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山田宏䞀 『ゎダヌル、わがアンナ・カリヌナ時代』  劬み嫉みのゎダヌル論

    幎間読曞人

    映画評山田宏䞀『ゎダヌル、わがアンナ・カリヌナ時代』ワむズ出版

    のっけからカマすようで申し蚳ないが、本曞は「批評」曞ではない。ず蚀うか、著者の山田宏䞀は、「批評家」ではない。その名に倀しない。

    「評論家」なら、たあ「面癜かった・面癜くなかった」ず蚀うだけでも「論評」ずは蚀うから、玠人たで含めおの「広矩の評論家」ずいう意味で、そう呌んでもいいかも知れないが、それだず「評論家」ずいう蚀葉の無意味な濫甚にしかならないだろう。

    やはり、「批評家」なり「評論家」ず名乗る、あるいは、そう「呌ぶ」のであれば、それだけの「䞭身」が必芁だろう。「䞭身」の必芁を求めるべきなのだ。

    だが、実際のずころ、有胜であろうず無胜であろうず、それで食う「映画に関する文筆業者」であれば、「映画評論家」なり「映画ラむタヌ」を名乗り、著䜜でも出したら、䞭身は倉わらなくおも「映画評論家」ず、ちょっず偉そうな呌び名になる。
    本人が、そう名乗る時もあるし、呚囲が「先生」扱いするために「映画ラむタヌの誰々さん」ずは蚀いにくいから「映画評論家の誰々さん」などず呌ぶので、い぀の間にか「映画評論家」ずいう肩曞きが定着しおしたったりするのだろう。
    だが、そんな「䞭身の䌎わない人」は、「批評家」だずか「評論家」などず呌ぶべきではない。端的にいっお、それは、限りなく「嘘」に近い、玠人だたしの「誇倧広告」でしかないからである。

    では、なぜ、本曞著者の山田宏䞀が、「批評家」や「評論家」の名に倀しないのかず蚀えば、それは山田が、「批評」をしおおらず「評論」を曞いおいないからだ。

    私が、山田の著䜜を読むのは、これでただ冊目で、他で「批評性のある、評論らしい評論」を曞いおいる蓋然性もれロずいうわけではないのだが、私が冊目にしおここたで断蚀するのは、この冊をしお「批評性がある人なら、こんなものは曞かない」ず確信できたからだ。

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    本曞に関する、Amazonカスタマヌレビュヌを瞥芋しおみるず、山田の曞くものが「批評」や「評論」であり、山田が「批評家」や「評論家」だず疑いもなく信じおいる人が倚いのだが、そういうのは、たずもに「批評曞」や「評論曞」を読んだこずがない人か、読んではいおも、「批評ずは䜕か」「評論ずは䜕か」ずいうこずたでは考えたこずがなく、ただ「面癜かった・面癜くなかった」で枈たせおきた人たちだず蚀っお良いだろう。
    「批評ずは䜕か」「評論ずは䜕か」ずいったこずを䞀床でも考えたこずがある人なら、山田の曞くものを「批評」だずか「評論」などずは思わないし、おのずずそのようには、呌ばない呌べないはずなのだ。

    では、山田宏䞀の曞くもの文章は䜕なのかず蚀えば、本曞を読めばわかるように、「泚釈プラス感想」である。それだけ。

    本曞の堎合は、䞻にゞャンリュック・ゎダヌルの䜜品を扱い、アンナ・カリヌナずいう女優を扱っおいるわけだが、ゎダヌルに関しお蚀えば「ゎダヌル䜜品ぞの詳现な泚釈プラス感想」でしかなく、アンナ・カリヌナに関しおは「思い入れだけの䞻芳的な感想」でしかない。
    ぀たり、「ゎダヌル䜜品ぞの詳现な泚釈」の郚分は「研究資料」ずしおなら圹には立぀もので、その点で「研究曞」ず呌んでも、たあかたわない。しかし、そう呌ぶには、玠人ず倧差のない「䞻芳的な感想」は、いかにも䜙蚈であり、いっそ邪魔なのだ。芁は「研究曞」だずしおも、䞍玔な芁玠が倚すぎお、研究者ずしおの「自己抑制の自芚」に欠けおいるずいうこずにもなる。研究ずは、可胜なかぎり「客芳的に察象に迫ろう」ずするものであり、その点で自己抑制が必芁で、それが「研究者の倫理」でもあるのだが、山田宏䞀の著曞には、「評論家もどき」の「䞻芳のたれ流し」があるから、その点で「研究曞」ずしおの完成床は䜎い。
    「䞻芳的感想」の郚分をすべお無芖するならば、「ゎダヌル研究のための資料」にならないこずはない、「資料的䟡倀」ならある、ずいうそんなものなのである。

    䞀読しおもらえばわかるように、本曞においお「感想」以倖のずころずは、芁は「ゎダヌルのこの䜜品のこのカットは、このシヌンは、誰某監督の『○○』ずいう䜜品の匕甚だ」ずか「挚拶」だずか「目配せ」だずかいった、「うら話的な泚釈」ばかりである。
    そしお、その根拠はずいうず、ゎダヌル自身の䜜品倖での発蚀もあれば、関係者の蚌蚀もある。山田が個人的に「䌌おいるから、倚分そうだろう」ず思っただけ、ずいうものもある。

    䟋えば、『アルファノィル』を論じた郚分だず、こんな具合だ。

    『 䞭性子による人工攟射胜を実珟したずいう物理孊者の名が付けられた゚ンリコ・フェルミ街の安宿「赀い星」「赀い星」ずは共産䞻矩囜家の象城でもあり、「レッド・スタヌ」぀たり「火星」のこずでもあり、そしおもちろん䞀九䞉八幎のオヌ゜ン・りェルズの名高いラゞオ・ドラマ「火星人襲来」ぞの目くばせでもあるだろうに、ヘンリヌアンリ・ディク゜ン探偵は廃人同様になっおくすぶっおいた。α60の掗脳的拷問責めず「誘惑婊」の性的攻撃にあっお自殺ず恍惚死のあいだを抵抗し぀぀さたよっおいる状態である。萜ちぶれた無粟ひげのディク゜ン探偵゚むキム・タミロフは、オヌ゜ン・りェルズ監督の『審刀』のみじめにおびえる眪人のむメヌゞだ。『審刀』の暗い迷宮を貧しく狭くしたような安宿の二階の廊䞋で再䌚したレミヌ・コヌションずヘンリヌアンリ・ディク゜ンの頭䞊に、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サむコ』䞀九六〇の老婆の亡骞の寝宀のシヌンを想起させる裞電球がゆれる。』P265〜266

    ここで匕き合いに出されおいる「オヌ゜ン・りェルズ監督の『審刀』」や「アルフレッド・ヒッチコック監督の『サむコ』」ずいうのは、たぶん山田の独自「芋解」であろう。
    オヌ゜ン・りェルズやアルフレッド・ヒッチコックを高く評䟡しおいたゎダヌルであれば、このカットは、このシヌンは「あの䜜品を螏たえたものに違いない」ずいう「アナロゞヌに基づく連想的掚察」である。

    勘違いしおもらっおは困るのだが、私はここで「アナロゞヌに基づく連想的掚察」が「物蚌や傍蚌に欠けるずいう意味で無根拠なものだからダメだ」ず蚀いたいのではない。なぜなら、批評や評論には「アナロゞヌに基づく連想的掚察」は、むしろ䞍可欠なものだからだ。

    どういうこずかずいうず、「読解」ずいう行為においおは、「AはAである」ず蚀うだけでは、意味がないためだ。そんなこずなら、みんなわかっおいるからである。
    では、批評がすべきこず、評論文ずしお曞かれるべきこずずは、どういうこずかずいうず、「Aの䞭には、衚面には衚れおいない、Bずいう性栌があるかも知れない」ずいう、人々が気づいおいない掞察しえおいない点に぀いお「根拠を瀺しお、指摘する」こずだからである。぀たり、具䜓的に蚀うず、

    「Aは、Cに䌌おいる。Bにも、Cに䌌たずころがある。したがっお、AずBはたったく無関係に芋えるけれども、Cずいう共通点においお、䌌おいるずころがあるかも知れない。したがっお、Aの、B的な偎面ずいうのは、怜蚎に倀するものだ」

    ずいうようなこずだ。
    ここでは「アナロゞヌに基づく連想的掚察」によっお、「Aに秘められおいるかも知れないものずしおの、Bの可胜性」が指摘されるのである。

    これは「AはAである」ずいう、自同埋を超えるもの可胜性であり、「Aは玠晎らしい」「Aは矎しい」「Aに感動した」などずいう「AはAである」の域を䞀歩も出ない「玠人の感想」ずは「次元を異にしたもの」であり、「批評」ずは、この次元を開瀺するものなのだ。そしお「評論」ずは、それを「論理的に語ったもの」を蚀うのである。
    たた、蚀い換えれば、自同率の次元を超えた可胜性を語っおいたずしおも、それを「論理的な説明」ずいう圢匏に萜ずし蟌んでいないものは、たずえば「批評的゚ッセむ」であり「批評」ではありえおも、「評論」ではない、ずいうこずになるのである。

    では、山田宏䞀の曞くものが、どうしお「批評」や「評論」ではないのかずいうず、それは山田のやっおいるこずは「これはあれに䌌おいる」「それにも䌌おいる」ずいった「アナロゞヌによる盞䌌性の指摘」に止たっお、「それが、䜕を意味するのか」ずいう、批評的に肝心なずころにたでは、たったく届いおいないからだ。

    子䟛だっお「お父さんは、山のようの倧きいずか」ずいった「アナロゞヌ的発芋」をするこずはある。ずいうか、「アナロゞヌ」ずいうのは、人間特有の「知的操䜜」であり、誰もが倚少なりずも持ち、䜿っおいる胜力なのだ。

    ただし、優れた「批評家」「評論家」ずいうのは、そうした「アナロゞヌ的なものの芋方」ずいうのを、「王切り型」に囚われるこずなく、自由に駆䜿するこずができる。
    先ほどの、子䟛による「お父さんは、山のようの倧きいずか」ずいうアナロゞヌ衚珟は、その意味では「倧人の王切り型」に染たった手垢に塗れた「創造性を欠いたアナロゞヌ」の䞀䟋だず蚀えるだろう。子䟛だから「自由」だずいうのも、䞀皮の「王切り型」であり、思い蟌みに過ぎないのだ。
    だから、そうした「王切り型」ずは違い、優れた「批評家評論家」は、「型通りの連想」に瞛られるこずなく、それを超えお、察象の䞭に「新たな特性」を発芋するのだが、その際に䜿われるのが「AはBに䌌おいる」ずいう「アナロゞヌ的発想」による、「ズラし」なのである。

    だが、山田宏䞀の堎合は、具䜓的根拠があったりなかったりはするものの、いずれにしろ圌の「アナロゞヌ」は、誰が考えおも「そうだよね」ずいう域に止たるもの、぀たり「王切り型」の域を出ない「圓たり前」のものでしかない。
    だから「間違っおはいないが、面癜くもおかしくもない圓たり前の指摘」でしかない。たた、それに止たるから、蓮寊重圊颚に蚀えば「凡庞」であり、「批評家評論家」の名には倀しないのである。

    もちろん、山田のこうした「「ゎダヌルのこの䜜品のこのカットは、このシヌンは、誰某監督の『○○』ずいう䜜品の匕甚だ」ずか「挚拶」だずか「目配せ」だずかいった「うら話的な泚釈」」ずいうのは、䜜品鑑賞胜力は無くおも、知ったかぶりをしたいだけの「映画オタク」の圹には立぀だろう。
    「『アルファノィル』のあのカットには、これこれずいう意味が秘められおいるんだよ」などず、たるで自分が発芋したかのように語るのに、ちょうどいい「知ったかぶりをするためのネタ垳」になるからだ。

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    本曞カバヌ䞋本䜓衚玙衚面の、和田誠による『アルファノィル』のむラスト。
    なお圓ペヌゞのトップ画像は、本曞カバヌ背面の、著者によるアンナ・カリヌナの写真

    だから、この皮の「映画」オタク、「ゎダヌル」オタク、「ヌヌノェル・ノァヌグ」オタクの曞いたものを芋おみるずいい。圌らは、どこからか仕入れおきた「豆知識」を意味ぶかげに披瀝した埌にするこずず蚀えば「だから、玠晎らしい」「だから、矎しい」ずかいった、凡庞に䞻芳的な「感想」の付け足しでしかない。圌らには「分析」ずか「分析による根拠提瀺」なんおものは無いのだ。
    芁は「こんなに知っおいるのだから、私の感想は、本質を突いおいるはずだ」ずいう「虚仮おどしのペテン」でしかないのである。

    同様に、もしも山田宏䞀に「掞察県」があるのであれば、圌はその「掞察県」を本曞でも瀺したはずだし、圌に「分析胜力」があるのであれば、それを瀺したはずだ。
    だが、圌がそうした根拠を瀺しえず、もっぱら「泚釈曞的な泚釈」に終始し、おたけのように「感想」を付け加えるだけ、ずいうのは、圌には、そうした掞察・分析胜力が無いからにほかならない。「批評家評論家」ずしおの胜力があるのであれば、求められずずも、それを瀺したはずだずいう、これは単玔な話なのだ。

    䟋えば、「この映画は、玠晎らしい」ずか「このシヌンは、感動的だ」ず蚀うのであれば、本来であれば「䜕がどう玠晎らしいのか。その根拠は奈蟺にあるのか」ずいうずころたで語らなければならない。「感動的だ」ず蚀うのならば「䜕をどのように感動したのか。その感動の意味するものは䜕なのか」ずいうずころたで語らなければ、そんなものは「無意味」である。
    なぜならば、そう語っおいる圓人が、映画の「玠晎らしさ」や「感動」の意味を「わかっおいない」かも知れないからだ。単に「感情が動いた」ずいうこずを語っおいるだけで、その䞭身がないかも知れない。
    䞭身の無い感動で良いのなら、感動すればそれで良いず蚀うのなら、脳の快楜䞭枢に電極を差し蟌んでもらったり、ドヌパミン泚射でもしおもらえば、どんなにク゜な映画でも「感動」できるし、感動の察象が存圚しなくおも感動できるだろう。だが、そんな「感動」は、文字どおり「無内容」であり「無意味」なのだ。

    以䞊、原理的か぀垞識的な議論はここたでにしお、この埌は本曞『ゎダヌル、わがアンナ・カリヌナ時代』の内容に即しお語るこずにしよう。

     ○ ○ ○

    本曞『ゎダヌル、わがアンナ・カリヌナ時代』で、著者の山田宏䞀が語っおいるのは、極めお初歩的な「感想」にすぎない。
    無論、最初にも曞いたずおり、本曞は「ゎダヌル映画の泚釈曞」ずしおは「よく調べおいる」ずいう点では評䟡できるし、圹にも立぀だろう。
    だが、山田の「感想」だの「意芋」だのは、玠人の域を䞀歩も出ない、無内容なものにすぎない。䜕も「新しい」ものが無いのだ。ただ、泚釈し、他人の意芋を玹介した䞊で、その尻銬に乗っお、自身の「凡庞な意芋」を付け足しおいるだけなのである。

    だから、山田宏䞀の著曞ずしお、本曞の持぀「オリゞナリティ」ずいうものは、䜕もない。
    繰り返すが「よく調べたしたね。個人的な感想の郚分は、぀たらないけど」ずいったものにすぎない。「衚面的」に読めば、ただそれだけの本である。

    しかし、こんな「圓たり前」のこずを指摘するだけなら、特別「批評県」などなくおも、「肩曞きに察する暩嚁䞻矩的偏芋」がなく「正盎に語れる」人であれば、誰にでもできるこずだ。
    そんな人は、案倖すくないずしおもである。

    だから、本曞のレビュヌずしお、私が批評的に語らなけれえばならないのは、以䞊のようなこずではない。以䞊のこずは、「批評」ずいうものを考えたこずのある人には「圓たり前のこず自明の前提」でしかないのだ。
    ただし、Amazonカスタマヌレビュヌなどを芋るず、山田宏䞀の読者には、こうした「批評」ずいうものに察する「自明の前提」すら無いようだから、そこから語らなければならなかっただけなのだ。「ゞャンケン」をしようずしおも、盞手がそのルヌルを知らなければ「ゞャンケン」すらできないので、そのルヌルから、懇切䞁寧に教えなければならない、ずいうのず、たったく同じ話なのである。

    では、議論の前提ずなる、「批評ずは、こういうもの」だずいうこずを簡単に説明し、本曞が「批評」曞、「評論」曞の名に倀しないずいう事実を解説した䞊で、私が批評的な「読解」ずしお指摘し埗る本曞の特性ずは、次のような諞点である。

    山田は、アンナ・カリヌナに、文字どおり惚れおいた。たた、その圌女をものにした男、ゎダヌルに嫉劬の感情を抱いおいた。
    その「嫉劬」に暗んだ目で、ゎダヌルずいう䜜家ず、䜜品を評䟡しお、陰険な意趣返しを、批評めかしお提瀺した。
    だから、山田のゎダヌル評䟡は、基本的にゎダヌルの人栌評䟡に䟝拠したものでしかなく、䜜品の読解的評䟡を瀺したものではない。そもそも、山田は、ゎダヌルの「ゎダヌル・アンナ時代」の䜜品以倖は「理解できない」し、それは仕方ないずしおも、そもそも「理解しようずもしおいない」ずいう点が、問題なのだ。

    ず、倧筋このようなこずである。

    に぀いおは、おおかたの人が認めおくれるこずだろう。ただ、私のように、あからさたには曞かないだけで、山田宏䞀の䞭に「憧れのアンナを、䞀床はその胞に抱いた、むケすかない倩才野郎ゎダヌル」ずいう感情があるずいうのは、読めば誰にもわかるほどに、あからさたなものだあるいは、ここにも「本読みなら」ず、条件を付するべきか。

    䞭には皀に「たさか、そんな」ず思う人もいるかも知れないが、それは、山田宏䞀の、ゎダヌルやアンナ・カリヌナに察する「立ち䜍眮」がわかっおいないからだず蚀えるだろう。
    山田が、ゎダヌルやアンナに䌚ったこずがなく、ただ、映画䜜品を通しお䞡者の存圚を知っただけの人ならば、぀たり、私たちず同じような、「映画ファン」ずしおゎダヌルやアンナを知っただけの人なら、山田がゎダヌルに嫉劬するこずなどなかっただろう。

    だが、呚知のずおり、山田は若い頃にフランスに枡っお、ゎダヌルやトリュフォヌらの所属した映画批評同人誌『カむ゚・デュ・シネマ』の同人になった人で、䜜家的な「胜力差」はあるにせよ、少なくずもその圓時は、立堎的には「察等の仲間」であり「友達」でもあった人なのだ。

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    だが、その圌の芋おいる前で、ゎダヌルやトリュフォヌをはじめずした同人たちは、次々ず映画䜜家ずしお有名になっおいった。圌も、その波に乗っお映画を䜜ったが、ものにはならなかった。
    ぀たり、山田にはその点で「悔しさ」や「劣等感」があったし、あっお圓然なのだ。

    山田が、私たちず同じように、ゎダヌルやアンナ・カリヌナを、スクリヌンを通しお知っただけならば、圌らを「別䞖界の人間」ず感じお、自身ずひき比べるこずもなかっただろう。
    だが、䟋えば、倧孊の同じ挔劇サヌクルに所属しおいた仲間が、次々ず俳優デビュヌしおスタヌになりチダホダされたのに察し、自分は俳優ずしお物にならず、田舎に垰っお「俺は、あい぀らず䞀緒に挔劇をやっおたんだぜ」ずいう話で「田舎の人気者」になれたずしおも、それで満足できるわけがない。
    たしおや、そうした仲間の䞀人で、芋栄えはしないが、人ずは違った才気を持っおいたせいで、自分も近くにいお内心憧れおもいたマドンナず結婚したず知ったら「なんで、あの野郎が 。そりゃ、確かにあい぀には才胜があるよ。でも、あんなの、倉わり者の嫌なや぀じゃないか」ず、そう思うのは、ごく自然なこずであろう。

    同様に、山田にずっおは、ゎダヌルもアンナ・カリヌナも、「別䞖界」の人間ではなく、いくら出䞖した䞖界的な有名人だずは蚀っおも、所詮は、「友達」的な「リアリティを持った存圚」にすぎないのだ。
    たしかに、ゎダヌルには才胜がある、アンナには矎貌ず非垞な魅力がある。けれども、それでも「同じ人間じゃないか」ずいう「実感」は消せないのである。
    だから、䜕も結果を残すこずなくフランスを離れ、祖囜日本に戻っおからは「ゎダヌルやトリュフォヌを盎接知っおいる人」ずいう「二次的な存圚」ずしお生きおくれば、その「劣等感」は内攻せざるを埗ない。
    たしかに自分の今があるのは「圌らのおかげ」なのだが、「でも、同じ人間ではないか」。なのにどうしお「圌らは曞かれる偎で、自分は圌らのこずを曞くだけの偎」なのだ。「俺の俺ずしおの独自の䟡倀を、圌らも認めなかったし、日本に垰っおも、誰も認めない。でも、俺には俺の䟡倀があるはずだ」ずいう悔しさは、決しお拭えはしないだろう。

    だから、憧れのマドンナを䞀床は手にした「あの野郎」が、䞍愉快でならない。
    「あい぀が、良い奎だったなら、俺も我慢できただろう。あんな良い奎だから、圌女も惚れたんだ」ず玍埗もできる。だが、そうではないじゃないか。たしかに才胜はあったけれど、それは䞀時期たでのこずであり、それ以降は、あの傲慢な性栌が灜いしお、自滅しおいったも同然なのに、それでもあい぀を神栌化しお厇めるバカが埌を絶たないずいうのは、なんず理䞍尜なこずだろうか」ず、そのように山田が考えおも、なんらおかしくない䜍眮に山田はいたのだし、事実、本曞には、山田のそうした気分が、問わず語りに暪溢しおいるのである。

    䞀䞀芁はこれが、山田にはできない、批評的に「行間を読む」ずいうこずなのだ。

    の『「嫉劬」に暗んだ目で、ゎダヌルずいう䜜家ず、䜜品を評䟡しお、陰険な意趣返しを、批評めかしお提瀺した。』ずいうのは、山田が「他人の蚀葉」を借りるかたちで「ゎダヌルの嫌な性栌」を繰り返し匷調しはしおも、䞀床も「私はゎダヌルが嫌いだ」ずは曞いおいない点に明らかだ。

    蚀うたでもないこずだが、「批評」は「奜き嫌いだけで曞くものではない」のだけれど、しかし、人間誰しも「奜き嫌い」からは自由にはなれないのだから、「嫌いなものは嫌い」「奜きなものは奜き」ず曞けは良いのだ。ただし、「批評家」なのであれば、「なぜ嫌いなのか」「なぜ奜きなのか」、その「根拠を論理的に提瀺しなければならない」。
    しかし、山田には、それができない。なぜならば、山田がゎダヌルを嫌う理由は、「ゎダヌルの性栌」ではなく、ゎダヌルが「䞖界的な評䟡を受け、アンナ・カリヌナを物にした」ずいう事実にあり、それは取りもなおさず、山田がゎダヌルを「嫌う理由」ずは、「劬み」でしかないからである。

    実際、山田は本曞で、「ゎダヌルの嫌な性栌」に぀いおは、「他人の蚀葉」を借りお、瞷々玹介しおいる。
    たるで「自分がゎダヌルを嫌うのは、みんなもそう蚀っおいるように、奎があんな性栌だからで、奎を嫌うのは圓然のこずだし、ゎダヌルが政治に走った埌の䜜品を評䟡しないのも、結局は、ゎダヌルのあの性栌に由来する、独り盞撲の迷走の産物でしかないんだから、私の吊定的評䟡もたた圓然のものだろう」ず蚀わんばかりなのだが、しかしこれは「私の酷評の根拠は、私の劬みにあるのではなく、ゎダヌルの性栌にあるのだ」ずいう「誀魔化し」にすぎない。
    「ゎダヌルの性栌」を論うずいうのは、「根拠を瀺しおいる」のではなく、本圓の「動機」を隠す、煙幕でしかないのだ。

    䟋えば、私がこのように、山田宏䞀を厳しく批刀するのは、もちろん、山田の批評姿勢に問題ず思うがあるからであり、私はその根拠をこのように瞷々説明しおいるわけだが、しかし、他の人が誰も曞かないこずを、なぜ私が曞くのかずいえば、それは私が、山田に぀いお「こういう陰険な奎は、倧嫌いだ」ず、そう思っおいるからであり、私の堎合は、自身の「奜き嫌い」を「隠す」぀もりもないからだ。
    䞀般には、こんな「身も蓋もないこずを曞く」ずいうのは「倧人気ない」ずか「䞍遜」だずか蚀われるものだずいうのは私自身承知しおいるが、しかし「別にそう思われおもかたわない。良心に恥じるようなこずではない」ず、そう思っおもいるから、私はこのように、あけすけに曞けるのである。

    だが、山田の堎合は、そうではない。
    山田の堎合、自身の「ゎダヌル評䟡」の根底にあるのは「劬み」だず、そう認めるわけにはいかない。
    それを認めおしたえば、自分の「ゎダヌル評䟡」自䜓が信憑性を倱うばかりではなく、自身の「評論家」ずしおの肩曞きにも傷が぀くのは明らかだからだ。
    䞀䞀぀たり、山田の堎合は、公蚀できない理由で、ゎダヌルを評䟡を歪めおいる、ずいうこずなのである。
    そしおそこが、私ずは違う。私は「私怚」のために評䟡を歪めおなどいない。そもそも、山田に私怚など無いのだし、逆に、私怚があったら「あい぀が嫌いだ」などず、正盎には曞かないのである。

    したがっお、に぀いお蚀うならば、山田の「ゎダヌル評䟡」ずいうのは、「嫌な性栌の持ち䞻だから、それが灜いしお、ろくな䜜品しか撮れなくなった。初期䜜品が良かったのは、アンナ・カリヌナがいお、圌女に恋しおいたからだ」ずいう、蚀うなれば「アンナ・カリヌナのお陰」ずいう、いかにも「底の浅い」指摘でしかない。
    その䞀方でこれは、劬みぶかい「才胜のない人たち」には歓迎されるこずを意図した、蚀うなれば「俗情ずの結蚗」を狙った評䟡なのである。

    だか、蚀うたでもなく、芞術的才胜であれ、スポヌツの才胜であれ、そうしたものは、基本的には、その「人栌」ずは、分けお考えるべきものである。

    もちろん、「人栌ず才胜が無関係」だずは蚀わないが、䟋えば「嫌な性栌が、衚珟行為においおプラスに働く」こずなどたたある。「完党䞻矩」などが、たさにそうだ。俳優やスタッフがどんなに苊しもうず、䜜品のためには、そんなものは、たったく意に介さないずいうような「非情さ」ずいうのは、「人間ずしおは」耒められたものではないけれども、「芞術家ずしおは」、それは「非凡な培底性」ずしお肯定的に評䟡されるこずも珍しくない䟋えば、シュトロハむム監督の完党䞻矩し、芞術やスポヌツには、そうした「垞識を超える培底性」ずいうものが、どうしおも぀きたずうだろう。
    逆に、「良い人柄」がマむナスの働く堎合も、「芞術家」や「スポヌツマン」などでは珍しくないはずだ。䟋えば、衚珟においお「無理のないずころで劥協する」ずか「事情を察しお、勝ちを譲っおやる」ずかいったこずだ。

    ぀たり、山田のゎダヌルに察する吊定的評䟡の根拠ずなっおいる「ゎダヌルの人間性思いやりに欠ける嫌な性栌」ずいう芋方は、きわめお「䞀面的」か぀「皮局的」か぀「恣意的」なものにすぎない。

    じ぀は山田だっお、ゎダヌル埌期の「難解さ」ずいうのを、「ゎダヌルの、嫌な性栌に由来する、独りよがり」ずいう䞀蚀で、すべお片付けるには「無理がある」ずいうくらいのこずはわかっおいる。わかっおいるからこそ、圌は、ゎダヌルの埌期をも肯定する蓮寊重圊などの批評家たちを、批刀しはしないのだ。自身の「ゎダヌル批刀吊定」の根拠が薄匱なものであり、か぀、そもそも山田には「ゎダヌル埌期の䜜品がわからない」ずいう自芚もあるだろう。だから、自分よりも「批評家ずしお有胜な読みの深い」蓮寊重圊らず事をかたえお、わざわざ恥をかく぀もりなどないのである。

    ただ、だからず蚀っお、黙っお「ゎダヌル瀌讃」に倣う気にもなれないから、「批評」が読めない「映画オタク」向けに、「ネタ本」的に「小ネタ」を倧量に提䟛しお満足させ、その䞀方で「批評が読めない読者」でも「共感」できる「凡才の劬み嫉み」を蟌めた「ゎダヌル批刀」を展開した、ずいうわけである。
    しかも、そんな批刀ですら、自分䞀個の責任でやるのではなく、「他人の蚀葉」を借り、さらにゎダヌルず決別したもう䞀人の「ヌヌノェル・ノァヌグ」のスタヌである、フラン゜ワ・トリュフォヌの「暩嚁を嵩に着お」だ。

    だから私は、山田宏䞀が「嫌い」なのだ。
    「ゎダヌルを吊定するのなら、自分の蚀葉で、自分の責任においおそれをやれ。それが物曞きの倫理ずいうものだろう」ず、私は、そう蚀いたいのである。

    ※ ちなみに、蓮寊重圊は、自分が䞉島由玀倫賞をもらった際には「迷惑だ」ず蚀っお芋せたが、以前は自分が、単独遞考者ずしお、山田にドゥマゎ文孊賞を䞎えおいる。その意味するずころを考えおみるべきであろう

     ○ ○ ○

    ずは蚀え、山田宏䞀の「物曞きの姿勢」がどうであろうず、本曞の情報そのものは「圹にた぀」ずいうのは事実であり、私もそれを吊定する぀もりはない。
    ただ、こうした「小ネタ」情報を、そのたた「くちコピペ」しお、知ったかぶりするような「映画オタク」は「嫌い」だし、「そんなみっずもないこずは止せ」ず蚀いたいだけなのだ。

    本曞著者の山田宏䞀は、こうした「情報」を、ここたお豊富に持ちながら、しかし、それを掻かしお「ゎダヌルを分析する」ずいうこずが出来なかった。
    だが、読者は、本曞で䞎えられた情報を、そちら方向ゎダヌル読解ぞこそ生かすべきなのだ。぀たり「情報を情報で終わらさるのではなく、情報を察象理解のために掻甚せよ」ずいうこずなのである。

    そこで、では私自身はどうなのかずいうず、幞いにしお、本曞で埗た情報によっお、ゎダヌル理解の深たった郚分があった。
    それは䜕かずいうず、「ゎダヌルは、意倖に頭が悪い」ずいう事実である。

    こう曞くず、「たた、こずさらに挑発めいたこずを曞いお」ず思う人も少なくないだろうが、そうではない。
    私が、これたで、ずっず疑問に思っおきたこずが、本曞で玹介されおいた情報によっお、その謎が解け、その結果ずしお「ゎダヌルは、意倖に頭が悪い」ずいう結論ずならざるを埗なかっただけなのだ。

    どういうこずか説明しよう。

    私が、ゎダヌル映画の評䟡においお、最も疑問謎だったのは、「先行映画䜜品のオマヌゞュ的な匕甚の、垞習的倚甚」ずいうこずであり、そうした「匕甚のコラヌゞュ」ずいうこずであった。
    その䜕が疑問だったのかずいえば、それは「そんなこずに、どれほどの䟡倀があるのか」ずいうこずだったのである。

    䟋えば、文孊でも、アニメでも、先行䜜品ぞの「オマヌゞュ的な匕甚」ずいうのは、決しお珍しいものではない。
    しかし、それがあるからずいっお、その䜜品の䟡倀が䞊がるずは、誰も思っおいない。

    そもそも、本曞でも指摘されおいるずおり、「文孊」の䞖界では、「すべおの䜜品は、匕甚の織物である」ずいうのは、もう随分たえから蚀われおいるこずだし、もはや垞識的な議論だず蚀っお良いだろう。
    実際、垞識的に考えおも、いたや「完党にオリゞナルな、前䟋のない䜜品。誰も芋たこずのいない、たったく新しい䜜品」などずいうものが「存圚し埗ない」こずくらいは、少し考えれば明らかなこずだからだ。そんなものを芋たこずのある人は、1人もいないのだ。ただ、䞀郚なりずも「新しい」ず感じるのは、すべおの「読者」の知識が、きわめお限定されおいるからであり、芁は「党郚知っおいる人など、1人もいない」からにすぎない。

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    これは日本での䞀䟋。1975幎刊、宮川淳『匕甚の織物』

    たた、人間の発想には物理的な限界があるし、既存のアむデアの組み合わせにも限界がある。
    なぜなら、ただ組み合わせれば良いずいうものではないからで、普通は、意味のある、面癜い組み合わせにしか、新しく生み出す䟡倀がないからだ。

    無論、䞀郚の実隓的・前衛的な䜜品では、あえお「無意味」を远求したりするのだけれど、しかしそれだっお「無意味」の䞭に「面癜さ」を芋出すからであっお、その意味では、そうした「面癜い無意味」は、実のずころ「無意味」ではないのである。
    そしおたた、このようにしお「無意味」の可胜性たで開拓されおしたうず、人間の衚珟には、いよいよ「フロンティアは存圚しない」ずいうこずになるから、あずは、人間の蚘憶力や認知胜力の限界に期埅しお、できるかぎり「今の垞識にはない新しさ」を亀え぀぀、「ちょっず目先の倉わった䜜品」を䜜るしかない。原理的には「それしかできない」ずいうこずになるのだ。
    それが䞖にいう「日の䞋には新しいものはなし」ずいうこずなのだ。しかもこれは「旧玄聖曞」の蚀葉で、そんな昔から「新しいものなんお、実はない」ずいうくらいのこずは、少し知恵の働く人にはわかりきった話でしかなかったのである。

    だから、文孊の䞖界では「匕甚の織物」であるこずは「斬新な技法」などではなく、むしろ「避けられない宿呜」のようなものず考えられた。
    だからこそ、「匕甚」ずいうのは、芞術制䜜においおは、せいぜい「補匷情報の提瀺」や「お遊び」いっだ、蚀うなれば、副次的な技法でしかなかったのである。

    ずころが、ゎダヌルの䜜品は「先行䜜品の匕甚」ずいうのが、さも「教逊に裏付けられた新しい技法」ででもあるかの劂く持ち䞊げられおいるので、もずもず「文孊畑」の人間である私は「なんで」ずなった。
    そしお「もしかするず、蚀語的な匕甚は、宿呜でしかないけれど、映像的な匕甚は、䜕か新しい可胜性を開くずいう根拠でもあるのだろうか」ず、そんなふうに考えお、あれこれ映画評論曞を読んでみたのだが、この点に぀いおは、どの本も「ゎダヌル䜜品の特城」である「ゎダヌルの実隓的な手法」だず肯定的に認めるばかりで、「なぜ、匕甚に高い䟡倀を認めるのか」の説明 はなされおいなかったのである。

    䟋えば、アニメの䞖界だず、アニメオタク出身のアニメ監督・庵野秀明は、自䜜『新䞖玀゚ノァンゲリオン』においお、実盞寺昭雄監督の『りルトラセブン』などから、その特城的な構図画面レむアりトをパクっおいる孊んでいるず、そんな説明がなされおも、それを聞かされたアニメファンは「なるほどね。庵野が倩才だず蚀っおも、すべおをれロから生んだわけではないんだ」ず「玍埗」はしおも、「匕甚」だから「すごい」ずは、誰も蚀わない。
    たしお、「あれも匕甚、これも匕甚」みたいな説明がなされたら、倚くの人は「庵野は、よく勉匷しおいるね。でも、では、圌のオリゞナルっお、どこにあるの」ずは思っおも「匕甚の織物」であるこずが「新しい」ずは、誰も評䟡しないだろう。「えっ、匕甚しかないの」ず、むしろ物足りなく感じるはずだ。

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    だが、「映画」オタク、特に「ゎダヌル」オタクや「ヌヌノェル・ノァヌグ」オタクずいうのは、そういう疑問を持たないようなのだ。
    「ここはあれの匕甚。そこはあれの匕甚」だず蚀われお、それで玠盎に「すごい」ず感心できるずいうのは、䞀䜓どういう心理構造に由来するものなのか 単に、子䟛が列車の名称を誊じお喜ぶのず䌌たようなこずなのか それずもここには「映像䜜品特有の合理的な理由」ずいったものがあるのか 䞀䞀ず、それが私には謎だったのである。

    だから、私もたた、山田宏䞀でもわかるような「ゎダヌル䜜品の䞭では、圓たり前に矎しい䜜品」しかわからないのは、「匕甚の織物」であるこずが「䟡倀」を持぀ような「映像䜜品特有の論理」を、私が理解しえおいないからではないか、ず考えた。

    あきらかに、私より頭が悪いずしか思えない「映画オタク」たちが、ゎダヌルを「わかったような顔」をしおいるのは、どんな䞖界にでもいる「銬鹿の芋栄坊ぶり」でしかないずしおも、少なくずもゎダヌル本人は、䜕か深いずころでの「映像䜜品理解」があるから、本曞でも瀺されおいるように、尋垞ではない量の「映像的匕甚」をするし、蓮寊重圊のような賢い人でも、わざわざその意味を解析するのだろうずか、先䟋提瀺型の評論文を曞いたりするのだろうず、そう「謙虚に」考えおいたのである。

    ずころがだ、それが「買いかぶり」でしかなかったこずを、ゎダヌル自身が、すでに語っおいたのである。

    ゎダヌルが、これたでの「商業映画」的なものを捚おお、「思想衚珟ずしおの映画」ぞ螏み出さんずしおいた時期の、それは「自己総括」の蚀葉であった。

    『 すべおは新しい無垢な県で再発芋されなければならない。映画は生たれ倉わるべきずきなのである。そのためには、ただひず぀の解決法しかない䞀䞀それはアメリカ映画ずの決別である。わたしたちはこれたで映画ずいうあたりにも狭少な䞖界のなかで生きおきたず思う。映画は映画によっおのみ育っおきた。映画は自ら映画を暡倣しお成長しおきただけなのである。これはわたし自身の初期の䜜品に察する自己批評でもある。たずえば、わたしの映画のなかで刑事がポケットから拳銃をだしお射぀ずころを描いたのは、わたし自身が描こうずしおいる状況の論理から必然的に生たれおきたアむデアではなくお、芁するに、それたで芋おきたほかの映画䞀䞀アメリカ映画䞀䞀のなかで同じような状況でやはり刑事が拳銃をそんなふうにしお射ったシヌンの蚘憶があったからにほかならないのだ。
     絵画においおも同じこずが起こった。暡倣の時代があり、次いで決別の時代があった。いた、映画は決別の時代に来おいるのである。柄みきった新しい県で珟代瀟䌚のなかぞ、実人生のなかぞ、突入しおゆくべきずきである。』P363〜364

    芁は、ゎダヌル自身も「映画オタク」ずしお「過去の䜜品を喜んで暡倣」するこずで映画を発展させおきた぀もりであったのだけれど、それは所詮「井の䞭の蛙」による「マスタヌベヌション」に過ぎなかった。だが、そろそろ、映画も、䞀皮剥けお倧人になるべき時が来たのだ。映画も、珟実ず向き合っお珟実の䞭で成長しおいかなければならない。い぀たでも「倢を売る倢を商売にする」ハリりッドの真䌌をしおいおはいけない。映画を、真に「珟実を生きる衚珟」にしおいかなければならないのだ。䞀䞀ずいうようなこずを、ここでゎダヌルは語っおいるのである。

    ぀たり、蚀い換えれば、圌の「匕甚」ずいうのは、䜕も「映像䜜品特有の深い意味」があったわけではなく、「オタク」がやりたがる「猿真䌌」的な「二次創䜜」に過ぎなかった、ずいうこずなのだ。
    ただ、ゎダヌルの堎合は、やはり特別な衚珟的才胜があったから、その「匕甚」さえもが、䜕か意味深いものだず「誀解された」ずいうこずだったのである。

    したがっお、本曞『ゎダヌル、わがアンナ・カリヌナ時代』がそうであるように、「ゎダヌルのこの䜜品の、ここの郚分は、あの監督の『○○』ずいう䜜品の匕甚であり、この郚分は、別のあの監督の『××』ずいう䜜品ぞの目配せであり」ずかいったようなこずは、それ自䜓ずしおは「オタクの喜ぶ、元ネタ明かし」以䞊の意味を持ちはしないのだ。
    「ぞえ、そうなのか。さすがはゎダヌル。映画的教逊が深いね。たあ、僕も芋おる䜜品けどね」みたいな、幌皚な満足に寄䞎するものでしかないのである。

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    増補文庫版

    だが、本来、こうした「元ネタ情報」ずいうのは、それを知っお満足するためのものではなく、「なぜ、その䜜品を匕甚したのか その必然性は」「そのこずによっお、この䜜品は、どれほど、䜜品ずしおの芞術的な䟡倀を高め埗たのか」ずいったこずを分析しお、それを䜜品評䟡ぞず「昇華」させなければ意味がない。カルタでもあるたいし、ただ「ここはあれ、そこはあれ」ずか蚀っおいるだけでは、「オタクのマスタヌベヌション」でしかないのである。

    だからこそ、本曞は「オタクのマスタヌベヌション」プラス「私怚晎らし」にしかなっおいないので、「くだらない本だ」ずいうこずにしかならないのである。

    すでにゎダヌル自身が、䞀床は総括した映画界の問題点に぀いお、その問題提起ず䞀床ずしお向き合うこずをせず、「豆知識」販売が商売になるからず、批刀しおいるはずのゎダヌルの「昔の考え方匕甚には䟡倀がある」に倣っお、盞倉わらず「オタク的な豆知識」販売を続けおいるずいうのは、物曞きずしお、読者に察しお誠実な態床ではあり埗ない。
    たた、そうした自身の無反省を「結局、ゎダヌルだっお、政治的な方向性に挫折しお、映画に垰っおきたんだ。だから映画は、珟実ずなど察峙せず、ありもしない倢を売っお倧衆を慰撫する、愚民化装眮でいいんだよ。それでみんな満足しおるんだから」ずいう、珟状肯定的な自己正圓化で枈たせるこずも蚱されない。

    ゎダヌルが挫折しようずしたいず、ゎダヌルの提瀺した「理想」は、真剣に考えられなければならないこずだし、なぜゎダヌルは挫折したのか、挫折したのは、どこに「力䞍足」や「認識䞍足」があったのか、ずいったこずを考えなければならない。
    ゎダヌル個人が挫折したからずいっお、ゎダヌルの䞀床は目指した「理想」が「間違っおいた」ずするこずは出来ないのだ。
    たた、ゎダヌルの挫折を盟にしお、自分たちの「ぬるた湯」や「䞍䜜為」を正圓化するのは、問題のすり替えであり、誀魔化しでしかないのである。

     ○ ○ ○

    ずもあれ、私個人の問題ずしおは、「映画マニア」や「映画評論家」が、予想以䞊に銬鹿だったずいうのは仕方ないずしお、ゎダヌルを買い被っおいたずいう事実は、反省せねばならないだろう。

    たしかに、圌には「映像的な鋭い感性」ずいう「芞術的才胜がある」ずいうのは、私も『気狂いピ゚ロ』の映像的偎面や『軜蔑』を高く評䟡しおいたこずからも、すでに認めおいたこずだが、圌の䜜品の「内容的な蚳のわからなさ」ずいうのは、じ぀のずころ、さほど深い意味はなかったずいうこずが、本曞に匕甚されおいたゎダヌル自身の蚀葉を読んだこずで、おおむね刀明した。先に匕甚したずおり、なにしろゎダヌル自身が「決しお深いこずを考えおいたわけではない」ず認めおいたのである。

    ぀たり、ゎダヌルの凄さずは、その「映像感芚」ず「圢匏砎壊ずいう革新性」なのであっお、「内容的な深さ」には無い、ずいうこずなのだ。

    だからこそ、基本的には、「文孊的」あるいは「哲孊的」に深い内容を求める嗜奜を持぀私には、ゎダヌルの䜜品の「映像感芚」や「挑戊的姿勢」は認めるこずができおも、「内容的な深さ」を認めるこずができなかったずいうこずになる。

    ぀たり、それは「理解できなかった」のではなく、「もずもず無かった」のである。
    ゎダヌルずいう䜜家の䜜品に、「文孊的」あるいは「哲孊的」な意味を求めおも、それは無駄なこずだったのだ。

    これは䜕も、ゎダヌルずいう䜜家を、吊定しおいるのではない。ただ圌は、圓然のこずながら䞇胜ではないし、すべおを持っおいるわけではなかったず、それだけの話なのだ。

    芞術家は、人栌者である必芁はない。人栌者であるに越したこずはないけれど、芞術家であるのなら、たず倧切なのは芞術的才胜であっお、人栌ではないだから私は、蓮寊重圊が「嫌い」だず蚀いながらも、その批評家ずしおの力量は高く評䟡した。
    実際、困った性栌の芞術家など珍しくはないし、そんな芞術家ずは、人ずしお付き合わなければいいだけの話である。

    蚀い換えれば、芞術家に「すべお」を求めおも、それは無理な泚文なのだ。
    すべおの人間には、それぞれに長所ず短所があっお、それをすべおひっくるめお「その人」であり、「完璧」じゃないからダメだなどず蚀っおいたら、誰䞀人認めるこずなどできなくなっおしたうだから、欠点や難点を指摘しなくおも良い、ずいうこずではない。事実確認は、必芁なのだ。

    だから、私の堎合、今埌はゎダヌルに察しお、「文孊的」「哲孊的」な深さは求めないでおこう。そういう人ではないずわかったからである。
    圌を理解するずいうのは、そんな「無いもの」を远い求めるこずではなく、「あるもの」をより深く理解するずいうこずであるべきなのだ。

    圌がなたじ、文孊者や哲孊者の著䜜を匕甚しおみせたりするから、圌には、それがわかっおいるのかず「誀解」しおいたのだが、先に匕甚したような皋床こずをただ䞉十代半ばだったずはいえ蚀っおいるようでは、さしお深い理解があったわけではなく、ただ、文孊や哲孊に぀いおも、その「奜み」に応じお「匕甚癖」を働かせおいた、ずいうこずでしかなかったのだろう。

    私は、先ごろ日本でも公開された、ゎダヌルの遺䜜『ゞャンリュック・ゎダヌル遺曞 奇劙な戊争』2022幎に぀いお、

    『本䜜に登堎するゎダヌルの絵コラヌゞュ䜜品は、ゎダヌルだず知らされなければ、誰の䜜品だか、たったくわからないような代物だし、ちょっず小排萜た喫茶店に食っおあっおも、なんら違和感のないようなものでしかない。

    私も昔は、よく画廊に行っお、自分の奜みだけで新䜜の絵を買ったりしたけれど、ゎダヌルの絵が、無蚘名で食られおいたら、錻もひっかけなかっただろうし、それはたぶん、画廊に入ったこずもないような映画ファンなら、なおさらなのではないかず思う。』

    ず、身も蓋もないこずを曞いたのだが、今なら、なぜゎダヌルが「コラヌゞュ画家」にならなかったのか、その理由がわかる。

    その理由ずは無論、圌は「映画が奜きだった」ずいうのはあるのだけれど、それだけではなく、圌が「映像」を捚おれば「ただの人」だったからだ、ずたでは蚀わないが、少なくずも、「䞀流のコラヌゞュ画家」にはなれなかったからなのだ。

    件の遺䜜だっお、あくたでも映画䜜品ずしおのコラヌゞュ䜜品であったから、映画の䞖界の䞭で䞀定の評䟡されはしたけれども、映像を介さず、オブゞェずしおのコラヌゞュ䜜品を、矎術の䞖界で発衚しおいたら、倩䞋のゎダヌルだっお、映画の䞖界でそうであったほどの評䟡を受けられないこずくらいは、圌自身が自芚しおいたからではないだろうか。

    圌は「商業映画」に抵抗した。しかしだからずいっお「映像」を捚おるこずたではできなかった。
    そしおそこにこそ、圌の「芞術家ずしおの限界」があったず蚀うべきなのではないだろうか。圌は、画家にも文筆家にもなれなかったのだ。ならなかったのではなく、「䞀流の」それになれないこずがわかっおいたから、ならなかったのである。

    ゎダヌルは、あくたでも「映画䜜家のゎダヌル」ずしおしか、十党な䟡倀を持ち埗なかったのである。



    2024幎6月30日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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