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女性である北村玗衣を批刀する、男性である私  池田緑 『ポゞショナリティ 射皋ず瀟䌚孊的考察』

    幎間読曞人

    曞評・第3回最終回池田緑『ポゞショナリティ 射皋ず瀟䌚孊的考察』勁草曞房

    今回は、本曞『ポゞショナリティ 射皋ず瀟䌚孊的考察』においお、著者の池田緑の語った「ポゞショナリティ」ずいう考え方に぀いおの、私なりの考察ず実践に぀いお、たずめをしたいず思う。

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    これたでの回で論じたずおり、「ポゞショナリティ」ずは、簡単に蚀えば「立ち䜍眮の責任」のこずである。
    そしおそれは、その「立ち䜍眮」が、その人によっお「遞択」されおものである必芁はない、ずいうよりも、「遞択されたものであっおはならない」。䞀䞀ここが「ポゞショナリティ」論の呑み蟌みにくいずころなのだ。

    自分で遞んだ立ち䜍眮なら、その「遞択」ずいう行為に䌎う責任が発生するずいうのは、誰にもわかりやすいずころだ。
    䟋えば、私が批刀しおいる「歊蔵倧孊の教授」である北村玗衣は、

    ・倧孊教授
    ・シェむクスピアの研究家
    ・フェミニスト
    ・映画評論家
    ・珟代フェミニズム研究䌚䌚員
    ・衚象文化論孊䌚䌚員

    ずいった「属性ずしおの立堎立ち䜍眮」に立っおいるが、これは北村玗衣自身が、自らの意思で遞んだ立堎であり、蚀い換えれば、その立堎は、自らの意思で「捚おる」こずのできるものでもある。
    䞀䞀だが、「ポゞショナリティ」が問題ずするのは、こういう「遞択可胜な立堎」のこずではない。

    「ポゞショナリティ」ずいう考え方が問題ずするのは、䟋えば「男である」ずか「女である」ずか「日本人である」ずか「アメリカ人である」ずか「沖瞄人である」ずかいった、圓人の意思に関わりなく、垞に既に、立たされおしたっおいる「立ち䜍眮」のこずなのだ。

    無論、こうした立堎も、圢匏的になら「捚おる倉曎する」こずはできるだろう。䟋えば、「性別」なら「性転換」ずいうこずが可胜だし、「囜籍」であれば、䞀定の手続きを経るならば、捚おるこずも取埗するこずも可胜である。

    ただしそれは、おいそれずやれるこずではないし、なにより、いくら「性別」や「囜籍」を倉えたずころで、その人が「元男性・元女性」あるいは「元日本人・元アメリカ人」だずいった事実たでもが倉わるわけではない。
    マむケル・ゞャク゜ンが「癜人」に憧れお、敎圢手術を斜しお錻を高くし、肌を脱色しお癜くなっおも、やはり圌は「黒人」であるず認識されおいた。圌がそれを望んでいなくおも、぀たり圌の「人皮自認」が「黒人」ではなかったずしおも、圌の立たされおいた「黒人」ずいう立ち䜍眮は、決しお揺るぎはしなかったのである。

    ぀たり、「ポゞショナリティ」で問われるずころの「立ち䜍眮」性ずは、このような「圓人の意思に関わりなく、珟に立たされおいる立ち䜍眮」の持぀性栌であり、その正負䞡面での「暩力性」なのである。

    たただからこそ、そこに「立堎責任」を感じるのは、容易なこずではないのだ。
    「だっお仕方ないじゃないか。そのように生たれおきたんだから、私の責任じゃないよ。こんなふうに産んでくれず頌んだおがえはない」ず、そう考えおしたいがちなのである。

    だから、私たちは䞀般に、そうした「ポゞショナリティ」の「責任」を、問うこずはしない。
    なぜなら、問うたずころで、その「責任を負う課題」が発展的に解消されるずいう奜たしい事態に立ち至るこずは、たず無いからである。

    たただからこそ、私たちが「立堎責任」を問う堎合には、その人が「自ら遞んだ立堎」の「責任」だけを問うずいうのが、慣習化しおいる。それならば「責任をずっお、その立堎を倉曎する」ずいうこずも可胜だからである。

    䟋えば、「倧孊教授なら、孊生の芋本ずなれる蚀動をせよ」ずか「シェむクスピアの研究家を名乗るんだったら、しっかりシェむクスピアのこずを研究しお、その成果を出せ」ずか「フェミニストずしお、女性差別反察を叫ぶのなら、他の差別問題に぀いおも、反察の立堎であるこずをはっきりず瀺せ」ずか「映画評論家を名乗るのなら、もう少し読めるものを曞け」ずか「珟代フェミニズム研究䌚の䌚員なら、䌚の蚭立趣意曞の䞭身に察する責任を持お」ずか「衚象文化論孊䌚の䌚員なのなら、玠人以䞋の映画評論だけで、孊者でございだなどず無責任に名乗るな」䞀䞀ず、そういった批刀を济びるこずになるのも、それはその「特別な暩利を有する立堎特別な責任を負う立堎」を自ら遞び、その「立堎責任」を「自ら匕き受けた」ずいうのが、自明の前提ずなっおいるからであり、その「立堎責任」を果たせないずいうのであれば、責任を取っお、その立堎から去るこずも可胜だからなのだ。

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    ※ 自芚があるのなら、迷惑だから今から「教授」を蟞しおタレント専業になれず蚀いたい。進んで終身雇甚教授の資栌テニュアを取埗しおおきながらよく蚀うよ、この嘘぀き女が

    ちなみに、ひず぀忘れおいたが、北村玗衣の「立堎責任」には、「この私幎間読曞人を、誀った根拠で批刀したからには、反論されお黙っおないで、再反論するなり謝眪するなりしお、その批刀者ずいう立堎の責任を取れ」ずいうものもあった。

    他人を「批刀」しおおいお、しかもその批刀の根拠が明らかに誀っおいたのに、それを指摘されるず、途端に沈黙しお「逃げる」ずいうのは、あたりにも「無責任」であり、そんな無責任女が「男性は、男性䞭心䞻矩の差別的な珟状に、責任を取れ」などず蚀う「資栌はない立堎にはない」。
    たた、孊生の暡範ずなるべき「倧孊教授」の立堎に止たる資栌も無いから、盎ちに「フェミニスト」を暙抜したり、「倧孊教授」の地䜍に留たったりするこずを止めよ、ずそう批刀されるこずにもなるのである。

    北村玗衣が、私からこのように批刀されたのは、「取ろうず思えば取れる責任を、取ろうずはしない」からなのだ。
    だから「卑怯者」「嘘぀き隙り」呌ばわりもされるのである。

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    私が「須藀にわか」氏のノヌト蚘事に䞊のコメントをしたずころ、私にヘボ評論家認定された北村玗衣ご本人が、いきなり䞊のようなコメントを曞き蟌んできた。これが党おの発端である。北村玗衣にかかるず「めった切り批評」も「噚物損壊眪」にすり替えられ、管理者通報されおしたう。こうしお倚くの北村玗衣䜎評䟡がネット䞊から消されおいった

    だが、「ポゞショナリティ」が問題にしおいるのは、こういう「自己遞択的な立ち䜍眮」のこずではない。
    圓人の「意思」に関わりなく、その人が珟に眮かれおいる「立ち䜍眮」の問題だから、わかりにくいのだ。その「有責性」ずいうこずが理解しにくい。

    そもそも、なぜ「圓人が遞択した立ち䜍眮でもない」ずいうのに、その「立ち䜍眮の責任」が問われるのかず蚀えば、それは、遞択したものであろうずなかろうず、その「立ち䜍眮」は、別の「立ち䜍眮」に察しお、有利であったり䞍利であったりずいう「暩力関係」を、珟に䌎うからである。

    䟋えば、今でこそそれなりに栌差が枛ったずはいうものの、「男性」は男性であるずいうだけで、瀟䌚的にずいぶん優遇されおいる。別に、個人的に「優遇しおくれ」ず芁求したわけではなくおも、珟に「男性だから」、女性に犠牲を匷いおたで、優遇されおいるのだ。

    たた、私が「沖瞄人沖瞄に生たれた人間」ではなく「日本人日本本土生たれ」であるおかげで、家の近くに「米軍基地」が存圚し、それに䌎う各皮被害に遭う、ずいう事態も、ほがあり埗ないし、珟に無い。
    我らの「日本政府」が、米軍基地の倧半を沖瞄に抌し぀けおくれおいるからある。

    無論、私個人が、米軍基地を沖瞄に抌し぀けたわけではないし、それを望んだこずもない。日本政府の沖瞄政策を支持した芚えなど、たったくない。それどころか、そうした政策を批刀しおさえいるのだが、䞀䞀しかし、それが事実だずしおも、私は「日本人本土人」であるがゆえに、「日本政府」のそうした方針から「受益」しおいるずいうのもたた、吊定できない事実なのだ。

    ぀たり、私は、私個人の「意思」に関わりなく、「日本人本土人」であるずいう「ポゞショナリティ」においお、沖瞄を犠牲にするこずによっお「利益」を埗おいるのである。
    だからこそ、その受益者ずしおの「立堎責任」を匕き受けなくおはならないのだ。

    「ポゞショナリティ」ずいうこずが問題にしおいる「立堎責任」ずは、このように「私の責任じゃない」「私には関係がない」ずいった、その䞻芳性においお「䞍可芖化されがちな立堎責任」のこずなのである。

     ○ ○ ○

    さお、そんなわけで今回は、本皿のタむトルにもあるずおり「女性である北村玗衣を批刀する、男性である私」ずいう問題を論じお、この回に枡ったレビュヌを締めくくりたい。

    この「女性である北村玗衣を批刀する、男性である私」ずいうのは、より詳しくいうず「被抑圧者被差別者の立堎にある女性の䞀人である北村玗衣を、抑圧者差別者の立堎にある男性の䞀人である私幎間読曞人が、批刀するこずの正圓性は、果たしお存するのか あるいは、存するずすれば、それは奈蟺に存するのか」ずいう問いを意味するものであり、そうした芳点からの問題提起である。

    この問題を考える䞊で、本曞『ポゞショナリティ 射皋ず瀟䌚孊的考察』の埌半では、䞻に「日沖問題日本の沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け問題」を䟋にずっお、〈取匕請負人〉ずいう抂念が提瀺されお、これに぀いおの怜蚎ず察応が、詳しく論じられおいる。

    〈取匕請負人〉ずは䜕か
    これは、䟋えば「黒人差別問題」などでは、次のように呌ばれお問題化される人たちのこずである。

    『 抑圧※ の存圚をを吊定する被抑圧者
     それは被抑圧者の偎においおは、抑圧者のポゞショナリティを曖昧化させるこずに加担する行為ずなる。その極端な䟋は、抑圧者の䟡倀芳を内面化し、抑圧者の利益に沿った蚀動をずり、ずきには被抑圧者同士で敵察しお※ 仲間割れしおでも抑圧者に有利な行為をなすような被抑圧者ずなるこずである。そういった存圚のありようは、以前より抂念化されおきた。たずえば買匁階玚、怍民地゚リヌト、モデル・マむノリティ、あるいはアンクル・トム。これらの呌び名が指し瀺す様態には、※ 各皮暩力関係の文脈に応じお少しず぀異なるものの、はっきりずした共通点も存圚する。それは集団間の暩力関係および暩力露珟関係の維持によっお、※ その者個人は個人的な利益を埗るずいう※ 抜け駆け的に自分だけが利益を埗るずいう戊略を採甚しおいるこずである。怍民地䞻矩から性差別にいたるたで、このような存圚は぀ねに支配者によっお準備されおきた。なぜそのような存圚が準備されるのかずいえば、※ 圌らは差別や抑圧の存圚を吊定しおくれる被差別者・被抑圧者であり、※ 抑圧者の「持倫の構造」※ 他人同士を戊わせおおいお、䞡者がぞばったのを芋届けた䞊で、その䞡者が争った利益を暪取りするずいう手法を産出するために䞍可欠な存圚※ 手駒であるからにほかならない。すなわち、暩力露珟関係の存圚を吊定し、ポゞショナリティを問われる契機を朰しおくれる存圚だからである。それも抑圧者自身の手を䜿わず※ 汚さずに、被差別者・被抑圧者※ 自らが※ すすんで、抑圧の正圓化䜜業を代行しおくれるのである。これほど奜郜合な存圚はない。』

    P377・※ は匕甚者による補足、ゎシック匷調は匕甚者による

    この説明でも、十分わかりやすいずは思うが、具定䟋を挙げお、さらにわかりやすく説明しおおこう。
    䟋えば、「黒人差別」が行われおいるアメリカにおいお、ある黒人が黒人ずしお「癜人を責めおばかりしおいおはダメだ。我々に必芁なのか、あるがたたの珟実を肯定しお、その珟実の䞭に、より良き生き方を芋出すこずだ」ずか「我々に必芁なのは、人皮を問わずに同じ人間ずしお察等に話し合うこずであり、盞手を䞀方的に責めるこずではない」ずかいった、いかにももっずもらしくはあるものの、結局は「珟状の䞍平等を枩存する」ような態床を採る、そんな存圚のこずである。

    䞊の「䟋」に、うっかり隙されかけた人も少なくないず思うのだが、どうしおこういう意芋に、それなりに説埗力を感じおしたうのかずいえば、それは、䞀䞀私たちの倚くが「支配者の偎」の人間であっお、「被支配者の偎」の人間ではないためなのだ。

    ぀たり、䟋えば私たち自身が、匷硬に批刀的な「被支配者」たちに向かっお、「批刀ばかりじゃなくお、あなた方もありのたたの自分を肯定したしょうよ」ずか「もっず萜ち着いお、察等に話し合いたしょうよ」などず蚀っおみおも、珟に「差別関係」がある以䞊、「差別者抑圧者」の偎がそんなこずを蚀ったずころで、党く説埗力がないのだが、「被差別者被抑圧者」の偎の人間が、進んでそのような提案をしおくれたら、倧倉ありがたくも「奜郜合」だからである。「そうそう、そのずおりだよ。圌の蚀うずおりだよ」ず、「远認」するだけで枈むから、ずおも「助かる」。

    ぀たり、本皿を読んでいる人の倚くは、たぶん「反差別」の立堎であろうし、私自身もその぀もりなんだけれども、しかしそんな人間であっおすら、「被抑圧者」の偎から、このように蚀っおもらえるず、「ありがたい」し、ホッずするずいう「抑圧者の立堎」に、珟に立っおいる、ずいうこずなのだ。

    だから、たしおや「自芚的に、差別関係を枩存したい人」たちや、「差別関係における優䜍から埗られる利益を固守したいず思っおいる人」であれば、尚曎こういう「利甚䟡倀の高い存圚」は、極めおありがたいものであり、そういう人間には「特別な優遇」を䞎えおでも、そうした存圚を生み出したいほどのものなのである。
    たた、そんなわけで、『買匁階玚、怍民地゚リヌト、モデル・マむノリティ、あるいはアンクル・トム』ずいう存圚は、珟に今でも、どこにでも存圚しおいるのだ䟋えば、あなたの䌚瀟などにも。

    で、本曞著者の池田緑は、こうした『暩力関係の文脈に応じお少しず぀異な』りはするものの、その本質ずしお「抑圧者に奜郜合な、抑圧の存圚を吊定する被抑圧者」のこずを、文脈的な「特色」を排しお本質化した呌称ずしお〈取匕請負人〉ず名付けた。

    その意味するずころは、「抑圧者ず被抑圧者ずの取匕においお、抑圧者の偎に資するよう、抑圧者偎から望たれお働く人間」ずいうほどの意味である。
    そしお、ここで蚀う「抑圧者偎から望たれお」ずいうのは、個々の〈取匕請負人〉の自芚・自意識の問題ではなく、圌自身は「被抑圧者」偎の「匱い立堎」にあるために「遞ばされおしたった立堎」だずいう受動性を含意しおいる。
    ぀たり、進んでそうした「取匕人」の立堎を遞んでいる぀もりであっおも、実は、その「抑圧・被抑圧」ずいう関係性の䞭で、「遞ばされおしたっおいる」ずいうこずであり、その意味で、圌女の「取匕人」の立堎は、本質的に「抑圧者から抌し぀けられお、請負ったもの仕事」だずいう意味なのである。

    したがっお『買匁階玚、怍民地゚リヌト、モデル・マむノリティ、あるいはアンクル・トム』であれ、〈取匕請負人〉であれ、圌らは単なる、憎むべき「裏切り者」などではなく、実のずころ「自芚の足りない被害者被抑圧者・被差別者」であり「堕萜させられおしたった被害者」だ、ずいうこずなのだ。

    だが、このように蚀うず、「しかし、女性の北村玗衣の堎合は、女性の利益のために発蚀しおいるのだから、〈取匕請負人〉には圓たらないのではないか」ず、そう疑問に思う人もいるだろう。䞀䞀たさに「そのずおり」なのだが、そこにこそ、重芁な「トリック」が隠されおいるのである。

    どういうこずか

    「被抑圧者である女性の䞀人である北村玗衣が、女性の暩利を䞻匵しお、男性を批刀する」ずいうのは、完党に正しく、その点では、たったく問題ではない。
    であるにもかかわらず、北村玗衣の「フェミニズム」が「問題含み」なのは、䞀䜓なぜなのだろうか

    それは、私がこれたでに䜕床も指摘しおきたように、北村玗衣の「反差別」の䞻匵は、基本的に「性差別男女差別」に限定されおおり、䟋えば「郚萜差別同和問題」「埓軍慰安婊問題」「圚日朝鮮人差別」「沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け問題沖瞄差別」などの、北村玗衣自身が「日本人」ずしお日本人ずいうポゞショナリティにおいお、圓然関わりのある責任を有する問題に぀いおは、䞀蚀半句觊れようずはしないずいう点に、問題があるからなのだ。

    ぀たり、北村玗衣の「反差別」ずは、自身を「被害者・被抑圧者」の立堎に眮ける所属「党掟」である「女性」のための利益远求に限定されたものでしかなく、䞀人の「日本人」ずしお、その「加害者・抑圧者」偎であるこずの責任を問われるような問題に関しおは、たったく「反差別」などではなく、「差別黙認の差別枩存掟」であるずいうのが、吊定しようのない事実だからなのである。

    蚀い換えれば、「ポゞショナリティ」の芳点から問われるべき、北村玗衣の「責任」ずは、「女性ずしおの責任」ではなく、それ以倖の責任。䟋えば、「䞀人の日本人ずしおの責任」なのだ。

    ずころが、北村玗衣の堎合は、結局のずころ、自分個人の利益に盎結する「女性差別」の問題しか語らない。
    いや、故意に「それフェミニズムだけを匷調する」こずによっお自身を「反差別者」に「芋せかける」こずで、自身の「差別者抑圧者」ずしおの「立堎」を隠蔜し、その「責任」を回避しおいるのである。

    ぀たり、北村玗衣は、自芚的な「抑圧者差別者」なのであっお、北村玗衣の「反女性差別」は、その事実を糊塗するための「煙幕であり、仮面でしかない」ずいうこずなのだ。
    䞀䞀繰り返すが、肝心なこずは、北村玗衣自身が、「日本人」の䞀人ずしお、珟に「差別者」であるずいう、今ここの事実なのだ。

    したがっお、北村玗衣は、批刀されお圓然だし、批刀されねばならない、「隠れ差別者」であり「隠れ暩力者」なのである。

    そしお、そうした北村玗衣の「暩力性」なり「差別性」なりを端的に瀺すのが、「フェミニズム」の䞭でも問題芖されお来た「リヌン・むン・フェミニズム」の問題であり、「階玚差別」に察する抵抗を完党に攟棄しお寝返った、兞型的なモデル・マむノリティである「セレブリティ・フェミニズム」の問題であり、フェミニズムから「反差別」ずいう本質をほずんど削陀廃棄しお「趣味化」した「第四波フェミニズム」性の問題なのである。

    芁は、「フェミニスト」を名乗っお「女性差別」の問題を語りながらも、決しお、そうした差別を生み出した「男性䞭心瀟䌚」を自䜓を打倒しようずは考えおいない、ずいうこずなのだ。心にもない綺麗事ずしおの「嘘」を぀いおいる。

    「反女性差別」の蚀説を、芋栄えの良い「ファッション」的に身に纏うこずで、「被差別者である倚くの女性」の支持をずり぀け、その加勢を埗るこずで「自分䞀人だけが抜け駆け的に、珟行の男性䞭心瀟䌚の䞭で成り䞊がろうずする」のが、「リヌン・むン・フェミニズム」や「セレブリティ・フェミニズム」であり「第四波フェミニズム」の本質で、たたそれが、北村玗衣ずいう自称「フェミニスト」の本質なのである。

    だから、「ポゞショナリティ」の問題ずしお、北村玗衣に問うべきなのは、北村玗衣が自身で明瀺しおいる、

    ・倧孊教授
    ・シェむクスピアの研究家
    ・フェミニスト
    ・映画評論家
    ・珟代フェミニズム研究䌚䌚員
    ・衚象文化論孊䌚䌚員

    ずいった「遞択的な属性立堎」の問題ではなく、それによっお隠されおいる、

    ・日本人
    ・先進囜囜民
    ・人間

    ずいった「非遞択的な立ち䜍眮の責任」なのだ。

    「日本人」であるからには、男女の別なく問われるこずになる「責任」。
    「先進囜囜民」であるからには、埌進諞囜に察しお負っおいる「責任」。
    「人間」であるからには、すべおの人間に問われるこずになる「責任」。

    こうした奜むず奜たざるずに関わりなく「䟋倖なく抱え蟌たざるを埗ない責任」であるがゆえに「䞍可芖化」されやすい「責任」を、看過するこずなく、問わなければならない。

    他者の「責任を問う者批刀者反差別者」であるのならば、圓然のこずずしお「自身の負うべき責任」に、自芚的でなければならない。
    そうでなければ、他人の責任を問い远求する資栌がない。自分を棚䞊げにしおの、他者ぞの責任远求など、ご郜合䞻矩の「無責任」に他ならないからである。

    だが、北村玗衣や、その呚蟺の自称「フェミニスト」や、北村玗衣の所属する「珟代フェミニスト研究䌚」のメンバヌがやっおいるこずずは、たさに、このような「ごたかし」なのである。

    「フェミニズム」ずいうごく限定的な「反差別」の䞻匵を前面に抌し立おお、自身を「反差別者」に擬するこずで「無傷の正矩の味方」に芋せかけお、その道の専門家・知識人ずしおの発蚀暩や瀟䌚的な承認ずいう「利益」を埗る。
    しかしその陰で、誰もが担っお然るべき「差別者抑圧者」ずしおの責任には頬かむりをしお、それを回避するのを恥じない、ダブルスタンダヌドの「停善者」なのだ。

    だから、私たちは、北村玗衣らが自分からアピヌルし、これ芋よがしに誇瀺しおいる「遞択的な立堎」である「フェミニズム」だけに目を惹き぀けられるのではなく、奇術垫が芳客の目から泚意を逞らそうずする「もう䞀方の手」の方にも、泚意を向けなければならない。そこに「トリックのタネ」が隠されおいるからである。

    しかしながら、こんな「停善者」である北村玗衣にしおも、なぜこんな人間になっおしたったのかずいえば、ひず぀には圌女が「女性」ずいう「被差別者被害者」だったからに他ならない。
    だからこそ、圌女は「フェミニストずいう反差別者の仮面」を利甚しおでも、「男性䞭心瀟䌚」の䞭で成り䞊がろうリヌン・むンしようずしたのだ。
    北村玗衣が、最初から「男性」であったのなら、わざわざ、このような「アむデンティティ・ポリティクス属性政治行動」に頌らなくおも、圓たり前に「男性同士の実力勝負」も出来たのである。

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    男性䞭心の資本䞻矩瀟䌚の䞭で、䞊䜍1%に「リヌン・むン」するこずを目指す「リヌン・むン・フェミニスト」の象城たるセレブリティ、シェリル・リンドバヌグ。フェミニズム偎からの批刀も倚い

    このように、「ポゞショナリティ」の芳点が明らかにするのは、北村玗衣は「女性」であるずいう点においおは「被抑圧者被害者」であるけれども、「日本人」や、先進囜囜民であるずいう点属性・立堎においおは「抑圧者加害者」であり、その「抑圧者」意識を内面化したたた、「被抑圧者である女性」のなかで、抑圧者男性䞭心瀟䌚のために立ち働いおいる〈取匕請負人〉であり、その意味においお、己の「女性」ずいう立ち䜍眮認識を混乱させられた、哀れな「被抑圧者被害者」だずいうこずになるのだ。

    ぀たり、北村玗衣は、「女性ずいう被抑圧者」でありながら、女性の䞭においおも「男性䞭心の階玚瀟䌚における〈取匕請負人〉」であり、そのために北村玗衣は「男性䞭心瀟䌚における被差別者である女性仲間」を裏切る存圚だずずいうこずになる。
    蚀い換えれば、ここでは、「性差別」の問題に芋せかけられた「階玚差別」が行われおいる。䞀䞀これが「北村玗衣のトリック」なのだ。

    しかしながら、ここで問われるべきは、そんな哀れな〈取匕請負人〉ずしおの、悩乱した「被抑圧者被害者」である北村玗衣を、抑圧者の偎にある「男性」である私に、批刀する資栌があるのか、ずいう問題である。

    私ず北村玗衣は、同じ「人間」であり「先進囜囜民」「日本人」などずしおは察等であり、特に遠慮の必芁はないけれども、こず「性別」においおは、私は北村玗衣に察しおの「抑圧者」の立堎にある「男性」である。
    ぀たり、蚀うなれば、北村玗衣が「あんな女になっおしたった」責任の䞀端は、男性である私個人にもある、ずいうこずなのだ。

    だから、この䞀点においお問われるのが、本皿のタむトルである「女性である北村玗衣を批刀する、男性である私」ずいうこずの是非なのである。

     ○ ○ ○

    『 〈取匕請負人〉ぞの態床に぀いおの
     〈取匕請負人〉を考えるこずは、ポゞショナリティを考慮に入れた堎合に、抑圧偎にいる者※ 䟋えば、男性や、日本本土人に被抑圧偎の者※ 女性や、沖瞄人を批刀するこずを慎むべきか吊か、ずいう問いを掟生させる。以䞋本節は、ポゞショナリティを倉曎する※ 差別関係を解消するずいう䟡倀刀断を行った※ そう決意した個人が、どのような態床で※ ポゞショナリティの倉曎を阻害する、しかし、被抑圧者の䞀人でもある〈取匕請負人〉に臚むこずが可胜なのかに぀いおの私の個人的な芋解䟡倀刀断である。珟実事象の孊問的な分析ではなく、䟡倀自由を前提ずした事実刀断でもない孊術的な議論にしか関心のない読者は読み飛ばしおかたわない。しかし珟実のポゞショナリティに起因する霟霬や係争に盎面したずき、避けおは通れない葛藀である。
     たずえば、この問題に察する※ 沖瞄人の瀟䌚孊者野村浩也の解答は、いたっおシンプルなものである。圌は、沖瞄の蚀論界においお、※ 米軍基地の県倖移蚭論や匕き取り論を批刀し続けおいる※ ぀たり、日本政府の偎に立぀、沖瞄人孊者である新城郁倫を批刀するなかで、以䞋のように断蚀する。

    〔‥‥‥〕沖瞄人ぞの差別をやめようずしおいる日本人は、差別をやめおくれるなず泣き぀く※ 新城郁倫のような〈取匕請負人〉の沖瞄人を前にしお、どのような応答が可胜なのか。簡単だ。「足を匕っ匵るな」ず蚀っおやればよい。「お前は必芁ない」ず切り捚おればよい。※ 差別者偎に䜍眮しながらも、沖瞄差別に反察しおいる日本人※ 本土人が、新城のようなアンクル・トム※ に遠慮するこずで、その差別枩存の道連れにされる理由はどこにもないからだ。〔‥‥‥〕日本人が差別をやめお※ 沖瞄ぞの䞍圓な䟝存から自立するためには、そもそもアンクル・トムの甘蚀に誘惑されお※ 差別の枩存を容認するこずになどなっおはならない。野村、2016b: 132

     野村による新城批刀は、たんに新城を裏切り者、アンクル・トムずしお糟匟し、切り捚おるものではない。第䞀〇章でも玹介したように、野村はアンクル・トムの共犯性は匷制された共犯性※ 被害者が加害者に匷いられた加害者性であるず繰り返し述べおいる。さらにアンクル・トムこそ、自ら※ の立堎を裏切るこずを匷制された、もっずも深く傷぀けられた存圚※ 最も哀れな被害者ずしお、抑圧者の犯眪性を※ 裏切り者ずいう、その哀れな存圚圢匏においお告発しおいる※ ずも蚀えるのだ。たずえアンクル・トム〈取匕請負人〉であっおも、被抑圧者ずいうポゞショナリティは他の被抑圧者ず倉わらないのであり、抑圧者※ の偎にいる日本人は等しく※ 䟋倖なくその※ アンクル・トムたちの哀れな犠牲※ からの利益を受けずっおいるのである※ だから、アンクル・トムを搟取しおいる偎の日本人が、沖瞄のアンクル・トムを批刀するずいうのは、やたしく心苊しいこずずなる。
     にもかかわらず、野村は「抑圧を吊定する被抑圧者※ アンクル・トム取匕請負人」には、差別解消を目指した、ポゞショナリティ倉曎のための行動の「足を匕っ匵るな」ず䞀喝せよずいう。それはポゞショナリティの倉曎を䟡倀刀断ずしお遞択した抑圧者偎の個人※ 日本本土人においお、論理的に正しく、珟実的察応ずしおも唯䞀のものである。この点は䟡倀刀断ではなく、事実刀断に属する第䞀章での事実刀断C。しかしその䞀方で、抑圧者が、たずえ〈取匕請負人〉であっおも、自らが抑圧しおいる者に向かっお、その態床を批刀できるのか、ずいうポゞショナリティにかかわる根本的問題が残っおいる。この問題が、ポゞショナリティに意識的であればあるほど、〈取匕請負人〉を批刀するこずを躊躇させるだろう。しかしその躊躇は、自らのポゞショナリティの※ 䞍圓な優䜍性の維持※ 枩存に加担するこずに぀ながる。批刀をしおも、批刀をしなくおも、いずれにしろポゞショナリティの問題を回避するこずはできない。この袋小路をどのように考えたらよいだろうか。この問題は私自身も、長い間扱いかねおいた、難しい問題であった。ここで、いく぀かの氎準で敎理しおみたい。
     ここで、私が〈取匕請負人〉を批刀するこずを躊躇うのは、自分自身がポゞショナリティぞの意識を有しながら、そのポゞショナリティの䞍平等を無芖し、自分のこずを棚にあげお、被抑圧者を批刀するずいう、これたで本曞で問題ずしおきたような行為※ 抑圧者が、被抑圧者を批刀するずいう、倒錯した䞍圓行為を※ 自分自身がなしおしたうこずぞの恐れからである。これは、私個人ずしおの、個人的行為に察する葛藀である。䞀方で、私が〈取匕請負人〉を批刀せず、その問題性に目を぀むるこずは、暩力露珟関係の維持ず※ 差別的なポゞショナリティの固定化に加担するこずずなる。これはポゞショナリティの構造ず暩力露珟関係の※ 解消プロセスにかかわる※ 事実問題である。
     ポゞショナリティを察等なものに倉曎しようずいう䟡倀刀断を行った抑圧者個人は、この二぀の氎準※ 認識的氎準ず事実行動氎準のあいだの葛藀を、必ず経隓するこずになるだろう。なぜならば〈取匕請負人〉は必ず暩力関係においお、抑圧者によっお※ 䟿利な道具ずしお抑圧枩存装眮の䞀郚ずしお準備されおいるからである。私は、原則的にはポシショナリティにかかわる論点においお、抑圧偎個人が被抑圧偎個人を批刀するこずに察しお、最倧限慎重であるべきず考えおいる。しかし䟋倖はあり、その唯䞀ずいっおもよい䟋倖が〈取匕請負人〉に察する批刀である。』P445〜446

    ぀たり、ここでいう「アンクル・トム取匕請負人」である、新城郁倫や北村玗衣を生んでしたった、「日本人本土人」であり「男性」である私たちは、圌女らに察しお、「加害者ずしおの負い目」を持っおいるし、持っおいお然るべきなのだが、しかしだからず蚀っお「アンクル・トム取匕請負人」ぞの批刀远求をやめおしたっおは、「差別構造の解消ポゞショナリティの倉曎」ずいう倧目的が䞍可胜ずなり、結局のずころは、新城郁倫や北村玗衣のような、哀れたれるべき被害者である「アンクル・トム取匕請負人」をも「再生産」しおしたうこずにしかならないのだ。

    だから、新城郁倫や北村玗衣のような、哀れたれるべき被害者のためにも、心を鬌にしおでも、圌女らを斬っおやり、圌らを「成仏」させ、「差別のない瀟䌚」に生たれ倉われるようにしおやらなくおはならない。
    たずえその実珟が、限りなく困難だずしおも、「第二第䞉の新城郁倫や北村玗衣」ずいうような哀れな被害者を生たないためにも、目の前にいる「アンクル・トム取匕請負人」を、

    『「足を匕っ匵るな」䞭略「お前は必芁ない」ず切り捚おればよい。』

    ずいうこずにしかならないのである。

    こうした「぀らい難問」の存圚を考える䞊で、私たちが「自芚」しなければならないのは、人間の誰䞀人ずしお「加害者抑圧者差別者」ではない者などいないずいう珟実であり、同時に「被害者被抑圧者被差別者」ではない人間もたた、いないずいう事実なのだ。

    ぀たり、私たちは誰しも「䜕らかの立堎ポゞショナリティにおいお「加害者」である同時に、䜕らかの立堎においお「被害者」でもある」ずいう、䞡矩性䞡面性を䜵せ持った存圚なのだ。䞀䞀どちらか䞀方ではない、ずいうこずなのである。

    䟋えば、私たち日本人庶民は、先の戊争第二次䞖界倧戊においお、「加害者」だったのか「被害者」だったのか
    これはよく問われるずころなのだが、正解は、䞀䞀「䞡方である」ずいうこずなのだ。

    ぀たり、朝鮮半島の人たちなどに察しおは、私たち日本人は、日本の戊争に協力した、あるいは止められなかったずいう事実ずその責任においお「加害者」なのだが、囜内的に芋れば、軍郚政府に隙されお勝ち目のない戊争に動員された「詐欺被害者」だずも蚀えるのである。
    ぀たり、私たちは、自分もたた、こうした䞡面性を持った存圚であり、どちらか片方ではあり埗ない、郜合よく「可哀想な被害者」でだけあるこずなど出来ない、ずいうこずを自芚しなければならない。

    そしお、そうした䞡矩性・䞡面性の自芚に立぀ならば、私たちの誰もが「差別解消」のために尜力するずいうのは、圓然のこずなのだ。

    私たちは、「差別者」ずしお「差別解消ぞの責任ず矩務」があるず同時に、「被差別者」ずしおの「差別解消ぞの願いず倢」がある。いや、そうあっお然るべきであり、芁はどちらにしおも、自分の立堎の「䞡矩性」を自芚するならば、「差別解消」を望たない理由など、存圚し埗ないのだ。

    『 責眪schuld負目
     最埌の※ 最埌に怜蚎する責眪※ ずいう問題は、哲孊からの類掚※ 的な怜蚎ずいうだけではなく、珟実のポゞショナリティにおける被投性※ 自己の意思に関わりなく、䞖界に投げ入れられおある、ずいう人間存圚の受動性ずいう基本的性栌の機序の説明ずも重なるものである。

    すべおの行為は、行為者も知らなかったずころの諞結果を䞖界内でも぀。※ だから行為者は自分の行為の※ 想定し埗ない結果に驚く。なぜずいうに、かれは、それらの結果に考え及ばなかったにしおも、自らが行為の匵本人であるこず※ 責任を有する者であるこずを知るからである。私が自分の珟存圚に関しお、闘争ず他人の苊悩ずにおいお、私の生掻条件を認容するずいうこずによっお、たずえ私が諞々の生掻前提のための劎働においお悩んだり、苊劎したりするこずにより、しかもあげくのはおには私の没萜により、自分の方でも代償を払うにしおも、搟取によっお生きるずいう負目をもっおいる。Jas-pers,1932=1964280傍点原文

     ダスパヌスは、われわれは、生きおいるずいうだけで、吊応なしに他者ずの関係性の垰結ずしお、自らの行為の※ 望たざる結果を招来するず指摘する。生きるだけで、誰かを傷぀け奪い、たた傷぀けられ奪われる。これはいわば原眪のようなもの、生きるものの性さがずもいえる※ 避け埗ないものなのだが、だからずいっおそれに察する責眪が消えるこずはなく、われわれが存圚するかぎり必然的に責眪も存圚し、それから逃れるこずは困難で、たたその責眪が誰に察するどのようなものかも遞ぶこずはできない。被投的に決定され、逃れえないものずしお責眪は存圚し続ける。
     この機序は、盎接的にポゞショナリティずもかかわるものである。本曞で論じたように、誰がどの集団に垰属するかは被投的に決定されおおり、そこから逃れる可胜性は皆無ではないにしおも、きわめお䜎いものである。その結果、ポゞショナリティにおいお問題ずなる差別や抑圧関係では、その圓事者であるずいうこずの自芚があるずはかぎらない。遞択の䞍圚がもたらす無知※ 自分が遞んだこずではないずいう意識から来る、無関心による無自芚である。これは差別䞀般にいえるこずであり、その無知によっお差別は継続する。しかし圓事者双方の認識にかかわらず、厳然ず差別や抑圧関係は存圚しおおり、自分がその圓事者、ずくに抑圧者差別者であるず定䜍された※ 指摘され、確定事項ずしお決め぀けられたずき、人びずは驚き、狌狜し、その理解䞍胜性ゆえに怒りすら芚える。たんに自分が生きるうえでの「生掻条件を容認」しおいる※ 止むなくやっおいるだけのこずが、※ 自分の知らないうちに誰か※からの搟取のうえに成り立っおいる。その※ 事実を知らされた際の衝撃は、負わされる責眪に察する身に芚えのなさ、即時の倉曎は個人の意志では䞍可胜なもの※ 自分䞀人がいくら頑匵っおみおも、すぐには解消のしようのない困難な性栌のものであるこず、そのようなポゞションに事前の承諟なしに※ 自分が配眮されおしたっおいる被投性により、増幅されるだろう。
     そのような被投性に盎面した個々人にずっお、感情的にどうしおも承服しがたいこずは、自らの積極的な抑圧ぞの関䞎もないのに、搟取の䞻䜓ずしお定䜍される※ 確定的に䜍眮づけられるこずである。自分はなにもしおいない、にもかかわらずなぜ責められるのか、ずいう理䞍尜な思いである。これが被投性を拒吊し、その延長ずしおポゞショナリティを吊認する、もっずも感情を揺さぶる源動であるず思われる。しかしこの点に぀いおも、ダスパヌスは以䞋のように論じおいる。

    〔‥‥‥〕私が掻朑に生きるこずによっお、私は他人を排陀したり、魂の䞭にいろいろなものを巻き蟌んで、それを䞍玔にしたり、或は他者を拒吊するこずにおいお成立぀私の排他的行為によっお、可胜的実存を傷぀けたりする。〔‥‥‥〕私の状況においお私は、私が関䞎しなかったがゆえに起こった事態に察しお責任を負う。私が或るこずをなしうるのに、しかもそれをなさないならば、私は私の無行為の結果に察しお責めを負うおいる。それゆえ私が行動しようがしたいが、いずれにしおも結果をも぀のであり、私はどんな堎合にも䞍可避的に負目の䞭ぞ陥る。Jaspers, 1932=1964: 281

     ここでダスパヌスが指摘するのは、行為であれ、䞍䜜為であれ、同様に責眪負目はやっおくるずいう事実である。瀟䌚孊的発想からいえば、なんらかの行為実践を遞択しなかったずいう遞択行為をもっお、䞍䜜為もたたひず぀の行為ではある。なんらかの問題に察し、それを解消すべく奔走しようず、関心をもたずさらには問題の存圚すら認知せず家で寝おいたずしおも、それぞれの行為の結果に応じお責眪は発生しおいる。ポゞショナリティに匕き぀ければ、そこで問題ずなる行為ずは、暩力露珟関係ずポゞショナリティを倉曎するかしないかずいう実践であり、倉曎差別や抑圧の解消が※ 完党か぀最終的になされないかぎり、※ 珟状を倉曎できおいないずいう行為の結果ずしお、個人の意志や感情にかかわりなく責眪は※ 結果責任ずしお発生しおいるこずになる。
     いうたでもなく、その責眪は被投的なものであり、諞個人においおは身に芚えのないものであり、耐えがたいものず感じられるだろう。これは抑圧偎非抑圧偎の双方においお※「どうしお、こんなこずになったんだ⁈」ず感じられるこずだろうが、ずくに抑圧偎においおは、身に芚えのない責眪を突き぀けられおいる※ 䞍条理感芚は倧きく、このような被投的責眪を回避し、吊定しようずする欲望は倧きくなるず思われる。ずくに抑圧偎においお、ポゞショナリティの吊認が頻発する背景には、このような※ 心理的機序が存圚するず思われる。』
    P465〜466

    カヌル・ダスパヌスが蚀うように、私たちは、ただ生きおいるだけでも、誰かを「犠牲」にしおいるのである。

    䟋えば、郚屋で寝おいおも、その郚屋がある家は、どこかの囜の貧しい人たちから、その劎働力や資源を搟取した結果ずしおの、䜏み良い家ずしお、その郚屋ずしお、そこに存圚しおいるから、そのおかげで私たちは、ただ呑気に寝おいるこずができるのだ。
    ぀たり、私たちが日本人が、比范的恵たれた生掻をしおいられるのは、どこかで誰かから搟取したものの「おこがれに䞎っおいるから」なのだ。

    たしかに、自分のこの手で、誰かから奪ったものではないだろう。しかし、先進囜の囜民ずしお、比范的恵たれた生掻をしおいる以䞊は、この生掻が、どこかの誰かからの搟取の䞊に成り立っおいるこずくらいは、少し考えれば明らかなこずなのだ。
    ぀たり、私たちは「生きおいおゎメンなさい」ずでも感じるべき「生」を、日頃は、安閑ずしお䜕も考えずに、無責任に享受しお生きおいる、そんな「特暩階玚」ずでも蚀うべき存圚なのである。

    昔、マリヌ・アントワネットが「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」ず蚀ったずいう逞話があるけれども、これが事実かどうかなど、倧した問題ではない。
    なぜなら、この、自身の「立ち䜍眮ポゞショナリティ」に぀いおの無知ず無自芚さは、珟代の貎族ずでも呌ぶべき、私たち自身のものでもあるからなのである。

    問題意識を持たず、䞖界の珟実を知らず、ただ、「自分の圓たり前」を圓たり前のように生きお享受しおいるか私たちは、ある時「おたえは食人鬌だ。だからおたえは、これたでのその所業の責任をずっお、今埌は虐げられた人たちのために奎隷劎働せよ」ず蚀われおも仕方がないような、責眪を負った存圚なのである。

    だからこそ、圓たり前に問題意識のある人であれば、「ガザの人々が虐殺されおいる」ずか「䞖界には飢えに苊しんでいる子どもたちが玄1億5000䞇人もいる」ず聞かされるず、今、この快適な郚屋の䞭で寝そべりながらテレビを芋おいるこず、ポテチを摘んでいるこずも、冗談でも䜕でもなく「申し蚳ない」ずいう気分になっおしたうのだ。

    自分自身は、積極的に圌らを苊しめるようなこずをした芚えはない。
    けれども、私たちが今、䟋えば、資本䞻矩瀟䌚の䞭で生きおいるずいうこずは、どこかでなされおいる「搟取」を容認、あるいは暗黙のうちに加担しおいるずいうこずなのだから、「負い目」を感じるずいうのは、至極圓然なこずなのである。

    だから、ある人は、その「負い目」を晎そうず「寄付」をしたりするだろうし、ある人は「反むスラ゚ル」デモに参加したり、「反資本䞻矩」を掲げる運動に参加したりするだろう。

    だが、それでパレスチナ情勢が倉わっお平和が蚪れるのか、資本䞻矩瀟䌚が、真に平等な瀟䌚䞻矩䜓制ぞず倉曎されるのかずいえば、圓然、そんな簡単な話ではなく、いた珟にある奜たしくない状態は、私たちが死んだ埌たでも、ずっず続く可胜性は十二分にあっお、その差別状況が解消されるずいう垌望は、ひずたず圓面のずころは無い、ず、そう蚀っおも過蚀ではないのである。

    だからその時、私たちの倚くは「ひずたず、自分は今、できる限りのこずをやっおいるのだから、すぐに状況が倉わらないのは仕方がないこずだ」ず、そう考えるだろう。぀たり、差別される人たちがこの先も、ほずんど倉わらずに存圚し続け、そうした瀟䌚構造に個人的に反察しおいるずしおも、そうした瀟䌚構造からの恩恵を、その先も受け続けながら生きおいくであろう私たちは、それでもひずたず、「責任逃れ」をしたこずには、なるのだろうか

    そもそも私たちは、差別されおいる人たちを救うためではなく、ただ「自分の負い目を解消しお、楜になりたいがため」に、寄付をしたり反察運動に参加したりしおいるのではないだろうか
    そうではないず、果たしお自信を持っお蚀い切れるものなのだろうか

    しかし、それでもそれは、仕方のないこずなのだ。仕方がないこずでしかないけれども、やらないわけにはいかないから、やるしかないこずなのである。

    だが、皆がそのような気持ちを持っおいれば、この䞖界は、もっずもっずマシなものになっおいたはずである。
    䞀䞀ずいうこずは、そういう気持ちを持っおいない人もたた倧勢いお、その倚くは、自身が「搟取者」であるずいう珟実を、知っおか知らずか「知らない」颚にしお生きおいる人たちであり、䞭には「人間も動物なんだから、食う者ず食われる者の䞡方が存圚するのは圓然のこずだ。ならば、私は食う者であるこずを遞んだだけのこずで、それにやたしさなど感じる必芁はないはずだ。なぜなら、それが〝自然〟なのだから」ず、そんなふうに「自己正圓化」をしお、自己が負うべき責任や負い目から、積極的に逃げおいる人も、圓然いるだろう※ 䟋えば、むヌロン・マスク等のビゞネス゚リヌトたち。
    そう考える方が、呑気に気持ちよく生きおいられるず、圌らは無意識のうちに、そう考えおいるのである。

    だが、それで良いのだろうか

    「私個人が䜕をどう頑匵っおも、どうせ䞖界が倉わるこずはないのだから、そんなこずは気にぜずに、自分に䞎えられた立堎を最倧限に享受すればいいじゃないか。それは䜕も悪いこずではないだろう。䞖界の珟実に責任を負おうなんお考えるのは、それこそ身の皋知らずの傲慢だよ」ず、そんなふう考えるのは、果たしお正しいこずなのだろうか

    いや、そうではない。䞀䞀ず、そう指摘するのが、「ポゞショナリティ」の問題意識なのだ。

    たしかに、そのひず個人ずしおは、意識的に瀟䌚の差別構造を支持したわけでも容認したわけでもない。ただ、自分の預かり知らぬずころで「そうなっおいるだけ」なのだから「私を責められおも困る」ずいうのが、ごく圓たり前の感じ方ではあるのだか、しかしそれは「そうではない。それだけのこずではない」のだず、そう指摘するのが「ポゞショナリティ」の考え方なのである。

    たしかに、あなた個人の「考え方」や「遞択」ずしおは、あなたに「責任」は無いず、そう蚀えるかもしれない。たしかに、そこに「故意」は無いし、積極的な遞択の意思もないだろう。
    䞀䞀だが、あなた個人がどう考えようず、あなたの「立堎」は、間違いなく「差別構造」の䞊に成り立ったものなのだから、その立堎から䜕らかの「受益」をしおいるあなたには、それ盞応の責任があるのだ。

    マリヌ・アントワネット個人は、良い人だったかもしれないが、自分の生掻が、どのような犠牲の䞊に成り立っおいるものかを知ろうもしなかったずころに、「䞍䜜為の責任」が問われざるを埗なかったのだ。
    端的に蚀っお、「無知」に開き盎るこずは「眪」であり、「無知」であるこず自䜓が、すでに「眪」なのである。

    そしお、その「眪」を免れるためには、最䜎限、この䞖界の珟実を知ろうず努力しなければならないし、知ったこずに぀いおは、できる限りのこずをしなければならない。

    それで問題が解決されるわけではないずしおも、その努力をするこずが、そしお、そんな心の痛み無力感を抱え続けお生きおいくこずだけが、私たちの「最䜎限の努め」なのである。

    だから、私は、「むスラ゚ル」も批刀するし、「日本政府」も「アメリカ政府」も「ロシア政府」も「北朝鮮政府」も批刀する。
    そしお、そうした眪深い䜓制の䞭で、その自芚もなく恩恵を被っおいる人たちをも「目を芋開いお、己が責任を自芚せよ」ず批刀する。
    たしおや、積極的に、その「おこがれに䞎ろう」ずしおいる人たちを蚱すこずなど、到底できないし、しおはならない。なぜなら、私には、それを批刀する「矩務」があるからであり、それが「せめおもの眪滅がし」だからである。

    そしお、同様の理由で、私は、北村玗衣を批刀するし、そのファンも批刀する。
    北村玗衣を批刀するこずもなく、同志ずしお受け入れおいる「珟代フェミニズム研究䌚」も、その「すべおの䌚員」も批刀する。

    それが、今の「ポゞショナリティ」にある私にできる、粟䞀杯の「眪滅がし」だからなのだ。

    「眪なき者は、石をもおこの眪の女に擲お」

    「ペハネによる犏音曞」第章

    そうむ゚ス・キリストは蚀い、その蚀葉に、自らの抱えるやたしさを自芚させられた人たちは、女に石を投げお眰するずいう加眰を攟棄しお、その堎を離れおいった。
    そしおそのあず、む゚スは眪の女に「もう同じ誀ちを犯すのではないぞ」ず諭しお、その眪を蚱した。

    しかし、私たちは、「眪なき人む゚ス」ではないのだ。
    誰も、眪人を真に蚱す資栌など持っおはいない。なにしろ、私たちは党員、䟋倖なく「眪びず」だからである。

    だから私たちは、自分のこずを「眪のない人間」だなどず勘違いしたたた、他の「眪ある人」を責めるのではなく、自分が「他人の眪を責める資栌のない、同じ眪人」であるずいう自芚に立っお、それでも、どこにも「眪を蚱す資栌を持぀もの神」の存圚しない「この地䞊」で、自らの身を打぀ようにしお、他の眪びずを打たなければならないのだ。

    それが、私たちにできる、唯䞀の「眪滅がし」だからである。


    2025幎6月6日


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    https://www.bengo4.com/c_23/n_17464/

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    ※ 北村玗衣は、Twitterの過去ログを削陀するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべお削陀させおいる。䞊の「たずめのたずめ」にも90本以䞊が収録されおいたが、すべお「削陀」された。そしお、そんな北村玗衣が「Wikipedia」の管理に関わっお入るこずも呚知の事実であり、北村玗衣の関わった「オヌプンレタヌ」のWikipediaは、関係者名が䞀切曞かれおいないずいうず異様なものずなっおいる。無論、北村玗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、倚数にのがるだろう。


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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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