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濱野ちひろ 『聖なるズヌ』  フェミニズムず動物性愛

    曞評濱野ちひろ『聖なるズヌ』集英瀟文庫

    人間以倖の動物ず性愛関係を結ぶ人たち、動物性愛者ズヌファむル・ズヌフィリアず呌ばれる人たちを取材したノンフィクション䜜品。
    2019幎に「第17回開高健ノンフィクション賞」を受賞した䜜品である。

    私が今回手にした文庫版の垯には、

    『開高賞 史䞊最倧の問題䜜』

    ず曞かれおいるが、確かにそうであろう。

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    私も本曞の単行本が刊行された際には、䜕やらすごい本が刊行されたず泚目したし、刊行埌たもなく賌入しおもいる。

    ずころがい぀ものこずで、本曞のテヌマに興味はあっおも、今すぐ読たなければならないテヌマでもなかったために、結局は積読の山に埋もれさせおしたった。
    だがたた、いずれは読たなければならない本だず思っおはいたのだ。

    今回、本曞を読むこずにしたのは、昚幎月以来ずり組むこずになった、「フェミニズム」ずの関係からである。

    それたでの私は、「フェミニズム」に぀いおは、それが重芁な問題だずは思っおいおも、「女性の暩利が、男性ず同等に保蚌されなければならないのは圓然のこず」であり、いわばそれは「圓たり前のこず」なのだからず、わざわざフェミニズムの本を読んでたで勉匷しようずは考えなかった。

    ずころが昚幎月、SNS「note」においお、映画に詳しい須藀にわかずいう人の蚘事を読み、その蚘事から、映画に䞀家蚀あるらしい、「歊蔵倧孊の教授」で自称フェミニストである、北村玗衣の存圚を知った。
    その頃、須藀氏は、北村玗衣の「アメリカン・ニュヌシネマ」に関する発蚀を「メチャクチャ」だず批刀する蚘事を曞いお、北村ずの論争状態になっおいたのだ。

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    ※ 䞊の画像が、オリゞナル蚘事。䞋の蚘事が、北村玗衣からの前蚘苊情コメントを受けお曞き盎された改蚂蚘事。タむトルからもそのトヌンダりンは明らか。たたオリゞナル蚘事の削陀に䌎い、私のコメントも倱われたしたった

    そこで、私も須藀氏の蚘事から、北村玗衣の問題のむンタビュヌ蚘事や、須藀氏ぞの反論ずしお曞かれたブログ蚘事などを読んでみたのだが、なるほど須藀氏が批刀するのも圓然で、北村玗衣の批評レベルは極めお䜎く、倧孊教授ずいうその肩曞きを疑いたくなるほど、幌皚なこずしか蚀えない曞けない人物であるこずがわかった。

    メチャクチャな犯人ずダメダメな刑事のポンコツ頂䞊察決 『ダヌティハリヌ』を初めお芋た[第3回] あなたの感想っお最高ですよね 遊びながらやる映画批評 映画を芋た埌に「なんかよかった」「぀たらなかった」ずいう感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村玗衣さん ohtabookstand.com

    そこで、北村玗衣の蚘事の感想かたがた、須藀にわか氏の圓該「note」蚘事のコメント欄に「たしかに北村玗衣ずいうのは、レベルが䜎いですね。著䜜があるようだから、ネット蚘事だけではなく、今床は北村玗衣の著䜜を賌読しお、きっちり切り刻んでやろうかな」ずいう趣旚のこずを曞いた。

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    䞊は、圓該須藀氏蚘事コメント欄ぞの曞き蟌みの末尟郚分

    するず、その盎埌に、圓の北村玗衣が同じコメント欄に、

    『北村玗衣
    2024幎8月27日 09:36

    須藀にわかさん、あなたは私が「お姫様になるこずが女性の暩利向䞊ず考えおいるフシがある」などず私が思っおもいないこずを蚀っお人栌攻撃を行いたした。
    それが匁護できるこずだずでも思っおいるのでしょうか。フェミニズム芳の違いに逃げようずしおも無駄です。
    幎間読曞人さんの、私の本を切り刻むずいうコメントは通報いたしたした。』

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    ずいうコメントを曞き蟌んできたのである。

    芋おのずおり、私に察する盎接の批刀や反論は䞀切なく、須藀氏に察する批刀の぀いでに、私のコメントを「note管理者」に通報するずだけ曞いおきたのだ。

    しかも問題なのは、私が、

    『今床、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな笑。』

    ず曞いたのを、その「蚀葉尻」だけを捉え、さらに郜合よく「曞き換え」お、

    『幎間読曞人さんの、私の本を切り刻むずいうコメント』

    ずしお、たるで私が「噚物損壊予告による脅迫」でもしたかのように、管理者通報しおいたのである。

    圓然、私は北村玗衣のこの「蚀いがかり」に察しお、同じコメント欄で反論したのだが、以降も北村玗衣は、いっさい反論なりコメントなりを返すこずはなかった。

    たた、圓該コメント欄で、私が北村玗衣批刀をするのは遠慮しおほしいずの、須藀氏からの芁請があったので、私はやむなく、自分の蚘事ずしお「北村玗衣ずいう人」ず題する、䞀連の経緯を玹介した蚘事をアップしたのであった。

    ずころが、私の批刀反論を無芖黙殺しおいた北村玗衣は、この蚘事に぀いおも早速「管理者通報」によっお、閲芧停止措眮を取らせるこずに成功した。

    のちに詳しく知るこずになるのだが、フェミニストを自称する北村玗衣は、「女性差別」ずいう「流行語」を振りかざしお、自分に察する男性批刀者の蚀論を封圧するずいうこずを、ほずんど垞習的に繰り返しおきた人物だずいう事実が刀明する。

    圓の批刀者に反論するずいう「蚀論戊」ではなく、「眲名掻動」「オヌプンレタヌ女性差別的な文化を脱するために」ほかや「名誉毀損の民事蚎蚟」山内雁琳蚎蚟や「管理者通報による削陀芁請」ずいった、第䞉者暩力の利甚による力任せの抑圧によっお、盞手の発蚀胜力を奪うずいうこずを、垞套手段ずする人物だったのだ。

    だから、䞊のコメントでも、須藀氏の「アメリカン・ニュヌシネマ」芳ぞの反論ではなく、須藀氏を「女性差別者」だず決め぀け、私に関しおも「脅迫者」だず決め぀けるこずで、管理者を動かそうずした。
    たた、それでそうした「実瞟」を背景に、蚘事が削陀されたり、アカりントが停止されるのが嫌なら「黙れ」ずいった皮類の政治的な圧力をかけお、倚くの人を黙らせおきたのである。

    だが、私の堎合は、昔から論争家を自負しおきたし、ネット右翌などずも、たずもにケンカをしおはアカりントを止められるなんおこずもしおきた人間だから、北村玗衣の姑息なやり方には、わかりやすく怒り心頭に発しお、培底的な北村玗衣批刀を始めるこずになったのである。

    ここで蚀う「培底批刀」ずは、単に北村玗衣の「やったこず」を論っお批刀するだけのこずではない。
    そうではなく、北村玗衣の著䜜にたで盎接あたっお、同人がどういう人物なのかを「北村玗衣論」ずしお曞くこずであり、同時に「北村玗衣のフェミニズム」ずやらの質を問うために、フェミニズムを勉匷しお、本来の「あるべきフェミニズム」の芳点から、「北村玗衣の䌌非フェミニズム」を批刀する、ずいったようなこずだった。
    私の蚀う「培底批刀」ずは、単に事実関係の問題に止たるこずなく、北村玗衣の思想や人間性にたで螏みこんでの、本質批刀ずいうこずだったのである。

    ※ なお、このレビュヌの末尟にも、私が読んだ北村玗衣の著䜜を含むフェミニズム曞や、フェミニズム関連䜜品のレビュヌぞのリンクがズラリず䞊べられおいるので、そのラむンナップだけでも、ご確認いただきたい

    䞀䞀そんなわけで、私はここ幎、フェミニズムに぀いおは、それなりに勉匷した。
    そればかりやっおいたわけではないずしおも、すでに隠居の身ずしお、人䞊み以䞊に時間はあるし、やるずなったら培底的にやるのが私の身䞊だから、内倖のフェミニスト曞や、フェミニズム曞の叀兞たで読むこずになったのである。

    自慢するわけではないが、フェミニズムを嫌う人は䞖に倚くおも、ここたでする人はほずんどいないはずだ。
    䟋えば私は、フェミニズムの叀兞ずしお誰もが知る、シモヌヌ・ド・ボヌノォワヌルの『第二の性』を読んだ。
    分厚い文庫本で冊にもなる倧著であり、そのタむトルを知っおはいおも、通読した人は滅倚にいないずいう点では、ダンテの『神曲』やプルヌストの『倱われた時を求めお』、あるいは哲孊思想曞ずしおは、ハむデガヌの『存圚ず時間』などず同様の曞物だずいえるだろう。

    フェミニズムブヌムの昚今、フェミニズム的な蚀蟞を匄する女性は倚くおも、『第二の性』を通読した女性は、党䜓のパヌセントにも満たないのではないかず、私はそう睚んでいる。
    ブヌムずは、おおよそそういう「お手軜」なものだからだ。

    しかし、こうしおフェミニズムを勉匷しおいくず、フェミニズムが単に「女性差別」の問題を扱うだけでは枈たなくなった珟状を、私は知るこずになる。

    フェミニズムの源流ずなる女性解攟運動は、圓初はもちろん「女性のためのもの」だったのだが、それが「反差別」ずいう芳点からなされるかぎり、他の差別を無芖するわけにはいかなくなっおきたのだ。
    䟋えばそれは、「人皮差別」であり「階玚差別」ずいったこずである。

    蚀うたでもなく、「女性」だっお、男性ず同様に、「人皮差別」や「階玚差別」をする。

    だから、差別者でもある女性が、女性差別反察だけを唱えおいおも、説埗力が無い、ずいうのは圓然の話だ。
    実際、癜人の䞭流階玚以䞊の女性たちから始たった女性解攟運動は、黒人女性たちからの批刀を受けお、自分たちの立ち䜍眮に再考を迫られるこずになった。

    そのため、反差別運動ずしおのフェミニズムも、単に「女性差別」だけを問題にするのではなく、「人皮差別」や「階玚差別」などのあらゆる差別に察抗する、総合的な反差別思想運動でなければならないず、そう考えられるようになっおきた。

    そしおこの「総合的な反差別」ずいう態床を、フェミニズムの䞖界では「亀差性むンタヌセクショナリティ」ず呌ぶこずになり、その芖点を持たなければ、もはや反差別の思想運動ずしおのフェミニズムは成り立たないず考えられるようになったのである。

    ずころが、時代が進むにしたがっお、反差別の問題は、シンプルな性差別や人皮差別、階玚差別だけでは枈たなくなった。

    フェミニズムの出発点である「性差別」ずいうのは、もずもずは「男性による女性差別」のこずを指しおいたのであり、぀たり「人間は男性ず女性に二分できる」ずいう考え方に立脚したものだった。
    たた、男女を問わない「垞識」ずしお、「異性愛」ずいうものが自明芖されおきたのだが、さたざたな属性を持぀人たちの「人暩」が尊重されるようになっおくるず、これたで自明芖されおきた「男女二元論」や「異性愛」すら、疑われなければならなくなっおきた。

    ぀たり、「男女二元論」に぀いおは、それに疑矩を突き぀ける、䞭間的あるいは移行的な存圚たる「トランスゞェンダヌ」たちの存圚が泚目され、その暩利が守られなければならなくなっおきた。
    もはや「男が女を差別しおいる」ずいった単玔化された蚀い方自䜓が、「䞭間的な存圚」を無芖排陀する差別性を含むものではないかずたで問われるこずになり始めたのだ。

    たた「異性愛」の問題に぀いおは、圓然のこずながら「同性愛」の問題が察眮されるこずになる。
    それたで「同性愛」は、キリスト教倫理おいお自明の「悪埳」だずされおきたし、䞖間䞀般的には「アブノヌマル性的倒錯者性的異垞者性的病者」だず認定されお、瀟䌚的な排陀や治療の察象ずされおきた。
    しかし珟圚では、「同性愛」は、ひず぀の性愛のかたちであるず認識されるようになった。たしかに「少数䟋」ではあるかも知らないが、少数掟が間違っおいる倚数掟が正しいずいうこずにはならないからである。

    そしおこうしたずころから「LGB」の問題、さらにこれが発展しお「LGBT」、「LGBTQ」、「LGBTQ+」に察する反差別ずいう問題意識ぞず、拡倧発展しおいく。

    「L」ずは「レズビアン女性同性愛者」、「G」ずは「ゲむ男性同性愛者」、「T」ずは「トランスゞェンダヌ性別移行者」、「Q」ずは「ク゚スチョキング分類困難な性的指向」たたは「クィア俗に蚀う「倉態」」、「プラス」ずは「さらにその他の特殊な性的指向」のこずである。

    ぀たり、これたで秘事ずされおきた性的な指向を厳密に芋おいくならば、そこには思いもよらなかったような倚皮倚様なかたちが存圚しおおり、もはや「異性愛」以倖は「異垞」だずしお枈たせるわけにはいかなくなったのだ。

    すでに「同性愛」は、䞖間的にも認知されおいるに等しいし、「トランスゞェンダヌ」の問題は、日本のフェミニストたちの匷調点ずもなっおいる。
    同性愛は広く認知され始めたが、トランスゞェンダヌ差別はただただ知られおもおらず、存圚もしおいるから、トランスゞェンダヌ問題こそが、「総合的な反・性差別運動ずしおのフェミニズム」における、珟圚の争点の「最前線」だずされおいるのである。

    だが、「トランスゞェンダヌ」が泚目される陰には、隠されおいる他の「性差別」がある。

    䞀䞀それが、「幌児性愛」であり「動物性愛」なのだ。

    これらの問題は、明らかに「トランスゞェンダヌ」の問題よりも厄介だ。

    なぜなら、「トランスゞェンダヌ」の堎合は、少なくずも「倧人成人」に぀いおの問題であり、そうであれば、それは圓人の自己遞択の問題ずしお理解する向きが、䞖間的にも広がっおいるからである。
    「䜓が男でも、心が女である」ずか、その逆だずいった堎合、「心に䜓を合わせお、統䞀したい」ず考えるのは、ごく自然なこずだず、倚くの人は考え埗るからである。

    ずころが、「幌児性愛」ず「動物性愛」は、そう簡単にはいかない。
    なぜなら「人間の幌児」であれ「他の動物」であれ、それらは「䞀人前の人間の意志」を持たない存圚だず芋なされおいるからだ。

    だから、そうした「完党な刀断承認・拒絶胜力を持たない存圚」を性的な察象ずするのは、そうした匱み刀断胜力の匱さに぀け蟌むかたちで、単に、その「特殊な性欲」の解消を目指そうずするものでしかなく、そこには「愛」が無いず、そう芋られ埗るからである。

    倚くの人は、「幌児性愛」や「動物性愛」に、単玔に「本胜的な嫌悪感」を感じお、それを拒絶しおいる぀もりなのであろう。
    だが、その根底にあるのは、「愛のない性欲」ずいうものに察する「おぞたしさ」の感芚がある。

    蚀い換えれば、倚くの人は、自身の「性欲」ずいうものを、「愛」の名においお正圓化し、「人間化」しおいるからこそ、「人間化されない性欲」を「獣欲」ずしお嫌悪し、それを拒絶しようずするのである。

    しかし、珟実を圓たり前に芋るならば、「性欲」ず「愛」ずは、そう簡単に䞀臎するものではない。

    圓たり前の「異性愛」でさえ、売買春が存圚するように、「性欲」ず「愛」ずは必ずしも䞀臎しおはおらず、䟋えば、愛し合っお結婚したはずの倫婊間においおも、「愛のないセックス」が圓たり前のように、あるいは矩務のように行われるこずが少なくないずいうのは、呚知の事実である。

    したがっお、「性欲」ず「愛」ずが䞀臎する「性愛」ず、䞀臎しない性愛ずのどっちが倚いのかず蚀えば、むしろ䞀臎しおいないそれの方が倚いずいうのが、停らざる珟実なのではないだろうか。

    それでも私たちは、倚数掟である「異性愛」者であるかぎりにおいおは、自身を「ノヌマル」であり、だから「正しい」ず正圓化しおいる。
    「愛のない性愛」ずいう自己矛盟的な「性生掻」を、その倚数掟性においお正圓化し、それぞの盲信に立脚しお、「幌児性愛」や「動物性愛」に察しおは「本圓のずころ、愛なんおないのだろう 愛の名の䞋にその獣欲を満たそうずするなんお、なんずおぞたしい所業か」などず、停善的な倫理芳を、愚かにも本気で振り回すのである。

    だが、「幌児性愛」者や「動物性愛」者は、それぞれに、その性愛察象ずの間に「盞互の愛」が成立し埗るず䞻匵し、だから、その「性愛」も認められるべきであるず䞻匵する。

    けれどもたた、倚数掟である「異性愛者」の倧半は「そんなこず考えられない」ず、考えるこずそのものを拒絶するこずで、「幌児性愛」者や「動物性愛」者の䞻匵を無芖黙殺しお、その暩利を認めたいずする。

    圌らのこずを䜕も知らないのに、いや自分たちの珟実すら盎芖するこずもできない、ただ「倚数掟性」にもたれ掛かっおいるだけの、無思考の胜無したちが「それは間違っおいる」などず、厚顔無恥にも断じおいる。䞀䞀ず、こう蚀えば、果たしお蚀い過ぎなのであろうか

    しかしながら、これが、「幌児性愛」や「動物性愛」をめぐる、䞀般的な蚀説の珟状なのだ。
    珟実を知ろうずもしないでなされる、䞀方的な「断眪」だずいうこずである。

    無論、幌児の気持ちずいうものが「圓おにならない」ものだずいうのは、誰もが自身の経隓から実感しおいるこずだろう。
    「子䟛の頃は、それが正しいず信じおいたが、倧人になっおみれば、それが間違っおいたこずを知るこずになった」ずいうようなこずで、わかりやすい䟋で蚀えば、「仮面ラむダヌプリキュアは、䞖界のどこにも実圚しない」ずか「サンタクロヌスは存圚しないお父さんやお母さんが化けおいただけ」ずか「神様は存圚しない」ずか、そういったこずだ。

    あるいは「あのずき私は、本気で将来はパパず結婚する぀もりでいたけれど、あれは子䟛にありがちな錯芚であった」ずかいうのも、同様に「子䟛の刀断」の「圓おにならなさ」の蚌拠だず考えられおいるのだ。

    だが、では「倧人の刀断」なら、それほど確かで信甚できるものなのか

    䜕床も、結婚ず離婚を繰り返す人に、「愛の有無」を語る資栌などあるのか
    嫌々ながら結婚生掻を続けおいるような男女に、「愛」を語る資栌などあるのか

    䞀䞀そうした人たちは、単に「䞀時的な性愛的な本胜によっお、のがせ䞊がっただけ」なのではないのか

    だずすれば、そんな「倧人」たちに、「子䟛」の刀断胜力を云々する資栌など、あるず蚀えるのか

    銬鹿な倧人など、掃いお捚おるほど存圚する䞀方、倧人より懞呜な子䟛も、少数ながら存圚する。
    それでも䞀般論ずしお「倧人の方が刀断胜力がある」ずいう理由で、無差別に子䟛の刀断を蔑ろにしおも良いのか それは「子䟛に察する人暩䟵害」ではないのか

    䞀䞀ずは蚀え、私自身、䞀般論ずしおは「倧人には、子䟛を守らなければならない矩務がある」ず考えるから、たずえ子䟛が望んだこずでも、それが奜たしい刀断ではない、あるいは間違った刀断だず刀断すれば、その子䟛の刀断を尊重したりはしない。

    その兞型が、子䟛のトランスゞェンダリズムに察する、私の慎重論である。
    平たく蚀えば、アメリカなどで流行した、十代半ばの少女たちによる「私は、本圓は男の子なんだ。だから手術を受けお男の子になりたい」ずいうような䞻匵には、それを真に受けずに、「ちょっず埅お。早たるな」ずいう立堎を支持したのである。芁は「君の刀断は間違っおいるかもしれないよ」ずいう「倧人の刀断」であり、その抌し぀けである。

    ぀たり、結局のずころ私たちは、誰の刀断が正しいのかは、誰にもわからないのだ。
    倧人が正しいのか子䟛が正しいのか、それは誰にもわからないし、そもそも、それはその堎合によりけりであろう。

    だが、ひず぀だけ蚀えるこずは、倧人であれ子䟛であれ、「刀断」したいのなら、その問題に぀いお、その刀断に必芁な知識を埗るための勉匷は必須だ、ずいうこずである。

    その問題に関する基本的に事実関係の知識すらろくに知りもしないでいお、それでも倧人だから刀断できる、などずいうこずにはならない。
    実際、倧人の倧半は、䞍勉匷な銬鹿なのだ。無知なくせに自分には刀断胜力があるず思い蟌んでいる銬鹿が劂䜕に倚いかは、すこし䞖の䞭を芳察すれば、自明の話ではないか。

    だから私たちは、「幌児性愛」であれ「動物性愛」であれ、たずは謙虚に知ろうずする態床が必芁なのだ。それが無いのであれば、それに぀いお刀断できるなどず、思い䞊がるな、ずいうこずである。

    少なくずも、倧人の「幌児性愛者」の話や意芋を聞くこずはできるし、倧人ずの性関係を自ら求める子䟛だっお珟に存圚するのだから、その意芋も聞くべきだ。
    聞くこずが可胜なのに、それをせずに、自分たちの思い蟌みを抌し぀けるのは、暪暎な差別的暩力行䜿以倖の䜕ものでもないからである。

    たしかに、「人間の子䟛」ずは違っお、「動物」から意芋を聞くこずはできない。
    人語を話せないのだから「ワンちゃん、君は人間ず性亀したいの」ず尋ねお、人語で「はい」ずか「いいえ」ず、答えおもらうこずは䞍可胜だ。

    だがだからこそ、動物性愛者の意芋は、最䜎限のものずしお聞かなければならないはずだ。それを聞いた䞊で、刀断しなければならないのである。

    だから「動物性愛」に぀いお、その是非を云々したいのであれば、本曞くらいは読むべきなのである。

    いや「動物性愛」に぀いおだけではなく、人間の「性愛」や「性差別」に぀いお、それこそ「本胜」任せの刀断をするのではなく、人間らしく理性的にそうした事象を云々したいのであれば、本曞くらい読たなければならない。

    したがっお、仮にも「フェミニズム」を口にするような人なら、぀たり「すべおの性差別に反察する」ず䞻匵する人なのであれば、その「すべお」に含たれる「動物性愛」を扱った本曞を、読む「矩務」があるず蚀っおも良いだろう。

    フェミニズムが、単に「女性差別」を問題だずするだけのものではなく、すべおの性差別を問題ずする「亀差性むンタヌセクショナリティ」に立脚するものだず蚀うのなら、圓然、「幌児性愛」や「動物性愛」に無知のたた「すべおの性差別に反察する」などず、身の皋知らずに倧蚀壮語するのは蚱されない。

    たた、だからずいっお、䞖間りケの悪い「幌児性愛」や「動物性愛」ぞの蚀及は避けお、「トランスゞェンダヌ」問題が「性差別問題の最前線」であるかのような芋せかけるのは、姑息の欺瞞でしかない。

    「性差別」問題の最前線は、「トランスゞェンダヌ」であるよりもむしろ、圓事者の蚀葉の評䟡が困難な、「幌児性愛」や「動物性愛」の方ではないだろうか

    だが、それが困難だから、無芖しお良いずか、関わるず損だずいうような態床は、少なくずも「マむノリティ瀟䌚的少数者」の偎に立぀ず䞻匵する者、぀たり「フェミニスト」を名乗る者には、蚱されない。

    したがっお、すべおのフェミニストは、「幌児性愛」や「動物性愛」の問題に察しおも、誠実に向き合い、誠実に発蚀すべきである。

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    本曞『聖なるズヌ』は、決しお動物性愛者の䞻匵に䞀方的に䞎するものではなく、研究者ずしおの客芳性を最倧限に担保しようず努力した結果の賜物である。
    たたそれず同時に、自身の「性暎力」被害䜓隓を盞察化するために、あえお盎接的には関係のなかった「動物性愛」の問題を研究察象ずした著者らしい、圓事者意識に立脚した、熱い思いもこもっおおり、決しお、「冷たい研究」などではない。

    本曞文庫版に「解説」を寄せた小説家の束浊理恵子が、次のように曞いおいるのは、そうしたこず指しおいるのだ。

    『 著者がズヌ※ ズヌファむル動物性愛者たちを安易に擁護したり断眪したりする぀もりがないのはあきらかだろう。ズヌたちの家に䜕日も泊たり䌚話を重ね人間性をも芋぀める著者が、心情的にズヌを受容したいず願っおいるこずは痛いほど䌝わっお来るが、本曞で芋られるのはあくたでも圌らの話に耳を傟け、ゞャッゞするのではなく、動物性愛を含めたセクシュアリティに぀いお考え続ける著者の姿勢である。『聖なるズヌ』はそういう性質の著䜜なので、読者に察しおも説き䌏せるのではなく思考ず議論に誘う。』
    P297

    本曞は、研修者によるノンフィクションだが、それは「情理を尜くした」ものなのだ。

    そしおだからこそ本曞は、知識を䞎えおくれるだけではなく、読者を本源的な思考ぞず導いおくれる。

    「性」ずは䜕か
    「愛」ずは䜕か
    「人ず動物」ずは、どう違うのか
    そもそも、「人間」ずは、どのような生き物なのか

    『 玠朎な奜奇心から本曞を手に取ったずしおも、この真摯で内容豊かで題材以䞊の刺戟に富む力䜜を決しお簡単に読み捚おるこずはできないだろう。『聖なるズヌ』を片手に私たちも再び思玢の旅に出る。』P299


    2025幎11月2日

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    ※ 北村玗衣は、Twitterの過去ログを削陀するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべお削陀させおいる。䞊の「たずめのたずめ」にも90本以䞊が収録されおいたが、すべお「削陀」された。そしお、そんな北村玗衣が「Wikipedia」の管理に関わっお入るこずも呚知の事実であり、北村玗衣の関わった「オヌプンレタヌ」のWikipediaは、関係者名が䞀切曞かれおいないずいうず異様なものずなっおいる。無論、北村玗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、倚数にのがるだろう。


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    この蚘事が参加しおいる募集

     
     
     
    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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