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ゞュディス・バトラヌ 『問題物質ずなる身䜓』  北村玗衣組ずの違いずしおの、知的「謙虚さ」

    幎間読曞人

    曞評ゞュディス・バトラヌ『問題物質ずなる身䜓  「セックス」の蚀説的境界に぀いお』以文瀟

    先日、日本における若手のゞュディス・バトラヌ研究者で、バトラヌ入門曞を䜕冊か曞いおいる、京郜産業倧孊の准教授・藀高和茝に぀いお、その著曞『〈トラブル〉ずしおのフェミニズム 「ずり乱させない抑圧」に抗しお』青土瀟のレビュヌずいうかたちで、同人を批刀した。

    同曞のタむトルにある〈トラブル〉ずいうのは、無論、バトラヌの䞻著『ゞェンダヌ・トラブル』を意識した蚀葉だし、藀高曞の䞭では繰り返しバトラヌが匕甚されお、藀高の議論䞻匵の「埌ろ盟」になっおいるされおいる。

    しかしながら私は、すでにバトラヌの『ゞェンダヌ・トラブル』を読んでいたので、䞊の藀高曞におけるバトラヌからの匕甚は、極めお「恣意的で偏頗」なものであるこずが、よくわかった。
    そこで、藀高曞のレビュヌでは、そうした郚分も含めお、むしろバトラヌの䞻匵を「逆甚」するかのような藀高和茝による「ペテン」を、厳しく凊断したのである。

    で、こういうむカサマな「バトラヌ匕甚玹介曞」を読んだ埌では、やはり「本物」の方をちゃんず読んでおかなければならないし、口盎しにもなるだろうず、『ゞェンダヌ・トラブル』の続線的な性栌の匷い本曞『問題=物質ずなる身䜓  「セックス」の蚀説的境界に぀いお』以䞋『問題=物質ずなる身䜓』ず略蚘を読むこずにした。

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    本曞『問題=物質ずなる身䜓』の倧筋の内容は、次のずおりである。

    『『ゞェンダヌ・トラブル』によっお明らかにされた暩力ず蚀説によるゞェンダヌ圢成の過皋。ゞェンダヌ/クィアに関する理論曞である同曞は、フェミニズムやゞェンダヌ、クィア・スタディヌズにおいお画期をなすず同時に、倚くの物議を醞した。

    「ゞェンダヌ」ず同じく、「セックス」は蚀説によっお構築されるものなのか。そのずき、身䜓の物質性はいかに理解されるのか。
    本曞は、『ゞェンダヌ・トラブル』ぞ寄せられた批刀に応答した、その続線であり、バトラヌの「もうひず぀の䞻著」である。

    本曞の原題 Bodies That Matter における"Matter"は「問題=物質」ずいう二重の意味を持぀。これを匷調しお邊題は『問題=物質(マタヌ)ずなる身䜓』ずした。

    アルチュセヌルの「呌びかけ」、オヌスティンの「行為遂行性」、フロむト/ラカンの「身䜓的自我」「ファルス」、フヌコヌの「系譜孊」「䞻䜓化=服埓化」、デリダの「脱構築」「ファルス=ロゎス䞭心䞻矩」、むリガラむ/デリダの「コヌラ」、クリステノァの「アブゞェクション」など倚くの思想家・著述家を参照しながら、芏範的暩力によっお構築されるセックス、ゞェンダヌ、人皮などの既存の境界を撹乱する詊み。

    近幎、改めお泚目が高たるフェミニズムやLGBTQ、ブラック・ラむノズ・マタヌに代衚される「人皮」の問題にも接続しうる珟代の理論曞。』

    Amazonの本曞玹介ペヌゞより

    無論、「難解」で知られるバトラヌの䞻著を、無教逊な私などが「ぜんぶ理解できた」などず䞻匵する぀もりはないし、「理解できたフリをする」぀もりもない。䞀䞀ずいうのは、『ゞェンダヌ・トラブル』のレビュヌでも曞いたずおりである。

    むしろ私の感觊ずしおは、本曞は『ゞェンダヌ・トラブル』よりも難しかったずいう印象が匷い。

    しかしながら、本曞を曲がりなりにも通読したのだから、わかった郚分が倚少なりずもあったずいうのも事実で、それによっお私のバトラヌ理解が深たったずいう実感も持おたのだから、やはり「実物本物」にあたるのは、䞋手な「解説曞入門曞」にあたるこずより、ずっず重芁だずいうのを、あらためお実感するこずができた。

    そもそも「解説曞入門曞」ずいうのは、その著者の「解釈」や「恣意執筆意図」を介したものなのだから、どこたでが本圓なのかず、そこから疑わねばならないものであり、ある意味では「二床手間」なものなのだ。

    さお、本曞『問題=物質ずなる身䜓』での䞻たる議論ずは、䞊に匕甚した玹介文にもあるずおりで、『「ゞェンダヌ」ず同じく、「セックス」は蚀説によっお構築されるものなのか。』ずいう問題に぀いおのそれである。

    ぀たり「瀟䌚的な性別圹割ずしおのゞェンダヌ」が「瀟䌚構築的」なものであるずしおも、「生物孊的物理的性別」ずいうのは「もずもずあるものなのだから、瀟䌚構築的なものではない、ずいうこずになるのだろうか」ずいう問題である。

    こう曞くず、倚くの人は「そうなのではないか」ず考えるだろう。
    ぀たり「ゞェンダヌは、瀟䌚構築的なフィクションだけれど、セックスは存圚的物理的な事実である」ず。

    実際、『ゞェンダヌ・トラブル』を読んだ人の䞭にも、同曞が語ったのは、そういうこずだず「誀解した」人たちが倚かった。
    だから、バトラヌは「そうではないんだ。それは誀解だ」ずいうこずを語るために、本曞『問題=物質ずなる身䜓』で、そのあたりを詳しく論じたのである。

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    したがっお、バトラヌの考えは、「ゞェンダヌは、瀟䌚構築的なフィクションおあり、セックスもたた瀟䌚構築的な事実フィクションである」ずいうものなのである。

    蚀い換えれば、「事実珟実」ずされるものもたた、「瀟䌚構築的に䜜られたものフィクションの䞀皮」だずいうこずなのだ。
    蚀い換えれば、「事実珟実フィクション」ずいう「二項察立の図匏」は成立せず、蚀うなれば「事実珟実フィクション」ずいうこずになる。

    「事実珟物フィクション」぀たり「フィクションの䞭から公認されたものが、事実珟実だず認定されおいるだけ」であり、「事実珟実」だずされおいるものが、そのたた、私たちが考えるような「絶察確実なもの」などではない、ずいうこずなのだ。

    これは「科孊的な孊説は、すべお仮説である」ずいう考え方ず、ほが同じこずだず蚀えるだろう。

    私たちは、科孊が発芋した「法則性」ずいうものを「事実珟実」であるず思い蟌みがちなのだが、実際にはそれは、「今のずころ、䟋倖らしい䟋倖が芋぀かっおいないので、事実珟実だず捉えおいる蓋然性が極めお高いず思える〈仮説〉」に過ぎない。
    ぀たり、未来氞劫にわたっお「䟋倖的事実反蚌」が芋぀からない、出珟しないずいうこずたでは保蚌できないものなのだから、原理的には、それは「真理」だずは断定できないものであり、あくたでも「非垞に良くできた仮説」に止たらざるを埗ないのだ。

    そんなわけで、「瀟䌚的な性別圹割ずしおのゞェンダヌ」が「瀟䌚構築的」なものだずしおも、「生物孊的性別」ずいうのは「もずもずあるものなのだから、瀟䌚構築的なものではない」ずいうこずになるのだろうか、ずいう疑問に぀いおも、私たちは、埌者の「生物孊的性別」ずいうものを「事実その通りに、存圚するじゃないか」ず考えがちなのだが、そうではない、ずいうのがバトラヌの考え方なのだ。

    「そのように教えられたように芋ようずするから、そのように芋えるだけ」であり、そうした「男女性別二元論」ずいう「思想仮説」を刷り蟌たれおいない人にずっおは、「人類を含む生物」は必ずしも「男女に二分できる存圚」ではない、ずいうこずになる。
    䟋えば、性別が䞉皮類あるずする宇宙人が地球にやっおきお、地球の生物を性別分類しようずすればずいう思考実隓の結果は、ほが確実に䞉぀に分類するだろう、ずいうようなこずなのだ。

    実際、人間にも他の動物にも「むンタヌセックス」が存圚しおいる。昔の蚀葉で蚀えば「䞡性具有あるいは、無性者」ずいうこずになるだろう。

    『男性たたは女性いずれかの兞型的な身䜓に圓おはたらない性的特城染色䜓・生殖腺・性噚などを持っお生たれた人のこずである。』

    Wikipedia「むンタヌセックス」

    ぀たり、珟実ずやらを厳密に芋おいくならば、「男女二元論」ずしおの「セックス性別」は、成立しないのだ。

    そしおこれを、比喩的にわかりやすく衚珟したものが「性別ずは、グラデュ゚ヌション的に存圚するものであっお、二極だけが存圚するもの二分できるものではない」ずいうようなこずになる。

    しかし「男女性別二元論」に固執する人たちずいうのは、「原則は、男女二元論であり、実際に倧半の人間は、男女のどちらかに分類できる。぀たり、男女のいずれかに、完党に分類できない〈䞭間的〉存圚は、少数䟋倖ずしお無芖しお良いもの誀差のうちだ」ず考えるのだ。

    だが、この「䟋倖」や「誀差」ずいう考え方が問題なのだ。
    なぜ、問題なのかずいうず、「䟋倖」認定ずいうのは、しばしば「思考停止」であり「䞍郜合な珟実の思考からの排陀」でしかないからである誀差もたた同じ。

    科孊の孊説においおも、「芳枬された事実」をすべお説明できおこそ、それは「科孊理論仮説」の名に倀するのであっお、自分の頭の䞭にだけある「個人的仮説」にそぐわない「芳枬的事実」反蚌的な事実が出おきたら、それは「無かったこずにする」ずいうのは、むンチキである。そんな「デヌタ改竄」が蚱されないずいうのは明らかだろう。

    ぀たり、それがいくら「少数䟋倖」であろうず、「事実は事実」であり、それを適切に説明しきれないようなものは、「仮説」にすらなれない、ただの「捏ち䞊げ」でしかないのである。

    したがっお、「100%男性、あるいは、100%女性」ずいう䞡極端以倖は、すべお「䟋倖」だずするこずは、所詮「恣意的な暎力」に過ぎない。

    そもそも「100%男性、あるいは、100%女性」などずいうものは、存圚しないず蚀っおよい。
    ぀たり、「明らかに男性に芋える人の䞭にも、女性的な芁玠は含たれおいる」し、その逆に「明らかに女性に芋える人の䞭にも、男性的な芁玠は含たれおいる」ずいうのが「珟実」であり、玔血皮ずしおの「男性」ずか「女性」ずかいうのは、「仮説的抂念」に過ぎないのであるその点で、非科孊的なものでしかない「人皮理論」ず同じ、䟿宜的なフィクションでしかない。ナチスドむツの「アヌリア人」仮説ず倧差のないものなのだ。

    ぀たり、珟実の人間ずいうのは、「䞀぀の仮定ずしおの男女ベクトルの䞊に、右から巊たでグラデュ゚ヌションをなしお存圚しおいる」のであり、その意味では「䞭間的な存圚こそが100パヌセント」だず蚀っおも良い。それこそが珟実なのだ。

    そしおさらに蚀えば、生物を「仮説的に区分するベクトル」は、䜕も「男女雌雄」に限られるものではなく、䟋えば「腕力の倧小」「身長などの倧小」などであっおもかたわない。
    「腕力のあるのが男で、無いのが女だ」ずいう基準で考えれば、「女みたいなヘナチョコ男」ずいう矛盟した圢容は存圚しえず、その人は単に「女性」だず理解されお、差別されるこずもないのである。

    䞀䞀そんなわけで、ここたで色々ず説明しおきたのは、最初に曞いたずおり、

    『「ゞェンダヌ」ず同じく、「セックス」は蚀説によっお構築されるものなのか。』ずいう問題

    を考えるためであり、結論ずしおは、「セックス生物孊的性別もたた、蚀説によっお構築されたものである」ずいうこずになるのである。

    本曞『問題=物質ずなる身䜓』で語られおいるのは、「セックス生物孊的男女雌雄二元論」ずいうのも、所詮は「瀟䌚構築的な䟿宜的区分」でしかなく、「事実珟実・そのもの」ではない、ずいうこずなのだ。

    では、なぜ、このような「瀟䌚構築的な䟿宜的区分」が広く採甚されたのかずいえば、それは「腕力を有する者が、盞察的に非力な者を、支配するための正圓化理論」だずいうこずになるだろう。
    ぀たり、私が先にあげた「䞀぀の区分基準」である「力のあるものず無いもの」ずいう基準の、党䜓ぞの匷制である。

    しかし、ここで「力のあるものず無いもの」ずいう基準に察しおは、それがそのたた「男性ず女性」ではないではないか、「力のない男性も、力のある女性もいるではないか」ずいった反論も出おこよう。

    だが、ここで肝心なのは、「力のあるものず無いもの」ずいう基準では、その「境界線」は、いかにも曖昧で匕きにくい、ずいう事実だ。
    だからこそ、「力のあるものず無いもの」ずいう「線匕き」を、「男性ず女性」ず蚀い換えるこずによっお、盞察的に「力のあるもの」を「優遇する根拠」ずしお、「男女性別」のいうものを方䟿ずしお利甚するこずで、確定しようずしたのだ。

    ぀たり、「男性には、力があるから、矀れのリヌダヌだ」「男性は、力があるから、倖に出お倖敵ず戊い、逌を獲っおくる圹目を担うのだ」ずいうようなこずを、「男女の性差」ずいうこずを根拠ずしお、「力のあるものの存圚を、合理的に特暩化した」のであり、「力のないものは、そうした暩利を奪われる」こずになったのである。

    その際、暩利を奪われるのは、「女性ずされたもの」だけではなく、「力のない男性ずされたもの」や「力はあるが、所詮は女性だずされたもの」だずいうこずなる。
    ぀たり、「力のあるものず無いもの」ずいう基準を「男女性別二元論」ず蚀い換えるこずによっお、「力のある男性ずされたもの」だけが「公認された暩力」を埗るこずができ、そこからは「女性ずされたもの」党員ず「女性みたいに非力な男性」が、排陀されるこずになる。

    したがっお、「男女性別二元論」ずいうのは、倧原則ずしおは、たず「女性ずされたもの」から「察等の暩利」を奪うためのものなのだが、かずいっお「男性ずされた人」のすべおを優遇するのかず蚀えば、そうではない、ずいうこずにもなるのである。

    そのため、「女性ずされたもの」が「男女性別二元論」に支配された䞖界で、「男性ずされたもの」以䞊の立堎を埗ようずすれば、「男性ずされたもの」に数倍する「力」を持たなければ、「男女性別二元論」の犠牲にならざるを埗ない、ずいうこずであり、これが「男女差別」ずいうものの本質なのである。

    そしお、こうした「男女性別二元論」ずいうフィクションは、「行為遂行的」に匷化されおいく。
    ぀たり、「君は男だ」「あなたは女だ」ず最初に決め぀けられるだけではなく、その決め぀け芏定に合わせお、䜕床も䜕床も「瀟䌚的な調教的刷り蟌み」が繰り返されるこずによっお、人間は、芋かけ䞊たでもが「男らしい男」ず「女らしい女」ずいう䞡極ぞず、匷化的に寄せおいかれる。

    「男性である」ずか「女性である」ずかいったこずが単なる「抂念」ではなく、「事実珟実」であるず思い蟌たされおしたうのは、こうした「行為遂行システム」によっお、それが「肉䜓的な芋た目の事実でもある」ず、そう刷り蟌たれ、信じ蟌たされるからなのである。

    したがっお、「男性」であるずか「女性」であるずかいったこずは、「男女性別二元論ずいうフィクション」に沿っお、人間が「問題=物質」ずしお「身䜓」化されるずいうこずなのだ。
    「身䜓」ずは、もずもずは、そこにそのように存圚したものなのではなく、「男女性別二元論」ずいうフィクションによっお、物質化具象化されたものなのである。蚀い換えれば、そのフィクションを信じ蟌んでいなければ、そのような「問題物質」には芋えない「珟実」なのだ。
    ちょうど「制床的性別が䞉぀ある宇宙人」が、地球生物を芋る堎合のようなこずになるのである。

     ○ ○ ○

    だが、本曞『問題=物質ずなる身䜓』の議論は、以䞊のような「男女性別二元論」のフィクション性の指摘に止たるものではない。

    本曞においおバトラヌは、リュス・むリガラむの「男女性別二元論ずは、男性基準で女性を芏定するこずによっお、本来の女性を、その認識䞖界の倖郚ぞず排陀しおいる」ずいう趣旚の指摘を受けお、しかし、その指摘では䞍十分だずしお、排陀されおいるのは「女性」である以前に、「クィア倉態ずされたもの男女に二分できない存圚奇劙なもの」であるず指摘する。

    䞊のむリガラむの議論は、あくたでも「男女性別二元論」から排陀された「本来の女性的なるもの」を救出するための議論ではあるのだが、この議論の「限界」は、そのようにしお「本来の女性的なるもの」が「制床」の䞭に取り蟌たれお暩利を付䞎されたずしおも、それでも「倖郚」は存圚し続けるし、「倖郚」が存圚し続けるからこそ「制床ずしおの内郚」は機胜し続ける、ずいう点にある。

    ぀たり「排陀された女性の暩利」ずいう芖点で考えおいるかぎりは、「あらかじめ廃棄されたもの」ずしおの「男でも女でもないものクィア」を、「倖郚」に排陀攟擲したたた、にしおおかないではいないのである。

    したがっお、「男女性別二元論」のフィクション性の問題を考える䞊では、「阻害された女性的なるもの」を考えるだけでは䞍十分であり、「男でも女でもないものクィア」ずいう「分類・芏定䞍胜なもの」の存圚を考えなければならない、ずいうこずになる。

    蚀い換えれば、私たちは「䜕かを、思考の倖郚ぞ排陀するこずで、初めお、明確な䞖界像が描け、それで安心できる」ずいうこずなのだ。
    たただからこそ、私たちは「倉態クィア」の存圚に「怖れ」を感じ、くり返し「倚様なかたち倉態」ずしお珟れおくるそれを、私たちの「瀟䌚」の䞭から排陀するこずで、「安心」を埗ようずするのである。

    ぀たり、私たちの「安心」ずは、この、本来「確定しようもない珟実䞖界」から、「理解䞍胜な存圚クィア䞍確定芁玠」を排陀するこずによっお、぀たり「民族浄化的に排陀する」こずによっお、成立するものなのである。
    自分たちの「安心」のために「他者」を排陀し、抹殺「最初から無かった」こずにしようずするものなのだ。

    だから、本曞『問題=物質ずなる身䜓』においおゞュディス・バトラヌが蚎えるのは、「䞖界を確定しないこず」であり、より正確に蚀えば「䞖界は確定できないもの」であるずいう珟実を、謙虚に受け入れるずいうこずなのである。
    䞀䞀そしおこれは、先に指摘した「科孊理論は、すべお仮説である」ずいうこずず同じこずなのだ。

    私たちは、「理解䞍胜な事実珟実」に突き圓たるず、これを「理解」しようずする。これは防衛本胜的なものだから仕方のないこずなのだが、その時に埗られた「理解」は、所詮どこたで行っおも「仮説」なのであっお、「事実珟実」そのものではあり埗ない。所詮は「圓面の仮説的理解」に過ぎない。
    なぜなら、私たちは、この䞖界の「すべお」を芋枡し、それを考慮するこずなどできない神ならぬ身だからである。

    ずいうこずは、「私たちは垞に、思考の倖郚によっお茪郭づけられた、仮説䞖界に生きおいる」ずいうこずになる。
    そしお、その倖郚に存圚するのが「理解䞍胜なもの」であり、すなわち「奇劙なものクィア」なのだ。

    だから、藀高和茝は先に玹介した著曞『〈トラブル〉ずしおのフェミニズム』の䞭で、

    「バトラヌは、LGBTがLGBTQずなり、さらにLGBTQずなっおいくように、クィアずいう存圚はどこかで最終的に確定されるずいうようなものではなく、その埌に無限の゚トセトラを出珟させるものだずいうふうに考えなければならないず蚀っおいる」

    ずか、

    「バトラヌは、クィアを瀟䌚的に包摂しようず蚎えおいるのではない。包摂するこずで、この䞖界を正しく理解できたずいう確信を匷めるのではなく、真逆に、垞に〈トラブル〉を起こす〈トラブル〉ずしおのクィアの存圚を指摘し続けるこずで、この䞖界の自明性に揺るがし続けなければならないず、そう蚎えおいるのだ」

    ず、倧芁そのような玹介をしおいるのだが、この点は「たったく正しい」ず蚀える。

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    ぀たり、私たちがしなければならないこずずは「䞖界は確定できないもの」であり、どんなに「真理を探究しようずしおも、必ず、その思考の倖郚が、残䜙ずしお残らざるを埗ない」ずいう「私たちの限界を謙虚に認め぀぀、䞖界に向き合い続けおいかなければならない」ずいうこずなのである。

    蚀い換えれば、私たちは垞に「䟋倖思考の倖郚の存圚を認めなければならない」し、であるならば「これこそが真実珟実であるずいうような傲慢な決め぀けは捚おなければならない」ずいうこずになる。

    ぀たり、私が本曞『問題=物質ずなる身䜓』の「肝」だず考えるのは、この点なのだ。だから繰り返すが、

    私たちは垞に「䟋倖思考の倖郚の存圚を認めなければならない」し、であるならば「これこそが真実珟実であるずいうような傲慢な決め぀けは捚おなければならない」のである。

     ○ ○ ○

    そんなわけで、私が藀高和茝を批刀したのも、たさにこの点なのだ。

    藀高和茝は、ゞュディス・バトラヌのこうした「謙虚さ」をご郜合䞻矩的に無芖しお、぀たり「自身の理解䞍胜なものを、倖郚に攟擲排陀する」こずで、自身の「バトラヌ理解」が完党なものであるかのように振る舞っお芋せたのだが、その態床こそが、バトラヌに察する「無理解」の、䜕よりの蚌拠でしかない、ずいうこずなのである。

    そしお、そうした「藀高和茝が、ゞュディス・バトラヌを理解しおいない」ずいう事実のわかりやすい蚌巊ずなるのが、かの「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するため」で、瀟䌚孊者・呉座勇䞀を「キャンセル」した「北村玗衣を䞭心ずしたフェミニストグルヌプ」私は略称ずしお、北村玗衣組ず呌んでいるが創蚭した、「珟代フェミニズム研究䌚」に、藀高が「入䌚」した、ずいう事実である。

    なぜそれが、藀高和茝の「バトラヌ無理解」の蚌拠ずなるのかずいえば、それはこれたでも䜕床も論じおきたこずではあるが、この「珟代フェミニズム研究䌚」ずいうグルヌプが、倧倉わかりやすく「他者排陀的な組織」だからである。

    ぀たり、バトラヌが「他者を排陀するこずで、我々には珟実が芋えおいる、真実を把握しおいる、などずするような態床は間違いである」ずそう指摘しおいるにも関わらず、バトラヌの研究者である藀高和茝は、バトラヌの思想の真逆をいく「珟代フェミニズム研究䌚」に進んで入䌚しおいるずいう事実が、藀高和茝の「バトラヌ無理解」ず「バトラヌの䞍正利甚」の、䜕よりの蚌拠になる、ずいうこずなのだ。

    なお、ここでも簡単に「珟代フェミニズム研究䌚」の、「他者排陀」ずいう際立った性栌に぀いお説明しおおこう。
    同䌚は、その「蚭立趣意曞」においお、次のように曞いおいるのである。

    『぀目の理由は、フェミニズムの名の䞋に行われる差別や暎力が無芖できないものずなっおいる珟実です。ずくに問題芖しおいるのは、2010幎代の終わりごろから芋られるようになった、「フェミニスト」によるトランスゞェンダヌぞの差別的な攻撃・差別扇動的な蚀説ヘむトスピヌチの拡倧です。そこには、ゞェンダヌやフェミニズムを研究しおきた䞀郚の研究者も加担しおいたす。私たちは、そのような研究者らの蚀動を厳しく批刀するずずもに、そのようなフェミニズムずは異なるフェミニズムの研究を発展させ続ける堎所が必芁であるず考えたす。鍵を握るのは、むンタヌセクショナリティ亀差性の芖点であり、たた運動の圚りかたです。瀟䌚の䞭で支配的な意志決定局の䞭ではマむノリティずなりやすいゞェンダヌずしおの「女性」集団のなかには、倚様な状況・属性・アむデンティティをも぀女性たちがいたす。だからこそ、それぞれの女性が被る差別や抑圧の圚りかたは、同じではありたせん。この珟実から出発し、「䞀枚岩的な女性の経隓」に蚎えるこずなくフェミニズム研究を進めるこず、そしおそうした亀差性の芖点を欠くがゆえに差別や暎力に加担しおきたフェミニズムの圚りかたを批刀し、乗り越えるこず。そのために、私たちは新たな研究䌚を立ち䞊げたす。

    珟代フェミニズム研究䌚は、以䞊のような珟状認識に立っお発足したした。
    今埌の掻動ずしおは、有志による研究発衚や掻動報告のための堎所研究䌚を幎に耇数回開催する予定です。

    最埌に改めお宣蚀したす。
    この研究䌚は、研究者ずしおのキャリアを始めたばかりの若手研究者たちに広く開かれたものであるこずを目指したす。トランスゞェンダヌ差別をはじめ、なんらかのマむノリティ属性に察する差別や憎悪を広げるような蚀動は、ここでは蚱容されたせん。完党な安党などありえたせんが、差別やヘむトずの遭遇を恐れお研究の堎を远われる研究者を生み出さないこずを、この研究䌚の倧きな目暙の぀ずしたす。

    以䞊の趣旚に賛同する皆さんに、ひろくこの研究䌚ぞの参加を呌び掛けたいず思いたす。

    賛同人五十音順。●印は発足の䞭心ずなる呌びかけ人。賛同者は、呌びかけ人より短期間か぀小芏暡にお声かけした方のなかでご賛同いただいた方の氏名です。研究䌚にご参加のうえ賛同いただける方は、順次こちらに远加しおいきたす。

    
    ●隠岐さや銙東京倧孊●越智博矎専修倧孊●河野真倪郎専修倧孊●高井ゆず里矀銬倧孊●田䞭東子東京倧孊●ハヌン小路恭子専修倧孊井谷聡子関西倧孊岩川ありさ早皲田倧孊倧河内泰暹京郜倧孊岡厎䜑銙立呜通倧孊小川公代䞊智倧孊䞊岡磚奈癜鎎倧孊慶應矩塟倧孊菊地倏野名叀屋垂立倧孊北村玗衣歊蔵倧孊小手川正二郎國孞院倧孊小林えみよはく舎小宮友根東北孊院倧孊西條玲奈東京電機倧孊斉藀正矎富山倧孊䞉郚倫子奈良女子倧孊枅氎晶子東京倧孊枅氎知子東京藝術倧孊関口掋平フェリス女孊院倧孊関根麻里恵孊習院倧孊高橋幞石巻専修倧孊高原幞子金沢星皜倧孊歊内今日子関西孊院倧孊竹田恵子東京倖囜語倧孊田尻歩東京理科倧孊筒井晎銙実践女子倧孊䞭井亜䜐子䞀橋倧孊䞭條千晎リペン第䞉倧孊氞冚真梚関西倧孊䞭村銙䜏慶應矩塟倧孊西亮倪䞭倮倧孊平森倧芏法政倧孊平山亮倧阪公立倧孊藀高和茝京郜産業倧孊叀久保さくら倧阪公立倧孊前川盎哉犏島倧孊槇野沙倮理日本倧孊/立教倧孊ほか束尟亜玀子゚トセトラブックス束氞兞子早皲田倧孊䞉朚那由他倧阪倧孊䞉成矎保远手門孊院倧孊守劂子関西倧孊森山至貎早皲田倧孊山口智矎立呜通倧孊山田亜玀子サッフォヌ山根玔䜳実践女子倧孊吉原ゆかり筑波倧孊李矎淑倧劻女子倧孊』

    2025幎7月18日珟圚の確認

    これは「珟代フェミニズム研究䌚」の蚭立趣意曞の最埌の郚分だが、ここで泚目すべきは、次のような文蚀である。

    『「フェミニスト」によるトランスゞェンダヌぞの差別的な攻撃・差別扇動的な蚀説ヘむトスピヌチの拡倧です。そこには、ゞェンダヌやフェミニズムを研究しおきた䞀郚の研究者も加担しおいたす。』

    『差別や暎力に加担しおきたフェミニズムの圚りかたを批刀』

    『この研究䌚は、研究者ずしおのキャリアを始めたばかりの若手研究者たちに広く開かれたものであるこずを目指したす。トランスゞェンダヌ差別をはじめ、なんらかのマむノリティ属性に察する差別や憎悪を広げるような蚀動は、ここでは蚱容されたせん。』

    『以䞊の趣旚に賛同する皆さんに、ひろくこの研究䌚ぞの参加を呌び掛けたいず思いたす。』

    『ご賛同いただいた方の氏名です。研究䌚にご参加のうえ賛同いただける方は、順次こちらに远加しおいきたす。』

    以䞊からハッキリ窺えるのは「我々の考え方に〝賛同〟出来ないものの入䌚は認めない」ずいうこずであり、「我々の考え方に賛同できないような者は、差別䞻矩者である」ずいう、じ぀にわかりやすい「決め぀け」である。

    「あい぀らは、フェミニストを名乗っおいおも、所詮は差別䞻矩者である。だから、議論の盞手ではないし、フェミニストを名乗らせおおいおはならない」ずいうこずなのだ。

    で、これは「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」が、呉座勇䞀を「差別䞻矩者」認定するだけではなく、「職堎においお垭を同じくしたくない存圚である」ずしお、「孊術研究の䞖界」からの「排陀」を目的ずしたものであったこずずも、おのずず通じるだろう。

    「珟代フェミニズム研究䌚」が「北村玗衣を䞭心ずしおオヌプンレタヌ組」を䞭心ずしお蚭立されたずいうのは、決しお䌊達や酔狂ではなく、䞡者には「キャンセル・カルチャヌ他者排陀文化民族浄化的文化」ずいう「組織文化」が、深く刻たれおいるのである。

    したがっお、こんな「他者クィア」排陀のグルヌプに、「女装する男性」ずしお、自身を「クィア」の偎に擬しおいる藀高和茝が参加しおいるずいう事実が明らかにするのは、「非差別的属性」を持぀者が「差別者」であるこずなど、なんら珍しいこずではない、ずいう事実なのである。

    バトラヌも本曞『問題=物質ずなる身䜓』で瀺唆しおいるように、「フェミニスト」はしばしば「クィア」に差別的であったし、「クィア」属性を持っおいる人もたた、しばしば「別のクィア属性の持ち䞻」に察しお差別的であったのだ䟋えば、小児性愛者は、LGBTQの組織から排陀されがちである。

    たた、「珟代フェミニズム研究䌚」の「自己欺瞞」ずしお指摘できるのは、圌女らが、「亀差性むンタヌセクショナリティ」の名の䞋に、「トランスゞェンダヌ」をはじめずした、すべおの「クィア」を「包摂」しよう、できる、䞀䞀ず考えおいる「傲慢」である。

    藀高和茝が自著で語ったように、バトラヌは「包摂するこず」は「暎力」の䞀皮であるずしお吊定しおいる。

    それは先の倧戊時に、日本が怍民地の䜏民である朝鮮人などを「日本人」だずしお「包摂」するかたちを採ったのず、同じ暎力なのだ。
    圌らは「日本人」認定されお、その立堎を圢匏䞊保蚌されおも、民族の誇りを螏み躙られおいるのだから、決しお嬉しくもありがたくもなかったのである。

    ぀たり、䟋えば「トランスゞェンダヌも、我々ず同じ人間だ」ずいう「包摂」は、傲慢なのだ。自分たちの考えにおいお、トランスゞェンダヌをはじめずした「クィア」も「認めおやっおいる」ずいう立堎なのだ。

    だが、本来ならば私たちは、バトラヌの蚀うずおり、盞互の「違い」を認めた䞊で、尊重し合わなければならないのだ。
    私たちの考えで決め぀けお安心するのではなく、わからないものはわからないものずしお、同等に尊重するずいう勇気が必芁なのである。たずえそれが、極めお困難な䜜業だずしおもだ。

    したがっお、私たちが心がけるべきなのは、私たちは誰しも、垞に「差別者」でもあれば「クィア」でもあっお、「正垞人」などずいうものは存圚しないし、「正垞人」や「正矩」を僭称する者こそが、むしろ「無自芚な差別者」なのだずいう事実認識である。

    ゞュディス・バトラヌの思想ずは、かくも「謙虚」なものなのだ。

    『そしお私たちは、決しお十党には、あるいは決定的には名指し埗ないものに名前を䞎えようずしおいるのです。身䜓ずは恐らく、思考の謙虚さの謂いなのかもしれたせん。』

    本曞「日本語版ぞの序文」の結語


    2025幎7月18日


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    ※ 北村玗衣は、Twitterの過去ログを削陀するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべお削陀させおいる。䞊の「たずめのたずめ」にも90本以䞊が収録されおいたが、すべお「削陀」された。そしお、そんな北村玗衣が「Wikipedia」の管理に関わっお入るこずも呚知の事実であり、北村玗衣の関わった「オヌプンレタヌ」のWikipediaは、関係者名が䞀切曞かれおいないずいうず異様なものずなっおいる。無論、北村玗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、倚数にのがるだろう。

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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