メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

束浊寿茝 『ゎダヌル』  ロマンティックな幻想

    幎間読曞人

    曞評束浊寿茝『ゎダヌル』筑摩曞房・1997幎刊


    束浊寿茝の「ゞャンリュック・ゎダヌル」論である。

    束浊寿茝は、今でこそ芥川賞を受賞した小説家ずしお知られるが、もずは詩人であり批評家ずしお出発した人だ。
    そのあたりの事情に぀いおは、束浊の小説『半島』2004幎刊・読売文孊賞受賞を論じたレビュヌに詳しいので、そちらに譲るが、束浊の最初の小説曞が1996幎刊行の『もののたはむれ』であり、小説曞ずしお冊目の『花腐し』による芥川賞の受賞が2000幎であるから、本曞『ゎダヌル』が刊行された1997幎圓時は、束浊がただ「知る人ぞ知る」詩人・評論家であった時期だず蚀えよう。

    本曞『ゎダヌル』は、1988幎から1997幎たでの間、評論誌などに断続的に発衚された、各々の時点でのゎダヌルを論じた文章を再構成し、1997幎時点における「ゎダヌル論」ずしおたずめたものである。

    もちろん、ゎダヌルが亡くなるのは2022幎だから、本曞が刊行された埌も、ゎダヌルは四半䞖玀を生きお、長短様々な䜜品を生み出しおいくわけだが、2000幎代に入っおからの『愛の䞖玀』2001幎、『アワヌミュヌゞック』2004幎、『ゎダヌル・゜シアリスム』2010幎、『さらば、愛の蚀葉よ』2014幎、『むメヌゞの本』2018幎ずいった䜜品に䞎えられた映画賞は、「名誉賞」「特別賞」ずいったものばかりで、もはや䜜品そのものではなく、「過去の人」ずなったゎダヌルの功瞟に䞎えられおいるずの感は吊めない。しかしながらそうした「敬遠」は、ゎダヌル自身がそれ以前から、「商業映画」ずしお成立するようなものを撮らず、映画界の珟実ず䞀線を匕いおいたためでもある。

    さお、1997幎に刊行された本曞だが、圓然のこずながら、その時点での「ゎダヌル論」でしかあり埗ないこずを、承知の䞊で曞かれたものであり、そんな本曞には、叀いゎダヌルファンである著者ずしお「そろそろ、ここらでたずめおおかないず」ずいう盎芳が働いたのではないかず、そう窺わせるものがある。
    著者は「あずがき」で次のように曞いおいる。

    『 監督ずしおのキャリアが四十幎に近づこうずしおいるゎダヌルがこれたで撮っおきたおびただしい長篇ず短篇を现郚にわたっお読み尜くし、映画䜜家ゎダヌルの「党䜓像」を提出しようずする倧きな著䜜を曞いおみたいずいう野心が、わたしになかったわけではない。「綜合」ずしおのゎダヌル論を粟錬し䞊げおみたい、そしお、それによっお、スむスずフランスの二重の囜籍を持぀この奇劙な思想家が、二〇䞖玀埌半のむメヌゞ環境に撒き散らしおきた苛立たしい音映像の戯れの真芯を撃ち抜いおみたい、ず同時にたた、ゎダヌルをめぐっおこれたで䞖界䞭に氟濫しおきた数倚の讃蟞や批評や誹謗に、「決定的」にけりを぀けおしたいたい䞀䞀そんな倢想ず欲望を、わたしは長いこず枩め぀づけおきたのである。
     だが、九〇幎代に入っおもなお䞀䞀ずいうか、むしろ時ずずもにたすたす加速されおゆくかのごずき旺盛な掻力で䞀䞀ほずんど毎幎のように送り出されおくる圌のフィルムやノィデオ䜜品を受けずめおいるうちに、「綜合」がありえないのがゎダヌルだずいうこずを、或るずきわたしは卒然ず悟るに至った。ゎダヌルは絶えず運動し぀づけおおり、その凝固した「党䜓像」など存圚しうるはずがないのである。恐らく「棺の蓋を芆っお」埌にさえ、人々を安堵させるようなかたちで「定たる」ものなど䜕䞀぀なく、さらに 長い歳月にわたっおゎダヌルは、陰鬱な疑問笊ずなっおわれわれの頭䞊を旋回し続けるに違いない。』P190

    ゎダヌルずは、氞遠の「運動䜓」である。したがっお、「ゎダヌルは、こういう䜜家である」ず、その本質を「凝固䜓」のごずきものずしお指摘しお枈たせ、決着を぀けるこずなど、原理的に䞍可胜だ。䞀䞀束浊は、ここでそう蚀っおいる。

    しかし、「運動䜓」であるずいう指摘もたた、ゎダヌルの本質論なのであれば、次に求められるのは、ゎダヌルの「倉化の法則性ずその方向性」を瀺すこずずいうこずになろう。本曞が描いおいるゎダヌルずは、そういうものである。
    だから、「棺の蓋を芆っお」から、おもむろに「ゎダヌルずは、こういう䜜家であった」ず『凝固した「党䜓像」』ずしお瀺す必芁はないし、そのようなものずしお語るこずは間違っおいる。
    したがっお、完党ではあり埗ないずしおも、今のうちだっお、「運動䜓」ずしおのゎダヌルの「倉化の法則性ず方向性」を、ある皋床ならば、瀺すこずができるはずだ。
    䞀䞀これが、本曞における束浊寿茝の基本的な構えだず蚀っお良いだろう。私の「感じ」ずしおも、このゎダヌル芳は、倧筋では間違っおいないず思う。

    束浊は、䞊の「あずがき」を、次のように締め括っおいる末尟の、線集者等ぞの謝蟞などは省く。

    『 本曞で扱われおいるのは、䞻に「埌期ゎダヌル」ずも蚀えよう䞀九八〇幎代以降のゎダヌル映画であり、『勝手にしやがれ』『女ず男のいる舗道』『気狂いピ゚ロ』ずいった初期の傑䜜矀にはほずんど觊れられおはいない。それは、䞀぀には、「これçaはいったい䜕なのか」ずいう暎力的な問いが䞍意に迫り䞊がっおきお人を茫然自倱ぞ導くずいった䜓隓を惹起するフィルム矀が、ずりわけ「埌期ゎダヌル」の時期に集䞭しおいるからである。しかし、たたもう䞀぀には、「ゎダヌルの六〇幎代」ずは、わたしにずっお䜕がなし熱っぜいノスタルゞアを喚起する音映像の枊ずしおあり、今、ゎダヌルを論じるには、そうした郚分をできるだけ斬り捚おおかかる必芁があるように感じたためでもある。そのこずの理由もたた、本曞の蚘述の䞭でおのずず明らかだろう。』P192

    ここで、曞かれおいるこずは、今の私にも、おおむね理解できる。

    ゎダヌルが亡くなっお埌で、その初期代衚䜜に続けお、䞭期の䜜品たでを、ほがたずめお芳たような、遅れおきた私にずっおは、初期䜜品は「絵的に、なかなか面癜いが、今ずなっおは、特に倧隒ぎするほどのものではない」ずいうものであったし、そんなゎダヌルを厇拝する映画マニアたちがいるこずに疑問を感じ、「どうしお、そこたで」ずいう疑問を解消すべく䞭期䜜品を芳たずころ、䞭期の䜜品は、初期䜜品が持っおいた「物語性」や「ロマンティシズム」さえ倱っおしたっおおり、岡本倪郎ではないが、たさに「これは䜕だ!?」ずいう䜜品に成り果おおしたっおいたのだ。

    だが、それでもゎダヌルファンは、その倉化に倱望はしなかったようで、むしろ「だからゎダヌルは非凡なのだ」ずでも蚀わんばかりに、厇拝し続けおいる気味がある。
    私は、そんな䞀皮うす気味悪い状況を、ゎダヌルがその「意味深げな雰囲気」においお、意味もわからずに評䟡されおいるだけなのではないか、ず疑った。
    そしお、そうした「幻想」を振り撒いたのは、蓮寊重圊をはじめずした「ポストモダンな批評家たち」なのではないかず睚んで、蓮寊の映画論的な著曞を、そのゎダヌル論集成たる『ゎダヌル革呜』に限定するこずなく、いく぀か読んでみた。

    画像

    その結果、やはりゎダヌルずいうのは、「䜜品」が評䟡されおいるず蚀うよりも、ゎダヌルずいう「特異な映画䜜家の、存圚の特異性」が評䟡されおいる、ずいう印象を匷くした。
    蓮寊重圊の評論から感じられるのは、䜜品そのものの「面癜さ」ではない。そうではなく、䞀芋、぀たらないず芋える「䜜品」を分析するこずで、「ゎダヌルが䜕をやろうずしたか」ずいうその「無意識的な意図」を析出し、その「面癜さ」に、意味ず䟡倀を芋出しおいるようにしか芋えなかった。蓮寊がそうした「意味論」を吊定する、衚局批評の蚘号論者であるずしおもだ。

    だが、いずれにしろ基本的に「䜜品」至䞊䞻矩の立堎に立぀私ずしおは、蓮寊に代衚される、「䜜者」偏重よる「䜜品」軜芖のスタンスには、むンチキ臭いものを感じざるを埗なかった。
    「読み蟌たれる意味は、存圚しない」ずいった「意味ありげな蚀葉」こそ、存圚しない意味を産出するものでしかないず感じられる。

    もちろん、䜜品を「より深く楜しむため」に、「䜜者その人」を理解しようずしたり、逆に、あえお䜜者を切り離しお、テクストのみに泚目するずいったするやり方も「あり」だず思うし、そうした「別様の芋方で」ずいうのが「批評」の芁諊でもあろう。
    だか、蓮寊の批評は、そうした「存圚するものの、存圚意矩を掘り䞋げる」ずいったものではなく、「存圚しないものの、面癜い意味をでっち䞊げる」ずいう䜓のものずしか感じられなかった。

    もちろん、それもたた、ひず぀の「批評の仕事」ではあろう。どうしようもない䜜品を、どうにかしお、さも玠晎らしい䜜品であるかのように語っお、倚くの人を説埗する「批評」ずは、それはそれ自䜓が「嚯楜的創䜜フィクション」䜜品ずしお意矩を持぀ものではある。
    けれどもそれは、あくたでも「批評家の創䜜」であっお、「䜜品を語る」ものではないし、いっそ「䜜品を出汁にしお、自分を売り蟌んでいる」ずいう「䞍遜」さから出るものなのではないかずいう印象が匷い。

    私は、蓮寊の『ゎダヌル マネ フヌコヌ 思考ず感性ずをめぐる断片的な考察』2008幎刊を論じたレビュヌのタむトルを「これはフィクションである。」ずしたのもそうした意味だし、このレビュヌの䞭で蓮寊を「ゎダヌルの神孊者」だず芏定したのも、同じ意味でだ。
    芁は、蓮寊重圊は「存圚しない神ずしおのゎダヌルずいう偶像を捏ち䞊げお、そのありがたさを説いおいる神孊者であり、圓然のこずながら蓮寊自身は、そんな神の存圚など信じおはおらず、信じおはいないからこそ、䜕ずでも語れるのだ」ず、そういう意味である。

    だが、前述のずおり、蓮寊重圊のこうした態床こそ、ゎダヌルを小銬鹿にした「䞍遜」でなくお䜕だろうか。

    画像

    しかしたた、蓮寊の評論をいく぀か読めば、この人がそういう「芞術的なペテン垫」だずいうこずもたた、理解できるはずだ。
    どういうこずかず蚀えば、「豊かな意味を䞎えおくれるものから、意味を汲み出すこずなら、誰にでもできる」けれど、「䜕もない空間から、意味のようなものを取り出しおくる錬金術」ずいうのは、誰にでもできるこずではなく、それはそれなりの「才胜」を必芁ずするものであり、そんな「錬金術垫ペテン垫」的才胜を、䞊倖れお持っおいるのが、蓮寊重圊ずいう人だ、ずいうこずなのである。

    喩え話をしよう。

    「満点の星空」を、原始人たちが芋䞊げおも「真っ黒な背景の䞭に、癜く茝く真砂が、無意味に散らばっおいる」だけ、にしか芋えない。
    だが、蓮寊重圊は、その非凡な「空想力ずレトリック」によっお、そこに「星座」ずいうものを描いおみせ、それを「原始人」たちに教えおやる。「あの星々は、ただ無意味に散らばっおいるのではなく、そういう意味的な関連性を持っお存圚しおいるものなんだよ。ただ、それが君たちの芖力では芋えないだけなんだ」ず。

    なるほど、そう蚀われおみるず「そのように芋えおくる」ではないか。「ああ、私はアキメクラだった。倜空ずは、なんず意味深く、啓瀺に満ちたものであったこずか」ず、それ以降、原始人たちはそれぞれ勝手に「劄想」を膚らたせ始めお、「蓮寊重圊教」における「神」の存圚を信じ、その「䞍圚の神」を、熱心に厇拝し始めるのである。

     ○ ○ ○

    ただし、䞊の「ゎダヌル芳」はあくたでも、蓮寊重圊ずいう「シニカルな無神論者」の、「ゎダヌルは、ネタであるネタでしかない」ずいう「ゎダヌル芳」の䞊に築かれた虚構でしかなく、ゎダヌルその人が「存圚しない」ずいう意味ではない。
    蓮寊重圊が描いお芋せたような「神ずしおのゎダヌル」は存圚しない、ずいうだけで、ゎダヌルずいう「人」は確かに存圚しおいお、䜕らかの「䜜品」を䜜ったずいうのも、たた事実なのだ。

    ぀たり、蓮寊重圊教的に「ゎダヌルは神であるからこそ、その䜜品には䞊倖れた意味がある」ずいう「宗教教矩」ではなく、事実ずしお、「人ずしおゎダヌル」は存圚し、その「人ずしおのゎダヌルが䜜った映画」ならば実圚するのだから、「ゎダヌルずいう実圚」ず「その䜜品ずいう実圚」を尊重するのなら、そちらをこそ論じなければならないずいうのは、圓たり前な話であろう。
    ろくに顔を芋たこずもない人のこずを「倧倉な矎圢で、神の劂き叡智の持ち䞻だ」などず耒めたずころで、それはその盞手を「蔑ろにするもの」でしかないのず、同じこずなのである。

    したがっお、私たちに必芁なのは、「ずにかく自慢できる、掟手な神を担ぎたい」、それで「自分が、その理解者である遞ばれた者ずしお嚁匵りたい」ずいうようなケチな「遞民䞻矩」から出た劄信などではなく、ゎダヌルずその䜜品を、その「存圚」に沿っお、尊重するこずなのではないだろうか。

    だが、そのこずが十分になされおいないからこそ、ゎダヌルは「神の劂き厇拝察象」のたた、なのではないのか。
    したがっお、今なお必芁なのは、そうした「商売宗教的な幻想」を打ち砕いお、ゎダヌルをゎダヌルずしお語るこず、救い出すこずなのではないか。

    もちろん、これたでにも、そうした詊みを実践しおきた人はいるのだろうが、しかし、それは「商売宗教的な幻想」を打ち砎るには至っおいないようなので、そうした「無神論的評䟡」の䜕が匱かったのか、あるいは、結局のずころ「人々は、無神論に耐えられない匱い存圚にすぎない」ずいうこずなのかを、怜蚌しなくおはならないだろう。

    原始人に察しお、「星座なんお実圚しないんだよ。それはあなたの頭の䞭にある虚構に過ぎないんだ」ず、いくら教えたずころで、すでに「䞎えられたむメヌゞに凝り固たった」原始人たちは、倜空を指しお「珟にあそこに、サ゜リがいるじゃないか、倩秀があるじゃないか」ずいうかもしれない。だが、「それは、倜空にあるものではなく、君の頭の䞭にあるむメヌゞに過ぎないのだ」ず語り続けるのは、「偏芋」を正すずいう意味においお、なされなければならないこずなのだず、私はそう思うのだ。

    だから、蓮寊重圊ずはたた違った「ゎダヌル論」ずしお、私は、才胜ある束浊寿茝に、䞀定の期埅を寄せお本曞を読んだ。
    仮に、束浊もたたゎダヌル信者であったずしおも、束浊にずっおの「ゎダヌル」が、蓮寊重圊の「ゎダヌル」そのたたずいうわけではないはずだから、仮にそれが「別様の幻想」であったずしおも、「幻想」を耇数化するこずで、「あるひず぀の幻想の特暩性」を盞察化できるだろうず、そう考えるのである。

    で、そうした「ありうる別様の解釈」ずしおの、束浊寿茝の「ゎダヌル論」は、どうであったか

    私からすれば、ただしも十分に「人間的なゎダヌル論」ずしお、蚱容範囲にずどたり埗るものだったず評䟡したい。

    「宗教」を党吊定する無神論者の私だずしおも、すべおの人に「宗教的幻想を捚おさせるのは䞍可胜」だずは思っおいるから、「冠婚葬祭やおみくじ」の類なら、比范的「害」のないものだずしお、容認しおいるのず同じこずである。
    ぀たり、そうした意味で、束浊寿茝の「ゎダヌル論」は、穏健で垞識的な宗教なのだ。
    そのぶん「刺激が足りない」ずいう千幎王囜䞻矩的に頭のおかしい「宗教原理掟」も存圚しようが、そうした反瀟䌚的な過激分子だけは、消えおもらわなければならない。だからこそ、「穏健な宗教」ずいう「庶民向けの幻想」は、どうしおも必芁なものである。

     ○ ○ ○

    さお、前眮きが長くなっおしたったが、私の基本的なスタンスを語らないたた、本曞を語るず、確実に誀解されるので、臎し方なく長々ず説明させおいただいたわけだが、本皿で重芁なのは、むしろ、束浊寿茝流の「ゎダヌル論」の解説、などではなく、ここたで語っおきた郚分であるずいうこずを、理解できる人には理解しおもらいたいず思う。
    ある意味では、ここからあずは「ルヌチンワヌク」に過ぎない。

    画像

    束浊寿茝の「ゎダヌル芳」ずは、簡単に蚀えば「ゎダヌルは、映画で映画を批評した䜜家であり批評家である。そしお、その蟛蟣さは、䜕よりも圌の〝あるべき映画〟に察する深い愛に発するものだ」ずいったものである。

    私を含む、倚くの人が、ゎダヌルの初期䜜品の䞀郚『勝手にしやがれ』『女ず男のいる舗道』『気狂いピ゚ロ』などを陀いおは、「䜕だこれ」ず思っおしたう䟋えば『カラビニ゚』ような䜜品になっおいるのは、ゎダヌルがその頃からすでに、「圓たり前の映画」に絶望しお、そんなものを䜜りたいずは思っおいなかったからなのだ。だから、圌は「圓たり前の映画」を䜜らなくなっおいった。

    では、初期の䞀郚䟋倖を陀いお、「圓たり前の映画」に絶望した埌のゎダヌルが撮った映画ずは䜕なのかずいえば、それは「反映画」である。
    「映画の本質ずは、今、圓たり前だず思われおいるような映画のそれではない。むしろ、そうした圓たり前さを排陀したずころにあるものこそが、映画本来の魅力であり、存圚意矩なのだ」ずいうようなこずである。

    ゎダヌルが考える「映画の魅力」ず、今の私たち䞀般が考える「映画の魅力」ずいうのは、たったく別皮のものであり、ゎダヌルは、私たちが考える「映画の魅力」を、むしろ「映画を堕萜させた借雑物」だずさえ考えおいるのである。
    だから、そういうものを、自身の映画からどんどん排陀しおいくのだし、それを知らずに、圓たり前だず思っおいた「映画の魅力」を期埅しお、ゎダヌルの映画を芳に行った者は「䜕だこれ ぜんぜん面癜くない。この監督は、芳客を愚匄しおいるのか」ず感じるのだが、その「理解」は、たったくもっお正しいのである。

    ぀たりゎダヌルは、そうした「芳客たちの通俗的な欲望」を吊定しおいるのだ。
    資本䞻矩経枈によっお、祭り䞊げられた「お客様は神様です」的な感性においお、たったく掗緎ずいうこずを知らない「凡庞な倧衆」が、「自分たちの舌こそが正しいのだ」「自分たちが面癜いず感じるものが面癜いのだし、䟡倀のあるものだ」ずいう「思い䞊がった」態床で、せっかくの「映画」を台無しにしおいったのだず、そう考えた。
    だからゎダヌルは、そうした䞀般客の「芁請ず期埅」にわざわざ背く䜜品を、せっせず䜜り始めたのだ。

    ゎダヌルの䜜品に「筋らしい筋がない」ずいうのが、そうした「むダガラセ」の兞型で、「筋ストヌリヌ」なんおものは、映画本来の魅力ではないず、ゎダヌルはそう考えおいる。それ筋は、映画の魅力ではなく、映画ずいう「映像芞術」に、䟿宜的に付け足されたものでしかなく、そっちが䞻䜓なのではない。
    なのに、「映像」の魅力がわからない、目の鍛えられおいない芳客たちが、嚯楜小説などによっお銎らされた「物語性」を映画にも求めるようになり、その結果、本来の䞻䜓たる「映像」は、「物語」を「わかりやすく説明するための道具」にたで頜萜させられおしたった。「映像」が「物語」の䞋僕にたで貶められおしたったのである。
    だから、ゎダヌルは思った。「映画を愛する者」ずしお、どうしお、この事態に怒りをおがえないでいられようか

    しかし、にもかかわらず、珟実はどんどんそちらぞず流されおいく。
    倚くの映画䜜家たちは、そうした倧衆の「子䟛舌」の芁請に応じた䜜品を、恥じるこずもなく量産し、それでヒットすれば、それが䜜品の䟡倀ででもあるかのように勘違いしおいるし、映画界党䜓も、そうした「ハリりッド的な䟡倀」に染たっおいっお、映画を搟取するこずしか考えおいない。もはや、か぀おは存圚した「映画の茝き」はどこにも存圚しないのである。
    だから、自分は、自分だけは、その「映画愛」においお、そのような流れに抵抗し、今の映画の「欺瞞の仮面」を剥ぎ取っおやろうず、䞀䞀そうしたものが、ゎダヌルの「批評的な映画」なのだ。

    䟋えば、䞭期のゎダヌルは、もはや批評家時代、あるいは初期に持っおいた、「映画愛に発する匕甚匕甚ずしおの映画愛衚明」などずいうものを信じおはいない。
    だが、それにもかかわらずゎダヌルは、映画や文孊などからの「匕甚」を止めようずはしないどころか、自分の䜜品からの「匕甚」さえしおみせるのだが、それは䜕を意味するのであろうか

    『ゎダヌルは自分を反埩するたびにいよいよ貧困化し、皀薄化し、瞮枛しおゆくようだ。だが同時に、いっそうみずみずしく、新しくなっおもゆくのである。』P30

    これは、どういう意味だろうか

    ゎダヌルが「初期」に持っおいた「みずみずしさ」が、どんどん倱われおいったずいうのは、ゎダヌルの䜜品をある皋床芋た者には、すぐにわかる事実である。
    『勝手にしやがれ』『女ず男のいる舗道』『気狂いピ゚ロ』ずいった初期䜜品には、端的に「みずみずしいロマンティシズム」がみなぎっおいたし、そうした「ロマンティシズムあふれる䜜品」が、いろんな䜜家によっお数倚く生産された埌の珟圚においお、ゎダヌルの初期䜜品を「悪くないな」などず評䟡する私のような者でも、やはりそこに初々しい「みずみずしさ」があったこずは認めるし、その点で、䞀定の評䟡もできたのである。

    画像

    ずころが、それ以降の䜜品は、そうした「みずみずしさ」が、どんどんず倱われおいく。それは、自然ずそうなったのではなく、明らかにゎダヌルが、そうした「みずみずしさ」を意識的に排陀しおいったのだ。「そんなものが倧切なのではない」ず。

    その結果、ゎダヌルの映画は、圓たり前に芋るならば『いよいよ貧困化し、皀薄化し、瞮枛しおゆくよう』に芋えるのだが、しかし、ここで束浊寿茝は『だが同時に、いっそうみずみずしく、新しくなっおもゆくのである。』ず、䞀芋「矛盟」した感想を曞き぀けおいる。これは、はたしお「正盎な感想」なのだろうか

    結論から蚀えば、私は、この束浊の感想に同意する。

    たしかに、ゎダヌルの映画は、垞識的な意味での「楜しさ」や「面癜さ」だけではなく、自身、持ち合わせおいた「みずみずしさ」たで、剥ぎずるようにしお投げ捚おおいった結果、圢匏的な意味では『いよいよ貧困化し、皀薄化し、瞮枛しお』いったず評しお、間違いはないだろう。
    䞀䞀だが、その䞊倖れた「貧困さ」においお、ゎダヌルは「別皮のみずみずしさ」を手に入れ、その意味においお『いっそうみずみずしく、新しくなっおも』いったのではないだろうか。

    譬え話で説明すれば、䞖間で評刀の「優しくお芪切な人」が、ある時、自身の「優しさ」や「芪切さ」ずいうものの、「䞖間迎合的な欺瞞性」に気づいお、それをすべお捚お去ろうず決意し、それを実行に移した。その結果、圌は、呚囲から芋れば、どんどん「嫌な性栌」になっおゆき、単なる「因業爺い」にしか芋えなくなった。
    しかし、そんな圌を泚芖するならば、䞖間の評刀をものずもせず、䞖間的な意味での「貧困さ」を䞀身に匕き受けお突き進んでいく圌には、䞖間的に「無難に生きおいる人たち」、その意味で「䞖間で蚀うずころの、良い人」にはない、䜕か別皮の「みずみずしさ」であり、䜕か「黒光りするような茝き」ずいったものがあるのではないだろうか それを圌に芋出すこずも可胜ではないのか、ずいうようなこずである。

    画像
    『新ドむツ零幎』1991幎

    そしおこうした、䞖間でいうずころの「奜意的解釈」を束浊がするのは、あれだけ映画を愛しおいた、才気あふれるゎダヌルが、無造䜜に「貧困化」しおいったずは、どうしおも思えないからである。
    ゎダヌルが「貧困化」したように芋えるのなら、それは圌が意図しお、望んでその道を歩んでいるずいうこずであり、その動機は、それほど圌が「映画を愛しおいるから」ずいうこずしかないず、束浊はそう考えるのだ。

    ゎダヌルには、ゎダヌルの信じる「映画」があっお、圌はそれに察しお、倉わらぬ愛ず忠誠を誓う人であり、だからこそ、「停物」を蚱すこずは決しおできないし、それが䞖に満ちお、本来の「映画」の居堎所を奪っおいるのであれば、圌は自身の愛する映画のために、「停物」を抹殺しなければならない。
    ぀たり、その映画愛のゆえに、ゎダヌルは「映画のテロリスト」に身を萜ずすこずも蟞さなかったのであり、圌はその非凡な芚悟においお、「聖人」の茝きを身に垯びるこずになったのではないかず、束浊は「そう理解したい」のである。

    『 では、なぜ※ 私は、今にしおなお※ 荒廃し貧困化し切ったかのようなゎダヌルの偎に぀こうずするのか。『右偎に気を぀けろ』のゎダヌルをどうしお芋぀づけなければならないのか。ゞヌン・セバヌグのTシャツ姿に惚れこんでいたか぀おの胞苊しい日々が忘れられないからか。ATGによる『気狂いピ゚ロ』ず『りむヌク゚ンド』の二本立お興行を有楜町の日劇文化で芋た真倏の午埌が青春の思い出の貎重なヌこたであるためか。高校生の頃、煙草をくるりず䞀回転させお口にくわえる『男性・女性』のゞャンピ゚ヌル・レオヌの芞を真䌌するこずに熱䞭しおいた䞀時期があるからか。そうではない。そんなこずはもうすっかり忘れおしたった。そしお、たさしくこのすべおを忘れるこずずいう教蚓こそ、われわれが今日ゎダヌルの偎に぀きたいず願う最倧の理由なのである。ゎダヌルは初めから蚘憶を欠萜させおいるわけではない。あれほどの情熱をかけお蓄積した豊かな蚘憶をみずからの意志でひずたびすべお攟擲するずいう断乎たる決断を䞋し、人生映画をふたたび無から創造し盎すずいう困難このうえもない孀独な途を遞んだのだ。みずからの肉䜓から蚘憶を剥ぎずるずいうよるべない苊痛に耐えるこずで、ゎダヌルは脳倩気なポストモダン掟だの新しがり屋のノィデオ䜜家だのから蚣別する。『グレヌト・ブルヌ』※ 『グラン・ブルヌ』の誀蚘の䞻挔青幎ゞャンマルク・バヌルの顔ず、『探偵』のゞョニヌ・アリデヌないし『右偎に気を぀けろ』のゎダヌル自身の顔を比べおみるがよい。前者の奇劙に明るい無重力的な枅朔感よりも、荒廃しきった衚情が隠しおいるにがい空虚ず重い痛みの方をわれわれは取るだろう。苊しい闘争のはおにようやく「近代」から離陞しおも、新たな着陞地点たりうる「䞀぀の堎」を地䞊に発芋するのは生易しいこずではないのだ。われわれはゎダヌルずずもに今しばらくは飛び぀づけねばなるたい。右偎に気を぀けながら。巊の拳をきたえながら。』P58〜59

    ここに曞かれおいるのは、「ゎダヌルの芋かけがいかに倉わろうず、ゎダヌルの本質ずしおのみずみずしさが、そんなに簡単に倱われたずは思えない。だから、私は、ゎダヌルの、か぀おのみずみずしさだけを懐旧的求めるのではなく、今ここで闘っおいるゎダヌルをこそ、苊しくずも芋぀め続けないればならないず思うのだ。ゎダヌルが、その映画愛においお、今の映画に察する反抗者ずしお、枯れ果おた姿を芋せおいるずしおも、その芋かけを、そのたた信じおしたえるようなら、結局のずころ、か぀おのゎダヌルぞの熱狂も、そこたでのものでしかなかったずいうこずになるのではないのか。だから私は、今のゎダヌルを信じお、圌らから目を逞らすこずはしないのだ」ずいう、これは「恋愛告癜」なのである。

    束浊寿茝ずいう人は、今も昔も、良くも悪くも、こうした「ロマンティスト」であり、そのおかげで、䜕床も䜕床も裏切られおは、倱望を繰り返しおきた人なのだ。

    束浊寿茝の「Wikipedia」には、あっさりず次のような蚘述がある。

    『クリント・むヌストりッド、ベルナルド・ベルトルッチのほか、特にアルフレッド・ヒッチコックの監督䜜品をこよなく愛しおおり、東倧の映画講矩でもしばしば蚀及する。䞀方、ゞャンリュック・ゎダヌルに察しおは、近幎のあからさたなアゞア蔑芖に察しお疑問を感じおいる。』

    そう。束浊は、今やゎダヌルに察する「信仰」が冷めかけおおり、「事実は事実ずしお認めなければならない」ずいうずころたで「埌退しおいる」ず蚀えるだろう。ゎダヌルが「人間」の䞀人に、芋え始めおきたのである。

    もはや束浊は、ゎダヌルの「人皮差別」には「䜕か深い意味があるに違いない」ず、「無理をしおでも、そう信じる」ずいうこずができなくなっおいる、ずいうこずである。
    「十字軍」の異教埒虐殺にも、「異端審問」による異端者焚殺にも、神の「図り難い深慮」があった、などずは思えなくなったのだ。

    ちなみに「映画オタク的信仰」に氎を差す、いささか粗野か぀痛快なフェミニズム的䞀撃ずしお、次の蚘事を玹介しおおきたい。
    ヌヌノェルノァヌグ・カむ゚掟が『「ブルゞョワ出身で高孊歎だが非モテコンプレックスのあるこじらせホモ゜集団」ずいうのが珟圚の定説。』だずいうのは、本圓か冗談かは別にしお、私の盎芳ずは合臎しおいる。

    ずもあれ、ゎダヌルの「貧困化」は、たしかに「愛に発する」ものなのかもしれない。
    しかし、そこを認めたずしおも、ならば、䟋えば倚くのテロリストが、虐殺される同胞ぞの愛から、あるいは、その「信仰」のために、敵を殺すずいうこずをしおいるのだずいう珟実も、ゎダヌルのそれず、同等に肯定すべきではないのか そしお、それができないずいうのであれば、ゎダヌルの、無垢な「映画愛」であり「映画信仰」もたた、誀謬を含んでいた、ず批刀されなければならないはずだ。

    本曞は、その埌のゎダヌルが、すべおを切り捚おおゆくずいう「重苊しさ」からさえも離れお、『ぶっきらがう』なほどのこだわりのなさを身に぀けおいくように芋えるず、そのように芋おいる。
    そしお、本曞で扱う最埌の䜜品ずなる『ゎダヌルの映画史』のあたりになるず、さらに進んで、ゎダヌルは、もはや「浮遊する亡霊の芖線」のごずきものにたで倉貌しおいるず指摘しおいる。

    画像

    私は、こうした指摘もたた圓たっおいるず思う。だが、それを束浊のように「脱俗的な超越性ずはたた別様の、超越的な境地の䞀皮」だずは考えない。

    たしかにそれは、非凡な境地ではあろうし、その意味での皀少䟡倀が認められはするのだが、しかし、そうした境地ずは、䟋えば私がしばしば口にする「この䞖界に意味はない」ずいう蚀葉ず䌌たような、圓たっおはいるけれども、それを生きるこずはできない、ずいったもののように感じられる。

    たしかにゎダヌルは「意味を超えた」のかもしれないが、その時には、圌はすでに存圚しないも同然の存圚だったずいうだけの話なのではないのか。「啓瀺的な恍惚」ず「痎呆的な恍惚」は、本圓に別物だず、倖から、そこたで刀定し埗るのか

    「生ける屍」に、生ける者が「深い意味」を読み蟌みたがるのは、所詮「ロマンティックな幻想」でしかないず、私はそう思う。

    無論、「ロマンティックな幻想」にも、存圚䟡倀がある。
    映画に描かれおいるものが、たずえ絵空事であろうず、それはそれなりに存圚䟡倀があっお、少なくずも、いっずき私たちを楜したせるものであるずいう事実は吊定できない。

    けれども、だからず蚀っお、「ロマンティックな幻想」を「剥き぀けの珟実」ず、同じ局においお「珟実的」なものだず、無理に信じようずは思わない。
    「無神論者」であるずは、そういうこずなのである。


    2024幎3月10日

     ○ ○ ○





    ・




     ○ ○ ○


    ・


     
     
     
    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

    あなたぞのおすすめ