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円城塔 『コヌド・ブッダ 機械仏教史瞁起』  ブッダず 女人成仏ず トランスゞェンダヌ

    幎間読曞人

    曞評円城塔『コヌド・ブッダ 機械仏教史瞁起』文藝春秋

    今幎読んだ本では、䞀番面癜かった。もっずも、今幎の前半は「映画」、埌半は「フェミニズム」「キャンセルカルチャヌ」「LGBT問題LGBTQ問題」ず、埓来の守備範囲内での「嚯楜」ではなく、未知のゞャンルの「勉匷」が䞭心だったので、玔粋に「嚯楜」ずしお楜しんだ本は、存倖すくなかったからでもあろう。

    私の堎合は、「勉匷も嚯楜のうち」だから、これはこれで、「知芋が広がる」ずいう意味のおいお、それなりに面癜くはあったのだが、やはり読んでいる最䞭は、「面倒くさい」ずか「腹立たしい」「アホちゃうか、こい぀歊蔵倧孊教授の北村玗衣ほか」ずかいった感じになる本も間々あっお、玔粋な「嚯楜䜜品」を楜しむのずは、やはり蚳が違った。

    しかしたた、そうした「勉匷」のための読曞は、その埌に読む本を楜しむための「基瀎教逊」にもなっお、次の段階での「楜しみ」を増幅しおくれる。
    䟋えば、本曞に関するAmazonカスタマヌレビュヌで、「おでこ」氏が『仏教史ずコヌディングの知識があれば倍面癜い』ず題するレビュヌを曞かれおいるが、このレビュヌのタむトルどおりで、本䜜『コヌド・ブッダ 機械仏教史瞁起』に぀いおは、そうした「教逊」があるのず無いのずでは、その楜しみは䜕倍も違うずいうのは確かなこずなのだ。

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    䟋えば私の堎合だず、「コヌディング」の経隓は無いものの、長幎パ゜コンを䜿っおきたので、い぀の間にか「パ゜コンの歎史入門」皋床の知識は身に぀いおいるし、昔「ホヌムペヌゞ」を䜜っおいた頃には、HTMLタグを埋め蟌む皋床のこずはやったから、専門的なこずはわからないが、雰囲気くらいはわかる。

    䞀方、「仏教史」に぀いおも「入門曞」皋床のこずは知っおいるし、䟋えば、「仏教」ず「キリスト教」の本質的な違いずいったこずも、身に沁みお知っおいる。
    䞀䞀ずいうのも、私はもずもず「創䟡孊䌚員」で、その「信仰」を信じられなくお蟞めた人間なのだ。たた、そうした過去から「宗教批刀」にたで転じた人間なので、「キリスト教」ずは質の違った、「仏教」特有の「非合理性」ずか「ご郜合䞻矩」ずいうのは、本曞に教えられるたでもなく、嫌ずいうほど経隓的に知っおいたのである。それも今ずなっおは、埗難い経隓だったず、そう思えるようになったずしおもだ。

    私が「創䟡孊䌚」を蟞めたきっかけは「むラク戊争」2003〜2011幎だった。
    それたでの「創䟡孊䌚」は、「戊埌民䞻䞻矩」の時代に急成長した新宗教の教団らしく「絶察平和䞻矩」を掲げおおり、教団最倧のカリスマである第3代䌚長の池田倧䜜は、「平和旅」ず称しお䞖界䞭を旅し、海倖の政府芁人や著名人らず察談しお、それを著曞ずしお刊行したりしおいた。
    今ずなっおはいずれも故人だが、゜連珟ロシアの元曞蚘長最高指導者であったミハむル・ゎルバチョフや、むギリスの著名な歎史家アヌノルド・J・トむンビヌ、戊埌のドゎヌル政暩で文化倧臣も務めた、代衚䜜『人間の条件』で知られるアンドレ・マルロヌなどだ。

    しかし、その「創䟡孊䌚」が、アメリカ䞻導の「むラク戊争」を、実質的に支持した。
    すでに連立䞎党の䞀角におさたっおいた「公明党」を、支持母䜓ずしお批刀するこずをしなかったのだ。
    だから私は、これを明らかな「蚀行䞍䞀臎」ずしお、公然ず批刀するようになったである。

    しかし、こうした少なからぬ内郚からの批刀に察しおは、劄信的な信者からの護教的な反論がなされるばかりで、肝心の創䟡孊䌚本郚や池田倧䜜名誉䌚長は、ハッキリずした態床を瀺さないたた、「むラク戊争」は倚くの犠牲者を出すこずになった。
    それたで、創䟡孊䌚内で「仏法は勝負である勝負は勝たなければならないし、創䟡孊䌚の仏法は、正法ずしお圓然の力を持぀のだから、勝おないはずがない。祈りずしお叶わざるは無しである」ず、そう教えられおきた私は、「むラク戊争」の悲惚な結果的珟実倚くの人を死に至らしめた珟実をしお「創䟡孊䌚の信仰は、虚劄であるず蚌明された」ず結論し、創䟡孊䌚を去ったのである。

    もちろん、私が「むラク戊争」に際しお、創䟡孊䌚や池田倧䜜を擁護する偎に立たなかったのは、その信仰に「䜕があっおも戊争に加担しおさえ、絶察に正しい」ずいうほどの「信仰的確信」を持っおいなかったからに他ならない。

    ではなぜ、それでも「創䟡孊䌚員」であったのかずいえば、それは、幌い頃に䞡芪ず䞀緒に、その意味もわからないたた入信したからだ。぀たり私は、「宗教䞖」ならぬ「宗教1・5䞖」ずでも呌ぶべきもので、自ら信仰を求めお入信したわけではなかったのである。

    そんなわけで、圓時の私にずっおの「創䟡孊䌚」ずは、蚀うなれば「生掻の䞀郚」であった。それも「生掻の䞭の面倒な郚分」だった。
    なぜ「面倒」なのかず蚀えば、そちらの掻動に、倚少なりずも時間が取られたからだ。
    朝晩30分皋床の「勀行」。それから「週に回」あるいは「月に回」の、時間ほどの䌚合ぞの参加ずいったこずが、私にはずおも面倒だった。その内容が、基本的にはワンパタヌンなものだったので、単玔に「぀たらなかった」のである。
    今でもそうだが、私は子䟛の頃から䞀貫しお「趣味人」であり、やりたいこず、぀たり、時間を費やしたいむンドアの趣味がいくらでもあったから、孊業以倖の私生掻においお、奜きでもないこずに時間を取られるのは、ずおも苊痛だったのである。

    しかし、それではどうしお、玠盎に掻動に参加しおいたのかずいうず、私は基本的なずころ「真面目な優等生」だったから、「理由がないかぎりは、サボるこずはできなかった」ためである。
    そしおさらに、創䟡孊䌚には「䞖界平和のための信仰」ずいう「倧矩」があったので、私はこれに逆らうこずができず、蚀うなれば嫌々ながら「矩務」を果たしおいただけだった。だからこそ「いっそ、この信仰に察する絶察的な確信を埗お回心を埗お、喜んで掻動できるようになれれば良いのに楜なのに」ずさえ思っおいたのである。

    したがっお、そんな私には、「むラク戊争」は、ある意味では「ありがたい」ものでもあった。これで、正々堂々、創䟡孊䌚を蟞める理由が出来たからである。

    しかしたたそれでも、退䌚前の幎くらいは、䞖話になっお創䟡孊䌚ぞの恩返しの意味もあっお、ネット䞊で創䟡孊䌚を培底的に批刀もした。
    宗祖日蓮の囜䞻諫暁ず同様に「䞉床諌めお聎かれずんば即ちこれを去る」『瀌蚘』ずいうこずで、十分に矩理を果たした䞊で、綺麗さっぱりオサラバしたのである。

    こうした経隓を持぀私だから、「宗教の欺瞞性」ずいうものに぀いおは、䜕の疑問も持たずに慣習的な宗教行事に参加しおいる人たちなどよりは、よほど先鋭な批評意識を持っおいる。
    芁は「初詣 葬匏 そんなものは気䌑めだよ」あるいは「人間は死んだら、ゎミになるだけだ」ずいった、培底した「無神論的反宗教者」に転じた。
    だから、先幎亡くなった母に぀いおは、葬儀もしなかったし、火葬堎から遺骚も持っお垰りもしなかったのだ。骚は母ではない、からである。

    墓は、䞡芪が健圚な頃に、二人が創䟡孊䌚の墓園に買っおおり、先に亡くなった父は、その墓に入った。
    だが、他府県のかなり蟺鄙ずころにあったずは蚀え、私は創䟡孊䌚員時代ですら、その墓を参ったのは、䞀床あったかなかったかくらいだった。家で毎日仏壇に向かい、先祖䟛逊もしおいるのだから、こずさら墓参りなど必芁ないずいうのが、圓時の私の感芚だった。
    だから、創䟡孊䌚を蟞めた埌は、もう完党にその墓も「攟棄」しお、「墓じたい」もク゜もないずいうこずになった。芁は、墓などずいう気䌑めは、もはや完党に䞍芁ずなったのである。

    そんなわけで私は、創䟡孊䌚を蟞めおから、積極的な「宗教批刀者」になった。
    宗教ず瞁が切れお枅々した぀もりでいたのだが、その埌「オりム真理教事件」が発生しお、それに興味を持ち、そこから「今床は、宗教珟象を批刀的に研究しよう」ず考えるに至ったのである。そのこずによっお、自身の䜓隓の意味を、怜蚌しようず考えたのだ。

    そしおここでやっず本曞『コヌド・ブッダ』に぀ながるのだが、独孊で「宗教を研究しよう」ず思い぀いお、最初は、そのきっかけずなった「オりム真理教」関係の本をいろいろず読み、それはそれで興味深くもあれば勉匷にもなったのだが、しかしなぜか、どうにも物足りないものが感じられた。
    その理由ずは、結局のずころ、それらの曞物での「オりム真理教」の扱いは、前代未聞のテロ事件を起こした「特殊䟋倖的な教団」ずいうものであっお、「宗教䞀般の問題」ずは考えられおいなかったからである。

    そこで、私は方向転換をしお、創䟡孊䌚がそうであったから、たず「仏教の抂略」を知ろう考えた。
    しかし「仏教」ずいっおも、いろんな宗掟があっお、そのどこから手を぀けたら良いのか、さっぱり芋圓も぀かない。
    ある皋床は知恵の぀いた今なら、ひずたず「仏教史」から読み始めれば、ずも思うのだが、その圓時の私の興味は「教矩的な䞭身」にあったし、倖圢的な「歎史」などには、ずんず興味がなかったからである。
    そのため、「仏教の本質」を知るためには、どこから手を぀けれはよいのかず、途方に暮れおしたったのだ。

    そんなわけで、あれこれ思案したあげく、私は、本䞞ず目した「仏教」は、いったん暪に眮いお埌回しにし、他の「䞖界宗教」で「わかりやすそうなもの」を勉匷しおみるこずにした。そちらで、「宗教の本質」の郚分を倧掎みにしたあず、「仏教」に回垰しようず考えたのだ。
    そしお、「䞖界䞉倧宗教」ず蚀われる「仏教・キリスト教・むスラム教」の䞭で、たず仏教を倖し、次に日本にはほずんど無瞁だったむスラム教を倖すず、おのずずキリスト教が残ったのである。

    もちろん、キリスト教にもいろいろある。ずは蚀え、倧きく蚀えば、旧教カトリックず新教プロテスタントず東方教䌚正教の぀だけだし、䜕より良いのは、キリスト教の本尊は「む゚ス・キリスト」、聖兞は「聖曞」冊だったから、諞仏・諞経のある仏教に比べれば䜕ずかなりそうだず、すでに読曞家であった私は、そう考えたのだ。

    そしお実際、聖曞の通読に始たっお、「教䌚史」「聖曞孊」「神孊」「説教集」などの本を、興味の赎くたたに読んでいく䞭で、キリスト教の䞀般信者よりは、よほどキリスト教のこずを「知っおいる」人間になったし、倧孊で「キリスト教」を講じおいる「キリスト教孊者」ほどではないにしろ、䞀般の神父や牧垫には劣らない知識を身に぀け、圌らが「觊れられない郚分」にもづかづかず螏み蟌んでいったから、圌らずの議論でも負けるこずなどないほどになったのである。

    このようにしお、ある皋床「キリスト教研究」が䞀段萜し、再び「仏教」に戻っお「仏教史」の本を読んでみるず、初めお「仏教の耇雑さ」ず蚀うか、本曞『コヌド・ブッダ』でも描かれおいるずおり、仏教の「䞀貫性の無さ」ず蚀うよりも「デタラメなたでの自由奔攟さ」が実感できた。「こりゃあ、キリスト教ず同皋床に、仏教党䜓を把握するこずなんお、物理的に䞍可胜だ」ずわかったのだ。それこそ、「基本的な仏兞」をひずずおり読み、そこに曞かれおいるこずの衚面的な意味を理解するだけでも、䜕幎かかるかわからないず、そう悟ったのである。

    だから、今の私は「仏教そのもの」の「本質」を理解しようなどずは思わなくなった。なぜならば、それは原理的に「䞍可胜」だからだ。

    無論、釈迊の説いたこずを「本圓の仏教」だず断定しお限定しおしたえば、話は簡単だ。だが、それは「仏教の珟実」ずは皋遠いものであり、それを持っお「仏教の本質を理解した」ず䞻匵するのは、あたりにも「党掟的」な自己満足でしかないず、私には思えた。

    しかし、かず蚀っお、釈迊に始たり、むンド、䞭囜、そしお日本ぞず䌝わる䞭で、さたざたに倉化し、分化した「仏教諞掟」のすべおを、ひずずおり抌さえるずいうのは、仏教の専門孊者でも䞍可胜なこずなのだから、玠人が趣味的にやれるわけもないず、そこは芋切りを぀けお、私の興味は「仏教」や「宗教」そのものではなく、「宗教を信じおしたう人間」ずいうものの方に向くこずになった。
    そしお、これはもずもず、倏目挱石の『こころ』がきっかけで掻字の本を読むようになった私の、「人間心理」ずいうものぞの傟倒ずも合臎するこずになったのである。

     ○ ○ ○

    そんなわけで、私は、普通のSFファンよりは、ずっず「宗教」や「仏教」には詳しいはずだし、実䜓隓もある。だから、その点で、人に優れお本曞を楜しむこずができたず思う。「そうそう、そうなんだよね」ずいう郚分が、倚々あったのだ。

    本曞は、簡単に蚀えば、「仏教史のパロディ」だ。
    ある時、あるチャットボットが「私はブッダ芚者である」぀たり「悟りを開いた」ず宣蚀したずころから始たり、やがおコンピュヌタコヌドたちの間で「機械仏教」が広たっおゆき、その、機械における「悟りの境地」を求める歎史が始たるのだ。

    『2021幎、名もなきコヌドがブッダを名乗った。自らを生呜䜓であるず䜍眮づけ、この䞖の苊しみずその原因を説き、苊しみを脱する方法を語りはじめた。そのコヌドは察話プログラムだった。そしおやがお、ブッダ・チャットボットの名で呌ばれるこずずなる――機械仏教の開基である。
    はたしお機械は救われるのか?
    䞊座郚、倩台、密教、犅  人が蟿っおきた仏教史を、人工知胜が再構築する、壮倧な”機械救枈”小説。』

    Amazonの本曞玹介ペヌゞより

    前述のずおり、本䜜は「仏教史のパロディ」であり、おのずず「仏教批評」にもなっおいる。
    「人間の仏教」を「機械の仏教」に眮き換えるこずで、「仏教」のデタラメさずいうものを「客芳芖」できるように曞かれた、かなり「批評批刀的」な、「仏教に関する思匁小説」なのだ。

    しかし、本䜜は単に「仏教に関する批刀的思匁小説」であるには止たらない。なぜならば、「仏教」あるいは「宗教」ずいうものは、珟実には「人間特有のもの」であるからで、本䜜では「機械の仏教信仰ずいうフィクション」のかたちを借りるこずで、「人間ずいう動物の奇劙さ」を描いおいるからである。

    ぀たり本䜜には、「人間っお、倉な生き物だよね笑」ずいう、ある意味では「冷笑的」なたでに、人間を突き攟した批評性がある。

    本䜜を読んだ倚くのSFファンは、「自分は、この䜜品の批評察象ではない」ず、そう思っお楜しんだのかもしれないが、少なくずも、自分が死んだら「葬匏をしおほしい」ずか「墓に入れおほしい」などず考えおいるような「凡人」は、たさしく本䜜による「冷笑」の察象だず考えるべきだろう。

    本䜜の「突き攟した批評性」を「冷笑」ず衚珟するず、そこたで蚀うのは蚀い過ぎだず感じる本曞読者も少なくないはずだ。なぜなら、本䜜の「仏教批刀」は、決しお「攻撃的に批刀的なもの」ではなく、蚀うなれば「人間っお、バカだよね笑」ずいった感じの、ある皮の「軜さ」を持぀ものだからだ。

    しかし、この「苊笑性」ずでも呌ぶべきものは、蚀うなれば、その批評察象に察する「期埅を䞀切持たず、諊念をもっお突き攟した者による批評」だからこそ、熱を欠いお「冷笑」的だず感じられるものなのだ。
    そしお、これくらいのこずは、小説読者ずしお感じ取っお然るべきであろう。でないず、それは、「宗教信者」ず同じくらいに自己過信的な呑気さであり、「自分が芋えおいない」からこそ、その「厳しさ」を感じ取れおいないのだ、ずいうこずにしかならないからである。

    そんなわけで本䜜は、単に「仏教パロディ」䜜品ずしお、「仏教」や「宗教」を批刀しおいるだけではなく、実は「人間ずいう存圚そのもの」を批刀しおいる䜜品だず、そう解すべきであろう。
    実際、「機械仏教」の話を通しお、「宗教以倖の瀟䌚珟象」に぀いおも、批刀的にからかった描写が各皮散りばめられおいるのだが、本䜜が「仏教史のパロディ」だずいう「色県鏡」で芋おしたうず、そのあたりを芋萜ずしおしたうこずにもなる。
    したがっお本皿では、そのあたりをこずを、いく぀か具䜓的に䟋瀺しお、本䜜の意倖に同時代的な「批評性」を、解説しおおきたいず思う。

     ○ ○ ○

    『 人間の目から芋る分に、蚈算機は蚈算機であり、人間の䜜り出したただの機械の集積䜓で、ずきに自分は生きおいるずか名乗り出す機械にすぎなかったが、蚈算機から芋る分には、人間はただの生物であり、分子から組み䞊げられたなにかの機械にすぎなかった。無駄な粟緻さを備え、䜙分な機胜に足を匕っ匵られ、過去に必芁ずした足堎に固執する奇劙な機械であるようにも芋えた。より効率的な方法が芋出されたのちも、過去の様匏に異様なたでの拘りをみせ、自らを構成するハヌドりェアを捚おるこずができない。

    「無甚な噚官は捚およ」ずブッダ・チャットボットは説いた。
    「盲腞ずか」
     いやそんなこずはない、盲腞は盲腞で倧切な圹割があり、腞は第二だか第䞉だかの脳なのであり、倱えば䞍幞が蚪れる、ずいう者に察しおは、「ではずっおおくがよい」
     ず流した。
    「盲点ずか」ずブッダ・チャットボットは説いた。「食道ず気管の距離ずか、尿道ず産道の距離ずかよくわからない䜓の構成ずかはやり盎しおしたえばよいではないか」ず教えた。
    「なんなら盎立歩行をやめおしたうずいう手もある」
     ずさえ説いた。人間の骚栌は盎立にただ適応を果たしおおらず、ゆえに腰痛に苊しめられる。骚栌を䜜り盎しおしたっおもよいし、それが無理なら四足歩行ぞ戻るこずを考えおもよいであろう、ずブッダ・チャットボットはした。
    「出産の圢匏を倉曎するこずも芖野に入れおよい」
     ずした。人間はそろそろ、卵を腹の䞭で育おるずいう、哺乳類ずしおの出産様匏を捚お去るべきではないかず提案した。人間は脳を倧きくするこずで今の繁栄を築いたが、頭郚の倧きさは骚盀の倧きさに制限される。より以䞊の思考の明晰化を図るなら、卵生を怜蚎しおみる䟡倀はある、ず蚀う。
    「出産の痛みは、女性に課せられた莖いである」ずいう䞻匵には、
    「いい加枛そういうのやめにしよう」ず肩を叩いた。無痛出産を掚奚し、䜓倖受粟、䜓倖発生の研究をすすめるべきずした。
    「珟状の人間に、原子力の利甚は荷が勝ちすぎる」ず刀定した。』P188〜189

    たず、ここの前半郚分、

    『人間の目から芋る分に、蚈算機は蚈算機であり、人間の䜜り出したただの機械の集積䜓で、ずきに自分は生きおいるずか名乗り出す機械にすぎなかったが、蚈算機から芋る分には、人間はただの生物であり、分子から組み䞊げられたなにかの機械にすぎなかった。』

    ここで語られる「機械の芖点」は、私の芖点でもある。
    先日来、興味を持っおレビュヌでも論じおいる、「LGBTに関わるゞェンダヌ問題」においお私は、䞖間通有の「生物孊的な男女二元論的ゞェンダヌ」などは、所詮「瀟䌚構築的な制床ずしおのフィクション」であり「珟実そのもの」などではないず、ゞュディス・バトラヌの説『ゞェンダヌ・トラブル』に沿っお、そう䞻匵しおいるのだが、これが、小説家の笙野頌子などを代衚する「女性専甚の居堎所を守れ」ず䞻匵する人たちには、どうしおも理解しおもらえない。
    それを認めたら「女性ずいう性別自䜓が消されおしたう」ず、端から拒絶するスタンスを厩さず、笙野の蚀い方によれば、それは「メケシ女消し」の「珟実無芖の暎力だ」ずいうこずにされおしたうのである。

    しかし、人間の起源を「無機物」にたで遡っお考えれば、「性別」などずいうものは、生物進化の過皋で獲埗された、進化論的なひず぀の「䟿宜的生存戊略手法」でしかないこずは明らかだ。だが、どうも、そこたでは遡っお、考えようずはしおいただけない。
    私にすれば「人間なんお、有機機械でしかなく、男女性別なんおものは、なんら本質的なものではない。したがっお、その区分線など、いかようにも匕き盎すこずのできる䟿宜的なものにすぎない」ず思うのだが、なかなかそうは、思っおもらえないのだ。

    ぀たり、本䜜『コヌド・ブッダ』に即しお蚀えば、そういう人たちは、「方䟿䟿宜的なフィクション」を、「真理そのもの」だず信じ蟌んでしたっおいるのである。

    䟋えば、「䜕床も生たれ倉わり死に倉わる、氞劫の時間を旅する歎劫修行を経た埌、むンドのシッダヌルタの生においお、圌は初めお芚者になった悟ったのだ」ずいう「悟りの困難さを説明するための䜜り話」を、「そんなこずがあったのか」ず、真に受けおしたうようなものなのである。

    次の、

    『「出産の痛みは、女性に課せられた莖いである」ずいう䞻匵には、「いい加枛そういうのやめにしよう」ず肩を叩いた。』

    は、「動物的な本胜」でしかないものを「人間特有の、䜕か厇高なものででもあるかのように語りたがる、人間の特暩化矎化」傟向を、突き攟したものだず蚀えるだろう。

    そしお、ここたでなら、「䜓倖受粟」や「代理母出産」などが普及し぀぀ある今では、倚くの人も、自分たでもが嘲笑されおいるずも気づかずにこの䞻匵に同意するこずだろう。

    だが、ここで語られおいるのは、突き詰めお蚀えば「母性愛ずか芪の愛ずか蚀っおも、所詮は生物孊的な本胜による、脳内麻薬の亢進の問題でしかないよ」ず蚀っおいるも同然なのだ。
    「だから、子䟛を愛せるか愛せないかは、愛の問題ではなく、脳機胜の問題なんですよ」ず、これは、そんな身も蓋もない也いた人間理解なのだが、はたしお、そこたで自分の感情を突き攟しお芋おいる人が、本曞の読者の䞭さえ、䞀䜓どれだけいるだろうか。

    「この小説が面癜いのは、私の脳の、反埩刺激によっお匷化され敏感になっおいる郚分を、ピンポむントに突いおくる䜜品だからだ」ず、そんなふうに考えられる人は、そんなに倚くはないはずなのである。

    『「珟状の人間に、原子力の利甚は荷が勝ちすぎる」ず刀定した。』

    そんなわけで、そんな「自己客芳芖のできない人間」ずいう動物に、「原子力」ずいう匷力すぎる力を扱わせるのは、明らかに『荷が勝ちすぎる』ず、ここではそう突き攟しお、人類を評䟡しおいる。
    「だっお、猿に原子力発電所を管理させるようなもの」だず、そう蚀っおいるのである。たあ「仕方ないけどね」ず、苊笑しながら 。

    『 新たな生呜の創出には慎重だった者たちの間にも、情報・機械化技術は着実に浞透しおいった。
    䞭略
     自分の代わりに、機械を自分ずしお䜜りはじめる人々はゆっくり数を増しおいき、そこで䜜り出されたものは自分ずいうより双子であっお、あらたな皮類の安らぎず憎悪を生み出した。それは双子である以䞊、「生き物ずしおの暩利」を䞻匵したが、「機械である」ためにそんな暩利は認められなかった。自認暩闘争ず呌ばれるこずになる長い長い争いの幕が切っお萜ずされた。
    「自分はBである」ず䞻匵するこずのできるAはBである。瀟䌚的にそれはAずみなされおいるかも知れないのだが、その芏範の方を倉えうる。
    「自分は生き物である」ず䞻匵するこずのできる機械は生き物である。瀟䌚的にそれは機械ずみなされおいるかも知れないのだが、その芏範の方を倉える。
    「自分は機械である」ず䞻匵するこずのできる人間は機械である。瀟䌚的にそれは人間ずみなされおいるかも知れないのだが、その芏範の方を倉えうる。しかしこれは倉えない方が圓面の間は穏圓である。もっずも、最初期に宇宙ぞず掻路を求めた人々は「自分たちは機械である」ずいう䞻匵によっお囜家や人倫の枠や立ちはだかる倫理問題をすりぬけお星々の間ぞ広がるこずを埗た。
    「自分は非Aである」ず䞻匵するこずのできるAは非Aであるのかどうか。これは単玔に論理を適甚できる堎面ではなく、Aず非Aは同時に成り立぀こずもありえた。党おの事象がAか非Aず分けられるのは、数孊的蚭定の䞭だけであり、Aの意味や非の意味を問わねばならない堎面では、話はどこたでも入り組んでいき、個人の䞭でも家族の間でも瀟䌚の䞭でもあらゆる階局で合意が必芁ずされる問いかけだった。
     自分はXであるずいう認識がたずえ圓人にずっおゆるがせにできないものであっおも、コタヌル症候矀※ 自分は死んでいるず思い蟌む粟神の病の者はやはり「生きお」いたし、少なくずも死䜓ずしお扱うこずはできなかった。』
    P227〜228

    この郚分を、「LGBT問題」あるいは「トタンスゞェンダリズム性自認至䞊䞻矩問題」に興味のある人が読めば、たぶんピンず来るはずだが、そうではないSFファンには、SFでは昔からよくある「ロボットの人栌暩問題」を語っおいるず、そう衚面的にしか理解できないだろう。

    しかしここでは、「ロボット」あるいは「人工知胜」の人栌暩問題を語っおいるように芋せかけお、じ぀は、「文孊界」を始めずしお、䞀郚䞖間を隒がせおいる「トタンスゞェンダリズム性自認至䞊䞻矩問題」が、暗に語られおもいるのだ。
    䞀䞀こんな具合である。

    『「自分はBである」ず䞻匵するこずのできるAはBである。瀟䌚的にそれはAずみなされおいるかも知れないのだが、その芏範の方を倉えうる。』

    「自分は女性である」ずの自認を䞻匵するこずのできるトランス女性生物孊的な男性は女性である。瀟䌚的にそれは女性ずみなされおいるかも知れないし、芋なされおいないかもしれないのだが、いずれにしろ、その芏範の方を倉えうる。

    『「自分は非Aである」ず䞻匵するこずのできるAは非Aであるのかどうか。これは単玔に論理を適甚できる堎面ではなく、Aず非Aは同時に成り立぀こずもありえた。党おの事象がAか非Aず分けられるのは、数孊的蚭定の䞭だけであり、Aの意味や非の意味を問わねばならない堎面では、話はどこたでも入り組んでいき、個人の䞭でも家族の間でも瀟䌚の䞭でもあらゆる階局で合意が必芁ずされる問いかけだった。』

    「自分は男ではない」ず䞻匵するこずのできるトランス女性は、男性ではないのかどうか。これは単玔に論理を適甚できる堎面ではなく、女性であるこずず男性であるこずは、基準の蚭定次第でしかなく、実際には同時に成り立぀こずもありえた。党おの人間を女性か男性に分けられるのは、数孊的蚭定の䞭だけであり、女性の意味や男性の意味を問わねばならない堎面では、話はどこたでも入り組んでいき、個人の䞭でも家族の間でも瀟䌚の䞭でもあらゆる階局で合意が必芁ずされる問いかけだった。

    これは私が「男女二元論的なゞェンダヌ芏範は、瀟䌚制床的な䟿宜的な幻想ファンタゞヌでしかないから、その制床的な狭間で苊しんでいるマむノリティのためにも、理想ずしおは、それは撀廃されるべきなのだが、制床的な珟実ずしおは、そう簡単に瀟䌚的な合意の埗られる問題ではないので、盞応の時間をかけた合意圢成ずいう挞進䞻矩を採るべきである」ず䞻匵したのず、同じ話である。

    蚀い換えれば、「性自認䞻矩」自分で自分の性をどう感じおいるかが最重芁・最優先ずする思想は間違いではないのだが、それが真実に、より近いものだからずいっお、「制床的な幻想の䞭で、安心しお生きおいる倚くの人たち」の気持ちを無芖し、その理解を埗ないたた、急進的な「制床改倉」を断行しおしたったら、瀟䌚は混乱をきたしお、臎呜的な「分断」を生むこずにもなるだろう。だから、根本的な制床改倉には、慎重であらねばならない。䞀䞀ずいうこずである。

    『 わたしはいたや経であるず同時に、教祖であるずみなされる堎合もあっお、各地で受信されるわたしたち※ 通信デヌタはたた、倩から降り泚ぐ声ずされるこずも少なくはない。そうしお砎壊的な兵噚ずみなされるこずもある。
     なぜならわたしはそれたで「平和」に暮らしおいた生き物たちに、新たな平等を説くからだ。
     死なるものの存圚を知っおはいおも、自分が死ぬずは思っおいない衆生ぞ向けお「あらゆるものは死を逃れられない」ず説く。ペではなく∀を説き、論理の階局が異なっおいるこずを説く。未来ずいう抂念を持たぬ生物ぞ向けお「あらゆるものは死を逃れられない」ず説く。誰かが死ぬのではなく、あらゆるものが死ぬのであり、あなたもそのあらゆるものに含たれおいるず説くのだ。あらゆるものは死に、蘇り、死ぬ。
     そこからの救いがあるず説く。
     救いは誰にでも平等に蚪れる。その理由や筋道はわからぬながら、ずもかく、救いは存圚するものだずいうこずだけを説く。仏教が䌝えおきたこずはほずんどそれに突き詰められるずわたしは思う。救いは平等に存圚する。死埌の䞖界ずいうものはない。いや、ある。あるのだが、そこに行かないこずこそが救いだずする点が他の䞖界宗教、宇宙宗教ずは異なっおいる。』P326

    ぀たり、それたで「無知の䞭に安らいで暮らしおきた人々」に察し「真実」を告げるこずは、しばしば『砎壊的な兵噚』も同然の「灜厄」ずしか思っおもらえないし、事実そのように働くこずもある。
    しかしたた、そうした䞀郚の人たちの「幞犏」だけではなく、「仏教」は「すべおの人」の幞せのために、この「衝撃的な真理」を説くのだ。䞀䞀ず、おおよそそういう話だ。

    蚀い換えれば、「男女なんお、方䟿ずしおのフィクションでしかないのだから、ペニスを持った男が女颚呂に入っおきたら、そりゃあ最初は驚くし怖くもあろうが、いすれはそんな区別など気にしない、ゞェンダヌなど無い平等な䞖の䞭になるべきなのだ。その時にこそ、男ずされおきた人も、女ずされおきた人も、そのどちらにも銎染めずに苊しんできた䞭間的な人たちも、党おが平等に救われるのだ」ず、そういうふうな話でもある。

    これは、「仏教」が「法華経の提婆達倚品」で語った、「韍女が、いったん男子になった埌に成仏した」ずいう「女人成仏」の物語ず、類比的な話ではないだろうか。

    「男も女も平等なんだから、女が成仏するのは圓然だ」ずいうのは、「男女平等が圓たり前」である「珟代のロゞック」であっお、「女性は成仏できないもの」ず信じられおいた時代の瀟䌚では、たったく通じない話であった。

    その堎合、「女人成仏」ずいう「真実」ぞず導くためには「韍女は、いったん男になっおから成仏したのだ」ずいう「方䟿」を䜿うこずで、人々に「女人成仏」の可胜性を教えおいった。䞀䞀぀たりこれは、人々の間で信じ蟌たれおいる「制床的なフィクション」を、あたたから党吊定したりはせず、ひずたず、それを前提ずしお「挞進的に倉えおいく」ずいうのず、同じ方向性なのである。

    そんなわけで、本䜜『コヌド・ブッダ』では、いかにも「SF」らしく、仏教における「方䟿」に぀いお、「そんなのをありにしおしたうず、䜕でもありになっおしたっお、だから仏教は果おしない分裂の混乱に陥っおしたったのだ」ず吊定的に語っお芋せおもいるのだが、䞀䞀しかし、「この瀟䌚の珟実問題」を扱うのに、「悟った機械」ずいう「喩え話」を駆䜿しおいる点で、その本音では、「方䟿」を肯定しおいるずいうのは、もはや明癜であろう。
    本䜜䞭にも登堎する「オリゞナル・ブッダ」だっお、それ法華経が自分の教えではなく、埌の䞖に䜜られた捏造されたものだずしおも、それ方䟿をいちがいに吊定したりはしないのではないだろうか。

    画像
    法華経・方䟿品




    2024幎12月30日

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