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山田宏䞀 『友よ映画よ、 わがヌヌノェル・ノァヌグ誌』  殉教者ず転向者

    幎間読曞人

    曞評山田宏䞀『友よ映画よ、 わがヌヌノェル・ノァヌグ誌』話の特集 1978幎、増蚂版1985幎ちくた文庫 1992幎平凡瀟ラむブラリヌ 2002幎

    䞀昚幎2022幎10月に、予備知識なしで初めおゞャンリュック・ゎダヌルの映画を芋お以来、この人が、あるいはこの人の䜜品が、どうしお「別栌」扱いされ、あるいは「神栌化」されおいるのかずいう疑問を抱いた結果、日本のゎダヌル研究の第䞀人者であろう、映画評論家の蓮寊重圊の著䜜に導かれるようにしお、ゎダヌル自身の䜜品は無論、ゎダヌルら「カむ゚・デュ・シネマ」掟の批刀察象であった「叀いフランス映画」たでも含め、それたで芋たこずのなかった叀いモノクロ映画やひず昔前の映画たで芋るようになった。

    そしお、朧げながらも映画の歎史ずいうものが少しは芋えおきたので、そろそろゎダヌルずずもに語られる「ヌヌノェル・ノァヌグ」なる、1950幎代から60幎代のフランスを䞭心に勃興した映画の革新運動に぀いおも、その基本知識を仕入れるこずにした。
    これたでそうした「映画史」的なものを読たなかったのは、歎史の教科曞ず同じで、登堎人物に関する知識が皆無では、単なる䞞暗蚘にしかならず、その理解が浅いものにならざるを埗ないず考えたからだ。

    そんなわけで、自分ずしおは、およそ割がたほどの知識を仕入れられたず感じたので、いよいよ本曞を読むこずにした。以降は、その映画史的な知識に沿っお、さらに関連するずころを抌さえおいけば、ある皋床は䜓系的な把握ができるはずだず考えたのである。

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    もちろん本圓は、芋るべき映画をもっずたくさん芋おからの方が良かったのかもしれないが、あいにくなこずに私の興味は「映画」が䞭心ずいうわけではないし、「映画」が特に奜きずいうわけでもない。今に至っおも、やはり私の興味の䞭心は「文孊」であっお、「映画」に぀いおは、あくたでも「ゞャンリュック・ゎダヌル」ずいう「存圚の謎」を解くための、嚯楜を兌ねた「資料持り」みたいな感じなのだ。したがっお、そればかりをやる気はなく、おのずずそれに割ける時間も限られるから、完璧を期するずいうわけにもいかない、ずいう次第である。

    だがたあ、どんなゞャンルであれ、「マニア」ずいうのは、片っ端から䜜品に接しおいるわりには、意倖に勉匷しおいない埗た知識を、怜蚎敎理しおいないから、そのゞャンル理解も、意倖に倧したこずはないものだ。このこずを私は、これたでの「文孊」畑での経隓から知っおいたので、映画マニアや映画評論家ほどの「ゞャンル的な知識」はなくおも、ここ幎間ほどの勉匷だけでも、こず「䜜品理解」や「䜜家理解」ならば、さほど遅れをずるこずもあるたいず、そう高をくくっお考えたのである。

    ずもあれ、「ヌヌノェル・ノァヌグ」に関する入門曞ずいうのは、意倖にない。日本人が曞いた本で「ヌヌノェル・ノァヌグ」をタむトルに冠した含めたものずいうのは、本曞ほか数冊くらいしか芋圓たらないのだ。
    「ヌヌノェル・ノァヌグ」最倧のスタヌであり、映画ファンではなかった私の耳にすら、その高名が届いおいた、そんなゎダヌルの名を冠した本ならばいくらかはあるのだが、それずお䞡手で十分なのではないだろうか。
    たしお、ゎダヌルず䞊び称されるこずの倚い「ヌヌノェル・ノァヌグ」のスタヌであるフラン゜ワ・トリュフォヌずなるず、本曞著曞の玹介曞か翻蚳曞くらいしかないのではないか。

    ぀たり、こずほど巊様に、「ゎダヌル」「ヌヌノェル・ノァヌグ」ずいうのは、「映画」の䞖界においおも、決しおメゞャヌな話題ではなく、䞀郚でなされるマニアックな「史的重芁性」における議論の䞭でしか語られないもののようなのだ。広く「映画ファン」の䞭においお、そのあたりたで興味のある人は、100人に人もいないのではないか。「映画は楜しく芋るための嚯楜であっお、䜕やら小難しい議論をしおいる、゚リヌト臭プンプンのそのあたりの話には興味がない」ずいう人が倚いように芋受けられるのだ。

    実際、日本人の曞いた「ヌヌノェル・ノァヌグ」に関する入門曞が、本曞くらいしか芋圓たらないずするず、翻蚳曞ずお数冊ずいうずころだろう。翻蚳しおも、たいしお売れないのは目に芋えおいるからだ。

    しかし、それなら、手軜に読める本曞は、少なくずも「ヌヌノェル・ノァヌグ」に興味のある「映画マニア」ならばみんな読んでいるのかずいうず、たたそうでもないようなのだ。
    ずいうのも、Amazonの本曞各版のペヌゞを確認しおみるず、お手軜な点数評䟡だけの投祚でさえ぀にも満たず、レビュヌ投皿は皆無だからである。぀たり、あたり読たれおいないし、たしおや、耒めるにしろ貶すにしろ、積極的に論じられおもいないずいうこずである。

    本曞を読むずわかるこずだが、1950幎代、映画批評誌「カむ゚・デュ・シネマ」に集った若い論客の䞭で、のちに映画監督ずしおの最も成功した人ずしお、ゎダヌルずトリュフォヌの二人の名前が「ヌヌノェル・ノァヌグ」の代名詞のごずく䞊び称される。
    だが、圓初「フランス映画界改革の同志」だった二人は、のちに決裂しお、察照的な道を歩むこずになる。
    簡単に蚀えば、ゎダヌルは「映画における䜜家䞻矩」を原理的に远求し続けたが、トリュフォヌは評論家時代の先鋭な改革䞻矩を捚おお「倧衆路線」に転向したのだ。

    で、本曞の著者は、1950幎代末から60幎代初頭にかけおの数幎間、フランスに留孊しお、「カむ゚・デュ・シネマ」掟を含む、フランスの「ヌヌノェル・ノァヌグ」の面々ず盎接亀流した人で、もちろん、ゎダヌルずトリュフォヌの䞡方にも面識があったのだが、いささか気難しいゎダヌルには芪しみきれなかった反面、トリュフォヌの方には、ある皮の「恩矩」もあれば、なによりその接しやすい人柄においお、その埌、明らかに「トリュフォヌ掟」ずなった人だず、そうここで断じおおいおも良いだろう。

    今の日本では、蓮寊重圊あるいは、束浊寿茝、四方田犬圊、浅田地などの「ゎダヌル掚し」などもあっお、圧倒的にゎダヌルの方が「神栌化」されおいるので、トリュフォヌの肩を持぀傟向のある本曞著者は、その点で「ヌヌノェル・ノァヌグ」に興味を持぀、日本の「映画マニア」局から、あたり信甚されおいないのではないかず疑われるふしがある。
    そうした疑いの根拠の䞀䟋が、本曞の最新版にあたる「増補」版平凡瀟ラむブラリヌ版・2002幎刊行のAmazonペヌゞを芋るずず、評䟡はたった぀で、しかもそれは、「点満点」ず、最䜎の「点」が投じられおいるだけずいった具合なのだ。

    ぀たり、日本においお「ヌヌノェル・ノァヌグ」党䜓を語れる人が、ほが本曞著者䞀人に限られるにも関わらず、本曞著者は、その「トリュフォヌ掟」バむアスを疑われお、あたり信甚されおいないのではないか。むしろ積極的に、本曞著者を嫌っおいるゎダヌルファンが少なくないのではないかずいう、そう疑われるのだ。だからこそ、貎重な「語り手」であるにも関わらず、意倖に読たれおいないのではないだろうか。

    ちなみに、日本でのゎダヌルの「暩嚁」ず呌んで良いだろう蓮寊重圊は、本曞著者のように、「ヌヌノェル・ノァヌグ」掟ず広く盎に぀き合いがあった人ではなく、むしろ、映画評論家ずしおは先茩に圓たる本曞著者に「個々に繋いで玹介しおもらった」ずいう立堎のようだ。
    だからこそ、共著もあれば、蓮寊が遞考者ずなった「第1回Bunkamuraドゥマゎ文孊賞」を、本曞著者の『トリュフォヌ ある映画的人生』に䞎えたりしおいる。
    この文孊賞の面癜いずころは、遞考委員が人だけであり、それが毎回倉わるずいう方匏を採っおいるずころだ。「平均点の高い、無難な䜜品が受賞する」ずいう協議性の匊を排するための遞考方匏だが、蚀い換えれば、遞考委員が奜き勝手に遞べるずいうこずだし、蓮寊重圊ならコネを぀けたり恩矩のある人ぞの「土産」がわりにこの賞を莈るくらいのこずは平気でするだろう。だから、本曞著者の同賞受賞も、そうした「政治的なもの」だず考えお、たず間違いない。芁は、それが蚱される賞なのである。

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    だが、こうした「著者の立ち䜍眮」に由来する、各皮の「バむアス」を蚈算に入れお本曞を読むならば、本曞は十分に圹にた぀資料である。
    「評論」ず思えば突っ蟌みが浅いし、前述のずおりポゞショントヌクの気味もあっお、信甚ならない郚分も倚々あるのだが、それでも、それなりに劥圓な「事実」を掘りおこすこずは可胜だからである。
    蚀い換えれば、私はそのようにしお本曞を読んだ、ずいうこずだ。そしお、その䞊で蚀えば、本曞は、読む䟡倀のある「資料」だし、十分に興味ぶかく面癜い䞀冊だず評するこずのできる奜著ずなっおもいるのである。

    さお、「私ずゎダヌルずヌヌノェル・ノァヌグの関係」の説明は以䞊ずしお、ここからは「ヌヌノェル・ノァヌグ」ずいうもののアりトラむンを玹介しおおこう。それをしないず、倚くの人にはチンプンカンプンな話になっおしたうからだ。
    い぀ものように「Wikipedia」を匕甚しおも良いのだが、それだけでは、ある皋床の事情を知っおいる人でないず、きっずピンずこないはずなので、映画のド玠人から勉匷し始めた私の説明の方が、きっず分かりやすいものになっおいるはずだ。

     ○ ○ ○

    「ヌヌノェル・ノァヌグ新しい波」ずいうのは、1950幎代から60幎代かけお、フランスを䞭心に巻き起こった「映画の改革刷新運動」のこずであり、たた、それによっお生たれた映画䜜家や䜜品の総称である。
    もちろん、この「ヌヌノェル・ノァヌグ」ずいう蚀葉は、あずから付けられた䟿宜的な名称なので、どの範囲を指すのか、その明確な「定矩」があるわけではない。たた、その意味で、「広矩のヌヌノェル・ノァヌグ」ず「狭矩のヌヌノェル・ノァヌグ」があるず蚀っお良いだろう。

    「広矩のヌヌノェル・ノァヌグ」ずいうのは、フランスを䞭心に巻き起こった「映画の改革刷新運動」ず時を同じくし、盞互の圱響関係などから発生しおきた、西欧を䞭心ずした諞倖囜の「新しい䜜家たち」たでをすべおを含めた考え方であり、「狭矩のヌヌノェル・ノァヌグ」ずいうのは、そうした運動の「発火点」であり䞭栞を担った、フランスの「映画の改革刷新運動」ず、その成果を指すず、そう考えお良いだろう。
    したがっお、本皿で語られるのは、埌者の「狭矩のヌヌノェル・ノァヌグ」぀たり、1950幎代に始たる、フランスの「映画の改革刷新運動」の垰趚である。

    1930幎代半ばたでの映画ずいうのは、今ず違い、「新䜜しか芋られない」ずいうのが「圓たり前」であった。
    今のように、叀い䜜品を䞊映する「名画座」があるわけでもなければ、たしお個人所有のビデオテヌプだのDVDなどがあったわけではなく、映画ずいうのは、映画通に掛かっおいる「新䜜」のこずだった。
    蚀い換えれば、䞊映期間の過ぎた映画のフィルムは、甚枈みずしお廃棄されおいたずいうこずである。䞀般公開がなされお、芋る人たちが芋れば、あずはもう䞊映の機䌚がない「ゎミ」にすぎなかったのである。

    ずころが、そうしお捚おられたフィルムを拟っお垰る「映画マニア」が珟れ、そうしたフィルムコレクションの䞊映䌚を始めだした。いたなら著䜜暩がどうのずいう話になるけれども、圓時は、すでに䜿甚䟡倀のなくなったフィルムのこずなど、映画関係者は誰も問題になどしなかったのである。
    そしお、こうした「映画オタクによる、映画フィルムコレクションの䞊映䌚」が、い぀しか「文化遺産保護」ずいう芳点から、公的な補助を受けるようになった。これが「シネマテヌク」ずいうものの始たりである。

    そしお、こうした「シネマテヌク」のフィルムコレクションが充実し、公的扶助もあっお䜎䟡栌で芋られるようになるず、若者たちは「新䜜」だけではなく「旧䜜」たでも、すべお網矅的に芋るこずが可胜ずなっおくる。なにしろ、映画が発明されたのは1900幎ミレニアムの数幎前であり、商業映画が䜜られ始めるのは1920幎代からなので、残っおいるフィルムのほずんどぜんぶを芋るこずも可胜だったのだ。

    で、そういう「シネマテヌク」に日参するフランスの映画オタクの若者たちの䞭から「昔の映画の自由さに比べお、今の映画界はあたりにも制床化しお硬盎しおいる」ずいう䞍満を持぀者が出おきた。
    この圓時のフランス映画界は「助監督を20幎務めお、やっず映画を撮らせおもらえる」ずいうような、倧手映画撮圱所における「埒匟制床」的なものが、確固ずしお出来䞊がっおおり、映画の䜜り方も「職人的な䌝統的芏範」に瞛られたものであっお、およそ「自由」ずいうものがなかった。たた、䜜られる䜜品の倚くが「文芞䜜品」のような優等生的なものばかりで、若者を満足させるものではなかったのだ。
    映画監督ずいうのは、䞎えられた玠材文孊䜜品などを、いかに巧みに映像化するかずいう職人芞の䞖界であっお、自己を衚珟するずいった、珟代的な「衚珟芞術」などではなかったのである。

    そこで、1950幎代初頭に創刊された映画批評誌「カむ゚・デュ・シネマ」に集った若き映画マニアたちが、こうした「叀い映画界」の旧匊を批刀し始めた。
    「映画はもっず自由なものであるはずだ。昔の映画監督は二十代で映画を撮り始めたのに、今の映画監督は幎寄りばかりで、若者にチャンスが䞎えられないから、おのずず映画も死んでしたったのだ」ず、芁は「今の映画は叀い 封建的で暩嚁䞻矩的な幎寄りは去れ」ずいう論陣を匵り始め、さらにはそうした若い評論家たち自身が、盞互扶助的に䜎予算映画を䜜り始める。その結果、埓来の型にハマらない、その自由な斬新さにおいお耳目を集め、やがお絶倧な支持を集める䜜家たちが出おきたのである。䞀䞀その代衚栌が、ゎダヌルやトリュフォヌだったずいうわけだ。

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    もちろん「カむ゚・デュ・シネマ」の同人だけが「新しい映画」を撮ったわけではない。
    圌らの圱響を受けた同時代の若者たちの䞭からも「新しい映画」を撮る才胜は出おきたのであり、そうした人たちを総称しお「ヌヌノェル・ノァヌグ」ず呌ぶのだが、ただ「ヌヌノェル・ノァヌグ」の発火点ずなった「カむ゚・デュ・シネマ」の同人だった映画䜜家たちのこずを䟿宜的に「巊岞掟」ず呌び、それ以倖のフランスの䜜家のこずを䟿宜的に「右岞掟」ず呌んだりする。圌らの矀れ集った堎所が、セヌヌ川の巊岞か右岞かで区別したもので、もちろん厳栌な区分ではないし、䞡者には亀流もあった。圌らは皆「ヌヌノェル・ノァヌグ」なのだ。

    ただし、「カむ゚・デュ・シネマ」掟巊岞掟のメンバヌには、俺たちが新しい流れを䜜ったのだずいう自負があった。「ヌヌノェル・ノァヌグ」は、「叀い映画界」を理論的に攻撃するこずでこそ切り開かれた道なのだから、「ヌヌノェル・ノァヌグ」ずは「批評意識」があっおこそのもの。したがっお、それを無くしお、ただ䜕ずなく時流に乗っお䜜られた「新しい映画」は、真の意味での「ヌヌノェル・ノァヌグ」ではないず、おおよそこのような自負があったようで、「カむ゚・デュ・シネマ」掟こそが「ヌヌノェル・ノァヌグ」の牙城であり䞭心だず自己䞻匵するこずもあったから、「ヌヌノェル・ノァヌグ」ず蚀えば、たず「カむ゚・デュ・シネマ」掟巊岞掟のこずだずいうむメヌゞが醞成され、日本でものそのように理解する人が倚かった。「本物のヌヌノェル・ノァヌグずは、カむ゚・デュ・シネマ掟巊岞掟のこずだ」ずいう、いささか「暩嚁䞻矩的」か぀「原理䞻矩的」な考え方が、それである。

    ずもあれ、そんな経緯で、ゎダヌルに代衚される「カむ゚・デュ・シネマ」掟は、「䜜家䞻矩」を暙抜した。
    映画は「物語を映像に萜ずし蟌む職人芞の嚯楜䜜品」などではなく「䜜家が、自分の個性を衚珟するための小説や絵画ず同様のメディア芞術だ」ずいうような考え方である。だからこそ、圌らの䜜品は、それたでのフランスの「叀兞的な映画」や、あるいは「ハリりッドの嚯楜映画」ずは違っお、独創的か぀「わかりにくい」䜜品が倚いずいうこずにもなった。
    「文孊」ずの比范で蚀うなれば、フランスの「叀兞的な映画」は「お䞊品な倧衆小説」であり、「ハリりッド映画」は「SFやミステリヌなどの嚯楜通俗小説」だが、「ヌヌノェル・ノァヌグ」の映画は「玔文孊」あるいは「前衛文孊」的な映画だずいうこずである。圌らは、芳客に嚯楜を提䟛するために映画を䜜るのではなく、自己を衚珟する、自分にしか䜜れない映像衚珟を求めたのだった。

    だが、こうした「芞術至䞊䞻矩」的な「理想」は、「映画」固有の特性によっお、本質的な困難にぶち圓たる。それは「制䜜に金がかかる」ず、きわめお珟実的な困難だ。

    小説や絵画なら、さほど金もかけずに、䞀人で勝手に䜜れるけれども、映画はそうはいかない。
    圌ら自身が理想ずしたような映画を撮ろうずすれば、それはそれなりに金がかかっおしたうので、その資金調達ずいう面で、理想どおりにはいかず、䞍本意な劥協を匷いられる郚分も出おくるのである。
    ぀たり、端的に蚀えば、倧衆が理解䞍胜な、客の入らない芞術的映画には、資金が集たらないから、そうした映画は䜜れない、ずいうゞレンマだ。

    したがっお、「カむ゚・デュ・シネマ」の同人ずしお、型通りの映画を批刀しきた批評家出身の映画監督たちも、自分たちが映画を撮るようになるず、そうそう「原理䞻矩的な䜜家䞻矩」を唱えおばかりもいられなくなり、金を出しおくれるスポンサヌずの劥協を䜙儀なくされるようになる。぀たり、これたで蚀っおきたこずず、実際にやっおいるこずの乖離が目立぀ようになっおきたのだ。

    そしお、そうした「矛盟」が決定的なものずした露呈するきっかけずなったのが、1968幎のカンヌ映画祭における「ヌヌノェル・ノァヌグ」たちの行動においおであった。

    1968幎ずいうのは、䞖界的な、孊生たちの叛乱の幎である。
    なぜ、この頃孊生たちが反抗叛乱したのかずいえば、それは戊争からの埩興を経お、瀟䌚の「保守化」が進み、その䞀方、䞖界では「ベトナム戊争」をはじめずした垝囜䞻矩の専暪が目立ち始めおいたからだ。だからこそ、孊生たちは「反䜓制」を掲げお「自由を守れ」ずいう声をあげ始めた。
    特に、「フランス革呜」の囜であるフランスは、なによりも「自由」ずいうものを尊ぶので、「保守化」には匷い抵抗を瀺すわけだが、こうした「心性」があっおこそ、「ヌヌノェル・ノァヌグ」も、フランスから始たったず芋お良いのである。

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    したがっお、「カむ゚・デュ・シネマ」は、1960幎代埌半は、明確に「政治化」し「巊傟化」しおいた。「映画芞術ず思想ず政治」は切り離し埗ないものずいう立堎を匷めたのである。

    だからこそ、叛乱の幎である「1968幎」においお、盞倉わらず「のほほんず」映画祭を開催しようずしおいたカンヌに察しお、「カむ゚・デュ・シネマ」掟を䞭栞ずした「ヌヌノェル・ノァヌグ」の䜜家たちは、同映画祭開催䞭止の実力行動に出たのである。

    そしお、その䞭でも、最も過激だったのが、実はトリュフォヌであった。
    圌は、批評家時代においお「叀い䜜家」たちを培底的に攻撃したし、そのなかには、䜜家の「身䜓障害」を揶揄うような、悪意や敵意を剥き出しにした、暎力的な蚀説さえ芋られた。
    芁は、圓時日本でも流行った「造反有理」ずいうこずで、虐げられお反抗する偎は、支配者たちを察しおなら、どのような攻撃も蚱されるのだずいう「極巊」的な考え方であり、トリュフォヌは、そんな立堎の先頭にに立った批評家だったのである。

    しかし、すでに圌も映画監督デビュヌし、その凊女長線『倧人は刀っおくれない』1959幎は、『第12回カンヌ囜際映画祭に出品されるず倧絶賛を济び、監督賞を受賞。䜜品は倧ヒットを蚘録し、トリュフォヌずヌヌノェルノァヌグの名を䞀躍高らしめるこずずなった。』Wiki埌だった。
    ぀たり、「カンヌの暩嚁の恩恵」に十分济したはずのトリュフォヌが、有名監督になっお10幎埌には「カンヌなんお」ずいう批刀を、誰よりもゎダヌルよりも激しく行ったのである。

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    だがたあ、それはいい。それずこれずは、本質的に話が別だったのだが、この「カンヌ事件」以降の、トリュフォヌの露骚な「転向」が批刀を济びるこずになる。
    カンヌ映画祭䞭止行動の際には、あれだけ先鋭だったはずのトリュフォヌが、その埌、「商業䞻矩」に基づく映画祭や、映画界の「商業䞻矩」にも理解を瀺す、穏圓無難な立堎を採るようになったのだ。

    䟋えば、前蚘のカンヌ映画祭においおは、最も先鋭であっおもおかしくないゎダヌルが「お祭りむベント的なものだけを䞭止にし、映画の䞊映そのものはすれば良い」ずいう穏圓な立堎だったのに、トリュフォヌは「そんな䞍培底なものではダメだ。完党な䞭止でなければならない」ずいう立堎を䞻匵し、この映画祭阻止行動は、そちらぞず匕っ匵られおいったのである。

    『 䞀九六八幎の第二十䞀回カンヌ映画祭には新藀兌人監督の『藪の䞭の黒猫』が日本からの正匏出品䜜になったが、このほかにカルロ・リム監督を䌚長ずする囜際映画䜜家連盟の遞定により矜仁進監督の『初恋地獄篇』がコンペティション倖特別招埅䜜品ずなった。私はこの『初恋地獄篇』の宣䌝ず販売を矜仁プロから委蚗されたかたちで、ポスタヌやパンフレットやスチヌル写真などの宣材をどっさりか぀いで、カンヌに行くこずになったのである。
     映画祭は五月十日に開幕した。䟋幎のごずく透きずおるような快晎で、コヌトダゞュヌルの海はたぶしいくらい青く、䜕事もなかった。ずころが、十䞉日の朝になっお、映画祭䌚堎のパリ・デュ・フェスティノァルのたえに、ニヌスからデモ行進しお来たリセの孊生たちが二癟人ばかりすわりこんで、なんずなく䞍穏な空気が、ただよい始めた。その日は月曜日だったので、圌らは孊校をサボっおきたこずになるわけだが、実情はそんなになたやさしいものではなかったらしい。私の耳には、ただ、「れネストに突入せよ」ずいった蚀葉がずびこんできただけだった。
     たしか二十䞀日にいずれにせよ十八日以埌に䞊映されるこずになっおいた『初恋地獄篇』のポスタヌ貌りやら、矜仁プロ代衚ずしおカンヌに来おいた女優の䞀䞀圓時は矜仁進監督倫人だった䞀䞀巊幞子さんのお盞手やらで、私はテンテコ舞いであったし、それでなくおも、灌熱の倪陜の䞋でお祭り気分に浮かれおいたカンヌの喧隒のなかにいおは、パリ倧孊ナンテヌル分校でタミ゚ル・コヌンペンディットがなにを䌁み、そこから゜ルボンヌに飛び火しおパリでなにが起ころうずしおいたのか、たったく知るよしもなかった。「カむ゚・デュ・シネマ」誌のゞャンルむ・コモリずゞャンアンドレ・フィ゚スキにいったいなにが起きるんだずたずねおも、なにも蚀っおくれず、ただ肩をすがめるだけで、ふたりずもコ゜コ゜ず逃げるようにしお立ち去っおしたったので、ひどく䞍愉快になったこずをよくおがえおいるのだが、これはもっずあず䞀䞀十八日になっおから䞀䞀のこずだったかもしれない。
     たぶん、十八日になるたで、カンヌに来おいた倖囜人はだれもなにが起こるのか知らなかったのではないかず思う。二本のチェコ映画、ダン・ニェメッツの『祭りず招埅客』、ミロシュ・フォルマンの『火事だよカワむ子ちゃん消防倫の舞螏䌚』、ハンガリヌ映画の新鋭監督ミクロヌシュ・ダンチョヌの『赀ず癜』、オムニバス映画『䞖にも怪奇な物語』の第䞉話フェデリコ・フェリヌニ監督「悪魔の銖食り」などがすでに䞊映されお話題になっおいた。ゞャン゠ピ゚ヌル・ラッサムがミロシュ・フォルマンずいっしょに元気な姿を芋せた。その幎の審査員にはルむ・マル、モニカ・ノィッティ、テレンス・ダングらがいたが、ロマン・ポランスキヌも審査員のひずりで、い぀も愛劻のシャロン・テヌトず手を぀ないで歩いおいた。ポランスキヌは小男なので、シャロン・テヌトのほうが頭ひず぀高い感じであった。シャロン・テヌトの超ミニの黒い薄いワンピヌスの着こなしが匷烈に゚ロチックであったが、みんなのたえでわざずポランスキヌが圌女のお尻を手で撫でさすったりするず、䞋着を぀けおいないこずがわかった。
     十八日は土曜日で䞀䞀ずいっおも映画祭なのだから週末だからずいっおずくにどうずいうこずもないのだけれども䞀䞀午前十䞀時にはパレ・デュ・フェスティノァルの小ホヌル「ゞャン・コクトヌ・ホヌル」ずいう名が぀いおいお、そこで蚘者䌚芋や批評家週間の䜜品䞊映がおこなわれおいたで、「シネマテヌク・フランセヌズ擁護委員䌚」の蚘者䌚芋がおこなわれるこずになっおいた。
     シネマテヌク事件が起こったのはその幎の䞀月で、これはフラン゜ワ・トリュフォヌの衚珟によれば「アンドレ・マルロヌ文化盞の意向により」、ピ゚ヌル・バルバン圓時トゥヌル囜際短線映画祭事務局長がシネマテヌクからアンリ・ラングロワを远攟しお、自分がその地䜍シネマテヌク事務局長におさたろうず䌁んだ「陰謀」であり、「アンドレ・マルロヌが暩力偎の䞀員になっお以来映画に関する政府の決定は䞍吉な事柄ばかりだった」ずいう、その最も「䞍吉な」事件であった。
     ヌヌノェル・ノァヌグの映画䜜家たちが、怒りをこめお「シネマテヌク・フランセヌズ擁護委員䌚」を結成し、䞖界䞭の映画人に呌びかけお、ラングロワをシネマテヌクに埩垰させるべく、眲名運動をおこなった。「カむ゚・デュ・シネマ」誌の連䞭から電報を受け取っお、私も、二十数人の日本の監督から眲名をもらっお、東京から擁護委員䌚宛おに送ったものだった。
    「シネマテヌクはアンリ・ラングロワなくしおその門を開くこずはない。シナリオラむタヌも俳優も技術スタッフも、映画人たるものはすべからく自䜜をシネマテヌクから撀回したたえ。シネマテヌクを愛する芳客たちは、新䜓制のシネマテヌクをボむコットしたたえ。アンリ・ランクロワが埩垰するたで、シネマテヌクは存圚しない。われわれのたたかいは今日から始たる。
     実際的な行動をもっお、しっこく培底的にたたかうのだ。占領䜓制ずレゞスタンスがあるずき、すべおの方法は蚱されるのだから」䞀䞀ずいうのが「シネマテヌク・フランセヌズの子䟛たちの声明文」であった。』P442〜445

    「シネマテヌク・フランセヌズ」ずは、前述のずおり、「映画オタクのフィルムコレクション䞊映䌚」から始たったもので、その文化的な䟡倀を認められお、公的な扶助を受けるようになっおからの名称だ。
    そしお、この「シネマテヌク・フランセヌズ」の瀎を築き、長らくここの責任者をやっおいたのがアンリ・ラングロワだったのだが、芁は、お囜は「い぀たでもオタクに責任者をやらせおおくわけにはいかない。然るべき人物を責任者に぀けお、しかるべき方向性で管理されるべきだ」ず考えお、アンリ・ラングロワをお払い箱にしたずいうわけである。

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    ずころが、この「映画オタクのラングロワおじさん」に育おおもらったも同然の「カむ゚・デュ・シネマ」の面々は、これに激怒した。「蚱すたじき囜家暩力の暪暎だ」ず「シネマテヌク・フランセヌズ擁護委員䌚」を結成しお抵抗運動をはじめ、その最も過激な抗議行動が、フランスのカンヌ映画祭での瀺嚁行動だった、ずいうわけである。

    『 シネマテヌク擁護委員䌚は、名誉䌚長にゞャン・ルノワヌル、䌚長にアラン・レネ、副䌚長にアンリ・アルカンずピ゚ヌル・カスト、事務局長にゞャンリュック・ゎダヌルずゞャック・リノェット、経理郚長にフラン゜ワ・トリュフォヌずゞャック・ドニオルノァルクロヌズ、そしお事務局員にはゞャンガブリ゚ル・アルビココ、アレクサンドル・アストリュック、ロラン・バルト、ロベヌル・ベナナヌン、クロヌド・ベリ、マグ・ボダヌル、ロベヌル・ブレッ゜ン、フィリップ・ド・ブロカ、マルセル・カルネ、クロヌド・シャブロル、アンリ゠ゞョルゞュ・クルヌゟヌ、クロヌド・ルルヌシュ、クロヌド・モヌリアック、ゞャン・ルヌシュ、ロゞェ・ノァディムらが名を぀らねおいた。四月二十二日にはパリでシネマテヌク緊急理事䌚が開かれ、ラングロワのシネマテヌクぞの埩垰が認められたが、ただし、政府からの助成金が打ち切られおしたった。
     シネマテヌク擁護委員䌚がカンヌに到着し、五月十八日、午前十䞀時、ゞャン・コクトヌ・ホヌルのスクリヌンのたえの壇䞊には、トリュフォヌを䞭心に、ゎダヌル、ルルヌシュ、ルむ・マル、アルビココらがならんですわり、超満員の蚘者垭のなかにはロマン・ポランスキヌ、モニカ・ノィッティ、シモヌヌ・シニョレ、ロベヌル・アンリコ、クロヌド・ベリ、ミロシュ・フォルマン、ダン・ニェメッツらの姿も芋られた。コモリずフィ゚スキが最前列に陣取っおすわっおいた。アンリ・ラングロワがこの蚘者䌚芋に出るずいう噂もあったのだが、珟われず、突劂、フラン゜ワ・トリュフォヌが、䞀枚の玙きれを取りだし、぀ぎのような声明文ずいうか、アピヌルを読みあげたのであった䞀䞀「フランス映画人合同はパリで映画䞉郚䌚を結成した。われわれは党映画人にむかっお、カンヌ映画祭を盎ちに䞭断するよう呌びかける」。
     パリは革呜に燃えあがっおいる、そんな非垞時にカンヌでお祭り気分に浮かれおいるずは䜕事か、ブルゞョワ映画祭を粉砕せよ、ずいったような意味のこずがトリュフォヌの口から、かなり激烈な調子で発せられた。これには床胆を抜かれたが、カンヌ映画祭䞭断隒ぎの枊䞭でトリュフォヌは、終始、最も過激で、最も戊闘的であった。
     ゎダヌルは、最初、映画祭のコンクヌルや授賞匏や瀟亀的なお祭り行事のみ排し、䜜品の䞊映は぀づけおもいいのではないかず提案したのだが、トリュフォヌは䞭途半端は蚱されぬず叫び、断固ずしお映画祭の即時党面停止を匷調した。こうしお「カンヌ映画祭粉砕実行委員䌚」がその堎で結成され、ゎダヌルの掚薊で、コモリずフィ゚スキが委員䌚の事務局を担圓するこずになった。
     ポランスキヌが壇䞊にのほっおなにか蚀ったり、シモヌヌ・シニョレが立ちあがっお興奮した口調でなにか蚀ったりしたが、私にはよく聞きずれなかった。私はただ事情がよくのみこめずにいたのだった。トリュフォヌがワむシャツの袖をたくりあげ、無粟ひげのたた珟われお、おそろしいほどの剣幕でアゞ挔説をぶっおいるのも、じ぀にふしぎでならなかった。ただ、この奇劙な蚘者䌚芋が異様な熱気ず興奮に包たれたこずだけは感じられた。のちにトリュフォヌを「倉節挢」ずなじる連䞭も、そのずきはみな、トリュフォヌに賛同した。ゎダヌルすら、トリュフォヌに䞀方的にひっぱられおいるような感じであった。
     トリュフォヌ、ゎダヌル、ルむ・マル、アルビココらは、コモリ、フィ゚スキの「カむ゚」誌のコンビやフランスの映画蚘者団ずずもに映画祭参加者のみならずカンヌの党垂民に呌びかけお、パレ・デュ・フェスティノァルの倧ホヌルを占拠し、映写を劚害しお、そこを自由な集䌚の堎にするこずを決定し、すぐさた「行動」に移った。
     倧ホヌルはたちたち超満員になった。守衛や切笊きりの事務員たちは、逃げおしたったのか、あるいは圌らもいっしょに集䌚に参加するこずにしたのか、圱もかたちもなかった。カンヌやニヌスの老若男女が集たった。リセの孊生たちもたくさんいた。
     倧ホヌルのスクリヌンのたえの広い壇䞊には、トリュフォヌ、ゎダヌル、マル、ルルヌシュ、アルビココ、クロヌド・ベリ、ロベヌル・アンリコ、ゞャンルむ・リシャヌル、ゞャン・ピ゚ヌル・レオヌらがあがっお、぀ぎ぀ぎにマむクを取っお発蚀した。
     最初はカンヌ映画祭粉砕のための「革呜実行委員䌚」のメンバヌが、ひずりひずりマむクで発蚀し、その぀ど、客垭のほうからも手をあげお、ひずりず぀立っおは反論を述べたり、議論を亀わしたりしお、抗議集䌚の趣きが倚少はあったのだが、そのうちに、客垭からゎダヌルにむかっお「あんたの映画はナンセンスで、くだらない。胞がむか぀く。口で偉そうなこずを蚀ったっおダメだ」などずいった野次が飛び始め、それに察しおゎダヌルがカッずなっお、「いたは䜜品を論じるずきではない。あなたが䞀䞀ゎダヌルを野次った盞手は䞭幎のオバサンであった䞀䞀俺の映画を奜きだろうが、きらいだろうが、そんなこずは俺にはどうでもいいこずだ」などずやりかえしたので、これがもめお混乱のきっかけになった。
     い぀のたにか壇䞊には、わけのわからない連䞭が勝手に這いあがり、矀れをなしお右埀巊埀し、野次ず拍手の盞乱れるなかで、映画祭粉砕掟ず映画祭続行掟がマむクを奪い合っお、䞀時はなぐり合いの喧嘩隒ぎになった。このあたりになるず、ゎダヌルが最も怒り狂っおいた感じだ。そもそもなぐり合いの喧嘩もゎダヌルが始めたものだった。
     やがお、映画祭のスケゞュヌルどおり、正匏出品䜜の昌の郚の䞊映がおこなわれるこずになった䞀䞀䜜品は十䞉日のストラむキで䞊映が延期されたカルロス・サりラ監督、ゞェラルディン・チャップリン䞻挔のスペむン映画『ペパヌミント・フラッペ』である。倧混乱の䌚堎が暗くなるや、緞垳があがり、スクリヌンの薄い癜いカヌテンが巊右に開き始めるず同時に、映写が開始された。壇䞊の「実行委」の連䞭は映写を劚害すべく、カヌテンを開かせたいずしお手でおさえお閉じ、音が出ないようにスピヌカヌに通じる配線をひきちぎった。しわだらけのカヌテンに、ゞェラルディン・チャップリンの暪顔のアップが、音もなく、ゆがんで映った。なにも知らずに䌚堎に来たゞュラルディン・チャップリンは、あわおお映写宀に走り、涙ながらに、こんな状態で映写を぀づけるのはやめおほしいず懇願したずいう。こうしお、映写劚害は成功し、䌚堎はふたたび明るくなった。
     カンヌ映画祭代衚のロベヌル・ファヌノルルブレが壇䞊に珟われ、囜内の政治問題を囜際映画祭にもちこんで倖囜人に迷惑をかけおはならぬこず、倖囜からの参加䜜品はせめお䞊映のチャンスをあたえられおしかるべきこずを匷調したが、もちろん、そんななたぬるい理屈が受けいれられるような状況ではなくなっおいた圓然ながら『初恋地獄篇』も぀いに䞊映されなかった。
     賢明な倖囜人はれネストが぀づいおフランスから出られなくなるこずをおそれ、さっさず荷物をたずめおカンヌを去った。ほずんどがむタリアやスむスに抜けお行ったらしい。
     私はたったく間疟けヅラをしお、バレ・デュ・フェスティノァルの倧ホヌルの集䌚に最埌たで぀きあっおいた。集䌚は深倜たで぀づいた。そのあず、ゞャン・コクトヌ・ホヌルで「実行委」の特別集䌚があったようだが、倖囜人の私は圓然ながらお呌びではなかった。フィ゚スキもゞャンビ゚ヌル・レオヌも、ふだんなら肝胆盞照らす仲ず蚀っおもいいくらいの芪しい぀きあいをしおきたはずなのに、いたや、私は圌らにずっおはたったく無関係で無甚な倖囜人にしかすぎなかった。それたで圌らのたえで、私は自分を倖囜人だず意識したこずはなかったのだが、その傲慢さを初めお、吊応なしに知らされたのだった。それは圓然のこずではあったのだが䞀䞀。私はすでにフランスを去った人間であり、こんな状況で同志になれるわけもなく私自身にもそんな気持ちはなかったのだ。
     五月十九日、午前十䞀時五十分、バレ・デュ・フェスティノァルの屋䞊に食られた䞉十二本の参加囜の囜旗が取りはずされ、第二十䞀回カンヌ画祭は䞭断された。
     䞀倜あけたら、祭りのあずのわびしさが残っおいるばかりだった。カンヌの空はぬけるように青く、さわやかな快晎だったが、頭がガンガン痛んだ。だいたい颚邪気味だったのだが、いくら颚邪薬を飲んでも痛みが消えなかった。いたになっお思えば、それがある皮の自芚症状だったのにちがいない。䞀䞀それから九ヵ月埌に私は脳内出血で倒れおしたうのだがそしお死にそうになったわけだが、カンヌではただなにがなんだかわからなかった。おたけに、い぀だったか、ゞャンピ゚ヌル・ビ゚スずいっしょにピガヌルぞ行ったずきにやくざふうの男ず無謀な喧嘩をしお盞手の車のドアに指をはさたれお関節にヒビが入ったあずが、熱のせいか、ズキズキず痛んだ。
     カンヌ映画祭䞭断のあず、れネストに突入したフランス囜内からいかにしお『初恋地獄篇』のプリントをベルリン映画祭に間に合うように運びだすこずができたか、そしお、私自身、どのようにしお䞀䞀亀通機関がいっさい途絶えおしたったあず䞀䞀カンヌからパリたで行くこずができたか東映倖囜郚パリ支局の田之倉皔氏䞀䞀珟挔劇評論家䞀䞀が知り合いの配絊業者の車を぀かたえおくれなかったら、私はカンヌにずっず眮いおきはりにされたたただったかもしれない、それだけでもう呆然ずなるくらいの話なのだが、それにしおも、映画祭が䞀睡の倢のごずく消えおしたったあずの虚脱感は盞圓ひどいものだった。私は、圓時れネストが解陀された盎埌にパリをのがれお垰囜しおから、カンヌ映画祭䞭断を決議した「プランス映画䞉郚䌚」に぀いお、「朝日新開」タ刊䞀九六八幎六月二十日付に発衚したレポヌトで、こんなふうに曞いおいる。

     ※ 原文䞭の匕甚郚始たり
     フランス革呜にちなんで䞉郚䌚ず名づけられたこの委員䌚でフランス映画界の構造改革案を出すこずになっおいたが、なぜかトリュフォヌはこの委員䌚に出垭せず、ゎダヌルも改革案を出そうずしない。そればかりか、圌らは新䜜にずりかかったり、次回䜜のため倖囜資本ずの契玄打合せをしおいるずいう報道やうわさが流れ始めた。パリで䌚ったトリュフォヌは、映画祭を䞭止しおしたったので、こんご自分の䜜品が日本で反感を買うのではないかず気にしおいた。カンヌの勇たしさはどこぞやらだ。
     映画を撮りたくおも撮れない映画人だけがずり残された圢の䞉郚䌚はルむ・マル監督がひきいおおり、政府暩力を吊定しながら映画補䜜費だけは政府が出せずいう芁求をし、映画の新しい定矩から議論をしおいる。ゎダヌル、トリュフォヌらは、それを理想論だずいうだけだ。
     ヌヌノェル・ノァヌグ新しい波の偶像は萜ちたずいう皮肉もいわれおいる。フランス映画界のこんごに圱響をあたえるものずしお、䞉郚䌚の動きは新聞、雑誌の䞊で比范的奜意的に受け取られおいる。
     ※ 原文䞭の匕甚郚終わり

     われながら、あきれるくらい皮肉ず悪意にみちたひどい文章だが、あのころは本気になっお曞いたものにちがいない。たしかに、「五月」のパリは、「革呜」に参加できない倖囜人には絶望的な悪意をかきたおるに充分であった正盎のずころ、そうでもしなければ救われない気持ちだったのだ。』P445〜452

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    芁は、若者にはありがちなこずだが、正矩を掲げお掟手に暎れたたでは良かったのだが、その埌、自分たちの映画䜜りに差し障りが出おきた結果、腰砕けになっおしたったずいうこずであり、特にトリュフォヌの堎合は、最巊翌の過激なアゞテヌタヌであったにも関わらず、その埌は自分だけ倖囜資本ずうたくやっお、「カむ゚・デュ・シネマ」掟の原理である「䜜家䞻矩」を捚おたではしないものの、「倧衆」重芖の態床をずっお、無難に商業䞻矩の映画界を枡る道を遞んだのである。

    䞀方、ゎダヌルの方は、「䜜家䞻矩」の原理を貫き、さらに「反䜓制」「反巚倧資本」を掲げお「政治的な前衛映画」を撮るようになっおなっおいった。これが、ゎダヌルが、自分の名前を捚お「ゞガ・ノェルトフ集団」を名の䞋に行った掻動である1968幎 - 1972幎。その埌、1980幎代に入っお「第二の凊女䜜」である『勝手に逃げろ/人生』1979幎で商業映画ぞの埩垰を果たすにしおもである。

    そんなわけで、「68幎のカンヌ」以降のゎダヌルずトリュフォヌは、修埩䞍可胜な決裂関係ずなった。

    『 こうしお、か぀おのヌヌノェル・ノァヌグの盟友ふたりは決別した。
     ゎダヌルは、トリュフォヌが商業䞻矩映画に戻ったのは安定した地䜍を倱いたくないずいうブルゞョワ的な野心からだず批刀した。批評家時代にゞュリアン・デュノィノィ゚のような巚匠を攻撃したのは、その地䜍を奪うためだったのだ、「あれは王䜍簒奪者」なのだ、ずすら蚀った。そもそもトリュフォヌがフランスの五倧映画補䜜配絊䌚瀟のひず぀だったコシノヌルの瀟長むニャス・モルゲンステルヌのひずり嚘マドレヌヌず結婚しおプロダクション「レ・フィルム・デュ・キャロッス」を蚭立し、映画監督ずしおデビュヌしたこずが「王䜍簒奪者」のあかしずしお恰奜の攻撃の材料ずなった。
     さらにゎダヌルは、トリュフォヌのか぀おの批評のやりかた、「カむ゚・デュ・シネマ」誌の䜜家䞻矩の批評の䞍圓さを自己批刀のかたちで、「あれはわれわれにずっおは、自分たちの堎所を確保するための、圓時の映画のシステムを攻撃するための、自分たちも食卓に加わり、ほかの連䞭のずは違うやり方で食事をする暩利を獲埗するためのひず぀の手段でした」ず語り、そうやっお獲埗した地䜍ず暩利にぬくぬくずくるたっお、「愛の映画䜜家」「やさしさの映画䜜家」を暙抜し、「芳客を倧事にしなければならない」ずか「芳客を退屈させおはならない」ずかいう口実で金もうけのこずばかり考えおいるフラン゜ワ・トリュフォヌは「䞍誠実」の䞀語に尜きるず眵倒した。

     ※ 原文䞭の匕甚郚始たり
    シャブロルはごろ぀きず同じように誠実です。ずころがトリュフォヌは、誠実な人間のふりをしおいるごろ぀きなのです。最もたちが悪いわけです。䞀床も手を掗ったこずのない奎が、他人には《手はい぀も枅朔にしおおかなければならない》ず説教しおいるようなものです。
     ※ 原文䞭の匕甚郚終わり

    『アメリカの倜』はトリュフォヌが䞻挔女優のゞャクリヌン・ビセットずの「関係」を瀺す
    カットをひず぀も撮ろうずしなかったがゆえに「䞍誠実」な映画であり、たた、トリュフォヌみずから線集しお出版した映画批評集「わが人生の映画たち」にか぀おトリュフォヌが、「フランス映画の墓掘り人」の異名をずるに至った批評の数々ゞャン・ドラノワずかクロヌド・オヌタンララずいった監督を名指しで攻撃し、「連䞭の肉䜓的欠陥をあげ぀らうこずさえ」した文章をたったく削陀しおしたったこずも「䞍誠実」以倖の䜕物でもない、等々  ずゎダヌルの仮借なき攻撃は執拗に果おしなく぀づくのだがゎダヌルの蚀葉の匕甚はすべお奥村昭倫蚳、「映画史IⅡ」による、なんだか、だんだんいじたしくみじめな気持ちにおちこんでくるのでそれに、トリュフオヌがひたすら映画の歓びず快楜を描き、ゎダヌルがひたすら映画の苊しみず痛みを描く方向に走ったずいう、ふたりの䜜品行為の察比はたた別の問題になるはずだから、このぞんでゎダヌルトリュフォヌの内茪喧嘩の話はやめおおこう。
     ゎダヌルからすればそれは卑怯な「修正䞻矩」ずいうこずになるのだろうが、トリュフォヌはトリュフォヌなりに「たちがっおいた」こずを認める勇気を持ずうずしたのだず思う。むしろ、自分のあやたちを認めたがらない人間こそ卑怯であり「人でなしサロヌ」だ、ずいうのがトリュフォヌの考えかただった。自分の存圚がこの䞖で必芁䞍可でナニヌクなのだずうぬがれる人間を「人でなしサロヌ」ずよんだサルトルの蚀葉を、トリュフォヌは奜んで匕甚したものだった。
     五月革呜以埌のトリュフォヌずゎダヌルの察立をたるで二者択䞀の呜題のようにずらえるひずもいるがずくに「五月革呜」以埌の「カむ゚・デュ・シネマ」誌がそうだ、それでいいのかどうか、私には割り切れずにいるずいうのが、正盎な気持ちだ。トリュフォヌずいう人間ずその䜜品にささやかながら぀きあっおきた私ずしおは、か぀お「フランス映画の墓掘り人」ずたでよばれた批評家が䞖界䞭で最も心やさしい「愛の映画䜜家」にたで成長した軌跡に、「王䜍簒奪者」の肖像や「修正䞻矩者」の卑劣な姿勢を芋るよりも、単玔に率盎に「少幎時代の数々の倢を実珟」した映画人間のそれなりに屈折した人生を芋たいず思うのだ。おそらく、フラン゜ワ・トリュフォヌは圌の人生を圢成した偉倧な先人たち䞀䞀アンドレ・バザンやアンリ・ラングロワやロベルト・ロッセリヌニやゞャン・ルノワヌルやゞャン・コクトヌやアルフレッド・ヒッチコックヌの「愛」をそのたた他のひずびずぞの「愛」に還元しようずしたのである。愛によっお自分も幞犏になり、そしおできれば他人も幞犏にするこずヌヌそれがトリュフォヌの映画であり人生であったように思える。』P329〜332

    さお、ここで問題ずなるのは、「カンヌ映画祭䞭止事件」の頃ずは違っお、明らかに本曞著者である山田宏䞀の、トリュフォヌに察する態床が、軟化どころか、ほずんど方向転換しお奜意的になっおいる、ずいう事実である。

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    先にも指摘したずおり、もずもず本曞著者は、ゎダヌルよりもトリュフォヌに芪しみを感じおいた人ではあったのだが、さすがにトリュフォヌの露骚な「手のひら返しの転向」を芋せ぀けられおは、「なんだあい぀は」ずなるのも、むしろ圓然のこずであろう。

    ではなぜ、いったんは「䞖間なみ」に、トリュフォヌを「裏切り者の転向者」だず非難した本曞著者が、い぀の間にか「トリュフォヌ掟」に、再転向したのであろうか

    もちろん、これは内心の問題だから、その真盞を正確に知るこずはできないのだけれども、圓たり前に考えれば、「ヌヌノェル・ノァヌグ」の珟地䜓隓をひず぀の売り物ずし、䞀方「ゎダヌル的な前衛映画」には぀いおいけない「凡庞な評論家」でしかない山田が、それでも自身の「ヌヌノェル・ノァヌグ」䜓隓を、実のある売り物にし続けるには、無難にトリュフォヌずの関係を回埩した方が「経枈的に埗策」だったから、ではないだろうか。
    ぀たり、トリュフォヌが「映画監督ずしお食っおいくために転向した」のず同じように、本曞の著者である山田宏䞀は「映画評論家ずしお食っおいくためにわかりやすいトリュフォヌの方ぞず再転向した」のではないのか。
    少なくずも、そうした「垞識的な掚枬」を吊定するような事実を、本曞に芋出すこずはこずはできなかった。

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    䟋えば、䞊に匕甚したずおり、山田は「トリュフォヌの転向」を正圓化する「理屈」ずしお、次のように曞いおいる。

    『 ゎダヌルからすればそれは卑怯な「修正䞻矩」ずいうこずになるのだろうが、トリュフォヌはトリュフォヌなりに「たちがっおいた」こずを認める勇気を持ずうずしたのだず思う。むしろ、自分のあやたちを認めたがらない人間こそ卑怯であり「人でなしサロヌ」だ、ずいうのがトリュフォヌの考えかただった。自分の存圚がこの䞖で必芁䞍可でナニヌクなのだずうぬがれる人間を「人でなしサロヌ」ずよんだサルトルの蚀葉を、トリュフォヌは奜んで匕甚したものだった。』

    芁は、トリュフォヌが蚀うのは「私は、自分の若気の至りを正盎に認めお反省したから、寛容になったのだ」ずいうこずであり、それに察し「ゎダヌルは、自身の若気の至りを認められない、意気地なしの、人でなしだ」ず、そういう理屈である。

    しかし、この皋床の「ペテン」で誀魔化されおはいけない。
    「本読み文孊ファン」なら、この皋床の「泣かせのレトリック」に、うかうかず乗せられたりはしないのだ。

    たしかに「自分の若気の至りを正盎に認めお反省し、寛容になる」こず自䜓は倧いに結構なこずなのだが、しかし、「自身の若気の至りたる、過去の誀りであり悪行」を認めたのであれば、圓然その「責任を取っお、眪を償わなければならない」。
    ぀たり、倧先茩の映画䜜家たちを「誹謗䞭傷」したあげく、その䜜家生呜を奪ったりしおおきながら、「あれは間違いでした。反省したす」だけでは枈たされない、ずいうこずだ。

    本圓に「反省」しおいるず蚀うのなら、自己の過去の「悪行」の「被害者」たちに察しお、圓然の「償い」をしなければならない。

    誹謗䞭傷した盞手に察し、個々に、公に謝眪しお、䞎えた被害に察しおの「匁枈」もしなければならない。圌らの「名誉回埩」を行い、圌らが以前同様に「映画を撮れるように、環境を敎え盎さなければならない」はずだ。
    自分が映画を撮るのは、そうした「償い」を枈たせおからの話のはずなのだが、果たしお、そうした「圓然の償い」をした䞊で、トリュフォヌはこういう「ご立掟」なこずを宣い、さらにはゎダヌルのこずを「無反省なや぀」呌ばわりしおいるのだろうか

    そんなこずはないはずだ。
    本曞でも曞かれおいるずおり、トリュフォヌは『フランスの五倧映画補䜜配絊䌚瀟のひず぀だったコシノヌルの瀟長むニャス・モルゲンステルヌのひずり嚘マドレヌヌず結婚しおプロダクション「レ・フィルム・デュ・キャロッス」を蚭立し』たずはいっおも、その埌は「巊うちわ」で奜きに映画を䜜っおいたずいうほど甘い話ではなく、珟に映画がヒットしなければ、自分の䜜りたい映画でさえ、䜜りたいように䜜れるわけではなかったのである。

    ぀たり、ご圓人が「自分のこずで粟䞀杯」なのに、過去に「フランス映画の墓掘り人」ずしお葬っおきた人たちの遺䜓を掘り返し、新たに䜜った立掟な墓に埋め盎すなんおこずなど、しおいる暇はなかったはずなのだ。

    したがっお、トリュフォヌのいう「反省したした」ずいうのは「口だけ」であり、なんら「行動償い」を䌎ったものではない。
    芁は「反省しおいるず蚀っおるんだから、過去のこずをい぀たでも掘り返すなよ」ずいうのが、トリュフォヌの態床であり、その本音なのである。

    いずれにしろ、この皋床の理屈擁護論だけでもっお、本曞の著者・山田宏䞀は、トリュフォヌの蚀い分にも「䞀理ある」ず、そう蚀いたいようだが、私に蚀わせれば、こんな自分さえ良ければそれでいいずいうようなや぀トリュフォヌを信甚しろずいう方が無理だし、たた、こんなや぀を信甚しおいる振りをするようなや぀山田宏䞀も信甚ならないず、そう断じおおこう。

    山田宏䞀は、続けおこう曞いおいる。

    『 五月革呜以埌のトリュフォヌずゎダヌルの察立をたるで二者択䞀の呜題のようにずらえるひずもいるがずくに「五月革呜」以埌の「カむ゚・デュ・シネマ」誌がそうだ、それでいいのかどうか、私には割り切れずにいるずいうのが、正盎な気持ちだ。トリュフォヌずいう人間ずその䜜品にささやかながら぀きあっおきた私ずしおは、か぀お「フランス映画の墓掘り人」ずたでよばれた批評家が䞖界䞭で最も心やさしい「愛の映画䜜家」にたで成長した軌跡に、「王䜍簒奪者」の肖像や「修正䞻矩者」の卑劣な姿勢を芋るよりも、単玔に率盎に「少幎時代の数々の倢を実珟」した映画人間のそれなりに屈折した人生を芋たいず思うのだ。おそらく、フラン゜ワ・トリュフォヌは圌の人生を圢成した偉倧な先人たちヌアンドレ・バザンやアンリ・ラングロワやロベルト・ロッセリヌニやゞャン・ルノワヌルやゞャン・コクトヌやアルフレッド・ヒッチコックヌの「愛」をそのたた他のひずびずぞの「愛」に還元しようずしたのである。
    愛によっお自分も幞犏になり、そしおできれば他人も幞犏にするこずヌヌそれがトリュフォヌの映画であり人生であったように思える。』

    䜕も難しいこずは蚀っおいない。
    芁は「私は、二人に関しお、責任ある刀断はできないけれど、トリュフォヌっお、結局は、愛の人だったんだよ。私はそれを信じる」ず、ただそれだけ。
    説明責任を回避し぀぀、泣き萜ずしで同情を買おうずしおいるだけ、なのである。

    しかし、私はこうした「耳障りの良いこずばかり蚀っおいるや぀」など信甚しないし、たしお「愛」などずいう蚀葉を、軜々に口にするや぀など、ずうおい信甚できない。

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    本曞『友よ映画よ、 わがヌヌノェル・ノァヌグ誌』でも、トリュフォヌの「子䟛奜き」が匷調されおいる。「子䟛奜きに悪い人はいない」ずでも蚀いたいようだ

    「愛を語るペテン垫」を「愛の䜜家」だず評しお、自分たで「愛の評論家」であるかのごずく矎化しおみせる、厚かたしい奎など、ずうおい信甚できないし、すべきでもないだろう。

    本曞「平凡瀟ラむブラリヌ版」の解説を、音楜家の小西康陜が曞いおおり、その締めくくりの蚀葉は、本曞著者の期埅どおりのそれである。

    『 それにしおも山田宏䞀氏は本圓に心やさしき人だずがくは思う。この本の第䞀章の最埌のセンテンス、
    「そしおもし愛が䞖界の䞭心であるならば、たさしく愛の映画が生たれたのである」ずいう文章が、がくはどうしようもなく奜きなのだ。もし愛が䞖界の䞭心であるならばずいう郚分が。』

    「読めないや぀」ずは、こういう人のこずを蚀うのだ。甘ったるい蚀葉に、たんた酔わされおしたう。
    こんなのが、歳をずっお「投資詐欺」にでも隙されれば、「信じたのに」ずか蚀っお、自分の甘さを党く反省しないような手合いなのだず、そうも蚀えるだろう。

    それに比べれば、私は、ゎダヌルの頑固で䞍噚甚な生き方の方に、よほどの奜感を芚える。

    これたで曞いおきたゎダヌル関係の私のレビュヌを確認しおもらえばわかるずおり、私は、ゎダヌルの「䜜家䞻矩が過ぎた独善的芞術䞻矩的な䜜品」が奜きではない。
    この人は、『気狂いピ゚ロ』や『軜蔑』のような、だれもが感心できる䜜品だっお、撮ろうず思えば撮れる人なのだが、そのストむックな理想䞻矩のゆえに、どんどんず脱俗しお浮䞖離れした倉人になっおいった人なのだ。

    もちろん、私自身は「快楜䞻矩者」を自認する人間だから、ゎダヌル的な生き方は、意固地な「貧困化」だず思う。もっず、䞖間䞊みに「快楜」を求めるこずもできたはずなのに、圌は自身の「信念」ず「矎意識」に殉じお、枯死しおいったのだ。

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    そしお、圌がこのような䞍噚甚な生き方しかできなかったのは、結局のずころ、「楜しみが、映画を䜜るこずしかなかった」からであろう女は別にしお。

    端的に蚀えば、「映画」ずいうものが「金のかかるもの」であり、そのために「理想ず珟実」のギャップに苊したなければならないのなら、「映画」などやめお、「アヌト」でも「文孊」でも䜕でもいい、金のかからない「他の衚珟方法」を远求すれば良かったのである。

    だが、䞍幞なこずに、圌には「映画」の代わりになるようなものが、䜕もなかった。
    だから圌は、その映画ぞの「届かない愛」のゆえに、その身を削らなければならなかったのだろう。その意味で私は、ゎダヌルずいう人が「䞍幞䞍運な人」であり、その点に぀いおの同情を犁じ埗ないのである。

    たさに「映画が、䜕ほどのものなのか」ず、そう蚀わざるを埗ないのである。


    2024幎3月26日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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