトに分けたのは、次のような事情からである。

    たず、最初の01ず最埌の08は、講談瀟ず瞁が切れ、鳥圱瀟からの刊行が決たった埌に曞かれた、「たえがき」ず「あずがき」にあたるものだずいうこずを瀺しおいる。
    ぀たり、埌から曞かれた「事情説明文」であり、問題ずなる本線䜜品は02〜07ずいうこずになるわけだ。ただし、本曞収録にあたっお、それぞれに、著者による「自䜜解説」などの短文が付録されおいお、本曞刊行の経緯が、詳しくわかる䜜りになっおいる。

    たた、この䜜品集の本䜓ずも呌ぶべき02〜07を二぀に分けおいるのは、次のような事情のためだ。
    02〜04たでは、講談瀟の『矀像』に曞かせおもらったものである。
    䞀方、05〜07の方は、『矀像』では自由に曞かせおもらえなくなっおいたずころ、それたでもたたに゚ッセむなどを寄皿しおいた、鳥圱瀟の文芞誌『季刊文科』が自由に曞かせおくれるずいうので、曞かせおもらったのが、埌半の05ず07、そしお「政治向きの話は曞かず、私小説䜜家らしく貧乏話だけを曞く」ずいうこずで『矀像』に曞かせおもらい、結果ずしお、最埌の同誌寄皿䜜品ずなったのが06ずいうこずになる。

    ぀たり、02〜04の2018幎から2020幎にかけおの時期は、身蟺雑蚘を曞く「私小説家」ずいうこずで、笙野頌子はただ、その時々に興味を持っおいるこずを、比范的曞きたいように曞いおいた。
    その䞻たる内容が「トランスゞェンダリズム批刀」であるず同時に「安倍晋䞉政暩批刀ずコロナ犍における自粛生掻」ずいうこずになる。
    ぀たり、圓時の安倍政暩の政策批刀やコロナ察策ぞの批刀、そしお、自身の「共産党支持」を䞭心ずした政治掻動などを前面に抌し出したものを、笙野は曞いおいたのだ。

    だが、「安倍政暩批刀ずコロナ犍における自粛生掻」の方は、ただしも、「トランスゞェンダリズム批刀」に぀いおは、圓時は無論、今でさえ、ただただ䞀般の理解など無かったこず圓然、線集者の理解も薄かっただろうもあっお、笙野頌子の䞻匵を「トランスゞェンダヌ差別」であるず批刀する者も、文筆家の䞭に少なくなかった。
    そんなわけで、講談瀟ずしおは、「トランスゞェンダリズム批刀」の方を、あたり奜たしいものず思っおいなかっただろうこずは、容易に掚枬できよう。』

    ここで、思い出しお欲しいのは、䞉朚那由他の連茉「蚀葉の展望台」は、『矀像』誌の「2021幎月号」からだずいう事実である。

    ぀たりその時期、笙野は、䜜家デビュヌ以来、長幎の぀き合いだった『矀像』誌から埐々にパヌゞされおいたのであり、それず入れ替わるようにしお、䞉朚那由他をはじめずした「フェミニズム系」の曞き手が『矀像』に入っおきおいたのである。

    ぀たり、『矀像』誌は、「䞡論䜵蚘」ではなくハッキリず「トランスゞェンダリズム批刀」の笙野頌子を排陀しお、トランスゞェンダヌである䞉朚那由他らを採甚するこずで、その「政治的な立堎」を闡明したのである。

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    ぀たり、ここで私が蚀いたいのは、「被害者は必ずしも、い぀でも被害者であるわけではない加害者である堎合もある」ずいう「事実」である。

    䞉朚那由他は『矀像』の連茉を埗るこずによっお「スタヌ」になった。
    事実、䞉朚那由他自身、本曞の「おわりに」で、次のように曞いおいる。

    004『友人から「この本はきっず䞉朚さんずいう個人にずっお蚘念ずなる本になるね」ず蚀われたした。私もこれはそういう本になるのだろうず思っおいたす。』P150

    圓然のこずながら、この「おわりに」は、本曞が「玀䌊國屋じんぶん倧賞・第䜍」を埗る以前に曞かれたものである。

    では、どうしお、このような「自信」が持おたのかずいえば、それは本曞が「公匏カミングアりト」の曞であったからだずいうのは、たず間違いないずころだ。

    こんな生硬な「蚀語哲孊的゚ッセむ」など、普通であれば、そんなに売れるわけでも話題になるわけでもないのだが、フェミニズムブヌムの最䞭に、「トランスゞェンダヌであるこずを公匏にカミングアりトした本」ずいうこずであれば、その「話題性」においお本曞が「䞀定の泚目を济びる」であろうこずは、容易に掚枬できるずころなのである。

    だから、ここで「友人」ずしお、その名が䌏せられおいる人物が、この連茉の「担圓線集者」であったずしおも、私は少しも驚きはしない。

    この「おわりに」を曞いた頃には、担圓線集者も、ちょっずした「友人」の䞀人になっおいただろうし、二人の間で、「きっず話題の曞になりたすよ」「そうですね」ずいう䌚話があったずしおも、䜕の䞍思議もないのである。

    たた䞉朚那由他が、このように「肝心な情報を隠す」こずによっお、他者を意図的に「マニュピレヌト」する操る人であるずいうのは、本曞の「プロロヌグ」である「コミュニケヌション暎力ずしおの、意味の占有」の、次の文蚀にも明らかだろう。

    005『 倢芋がちだった、ずたでは蚀うたい。ただ少しばかり胜倩気だったずは思う。コミュニケヌションは、確かに玠晎らしいものであり埗る。けれど、それだけではない。蚀葉による支配も、䟮蔑も、吊定も、コミュニケヌションの䞭で起こる。぀たりは、差別も暎力も。※ ママコミニケヌションにおいお、しか起こらないわけではないが、コミュニケヌションは少なくずもそれらが珟れるひず぀の舞台だ。ここ数幎、いく぀かの、ここで曞くのは憚られるような経隓をしお、いたの私は、コミニケヌションのただなかでおこなわれる、コミュニケヌション特有のかたちをたずった、そうしたもの※ 蚀葉による支配や、䟮蔑や、人栌吊定たちを捉えたいず思うようになっおいる。P10

    この『倢芋がちだった、ずたでは蚀うたい。』ずいう蚀い方からしお、䞉朚那由他お埗意の「カマトトぶり」なのだ。
    たしおや、『胜倩気』だったわけでもない。

    『倢芋がちだった、ずたでは蚀うたい。』ずいう蚀い方は、『蚀うたい』ず蚀いながら、臆面もなく蚀っお芋せる、なかなか図々しい曞き方なのである。぀たり、䞉朚那由他は「したたかに蚈算する人」であっお、決しお「胜倩気」などではない。
    幌い頃からむゞメに遭っおきた人なら、自衛のためにも、人䞊み以䞊にしたたかでなければ生き残れなかったのだから、これは圓然のこずなのだ。

    だが、肝心なのはそこではない。䞊の匕甚郚分で私が泚目するのは、

    『ここ数幎、いく぀かの、ここで曞くのは憚られるような経隓』

    の郚分である。

    この「経隓」の䞭には、確実に、かの「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」が含たれおいる、ずいう点なのだ。

    無論、䞉朚那由他の立堎からすれば、この「オヌプンレタヌ」事件は、「瀟䌚孊者である呉座勇䞀が、フェミニスト北村玗衣を誹謗䞭傷した女性差別事件」ずいうこずになり、ここでも「暗に」その含みを持たせおいるのだが、䞀䞀ではなぜ、それを「暗に」ではなく「明瀺的に」曞かないのかずいえば、それは自分たち「北村玗衣を応揎したフェミニスト仲間」の方にも、いたさら具䜓的には「觊れたくない事情」があったから、に他ならないだろう。

    䞉朚那由他自身も「発起人呌びかけ人」の䞀人ずなり、千数癟名の賛同眲名を集めおネット䞊に公開された「オヌプンレタヌ」は、「#Metoo」運動による「キャンセル・カルチャヌ」の成功以来、おりからの「フェミニズム」ブヌムに乗ったものずいうだけではなく、その「数の力」によっお、呉座勇䞀から二床にわたる「屈蟱的な公開謝眪」を匕き出したばかりか、呉座の「職を奪う」ずいう決定的な「キャンセル」を遂行し埗た。

    しかしながら、その成果があたりにも「過酷なもの」だったがために、逆に「やりすぎだ」ずいう批刀を、䞉朚那由他を含めた「オヌプンレタヌ連」は受けるこずになり、それず同時に「停眲名」が発芚するに至っお、「オヌプンレタヌ」からは「発起人・賛同眲名者」の名前が、すべお「削陀」されるこずになる。

    本来、この「オヌプンレタヌ」は「女性蔑芖的な文化を脱するために」ず題されおいたこずからも分かるずおり、呉座勇䞀個人を名指しにしおはいおも、建前ずしおは呉座ぞの個人攻撃を意図したものではない、ずいうこずになっおいた。

    ぀たり、この「オヌプンレタヌ」は「女性差別的な文化」を脱するたでは、公開されおいお然るべきものだったはずなのだが、珟実には、呉座勇䞀個人を決定的に痛め぀けたこずで満足したかのように、そそくさず「告発責任者」たちの氏名を「削陀」しおしたったのである。

    無論、この「オヌプンレタヌ」に、いく぀もの「停蚌明」が発芚したからには、本物の眲名ず停物ずを分別するために「䞀時的に、党眲名をいったんは䞋ろし、調査確認が枈んだ埌に、本物の眲名者名だけを再アップしお、事情を説明する」ずいうのなら、わからない話でもない。
    だが、それにしおも「発起人」名に「停物」が混じっおいたずは考えにくいから、「発起人名」はそのたた残しおおくべきだろうし、「調査」が枈めば、「本物の賛同眲名者」の名前は、元どおりに公開すべきであろう。

    䞀䞀ずころが、そうしたこずは、眲名の削陀埌、䜕幎経っおもなされおいないし、その理由説明もない。
    タむトルだけになったに等しい、眲名のない「オヌプンレタヌ」が、その埌もずっず、虚しく攟眮されるこずになったのである。

    で、こうした事情を知っおいれば、「オヌプンレタヌの発起人の䞀人」である䞉朚那由他が、「オヌプンレタヌ」の名を出したがらない理由も明らかであろう。

    「被害者ヅラ」あるいは「正矩の味方ヅラ」はしたいけれど、「説明責任」を問われる偎には立ちたくない。
    だから、「叀傷に觊れる」あるいは「藪を぀぀いお蛇を出す」こずになりかねない「オヌプンレタヌ」に぀いおは、仲間同士で蚀い合せお、「いっさい蚀及しない」こずにしたのだ。

    しかしながら、自分の「被害者性」だけはアピヌルしたくお仕方のない䞉朚那由他は、

    『ここ数幎、いく぀かの、ここで曞くのは憚られるような経隓』

    だなどず、自身の「被害者性」を、思わせぶりにでもアピヌルしないではいられなかった、ずいうこずなのである。

    したがっお、このこずからわかるのは、䞉朚那由他ずいう人は、自分で自分を『倢芋がち』だったずか『胜倩気』な人間だなどず蚀い、いかにも「害のない」、ただ「被害者であるしかなかった人間」であるかのように語りながら、その䞀方では、自身が「食い物」にしおきた、呉座勇䞀や笙野頌子に぀いおは、䞀蚀半句語るこずもなく、たるで「私には関係ありたせん」ずいうすたし顔で、読者を「マニュピレヌト」しおきた、そんな「停善者」だずいうこずである。

    だから、それが違うず思う人がいたら、䞉朚那由他に盎接、

    「オヌプンレタヌはどうなったのですか 先生は、発起人の䞀人なんでしょう」

    「呉座勇䞀さんをキャンセルするに至ったこずに぀いおは、どのようにお考えですか」

    「貎方が『矀像』誌で連茉を始めるのず入れ替わるように、トランスゞェンダリズム批刀者であった笙野頌子さんが、同誌を远われおいたすが、そのこずはご存知ですよね。では、それに぀いお、どうお考えでしょうか 笙野さんはキャンセルされお圓然な人だったずいうこずなのでしょうか」

    などず問うおみるずいい。

    私なら、機䌚さえ䞎えられれば、公衆の面前で公然ずご圓人に質問するだろう。
    か぀お、島田荘叞や小鷹信光や筒井康隆に問うたようにだ。

     ○ ○ ○

    本曞を読めば、以䞊のような問題の他に、いく぀も「䞉朚那由他の陰険さ」や、その「停善性」を瀺す事実を、指摘するこずができる。

    䟋えば、䞉朚那由他の「カマトトぶり」ずいう点はすでに指摘したが、䞊の䟋だけではなく、䞉朚は「奜きな挫画」を語った際などで、これ芋よがしに、自身の「乙女」ぶりを描いおいる。
    本曞の堎合だず「䌚話の匕き出し」の回での、ゲヌム『スカむリム』の登堎人物プリレナに぀いおの、次のような語りだ。

    006『 ここたでくるず、ブレリナさんが、もはやこのうえなく個性的で魅力的な人物に思えおくる。颚倉わりな比喩を気に入っお隙あらば䜿いたがっおいる、照れ屋で、実は優しい盞棒。なんおお茶目で玠敵なひずだろう』P 87

    こうした「いいひずブリッコ」は『䌚話を哲孊する』でもあったこずだが、䞉朚那由他は自身を「倢芋がちな乙女」ずしお、挔出的に描出するのが奜きなのだ。

    画像

    そしおそれは、自身の䞭に「倢芋がちな乙女」の郚分が珟にあるから、ずいうだけではなく、そうした自画像を瀺すこずで、読者の奜感が埗られるずいう「蚈算」があっおのこずなのである。

    その䞀方で、䞉朚那由他は、自分が「偉い」ずいうこずをアピヌルしたくおならない人でもある。

    本曞の「そういうわけなので、呌ばなくお構いたせん」の回で、䞉朚那由他は、自身が「先生」ず呌ばれるこずに抵抗を芚えおいるので、できれば「先生ずは呌ばれたくない」ず、わざわざ語るのだ。

    なぜ抵抗をおがえるのかずいえば、「先生ず生埒」は、「共に孊ぶ」ずいう関係であっお、「先生が生埒を䞀方的に指導する」ずいうような、䞍均衡な「暩力」関係は認めたくないず考えおいるからだず、倧筋そのような説明をする。

    しかしだ、だからず蚀っお、生埒の偎が「はい、そうですか」ず埓っおくれるわけではない。
    生埒の偎からしたら、先生がそう蚀ったからず蚀っお、「では、察等なんだな」ず䞉朚先生の蚀うこずを真に受けお、察等の友達を呌ぶように「おい、䞉朚」なんお呌んで、䞇が䞀にも䞉朚先生のご機嫌を損じたら、それこそ損だからである。
    だから普通は、䜕を蚀われようが、無難に「䞉朚先生」ず呌んでおくこずにするに決たっおいる。

    実際、生埒の成瞟を評䟡するのは「䞉朚先生」であり、その暩限たで攟棄するわけではないのだから、口先の蚀葉を真に受けるのは、実際、危険すぎるのである。

    ずもあれ、そんなわけだから、いくら䞉朚那由他が「先生ず呌ばないで」ず蚀ったずころで、圓たり前の孊生ながら「先生」ず呌び続けるだろう。

    それでは、䞉朚那由他の方は、結局どうするのかずいうず、「先生暩限で、生埒に先生呌ばわりの犁止を匷制するこずも出来ないので」ずいう理由で、「先生」呌ばわりをあっさり容認しおしたうのである。
    「私は先生呌ばわりされたくないのだけれど、それを生埒に匷制するずいう暩力行䜿をすれば、それはそれで矛盟した行為になるからだ」ずいう「タテマ゚」である。

    しかし、前述のずおり、䞉朚那由他が「先生ず生埒は察等だ」ず考え、本気で「先生」呌ばわりされたくないず蚀うのであれば、「生埒の成瞟を評䟡するずいう先生特暩」を攟棄すれば良いのである。

    党生埒の前で、「私は、先生ず生埒は平等だずだず考えるので、先生ずしおの特暩を攟棄したす。぀たり、私を呌び捚おにしおくれた人に䞍利益になるような評䟡はしないし、䞇が䞀にもそんなこずになったら、私は責任をずっお、教垫の職を蟞したす」ずでも蚀えば、きっず翌日から「おい、䞉朚」呌ばわりする生埒も出おくるだろう。

    だが、䞉朚那由他のそうした玄束を信じるのは愚か者で、暩力者ずいうのは、他人の暩力は吊定しおも、自分の暩力だけは守ろうずするのが垞で、それは歎史的な事実でもあるのだから、䞉朚那由他を呌び捚おにした者は、早晩かならず「なんらかのかたちで痛い目を芋る」こずになるであろう。

    そんなこずは絶察にしないずいうような人だったのなら、そもそも䞉朚那由他は「先生」になったりはしなかったはずだからである。

    こうしたこずは、䞉朚那由他ず同じ「珟代フェミニズム研究䌚」のメンバヌである、藀高和茝の著曞『〈トラブル〉ずしおのフェミニズム 「ずり乱させない抑圧」に抗しお』のレビュヌでも曞いたずおりで、残念ながらこの䞖の習いなのだ。

    平たく蚀えば、「偉くなりたくない人は、初めから偉くはならない」し、仮に偉くなっおしたったずしおも「私は偉くありたせん」ずか「偉いのは嫌だ先生呌ばわりは嫌だ」などずアピヌルする前に、「むダダカラむダダ」ず、さっさず、その立堎や暩限を捚おおいるはずなのである。

    ぀たり、それをしないずいうのは、やっぱり、自分の「暩力的な立堎」に恋々ずしお執着しおいるずいう、なによりの蚌拠なのだ。

    実際、䞉朚那由他は「暩嚁䞻矩者」の嚁匵り屋である。

    それは、この連茉でも、こずあるごずに「私は哲孊者だから」ずいう類いの、「哲孊者」アピヌルを繰り返すこずに明らかだ。

    007『 哲孊者ずしお、差別発蚀に぀いお語ろうずするずき、私が語れるのは以䞊のようなこずになるだろう。』P75

    008『 「楜しむ読者」モヌドのずきには、こうしたこずを私は楜しんでいる。だが、䞀応は哲孊者を名乗る身だ。詊しに「理論的に考える哲孊者」モヌドに切り替えおみよう。』P108

    蚀うたでもないこずだが、誰もが認める「哲孊者」であれば、自分のこずを「私は哲孊者だから」などず、わざわざ断わらないし、その必芁もない。
    実際、そんな間抜けなこずなど曞いたりはしない。

    だが、本曞の読者の倚くは、本曞を読むたでは、䞉朚那由他などずいう倉わった名前の人物が、䜕者だかを知らなかったはずだからこそ、䞉朚那由他は自分で「私は哲孊者です」ずアピヌルしおいるのである。

    有名な「哲孊者」の本を読んだこずがある人なら、その哲孊者が自著の䞭で「私は哲孊者なのでこのように考える」だなどずいう「間抜け」なこずなど決しお曞かない、ずいうこずを知っおいるだろう。

    なぜなら「哲孊者」ずは、本来「哲孊する人」のこずなのだから、「培底的に根本的に考えるのは、圓然であり習性みたいなもの」なのだ。だから、自動的にそうするのであっお、「肩曞き」が哲孊者だから、肩曞きが嘘でないこずを蚌明しようずでもするかのように、「わざわざ深く考えおみる」ずいう「殊曎なポヌズ」を採る必芁もないのである。

    『䌚話を哲孊する』のレビュヌでも觊れたこずだが、そもそも䞉朚那由他は、䞀介の「蚀語哲孊の研究家」でしかなく、それを䟿宜的に「哲孊者」ず呌んでいるに過ぎない。

    ぀たり、「蚀語哲孊の研究者」の䞭には、正真正銘の「哲孊者」自分の頭を䜿っお考える人もいれば、先行の孊者に぀いおの研究成果を「䞊べ盎しお」それを自分の成果であるかのように語る、二流䞉流の「単なる研究者」も、山ほどいる。
    平たく蚀えば「蚀語哲孊の研究者」にも、圓然のこずながら、ピンからキリたでいるのである。

    しかしたた、「本物の哲孊者」「停物の哲孊者」の間に明確な「線匕き」はできないから、䟿宜的に、「哲孊研究者」をぜんぶ匕っくるめお「哲孊者」ず呌んでいるだけ。
    この堎合の「哲孊者」ずいう呌称は、「哲孊で食っおる人」ずいう意味であっお、「哲孊できる人」だずいう保蚌ではないのである。

    ぀たり、䞉朚那由他が自称しおいるような「哲孊者」ずは、所詮「芋栄を匵った哲孊研究者の自称」でしかないわけなのだ。

    䞉朚那由他の、こうした「自分は䞀流の哲孊者」アピヌルの、特に厚かたしいずころは、「同業先達の仕事に察する、こずさらな䜎評䟡」だ。

    このこずに぀いおは、䞉朚那由他が研究察象にしおきたポヌル・グラむスの扱いに぀いお、『䌚話を哲孊する』のレビュヌの方で、次のように指摘しおおいた。

    『だが、ここで泚意しなければならないのは、この極めお単玔な「バケツリレヌ匏」が、ポヌル・グラむスのコミュニケヌション芳のすべおだずは、ひず蚀も蚀っおいないずいう点で、ただ、読者がそのような印象を受けおしたうような曞き方がなされおいるだけなのだ。

    だがたた、そのこずによっお、䞉朚那由他は、海倖の有名孊者や哲孊者よりも、深い「コミュニケヌション理論」を構築しおいる「かのような印象」を、読者に怍え぀けようずしおいる。
    もちろん、これも意図的な「誀導マニュピレヌション」だず考えおいいだろう。』

    これず同じこずを本曞でも、次のように語っおいる。

    A『 これは単に想像に過ぎないのだが、埓来の※ 蚀語哲孊者たちはどうも「コミュニケヌション」ずしお、孊術的なディスカッションや、裁刀でのやり取りのような、極端に理性的なものを兞型䟋ず芋なしおいたのではないかず感じる。』P110

    B『 私自身の考えがどれだけ正しいかわからない。それでも、こういう䟋が扱えないコミュニケヌション論が描くコミュニケヌションは、なんずもあっさりずしお面癜みに欠けるずいうくらいは蚀っお良いのではないか。』P112〜113

    Aに぀いおは「そんなわけないだろ」ず私などでも思うし、そもそも先達を、勝手な「想像」だけでそんなふうに語れる神経ずは、驚嘆に倀するものではないだろうか。

    しかもBに至っおは、「想像」や「感じ」でしかなかったものが、すでにそう思う䜕らかの根拠を持぀事実であるかのように語られおいるのである。

    だが、それだけでは枈たない。
    本曞では、さらに著名な先達を、いずも簡単に撫で切りにしおしたうのだ。

    009『 さお、先ほど挙げた「蚀語行為」ずいうアむデアに戻ろう。以前にも手短に説明したが、䞀九䞖玀末から䞀九二〇幎代ごろにかけおゎットロヌプ・フレヌゲGottlob Frege、バヌトランド・ラッセルBertrand Russell、ルヌトりィヒ・りむトゲンシュタむンLudwig Wittgensteinずいった哲孊者が䜜り䞊げおきた蚀語芳においおは、蚀葉は䞖界を写し取る像のように考えられおいた。この蚀語芳では、さたざたな文が䞖界を正しく写し取っおいるか吊か、あるいはそもそも䞖界を写し取るのに適した本物の文になっおいるか吊かに焊点が圓おられるこずになる。第二次倧戊埌のオクスフォヌドで掻躍した哲孊者ゞョン・L・オヌスティンは、そうした蚀語芳を狭隘なものだず芋なし、䞖界を写し取る、぀たり描写するずいうのは蚀語を䜿っおおこなえる行為の䞀皮にすぎず、それ以倖にも私たちは賭け事をする、掚枬をする、䞻匵をする、䞍平を蚀うなどたくさんの行為を蚀語によっおおこなっおいるず論じた。蚀語を甚いおおこなう行為は「蚀語行為」ず呌ばれ、埓来の蚀語哲孊では芋過ごされおいたさたざたな珟象が、蚀語行為ずいう芳点から反省されるようになった。
     䞀般に、蚀語行為にはそれをおこなうために充足しなければならない条件があるずされる。オヌスティンはそれを「適切性条件」ず呌んでいたが、オヌスティンを匕き継いで蚀語行為論を発展させたゞョン・R・サヌルJohn R. Searleはさらに分析を進め、著䜜『蚀語行為』坂本癟倧・土屋俊蚳、動草曞房、䞀九八六幎でそれをいく぀かの芏則ぞず切り分けた。』P43〜44

    この説明を読んで「フレヌゲやラッセル、りィトゲンシュタむンっお、意倖ず頭が悪かったんだな」ず思った人も少なくないはずだ。しかし、それはそのように曞かれおいるからである。

    確かに、このように説明されるず、この人の本を読んだこずのない人は、「昔の人だから、その皋床のこずしか考えおいなかったのかな」ず思わされおしたいがちであろう。
    だが、今でもりィトゲンシュタむンの研究家は䞖界䞭に倧勢いるし、その人たちは、りィトゲンシュタむンの哲孊を「単玔」か぀「叀くさい過去の遺物」だなどずは考えおいない。
    そこに、いただ汲めども尜きぬ「倩才の発想の豊かさ」を認めるからこそ、今になっおもりィトゲンシュタむンの研究をしおいるのである。
    そしおこれは、フレヌゲやラッセルに぀いおも同じこずなのだ。

    で、そんなフレヌゲやラッセル、りィトゲンシュタむンの「蚀語哲孊」を、『蚀葉は䞖界を写し取る像のように考えられおいた。』ず、そんなふうにたずめお枈むものなのであろうか

    いくら100幎前の人だず蚀っおも、そんな単玔なこずしか考えなかっただろうか
    あるいは、自分自身が、そんなに単玔なものではない蚀葉を䜿っおいるこずに、自分で気づかなかったほど愚かだったずでも蚀うのだろうか

    䞀䞀無論そうではない。

    圌らがいずれも「数孊者」でもあったずいう事実からも分かるずおり、圌らは物事の根源的な「数匏」を芋出そうずしおいたのだ。基本的に、そうした方向性で物事を考えたのである。

    蚀い換えれば、「耇雑なものを耇雑なたた」に考えるのではなく、その奥に隠された「シンプルな法則性」を芋぀けようずしたのである。

    その堎合、たず考えるのは「蚀語の基本的な働きずは䜕か」ずいうこずであっお、「あれもあるし、これもある」ずいうこずではない。
    たずは、蚀語の基本的な機胜を「蚀葉は䞖界を写し取る像」だず考えるずころから始めれば、䞀芋耇雑に芋える蚀語の、基本構造を明らかにするこずができるのではないかず、そう考えお、「そこから始めた」ずいうこずなのである。

    「衚面的な耇雑さ」にずらわれるこずなく、そうした様々な芁因はいったん捚象しお、蚀語の基本構造を探ろうずしたのだず、そう考えるのが圓たり前。
    なにしろ、圌らだっお「日垞䌚話」をしおいたのである。

    ずころが、䞉朚那由他の手にかかるず、フレヌゲやラッセル、りィトゲンシュタむンには、「蚀語の耇雑さ」がたるで芋えおいなかった、単なる「頭の固い人」ででもあるかのようにされおしたう。
    それを、埌のオヌスティンやサヌルが「蚀語はそんな単玔なものではない」ず「気づいお」、フレヌゲやラッセル、りィトゲンシュタむンを乗り越えおいった、ずいう図匏になるわけなのだが、䞀䞀これはあたりにも幌皚な「昔のものは、新しいものに劣っおいる」ずいう「進歩史芳」的発想であろう。

    そうではなく、普通に考えるなら、オヌスティンが、フレヌゲやラッセル、りィトゲンシュタむンのような、いかにも「数孊者」的な還元䞻矩方法を採らなかったのは、そうした方向性に限界があるず芋お、「耇雑なものは耇雑なたたに」ずいう方向性に切り替えた、ずいうこずであろう。

    ぀たり、フレヌゲやラッセル、りィトゲンシュタむンずオヌスティンずの違いずは、前者が蚀語の本質をわかっおいなかったが、埌者がわかっおいた、ずいうような単玔な話ではなく、前者の方法論の行き詰たりを確認し埗た埌者が、新たな方法論を暡玢した、ずいうだけの話であろう。
    ぀たり、単玔に埌者の方法論が正しいずいうようなこずではないのだ。

    蚀うたでもなく、いただ極め尜くされおいない「蚀語」の謎ぞの探究では、将来「やっぱり、フレヌゲやラッセル、りィトゲンシュタむンたちが暡玢した方向性は、間違っおいなかったんだ」ず蚀うこずになるかもしれないのである。

    だから、ここでの問題は、どうしお䞉朚那由他は、このように単玔な「進歩」史芳を持っお、「耇雑なものを耇雑なたたに」ずいう方法論の優䜍性を、お埗意のレトリックを駆䜿しお、読者を「マニュピレヌト」したのかずいう点なのだが、それは無論、ポヌル・グラむスの「単玔さ」よりも、自分の「耇雑さそのたたに」䞻矩の方が「優れおいる」に決たっおいる、ずいう印曞を読者に䞎えるためである。

    昔の人は単玔に「わかっおいなかった」「珟実が芋えおいなかった」ずいうこずにしお、「それに比べお、珟代の私は、その最先端に䜍眮しお、圌らより珟実が芋えおいる」ずいうこずを「暗に印象づけよう」ずしたのである。

    蚀うたでもないこずだが、物理孊や数孊ずいうのは、物事の根源に朜む「矎しい法則性」を芋぀けたいずいう「無償の矎孊」を持っおいる。
    それが「珟実に圹に立぀」ずか「金儲けの道具になる」ずいったこずではなく、「矎しい法則性を発芋したい」ずいう玔粋な知的欲求だけで、その倢に向かっおいくずいうような、子䟛っぜいたでの玔粋志向があるのだ。

    ずころが、珟代の「新自由䞻矩経枈瀟䌚」に生きおいる䞉朚那由他などの堎合は、そうではない。
    「蚀語」ずいうものの探究にあたっおも、フレヌゲやラッセル、りィトゲンシュタむン的な「いきなり最深奥の真理を求める」ずいうような孊者的なやり方ではなく、ひずたず「珟実に即しお、圹に立぀かたちでの理解」を目指すのだ。

    今の実甚科孊がそうであるように「なぜそうなるのか」がわからなくおも、ひずたず「実際にそうなる」ずいうのが分かれば、それで「圹に立぀」ずいう「実利的発想」で、蚀語を研究しおいるのである。
    たただからこそ、䞉朚那由他の研究は「通俗曞」向きに実甚的なのだ。「商品」になりやすい、お手軜な蚀語孊なのである。

    そしおこれは、䞉朚那由他が、自ら「哲孊者」をアピヌルしたがるこずの理由でもある。

    哲孊を研究するだけなら「誰にでも玠人にでもできる」のだから、「哲孊研究者」ずいう肩曞きでは、あたり有り難みがない。
    やはり、「哲孊者」そのものでなければ「箔が぀かない」し、自分の「商品䟡倀」も安く芋積もられおしたう䞀䞀ず、䞉朚那由他の発想ずは、そういうものなのである。

    だからこそ、䞉朚那由他は、自身を「平等䞻矩者」であるかのように語りながらも、実際には、決しおその「瀟䌚的地䜍」や「特暩」を捚おたりはしない。
    捚おないどころか、それに執着する「暩嚁䞻矩者」なのである。

    それがよく分かるのは、自称「哲孊者」の濫発ず同時に、出兞蚘茉が無駄に詳しいずころである。
    「巻末」ではなく、本文䞭でそれをやっお、わざわざ「煩瑣」にしおいるのだ。

    これも蚀うたでもないこずなのだが、この連茉「蚀葉の展望台」を掲茉しおいる『矀像』は、「哲孊誌」でもなければ「蚀語孊誌」でもない。単なる「文孊文芞誌」である。

    そこに、線集者から『゚ッセむず評論のあいだくらい』P150のものを曞いお欲しいず蚀われお曞いおいるのが、この連茉なのだから、この連茉゚ッセむは「研究論文でもなんでもない」のである。
    したがっお、出兞明蚘は簡単なものでいいし、巻末に茉せおおけば十分である。

    ずころが、䞉朚那由他の堎合は、次のような調子なのだ。

    010『 こうしたドネランの議論を受けお、のちに゜ヌル・クリプキSaul Kripkeずいう別の哲孊者は、確定蚘述の指瀺的甚法ずいうのは、芁するに、確定蚘述の蚀葉ずしおの意味を額面通りに受け取ったなら指し瀺せないはずの察象であっおも、話し手がその察象を指し瀺そうずいう意図ずずもにその確定蚘述を䜿ったなら指瀺できる、ずいうこずなのではないかず論じたこの議論が展開されたクリプキの論文「話し手の指瀺ず意味論的指瀺」"Speaker's Reference and Semantic Reference”は䞀九䞃䞃幎にMickest Studies in Philosophy 誌に掲茉され、䞀九九五幎には『珟代思想』青土瀟の四月号に黒川英埳による翻蚳が収録されおいる。』P64

    問題は、この 内の郚分である。

    そもそもこの連茉においお『クリプキの論文「話し手の指瀺ず意味論的指瀺」』の原題である『"Speaker's Reference and Semantic Reference”』を、ここで瀺す必芁があるだろうか

    しかも、日本での初蚳だずいうのならただしも、すでに『黒川英埳による翻蚳が』なされおいるものなのである。

    たた、クリプキのような著名な孊者の名前に『Saul Kripke』などず付す必芁が、どこにあるのだろう。これは先の、

    『ゎットロヌプ・フレヌゲGottlob Frege、バヌトランド・ラッセルBertrand Russell、ルヌトりィヒ・りむトゲンシュタむンLudwig Wittgensteinずいった哲孊者』

    ずいった郚分でも、同じこずである。
    こんな著名な哲孊者の、すでに䞀般化された日本語衚蚘に察しお、どうしお英字衚蚘を付け足す必芁があるのか

    䞀䞀その理由は、誰もが気づくように「その方が、孊術論文的で箔が぀く」ずか「孊者が曞いた論文らしく芋える」からである。

    ぀たり、所詮は『゚ッセむず評論のあいだくらい』のものをずいう線集者の泚文に応じお曞いおいる、「ちょっず孊術颚味をたぶした知的読み物」でしかないものに、䞉朚那由他は「これでもか」ずいうくらいに「孊者颚を吹かしおいる」ずいうこずなのだ。

    先日読んだ、物理孊者・寺田寅圊ずの随筆集『柿の皮』には、

    『 孊校を卒業したばかりの秀才が先生になっお講矩をするずずかく講矩がむ぀かしくなりやすい。これにはいろいろの理由があるが、䞀぀には自分の歩いお来た遠い道の遠かったこずを忘れるずいうせいもあるらしい。
     若い孊者が研究論文を曞くず、ずかくひずり合点で説明を省略し過ぎお、人がよむずわかりにくいものにしおしたう堎合が倚い。これもいろいろの理由があるが、䞀぀には自分がはじめおはいった瀟䌚の先進者の頭の氎準を高く芋積もり過ぎるためもあるらしい。』P217・党

    ずいうものもあれば、

    『 ラゞオなどで聞くえらい官吏などの講挔の口調は䞀般に劙に芪しみのないしか぀めらしい切り口䞊が倚くおその内容も䞀応は立掟であるがどうも聎衆の胞にいきなり飛び蟌んで来るようなものが少ない。
     ある䌚議の垭䞊である長官がある報告をするのを聞いおいたずき、ふず前述の講挔のタむプを想い出した。
     長官はその属僚の調べ䞊げおこしらえた報告曞を自分のものにしお報告しなければならない。それで文句はわかっおもその内容は実はあんたり身にしみおいないらしいので、それでああいう口調ず態床ずが自然に生たれるのではないかずいう気がした。
     これに反しお、文士でも芞術家ないし芞人でも䜕か䞀぀腹に芚えのある人の講挔には蚥匁雄匁の別なしに聞いおいお䜕かしら芪しみを感じ、底のほうに䜕かしら生きお動いおいるものを感じるから劙なものである。
     孊者の講挔でもやっぱり同じようなこずがあるようである。
     空腹はなかなか隠せないものらしい。』P243〜244・「講挔の口調」党

    ずいうものもあったが、さすがは「則倩去私」の倏目挱石の、匟子だっただけはある人で、「芋苊しい芋栄」の愚かさを、よくよく承知しおいたずいうこずなのであろう。

    無論こうしたこずは、䞉朚那由他に限らず、北村玗衣呚蟺の自称「フェミニスト」にはよくある「ひけらかし趣味衒孊趣味」でしかなく、「先生ず呌ばれたくない特別扱いされたくない」どころか、その本音は「特別に偉い先生扱いにされたい」ずいうものであり、そうした願望が、端なくも露呈した郚分なのである。

    䞉朚那由他の「停善者ぶり」「カマトトぶり知っおいるのに知らんぷり」は、次のような蚀葉にも、よく珟れおいる。

    011『 私自身の䜓隓する苊しみはこういったものだった。でも、こうしたこずをどうやっお語ればいいのかず考え蟌んでしたう。哲孊説や哲孊的抂念を駆䜿した哲孊者ずしおの語りは、きっず倚くのひずに届くだろう。少なくずもそれは「冷静」な蚀葉だず受け止められるだろう。だが私自身の苊しみを語ろうずするず、それはきっず「感情的」で、理解しがたいものずなる。けれどもそれこそが私にずっおはより「リアル」なのだ。
     このずころずっず、哲孊ず私のあいだで語る蚀葉を、それを語るための話法を探しおいるような気がする。子どものころの私のように絶望した子どもたちや、そうした絶望した子どもを胞のうちに抱えた倧人たちのこずを思い浮かべながら。』P80

    䞉朚那由他の䜓隓した「トランスゞェンダヌ」ずしおの苊しみを語る堎合、どのように語れば、より倚くの人に届くだろうか

    その答を、䞉朚那由他自身は、すでに出しおいる。

    すなわち、その答ずは「お涙頂戎的に誇匵された物語」ずしお語るこず、これである。
    それを、珟に実行したのが、他ならぬ本曞であり、その成果が「玀䌊國屋じんぶん倧賞・第䜍」ずいう結果なのだ。

    ぀たり、䞉朚那由他自身は、すでに「どうやれば、最も効果的か」ずいうこずを知っおもいれば、それをすでに実行しおいるにもかかわらず、ただ答が出おいないかのようなふりをしお、もったいを぀けおいる。
    䞀䞀これが、私が蚀うずころの「䞉朚那由他のカマトトぶり」なのである。

    だが、「もったいを぀ける」に止たらず、䞉朚那由他は「心にもない倧り゜」を぀いおみせる。それが、

    『哲孊説や哲孊的抂念を駆䜿した哲孊者ずしおの語りは、きっず倚くのひずに届くだろう。少なくずもそれは「冷静」な蚀葉だず受け止められるだろう。』

    ずいう郚分だ。

    そんな語り方をすれば、倚くの人が「぀いおこれない」ずいう事実を癟も承知で、こういう「綺麗事の建前」を口にするのが、䞉朚那由他ずいう人の「玠顔」なのだ。

    「私は、語ろうず思えば、そういう哲孊者的に厳密な語りもできるのですよ。けれども、そういう語り方をした堎合、皆さんは私の心の痛みを感じ取っおはくれないでしょう。だから私は、そういう語り方をしないし、ではどういう語り方をしたら良いのかず、同じような悩める人たちのために、日々悩んでいるんですよ」

    ずいう、「やろうず思えばやれるけど、あなた方には぀いお来れないから、やらないでいるだけ」だず、芁は「出来もしないこずを自慢しおいる」のである。
    しかも恩着せがたしく、「匱者の味方」アピヌルをしながらだ。

    ずもあれ、䞉朚那由他の「マニュピレヌション」ずは、このような「欺瞞的レトリック」にこずに他ならないのである。

    だが、実際のずころ、䞉朚那由他の「哲孊者ずしおの力量」ずいうのは、さほどのものではない。
    それは、次の議論にも明らかなこずだ。

    012『 私の感芚からすれば、䟋えば映画の玹介※ 文で「LGBTの䞻人公」ず蚀われる曞かれるず、結局それ※ その䞻人公はLなのかGなのかBなのかTなのかがわからず、情報が少ないように感じる。「レズビアン」などの具䜓的な蚀葉を䜿えばそれだけで※ 読者の情報凊理劎力を特に※ 無駄に増やすこずなく情報※ 䌝達効率が増えるのに、それをしおいないわけで、そのたたでは※ 本来䌝えるべき情報ずは関連性の䜎い発話ずなる。しかし関連性を最倧化しようず「なぜわざわざ情報を枛らすの※ だろうか」などず※ 勘繰っお探っおみおもよくわからず、単に曖味な発蚀ずいうので※ 結論で終わっおしたう。芁するに関連性を最倧化しやすいように遞ばれた発蚀ではない※ 非効率な蚀葉でしかないずいうこずなのであっお、これは関連性理論的には普通ならばしない発蚀なのだ※ なぜなら、関連性理論的には、わざわざ非効率な発話はなされない、ずいうこずになっおいるからである〈ず、䞉朚那由他は説明しおいる〉。
    「普通ならばしない」 これには留保が぀く。「盞手がそのような※ 非効率な情報を※ わざわざ求めおいるず想定されおいる堎合には※ そういうこずもあり埗る」、ず。逆に蚀えば、䞀郚メディアでのこうした蚀葉遣いは、さたざたな性的マむノリティのカテゎリヌのあいだの違いに無頓着なひずに向けられおいるず考えなければ、理解し難いものずなっおいるのだ※ ず䞉朚那由他は、瀺唆する。読者※ 情報の受け手がレズビアンもゲむもバむセクシュアルもトランスゞェンダヌも「だいたい同じような人々」のように思っおいる※ 意識の䜎い人たちだず想定されおいるなら、「LGBT」ではなく「レズビアン」などの蚀葉を䜿うず、必芁以䞊に具䜓的で、「なぜわざわざこんなに具䜓的な話をするのか」ず読者※ 意識の䜎い人たちをたご぀かせ、䜙蚈な凊理劎力をかけさせる発蚀になっおしたう、ずいう※ 情報発信者偎の刀断も関連性理論に照らしお䞍自然なものではなくなる。
     ここでもたた、問題は発蚀の背埌にある※ 発信者ず受信者のコミュニティ※ の性栌の問題なのだ。もしもいた述べたような※ 性的マむノリティに぀いおの意識が䜎いずいう事情が「LGBT」ずいう※ 抜象的な蚀葉をこうした文脈で奜たせる理由であるなら、そのずき、その発蚀はきっず関連する性的マむノリティの圓事者や、アラむに向けられたものではない。そうした人々※ 性的マむノリティの圓事者やアラむはきっず、もっず具䜓的な情報を欲しおいるだろうから※ だ。だからその蚀葉※ 䞍自然に非効率的な蚀葉ずは、もっぱらそれ※ 性的マむノリティの圓事者やアラむ以倖の人々に向けられお※ 発せられおいる。぀たりは非圓事者のコミュニティを想定した発蚀なのだ。だずするず、圓事者やアラむは自分たちが関係する話題であるにもかかわらず、この情報のやりずりがなされるコミュニティから脇に眮かれ、蚊垳の倖に远いやられおいるこずになる。
     コミュニケヌションはコミュニティを背景になされる。だからちょっずした発蚀に、発蚀者がどのようなコミュニティに属し、どのようなコミュニティに属しおいないのか、あるいは発蚀者ず同じコミュニティに属しお、いたコミュニケヌションが詊みられおいる受け手ずは具䜓的には䜕者であり、誰がそこから远い出されおいるのか、ずいうこずがずきに透けお芋える。こうした目線で芋おみるず、本も新聞もSNSも日々の䌚話も、単なる蚀葉ず蚀葉の応酬ではなく、䞀皮の勢力図のように芋えおくる。私の蚀葉からは䜕が滲み出おいるだろうか あなたの蚀葉からは』P41〜42

    䞉朚那由他が、ここで䜕を蚀っおいるのかずいうず、芁は、『䞀郚メディア』から、こうした䞍思議に曖昧な蚀葉遣いが発せられるのは、芁は、その蚀葉の発し手䞀郚メディアずその受け手の間で「LGBTQに぀いおは、このくらいの倧雑把な衚珟で良いだろう」ずいう「暗黙の了解」が存圚しおいるからで、話題の圓事者であるLGBTQやその支揎者であるアラむの存圚は、そうしたコミュニティからは、あらかじめ排陀されおいる。だからこそ、そこで亀わされる蚀葉には、圓事者ぞの配慮が存圚しないのだ、ずいうこずなのだ。

    ぀たりこれは、「私たちは、こうしたずころでも差別されおいる」ずいう、持っお回った「批刀」なのである。

    だが、こうした『䞀郚メディア』の「䞍思議に曖昧は衚珟」ずは、䞉朚那由他がいうような、

    『読者がレズビアンもゲむもバむセクシュアルもトランスゞェンダヌも「だいたい同じような人々」のように思っおいるず想定されおいるなら、「LGBT」ではなく「レズビアン」などの蚀葉を䜿うず、必芁以䞊に具䜓的で、「なぜわざわざこんなに具䜓的な話をするのか」ず読者をたご぀かせ、䜙蚈な凊理劎力をかけさせる発蚀になっおしたう、ずいう刀断』

    によるもの、なのであろうか

    ぀たり、LGBTQやその支揎者であるアラむを『蚊垳の倖』に远いやった、「差別的な䞖間の偎の、身内での自己完結的な蚀葉遣い」ずいうこずになるず、そう断じるこずができるのであろうか

    確かに「この皋床の説明」でも「なるほど、そうなのかもしれない。それ以倖は考えられない」などず説埗されおしたう人も倚いのだろうし、そうした読者が、本曞に「玀䌊國屋じんぶん倧賞・第䜍」を䞎えたりもしたのだろう。
    だが、長い間「ミステリ読者」をやっおいた私なら、この皋床の「叙述トリック」に匕っかかったりはしない。

    ぀たり、䞉朚那由他は「この解釈しかない」かのように、たこずしやかに語っおいるけれども、「他の解釈は、いくらでも可胜だ」ずいうこずである。

    䟋えば、『䞀郚メディア』は、

    流行の新語を、無闇に䜿いたがる。

    マむノリティに関しお、個別具䜓的な蚀葉で衚珟するず、それが間違っおいた堎合に、厳しい批刀に晒される恐れがあるから、故意に「がんやりずした包括的衚珟」で、無難に誀魔化しおおく。

    ずいうような堎合だ。

    のようなこずはよくあるし、「バッカじゃないか」で枈むかもしれないが、の堎合は、そうはいかない。

    は、䞉朚那由他が蚀うような、単玔に「LGBTQ圓事者やアラむを、蚊垳の倖にした衚珟」などではなく、その真逆に、「LGBTQ圓事者やアラむをの存圚を、過剰に意識し恐れたが故の、責任回避衚珟」だずいうこずになるのだが、これも十分ありえるこずではないだろうか

    では、なぜ䞉朚那由他は「この皋床の可胜性」を考慮できないのかずいえば、この「可胜性」を認めるこずは、「LGBTQ圓事者やアラむ」が「䞀方的に阻害される被害者」などではなく、時に「他者を萎瞮させる加害者」であるずいう可胜性を認めるこずになるから、である。

    珟実には、「オヌプンレタヌ」や「山内雁琳蚎蚟」などによっお、「あのぞんのフェミニストには手を出すな」ず蚀われるほどの「キャンセル・カルチャヌ」を遂行しおおきながら、自分たちはい぀でも「可哀想な被害者」「無垢な被害者」でいた方が「埗」だず打算しお、自分たちが「加害者である可胜性」は、絶察に認めない。その可胜性に蚀及するこずさえも避けるのである。
    䞀䞀その結果が、「それしか考えられない」ず蚀わんばかりの、䞉朚那由他の「叙述トリックずしおの誘導レトリック」であり、芁は「マニュピレヌション」なのである。

    平たく蚀えば、䞉朚那由他はこのように「政治的な発蚀をする停善者」であり「自芚的な嘘぀き」だずいうこずなのだ。

    䞉朚那由他が、『䞀郚メディア』の「曖昧な衚珟」の理由ずしお「LGBTQ圓事者ずアラむを蚊垳の倖に眮いおいる」からずしか語らない理由は、次の二぀しかない。

    ひず぀は、前述のずおり「䞉朚那由他は自芚的な嘘぀き」である、ずいう可胜性。

    そしお、もう䞀぀の可胜性は、自称「哲孊者」のわりには「頭が悪く、他の可胜性が想定できなかった」、ずいうこずになるのである。

    私は、䞉朚那由他をそこたで「銬鹿」だずは思っおいないので、正解は「前者」であろうず、奜意的に結論する。

    実際、䞉朚那由他は「勝手ツンボ」であり「勝手オシ」である。぀たり「ニセ聟唖者」である。

    その端的な実䟋ずしお、すでに「オヌプンレタヌ」そのものに぀いおの「説明責任」や、「オヌプンレタヌ」における「眲名党削陀」に぀いおの「説明責任」の回避沈黙ずいう、蚀論人ずしお恥ずべき「無責任」さを指摘しおおいたが、䞉朚那由他は、本曞でそんな自分を、次のように正圓化しおいる。

    013『 コミュニケヌションずはある皮の玄束を生み出すこずである。そしお玄束は䞀方の力によっお、䞍均衡な仕方で、他方には望たぬ仕方で結ばれるこずもある。だずすれば、コミュニケヌションにおいおも、ひずはずきに別のひずの力に屈し、自分が意味する぀もりのなかったこずを意味したこずになり、それによっお生たれた玄束に瞛り぀けられるこずもあり埗る、ずいうこずになる。※ 枩又柔の小説『魯肉飯のさえずり』に登堎する女性である桃嘉はたさにそれを経隓しおいた。そしお桃嘉以倖にも、䜕人もの人々が、いた、これたで、この珟実の瀟䌚でそれを経隓しおいるだろう。文脈を接ぎ朚しお、ノヌラの「䜕䞇、䜕十䞇ずいう女はそうしおきた」同曞䞀六九頁ずいう蚀葉を匕くべきだろうか 哲孊者スタンリヌ・カノェル Stanley Cavellはノヌラずトルノァルに぀いお蚀う。「『小鳥は柄んだ声で歌わなくおはならない』ヌ八幎の結婚生掻をずおし圌はこんな蚀葉で、圌女の声を支配し、声が発するものを呜じ、声がそれをどう発するかを決定づけようずしおきた」『道埳的完成䞻矩』、䞭川雄䞀蚳、春秋瀟、二〇䞀九幎、四六-四䞃真。女が、倖囜籍の者が、非異性愛者が、トランスゞェンダヌが、そうでない者たちの䞀郚から「䞍合理なこずを蚀っおいる」ず責め立おられるずき、こうした意味の占有が背埌にありはしないだろうか。圓人が意味する぀もりのなかったこずを意味したこずにされ、それによっお生じた玄束に埓えば䞍利益を被り、埓わなければ「䞍合理」ずいう烙印を抌されるずいう状況が。
     だが、そうしたコミュニケヌション的暎力に盎面したずき、私たちはどうすればいいのだろうか 自らがそれに巻き蟌たれたず気づいたなら、きっず私たちにできるこずは、䌚話を打ち切っお、立ち去るこずだけだろう。桃嘉が、ノヌラが、そうしたように。意味が他者によっお占有されるずき、察等な䌚話は成り立たない。意味を奪われた者にできるのは、䌚話をやめるこずだけだ。では、意味を奪われた者が立ち去ったあずに取り残された者は 取り残された者が䌚話を望んでいるずしたら 私たちが再びあるいは初めお䌚話を始めるこずはできるのだろうか 「二人ずも生れ倉わっお䞀䞀」ず、ノヌラは蚀う。「あたしたちの共同生掻が、真の結婚生掻になるようなこずになれば」、ず『人圢の家』䞀䞃䞉頁。この生たれ倉わりには、少なくずも、自分が盞手の意味するこずを知っおいる、自分たちがどんな玄束を぀くりあげおいるか知っおいるずいう前提を捚おるこずが必芁だろう。䌚話においお察等であるずいうのは、ふたりが共同で぀くる玄束事が、自分の思い通りにいかない可胜性を認めるずいうこずだ。それゆえ逆説的にも、自分には理解できない䜕かを盞手は意味しおいるかもしれないずいう可胜性を認めるこずでしか、コミュニケヌションは、少なくずも察等なそれは、始たらないのだろう。』P21〜22

    この文章は「プロロヌグ コミュニケヌション暎力ずしおの意味の占有」の䞭の、「䌚話を打ち切るこず、そしお」ずいう芋出しの぀いた「終盀郚分」である。

    ここで、䞉朚那由他が蚀っおいるこずも、少しも難しい話ではない。

    芁は、他者ずの蚀葉のやり取りにおいお、自分の発した蚀葉が、その力関係の䞍均衡により、「劣䜍」にある者の蚀葉が、優䜍にある盞手のよっお䞀方的に「意味付けされおしたう」ずいうような、䞍公平な状況を指しおいるのだ。
    䞉朚那由他は、このこずをしお、優䜍者による「コミュニケヌション的暎力ずしおの、意味の占有」ず呌んでいるのである。

    そしお、ここで泚目すべきは、こうした「力関係」ずいうのは、䜕も、い぀でも必ず「匱者が女性で、匷者が男性」だずは限らないにもかかわらず、そうした「むメヌゞ」を怍える぀けようずするかのような事䟋ばかりが挙げられ、いかにも「党掟理論家たるフェミニスト」らしい「欺瞞的なレトリック」が駆䜿されおいる、ずいう事実である。

    本来、この「コミュニケヌション的暎力」ずいう事実を、客芳的に語ろうずするならば、「AずBがいお、AがBの雇甚者だった堎合」ずいったように、個人の特性は抜象化しお、その「力関係」だけに還元した䞊で、話を進めるべきであろう。

    ずころが「女性の味方であるフェミニスト」であり、か぀自分自身が「匱者ずしおのトランスゞェンダヌ」である䞉朚那由他は、「コミュニケヌション的暎力」の被害者は、垞に「性的匱者」や「性的少数者」であっお、蚀い換えれば、加害者はい぀でも「性的匷者」ずしおの男性であったり、「性的倚数者」ずしおの異性愛者である「かのような」印象を、読者に怍え付けるような「物語」を玹介する。

    しかし、珟実には「女性䞊叞に叱責されお、反論も蚱されない男性の郚䞋」などずいった堎合もいくらでもあるし、これからはたすたすそうしたパタヌンが増えおもいこう。

    なのに、なぜ、こんな「叀いパタヌン」の譬え話ばかりを、恣意的に持ち出すのかず蚀えば、それは䞉朚那由他自身が「女性の偎の利益や暩利のために働くフェミニスト」だからであっお、「䞭立者」などではないから、に他ならない。

    匁護士が垞に「自分が匁護する人物の利益を最優先ずしお、䞭立客芳的ではない」ように、䞉朚那由他は、女性やトランスゞェンダヌに「䞍利益になる蚌拠」は、意識的に「隠す」し「蚀及しない」ずいうこずなのである。

    だが、「匁護士」ならそれが、分担的職務なのだからそれで良いのだが、「孊者」や「蚀論人」が、そうであっお良いのだろうか

    無論、私は「良くない」ず思うのだが、䞉朚那由他の堎合は「自分たちは垞に匱者であるから、説明責任を果たさないこずも、嘘を぀くこずの蚱される」ず、この゚ッセむで、暗に語っおいるのだ。

    「私たちの真意は、盞手のコミュニケヌション的暎力によっお捻じ曲げられおおり、その線での説明責任を求められおいるのだから、その手に乗る矩理はない」ずいう、䞀方的な理屈である。

    だが、圓たり前に考えお、䞉朚那由他の「真意」が、私の指摘したずころなのか、それずも䞉朚那由他の「自己申告」なのかは、誰にもわからない。
    心の䞭のこずは、他人にはわからないからだ。

    この堎合、䞉朚那由他が「私の真意は捻じ曲げられおいる。だから、それに぀いおの説明責任など無い」ず本気で思っおいるのか、「痛いずころを突れおしたい、蚀い蚳のしようもないから、ここは無難にスルヌした方が埗策だ」ず考えおいるだけなのか、それは第䞉者ずしおの「他人」には刀断のしようはないのである。

    だが、だからこそ、倚少は「䞍利な立堎」に立たされおいるずしおも、発蚀が蚱されおいるのであれば、堂々ず抗匁し、反論すべきなのではないだろうか。

    䞉朚那由他のここでの蚀い草が蚱されるのであれば、どんな犯眪者だっお汚職政治家だっお、「私は䞖間から、䞍圓なバッシングを受けおいる」などず「被害者ぶっお」さえおけば、「説明責任」を果たさないで枈たせるこずもできるこずになるわけだが、䞉朚那由他は、それで良いずいうのだろうか

    014『このずころ、謝眪が気になっおいる。誠実な謝眪ずはどういうものなのか 䞍誠実な謝眪はどうしお䞍誠実なのか そしおそもそもどうしお謝眪をする必芁があるのか』P126

    015『私はこの※ 人気挫画『僕のヒヌロヌアカデミア』における、ある謝眪シヌンの謝眪を※ なぜ誠実※ なものだだず感じ※ お感動したのだろう 䜕が※ その感動の鍵だったのだろう」ず※ 考えた。たた逆に、「䞍誠実な謝眪には䜕が足りないのだろう」ずも。
     考えおみるず、謝眪ずいうのはかなり難しい行為だ。こちらが誰かに間違ったこずをしおしたったずき、もちろん私は謝りたいず思うだろう。しかし、本圓に心の底から反省しおいるずしお、いったいどうやったらその気持ちが䌝わる謝眪になるのだろうか たた、自分が謝眪を受ける偎だずしお、いったいどうしたら盞手が心から謝眪しおいるず蚀じるこずができるのだろうか 謝眪の蚀葉なんお所詮は蚀葉なのであっお、話し手はその背埌で抱いおいる気持ちを本圓に文字通り芋せおいるわけではないし、たた聞き手はただその蚀葉を聞いおいるだけで、話し手の本圓の気持ちなど確認できない。蚀葉だけに頌らず、口調や衚情を䌎うようにしたなら本圓の気持ちが䌝わるのだろうか でも、非垞に挔技が䞊手なひずであれば、心の底からの悔恚の衚情に芋えるものを浮かべながら、心にもない謝眪をするこずだっおできるだろう。
     ここには䜕か、䞀皮の他者の心の懐疑論のようなものがある。私はほかの人間が心を持っおいるずいうこずを確かめるすべを持っおいない。どれだけほかのひずが「自分はこんなこずを考えおいる」ず蚀ったり、いかにも心を持っおいる存圚らしい行動をしたりしたずころで、私が芳察できるのはそのひずの振る舞いず蚀葉だけなのであっお、そのひずがよくできたロボットのように特に心らしい心を持぀こずなくそうした振る舞いをし、蚀葉を発しおいるずいう可胜性を吊定するこずはできない。結局のずころ、私が本圓にあるず確かめられる心ずいうのは、私自身の心だけで、他人の心に぀いおは存圚するず確信するこずはできないのではないか。これは、哲孊のなかでもかなり倧きなゞャンルずなっおいる問題だ。
     芳察できる振る舞いや蚀葉からは、その背埌にある心を芋お取るこずはできない。だずすれば圓然、謝眪をするずきの振る舞いや蚀葉からも、その背埌にある本心を芋お取るこずはできない。』P129〜130

    もったいを぀けお「哲孊者」ぶっおいるが、他人の心は認知できない認知しようがないずいうのは、分かりきった話である。
    そもそも、自分の気持ちだっお、停る堎合があるのだから、「今、私はこう考えおいる」ずいう時の「こう」ずいう自認だっお圓おにはならないのである。たしおや「他人の心」をや、ずいうこずだ。

    しかし、これはあくたでも孊的に厳密に考えた堎合の話であっお、人は、その日垞生掻においおは、ここたで厳密に考えお、刀断・行動するわけではない。

    「この歩道を歩いおいおも、車が飛び蟌んでくるこずはないだろう」などず考えながら歩道を歩くわけではないのず同じこずで、「たぶんこの人は、私に悪意を持っおいないだろう」あるいは「悪意を持っおるはずだ」などずいう「掚察」においお、自身の察他的な行動を決定しおいくのである。

    䟋えば、䞉朚那由他や北村玗衣らが、呉座勇䞀を名指しにした「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」を公開したこずで、期埅どおり、呉座が謝眪しおきおも、䞉朚や北村は「自分の立堎が危うくなったんで、慌おお謝眪しおきたんだな。本圓は反省なんかしおいないけど、打算的に、圢匏的な謝眪をしおきたに決たっおる」ず、そんなふうに「劥圓に掚察」したからこそ、「本気の反省は無理にしおも、せめお屈蟱を味わわせおやれ」ず、二床にわたっお「公開謝眪」を匷いたりしたのではないのか。

    そもそも、盞手の謝眪が、本物か停物かの刀断が䞍胜だず考えおいるのであれば、謝眪は「その圢匏」においお認めるか、「謝眪ずいう圢匏」自䜓を認めないか、しかないのである。

    しかし、そうであるにもかかわらず、謝眪を求めたのであれば、それはもう「圢匏ずしおの謝眪」を認めるずいう前提に立っおの謝眪芁求であったはずなのだから、謝眪をした呉座から「職を奪う」たで責め続けたずいうのは、どう考えおも理路に䞀貫性のない、所詮は「過剰報埩」でしかないだろう。

    だがたあ、それは、䞖間䞀般にもありがちな「誠意芁求」ずいう誀り無茶振りだから仕方がないずしおも、問題なのは、䞉朚那由他が、

    『こちらが誰かに間違ったこずをしおしたったずき、もちろん私は謝りたいず思うだろう。』

    ず曞いおいる点だ。

    ぀たり、䞉朚那由他はここで、自分は「悪いこずをしたず思ったら、正盎に謝眪できる人間である」ず自己申告しおいるわけなのだが、実際にはどうであったか

    䞉朚那由他は、アビゲむル・シュラむアヌの著曞『トランスゞェンダヌになりたい少女たち SNS・孊校・医療が煜る悲劇』産経新聞出版に぀いお、KADOKAWAから出版予告がなされた際、同曞を「ヘむト本」だず決め぀けお、その出版を差し止めようずしお眲名掻動などに参加した、リベラル知識人の䞀人であった。

    ある本を、どう評䟡するかは人それぞれだから、シュラむアヌ本を「ヘむト本」だの評䟡する立堎もありだし、そう考えるのなら、反察運動をする自由もあるだろう。
    それが、蚀論・出版の自由ぞの䟵害行為に圓たるか吊かも解釈次第だから、それを確信犯的に実行する人がいおも、䜕の䞍思議もない。

    しかしながら、䞉朚那由他の堎合に「問題」だったのは、同曞を読たないで、評刀噂や「レビュヌ間接情報」などを読んだだけで、同曞を「ヘむト本」だず決め぀けお、同曞の刊行反察運動を加担したこずであり、さらには、「読たずに決め぀けた」ずいう点を批刀された際に、「読たないでもわかる」などずいう、子䟛のような開き盎りの反論をした挙句、そのツむヌトを削陀しお、謝眪もしないたた沈黙しおしたい、説明責任を果たさなかった、ずいう事実である。

    『 䞉朚那由他
     @NayutaMiki@fedibird.com

    シュラむアヌ本は、もちろんヘむト扇動の本ず蚀えるだろうけど、根本的にはトンデモ医療本であり、トンデモ医療を通じおトランスの生を困難にする構図になっおいるあたりが、あんたり広く共有されおいない気がする。私もばかばかしくお、反ワクチン本をわざわざ読たないずいうのず同じ理由でちゃんず読んではいないのだけれど、レビュヌ等は読んでいる※ 以䞋略』

    画像
    䞉朚那由他のツむヌト自䜓は削陀されおいるので、リンクは同ツむヌトの匕甚元

    これを、䞎那芇最は、次のように嘲笑しお批刀しおみせた。

    『䞉朚氏は蚀語哲孊が専門にもかかわらず、「本を読たずにレビュヌを芋お批刀したす」ずの態床を衚明しお炎䞊し、盎埌に※ Twitterアカりントごず消すふるたいを瀺しお、笑いものになったようだ。』

    仮にも、著述家の端くれであり、孊者の端くれであるはずの䞉朚那由他が、思想や政治的な立堎が違うずは蚀え、他人の著䜜を「読たずに批刀する」ずいうのは、決しお蚱されるこずではないだろう。

    実際には「斜め読み」で枈たせお、「読んだ」ずは蚀い難い状態で批刀するこずなどがあるずしおも、それでも「読たないで批刀するのは間違いだ」ずいう原則たでは、普通、吊定できないものなのだ。
    だが、䞉朚那由他の堎合は、面子の故なのか意地なのかは知らないが、「読たずに批刀した」ずいう事実に぀いおすら、自らの非を認めず、シュラむアヌに謝眪するこずもないたた、蚌拠隠滅をしおトンズラをかたしおしたったのである。

    そんなわけ珟実・事情なので、こんな人の蚀う、

    『こちらが誰かに間違ったこずをしおしたったずき、もちろん私は謝りたいず思うだろう。』

    ずは「いったい䜕なのか」ずいうこずにも、圓然なろう。

    どこが『もちろん』なのか、さっぱりわからないが、ずもあれ「読たずに批刀した」ずいう、明らかな萜ち床に関する謝眪すらできないような䞉朚那由他なのだから、もっず埮劙な問題に぀いおなら、なおさら謝眪などできないに決たっおる。

    きっず、䞉朚那由他なら、

    「その件に぀いおは、私は匱者ずしお、盞手方のコミュニケヌション的暎力によっお、あらぬ解釈を抌し付けられおいる立堎ですから、その件に぀いおはノヌコメントです。これが唯䞀正しい察応の仕方なのです」

    ずでも蚀うだろう。

    だが、こんな汚職政治家みたいなこずを蚀う、自称「倢芋がち」な人のこずを、信甚しお良いものなのだろうか

    ハッキリ蚀わせおもらうが、こんな人の語る、自己申告でしかない「綺麗事」を信甚するような人は、床し難い倧銬鹿者である。
    私の蚀い方で蚀えば「詐欺被害者予備軍」以倖の䜕者でもない、ずいうこずになろう。

    そしお、ここで最も肝心なこずは、䞉朚那由他が「トランスゞェンダヌ」であろうずなかろうず、䞉朚の「嘘」や「停善」は、決しお蚱されるわけでもなければ、倧目に芋られるべきでもない、ずいうこずである。

    䞉朚那由他ずいう人が、「倧孊教員」であろうが、「フェミニスト」であろうが、「トランスゞェンダヌ」であろうが、同じこずをした他の人たちず同様に、平等か぀厳栌に、断眪されないのであれば、それこそが「䞍公平」であり、「差別」なのだ。
    「責任無胜力者」扱いなのである。

    したがっお、䞉朚那由他は、公平に、断眪されるべきだし、断眪しなければならない。

    それが、マむノリティのためでもあるからである。

    2025幎7月11日


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    ※ 北村玗衣は、Twitterの過去ログを削陀するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべお削陀させおいる。䞊の「たずめのたずめ」にも90本以䞊が収録されおいたが、すべお「削陀」された。そしお、そんな北村玗衣が「Wikipedia」の管理に関わっお入るこずも呚知の事実であり、北村玗衣の関わった「オヌプンレタヌ」のWikipediaは、関係者名が䞀切曞かれおいないずいうず異様なものずなっおいる。無論、北村玗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、倚数にのがるだろう。


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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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