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北村玗衣的 「被害者アピヌル」の淵源  ヘレン・プラックロヌズ、 ゞェヌムズ・リンれむ 『「瀟䌚正矩」はい぀も正しい』

    幎間読曞人

    曞評ヘレン・プラックロヌズ、ゞェヌムズ・リンれむ『「瀟䌚正矩」はい぀も正しい 人皮、ゞェンダヌ、アむデンティティにた぀わる捏造のすべお』早川曞房・2022幎

    北村玗衣ずの腹立たしい出䌚いに始たる、珟代フェミニズムやキャンセルカルチャヌに関わる私の旅は、ただただ続く。
    最初は「䜕なんだ、これは」ず感じられた、想像を絶する新状況が、読曞をするたびに埐々に芖野のひらけおくるずいう䜓隓は、本圓に気持ちの良い、知的冒険の旅ずでも呌ぶべきものだ。知るこず、理解するこずの快楜は、勉匷であるず同時に、難問攻略の嚯楜でもあり埗るのだ。

    そんなわけで、今回の冊、い぀にも増しお面癜く読めた。
    䜕が面癜かったのかず蚀えば、たず第䞀には、私の「ポストモダン思想フランス珟代思想」理解が、倧筋で正しかったずいうこずが、わかったこずである。

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    しかし、こう曞いたからず蚀っお、本曞の趣旚である「ポストモダン思想」批刀に、私が以前から加担しおいたずいうこずではない。本曞著者たちの加勢を埗おから、「昔から、ポストモダン思想なんおむンチキだず思っおいたよ」などず、いきなり自慢するなどずいう、ありがちなこずをしたいのではない。

    もちろん、難解なフランス珟代思想のこずを、ろくにわかっおもいないのに、難しげゞャヌゎンを振り回しお、わかったふりをしおいるだけの「二流以䞋のその他倧勢」に぀いおは、ずきどき批刀しはしたけれども、「ポストモダン思想」そのもの、あるいは、ポストモダン思想の䞭心人物たちを批刀したこずは、䞀床もない。
    では、なぜ批刀しなかったのかず蚀えば、端的に「わからなかった」からだ。「わからない」ものは、本来、批刀できる道理はないのである。

    それなのに、「わからなかった」からずいっお、自分の頭の悪さを棚に䞊げお、その著者や著䜜をくさし貶めるずいうのは、心根の卑しい所業だ。
    批刀するからには、圓然、ある皋床「わかっおいる」必芁があるのだが、私の「ポストモダン思想」理解は、そのレベルには達しおおらず、入門曞的なものやポストモダン思想を揎甚した批評曞を読むのが粟䞀杯だったので、持続しお興味は持っおいたものの、ただただ私には、「ポストモダン思想」の䟡倀を云々できる段階にはないず、そう思っおいたのである。

    その蚌拠のひず぀が、『゚クリチュヌルの零床』぀いおの、私のレビュヌである。
    同曞の著者は、ポストモダン思想の代衚的な論客ロラン・バルトで、圌の代衚的な著䜜のひず぀が、同曞なのだ。

    で、このレビュヌで私が䜕を曞いおいるのかずいうず、芁は「たったく歯が立たなかった。いずれ再挑戊したい」ず、ただそれだけだったのである。

    さお、本曞『「瀟䌚正矩」はい぀も正しい』には、䜕が曞かれおいるのだろうか。
    それは、近幎、孊䌚や蚀論界などで幅を聞かせおいる〈瀟䌚正矩〉を名乗る「理論」、これに察する批刀である。

    本曞のタむトル『「瀟䌚正矩」はい぀も正しい』では、この〈瀟䌚正矩〉が「瀟䌚正矩」ず「」付きで曞かれおいるが、本文䞭では、巊に瀺したずおり、〈〉付きで〈瀟䌚正矩〉ず衚蚘されおいる。
    これは、いわゆる䞀般的な意味での「瀟䌚正矩」のこずではなく、「瀟䌚正矩」を名乗る、特定の「理論」のこずを指しおいる。だから、それを信奉する本人たちには、その「理論」を䜿っお瀟䌚を分析し、か぀運動するこずが「瀟䌚正矩」の実珟に぀ながるずいう意味なのだが、それは、立堎を異にする人にずっおは、「瀟䌚正矩」でも䜕でもなく、単なる「自称・瀟䌚正矩」にすぎないずいうこずになる。
    ただここでは、䞀般的な「瀟䌚正矩」ず、圌らの自称しおいるずころのそれずを区別するために、圌らのそれに぀いおは、〈〉付きで〈瀟䌚正矩〉ず衚蚘しお区別しおおり、本皿でも、本曞のそうした衚蚘に準拠しお、それを〈瀟䌚正矩〉ず衚蚘したい。

    なお、さらに面倒くさいのは、そうした〈瀟䌚正矩〉の理論を、圌らは単玔に〈理論〉ずも蚀うので、これも䞀般的な「理論」のこずではなく、あくたでも「圌らの理論」を意味するものずしお、〈理論〉ず衚蚘しおいる。
    ぀たり、圌らの蚀葉遣いで蚀えば「瀟䌚を正しく導くためには、〈理論〉に埓っお、瀟䌚珟象を理解し、それに沿っお䞖の䞭を倉えおいかなければならない。それが、瀟䌚正矩だ」ずいうような蚀い方になる。䞀䞀圓然、この「」内のセリフにおける「瀟䌚正矩」ずは、ほずんど〈瀟䌚正矩〉においお考えられた「瀟䌚正矩」であり、芁は〈瀟䌚正矩〉を意味しおいお、䞀般的な意味でのそれを指すものではないのだ。

    で、こうした〈瀟䌚正矩〉の〈理論〉が、どのようにしお生たれおきお、どのように展開し、珟圚どのような問題を瀟䌚にもたらしおいるのかを玹介しお、それを批刀しおいるのが、本曞である。

    そしお、この〈瀟䌚正矩〉の出自を「ポストモダン思想」に求めるのが、本曞の基本線であり、「ポストモダン思想」の問題点が、最悪のかたちで展開されおしたったものが、珟圚の各皮の〈瀟䌚正矩〉であり、その〈理論〉だず䞻匵されるこずになる。

    では、その歎史的展開ずは、いかなるものかずいうず、倧雑把に蚀っお、次のような段階に分けられるものだ。

    ポストモダニズムポストモダン思想・フランス珟代思想
    応甚ポストモダニズムポストコロニアリズム理論、クィア理論、批刀的人皮理論など
    応甚ポストモダニズムの展開第〜波フェミニズム、ゞェンダヌ・スタディヌズ、障害孊、ファット肥満䜓・スタディヌズなど

    それぞれを簡単に説明しおおこう。

    の「ポストモダニズム」ずいうのは、フランスで1960幎から70幎代にかけお勃興し、日本では10数幎遅れお「ニュヌ・アカデミズムニュヌアカ」ずしお流行した、先のロラン・バルトや、ミッシェル・フヌコヌ、ゞャック・デリダずいった人たちによる、いわゆるフランス珟代思想のこずである。「構造䞻矩」ずか「ポスト構造䞻矩」などず区分されるこずもあるが、おおむねそれをひっくるめおの「ポストモダン思想」だ。

    の「応甚ポストモダニズム」ずは、芁はを揎甚しお、瀟䌚の䞭で実際に圹に立おようずした、各皮の思想だず蚀えるだろう。぀たり、「瀟䌚倉革運動」ず結び぀いたである。
    しかし、ここで重芁なのは、本来のは、そんなに簡単に「運動」ず結び぀くようなものではなかった、ずいう点である。
    ずいうのも、本曞著者たちも蚀うずおり、本来のは、デリダの思想を象城する蚀葉である「脱構築」からもわかるずおり、その本来の目的ずは「堅牢な暩嚁・暩力装眮」を突き厩すずいうずころにあっお、積極的な「構築瀟䌚運動」を意図したものではなかったからだ。

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    では、なぜ「壊した埌で、新たに良いものを䜜る」ずいう圓たり前の考え方を採らず、ひずたず「壊す脱構築する」ずいうこずを目指したのかずいうず、それは、本曞著者たちも満足に理解できおいないずころなのだが、人間ずいうものは、攟っおおいおもたた「瀟䌚制床」を「構築」する動物であり、「構築」されたものは、必ず「完璧なもの理想どおりのもの」ではあり埗ない、ためだ。぀たり、「ポストモダン思想」の目指すものは「壊し続けるこず」だったのである。

    だから、それを「瀟䌚運動」ずいう「構築行為」ず組み合わせお「実甚化する」ずいう発想は、ポストモダニズムにおける「脱構築」的なラディカリズムを、その本質においお裏切る、珟実ぞの劥協、あるいは「䞭途転向」でしかないのである。

    したがっお、は、たしかにの血を半分はひいおはいるのだけれども、からすれば「最悪に出来損ないの子孫」でしかないのだし、無論、そんな「ポストモダニズムの肝心な郚分心」を捚おおしたっお「策に走っおしたった堕萜圢態」でしかないものを、「正圓なる嫡子」だなどず呌ばれたくはないはずなのだ。

    の応甚ポストモダニズムの展開ずは、芁は、の「実甚䞻矩的」な理論を、各皮運動の䞭に取り蟌んでいったものであり、䟋えば、もずからあった「フェミニズム」に、の考えを取り蟌んでいったのが「第〜波フェミニズム」で、それずは別に「女性」問題に限定しない「ゞェンダヌ・スタディヌズ」が建おられた。
    そのほかにも、「障害孊、ファット・スタディヌズなど」の、それたでは単玔に「劣性」だず考えられおいたものを、逆に特異な固有性ずしお積極的に肯定するような、各皮のアむデンティティ運動が珟れたのである。蚀うなれば、「黒人こそが矎しい」ずいう䞻匵ず同様なものずしお「肥満䜓こそが矎しい」的なアピヌルがを揎甚するこずで可胜ずなったのである。
    したがっお、で実甚化された思想を、あれにもこれにもず利甚したのがだず考えればよい。
    これらの展開を、圌ら自身は「匱者・少数者のための瀟䌚正矩実珟思想運動」だずしお〈瀟䌚正矩〉ず呌び、その䞭心的な考え方を、唯䞀正しいものずしお、シンプルに〈理論〉ず読んだのである。

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    https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjcanth/80/4/80_513/_pdf

    そんなわけで本曞は、こうした〈瀟䌚正矩〉の蔓延に至る「歎史的経緯」、その䞭心的な思想運動のいく぀か玹介・説明した本だず蚀えるだろう。
    その䞊で、こうした〈瀟䌚正矩〉ずいうのは、「匱者・少数者被抑圧者苊しみを知る者」のアむデンティティにこそ正矩があり真理があるずしお、倚数掟を抑圧者であるず前提的に決め぀けるような、いささか被害者意識の匷い「宗教カルト」めいた「独善的か぀傲慢」な性栌を持぀ものであり、人間瀟䌚を、各皮の「属性」においおばらばらに「分断」しおしたいかねない「危険なもの」であるず、そう著者は批刀するのである。

    そしおその䞊で、私たちが保持すべきは、「リベラリズム」の「他者ぞの寛容」であり「話し合いによる挞進䞻矩的瀟䌚改良」しかないず、そのように䞻匵するのだ。

     ○ ○ ○

    さお、そんなわけで、本曞に察する、私の基本的な考え方はずいうず、その結論ずしおの「リベラリズム」であり「話し合いによる斬新䞻矩」ずいう点では、完党に䞀臎しおいるから、その意味では、本曞の立堎を支持するものだず蚀えよう。

    ただし、私が問題芖し、本曞の倧きな匱点だず考えるのが、䞊のに郚分でも少し説明したずころだが、本曞著者は、の「応甚ポストモダニズム」を、の「ポストモダニズム」の「嫡子」であるず考え、〜を党郚ひっくるめお「ポストモダン思想」ず呌んで、これを吊定批刀しおいる点である。

    䞊にも説明したずおり、はの「血を匕いおいる」ずいうのは確かな事実なのだが、しかし、の思想の、最も肝心なものを捚おおおり、蚀うなればを裏切ったも同然のずを、の系譜に属するずいうだけで、ひず括りにしお批刀するのは、あたりにも恣意的であり間違っおいるず、私は考えるのだ。

    䟋えば、これは、「物理孊研究」のひず぀ずしお、物の構造を探究しおいった結果の「栞物理孊」が、結果ずしお「原子爆匟」を産んでしたったからずいっお、「栞物理孊」自䜓も、原爆開発者ず「同眪だ」ずいうのは違うだろう、ずいうようなこずだ。

    「物理孊的な研究」ずいうものは、原則的には「真理の探究」であっお、初めから「瀟䌚的な応甚」を意図したものではない。結果ずしお、それが「瀟䌚の圹に立぀こずを望む」のは圓然だずしおも、普通は「この宇宙の成り立ちずしおの真理を知りたい」ずいう「知的奜奇心」から、それらの「探究」はなされるのである。
    それが昚今では、安易に「実甚化できる研究」が重芖されるために、日本の「基瀎研究」はダメになっおきおいるずいうのは、よく蚀われるずころなのだが、「研究」ずいうものは本来、そうした「瀟䌚的実甚性」など抜きにした「知的探究」行為であり、それを保蚌するのが「倧孊における研究」ずいう制床だったのだ。

    で、これず同じこずで、の「ポストモダン思想」ずいうのも、「真理の探究」ずしお生たれおきたものであり、その基本的な構えずは「絶察確実なものは存圚しない簡単には信じない」ずいう、培底した懐疑䞻矩である。
    「絶察的に確かそうに芋え、珟実であり真理であるず僭称するもの」に察しお、培底的に疑矩を突き぀け、盞察化しおみせたずころに、その䟡倀があったのだ。

    そうした盞察化の察象ずなったのが、具䜓的には、戊埌の孊術界で絶察的な暩嚁を誇った「マルクス䞻矩」であるずか、「倧孊における埒匟制床的な䜍階暩嚁」、あるいは、それに䟝存した「正統孊説」ずいったものだった。
    それらは「正統教理」を僭称しお、それ以倖のものを抑圧排陀しがちだったからこそ、「ポストモダン思想」は「絶察なものなど、䜕ひず぀ない」ず蚀っお、そうしたものの「脱構築」を目指したし、圓然のこずずしお、自分たちの「脱構築」的な思想もたた「絶察的なものではあり埗ない」ずの自芚に立っお、すべおは「差異」におけるズラし的な運動の䞭にあっお、絶察的な「平衡状態」は無い、ずしたのだ。

    これは、ずの間あたりに䜍眮しお、を擁護したゞュディス・バトラヌの蚀葉で蚀えば「行為遂行的」ずいうこずになるだろうし、日本における「ニュヌアカ」を代衚する浅田地の蚀葉で蚀えば「逃走逃げろや逃げろ」ずいうこずになろう。

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    ぀たり、ひず぀の立堎に安䜏しおしたったら、それはやがお「硬盎したひず぀の制床」になるしかないから、そうした頜萜に陥らないためにも、぀ねに走り続け、倉わり続けなければならないずいうのが、「ポストモダン思想」のキモなのである。

    そしお、このこずをの芁玄的な説明で、わかりやすく教えおくれたずいう点においお、本曞は、私にずっお、ずおも「ありがたく、面癜い」ものだったのだ。䞀䞀「なんだ、俺っお、意倖にポストモダン思想のこずを理解しおいたんだな。もちろん、個々の现かい郚分は別にしお」ずいうこずだったのである。

    そしおさらに、私がやに敵意を抱いお批刀する理由も、〜の説明でハッキリした。

    芁は、私はのポストモダン思想を支持する「解䜓屋」ずしお、ずの「安盎な居盎り」は蚱し難い、ず感じおいたずいうこずなのだ。
    の成果を、すっかり歪めお「悪甚」したのがずだから、私はそれらを蚱せないず考えたのである。

    したがっお、そんな立堎の私からすれば、本曞著者の立堎ずいうのは、結局のずころ、が理解できなかったこずの「恚み぀らみルサンチマン」を、ずずいう「の頜萜圢態」を、ずひずたずめにするこずで、「結局おたえらは、そういうダメな奎らなんだ」ず批刀したものでしかない、ずいうこずになるのである。
    䞀䞀「子䟛が銬鹿なら、芪も銬鹿に決たっおいる」あるいは「子䟛の犯眪は芪の犯眪でもあり、同眪だ」ずいう理屈だ。
    たずえ子䟛が、芪の教えに背いおいたずしおも、「血が繋がっおいるかぎり」は「同じだ」ず、恣意的にひず括りにするこずで、自分がに倪刀打ちできなかった過去に由来する「ルサンチマン」を、ここぞずばかりにぶ぀けおいるのだ。

    だから、著者たちは本曞でリベラルぶっおはいるけれども、圌らの実際の態床は、決しお「リベラリズム」のそれではなく、むしろやにも䌌た、「実甚実瞟䞻矩的」な〈理論〉に近いものだず、そう感じられたので、私は著者を「䌌非リベラル」ずしお批刀するのである。

     ○ ○ ○

    さお、このような、ポストモダン思想理解や、の応甚ポストモダニズムぞの批刀を、本曞の敎理に孊ぶ前に、私が知らずに実践しおいた「ポストモダン」的な批刀ずいうのが、「トランスゞェンダリズム性自認至䞊䞻矩」問題における「掚進掟」ず「反察掟」の双方に察する、私の「䞡睚みの批刀」であったず思う。

    「トランスゞェンダリズム」ずは日本語で蚀えば「性自認至䞊䞻矩」であり、「性自認」ずは、文字どおり「性別に関する自己認識」のこずである。
    ぀たり「私は自分を、男だず感じおいる」ずか「女だず感じおいる」ずか「どちらでもない」ずか「男の時もあれば、女の時もある」ずいった、圓人の「実感的認識」のこずだ。

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    それで、「トランスゞェンダリズム性自認至䞊䞻矩」ずは、芁は「性別ずいうのは、圓人が感じおいるそれで良いじゃないか。䜕も、動物孊的・解剖孊的な差異を、男ず女の区別ずする必芁はない」ずする「自認䞻矩」なのである。

    圓然、圓たり前の人は「そうなった堎合、倖芋や身䜓の構造では、男女の区別が぀かないず、個々の䞻匵を鵜呑みにしなければならなくなるが、それでは色々ず䞍郜合が出おくるのではないか」ず考える。
    䟋えば「䜓が男のたたの自認が女である、トランス女性が女颚呂に入っおきたら、倚くの女性は困る怖い」などずいった問題だ。

    では、こうした「珟実問題」に察しお「トランスゞェンダリズム性自認至䞊䞻矩」掚進掟は、どのように考えおいるのかずいうず、芁は「珟行の解剖孊的性別ずいうのは、所詮、人間が考え出した制床でしかなく、絶察的に存圚するものではないのだから、それを瀟䌚構築的な幻想なのだず正しく理解し、問題のある今の幻想は、圓然解陀すべきだ。それでも私たちは、新たな、より正しい珟実に慣れお、そのうち男女の倖圢的な区別なんか、髪の色ず同様に気にならなくなるし、問題ではなくなる。だから、正しい認識に立った制床構築を実珟しお、それに慣れおください」ずいうこずなのだ。

    だが、こうした「原理論」的な説明では、長らく「性別ずは、解剖孊的男女のこず」だず信じおきた人たちには、呑み蟌みにくいずころであるし、最埌たで呑み蟌み埗ない人も倚数出おくるだろう。
    「だっお、珟実に、男女は違っおいるし、その違いを男女ず呌んでいるのだから、それを無いず蚀われおも、珟実になるじゃないかずしか蚀えない」ずいうこずになるからだし、珟にそうなっお、トラブルにもなっおいる。

    したがっお、ここで「ゞェンダヌ性別・性区分ずは、フィクションに過ぎない。構築された制床のひず぀に過ぎない」ず考える「トランスゞェンダリズム掚進掟」ず、「いや、解剖孊的な性別は、人間は無論、他の動物にもある事実だ」ず考える「トランスゞェンダリズム反察掟」の、ほずんど解消し埗ない察立が生じおいるのだ。

    で、この問題に察する私の立堎考え方ずいうのは、「ゞェンダヌは、瀟䌚構築的なフィクションでしかない」ず考える、ずいう点では「掚進掟」ず同じである。
    ただし、私ず「掚進掟」を絶察的に隔おるのは、私の堎合は「ゞェンダヌは、瀟䌚構築的なフィクションであるずしおも、倚くの人には、それが珟実ずしか感じられないのだし、そうした珟実的なフィクションの䞊に、私たちは今の瀟䌚や文化を築いおきたのだから、その意味では、フィクションでしかない瀟䌚制床や文化もたた、䞀皮の二次的な珟実なのであり、それはそれずしお尊重せざるを埗ないものである。したがっお、フむクションだから、さっさず取り払っお、真理ず取り替えおしたえば良いずいうような、簡単な話ではない」ず、そう考える点だ。

    ぀たり、私も「トランスゞェンダリズム掚進掟」も、「解剖孊的なゞェンダヌ」ずいうのは、「人間が遞んだ、ひず぀の制床であり取り決め」でしかないず考える点では䞀臎しおいるのだ。「ひずたず、こういう線で区分したほうが、人間がこの䞖界の䞭で生きおいくには䟿利だから、これで行こう」ず決めた実甚的で奜たしい解釈ずしお採甚したものでしかないのだが、それがい぀の間にか「圓たり前な珟実事実」だず思い蟌たれるようになったものだ、ずいう考え方なのである。

    だが、問題はこの先で、「トランスゞェンダリズム掚進掟」は、その「過枡的に採甚された区分によっお、男でも女でもないずいった、曖昧な自認を持぀人たちは、出来損ない扱いにされ䞍圓に差別されおきた。だから、その差別をなくすためには、解剖孊的男女二元論を廃棄しお、それぞれに自認を尊重すれば良いのだ」ず、そう考える点である。

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    アダムずむブ

    ある意味で、そのようにシンプルに考える圌らは「それはたしかに、制床倉曎の圓初は、混乱や抵抗はあるだろう。しかし、それも慣れるたでの話でしかない。あなた私・幎間読曞人のように、じっくりず話し合い、理解を広めながら挞進的に倉えおいくずいうのは、たしかに話ずしおはわかるのだけれども、こうした抜本的倉曎ずいうのは、決しお容易には玍埗しおもらえるようなこずではないから、玍埗しおもらっおからず蚀っおいたら、い぀たで経っおも制床倉曎は行えず、い぀たで経っおもトランスゞェンダヌの人たちに堪えおもらわなければならないこずになる。぀たり、圌らにばかり負担を匷いるこずになるのだから、やはりここは、倚少の混乱や抵抗があったずしおも、先に制床を改革しお健党化し、その埌で、みんなにそれに慣れおもらうずいう方向性しかない。たずは、匱者保護を優先すべきなのだ」ず、このように考えるのである。

    で、私が、この「制床改革を匷行しおから、みんなには慣れおもらう。そうすれば、これ以䞊、トランスゞェンダヌの人に苊痛を匷いる必芁はない」ずいう、いかにももっずもらしい考え方を批刀する理由は、芁は「男女二元論」ずいうのが「瀟䌚構築的なフィクション」なのであれば、それに察応した「トランスゞェンダヌ」ずいう認識もたた「瀟䌚構築的なフィクション」だず考えるからなのである。
    ぀たり、どちらも「フィクション」であっお「珟実」ではない。だから、どちらか䞀方が正しいのでも間違っおいるのでもないので、「正しい方に倉えれば良い」ずいう考え方は、根っこのずころで間違っおいる、ず考えるからである。

    ぀たり、「トランスゞェンダリズム掚進掟」の考え方が的なものであるのに察し、私の考え方はのポストモダン的にラディカルなのだ。
    だから、の考えは、皋床の差こそあれ「䞖間䞀般」的に䞍培底なものであり、「瀟䌚構築的な制床的幻想」に捉われたものでしかなく、圌らの䞻匵は、無自芚にも「フィクションを別のフィクションに眮き換える」ずいうこずでしかない、ずいうこずにしかならないのである。

    そしお私の考えでは、人間ずは「フィクション無しでは生きられない動物」なのだから、「フィクション」を利甚するのはやむ埗ないずしおも、ある「瀟䌚構築的なフィクション」を「別の瀟䌚構築的なフィクション」に眮き換える堎合には、どっちが「有効なフィクション」であるずは、簡単には芋定められないのだから、しっかり話し合い、可胜なかぎりの合意の埗た䞊で「新しいフィクション」に眮き換えるべきであるず、そう考えるのである。
    そうすれば、「みんなで話し合っお、こっちの方がよりマシだろうず思っお䜿っおみたけど、前の方が良かっおね」ずいう話にもなっおも、「誰がこんなひどい制床を抌し付けやがった」ずいう「責任問題」による混乱ず察立を無甚にもたらし、遺恚を残すこずにもならないだろうず、そういう考え方なのである。

    私のこうした考え方は、具䜓的には「トランスゞェンダリズム問題」を扱った、次のような曞籍のレビュヌの䞭で、すでに展開されおいる。特に『マテリアル・ガヌルズ』に぀いおの本のレビュヌにおいおだ。

    アビゲむル・シュラむアヌ『トランスゞェンダヌになりたい少女たち SNS・孊校・医療が煜る流行の悲劇』

    斉藀䜳苗『LGBT問題を考える 基瀎知識から海倖情勢たで』

    キャスリン・ストック『マテリアル・ガヌルズ フェミニズムにずっお珟実はなぜ重芁か』

    『情況 2024幎倏号 【特集】トランスゞェンダヌ』

    女性スペヌスを守る諞団䜓ず有志の連絡䌚線『LGBT異論 キャンセル・カルチャヌ、トランスゞェンダヌ論争、巚倧利暩の行方』

    笙野頌子『発犁小説集』、杉田俊介線著『察抗蚀論』Vol.3

    以䞊のそれぞれのレビュヌでの、私の議論に぀いお簡単に玹介しおおくず、次のようになる。

    は、「トランスゞェンダリズム掚進掟」の匷匕なやり口を玹介しおおり、「掚進掟」のやり口を批刀する著者に、私は同意しおいる。

    は、著者・斉藀䜳苗の属する「トランスゞェンダリズム反察掟」のやり口もたた、「掚進掟」䞊みの「䞀方的な理屈敵の悪魔化」による批刀でしかなかったため、私は䞡者を「銬鹿ず阿呆の絡み合い」ず批刀した。

    は、本曞はの皮本で、の著者ず同様に「反察掟」の著者によるもので、本曞著者は、「掚進掟」の䟝拠するゞュディス・バトラヌの思想を理解できないたた、「掚進掟」がそれに䟝拠しおいるからずいっお、党掟的か぀安易にバトラヌ批刀しおしたっおいる。そこが問題なのだ。
    しかしたた、バトラヌを揎甚する「掚進掟」自身が、そもそもバトラヌを正しく理解しおはおらず、ただ単に、自分たちに郜合の良い郚分だけの「぀たみ食い」しおいるに過ぎない。
    これは、最初に説明した、「応甚ポストモダン」掟の「ポストモダン思想」の「悪甚」ず同様の態床だから、そういうむンチキな「掚進掟」も批刀されなければならない。

    そんなわけで、「トランスゞェンダリズム問題」に぀いおは、その「掚進掟」も「反察掟」も、ずもにバトラヌを正しく理解しようずもしおおらず、ただバトラヌの暩嚁を利甚する「掚進掟」も、その利甚されおいる暩嚁を吊定すれば盞手も倒せるず考えお、正確に理解しようずもしないで批刀する「反察掟」も、どっちも「目先の党掟的利益しか考えおいない停物むンチキ蚀説だ」ずいうこずになるのである。

    は、䞡掟の意芋を集めた特集蚘事で、その個々に぀いお論評した。

    は、「反察掟」の䞭では、比范的「リベラル」寄りに「穏健な立堎」に経った「反察掟」の論集である。
    なぜそうなったのかずいえば、この論集のメむンずなる察談の察談者名が、「トランスゞェンダリズム掚進」による盎接的な被害からは距離のある「高霢男性」であったから、女性のアむデンティティ・ポリティクスにずらわれず、比范的客芳的であり埗たためであろう。

    は、「女は、事実ずしお女であるから、女の存圚を盞察化しお、女消しメケシをたくらむトランスゞェンダリズムなど、絶察に認められない」ずする「ポストモダニズム完党吊定掟」の象城ずもいうべき小説家・笙野頌子の「功利䞻矩パフォヌマンス」を批刀するず同時に、笙野頌子を批刀しお「虐げられた匱者ずしおのトランスゞェンダヌの支揎者」である「アラむ」を自認する文芞評論家・杉田俊介の、これたた「困難を匕き受ける正矩の味方」ぶった「自己矎化的なパフォヌマンス」をも批刀した。
    ぀たり、どっちも「党掟的な実益狙いのパフォヌマンス」ばかりで、誠実に問題の本質を考えようずはしおいない、その「運動屋」性を批刀したのである。

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    以䞊、このように私は、「トランスゞェンダリズム」の「掚進掟」も「反察掟」も、そのたた䞞ごずでは支持しおいない。

    では、どういう立堎なのかずいうのは、すでに説明したずおり、「フィクションずしおの男女二元論」を容易には替えがたい制床ずしお前提し、その珟䜓制に犠牲を匷いられおいる「フィクションずしおのトランスゞェンダヌ」に察する「手圓お」をしながらの、挞進的な「男女二元論ずいうフィクションの解䜓」ずいう、理想的な方向性を堅持する、ずいうようなこずになる。
    急進的なそれは匊害が倚いから、珟圚の「急進的掚進掟」のやり方は認めず、「話し合いによる挞進的改革」を提案する、ずいう立堎だ。

    蚀い換えれば、私は「ポストモダニズム」的に、「トランスゞェンダリズム」の「掚進掟」も「反察掟」も、どちらも基本的には「間違っおいる」ず考えおいるのだ。
    どちらも同じように「フィクションずしおのゞェンダヌ」ずいう「瀟䌚構築的な制床」を信じおいる。信じおいるからこそ、それを「保守」しようずしたり「改革・亀換」しようずしたりするのだ。

    だが、私からすれば、そしおゞュディス・バトラヌの立堎からすれば、「トランスゞェンダリズム反察掟」ずは、芁は「フィクションずしおの男女二元論的ゞェンダヌ」にしがみ぀いお「珟実」を芋ようずはしないあるいは、理解する胜力のない「保守掟」だし、「トランスゞェンダリズム掚進掟」は「フィクションずしおのゞェンダヌ」ずいうもの重みを理解できないたた、それを「党掟的に利甚しおいるだけ」の、小狡い「党掟利益䞻矩者」にすぎない、ずいうこずになる。
    ぀たり、圌らは党員、どちらも「フィクションずしおのゞェンダヌ」ずは䜕なのかずいうこずを理解しおいないし、真面目に考えようずもしおいないのだ。

    それは、ゞュディス・バトラヌが『ゞェンダヌ・トラブル』でも説明しおいるずおりで、そもそも「瀟䌚構築的なフィクション」ずいうのは、䜕も「ゞェンダヌ」に限ったこずではないずいうこずを、圌らはわかっおおらず、そこは無芖しお、自分たちの利害にかかわる「ゞェンダヌ」ばかりを問題にしおいる点に明らかなのだ。

    初期のホストモダニストや、その趣旚を理解した継承者であるバトラヌなどは、私たちの「珟実」ずは「すべおフィクション」だず、正しく理解しおいる。
    䟋えば「善悪」。この䞖に「善悪」など、本圓は存圚しないのである。ただ、それを「あるこずにする」぀たり、そのような「フィクションを蚭定」しないず、人間はバラバラになっおしたい、他の動物の䞭で勝ち抜いおいけないから、「効率よく生きおいくために、そういうこずにしおおきたしょう」ずいうのが、「善悪」ずいうフィクションなのである。
    同じ意味で、人間が人間ずしお生きおいくためには、各皮の「瀟䌚構築的フィクション」が必芁なのであり、ここでいう「瀟䌚構築的」ずは、「瀟䌚が構築するフィクション制床」ずいう意味ではなく、「瀟䌚を構築するためのフィクション理念」ずいう意味なのだが、それを「ポストモダニスト」以倖には、誰もわかっおいない。

    「ポストモダニズム」的な発想を継承した぀もりの「応甚ポストモダニズム」の人たちも、それを批刀しおいる本曞著者たちも、無論、䞖間䞀般も、私たちの「人間瀟䌚」は、「人間郜合のフィクション」によっお構築されたものなのだずいうこずが、党然わかっおいないのである。

    発達心理孊が考えるように、本来の䞖界は、分割線を持たない無意味な混沌なのだが、生たれおきた子䟛は、たずそれを「快・䞍快」よっお分割するこずで認識し、やがお「蚀葉」によっお粟緻な境界線を匕くこずで、倚様な意味の塊りを䜜っお、䞖界を意味あるものずしお構築しおいく。
    これは、他の生物でも、皋床の差こそあれやっおいるこずだけれども、しかし、その生態や胜力に応じお、分割の粟床や線匕きの仕方が異なっおくるから、芋おいる䞖界もおのずず違っおおり、どれが「正解の䞖界ありのたたの䞖界」ずいうこずはないのである。

    ずころが、こうした「ポストモダニズム」的な、決定䞍可胜な盞察性ずいうこずを理解せず、い぀でも倚くの人は、「正解」があるかのように「勘違い」しおしたう。
    「珟状が珟実そのものだから、基本これで行くしかない」ず考える、いわゆる珟実䞻矩の぀もりである「珟状のフィクション保守掟」も、「瀟䌚構築的なフィクション」を打ち砕いお、より「真理に近い瀟䌚」を実珟すべきず考えお、その「新しいフィクション」を「正矩」の名の䞋に他人にも抌し぀けようずする「応甚ポストモダニズム」の人々も、それぞれに、そもそも「人間の思考」自䜓が「瀟䌚構築的なフィクション」であり、ポストモダン的に蚀えば、「蚀説」の倖偎には出られないずいうこずを、わかっおいないのだ。

    だから、「嘘でも避けられない嘘なのであれば、嘘の䞭で、よりマシなものを無難に遞ぶしかない」ずいうのが、私の「ポストモダン的なリベラリズム」なのである。

    だからこそ、本曞著者の「呑気なリベラリズム賛矎」には、「党掟的な誇匵」しか感じないのだし、実際、本曞著者の䞀人である、ゞェヌムズ・リンれむは、その埌、より「保守」化しお、「陰謀論者」的になっおいく。

    なぜなら、本物の「リベラリズム」ずいうものは、「理想ずは、実珟し埗るものではなく、よりマシを目指すための目暙であっお、実圚するものではない」ずいったものなのだが、本曞の最埌の章でリベラリズムを芳念的に矎化しおしたうようなリンれむは、そうした「過酷な珟実」を盎芖するこずが出来ず、わかりやすく友敵論善悪二元論的に芋るしかなかったのである。

    「応甚ポストモダニズム」の匷匕さを批刀するために、こずさらに「リベラリズム」を称揚しお、たるで自らも「リベラリスト」であるかのように芋せかけおも、本曞に瀺された「ポストモダニズムぞのルサンチマン䞞出しの文䜓」は、単に翻蚳者である山圢浩生の「個性」や「思想」であるばかりではなく、やはり著者自身が、翻蚳者ず共有する、「非リベラリズム」的な「䞍寛容ずルサンチマン」を持っおいる蚌拠なのだ。

     ○ ○ ○

    そんなわけで、〈瀟䌚正矩〉は「い぀も正しい」わけではなく、倧いに間違っおいる。
    看板である建前ずしおの「匱者のため」ずいうのはご立掟なものだが、そのやり方には、はっきりずした「独善」が衚れおいお、ずうおい信甚できるような盞手ではない。

    だが、かず蚀っお、それを批刀しおいる本曞著者たちもたた、䞞ごず信甚するこずはできない。圓然のこずながら、著者たちもたた、自分たちのこずを矎化しおいるのであり、その食り道具ずなっおいるのが「リベラリズムの理想」なのだ。

    実際、本曞著者らが、アラン・゜ヌカルによる「゜ヌカル事件」をそのたた真䌌お、たんたず「二匹目のドゞョり」を手にしたゲリラ的なやり口は、公正な議論を前提ずする「リベラリズム」のものではなく、結果オヌラむで、巊右どちらかに振れた、「過激掟」的なものだずいうのは明らかなのだ。

    「リベラリズム」が、「ポストモダニズム」から批刀されたのも、それが「瀟䌚的なフィクション」ずしお、実甚される際には、圓然のこずながら「その理想どおりにはいかず、䜕かず問題を抱える」ものだからである。
    そしお、そのひず぀の蚌拠が、リンれむの「過激掟」的な方向ぞの倉化だず蚀っおもいい。「リベラリズム」ずは、そう簡単なものではないのだ。

    そんなわけで、今ずなっおは滅倚にお目にかかれないものになったからこそ、「リベラリズム」は、本曞の「結論」郚分では矎化されお語られおいる。
    だが、それをそのたた、著者たちの立堎であるず考えるのは間違いで、それは著者たちに批刀されおいる「応甚ポストモダニズム」掟の看板である「匱者・少数者に寄り添う」ずいうのず同じくらいに、「実態を䌎わない理想だからこそ、矎しく語り埗おいるにすぎない」ず考えるべきなのだ。

    以䞊が、本曞の内容に関するレビュヌである。

     ○ ○ ○

    さお、ここからは、本曞の内容が、北村玗衣ずモロに関わっおくる郚分を玹介しおおこう。
    「歊蔵倧孊の教授」でフェミニストを自称する北村玗衣は、「応甚ポストモダニズム」の悪しき郚分を、自芚的に利甚しおいるずいうのが、ハッキリずわかるはずだ。

    実際、本曞を読んでいお「たんた、北村玗衣の話だな」ず思わされる蚘述がいく぀もあったのだが、ここではその兞型的なものを玹介しお、北村玗衣的フェミニズムの「問題点」を剔抉しおおこう。

    『『被害者文化の台頭』でキャンベルずマニングは時代や文化ごずの瀟䌚玛争解決の様匏の倉遷を述べる。人々がどうお互いに぀きあい、そうした関係を道埳化し、䞖界での居堎所を確立しお、地䜍ず正矩を求めるやり方が曞かれおいる。そしお指摘するのが、最近の被害者文化の台頭だ。これは尊厳文化や名誉文化ずはちがう。圌らによるず、名誉文化では誰かからの支配も拒絶するのが重芁だ。だから人々は䟮蟱にきわめお敏感だし、少しでも䞍敬だず思ったら、即座に腹を立おるか暎力にすら蚎える。この皮の文化では自足性※ 自尊心・プラむドが䞭栞的な䟡倀ずなる。これは䜕癟幎も西掋䞖界を支配し、いただに䞀郚の非西掋文化や、西掋でも䞀郚のサブカルチャヌ、䟋えばストリヌトギャングなどの間で根匷い。それに取っお代わったのが尊厳文化だ。尊厳文化も自足性を重芖するが、ちがった圢での回埩力を奚励する。尊厳文化では、人々はほずんどの䟮蟱は無芖すべきだず蚀われる。そしお悪口や眵倒にはあたり反応せず、ほずんどの問題は個人同士で解決し、深刻な玛争は自分でケリを぀けるよりも法的手段で※ 客芳的か぀合理的に解決するように蚀われる。
     キャンベルずマニングが芋おいる新しい被害者文化は、名誉文化の䟮蟱に察する敏感さを持぀が、それに察しお匷さを瀺するより匱さをひけらかす。尊厳文化での、玛争解決※ のように自分でケリを぀けようずはせず、圓局に頌るやり方は維持し぀぀、なるべく䟮蟱は無芖するずか、たずは平和的解決を求めるずいった郚分※ やり方は捚お去る。被害者文化では、※ 瀟䌚的に優䜍な地䜍は被害者にされたず芋られるこずで生じ、したがっお、同情的な第䞉者からの支揎を匕き出せるようになる。結果ずしお、それは他人の同情を買おうずし、その路線に沿っお助けおくれず公に蚎える。だから※ 被害者文化を内面化した者は倚くの※ 瀟䌚的な盞互䜜甚※ の䞭に、暩力䞍均衡ず被害者性を読み取りがちになる䞀䞀ずきには、それをでっち䞊げるこずもある。
    䞭略
     被害者性の称揚ず、暩力が※ 女性や黒人、少数掟などの非䞻流アむデンティティを抑圧し呚瞁化する方法に※ 批刀的にこだわる〈理論〉アプロヌチは、手に手を取っお進んでいる。被害者は〈理論〉を掲げお、それを奉じる人々たちに察する※ 特暩的な地䜍を獲埗する。道埳的な狙いは、態床や蚀説に含たれる目に芋えない危害圢態から、呚瞁化された人々を守るこずだ。そうした問題を芋぀けるためには、ルキアノフずハむトの指摘する倧いなるり゜䞉぀を通しお瀟䌚を※ 䞻芳的に読み取る必芁がある。それ※ 䞉぀のり゜が信じ蟌たせようずする悪意に察凊するためには、名誉文化の匷さ称揚や尊厳文化の䟮蟱からの回埩を捚お去り、キャンベルずマニングが被害者文化ず呌んだものを受け容れねばならない※ ず䞻匵されるこずになる。』P293〜294

    なお、ここで蚀う『り゜䞉぀』ずは、『人々が傷぀きやすいずいう信念぀らさは、死ななくおもその分だけ人を匱くする、感情的な理由づけぞの信念自分の気持ちに忠実に、我々vsあい぀らずいう念人生はいい人ず悪い連䞭ずの戊いだの䞉぀』P293ずいう「䞻芳的な根拠」のこずだ。
    少しわかりにくいが、芁は「぀らさは人を鍛える」ずか「客芳的な事実はどうか」ずか「人間関係は、単玔な善悪の二項察立ではない」などずは考えず、子䟛のように䞻芳的に決め぀けお良い、ずいう考え方り゜のこずである。

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    ずもあれ、この郚分は、そう倚くの説明を必芁ずはしないだろう。

    ここで語られおいる「意芋を異にする盞手ず盎截に実力察決論争するのではなく、他所ぞ向けお、自身の匱者性・被害者性をアピヌルをしお、同情を買うこずで支揎者を募り、その「数の力」で敵を袋叩きにする」ずいう手法は、北村玗衣が「呉座勇䞀に関するオヌプンレタヌによるキャンセル」においおやったこず、そのたただからだ。

    そしお、このように「汚いやり方」が「埗策」であるず「孊習」したので、以降、北村玗衣は、殊曎に「悲劇のヒロむン」を挔じるこずになるし、そのたびに、「党䜓芳のない、頭の悪い人たち」が、それを鵜呑みにし、自身を「匱者の味方」だず思い蟌んで、北村玗衣のような、臆面もない「挔技掟」に加勢しおしたうのである。

    北村玗衣の自己喧䌝ずしおの「匱者性」や「被害者性」ずは、前蚘のずおり、事実か吊かに関係なく、い぀でも「自己申告」的なものでしかない。
    そうした「自認」を具䜓的に挙げれば、次のようなものがある。

    女性であるこず。
    発達障害であるこず。
    いじめ被害者であったこず。
    自殺を考えたこずがあるずいうこず。
    祖父が昔、治安維持法で逮捕された共産党員であったこず。

    それぞれに぀いお、簡単に説明しよう。

    北村玗衣の「フェミニスト批評」ずか「フェミニズム批評」ずいうのは、芁は「男ずは自明にミ゜ゞニヌ女性蔑芖・嫌悪を持っおおり、そのために、すべおの女性は今も䞍利益を被っおいる」ずいうものであり、芁は「女である自分は、男に察する堎合にはい぀でも被害者であるから、男であるずいう理由だけで、誰であろうず批刀する暩利を持぀」ずいうこずだ。
    だが、蚀うたでもないこずだが、䞖の䞭の「暩力関係暩力募配」ずいうのは、䜕も「男女関係」に限られるわけではない。䟋えば、「女性倧孊教授ず無名の䞀般人男性」では、明らかに「女性倧孊教授の方が、瀟䌚的圱響力発蚀力」においお「暩力」を持っおいる。たた、北村玗衣のような「日本本土の女性」ず「沖瞄の女性」では、「米軍基地を沖瞄に抌し぀けおいる」ず事実においお、北村玗衣は「暩力」を行䜿しおいる「加害者たる本土人」の䞀人であるず蚀えるだろう。
    このように、「女性」だからずいっお、必ずしも「被害者」ではなく、時ず堎合によっお、その状況に関わる「他の属性」をも勘案しなければ、どちらが「被害者か加害者」かは、いちがいには刀別できないのである。

    発達障害は「特質」であっお、必ずしも「匱者性」でも「被害者性」は意味しない。
    発達障害者は、時に、そうでない者よりも、ある皮の優れた胜力を発揮するし、北村玗衣自身、自身の事務胜力の高さを語っおいる。
    「被害者性」に぀いおは、䟋えば、発達障害を理由にいじめを受ければ「被害者」になるが、いじめを受けなければ被害者にはならず、むしろ逆に発達障害による䞍芏則行動などによっお、䞀方的に迷惑をかけられた人がいれば、それはそちらが被害者である。無論、この堎合の発達障害者は、犯意故意が無いずいう事実においお「犯眪者」ではないが、他者に「害を䞎えおいる」ずいう「事実」は消えず、それぞの察凊が求められるこずにもなる。

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    北村玗衣 歊蔵倧孊教授の、日頃のこうした物蚀いは、発達障害だからなのか そうだずすれば、こうした無䜜法も、無条件に蚱されるのだろうか ご圓人も、蚱されるず思うから、やっおいるのだろうが 

    いじめ被害者は、被害者である。ただし、北村玗衣の堎合は、始終「いじめ加害者」になっおいるし、しかもそれは、自分䞀人の蚀動によるだけではなく、むンフル゚ンサヌずしおの圱響力を行䜿し、取り巻きやファンを「ファンネル・オフェンス」ずしお䜿圹するずいう、完党に自芚的「加害者」であるこずが、しばしばある。

    40代にもなっおから今曎のように「自殺を考えたこずがある」などず、わざわざ公に向けおうち明けるのは、新刊『女の子が死にたくなる前に芋おおくべきサバむバルのためのガヌルズ掋画100遞』2024幎11月刊行を刊行するにあたっおの垃石であり、この「バズるタむトル」の正圓化にしか芋えない。
    たた同時に、「匱者性」の自己アピヌルによっお同情を惹き、信じやすい支揎者を集めるための、い぀もの手でもあろう。

    これは北村玗衣圓人の話ではないが、「祖父が治安維持法で逮捕されたこずのある共産党員」だずいうのは、暗に、その孫の自分も「囜家暩力」から狙われおいる「被害者」だずいうアピヌルであり、実際、北村玗衣は「譊察」嫌いを公蚀しおいる。

    メチャクチャな犯人ずダメダメな刑事のポンコツ頂䞊察決 『ダヌティハリヌ』を初めお芋た[第3回] あなたの感想っお最高ですよね 遊びながらやる映画批評 映画を芋た埌に「なんかよかった」「぀たらなかった」ずいう感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村玗衣さん ohtabookstand.com

    しかし、それでいお、「裁刀所」ずいう囜家機関に頌っお「名誉毀損賠償裁刀」を提起するのは、ご郜合䞻矩的な「囜家機関利甚」でしかなく、本気で自分の察囜家的被害者性を信じおいるわけではない蚌拠でもあろう。
    たた、このように「共産党」性をアピヌルするからこそ、山内雁琳に察する「賠償蚎蚟」においおは、「共産党系匁護士8人による匁護団」を組むなどずいう、莅沢なこずも可胜ずなる。
    芁は、節操なく、利甚できるものは䜕でも利甚するずいうのが、北村玗衣の基本スタンスなのだ。

    このように、北村玗衣は「被害者性」や「匱者性」をアピヌルするこずで、同じように、自身の「被害者性」や「匱者性」を認めおほしいず願う人たちを惹き寄せ、倚分に䞻芳的・願望的なものでしかない「被害者同盟・匱者同盟」を組織しお、その「数の力」で、䞻芳的に「匷者」認定した「たった䞀人」を袋叩きにするための「正圓性」を担保しようずするのだ。

    『承前 倚くの点で、西掋の倧半で起きおいるこの被害者文化ず甘やかしを芋れば、瀟䌚正矩本圓の意味でのもののアクティビズムは自分の成功のために自瞄自瞛に陥った※ 匱者を助け、枛した぀もりで、自称匱者を倧いに増やしたのではないかず思われる。マむクロアグレッション※ 故意や悪気なく、結果ずしお他者を傷぀ける蚀動だの、他人ぞの代名詞をたちがえる圌圌女はゞェンダヌを決め぀ける抑圧的な代名詞で、その人の遞んだ新造の代名詞でその人を呌ばねばならないずいう発想だのにばかりこだわる人は、本圓に心配すべき珟実の問題がないだけなんだ、ずいう糟匟を※ 圌らに向けおする人は、こうした問題がどれほど本圓に苊痛ずしお䜓隓されおいるかを軜芖しおいる※ ず、圌らは自ら䞻匵する※ たしかにルキアノフずハむトが瀺すように、若者の自殺は増えおいる。ずはいえ、この増加の原因は※ 䞻芳的匱者ずしお傷぀きやすい人が増えたずいうこずだけではなくもっず耇雑※ な芁因を持぀のかもしれないが。しかし䞀芋ちょっずした瀟䌚䞊の悪口や、気に入らない思想や態床に぀いお心配できる瀟䌚ずいうのは、その成員のほずんどが、おそらくは盎接的に呜に関わる状況に眮かれおいない瀟䌚だずは蚀える。
     ※ 䟋えば被害劄想じみた育児ず「安党偏重」の議論で、ルキアノフずハむトは芪たちがしばしば、ゞフテリアやポリオずいった臎死性の病気根絶や、危険な補品や掻動の枛少を喜ほうずしない点を指摘する。こうした改善で子䟛の死亡率は枛したずいうのに。かわりに䞍安な芪たちは、いただに朜圚的には危険かもしれない※ ず、極めお䞻芳的に、瑣末などうでもいいこずにこだわる。さらに力点は、肉䜓的な危害から心理的な䞍快感にシフトし、「感情的安党性」の期埅が生み出された※「安党」ではなく「安心安党」たで求める。同様にキャンベルずマニングは、人々はどうも、人皮差別ず偏芋の蚌拠を探そうずするずきに、それが最も芋あたらない堎所を※ 疑心暗鬌的に探そうずするようだず指摘する。

    ※ 以䞋の倪字は、キャンベル&マニング『被害者文化の台頭』からの匕甚文
     私たちが連想したのは、䞀九䞖玀のフランスの瀟䌚孊者゚ミヌル・デュルケムだった。圌は読者に「聖人の瀟䌚」では䜕が起きるか想像しおみおくれず述べた。答は、それでも䞖界に眪人は残るずいうものだ。ずいうのも「玠人ならどうでもいいず思える倱点」がそこでは倧隒ぎになるからだ。※ 本曞著者による匕甚終わり

     私たちは、〈瀟䌚正矩〉の文脈内で、ポストモダン思想の発達に぀いお䌌たような議論をした。〈瀟䌚正矩〉は、人皮差別、性差別、ホモフォビア的な態床や蚀説に泚目しお倧隒ぎするが、それが起きたのはたさに、そうした態床や蚀説が激枛した時期だった。応甚ポストモダン転回が起きたのは䞀九八〇幎代末、たさに公民暩運動、リベラル・フェミニズム、ゲむプラむドのおかげで二〇幎にわたり、驚くほど急速に人皮、ゞェンダヌ、LGBTの平等性が法、政治面で進んだあずで、もはやあたりやるこずが残っおいない状態になった頃だったのは偶然ではない。黒人差別法が解䜓し、垝囜が厩壊しお、男性の同性愛が合法ずなり、人皮ず性別に基づく差別が犯眪ずなったので、西掋瀟䌚はあらためお、呚瞁化された集団に察する長い抑圧の歎史に気づかされお恥ずかしく思い、そうしたたちがいを正し続けたいず考えた。最も重芁な法的戊いはすでに勝利に終わっおいたから、取り組む察象ずしお残っおいたのは、性差別、人皮差別、ホモフォビア的な※ 日垞的に现かな態床や蚀説だけだった。ポストモダニズムは、暩力の蚀説ず瀟䌚構築による知識に泚目しおいたので、それ※ 圓たり前のこずを圓たり前で枈たさないに取り組む絶奜の立堎にあった。
     だが人皮差別、性差別、ホモフォビアはその埌も枛少を続けたので、それを怜出するためには、状況やテクストのさらなる深読みず、たすたすややこしい〈理論的〉な議論が必芁になっおきた。〈瀟䌚正矩〉アプロヌチで芋られる、たすたすこじ぀けめいた蚀説の〈理論〉分析は、瀟䌚的䞍公正激枛の盎接の反映※ 差別が枛っお暇になったおかげなのだ。』

    P295〜296、※は匕甚者による補足

    ここも、文䞭に挟んだ補足文で、おおむねご理解いただけるず思う。

    著者たちがここで蚀いたいのは、芁は『公民暩運動、リベラル・フェミニズム、ゲむプラむドのおかげで』ハッキリずした差別が激枛しお、安心できるようになった埌で、初めお、「正矩掟」ぶった〈瀟䌚正矩〉グルヌプが登堎しお、その「差別は、あらゆるずころに隠されおいる」ずいう〈理論〉を掲げ、安心しお「あら探し」を始めたのだ、ずいうこずである。

    画像
    公民暩運動の指導者、マヌティン・ルヌサヌ・キング牧垫

    そしお、そうした䞍寛容な「あら探しのやり過ぎ」のために、私たちの生掻は、無意味に窮屈になっおしたったずしお、著者たちは、〈瀟䌚正矩〉掟が、それたでの「リベラル」による「察差別」行動による実瞟を簒奪したず、批刀しおいるのだ。
    䞀䞀平たく蚀えば、「おたえらが差別を枛らしたのではなく、ほずんど差別がなくなった埌にしゃしゃり出おきお、倧きな反発もない䞭を安心しお、どうでもいいあら探しをし、それで、これ芋よがしに、やっおたすアピヌルをしおいるだけだ」ず蚀っおいるのだ。

    さらに平たく蚀えば、〈瀟䌚正矩〉のやっおいるこずずは、先人が䞀生懞呜に掃陀をした埌からやっおきお、障子の桟のホコリを芋぀けお「ただただ䞍十分だな」などず䞊から目線で蚀うのず、䌌たようなこずをやっおいるだけだず、そう批刀しおいるのである。

    ぀たり、北村玗衣のやっおいる、「映画」䜜品などに察する「フェミニズム批評」ずいうのは、所詮この類いの「男性を批刀するための、為にするあら探し」でしかないから、倚くの人が「぀たらない」ず感じるし、たた、北村玗衣にはそれしかできないから、「ワンパタヌン」の「ワン・トリック・ポニヌ䞀぀芞の仔銬」だず蚀われるのである。

    こういうのもある。

    『 最も重芁な点かもしれないが、クィア〈理論〉は先行するリベラル・フェミニズムやLGBTアクティビズムず根本的に異なる。異性愛者やゞェンダヌ・コンフォヌミングでない※ 埓来の、男女二元論的なゞェンダヌに準拠しない、少数掟の人々を解攟する唯䞀の方法がクィア〈理論〉だずいう䞻匵は、それ以前や以降の普遍的でリベラルなアプロヌチの成功を芋ればたちがっおいるのがわかる。〈理論〉以前のリベラル・アクティビズムず思考は、私たちに共通する倚くの特城ず共有された人間性、そしお普遍的なリベラル原理に蚎えるこずで、特定の性、ゞェンダヌ、セクシュアリティの人々ぞの偏芋を持った態床を倉えようずした。トランス・アクティビズムだっお、トランス問題をめぐる科孊の発展に䌎っお、こうした面に焊点をあおるこずはできたはずだ䞀䞀クィア〈理論〉が積極的に普遍的や芏範的なものをすべお打砎しようなどずしおいなければ※ 芁は、クィア理論は、リベラリズムの「同じ人間じゃないか」ずいう「思いやり」を䞍可胜にした。
     ずころがクむア〈理論〉は䞀䞀※ それたでの方法をダメにしたわりにはたったく圹立たずなこずに䞀䞀性、ゞェンダヌ、セクシュアリティの抂念そのものを修正たたは解䜓させようずするので、倉えようずしおいる圓の瀟䌚の人々の倧半には䞍可解で※ 意味䞍明な戯蚀ずしおどうでもいいものに思われおしたい、ヘタをするずそうした人々から積極的に敬遠されおしたいがちだ。クむア〈理論〉に䟝拠したクむア掻動家たちは、※ 自分たちの芋方が絶察に正しいずいう異様なほどの傲慢さず攻撃性䞀䞀ほずんどの人にずっお容認しがたい態床䞀䞀で掻動しがちで、しかも特に暙準的セクシュアリティずゞェンダヌを嘲り、それ※ その無䜜法ず傲慢さを指摘する人々を埌進的で※ そっちこそが無䜜法だず蚀い぀のる。人は䞀般に自分の性、ゞェンダヌ、セクシュアリティ※ などの自認が本物ではないずか、たちがっおいるずか、よくないものだず蚀われるのを快く思わない䞀䞀これはクィア〈理論家〉たちが誰よりもわかっおいるはずのこずなのだが。』P137〜138

    この郚分が、北村玗衣にどう関係しおくるのかずいうず、私は北村玗衣の「フェミニズム批評」は、「察象の䞭に、無理にでも男の差別意識を芋぀けるだけのワンパタヌン」でしかなく、「そのほかずいえば、せいぜいクィア批評などに蚀及するが、それも腐女子的な芖点から男性同士のむチャむチャ関係を劄想する皋床のものでしかない」ず指摘しおきたのだが、ここで、どうしお北村玗衣が、本栌的な「クィア理論」の玹介をしないのかず蚀えば、単にそれをよく知らないずいうのではなく、クィア理論を正確に玹介しおしたうず、北村玗衣の䟝っお立぀ずころの「ゞェンダヌにおける男女二元論」が、クィア理論によっお盞察化されおしたい、「被害者である女性の立堎から、自明な加害者だず決め぀けた男性を、問答無甚に批刀する」ずいうこずが出来なくなっおしたうから、ずいうこずなのであろう。

    ぀たり、北村玗衣のような「叀くさいフェミニズム」の「叀くささ」ずは、自分の「匱者ずしおの優䜍なポゞション」を揺るがさないように、「ポストモダン」的な「クィア理論」は拒絶するずいうこずなのである。
    芁は、「真実ずは䜕なのか」ずいう本質問題には興味がなく、「どういう考え方を採れば、自分が埗なのか」しか考えおいない、ずいうこずなのだ。

    したがっお、北村玗衣の「フェミニズム」ずいうのは、「応甚ポストモダニズムの展開」のひず぀らしく、「自分に郜合のよい郚分だけを切り取っお利甚するだけで、䞻匵の䞀貫性など気にしない」ものなのだ。
    「男たちの蚀動に぀いおは、過剰解釈的なたでに深読みをしおあら探ししお泚文を぀ける」のに、「自分の蚀動」に぀いおは「私は匱者で被害者だから」ず「自己免責」しおしたっおいる、ずいうこずなのである。
    䞀䞀たったく、「北村玗衣のフェミニズム」ずは、斯くも幌皚か぀アホくさい「頜萜したフェミニズムの残骞」だず、そう呌ぶべきものなのだ。

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    そんなわけで、本曞は、昚今流行りの「正矩の味方ぶったあら探し」が「どこから来お、䜕をしおいるのか」ずいうこずを、よく説明しおくれおいる。

    著者自身の「匱点」ずしおの「ポストモダニズムに察する無理解ず、それに由来する認知の歪み」はあるにせよ、いろいろず教えられるずころがあっお、ずおも面癜く勉匷にもなった。

    本曞の内容を「鵜呑みにしおはいけない」が、「わかりやすい参考曞」ずしおは、匷くお薊めしおおきたいず思う。


    2024幎12月11日


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    ※ 北村玗衣は、Twitterの過去ログを削陀するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべお削陀させおいる。䞊の「たずめのたずめ」にも90本以䞊が収録されおいたが、すべお「削陀」された。そしお、そんな北村玗衣が「Wikipedia」の管理に関わっお入るこずも呚知の事実であり、北村玗衣の関わった「オヌプンレタヌ」のWikipediaは、関係者名が䞀切曞かれおいないずいうず異様なものずなっおいる。無論、北村玗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、倚数にのがるだろう。


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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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