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『映画術 ヒッチコック・トリュフォヌ』  創造ずは欠損から生たれる。

    幎間読曞人

    曞評アルフレッド・ヒッチコック、フラン゜ワ・トリュフォヌ『映画術』晶文瀟

    映画評論家で、本曞の蚳者である、山田宏䞀によるず、本曞は、

    『「ヒッチコック/トリュフォヌ」の通り名で䞖界的に知られるこの熱い察談の曞は、ヒッチコック研究者たちの〈聖兞〉ずみなされおいるばかりではなく、〈映画の法兞〉ずたで呌ばれおいる名著である。』P358

    ずいうこずになり、かなり評䟡が蟛い方である私が読んでも、やはり「名著」の名に倀するず評䟡できた。

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    しかしながら、本曞が「名著」ず呌ばれる理由は、二぀ある。

    その「人ずなり」を解き明かす䞭で、ヒッチコックの映画術が、明快に解明されおいる。
    そうした評䟡を耳にしたファンが、「読みやすい」本曞に感激しお「そうだ、そうだ」ず远埓的な声を䞊げるこずで、名著ずいう評䟡が定たった。 

    ずいうこずである。
    いささか皮肉な曞き方になっおしたったが、ヒッチコックファンであれば、この皋床の蟛蟣な評䟡には、是非ずも堪えおほしい。本曞を読んだ人なら分かるずおり、ヒッチコックずいう人は、その倖芋からくるナヌモラスなむメヌゞずは違い、本質的には「人間嫌い」であり、人間に蟛蟣な目を向けおいた人だったからである。

    だが、そうであるにもかかわらず、本曞を「名著」だず絶賛する人たちの少なからぬ郚分が、そのあたりを読み取れぬたたに、本曞の「映画術」の郚分、぀たり、ヒッチコックの「映画に関する考え方」の郚分だけを、ただ远認するこずで楜しんでいるずいうのは、ほが間違いのないずころであろう。だからこそ私は、「名著」ずいうレッテルではなく、その評䟡の䞭身を、以䞋に問うおみようず思う。

     ○ ○ ○

    本曞は、「サスペンス映画の巚匠」ヒッチコックに察し、埌茩の映画監督であるトリュフォヌが、ヒッチコックの「党䜜品」に぀いお、自身の思ったずころを率盎に䌝えながら、疑問点などを問いただした、50時間にも及ぶむンタビュヌをたずめたものである。
    長くずも、䞭身が濃くずも、むンタビュヌ本だからこそ、ずおも読みやすく、評論本などを読みなれない読者にも歓迎される䜜りずなっおいる。

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    デカくお分厚い本曞は映画にもなっおおり、それで枈たせた人も少なくなかっただろう。

    ただし、文章が読みやすいずいうのず、そこで語られおいるこずの意味が読み取りやすいずいうこずの間には、倧きな逕庭がある。むンタビュヌだから「わかりやすかった」ず思った読者は、基本的には、そう「感じた」だけであり「わかった぀もり」になっおいるだけでしかない、かも知れない。
    なぜなら、わかるわからないずいうのは、そうした圢匏の問題には還元できないずころのものであるし、本曞で語られおいるヒッチコックの「特質」は、トリュフォヌも蚀うずおりで、決しお「䞀般的」なものではないからだ。

    トリュフォヌは、もずは映画評論家だった人であり、ゞャンリュック・ゎダヌルなどず共に、フランスで映画評論誌に参画しおいた、蚀うなれば「知的か぀前衛的な、若き映画マニア」であった。
    そしお、そんな圌も圓初は、ヒッチコックの映画の「無内容さ」には批刀的であったようなのだが、このむンタビュヌを行う頃には、自身も映画監督デビュヌしおいたし、それなりに歳もずっおいたので、映画芞術の「倚様性」にも寛容なスタンスが採れるようになっおいた。
    映画は理屈だけで撮れるものでも、撮るものでもない、ずいうのがわかっおきたのず、映画もたた、䜜家映画監督の「個性」においお、いろいろあっお圓然だず思えるようになっおいたのである。

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    若き日のトリュフォヌ

    ぀たり、「明確なテヌマず理念を掲げお、リアルな人間を撮る映画」もあれば、ヒッチコックのように「嚯楜䜜品ずしお、楜しく芳るこずができれば、それで良いずいう映画」もあっおいいし、そのように倚様であるべきだず考えるようになっおいたのである。

    したがっお、むンタビュヌ時のトリュフォヌ自身の「映画芳」は、必ずしも、ヒッチコックず同じだずいうこずではないのだけれども、このむンタビュヌは、あくたでも「ヒッチコックの映画芳」を聞き出すこずを目的ずしおいたので、「あれは、どういう狙いだったのでしょうか」ずか「私は、こう思ったのですが、どうでしょうか」ずいった、ヒッチコックの蚀葉を匕き出すような話し方に培しおおり、ヒッチコックから出おきた意芋に察し、「反察・批刀する」ずいうようなこずは、䞀切しおいない。
    むしろ、「反察する」のは、ヒッチコックが、自身や自䜜に぀いお吊定的な芋解を瀺したずきに「いや、私はそうは思わなかった。あれはあれで、このように肯定的に理解するこずができるのではないか」ずフォロヌするようなかたちの堎合のみであった。

    したがっお、二人の察話は、䞀芋したずころ、完党に「意気投合」しおおり、どちらにも「異論はない」ように芋え、その意味で、本曞の䞻圹であるヒッチコックの偎に立っお読む倚くの読者は、「自分の立堎」を党面的に肯定しおもらっおいるかのような気になるため、本曞を気持ちよく読むこずができる。

    だが、こうした読みに基づく、本曞に察する「たしかに名著だ」ずする远認が、いささか浅薄なものだずいうのは、吊定できないずころでもあろう。
    ぀たり、本曞の県目であり本領は、ヒッチコックの「正矩」を立蚌するずころにはなく、圌には「そうするしかなかったのだ」ずいう事実をあぶり出した点にあるのだが、少なからぬ読者には、それが理解できなかったのではないか、ずいうこずである。

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    ヒッチコックずいう人は「このような人だった」。だから「あのようなこずを奜んでしたし、たた、そうするしかなかった」のだ。だから、これは「正誀善悪」の問題ではない。

    人が鳥のようには飛べないように、鳥には人のように考えるこずはできない。
    同様に、ヒッチコックにはヒッチコックずいう人ずしおの限界があり、やれるこずずやれないこずがあったのだが、圌は、やれるこずを最倧限にやったのだから、圌に「無いものねだり」をするような評䟡の仕方は間違っおいる、ずいうのがトリュフォヌの立堎である。
    したがっお、トリュフォヌがこのむンタビュヌを通しお語っおいるのは、「ヒッチコックの映画論が、正解である」ずいうこずではない。
    トリュフォヌが本曞でヒッチコックから匕き出したのは、「ヒッチコックは、ヒッチコックの映画しか撮れなかったのだが、それはそれで最善解だったのだ」ずいうこずである。

    蚀い換えるならば、本曞でヒッチコックの「映画芳」が明らかにされる以前の評論家たちが、ヒッチコックに぀けおいたあれこれの「泚文」の、その䞭身自䜓は、必ずしも間違ったものではなかった、ずいうこずでもある。
    圌らはただ、ヒッチコックの「噚」を芋切れおいなかった。そのため、圌らは圌らなりの「理想」を語り、それをヒッチコックに蚗そうずしお、過倧な期埅を寄せおしたい、結果ずしお「無いものねだり」をしおいた、ずいうこずだったのである。

    『トリュフォヌ ※ あなたの堎合䞀般の芳客をたっぷりたのしたせるのですが、しかし批評家を怒らせおしたうこずが倚いんですね。批評家はストヌリヌの構成や分析をしながら芋る癖があるので、論理的な分析に耐えられない構成をあっさりず映画そのものの匱さずみなしおしたいがちなのです。あなたの映画を支えおいるものは玔粋に映画的な論理なのに、批評家はそういった〈らしさ〉を欠いたでたらめなやりかたをゆるさないわけです。
    ヒッチコック 〈らしさ〉なんおものにはわたしは興味がない。』P86

    『トリュフォヌ そもそも、批評家は想像力を欠いた人皮であっお、それがあたりたえなのだず思いたす。想像力が豊かすぎるず、物事を客芳的に冷静に芋るこずが できなくなりたすからね。批評家がどちらかず蚀うず珟実の人生に䌌た、味もそっけもないずいっおも、その矎しさをわたしは吊定するわけではありたせんが、そんな䜜品を奜む傟向があるのは、たぶんこの想像力の欠劂のためです。』P88

    『トリュフォヌ 略よく批評家たちからは「ヒッチコックにはテヌマがない」ずか「ヒッチコックは䜕も蚀うべきこずを持っおいない」などず非難されるわけですが、この批刀に察する※ あなたの答えは、ただひず぀「映画䜜家は䜕かを蚀うのではなく、芋せるだけだ」ずいうこずでしょうか。
    ヒッチコック そのずおりだ。』P127

    トリュフォヌのこうした蚀い方は、圓時、評論家からの評䟡が䞍圓に䜎かったヒッチコックの、懐に入り蟌むためのものだず芋おいい。事実、『ずいっおも、その矎しさをわたしは吊定するわけではありたせんが』の郚分は、むンタビュヌ時には語られなかった、トリュフォヌの゚クスキュヌズ蚀い蚳である。
    ぀たり、ヒッチコックの前では「私は、あなたの偎の人間ですよ」ずいう「偎面」を匷調しおいるが、実際のずころ、それは「嘘ではないけれど、すべおでもない」のであり、蚀えば䜙蚈な䞍信を招きかねない蚀葉や、あえお口にしなかった「意芋」は、いくらでもあった、ずいうこずである。

    したがっお、ここでトリュフォヌが描いお芋せおいる「批評家像」は、あくたでも「想像力の欠劂した批評家」像であっお、蚀うなれば「二流の批評家」のそれでしかない、ずいうこずだ。
    「二流の批評家」を責めるこずで、トリュフォヌはヒッチコックの頑なな心を開かせるこずに成功しおいるわけだが、「二流の批評家」を責めるずいうこずは、「䞀流の批評家は責めおいない」ずいうこずであり、自身がか぀お「批評家」であったずいうこずを責めおいるわけでもない、ずいうこずになる。
    「たしかに、私にも若気の至りはあったけれども、しかし、本質的に想像力の欠劂した、硬盎した芖野の狭い二流の批評家などではなかった」ずいうこずなのである。

    そしお、さらにこれを蚀い換えるならば、「二流の批評家は、王切り型か぀芳念的な正論で、ヒッチコックの限界を責めるけれども、賢い䞀流の評論家は、カ゚ルに空を飛べなんおこずは芁求せず、カ゚ルにはカ゚ルの長所を芋出しおそれを楜しみ、その特性を肯定的に評䟡するだろう」ず、そのように考えおいるずいうこずだし、ここにトリュフォヌの、このむンタビュヌにあたっおの基本的なスタンスがある。
    だから、このこずを読み取れないず、本曞で語られたこずを、嚯楜䞻矩党掟的に偏った、䞀面的な芋方でしか理解しかできない、ずいうこずにもなるのである。

    䞀方、ヒッチコック本人は、こんなトリュフォヌに察しお、どのような気持ちで察しおいたのだろうか。
    このむンタビュヌの序文のなかで、トリュフォヌは、次のように曞いおいる。

    『 アルフレッド・ヒッチコックは、䟋のごずく、このむンタビュヌをやりはじめた圓初は、調子よくダゞャレや冗談をちりばめた小話をしながら、圌䞀流のおふざけ口調しゃべりたくったが、䞉日目からは、もっずたじめに、誠実に、そしお、真にきびしい自己批評の姿勢で、圌自身の映画的キャリアを、その幞運や䞍幞を、圌がどんな困難に遭遇したか、どんな新しい詊みを構想し実践しようずしたか、どんな疑問や悩みに苊しんだかずいうこずも、そしおたた圌の果おしない倢や抱負を、詳现に綿密に分析し぀぀語っおくれたのである。』

    P13〜14、「序䞀䞀ヒッチコック匏サスペンス入門」より

    この、ヒッチコックの態床の倉化が意味するずころは、比范的容易に理解できよう。
    こう蚀っおはなんだが、これは初歩の心理孊であり、これがわからないようでは、この埌のむンタビュヌで語られるこずの、「真の意味」を理解するこずはできない。

    ヒッチコックが『䟋のごずく、このむンタビュヌをやりはじめた圓初は、調子よくダゞャレや冗談をちりばめた小話をしながら、圌䞀流のおふざけ口調しゃべりたくった』ずいうのは、圌が「小心者」であり、自分の「本音や本性」を隠す人だずいうこずである。

    無論、圌は、圌に敬意を持っお近づいおきたトリュフォヌずいう若い映画監督を、ある皋床は信甚しおいたから、長い長いむンタビュヌに応じるこずにしたのだろう。
    だが、だからず蚀っお、最初から開けっぎろげになれたわけではなく、い぀もの調子で、自身を韜晊するための「煙幕」でもあれば、盞手の本性を探るための「ゞャブ」ずしお『調子よくダゞャレや冗談をちりばめた小話をしながら、圌䞀流のおふざけ口調しゃべりたくった』のである。
    そしお、そうしたヒッチコックの固いガヌドに察しお、真正面から誠実に切り蟌んでくるトリュフォヌを、䞉日目にしおようやく信甚するこずにしたし、「この調子で誀魔化し切るこずはできない」ずも感じたから、「それなら圌には、私の思っおいるずころをしっかり語り聞かせお、正しく理解しおもらおう」ず考えるようになった、ずいうこずである。

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    映画監督トリュフォヌ

    したがっお、このむンタビュヌにおいおは、ヒッチコックは、ガヌドを䞋げお、かなり「正盎」に本音を語っおいる。
    ずいうこずは、「䞖間向けの゚クスキュヌズであり建前」は止めにしおいるから、その分「独りよがり」だずか「䞀方的」な物蚀いも、倚数芋られる。その点で、正盎ではあるけれど、賢くは芋えないし、悪く蚀えば「独善的」ず蚀えるかもしれない。

    だが、人の「本音」ずいうものは、おおむねそうしたものであり、本曞が比類なき䟡倀を持぀のは、「建前の綺麗事」ではなく、元来は慎重居士であるヒッチコックから、無防備なたでの「本音」を匕き出したずいう点にある。
    そしおこれは、基本的には、トリュフォヌが、ヒッチコックを心から尊敬しおいたからであり、それは「映画芳が同じ」だずいうような浅薄な話ではなく、もっず本質的な「映画愛においお同じ」だったずいうこずなのであろう。そこで通じたからこそ、本来タむプの違う二人が、深く語り合うこずができたのである。

     ○ ○ ○

    さお、ここからは、むンタビュヌに垣間芋た、私のヒッチコック理解に぀いお曞いおいこう。

    ずは蚀え、いたさら目新しい発芋があったわけもなく、ただ、これたでは挠然ず持っおいた「印象論」の裏付けが、このむンタビュヌによっお取れた、ずいう皋のこずである。

    私は、本曞を読む以前に、ヒッチコックの代衚䜜である『裏窓』のレビュヌを曞いおおいた。

    私はそこで、

    Aヒッチコックは「目の人」である。
    Bヒッチコックは、江戞川乱歩ず同族の「倉態系の人」である。
    Cヒッチコックのナヌモアは、倚分に自己韜晊的なものである。

    ずいう指摘をしおおいた。

    Aの『ヒッチコックは「目の人」である。』ずいう点に぀いおは、本人もこのむンタビュヌで、くりかえし認めおいるずころである。

    『 小説は読たない。フィクションは読たない。読むのは、だいたい、同時代の人物の䌝蚘ずか、玀行文だ。フィクションを読むず、衝動的に、぀い、「これは映画になるか、ならないか」ず考えおね、いやになるからね。それに文孊的な文䜓には興味がない。たぶん、サマセット・モヌムだけは䟋倖だ。あの簡朔でさっぱりした文䜓がずおもいい。文䜓の矎しさが魅力になっおいる文孊ずいうのは奜きになれない。わたしは心底から芖芚人間だからね。颚景なんかの描写がこずこたかに曞かれおいるのを読むず、぀い、いらいらしおきお、こんなずころはキャメラでさっずいっきょに撮れちたうのにず思っおしたうんだよ。』P326

    『わたしは、よく、なぜもっずあたりたえの日垞的な人間ドラマに興味が持おないのだろうかず自分でもふしぎに思うこずがある。たぶん、※ そうした䜜品には芖芚的な興味がたったくないからだず思うんだが。』P328

    これに぀いお、トリュフォヌは、次のようにたずめる。

    『思うに、あなたの方法論は、およそ文孊的な発想ずは正反察であり、培底しお玔粋に映画的なのです。あなたは空癜に魅了され、その空癜をむメヌゞでいっぱいにしようずするのです。映画通が空垭だらけなら、芳客でいっぱいにしようずする。スクリヌンが空癜なら、むメヌゞでいっぱいにしようずする。あなたの発想は、い぀も、䞭身ではなく、入れ物のほうなのです。映画は、あなたにずっお、ひず぀の容噚なのであり、それを無数の映画的なアむディアで充たさなければならない。あなたの蚀葉でいえば「゚モヌションで埋め぀くさ」なければならない。』P329

    ここでは、「文孊的」ずか「芖芚的」ずか「映画的」ずいった蚀葉が、じ぀に曖昧に䜿われおおり、そのせいで、批評家的な論理性を持っおいるトリュフォヌは、ひず぀の蚀葉を「䞡矩的」に䜿っおいる。
    たずえば、ここでは「文孊的」ずいう蚀葉は「芳念的」ずいうニュアンスが䞎えられ、「映画的」に比べるず、そのニュアンスにおいお䜎い䜍眮づけがなされおいる。

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    だが、無論、トリュフォヌは、「文孊」ず「映画」では「どっちが䞊だ」なんお蚀えないこずは癟も承知しおいながら、ヒッチコックを安心させるために、「文孊」の短所の偎面を匷調し、「映画」の長所の偎面を匷調しおいるのだ。
    たた、したがっおここでは、「文孊」は、「批評家」ず類比的なものずしお、吊定的にむメヌゞされるように、故意に、印象操䜜されお語られおいる。

    䞊に匕甚したヒッチコックの぀の蚀葉からも分かるずおり、ヒッチコックは、自分が「文孊」的なものを十党に理解できないこずを半ば承知しおおり、それにコンプレックスを持っおいる。
    ぀たり「わかりたせん」ず玠盎に認めるこずができず、『奜きになれない』ずか『興味が持おない』ずいう蚀葉に、蚀い換えおいる。たるで、奜きになれば、興味を持おば、い぀でも理解できるかのように。

    だが、これが「嘘」であり、この蚀い方がき぀ければ、これは「合理化」ずいう心理的な自己防衛反応であろう。
    ぀たり、ヒッチコックは、「文孊」や「批評」や「テヌマ」や「むデオロギヌ」や「理想」ずいったものの「魅力」が、基本的に、理解できないのである。
    そういうものがあるのは、もちろん知っおいるが、それに「惹かれるこずがない」し、いっそ「なにか嫌な感じ」を持っおしたう。だから、「避ける」ずいう意味においお『奜きになれない』『興味が持おない』ずいう態床を採るこずになる。
    ヒッチコックは、こうした自身の「匱点」あるいは「欠萜」を、『芖芚人間だから』ずいう蚀葉で正圓化し合理化しお、穎埋めしようずしおいるが、無論それは、正しい自己理解ではない。
    「芖芚人間」であるこずが、必ずしも「抜象的なもの」を苊手ずする理由にはならないからだ。それらは二者択䞀ではなく、䞡立させる人だっお実圚するのである。

    この点に぀いお、トリュフォヌはじ぀に䞊手な説明を䞎えおいる。
    ぀たり、ヒッチコックの「自己欺瞞ずしおの匱さ」を指摘するのではなく、その隠されおいる匱点に「穏圓な蚀葉」を䞎えお、萜ずしどころを䞎えるのだ。
    それが「空癜を埋めようずする衝動」ずいう衚珟である。

    ふ぀う、「空癜を埋めようずする衝動」ず蚀えば「空間恐怖症」ずいうこずになっお、吊定的な意味を匷く垯びるのだけれども、ヒッチコックの堎合は「映画䜜家」だずいう点においお、その行為が「むメヌゞ的に肯定」されおしたい、ここでは、匱点の指摘だずいう印象を䞎えなくされおいるのだ。

    そんなわけで、ヒッチコックが、Aの『「目の人」である。』ずいうのは、

    Bヒッチコックは、江戞川乱歩ず同族の「倉態系の人」である。
    Cヒッチコックのナヌモアは、倚分に自己韜晊的なものである。

    の二぀ずも、決しお無瞁ではない。

    ヒッチコックには「空間恐怖症」があるずいうのは、簡単に蚀えば「他人ずの間の空間を、過剰に意識しおしたう」人だずいうこずである。わかりやすい䟋でいうず、他人ず黙っお察座しおいるこずができない。「䜕か蚀っお、間を持たせないず、気たずくなりそうで、それが䞍安」だから、「時間の空癜」を『䟋のごずく、このむンタビュヌをやりはじめた圓初は、調子よくダゞャレや冗談をちりばめた小話をしながら、圌䞀流のおふざけ口調しゃべりたく』るこずで、埋めようずする。

    したがっお、ヒッチコックの「空間恐怖症」ずいうのは、単に「映像」的な問題に限られおはいないのだ。もっず、個人的に人間的な問題なのである。
    圌の堎合、他人ずの間に「空癜の空間」があるず、それは「拠っお立぀足堎の䞍確かさ」だずか「裞で向き合っおいるような寄るべなさ」を意味するこずになる。その間隙に䜕やら「悪意のあるもの」が入り蟌んでくるような恐怖を芚えるので、その空間に「蚀葉」を充填するこずで安定させ、安心をようずする。
    だから、その個々の蚀葉自䜓には「意味」は必芁ない。あくたでも倧切なのは「間隙を䜜らないこず」なのである。

    したがっお、ヒッチコックがA「目の人」であるず同時に、B「倉態系の人」だずいうのは、わかりやすく繋がっおくる。

    ヒッチコックの「空間恐怖症」ずは、他人ずの間に緩衝材を詰め蟌んで、「距離」をおくこずであるのず同時に、その䞊で、安心しお他人ず密着したい、ずいう矛盟した願望でもある。

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    映画『裏窓』。䞻人公は、殺人珟堎ず思しきものを、芗き芋おしたう

    私が先の『裏窓』レビュヌで曞いたように、江戞川乱歩の「屋根裏の散歩者」ず同様、「盞手に気づかれないための距離をおき、その䞊で、䞀方的に盞手に接近しお芳察する」ずか、同じく乱歩の「人間怅子」のように、゜ファヌの衚面に匵りわたされた皮革ず、その䞋の充填材を介しお、それに座る矎女の肉䜓の重みを、間接的か぀盎接的に味わおうずするずかいった、「臆病か぀倧胆な欲望」ずしおの倉態性が、ヒッチコックにもある。
    ヒッチコックは、決しお盎接女䜓に觊れたいのではない。もちろん、安心しお蚱される範囲においおは、その性欲を満たす珟実的な行為も蟞さないから、結婚もし、子䟛も䜜ったのだろうが、圌は、盞手から「芋䞋される」可胜性が少しでもあるかたちで、性欲を満たすこずを良しずはしなかった。その点で、圌は「他者ずの、䞍甚意な接觊を決しお望たない、培した朔癖䞻矩者」だったのである。

    『わたしはその手の女を買ったこずなんか䞀床もなかったからね。その埌もないんだよ、そんな経隓は。誓っおもいいが、䞀床だっお関係したこずはない。』P65〜66

    なぜ、ここたで匷調しなければならないのかず疑問に思う男性は少なくないず思う。しかし、「倉態」ずいうのは、基本的に「朔癖」なものなのであり、さらに蚀えば「過剰」なのだ。
    過剰に「朔癖」だったり、スカトロ趣味のように過剰に「穢れ」に染たろうずしたり、芁は「ふ぀う」だの「そこそこ」だの「圓たり前」だのずいったこずには刺激を芚えない人だからこそ、「過剰」になり、それが「普通じゃない」ずいう意味においお「倉態性」だず、普通の人からは理解されるのである。

    そんなわけで、ヒッチコックにずっおは、お互いにリスペクトし合っおいる心を蚱し合っおいる関係にない者ずの「接近」ずいうのは、「悪意による汚染」を意味するも同然の嫌悪すべきこずだった。だからこそ、䞊のような、過剰に、匷迫的なたでに、朔癖症的な語り方になる。
    そしお、圓然のこずながら、これは、嚌婊に察する堎合にだけ限定された問題ではない。

    ヒッチコックは、抂しお「他人」ずは距離を眮こうずした人なのだが、それでは珟実問題ずしお映画が撮れないからこそ『䟋のごずく、このむンタビュヌをやりはじめた圓初は、調子よくダゞャレや冗談をちりばめた小話をしながら、圌䞀流のおふざけ口調しゃべりたく』るこずで、自分が盞手に持っおいる「冷たい感情」あるいは「熱すぎる感情」を隠そうずしたのである。぀たりCの「自己倒壊の人」ずいうのは、そういうこずなのだ。

    たた、ヒッチコックの、こうした極端な「臆病さ」ずいうものが、「文孊」や「批評」や「テヌマ」や「むデオロギヌ」や「理想」ずいったものを、極端なかたちで遠ざける。
    自分に自信がある人なら「いやあ、そういう難しいのはわからないんだよ。頭が悪いんでね」などず、嫌味なくらいの䜙裕を芋せるこずもできたはずだし、たしお有名監督になっおからの圌なら、それくらいのこずをしおも良かった。
    なのに、どうしおもそれができないずいうのは、圌の「他者恐怖症」が骚がらみのものであり、有名になったくらいのこずで解消されるものではなかった、ずいうこずなのであろう。

    ちなみに、ヒッチコックの「アブノヌマル指向」ずいうのは、トリュフォヌも䜕床も指摘しおいるし、ヒッチコック自身も認めおいる。

    『トリュフォヌ この※ 『快楜の園』のように、きわめお初期の映画から、性的にアブノヌマルなものに匷い関心を抱いおいたように思われるのですが  。
    ヒッチコック たしかに、そのずおりだ。しかし、圓時はただそれほどはっきりしたものじゃなかったよ。ほんの䞊っ面をなぞっおいただけだった。 わたしはほんずうに、性的なこず、女性のこずは䜕も知らなかったし、未経隓だったからね。』P32

    トリュフォヌ『『殺人』の話に戻りたしょう。 この映画は、犯人さがしのミステリヌのかたちを借りながら、じ぀は同性愛の話になっおいるわけですね。これは圓時ずしおはかなり倧胆な䞻題だったのではありたせんか。』P62

    ヒッチコック『わたしは、叞祭ず若い劻が倫の前で激しくセックスをするシヌンを撮ろうず考えおいた。幎ずった倫は、その間、ロッキング・チェアに気持ちよさそうに身をゆだねおパむプをくゆらせおいる。快さのあたり、圌はパむプを口からだしたり、たたくわえたり、その぀ど、激しい接吻のようにくちびるで音を立おる、ずいうようなシヌンだ。』P209

    トリュフォヌ『あなたがずくにグレヌス・ケリヌに惹かれたのはセックスがむきだしになっおいないずころだずすでに䜕床も語っおたすね。』P229

    『ヒッチコック そう、たしかに、性的に最も魅力的な女は※ 性的な郚分をあからさたにしないむギリス女性だず私は思う。略
    トリュフォヌ あなたの奜み、考え方はよくわかりたしたが、しかしそれはかなり特殊な奜みであり、個性的な発想なので、その点に関しおは倚数掟の完党な賛同は埗られないのではないでしょうか。』P230

    簡単に蚀えば「䞍胜者の゚ロティシズム」である。
    ヒッチコックは、若い頃から自身の肥満䜓に匷いコンプレックスを持っおいた。その䞀方で、きわめお自尊心の高かった圌は、珟実の女性に手を出しお倱敗するこず倱恋するこずを良しずせず、そのぶん、頭の䞭では「劄想」を膚らたせた、ずいうこずである。そしお、これもたた䞀皮の「安党な距離を確保し぀぀、察象に最接近する」方法だず蚀えるだろう。

    ヒッチコックには、垞にこうした「臆病なたでの慎重さ」ず「倧胆なたでの接觊願望」が、共存しおいる。

    䟋えば、圌の「抜象」嫌いずいうのは、「抜象」ずは「ゎタゎタした珟実をその人の䟡倀芳で敎理する」ずいう傟向のこずだから、空間恐怖症のヒッチコックは、そうした、自分の思い通りにはなれないかたちでの、勝手に敎理された「芋通しの良い空間」が奜きではなかった。
    圌はい぀でも、物陰に隠れお、䞀方的に『裏窓』の䞻人公のように盞手を芳察し、芳察するこずで支配したいず欲望した人だから、隠れるべき「物陰」ずしおの「過剰性」ずその「配眮」が、是非ずも必芁だったのである。

    たただからこそ、圌は「読たせる機械」トマ・ナルスゞャックず評されるこずさえある、「論理的な謎解き小説」である「本栌ミステリ」が、奜きではなかった。

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    「本栌ミステリ」では、出来うるかぎり「䜙蚈なもの」は排陀される。䜜者は読者に察しお「隠しごず」をせず、手の内を可胜なかぎり党郚さらしお、それでも隙すこずができた時に、それがミステリ䜜家の映えある勝利であり、完敗した読者からの賞賛を济びるこずにもなった。
    芁は「隙せばいい」「驚かせればいい」ずいうこずではなく、可胜なかぎり「無駄なく」「スマヌト」か぀「知的に」ずいうのが「本栌ミステリの矎孊」だったのである。
    だから、ヒッチコックが、こうしたものを嫌うのは、理の圓然であり、圌が「芋通しがきかないが故のサスペンス」を愛したのも、必然的なこずだったのだ。

    『 わたしにずっおは、※ 謎解き本栌ミステリヌがサスペンスであるこずは滅倚にない。䟋えば、謎解きにはサスペンスなどたったくない。䞀皮の知的なパズル・ゲヌムにすぎない。謎解きはある皮の奜奇心を匷く誘発するが、そこにぱモヌションが欠けおいる。しかるに、゚モヌションこそサスペンスの基本的な芁玠だ。』P60

    そのずおりだ。「謎解きミステリ本栌ミステリ」ずは、蚀うなれば「゚モヌション情動」などずいう過剰なものは排陀しお、コンピュヌタの劂き知性に培するこずの喜びを求めるものなのだ。
    芁は「人間くさい」ずか、たしおや「動物くさい」なんおのはごめん被りたいし、「泣いたり笑ったり怒ったり」などずいう隒々しいものも勘匁願いたい。「本栌ミステリ」が求めるのは、知的に同レベルな人間同士による、盀面を挟んだ、厳栌なルヌルに基づくフェアな「察局」であっお、人を驚かせたり驚かされたりしお、キャアキャアず倧隒ぎしお楜しむような、俗な「お化け屋敷ごっこ」ではないのだ。

    ず、「謎解きミステリ」の偎からは、ヒッチコックが匷調する「サスペンス」だの「゚モヌション」だのは、「俗なもの」ずしお、吊定的に芋られたのである。
    「たあ、物語的挔出の小道具ずしお、それを採甚するのはいいだろう。物語性を排した、完党な抜象ゲヌムでは、愛想がなさすぎるからね。しかし、そうしたお食りを目的にするなんおのは、志が䜎すぎお、考えられないこずだよ」ずいうのが、「本栌ミステリ」に登堎する「名探偵」的な、嫌味な蚀い草ずなるわけである。

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    ゞェレミヌ・ブレッドが䞻挔した、BBC制䜜の『シャヌロック・ホヌムズの冒険』

    ちなみに、私が『裏窓』のレビュヌで、ヒッチコックず類比的に語った江戞川乱歩は、その点では、ヒッチコックよりも「高い芖点」を持っおいた。぀たり、ヒッチコック的な「情動」に惹かれる䞀方で、「本栌ミステリ」的な「明晰性」にも、乱歩は惹かれた。䞡者を䜵せ持っおいたのだ。

    よく知られるように、乱歩の初期短線は、芋事なたでの「本栌ミステリ」であった。たさに「読たせる機械」ずいう感じの、過䞍足のない研ぎ柄たされた完璧性を備えた䜜品だった「ニ銭銅貚」「D坂の殺人事件」等。
    だが「本栌ミステリ」の厳しいずころは「論理的な明晰性」を求めるがゆえに「二番煎じ」が蚱されない点である。぀たり、衚面的に化粧盎しをしたずころで、その本質的な郚分で「過去䜜」ず同じなら、それは基本的に評䟡されない。

    いたどきのミステリ読者は、そこたで厳密ではないから、芋た目さえ倉えお同じトリックを䜿い回しおおけば、それなりの「商品」にもなるわけなのだが、「本栌ミステリ」本来の゚リヌト䞻矩的な粟神からすれば、そんなものは、通俗的な「停物」でしかない、ずいうこずになっおしたう。
    だから、「屋根裏の散歩者」的な「暗い情念」を抱える䞀方で、真逆な「理想」たで抱えおいた乱歩は、「本栌ミステリ」のネタが尜きおしたうず、曞きたいものを曞けない苊しみにのたうち、倱螪事件たで起こすこずになる。
    「曞けない」䞀䞀それでも、食わせなければならない家族もおれば、流行䜜家ずもなっお原皿䟝頌は途切れず、やむなく「サスペンス」ものの「通俗䜜品」を曞けば、それがたた「倧衆りケ」の倧ヒットをしたからこそ、なおさら乱歩は、自己嫌悪に苊しむこずにもなったのである。

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    江戞川乱歩

    したがっお、第䞉者的に蚀えば、乱歩は「芋えすぎるが故に苊しんだ人」であり、ヒッチコックは「かたくなに芋ようずはしなかった人」だず蚀えるだろう。
    そうした点で、明晰さを重芖する「批評家」の評䟡は、ヒッチコックに厳しくなる。「芋えないのなら仕方ないさ、胜力が無いんだから、それ以䞊のこずは、芁求するだけ無茶ずいうものだ。しかし、君の堎合は、自分が芋ようずしおいないだけだずいうこずに半ば自芚がありながら、そこからも目を逞らしお、ただただ自己防衛的に拒絶するだろう そういうずころが、知的に䞍誠実でけしからんず蚀うんだよ」ずいう感じで、批評家的な知性を、苛立たせるこずになるのである。

    このように、ヒッチコックがこのむンタビュヌで力説する、自らの「映画術方法論」ずいうのは、自己正圓化的なものであり、その意味で「䞻芳的か぀䞀面的なもの」であっお、決しお「客芳的・䞭立公正的な正しさ」を求めるものではない。
    それは圌が、みずから「芋苊しい」ず感じおいる「肥満䜓」に察する態床ず同じで、自己防衛的に過剰な身振りだずも蚀えよう。
    ヒッチコックは、その肥満した䜓を、みずからのアむコンずしお利甚したので、それを恥じおいなかったかのように思う人もいるだろう。だが、そうではない。
    圌は、そんなに「呑気」でいられるほどの、䜙裕のある人ではなかったのだ。

    『 ヒッチコックは枛量のためにありずあらゆる食逌療法を詊みたがだめだった。有名になっおからは、その肉䜓的䞍遇を逆手に䜿い、そのぶざたさを他人の笑いものにされるたえに、みずから戯画化しようずしたのである䞀䞀 テレビの〈ヒッチコック劇堎〉のトレヌド・マヌクのシル゚ットをはじめ、自分の映画にはかならずワン・カットだけ特別出挔しお、みずからそのすがたをさらけだし、それをひず぀のギャグにたで昇華しおしたったのだった。』

    P356、トリュフォヌ「䞀九䞃八幎版のための序文 ヒッチコックはひず぀の映画の制床、映画の法則になった」より

    ヒッチコックのこうした身振りは、盞手が蚀葉を発する前に、自分が䞻導暩を握ろうず『䟋のごずく、このむンタビュヌをやりはじめた圓初は、調子よくダゞャレや冗談をちりばめた小話をしながら、圌䞀流のおふざけ口調しゃべりたくった』ずいうの同じ、蚀うなれば「攻めの姿勢」だずは蚀えるだろう。
    だが、その「攻撃性」は、決しお「自信」に発する攻めではなく、「怯え」や「恐怖」に由来する、過剰察応だったのである。

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    『ヒッチコック 映画が日垞的な、ありきたりのむメヌゞに堕さないように、぀ねに努力しおいる぀もりだ。平凡なものほど居心地の悪いものはない。
    トリュフォヌ それはよくわかりたす。実際、死や異垞な事柄に関わりのないヒッチコック映画など、考えられないのです。思うに、あなたは、垞に、たずえば、恐怖のような、あなた自身が私を感じおいる゚モヌションを撮るのではないか  。
    ヒッチコック そのずおりだ。私はい぀も恐怖でいっぱいだ。うっかり油断しおいるず䜕か倧倉なこずが起こりそうで、こわくおたたらない。だから、䜕事も起こらないように、い぀も、できるだけのこずをしおいる。自分の身のたわりがすべおすっきりずしおいお、きちんずしおいお、静かで、萜ち着いおいないず気が䌑たらない。』P269

    あたりにも、わかりやすい告癜ず蚀えるだろう。
    ヒッチコックがやっおいるのは、い぀だっお「恐怖」や「怯え」や「自信のなさ」に由来する「先制攻撃」であり「先手をう぀」こず、「準備䞇端、䜓制を敎える」こずなのである。
    圌が「死や異垞な事柄」を描くのは、自分にそのような「灜難」が降りかからないようにするための、先制攻撃ずしおの「たじない」のような「先取り」だった。たただからこそ、それは「䜜りこずではないリアルな゚モヌション」を持ち埗たのだ。
    どんなに「あり埗ないこず」を描いおも、あり埗そうな「気分」にさせられるのは、そこに、そんな「本物の気分」が満ち満ちおいたからである。

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    ちなみに、ここでひず぀蛇足しおおくず、ヒッチコックのこうした「先回りのたじない」ずいうのは、ミステリ䜜家・泡坂劻倫の、さる名䜜短線にそっくりである。
    この䜜品では、䞍自然にペロけたり、おかしな歩き方をする男ずいう「謎」が提瀺される。「なぜ、この男は、そんな奇劙な歩き方をするのか」。
    䞀䞀ここで、ネタを割っおしたうず、芁は、男は「灜難が降りかかるのを避けるために、あえお先回りをし、灜難が降りかかったかのような、むレギュラヌな歩き方をしおいた」のである。「先にやっおおけば、珟実がそれをそっくり埌远いするようなこずは、確率的に起こらないはずだ砲匟は、たったく同じ堎所には萜ちない」ずいう誀った発想で、灜難を避けようずしおいたのだ。
    だが、この異様な「先回り性」ずいうのは、ヒッチコックのそれに、そっくりだずは蚀えないだろうか

    ずもあれ、ヒッチコックの「サスペンス指向」ずか「芖芚型」だずか「反抜象性」ずいったこずは、それが䞀般的な「映画䜜法映画術」ずしお、正しいずか間違っおいるずかいったような問題ではなかったのだ。
    だから本曞を読んで「映画ずは、斯くあるべきものだよね」などず思った読者は、完党に「萜第」であり、「読めなかった」ずいうこずにしかならない。

    本曞で、トリュフォヌが、ヒッチコックずいう人に深く切り蟌むこずによっお蚌明したのは、「正しい映画術ずは、その人も長所でもあれば欠点でもある唯䞀の個性を生かす、個々の方法論だ」ずいうこずである。぀たり、いちおうのセオリヌくらいはあるにしろ、誰にでも通甚するような「正しい方法傑䜜映画補造法」なんおものは無いずいうこずなのだ。

    だからこそ、ヒッチコックが「䜕が良いのか、さっぱりわからない」ず吊定的に嫌ったにも関わらず、日垞を描いた「リアリズム映画」にも傑䜜はあるし、重厚深遠なテヌマを語り切った「文孊性の高い映画」や「哲孊的映画」もあるし、芳客ずの知的ゲヌムを楜しむ「謎解きミステリ映画」の傑䜜も、珟に存圚するのである。

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    小接安二郎監督の名䜜『東京物語』

    それらが、傑䜜になるかならないかは、サブゞャンルの優劣問題ではなく、そうしたサブゞャンル的題材ず、それを撮る監督の感性ずの「盞性」の問題に過ぎない。
    それがうたく合臎すれば傑䜜になるし、合わなければ倱敗䜜になっおしたう。
    だからこそ、どんな玠材を扱っおも必ず傑䜜にするこずのできる䞇胜の映画監督など存圚しない䞀方で、䜜だけは、たぎれもない傑䜜を撮ったずいう映画監督もいるのである。

    ヒッチコックは、自身の匷みず匱みを自芚しおいたし、䜕よりも圌にずっお良かったのは、倉に自信過剰になっお、自分に合わないこずたで積極的に手を出そうずはしなかった点であろう。
    それが「怖くおできなかった」ずいうこずでしかないにしろ、結果ずしおは、圌はできるこずだけをやり、結果ずしお、埗意なこずをやり続けたが故に「サスペンス映画の巚匠」ずなれた。
    トリュフォヌが蚀うずころの、『ひず぀の制床』ずなれたのである。

    『 ヒッチコックの䜜品は、他のどんな映画よりも長く匷い生呜を保ち぀づけるに違いない。䞀本䞀本がこれほど粟緻に䞹粟こめお぀くられた映画もないからだ。だからこそ、ヒッチコックの映画は、映画通であろうず、テレビであろうず、どんなに斬新な魅力をそなえた䜜品が出おきおも、぀ねにそれに察抗しうるだけの力を倱わないのである。䞭略※ いたや、誰に察しおも、ヒッチコックの玠晎らしさを説明する必芁はあるたい。フェリヌニのように、ベルむマンのように、ブニュ゚ルのように、ヒッチコックはひず぀の制床、ひず぀の映画の法則そのものになったのだ。』P342

    「䜜家」ずいうのは、「人間」ずしお「優れおいる」必芁はない。「䜜家」に必芁なのは、「優れおいる」こずではなく、「人䞊みではない」こずなのだ。それが矎点であれ、欠点であれ、ずいうこずである。
    なぜなら、矎点ず欠点は「衚裏䞀䜓」のものだからで、「優れおいる恵たれおいるからこそ、劣った恵たれおいない者の痛みがわからない」ずか「持たざる者だからこそ、それを想像力で補完しないこずには生きおはいけないから、想像力が発達する」ずいうようなこずが、圓たり前にあるからだ。

    したがっお、ここたで曞いおきたこずは、すべお、次のような、ヒッチコックの少幎時の姿に収斂されるこずになるだろう。

    『 ヒュヌ・グレむ教授は、䞀九䞀〇幎ごろ、ロンドン近郊の聖むグナチりス・カレッゞでヒッチコックず同玚生であった。グレむ教授は、䌑み時間に校庭に出おも他の子䟛たちずけっしお遊がうずはしない䞞顔のふずった少幎のこずをよくおがえおいた。すでに肥満症に悩んでいた十歳のヒッチコック少幎は、無口で孀独で い぀も壁に背をピタッずくっ぀け、突き出しおおなかを䞡手で支えるようにしお、仲間の少幎たちが校庭で無邪気に遊びたわるのを軜蔑のたなざしでじっず芋぀めおいた。 ヒッチコックが、䞀生、䜕よりもおそれ぀づけおいたこずが、背埌から䞍意に襲われおおどろかされるこずであったこずは、たしかだ。』P356

    私たちの倚くは、ヒッチコック䜜品を、その「わかりやすさ」においお楜しむこずができ、だからこそ、ヒッチコックをわかりやすく理解した぀もりにもなりやすい。

    だが、圌の「わかりやすさ」は、圌の「煙幕」でもあれば「予防線」でもあり、「バリアヌ防埡壁」ですらあった。
    だから、そのこずを理解するならば、少なくずもヒッチコックからすれば「どい぀もこい぀も脳倩気で、からっきし分かっおいない」ずいったこずになろうこずは、もはや明癜なのではないだろうか。

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    2023幎11月2日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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