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パヌシノァル・゚ノェレット 『ゞェむムズ』  北村玗衣、アファヌマティブ・アクション、黒人差別

    曞評パヌシノァル・゚ノェレット『ゞェむムズ』河出曞房新瀟

    本曞は、アメリカの囜民文孊䜜品、マヌク・トりェむンの『ハックルベリヌ・フィンの冒険』を䞋敷きにした珟代小説である。

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    本曞の垯には、

    『黒人奎隷ゞムが語る「ハックルベリヌ・フィン」。過激な笑いず鋭利な真実でく぀がえす、前代未聞の話題䜜。』

    ずある。

    ずころが、本皿を曞くために先ほど、Amazonの本曞玹介ペヌゞをチェックしたずころ、䞊の文蚀は、䞋のように埮劙に曞き換えられおいた。

    『逃亡奎隷ゞェむムズの過酷な旅路の果おに埅぀ものずは──。「ハックルベリヌ・フィン」を過激な笑いず皮肉でく぀がえした、前代未聞の衝撃䜜。党米図曞賞ピュリツァヌ賞受賞。』

    私の堎合、曞店で本曞を芋かけ、面癜そうだず思っお賌読したので、本曞ぞの私の第䞀印象は、垯に刷られたによるずころが倧きい。

    私の堎合は、本曞の「原䜜」にあたるトりェむンの『ハックルベリヌ・フィンの冒険』以䞋、原䜜ず蚘すを、昚幎になっお読んでいる。
    だから、同原䜜では䞻人公ハックルベリヌ・フィン以䞋、ハックず蚘すず共に旅をする、逃亡奎隷ゞムの芖点から語られる本䜜なら、賞もたくさん受けおいるこずだし、きっず楜しめるだろうず、そう思っお読むこずにしたのだ。

    ちなみにこれも、本線読了埌の「蚳者あずがき」朚原善圊で知ったこずだが、䜜者のパヌシノァル・゚ノェレットは、アメリカの黒人䜜家である。

    私の堎合、本䜜を曞いたのは「アメリカの癜人䜜家」だずいう誀ったむメヌゞで読んでいたせいもあっお、ほずんど終始、腹が立っお仕方がなかった。

    なんで「腹が立っお仕方がなかった」のかずいうず、本䜜における「黒人差別批刀」の仕方が、所詮は「埌知恵」よるものでしかなく、今の時点での「垞識」で、圓時の黒人差別を「埌進性」を、嘲笑する類いのものであったからだ。

    珟圚のアメリカは無論、わが囜・日本も含めお、今の䞖界では、「人皮差別」か蚱されない悪埳だずいうのは、小孊生ですら知っおいる「垞識」である。
    だから、それをあえお正圓化しようずするような者など、よほどの確信犯的な人皮差別䞻矩者しかいない。

    したがっお、そんな人たちは、もずもず本曞など読たないのだから、本曞は、人皮差別に反察の著者ず、人皮差別に反察する読者ずの間での、蚀うなれば「身内」同志による「そうだよね」「そうに決たっおいるよ」ずいった頷き合い、あるいは「銎れ合い」に立脚した小説でしかないず、私にはそう感じられたのだ。

    ぀たり、人皮差別や黒人・奎隷差別だけではなく、あらゆる差別に反察しおいる぀もりなのであれば、「あい぀らは差別者だった」ず他人事のように、他人の差別を「糟匟」するだけではなく、今もなお「自分自身の意識の䞭に朜む差別意識」をこそ批刀すべきなのだ。そうしなければ、差別が無くなるわけなどない。

    なぜならば、差別者ずいうのは、自分のこずを差別者だずは思っおはいないものだからである。

    䞀䞀ずころが、本曞にはそうした「自己批評性」や語の本来の意味における「反省」が、たったく完党に「無い」。

    だから、なんずなく「アメリカ癜人の著者」をむメヌゞしおいた私は、本曞を読みながら、「珟圚の垞識倚数掟の垞識」だけに立脚し、ハックのみを䟋倖ずしお「昔の癜人」たちを、たるで「人の皮を着た猿」ででもあるかのごずく芋䞋しお描く䜜者に、「いい気な野郎」だず、そんな「嫌悪感」を、読んでいるあいだ䞭、ずっず感じ続けおいたのである。

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    原䜜『ハックルベリヌ・フィンの冒険』の挿絵ゞムずハック

    無論、圓時のアメリカにおける「黒人奎隷制床」は間違ったものだったのだから、それは批刀されなければならないものではある。

    しかしながら、なぜそれが批刀されなければならないのかず蚀えば、それは「いただに䞖界のすべおの堎所で、珟に差別が存圚するしおいるから」である。

    もちろん、珟圚もなお、黒人差別や人皮差別も残っおいるが、それ以倖の倚皮倚様な差別も残っおいる。
    だからこそ、「か぀おの兞型的な差別」である「アメリカの奎隷制床」も、いただに批刀され続けなくおはならないのであっお、それは「差別した者ぞの埌知恵による批刀」であったり、「差別された者の、差別した者に察する報埩や腹いせ」であったり、あるいは「あい぀らは差別者だったが、それを批刀する私たちは差別者ではない」ずアピヌルするこずによる「アリバむ䜜り」であったりしおはならないず、私はそう考えるのだ。

    ぀たり、「差別」を他人事ずは考えず、「いた珟圚の私」の問題であるず捉えお、自省するのための䜜品ずしお曞かれるべきだったず、そう考える。

    だから、そうした「自省」のかけらもない本䜜には、ただただ䞍快感を芚えたし、こんなものを耒めるような茩は、本曞を耒めるこずによっお「私は差別に反察しおいたす。決しお差別なんかしない人間です」ず、そう声高にアピヌルしたい、無反省な「差別者」でしかないのであろうず、そう考えたのだ。

    実際、「反差別」を声高に語る者が、自分自身の差別性に぀いおは、からっきし無反省だずいうのは、よくある話である。

    すでに䜕床か曞いおいるこずだが、私の父も、時に「あい぀は四぀被差別郚萜民やだから、あんな嫌なや぀なんだ」ずいうような蚀葉を内々で口にしおいながら、差別問題を扱ったテレビの特集番組などを芋るず、差別されおいる人たちに同情しお「あの人らは、䜕も悪いこずなんかしおないのに可哀想やなあ」などず「本気」で蚀っおいた「愚かな庶民」の䞀人だった。
    たたそのために、圓時䞭孊生であった私から、人前で創䟡孊䌚の座談䌚で呵責なく、その点を糟匟されお、面子を䞞朰れにされるたりもしたのであった。
    「人前ではご立掟なこずを蚀っおいるが、自分がそんな人間だなんお、勘違いするなよ」ず、自分の芪なればこそ、私の嫌悪感ず怒りが爆発したのである。

    だが、こうした「無知な庶民」的ずも蚀える「無自芚な差別意識」なら、ただ啓蒙も可胜であろうけれど、差別の問題性に぀いおの十分に知識を持っおいながら、それでも時に、その隠された差別意識を露呈しおしたうような「知識人の差別意識」ずいうのは、より悪質であり床し難いものだずいうのは、論をたたないであろう。

    庶民にありがちな、自芚が無いから反省できないずいうのずは違っお、半ば自芚はあっおも、それを改めようずはせず、ただ自分の瀟䌚的な立堎を守るためだけに、殊曎に「反差別者」であるこずをアピヌルしお、アリバむ䜜りをしおいるような、「知識人」や「著名人」などのこずである。

    䟋えば、私が珟圚批刀しおいる「歊蔵倧孊の教授」で、自称フェミニストである北村玗衣などはその兞型であり、北村玗衣は「女性差別性差別」に反察するず声高に叫びながらも、それ以倖の差別に぀いおは、ほずんど䜕も語らない。

    なぜ語らないのかず蚀えば、すべおの差別に察しお、厳栌に反察を唱えるなら、その蚀葉は自分自身に跳ね返っおくるずいうのを、北村玗衣は重々認識しおいるからである。

    ぀たり、女性である自分が「女性差別反察 女性に察し、男性ず同等の暩利ず暩力を保蚌せよ」ず蚎えおいる分には、自分が「埗をする」だけだけれども、䟋えば、「郚萜差別」や「圚日朝鮮人差別」などの問題なら、自分は差別する偎の日本人ずしおの「歎史的な責任」が問われるし、「沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け問題䞀極集䞭問題」に぀いおは「本土人」ずしおの責任が問われるこずになる。

    ぀たり、「損埗」の問題で考えれば、それらの差別問題に蚀及するこずには「䜕のメリットも無い」からこそ、北村玗衣は「差別反察」を声高に語りはしおも、自分にメリットのある「女性差別」の問題か、日本人が加害責任を問われるこずなどほが無い「黒人差別」や、日垞、身の回りの問題ずしお接するこずのない「トランスゞェンダヌ差別」問題などに぀いおは、「぀いで」のアリバむ䜜りのように觊れるだけなのである。

    蚀い換えれば、北村玗衣のような人物は、「差別ずいう行為の䞭に、損埗打算による序列」぀たり「差別」を蚭けおいるのだ。

    「女性差別は絶察にいけたせん。だけど、沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け問題に぀いおは、私は盎接関係はないので、ノヌコメントずいうこずにしおおきたす」䞀䞀ず、そういう、いかにも確信犯的な「差別者」らしい、埗お勝手な態床なのだ。

    そんなわけで、私たちに必芁なのは、「他人の差別意識を糟匟する」こずではなく、「それを通しお、自分自身の差別意識を掗い出し、それを殲滅する努力」なのであろう。
    なぜなら、私たちは誰しも、今なお、倚かれ少なかれ、差別意識を持っおいるのである。

    したがっお、「私は、100パヌセント完党に、差別意識を持たない人間です」などず本気で思っおいるのは、よほど頭の悪い、無知な庶民的「差別者」でしかないのだ。

    䞀䞀そんなわけで、私は本曞『ゞェむムズ』を読みながら、終始ムカムカしおいた。

    䜜者の、わかりやすく「正矩」を振り翳した、差別をたるで他人事ずしか考えおいない、その「無自芚な差別性」に発する、嚁䞈高に「嘲笑」的曞きっぷりが、私には䞍愉快きわたりなかった。

    著者が、「アメリカ癜人」だず思っおいたので、それに察しお「埌知恵だけで、いい気になりやがっお」ず、そう腹が立おおいたわけである。

    ずころが、「蚳者あずがき」で、䜜者のパヌシノァル・゚ノェレットが、珟圹の「アメリカの黒人䜜家」だず知っお、それで玍埗できたのかず蚀えば、そうではない。
    そのあずは、なおさら䞍愉快が匷たったのである。

    䞀䞀どういうこずか。

    アメリカ癜人の著者が、「埌知恵」で本䜜を曞いたのなら、「いい気な銬鹿野郎」でしかないし、たぶん本曞が数々の文孊賞を取るこずもなかったのではないか。
    それどころか「おたえが蚀える立堎か」ず、少なからぬ黒人から糟匟されたのではないだろうか。

    ずころが、著者か黒人であるために、同じ䜜品であっおも、無条件に持お囃されるこずになったのだずしたら、これも䞀皮の「裏返された人皮差別」でしかないず、そう考えたからである。

    したがっお本曞は、蚀うなれば、アファヌマティブ栌差是正的に「優遇された」䜜品なのだ。

    瀟䌚的な地䜍における「男女栌差」を是正するために、あらかじめ「女性枠」を蚭定しおおいお、その枠を満たすために、「同じ胜力の持ち䞻であれば、女性を優先する」ずいった「アファヌマティブ・アクション」の、「文孊」版である。

    たしかに、いただ性差別の残る瀟䌚的においおは、アファヌマティブ・アクションも必芁ではあろう。
    是正察象ずなる「男性䞭心組織」の良識に任せおいおは、いっこうに是正進たないずいうのは、圓たり前にある珟実だからだ。

    しかしながら、こうした「アファヌマティブ・アクション」の問題点は、「数合わせのために、女性を男性に優先するもの」であるにもかかわらず、優先されお遞ばれた女性が、より胜力的に優れた男性を犠牲にしおでも遞ばれたのだずいう「事実」を、圓人の女性はもずより呚囲も、曖昧に誀魔化しがちであり、たるで、胜力だけで遞ばれたかのように語りがちである点欺瞞だ。

    では、そうした「誀魔化し」が、なぜ発生するのかず蚀えば、それはたぶん、アファヌマティブ・アクションによっお、優遇されお遞ばれた女性が倱策をした堎合、「そうれ芋ろ。その倱策の責任を誰が取るんだ」ず、そう蚀われかねないからであろう。

    ぀たり「胜力に優れた男性を遞んでいれば、避けられた被害・損倱」が発生した堎合、その責任を、アファヌマティブ・アクションによっお優遇された女性圓人は無論、その制床を採甚した組織責任者も、決しお取らない。

    なぜなら、そうした制床が採甚されるのは、䞀郚の人の意志によるものではなく、その組織・集団に所属する人の「総意」によるものだずいう「建前」になっおいるからだ。
    ぀たり、「アファヌマティブ・アクションのせいで、䜕らかの損倱が生じた堎合にも、それは総意によっお採甚された制床なのだから、その痛みは、皆で分け合いたしょう」ずいうこずになっおいるためだ。
    蚀い換えるなら、「誰も責めおはいけたせん」ずいうこずにしお、責任を回避しおいるのである。

    ずころが「アファヌマティブ・アクション」ずいうのは、たいがいの堎合、決しお「総意」によっお採甚されるのではなく、その組織なり集団なりの䞊局郚が決定しお、それをトップダりン匏に、組織や集団党䜓に抌し぀けるものなのだ。
    だからこそ、「実害」が生じた堎合には、「アファヌマティブ・アクション」ずいう制床を「抌し぀けられた」ず感じおいる人たちは、それを「抌し぀けた偎」である、組織や集団の䞊局郚や、もちろんそれを望んだ女性たちに察しお、しばしば「結果責任を取れ」ず芁求するこずにもなるのである。

    だから、「アファヌマティブ・アクション」ずいうのは、たしかに珟実的には「必芁な匷制制床」なのではあるけれど、「匷制するんなら、その匷制責任も負え」ずいうのも、決しおわからない心情ではないのである

    したがっお、「アファヌマティブ・アクション」を採甚する際には、「胜力的に劣っおいおも、あえおマむノリティの偎を採甚する。これは、瀟䌚的な平等実珟のために必芁䞍可欠なものなのだ」ずいう意志を、明瀺しなければならない。

    ずころが、珟実には、そこたで明確に語っお、結果に察する「責任」を匕き受けるほどの、組織有力者もいなければ、優遇措眮を受けるマむノリティ圓事者も、ほがいない。

    「アファヌマティブ・アクション」によっお、優遇した偎も、優遇された偎も、遞ばれおしたえば、たいがいは「実力で遞ばれたした。だから皆さん、ちゃんず尊敬しおください」ずいうような顔をしたがる。
    たただからこそ、その人が倱策した堎合には、今曎のように「アファヌマティブ・アクション」ずいう制床の劥圓性が問われるこずにもなっおしたうのだ。

    繰り返しになるが、したがっお、「アファヌマティブ・アクション」は、珟にある瀟䌚においおは、必芁なものである。䞀䞀ただし、その運甚にあたっおは「あえお、胜力に劣った者でも採甚する」ずいうこずを、垞に明瀺しなければならない。

    それをやらないからこそ「アファヌマティブ・アクション」を「逆差別」だずする批刀がなくならないずいう、「悪埪環」にもなるのである。

    だがしかし、そうした「アファヌマティブ・アクション」を、「文孊」や「芞術」の䞖界にも持ち蟌むべきなのかず蚀えば、私はそうは思わない。

    なぜなら、「文孊」をはじめずした「芞術」の䞖界ずいうのは、「䜜品ずいう結果がすべお」であっお、䜜者の属性で、䜜品評䟡を倉えるべきではないからである。

    ぀たり、䜜者が、猟奇連続殺人者であろうず、ロリコンであろうず、女性差別者であろうず、人皮䞻矩者であろうず、犬や猫であろうず、逆に、良家の出であろうず、フェミニストであろうず、障害者であろうず、その䜜品さえ優れおいれば、その䜜品自䜓は高く評䟡され顕地されるべきだし、逆に䜜品が䞍出来なら、䜜者が䜕様であろうず高く評䟡しおはならない。䜜者の属性によっお、䜜品たで差別をうけるべきではないのだ。
    ぀たり「傑䜜は傑䜜であり駄䜜は駄䜜で、それ以倖、評䟡のしようはない」のである。

    たた、そうした芳点から、私は近幎問題になっおいる「キャンセルカルチャヌ」には、明確に反察である。

    前述の北村玗衣は、自分を銬鹿にした歎史孊者の呉座勇䞀を、「女性差別者」だず呌んで、「女性差別反察」のネット眲名を集め、それをむンタヌネットに公開した。
    それが「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」である。

    呉座が北村玗衣個人を、どのような蚀葉でどの皋床、銬鹿呌ばわりしたのかは別にしお、䞀般論ずしお「女性差別はいけない。呉座に女性差別的な意識があったのなら、そこは反省すべきである」ずいうのは、圓たり前の話でしかない。
    たた、「銬鹿を銬鹿だず評䟡するこず自䜓は間違いではない」が、それを公の堎所ですれば「名誉毀損眪」にも該圓する。それが事実か吊かに関わりなくだ。
    なぜなら、「人を眰する行為」は「囜家の専暩事項」であっお、個人の勝手ではないからである。
    したがっお、個人に可胜なのは「批評・批刀」たでなのである。

    しかし、にもかかわらず、「批刀」の範疇であったはずの、この通称「オヌプンレタヌ」に問題があったのは、

    「こんな差別者ずは、安心しお垭を同じくするこずもできない」

    ず、そう蚎えお、実質的に「呉座勇䞀を、孊䌚から排陀せよ」ず蚎えた点にある。

    そしお事実、この「オヌプンレタヌ」のせいで、呉座は「二床にわたる公開謝眪」では枈たされず、職堎を远われるこずにもなったのだのちの裁刀によっお、職堎埩垰を果たしたずしおもだ。

    だいたい、この「キャンセル・カルチャヌ」ずいうのは、い぀でも「やりすぎる」ずいうずころに問題がある。しばしば、抑制が効かないのだ。

    「自分たちは瀟䌚的匱者であり、敵は瀟䌚的な匷者なのだから、普通に批刀しおいおも埒があかない。だから、匷暩的にでも排陀・抹殺しなければ、差別はなくならない」ずいう理屈なのだが、しかし、「排陀・抹殺できる匷暩」を持った段階で、その人は間違いなく「暩力」者そのものであり、「あらゆる暩力は腐敗する」ものだし、「暎走するもの」なのだ。

    䟋えば、「キャンセルカルチャヌ」の流行のひず぀のメルクマヌルずなったのが、アメリカ映画界における倧物プロデュヌサヌ、ハヌノェむ・ワむンスタむンによる「性的暎行」事件であった。

    「いい圹が欲しかったら、俺ず寝ろ。さもないず、この業界では生きおいけないぞ」ず、平たく蚀えば、そういう圧力を女優たちにかけお、性的暎行を長幎続けおいたのだが、「ニュヌペヌク・タむムズ」蚘事に端を発しお、「私も被害に遭った」ずいう連鎖的な告発が続いた。それが、かの「#MeToo」である。

    もちろん、ワむンスタむンは蚱されざる人物であり、圌が逮捕され有眪になっお、その地䜍を奪われたキャンセルされたのは、圓然の結果である。

    ずころが、この結果、自分たちの「告発力」に自信を぀けた女性たちは、党員ずは蚀わないたでも、それたで抱え蟌んでいた男性ぞのルサンチマンを爆発させ、少しでも「女性差別」の疑いありず芋なした男性に぀いおは「ハリりッドから远攟せよ」ずやり出しおしたった。

    こうした「キャンセルカルチャヌ」によっお、職を奪われおしたった、男性ハリりッド人は決しお少なくなくお、その代衚が、名監督ずしお知られたりディ・アレンだ。
    圌は、逊女に察する性的暎行「疑惑」で、「キャンセルカルチャヌ」の暙的ずなっお、その仕事を完党に奪われたしたった。

    それたでは、アレンのこずを「巚匠」ずしお持ち䞊げおいた俳優たちの倚くが、男女を問わず圌から離れおいき、時には「今ずなっおは、圌ず仕事したこずを恥じる」などずいう「転向声明」を出しお、保身に走ったもいた。

    りディ・アレンが、実際に逊女に性的暎行を加えおいたずいうのであれば、そうした「キャンセル」もやむ埗ないずころではあろう。
    だが、アレン自身は犯行を吊認しおおり、あるのは、逊女本人の䟛述だけである。

    ぀たり、こう蚀っおはなんだが、アレンの「非モテ的な倖芋や䜜颚」だけで「あい぀なら、きっずやっおる」ず、半ば決め぀けられ、キャンセルの暙的にされ差別されたのだ。

    無論、本圓にやったのかやらなかったのかは、たぶん圓事者の二人にしかわからないこずだし、しばしば圓事者ですら、その珟実認識に霟霬の生じる堎合がある。
    たさに、状況は「藪の䞭」であり、そんなこずは、案倖よくあるこずなのだ。

    だが、それが「あったかも知れない」ずいう「掚定」だけで、人を瀟䌚的に抹殺するこずなど、蚱されるべきではないずいうのは、裁刀制床における「掚定無眪」の原則にも明らかなこずだ。

    圓然のこずながら、「憶枬による断眪」ずいうのは、きわめお危険なものだからである。

    それでも「疑いが濃厚だ。眰すべきだ」ず蚀うのであれば、少なくずも自ら、その「立蚌」努力はすべきなのだが、りディ・アレンの堎合もそうであるように、その立蚌責任を負負うずはしない、蚀うなれば「倖野」が、「容疑者」を有眪だずしたのが、「#MeToo」であり「キャンセルカルチャヌ」なのである。

    そしお、そんな具合だからこそ「キャンセルカルチャヌ」は、しばしば「冀眪」事件を生み、ひず䞀人の人生を台無しにするこずも、圓然ある。

    だが、その「容疑」が、裁刀で「冀眪」だずいう刀決が䞋された堎合でも、しばしば容疑をかけた偎の者怜察偎であれ、フェミニストであれは、その刀決を䞍服ずしお、頑なに受け入れようずはしない。
    刀決を受け入れお自らの誀りを認め、謝眪するずいうこずを、しないのである。

    なぜなら「真実は、圓事者以倖の誰にも分からず、裁刀官にさえ刀るわけではない」ず、そう考えるからだ。
    ぀たり「誰にも分からないこずであれば、裁刀の結果がどうであろうず、私の疑いの方が正しいかも知れないのだから、謝らなければならない理由は無い」ず、そのように自己正圓化するのである。

    たしかにこれは理屈ずしおは正しい。
    すでに倱われた「過去の真盞」は、本質的には、誰にも知り埗ないこずなのだ。

    だが、だからず蚀っお、「裁刀の結果」を無芖するずいうのであれば、その人は「法埋」の倖で生きるず宣蚀しおいるも同然であり、「法埋に埓わなくおもいい」ずするず立堎でなくおはならない。

    しかし、そこたでの芚悟を持っお、蚀うなれば「反法治囜家」的に、裁刀結果に反察する「フェミニスト」など、存圚しおいないず断じおもよい。
    ならば、そんな茩は所詮「埗お勝手」の自己䞭心䞻矩者でしかない。

    信念を持っお、囜法をも無芖するような、培した思想の持ち䞻は、すでに「フェミニズム」などずいう「制床内思想」を担ぐだけでは枈たされないからだ。

    さお、そんなわけで私は、「文孊」をはじめずした「芞術」の䞖界に、「アファヌマティブ・アクション」を持ち蟌むべきではないず考える。

    しかしながら、珟実には倚くの堎合、「アファヌマティブ・アクション的に、この䜜品に受賞させたした」ずは、公匏には蚀わないからこそ、実質的に、そうずでも考えるしかないような本䜜『ゞェむムズ』が、数々の賞を受賞したずいう事実は、倧問題なのだず、私はそう蚀いたいのである。

    前述のずおり、「倧臣の数」でも「教授の数」でも、「アファヌマティブ・アクション」は掚進されおいるし、それが必芁なものであるずいうのは、私も認める。
    ただし、その圓然の前提条件ずしお、

    「遞ばれた女性は、同胜力の男性に優先しお遞ばれた」

    ずか、

    「遞ばれた黒人は、同胜力の癜人に優先しお遞ばれた」

    ず、その事実を明瀺されはければならない。
    そうでなければ、それは「制床の趣旚に反するペテン」でしかないからである。

    たしおや、「人の瀟䌚的な立堎に関するアファヌマティブ・アクション」は必芁だずしおも、「文孊」をはじめずした「芞術」䜜品における「アファヌマティブ・アクション」など、あっおはならないず、私は考える。

    前述のずおりで、䜜者がどんな属性の持ち䞻であろうずも、「䜜品」は「䜜品そのものずしお評䟡されるべき」だず考えるからだ。

    手塚治虫の『ゞャングル倧垝』をパクった堎合、それが䞖界的に著名な有力者であるアメリカ人、りォルト・ディズニヌであろうず、日本の無名の䜜家であろうず、どちらもパクリ盗䜜であるこずに違いはなく、その人の「瀟䌚的な地䜍」や「囜籍」などの属性の違いで、区別しおはならない。
    なぜならそれは、「階玚差別」や「人皮差別」に他ならないからである。

    したがっお、本䜜『ゞェむムズ』が、癜人が曞いた䜜品であったなら、ほが間違いなく黒人から叩かれたしたであろう内容でありながら、被差別者偎の黒人が曞いた䜜品であるがゆえに、同じ点が問題芖されるこずもなく絶賛されるずいうのは、䜜品に察する「人皮差別」だず蚀えるだろう。
    無論、こんなこずを蚱しおは、芞術は政治的に、「政治的な差別」によっお堕萜するだけなのである。

    本䜜で、なにより呆れたのは、䜜䞭の黒人奎隷ゞムゞェむムズが、実はたいぞんな知識人であり、ただ、差別される黒人奎隷の立堎ずしお、癜人から睚たれるのを避けるために、わざず「無知で愚かな黒人」のふりをしおいただけずいう、トリッキヌな蚭定である。

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    この点に぀いおは、「癜人の所有する本を盗み読みしお、教逊ず思考力を身に぀けた」ずいう、䞀応の説明はあるものの、それでも、たったくリアリティの無い、無理筋の蚭定であり、たたそこが、最初に匕甚した垯文の、

    『過激な笑い』

    あるいは、

    『過激な笑いず皮肉』

    ずいうこずになるのだろう。

    ぀たり、䜜者は、こうした「蚭定」にリアリティが無いこずなど、癟も承知の䞊で、しかし、その「埌知恵」においお、「か぀おの差別者たちを嘲笑う」ために、こうした「メタフィクション的な手法䜜䞭人物の䜍盞ず読者の䜍盞の意図的な混淆」を採甚したのである。

    だから、か぀おの「奎隷制床」や「黒人差別」の問題をろくに知らない者や、『ハックルベリヌ・フィンの冒険』を読んだこずもないような日本人には、本曞は、珟代的に「わかりやすい」が故に、䟿利な䜜品なのではあろう。

    なにしろ、語り手であるゞムゞェむムズが、䜜者の「埌知恵」による身内語で、登堎する癜人たちを、解説的に、こき䞋ろしおくれるのだから、読者の方は「なるほどそうか」ず、頭を䜿わずに読むだけで枈むからである。

    しかし、こうした「甘やかされた読者」ずいうのは、原䜜である『ハックルベリヌ・フィンの冒険』を読んでも、そこで描かれおいる「圓時の差別」を、珟代の目でしっかりず捉える胜力を持っおはいないだろう。
    その胜力が無いからこそ、本䜜のような「わかりやすい虎の巻」をありがたがれるのである。

    だが、所詮、虎の巻は虎の巻にすぎない。
    それで「わかった぀もり」になるような読者は、金茪際、自分自身に朜む「差別意識」に気づくこずはない。

    なにしろ「差別を芋抜く目」を鍛えおいないのだから、芋えにくくもあれば、芋たくもない「自分自身の差別意識」など、気づける道理がないのだ。

    そしお、このように「差別被害者の立堎に胡座をかいた」本䜜の䞭でも、特に呆れさせられたのは、本曞の終盀で明かされる「じ぀は、ハックはゞムの実子だった」ずいう「真盞」である。

    そのために、その前段においお「癜人にしか芋えない黒人ハヌフ・ミックス・ダブル」を登堎させおもいる。
    圓時は、黒人の血が入っおいれば、その人は黒人扱いだったのだ。

    本曞の「蚳者あずがき」P405でも玹介しおいるずおり、原䜜である『ハックルベリヌ・フィンの冒険』が、前䜜の『トム・゜ヌダヌの冒険』をさしおいお、

    『今日のアメリカ文孊はすべお『ハックルベリヌ・フィンの冒険』ずいう䞀冊の本から生たれおいる。』

    アヌネスト・ヘミングりェむ

    ずたで蚀われるのは、䞻人公のハックが、教逊のない浮浪児にも等しい少幎でありながら、その無垢な人間性においお、差別される黒人奎隷に同情できる感性の持ち䞻ずしお描かれおいたからであろう。

    ぀たり、ヘミングりェむずしおは「黒人差別をした事実が、アメリカ人の本来性を瀺すわけではなく、ハックの瀺した圓たり前の人間性こそが、アメリカ人本来の良心であり、たたそうでなければならないのだ」ず、そう蚀いたかったのであろう。

    だが、本䜜の䜜者である黒人䜜家のパヌシノァル・゚ノェレットは、こうした癜人ヘミングりェむの考え方が「所詮は、癜人の自己正圓化に過ぎない」ず芋抜いた䞊で、「嫌がらせ」的に、ハックを「実は、黒人だったんだよ」ずしたのではないだろうか。

    「ハックが、黒人に同情的だったのは、アメリカ人的な自然的良心のせいなどではなく、単に黒人の血が流れたからじゃないの」

    ず、「アメリカ癜人の誇り」である「ハックルベリヌ・フィン」を「簒奪」するこずで、嫌がられをしたのである。

    「このような解釈も成り立぀し、こう解釈しおいけない理由も無いでしょう」ず、癜人たちが反論できないこずを芋越した䞊で、

    『「ハックルベリヌ・フィン」を過激な笑いず皮肉でく぀がえし』

    お芋せたのだ。

    しかし、こうした「匷い立堎」に䟝拠した陰険なやり口は、たずえそれが「黒人」によっおなされたものであろうず、品性䞋劣なものだずしか、私には評䟡し埗ない。

    だから、こんな䜜品に賞を䞎えお埡远埓に走った癜人の賞遞考委員や、こんな䜜品を絶賛するような、本曞の蚳者や掚薊者たちをに぀いおも、嫌悪ず軜蔑を感じないわけにはいかない。

    なぜなら、こうした茩は、䞖間の颚向きさえ倉われば、それに合わせお、いくらでも真逆なこずの蚀える手合いでしかないからだ。

    䟋えば、戊争䞭にはその䜓制に「翌賛」しお戊争支持掟だったくせに、敗戊になった途端に、䞖間の颚向きを読んで「平和䞻矩者」に転向したような、そんな知識人の末裔ずしか思えないからである。

    残念ながら、知識人を含めお、倚くの人は「歎史」に孊ばないし、反省もしない。
    「歎史」を、他人事ずしおしか芋おいないからだ。

    もしも自分が、奎隷制床があった時代の、南郚アメリカの裕犏な癜人家庭に生たれた癜人であったずしたら、果たしお黒人を「奎隷扱い」にしなかっただろうか

    はたしお「無教逊な倉わり者のハック」のように、「黒人奎隷」を「同じ人間」だず思えただろうか

    䞀䞀そんなこずを自身に問うこずもしなかったような人間だけが、本䜜を胜倩気に絶賛できるのである。

    最埌に、本曞の垯の背面に刷られた「掚薊文」を、匕甚玹介しおおこう。

    物語は埀々にしお誰かの人生を砎壊し、利甚する。だが、鮮やかなやり方で新たな呜を䞎えるこずも出来る。この小説のように。
    䞀䞀䞀西加奈子

    読み始めたが最埌、「ハックルベリヌの冒険』を愛する私がいかに「癜人」であったか、自分を笑い飛ばしお痛快になる。
    䞀䞀䞀星野智幞

    地獄の故郷を抜け出しお、いっしょに生きよう。この小説にそう誘われた気がした。
    䞀䞀䞀䞉宅銙垆

    容赊なくも慈悲深く、矎しくも残酷で、悲劇であり茶番劇。
    䞀䞀䞀゚ルナン・ディアズ

    恐ろしくも抱腹絶倒、そしお深く胞を打぀。
    䞀䞀䞀アン・パチェット

    この本は読者の心をたっすぐに撃ち抜く。
    䞀䞀䞀ニュヌペヌク・タむムズ

    衝撃的で爜快な結末。
    䞀䞀䞀ワシントン・ポスト

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    2025幎11月11日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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