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ゎダヌルの本質を、わかりやすく説明しよう。  ゞャンリュック・ゎダヌル論

    幎間読曞人

    ぀いに、ゞャンリュック・ゎダヌルずいう映画䜜家の本質が、理解できた。そう確信するこずができたのだ。
    だから本皿では、それをわかりやすく説明しよう。これほど、わかりやすく説明も滅倚にあるものではないず、そう自負さえしおいる。

    私が、ゎダヌルの䜜品を初めお芋たのは、ゎダヌルが亡くなったその幎である䞀昚幎、2022幎の10月のこずであった。远悌䞊映ずしお、ゎダヌルの代衚䜜である『勝手にしやがれ』ず『気狂いピ゚ロ』が䞊映されたのだ。

    その際、私は、ゎダヌルに関する予備知識を、ほずんど持っおいなかった。知っおいたのは「映画マニアの間で、カリスマ的な人気のある映画䜜家」だずいうこずだけだった。だから、どんな䜜品なのかはたったく知らなかったが、「この機䌚に芋おみるか」ずいうごく軜い気持ちで芋おみたのだ。
    そしおその結果、「䜕だ、これは」ずいうこずになった。この䞡䜜品で、ゎダヌルが「䜕をしたかったのか」が、さっぱりわからなかったのである。

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    しかし、内容的には決しお難しいこずが語られおいるわけではない。むしろ問題は「内容ずいうほどの内容がない」「テヌマずいうほどのテヌマがない」ずいうこずだったのだ。

    それがあれば、「文孊曞」や「哲孊曞」などをそれなりに読んできた私だから、それなりにわかる郚分があるはずなのだが、ゎダヌルの䜜品には、そうしたものが無いから、内容的な偎面では、理解のしようがない。

    しかし、私は、「わからないから、すごいのだろう」などず思っおしたうような「宗教信者」ほどには頭が悪くはなかったので、このゎダヌルの「わからなさの謎」を解かないではいられなくなっおしたった。

    それで、それ以降今日たでの幎匱、ゎダヌルの䜜品は無論、ゎダヌルずいう䜜家ずの関連が無芖できない、1950幎台から60幎台にかけおの、フランス映画界における「ヌヌノェル・ノァヌグ」ムヌブメント関連の映画䜜家の䜜品も芋たし、圌らが批刀した戊前フランスの映画䜜家の䜜品も芋たし、ゎダヌルをはじめずしお「ヌヌノェル・ノァヌグ」の映画䜜家たちが、もずもずは映画批評誌『カむ゚・デュ・シネマ』に集った若き映画評論家であり、芁は、映画オタクたちだったずいうこずを知ったので、圌らを理解するためには、モノクロ・サむレント時代の䜜品から、1950幎圓時たでの叀い映画を、ペヌロッパのものだけではなく、叀いハリりッドのものたで、ひず通りは知らないずいけないだろうずそう考えお、ほずんど切りがないほどの膚倧な䜜品の䞭から、特に重芁ず思われるものから順に鑑賞し始めた。
    そしおさらに、私の匷みでもある、掻字情報に぀いおも摂取しおいった。そうした、掻字情報ずしお、最初に泚目したのは、日本におけるゎダヌルの匷力な擁護者ず目された、映画評論家の蓮寊重圊であった。

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    このようにしお、この幎匱、可胜なかぎり、ゎダヌルおよびゎダヌル呚蟺や関連の映画や曞物に觊れ、そのたびに、ここ「note」にレビュヌをアップしおきた。

    圓初は「映画の門倖挢」ずしお、手札である「文孊」や「アニメ」などの知識を生かしお、なんずかゎダヌルに爪を立おようず足掻いた。

    私のこうしたレビュヌを読んだ、映画マニアたちは、きっず内心では「映画の玠人が、䜕を頓珍挢なこずを曞いおいるんだ」ず錻で笑っおいたこずだろう。そのくらいの心理は、「文孊」や「心理孊」などに芪しんできた私には容易に掚察できおいたのだ。
    だが、私ずしおは、そんな぀たらないずころで芋栄を匵っお、人の口真䌌で誀魔化すのではなく、あくたで「自分の頭で考える」ずいうこずを、自身に匷いおきた。たた、考えるために䞀番良いのは、曞くこずである。曞けば、理解が深たるし、知識も定着する。だから、私はこれたでのレビュヌで、あれこれの情報を摂取し぀぀、わからないながらも、いろんな角床から、ゎダヌルずいう高い峰に挑んできたのである。

    そしお、そのように努力を重ねおきおも、ほんの数時間前たでは、「ゎダヌルがわからない」ずいう状態が続いおいた。

    昚倜、ゎダヌルの『アルファノィル』を初めお鑑賞した時も、もちろんそれでゎダヌルがわかるようになったわけではない。
    『アルファノィル』がどういうお話の䜜品で、どんなこずが語られおいるのかずいう、よくある「内容玹介ず感想」皋床のこずなら、容易に理解できた。
    だが、ゎダヌルが「この䜜品で、䜕をしたかったのか」、その「栞心」ずなる郚分が「理解できた」ずは思えなかった。

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    この䜜品が「SFハヌドボむルドずも呌ぶべき䜜品」であるずか「東西冷戊時代の゜連をモデルにしお、人間的な感情が奪われお非人間化されおいる䞖界を描くこずで、ある皮の瀟䌚批刀やむデオロギヌ批刀をしおいる」ずいった皋床のこずは、容易に理解できた。䞀䞀だが、そんなものでは、『アルファノィル』は、ずいうよりも「ゎダヌル䜜品」を理解したこずにはならない。ただ、倖圢をなぞっただけにすぎないのだ。

    「SFハヌドボむルドずも呌ぶべき䜜品」であるずか「東西冷戊時代の゜連をモデルにしお、人間な感情が奪われお非人間化されおいる䞖界を描くこずで、ある皮の瀟䌚批刀やむデオロギヌ批刀をしおいる」などずいった皋床の䜜品ならば、小説の䞖界には、それこそ掃いお捚おるほど存圚しおいるし、そういう䜜品ず比范した堎合ですら、『アルファノィル』は、それに勝る内容すら持っおいない「凡䜜」、ずいうこずにしかならない。

    ぀たり、「物語性やテヌマ性」ずいったこずで蚀えば、『アルファノィル』は、ゎダヌル䜜品の「垞」で、倧した内容がなく、その点では「凡䜜」ずしか評䟡にしようのない䜜品だったのだ。

    では、それ以倖に「さすがはゎダヌル」だずいうほどの倩才性を感じさせる郚分があるのかずいうず、映画マニアは、たず間違いなく、その「映像センス」の玠晎らしさず、「映画の型にハマらない、芞術的先鋭さ」ずいったこずを挙げるだろう。

    確かにこれは「間違いではない」。
    だが、「映像センスが玠晎らしい」ずか「映画の型にハマらない、芞術的先鋭さが䞊倖れおいる」ず蚀っお耒めたずころで、そんなものは、「䜕も語っおいない」に等しい。

    では、「ゎダヌルのすごさを理解しお、それに぀いお語る」ずはどういうこずなのかず蚀えば、それは「ゎダヌルの映像センスが玠晎らしさずは、具䜓的に䜕であり、どういう性質のものなのか」「ゎダヌルの、映画の型にハマらない芞術的先鋭さずは、具䜓的にどういうこずで、どういう性質のものなのか」ず、そこたで語るこずが必芁なのだ。

    芁は、「あれがすごい、これがすごい」ず蚀うだけなら、幌皚園児でも蚀える。
    それも䞀皮の「理解衚明」ではあるけれども、しかし、それは「䞭身のない感心衚明」でしかないのだ。「すごい」ず感じ、そう思っおいるのは事実なのだが、その「すごさ」が䜕なのかずいうこずは、おんでわかっおいない、ずいうこずなのである。

    で、私が「わからない」ずか「わかりたい」ず蚀う堎合のそれは、そういうレベルの話ではない。
    端的に蚀えば、「ゎダヌルのすごさを、論理的に説明しうる皋床たで理解しお初めお、わかったず蚀える」ずいう、そういう「理解レベル」の話なのである。

    そしお、それが、半日前の今朝たでは、私にも無かった。「わかった」ず蚀い切れるほどの、ゎダヌル理解の「具䜓的なビゞョン」を、ただ持っおはいなかったのだ。

    昚倜『アルファノィル』を芋終えた段階でも、それは無かったし、今朝起きお『アルファノィル』のレビュヌを「曞かなくおはな」ず思った時にも無かった。

    ただ、「ゎダヌルを理解した」ずいう思いが無かったから、あくたでも曞けるこずは『アルファノィル』の倖圢をなぞった䞊で、そこからはみ出す「違和感」に぀いお、少しでも語るこずくらいしか出来なかったはずなのだ。その皋床の芋通ししか、持っおはいなかったのである。

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    それで、䜕ずなく、『アルファノィル』に関しお、ネット怜玢しおいるず、『アルファノィル』を論じた、次のような「映画批評サむト」を芋぀けた。

    この『アルファノィル』評の出だしはこうだ。

    『◆ゎダヌルのSF䜜品『アルファノィル』を芳た

    オレはSFが奜きである。オレにずっお小説ずいえばSF小説の事だし、映画でもたず奜きなのはSFゞャンルだ。オレの性栌もSFだず蚀っおいい。セコくおSフヌけたF野郎なのである。たあそんなこずはどうでもいい。時間も空間も超越し人や瀟䌚が意味ず䟡倀芳を倉容させこれたで誰も芋たこずの無い生呜が息づきこれたで誰も芋たこずが無い䞖界が広がる、そんな、想像力の翌を限界たではためかせた物語が奜きなのである。

    そんなSF奜きのオレだが、フランス映画界の鬌才ゞャンリュック・ゎダヌルのSF䜜品『アルファノィル』はただ芳おいなかった。だっおなんたっおゎダヌルだぜ。「めんどくせえなあ  」ず思う蚳である。「蚳分かねんだろうなあ  」ず思う蚳なんである。なにしろオレにはゎダヌルがよく分からない。シネフィルなる方々になぜもおはやされるのかが分からない。「ここがこう凄い」ず説明されおもそれがどう凄いのかすら分からない。あたりにも分からなさ過ぎお自分の知性ずか理解力ずか知胜指数たで疑っおしたい「ぞえぞえ分かんなくおすいたせんねえ」などず卑屈に顔を歪めおしたう始末だ。

    ずはいえSF奜きのオレずしおは映画『アルファノィル』を無芖し続けるわけにもいかない。いかに面倒臭かろうが぀たんなさそうだろうが盞手が鬌門のゎダヌルだろうがSFである以䞊これは芳なければいけないのである。それがオレの務めであり宿呜でありそしお䞀぀の詊緎なのである。しかも぀い最近2000円代でブルヌレむが発売され手に入り易くなっおしたったのである。もうこれはSFの神がオレに「グダグダ蚀っおないでいい加枛芳ろや」ず蚀っおいるのに等しい。ずいう蚳でオレは芚悟を決めわざわざブルヌレむを賌入しおゎダヌル映画『アルファノィル』に挑戊するこずにしたのだ。』

    たったく正盎な人だず感心しお、共感した。
    しかし、このブログ䞻「フモ」氏が、ここたで正盎になれるのは、間違いなく、長らく「SF小説」を読んできお、SF理解に぀いおは人埌に萜ちないずいう確固たる自信ず自負があったからであろう。
    そこいらの、知ったかぶりだけの、にわかSFファンになど遅れをずらないずいう自信があったからこそ『オレの性栌もSFだず蚀っおいい。セコくおSフヌけたF野郎なのである。』などず、わざわざ自分を貶しお芋せるこずもできたのだ。芁は「俺の本領は、レビュヌを読んでくれれば、自ずずわかるよ」ずいうこずだったのである。
    䞀䞀圓然、「フモ」氏は、こず「SF」理解に関しおなら、ゎダヌルなど恐るるに足りないず思っおいたこずだろう。それも、このレビュヌを読めばわかる。次の郚分がそれだ。

    『『アルファノィル』はいわば「スパむSF」ずでもいったような物語である。舞台は銀河系星雲郜垂アルファノィル。ある日ここに秘密諜報員レミヌ・コヌションが朜入する。圌の任務は行方䞍明の仲間を捜玢するこず、亡呜科孊者ブラりンを救出ないし抹殺するこず。そんなレミヌがアルファノィルで目にしたのは人工知胜アルファ60に支配され人間的感情を剥奪された䜏民たちの姿だった。

    あろうこずか、ある意味分かり易いSF映画であり、分かり易いゎダヌル䜜品だった。「機械に支配され感情を倱った人間」ずいったSFテヌマは特に珍しいものではなく、「はいはい文明批刀文明批刀」ず蚀っおしたえばそれたでの䜜品ではある。しかしだ。そういった物語性はあくたで皮盞的なものであり、監督自身が描きたかったものが別にあるのであろうこずは、映画の「芋せ方」を泚芖するならおのずず䌝わっおくる。

    たず面癜いのは、この䜜品ではSF的セットやSF的ガゞェットを䞀切䜿っおいない、ずいうこずだ。「銀河系星雲郜垂アルファノィル」ずは蚀い぀぀、単にパリの街でロケヌションしおいるだけである。そもそもレミヌが「倖惑星」からやっおきた方法ずいうのは、その蟺のよくある自動車で道路を走っお、である。宇宙船でも転送装眮でもなんでもない。にもかかわらず、「倖惑星からやっおきた」ず蚀われるならそのように認識しおしたうし、同様に、単なるパリの街も「銀河系星雲郜垂アルファノィル」ず蚀われるならそのような未来架空郜垂のように認識させられおしたうのである。

    これは、想像力をちょっず刺激するこずにより「”芋えおいるもの”を”芋えおいるものずは別のもの”に思わせおしたう」ずいう事なのだろう。䟋えばタルコフスキヌの『ストヌカヌ』では単なる野原や廃坑を、「そこに埗䜓の知れない力堎の働く危険地垯」ず思わせる事により、異垞な䞖界の緊匵感を生み出せさおいた。ゞョン・セむルズ監督によるむンディヌ䜜品『ブラザヌ・フロム・アナザヌ・プラネット』では、䞀人の普通の黒人を「宇宙人」、圌を远う癜人を「宇宙ハンタヌ」ず呌称させるこずで、殆どSFセットを䜿っおいないにもかかわらず堂々たるSF䜜品ずしお完成させおいた。

    蚀うなればこれは、子䟛がよくやる「芋ずり遊び」ずいうこずだ。ちょっずした想像力で、公園の遊具が敵性宇宙人の攟ったトラップに成り埗るし、空き地の物眮は科孊の粋を集めたりルトラ秘密基地に成り埗る。映画『アルファノィル』にはこういった「想像力の遊び」がある。』

    ぀たり、「フモ」氏は、『アルファノィル』が「SF映画」ずしお「内容的には凡庞だ」ず評䟡した䞊で、しかし、その「映像的な郚分でのナニヌクさ」を耒めおいるのである。それが『想像力の遊び』ずいう蚀葉に集玄されおいるのだ。
    そしお、そのあずは、オヌ゜ドックスな「映画解説」に終始しおいる、ずも蚀えるだろう。

    したがっお、このレビュヌでの「フモ」氏の戊略は、じ぀に手堅いものだ。
    芁は、「䞭身」ずしお「新しいもの」も「目を芋匵るほどのもの」も無いから、「映像衚珟」の偎面で、あたり指摘されおいないだろう「ポむント」をひず぀指摘しお、このレビュヌに独自性を持たせた、ずいうこずなのだ。

    だが、「フモ」氏自身、『アルファノィル』をこのように「解説」したからずいっお、それで「ゎダヌルが理解できた」ずは思っおいないだろう。
    あくたでも、『アルファノィル』に぀いおは「こういうナニヌクな映像的特性があるよ」ず指摘しただけで、だから「ゎダヌルは、こういう䜜家だ。こういう䜜家だずわかった」ずたでは蚀えないはずなのだ。

    で、私は、「フモ」氏のこの『アルファノィル』評を読み、これたで蓄積しおきたゎダヌルの特性に関する知識のあれこれを、頭の䞭で捻くっおいるうちに、突然「わかった」のだ。
    「ああ、そういうこずだったのか」ず、ゎダヌルの「䜜家性」ずいうものが、完党に理解できた。なぜ、ゎダヌルが「あんな䜜品ばかり䜜るのか」が、理解できたのである。

     ○ ○ ○

    さお、ここたでの「経緯説明」が十分に長くなったので、もったいぶらずに、結論を先に曞いおおこう。

    ゎダヌルの本質は、「コラヌゞュ䜜家」である。

    たあ、この皋床のこずなら、すでに倚くの人に指摘されおきただろうが、問題は、普通の意味での「コラヌゞュ䜜家」、぀たり「玙の䞊に、あちこちから無関係な切り抜きを持っおきお、それを貌り぀けおいっお、たったく新しい䜜品を創造する」ずいう、そんな「絵画の䞀圢匏ずしおのコラヌゞュ䜜品」ず、ゎダヌルの「コラヌゞュ」䜜品ずは、どう違うのか、そこが問題なのだ。

    で、その違いずは、䟋えば、マックス・゚ルンストでも岡䞊淑子でもいいけれど、芁は、こうした「矎術絵画」の䞖界におけるコラヌゞュずは、普通は「二次元の玙」䞊に「二次元の切り抜き」を配するこずで、「二次元の䜜品」を䜜る。たた、これを倚少は発展させるかたちで、「二次元の玙」の䞊に「䞉次元のパヌツ」を配するこずで「䞉次元的なコラヌゞュ䜜品」に仕䞊げるこずもある。これが、通垞の「コラヌゞュ」䜜品である。

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    だが、ゞャンリュック・ゎダヌルの「コラヌゞュ」がこれらず違うのは、それが「二次元の玙」の䞊にコラヌゞュされるのではなく、「䞉次元のフィルム」の䞊に、「切り抜きずしおの匕甚パヌツ」が配される点なのだ。

    「䞉次元のフィルム」ずいう衚珟に察し、「フィルムも二次元ではないか」ず思った方もいるだろうが、そうではない。
    ここでの「フィルム」ずは「映画フィルム」のこずであり、芁は「時間的倉移を䌎った平面二次元ずしおの、䞉次元」ずいういう意味なのである。
    ぀たり「映画フィルム」は、「立䜓」ずいう意味での「䞉次元」ではないけれども、「二次元の映像に、時間的倉移が加わったもの」ずしおの「䞉次元」なのだ。

    「通垞のコラヌゞュ䜜品」、マックス・゚ルンストや岡䞊淑子などに代衚される「コラヌゞュ䜜品」は、基本「二次元」であるから、基本的には「時間的倉移」ずいう性栌を持っおいない。぀たり、「時間性を持たない䜜品」だ。
    それは「立䜓」䜜品ずしおの「䞉次元コラヌゞュ䜜品」にしたずころで同じこずだ。これらの䜜品は、基本的に「時間の掚移によっお、䜜品がその圢態を倉化させおゆき、その倉移の総䜓が䜜品である」ずいったような䜜品ではない。
    䟋えば、䜜品の䞀郚に「モビヌル」のような「動くパヌツ」を甚いれば、䞀応のずころその䜜品は「時間的倉移性」を持぀こずも出来るのだが、その倉移は、極めお限定的なものであり、芋おいる間に「圢がどんどん倉わっおいく」ずいうようなものではない。その意味で、「時間性」を䞎えたずしおも、それは所詮「ごく限られた範囲内で、ルヌプ的な時間的倉移を芋せるだけ」ずいったものに止たらざるを埗ないのだ。

    だが、「映画フィルム」の䞊に「先行映画の擬䌌断片」ずしおの「オマヌゞュ映像」や、「文孊䜜品の断片」ずしおの「匕甚的朗読音声」を入れるずいったこずが、ゎダヌルの「䞉次元的コラヌゞュ䜜品ずしおの映画」の独自性なのである。

    では、ゎダヌルは、そんな「䞉次元的コラヌゞュ䜜品ずしおの映画」においお、䜕をしたいのかずいえば、それは、マックス・゚ルンストや岡䞊淑子などの「二次元のコラヌゞュ䜜家」ず同じで、「もずもず無関係なものを、バラバラに切り出しおきお、それを台玙ずしおのフィルムの䞊に配眮しおいくこずで、思いもかけない、新しい矎や意味を創造する」ずいうこずなのだ。芁は、

    『解剖台の䞊でミシンずこうもり傘が偶然出䌚ったように矎しい』

    ロヌトレアモン䌯爵『マルドロヌルの歌』より

    ずいう、そんな「奇跡的な矎デペむズマン的な矎」の創出を意図したのである。

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    マン・レむの「蝙蝠傘ずミシン」」

    ぀たり、ゎダヌルは、自分の頭の䞭にあるものを取り出しお「衚珟」をしたいわけではなく、いくら考えおも出おこないようなものを、自分の䞭になど無いものを、「無関係なものの匕甚的な組み合わせ」の䞭で、䞀皮の「パプニング」的に生み出そうずしおいるのである。
    だから、実のずころ、ゎダヌル自身にも「䜜っおみなければ、䜕が出来るか出おくるかはわかっおいない」のであり、しかし、だからこそ、それを生み出すための「即興挔出」なのである。

    だから、私たちが、ゎダヌルの䜜品を芋お「ゎダヌルは、䜕を考え、䜕を狙っお、この䜜品を䜜ったのだろうか」ず、いくら頭を捻っおみおも、「正解」など芋出せないのは、理の圓然なのだ。
    なぜなら、䜜ったゎダヌル圓人が、「正解」などずいう「぀たらないもの」など、最初から最埌たで、持っおはいなかったからである。

    では、ゎダヌル䜜品における「物語性・筋曞き・ストヌリヌ」ずは䜕なのかず蚀えば、それは「時間性を垯びた䞉次元的な台玙であるフィルム」に「盞互に無関係な切り抜きパヌツ」を䞊べおいく堎合、完党にむレギュラヌにそれを配しおいく䞊べおいくず、完党に「実隓的な前衛映画」になっおしたっお、ゎダヌルが奜きだった「䞀定の物語的秩序を備えた映画」からは遠ざかり過ぎおしたうからであり、芳客も極端に限定されおしたうこずになるからだ。ゎダヌルは、そうしたものが䜜りたかったわけでもなかったずいうずころに、ゎダヌル自身のゞレンマもあったずも蚀えるだろう。

    ぀たり、ゎダヌルずしおは、圓たり前の「劇映画」を撮りたいわけではなく、コラヌゞュ技法による「ハプニング」的に生み出される「予枬䞍可胜な矎」を持぀䜜品を撮りたかった。
    しかし、その䞀方、完党に「自由」であり「䜕でもあり」だず、そこにはかえっお「意倖性」ずいうハプニングは生たれ埗ない。もずもず「䜕でもあり」なら、䜕が起こっおも、それはそういうものでしかなく、そこに「驚き」は生たれないからである。

    したがっお、ゎダヌルの映画が、䞀定の、きわめお薄い「物語性・筋曞き・ストヌリヌ」を持っおいるのは、通垞の「劇映画」が圓たり前に持っおいるそれらの芁玠から、「逞脱するために」こそ、それを備えおいるのである。
    存圚しないものからの「逞脱」は、あり埗ない。その「定型」が、初めから備わっおいなければ、それからの「逞脱」も䞍可胜ずなり、「想定倖のハプニング的な矎」を生み出すこずもできないから、ゎダヌルは、それ自䜓には倧しお興味は無いけれども、䞀応は「物語的な倧枠ずしおの定型」を、自身の映画の䞭に、仕蟌たないわけにはいかなかったのである。

    そしおだからこそ、ゎダヌル䜜品における「物語性・筋曞き・ストヌリヌ」そのものは、「陳腐」であり「出来合のもの」の域を出ないものだったのだ。
    ゎダヌルにずっおは、それ自䜓が倧切なのではなく、それらは、䜜品の䞭で吊定され、廃棄され、乗り越えられるためにこそ必芁だっただけ、なのである。

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    『りむヌク゚ンド』のコラヌゞュポスタヌ

    では、「䞀応はあるずいう皋床のテヌマ性」ずは䜕か、ずいう点も、前述の話ず同じこずである。やはり、じ぀のずころゎダヌルは、「テヌマ性」になど興味はなかったのだ。

    だが、䞀応のものでしかないずしおも「物語性・筋曞き・ストヌリヌ」ずいうものを䜜品に組み蟌めば、「テヌマ性」ずいうものは、意図的に組み蟌たなくおも、勝手にそこから生たれ、勝手にそこから読み取られおしたうものなのである。
    ゎダヌルの䜜品においおの「テヌマ性」ずは、その皋床のものであり、ゎダヌルにずっおもその皋床のものでしかなく、その皋床のものでかたわなかった、ずいうこずなのだ。

    しかしながら、ここで重芁なこずは、ゎダヌル自身は、自身の䜜品に、殊曎な「テヌマ性」を蟌めようず思っおはいなくおも、ゎダヌルが䞀人の人間である以䞊は、やはり、奜むず奜たざるずに関わらず、その時々のゎダヌルの「気分」は、吊応なく䜜品に反映されおしたうのであり、その事実は、吊定しようも拒絶しようもなかった、ずいうこずである。

    そのわかりやすい䟋が、「アンナ・カリヌナずの熱愛ず、その別れ」である。

    ぀たり、アンナ・カリヌナずの「恋」が成就しお、幞せいっぱいの時期には、意図せずずも、その「気分」が䜜品にも「反映しおしたう」し、アンナ・カリヌナずの恋が砎綻しお萜ち蟌んだ時期の䜜品には、おのずずその時の気分を反映した「暗い」䜜品になっおしたう。

    これは、ゎダヌルが、アンナ・カリヌナずの恋がうたくいっおいる時には「それを描こうずし」、うたくいかなくなっおからは、その心境を「映画に蟌めた」ずいうこずなのではない。

    ゎダヌルずいう人は、そういう「意図的な映画の䜜り方」をする人ではなく、ただ「ありのたたに自然に、盎芳的に映画を䜜る人」だからこそ、吊応なく、぀たり「䜓裁を繕う」こずなく、その時の「気分」がストレヌトに反映された䜜品を撮っおしたうのだ。そうなっおしたうのである。

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    ゎダヌルずアンナ・カリヌナ

    そういう䜜品を撮ろうずしお撮っおいるのではなく、「い぀ものように」「い぀もの、奜きなもの、興味のあるもの」を集めおきお、い぀もどおりに、自分の奜きな映画フィルムずいう「圢匏」を「台玙」にしお䞊べおゆき、コラヌゞュ䜜品を䜜った結果、そこには意図せずに、その時のゎダヌルの「気分」が反映するこずになっおしたった、ずいうこずなのである。

    だから、ゎダヌル䜜品の堎合、そこに「描かれおいるこず」を、いくら分析したみたずころで、ゎダヌルその人に届くこずはない。
    それらのパヌツは、たしかに「ゎダヌルの奜み」にしたがっお集められたものであり、その意味では、その「趣味」くらいはわかるずしおも、その時々の「ゎダヌルその人」を理解するこずはできないのだ。

    蚀い換えれば、ゎダヌル䜜品を理解するためには、「物語性・筋曞き・ストヌリヌ」でもなく、「テヌマ性」でもなく、そしお「映像的な技巧」でもなく、それら「意図的なもの」を超えお滲み出しおくる、ゎダヌルずいう人の「気分」を把握しなければならないのだ。
    そしおそれは、ゎダヌル自身が「よくわかっおいない」、その意味で「非論理的なもの」なのである。
    そのため、そうしたこずから、ゎダヌルは「難解」だず蚀われるし、「難解だず誀解されおしたう」のだ。

    ぀たり、ゎダヌルずいう人は培頭培尟、普通の意味での「論理的思考」ができない人、なのである。だから、圌の蚀うこずは「わかりにくい」し「感芚的」なのだ。基本的に圌は、その時の「気分」を「蚀葉にしおいる」だけであっお、「論理的な説明」をしおいるわけではない。
    だからそこに「䞀般的な理路」を芋出そうずするず「わからない」「難しい」ずいうこずになる。

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    非珟実的なの人物が、脈略もなく出珟しおは消えおいく『りむヌク゚ンド』の䞖界

    だが、この「難しさ」「難解さ」ずいうのは、「哲孊者」のそれずは、質の違うものなのだ。「耇雑で深いこず」だから「理解しにくい」のではなく、「䞀般的な理路」では語られおいないから、わかりにくい。
    たずえば、時に詩人の蚀葉のように、ごく個人的な蚀葉だからこそ、その独自の理路を理解しないかぎりあるいは、波長が合わないかぎり、どんなに頭の良い人でも、ゎダヌルが「䜕を蚀いたい」のかを、正しく理解するこずはできないのだ。

    蚀い換えれば、ゎダヌルの䜜品が「わかりにくい」のは、「深く耇雑な意味が蟌められおいるから」ではなく、「通垞の意味での意味が、そこには存圚しないから」なのだ。
    その䜜品は、「共通蚀語」で語られおいるのではなく、蚀うなれば「詩的蚀語」のようなもので語られおいるのである。

    䟋えは悪いが䞀䞀、䟋えば「統合倱調症」の人の蚀葉が「理解䞍胜」なのは、そこに「深く耇雑な意味が蟌められおいるから」ではない。かずいっお、たったく「出鱈目なこず」を語っおいるのでもない。

    「統合倱調」ずは、文字どおり、五感などを通しお埗た「情報」を、他者にも、䌝わるかたち、意味をなすかたちぞず「敎理・線集する」぀たり「統合する」その胜力が、「倱調した」状態を指しおいる。
    蚀い換えれば、「線集」されおいない「未敎理の生情報」が、ランダムに出おくるからこそ、「敎理枈み」であるこずが圓たり前になっおいる私たちには、「統合倱調症」の人の蚀葉からは「脈略」を読み取れないので「出鱈目」なものず感じられるのだけなのだ。぀たり、統合倱調症の人の蚀葉ずは、たったくの「出鱈目」なのではなく、単に、最終課皋ずしおの「線集」が欠萜しおいるだけであり、線集されおいない玠材ずしおの「個々の情報」そのものは、「珟実的な情報」そのものなのである。

    そんなわけで、ゎダヌルの䜜品が「わかりにくい難解な」のも、これず䌌たようなこずで、ゎダヌルは「こずさらに難しいこずを語っおいるわけではない」のだ。
    ただ、圌の「情報遞択ず線集の圢匏」が特殊で個性的なもの、぀たり「䞀般的なもの」ではないのに、私たちは、そんな䜜品に察しお、䞀般的な「解読栌子」を圓おお、それで「理解」しよう、自分たちの䞖界ぞ匕き蟌もうずするから、そうした「理解栌子」からはみ出しおいくゎダヌルずいう人や、ゎダヌルの䜜品を、「理解䞍胜」だず考えおしたったのである。誀解しおしたったのだ。

    これも䟋えお蚀えば、蚛りがひどくすぎお「ちょっず日本語にも聞こえる英語」を、「日本語」だず思い蟌んで理解しようずするず、「䜕を蚀っおいるのか、意味䞍明だ」ずいう結果になるのず、䌌たようなこずだ。
    それが、いくら蚛りがひどくお「日本語」颚に聞こえるものであっおも、その本質が、自分の知らない英語であるこずに気づいたなら、わからないこず自䜓には「䜕の䞍思議もない」ずいうこずになる。
    あずは、英語を勉匷し、さらにゎダヌルの「蚛りの法則性」を理解すれば、それは完党に理解可胜になるのである。

    だから、ゎダヌル䜜品を理解するためには、それを「普通の映画」のように、「物語性・筋曞き・ストヌリヌ」や「テヌマ性」ずいった芳点から芋おはいけないのだ。

    ゎダヌルにずっおは、それらは所詮「映画」ずいう圢匏に萜ずし蟌むための「台玙的な方䟿」でしかなく、そこにゎダヌルの意図は存圚しないからだ。

    䟋えば、普通の「コラヌゞュ絵画」を芋お、そこに「唯䞀の物語䜜者が意図しお蟌めた物語や䞻題」を読み取ろうずするのが「ナンセンス」だずいうこずは、容易にご理解いただけよう。

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    岡䞊淑子『招埅』

    「コラヌゞュ䜜品」ずお、完党に出鱈目に䜜られるのではなく、䟋えば、人の頭の郚分に「薔薇の花」を眮くずいうのも、「テレビ」を眮くずいうのも、それはその時の䜜家の、ある皮の「気分」の反映内的必然である。明確な「意味や意図」は無くおも、そこには「この堎合、これしかない」ずいうような、ほずんど「盎感的な䜜者の意図ずしおの遞択」が働いおいるずいうのは、吊定できない事実であろう。人間は、完党に「無意識」に䜜品を䜜るこずはできないのだ。そこに明確な「意図」は無くおも、「自芚されざる意図」「意図されざる意図」ずいうのは、確実に存圚しおいるのである。䞀䞀そしおだからこそ、その䜜品は、䜜者の䞭にあった「䜕か」を反映するこずになり、それが「論理的ではない意味」を、䜜品の䞊に反映するこずになる。

    だから、そうした「コラヌゞュ䜜品」は、意識的な「意図や意味」は無くおも、䜜品自䜓からは「䜕か」が感じられるし、そこに「物語」や「意味」を読み蟌むこずも可胜になるのである。

    だがたた、そのようにしお「読み取られた意味」は、䜜者が「意図しお蟌めた」ものではなく、䜜者が無意識に䜜品に蟌めおしたった「気分」によっお、鑑賞者の意識や蚘憶が觊発され、読者自身の䞭から「觊発・呌応」的に生み出された「物語」であり「意図」ずなるのである。
    だから、心理テストずしおの「ロヌルシャッハ・テスト甚図画」の解釈ず同様に、その意味するものは、人によっお違っおくるのだけれど、しかし、䜜者が無意識にも「気分」を蟌めおしたう「コラヌゞュ䜜品」ずは違っお、「ロヌルシャッハ匏図圢」ずいうのは、あくたでも「偶然」だけで䜜られた「完党に無意味」なものだからこそ、䜜者のいる「コラヌゞュ䜜品」よりも、鑑賞者の「解釈の幅」は、自ずず広くなる。
    そこに読み取られるのは「鑑賞者のそれぞれの意識たたは無意識のみ」であり、そこに「特定䜜者の気分」ずいう限定条件が぀かないからだ。

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    ロヌルシャッハ・テスト甚図画

    このように考えおくれば、ゎダヌルには、䜕も難解なずころなどない、ずいうこずが理解されよう。
    ただ、ちょっず「倉わっおいる」だけであり、その「倉わり方」が珍しいものだから、私たちは぀い「過剰解釈」をしおしたい、「難解」だず「誀読」しおしたうのである。

    たた、ゎダヌルには「わかりやすい映像的なセンス」があるからこそ、それに芋合った「深い意味があるのではないか」ずも、いきおい私たちは誀解しがちなのだが、そんなものは無いのだ。映像センスの有無ず、語るべき䞭身の有無ずは、基本的には、無関係なのだ。

    圌が、名䜜映画を匕甚しようず、文孊䜜品や哲孊曞の文章を匕甚しようず、それは、それらに察しおゎダヌルが「論理的に深い理解を持っおいる」ずいうこずではなく、蚀っおしたえば、それが「奜き」ずいうレベルにおいおの「理解」を持っおいるに過ぎない。

    だからゎダヌルは、たるで「無邪気な子䟛」のように、それらの「奜きなもの」をあれこれ集めおきおは、奜きな「フィルムの䞊」にあれこれ配眮しお、自分なりの「箱庭療法」的な「コラヌゞュ䜜品」を䜜っおいるだけなのである。
    そしおその「奜きなものの寄せ集め」が、たたさか「思いがけない出䌚いずしおの矎」を産むこずを期埅するし、映像的センスのある圌は、時にそうした「奇跡的な矎的事件」を匕き寄せおしたうのである。

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    「箱庭療法」の箱庭

    い぀も、そううたくはいかないから倱敗䜜もあるけれど、それは圓たり前のこずなのだ。
    圌が「圢匏論理的な方法論理屈」には寄らず、盎芳ず「偶然」の可胜性に䟝拠しおいる以䞊、成功もあれば倱敗もあるのは、圓然のこずなのである。

    ゎダヌルの䜜品が、基本的にはすべお「䜕がやりたいのか、よくわからないような䜜品」でありながら、それでも「文句なしの成功䜜」ず「ほずんど倱敗䜜ず呌んで良い䜜品」ずがあるのは、こうしたゎダヌル映画の䜜り方の「特性」からくるものなのである。それは無難に安定的な創䜜䜜法ではないのだ。

    圌は、できるかぎり「自分の知性や思想」などずいう「小賢しいもの」ものを排陀しお、ただ、その「矎的盎芳」の赎くたたに䜜品を䜜ろうず努力し、それがうたくっお、そこに「予想もしなかった矎」が宿るこずもあれば、そうはいかなかったこずも、しばしばある。

    ただ、圌ずしおは、「商業映画」的な「瞛り」の䞭では、圌の望むような「矎の恩寵」は蚪れないであろうこずを知っおいたからこそ、圌はそうした「瞛り」から自由であろうずしたのである。

    したがっお、圌はこずさらに「反骚」「ぞそ曲がり」だずいうのではなく、むしろ「自由」であるためには、吊応なく「反骚」「ぞそ曲がり」たらざるを埗なかったのだ。
    時に、䞀般的な意味での「人間的な幞犏」を捚おおでも、この䞖の「瞛り」から「自由」であろうずせざるを埗なかった、ずいうこずなのである。

    私たちが、ゎダヌル䜜品を芋る時に考えなければならないのは、圌が「䜕を衚珟しようずしたのか」ではなく、圌が「䜕を埅ち望んだのか」ずいうこずなのである。




    2024幎7月30日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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