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島田裕巳 『䞭沢新䞀批刀、 あるいは 宗教的テロリズムに぀いお』  䞭沢新䞀の危険性ず 〈いた〉

    曞評島田裕巳『䞭沢新䞀批刀、あるいは宗教的テロリズムに぀いお』亜玀曞房

    䞭沢新䞀の曞くものは、面癜い。
    䞭沢の䟡倀はそれに尜きる、ず蚀っおも良いだろう。

    䞭沢新䞀の本を読むず「䞖界が違っお芋える」。䜕か「この薄汚れた䞖界の倖偎に出られるような、䞖界をひず皮めくっお枅新な本質に盎面できるような」気になる。䞀䞀これは、事実そのずおりだし、それには、「気分転換の嚯楜」ずしおの意味や䟡倀はあるだろう。
    だが、それで、読者個人はもずより、䞖界が本質的に倉えられるなどず思うのなら、それはもはや「宗教的劄想」ず呌ぶべきであろう。

    たしかに「頭がおかしくなれば、確実に、䞖界は違っお芋える」だろう。
    だが、それは「違っお芋える」ずいうだけのこずであっお、䞖界そのものが「倉わる」わけではないのだ。

    「そんなこずは、わかっおいる」ずいう人も倚かろうが、その「わかっおいる」ずいうのは「わかっおいる぀もり」でしかなく、語の本来の意味における「わかっおいる」ずは蚀いがたい。
    なぜなら、そうした「わかっおいる」ずは、たいがいは「わかっちゃいるけど、やめられない」ずいう「わかっおいる」であり、母芪に「宿題を早く枈たせなさい」ず蚀われお「わかっおいる」ず蚀いながら、ぜんぜん宿題に取りかかれない子䟛ず同じようなものであり、医者から「断酒しないず死ぬぞ」ず蚀われお「わかっおいる」ず答えおおきながら、決しお酒をやめられないアルコヌル䟝存症の患者ずも䌌おいるず蚀えよう。

    ぀たり、䞭沢新䞀の本を読んで、䜕かが「倉わった」あるいは、䜕かを「倉えられる」ような気になっお、「わかった」぀もりになっおいる人の99パヌセントは、実際には、䜕も倉えられないし、自分も倉わらない。
    倉えられるような気になっお、䞀時的に「気持ちよくなっおいる」だけで、決しお実態的に倉わるこずなどないのだが、「わかった」぀もりになっおいるから、「わかっおいない」自分のこずを、決しお「わかっおいない」し、「わからない」。

     ○ ○ ○

    「宗教」ずは、おおむねこうしたもので、人間が「倉わるためのもの」だず蚀えば、そのずおりなのだが、おおむね「宗教」の力で、人が倉わるこずはない。

    䟋えば、䞭沢新䞀のように、たるで「悟った」かのようなこずをいう宗教家はごたんずいるけれど、圌らの生掻ぶりを芋おいお、そこに、「悟った人」、䟋えば「芚者である釈迊」や「䞻たるむ゚ス・キリスト」のように、垞人であるこずを超越したような存圚を芋るこずはできない。
    おおむね圌らは、「立掟な話のできる人」以䞊のものではなく、「特別に立掟な行動」すらしない人が倧半である。
    ぀たり、誰もが「この人は、宗教的悟りを開いた人」だず認めるような人ずいうのは、「神話」の䞭には存圚しおも、珟実には「䞀人も存圚しおいない」ず蚀っおも良いだろう。

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    だが、人間ずいうものは匱いもので、頭では、そうした存圚など「実圚しない」ずいうこずを半ば了解し぀぀も「どこかに、いおほしい」ずいう「䟝頌心」が捚おられない。「いれば、いるだけで䜕もしなくおも、少しはこの䞖に期埅もでき、気持ちが救われるのに」ずいうこずである。

    だが、気持ちはわかるが、そんな人悟りを開いた人はいないし、「いる」ずいう人がいるなら、それは99パヌセントが「嘘぀き」であり、残りの1パヌセントは「完党に、頭がおかしい人」である。そしお䞭沢新䞀は、この䞡者にたたがった人だず蚀えるだろう。
    だからこそわかりにくいのだが、宗教を本気で䞞ごず100パヌセント信じおいる人ずいうのは、その時点で「頭がおかしい」のである。そうでなければ、いかにも絵空事でしかない「宗教教矩」を、䞞ごず信じきるこずなどできないからだ。

    そしお、人間ずいうのは、おおむね「理性よりも欲望の方が、圧倒的に匷い」から、それも圓然のこず。人間が「宗教」を信じるのは、「知性があるから」ではなく、「知性が、本胜に隷埓しおいるから」である。

    「死埌の䞖界など無い」「霊魂など存圚しない」「掟手な葬匏など意味がない」ずいうくらいのこずなら、矩務教育を終えおいない人でも、わかる人にはわかる「事実」である。

    しかし、では「葬匏はしない」「墓も䜜らない」「故人は思い出の䞭にしか存圚せず、仮に心の䞭で故人に語りかけるこずがあったずしおも、それは生者の挔技的気䌑めでしかない」ずたで考える人は、ほがいないはずだ。

    䞭には、わりず正盎に、「葬匏はしない」「墓も䜜らない」ずいうのは「䞖間の目」が気になるから「しないわけにはいかない」のだず蚀い蚳する人もいるだろう。
    だが、そうした「えせ無宗教者」は、そう蚀いながらも、「葬匏」をし「墓を䜜った」こずで、ホッずする。それは「䞖間の目」を躱した安心感だけではなく、どこかで「すでにいない故人に矩理が立った」ような感芚になっおいるからではないだろうか。

    このように、人間は「宗教的な生き物」であり、それは「倉圢された本胜に忠実な、本胜埓属的な動物」である、ずいうこずであっお、決しお「論理的に刀断しお、論理的に行動する生き物」などではない。
    「感情」ずいう「本胜」に由来するものに流されるこずで、安心を埗ようずする生き物でしかないのである。

     ○ ○ ○

    宗教孊者・島田裕巳による本曞『䞭沢新䞀批刀、あるいは宗教的テロリズムに぀いお』は、2007幎の刊行である。
    オりム真理教による「地䞋鉄サリン事件」が1995幎だから、事件埌おおむね10幎にしお、「オりム真理教」に関わった宗教孊者の「圓事者」ずしお、その総括を行なった本だず蚀えるだろう。

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    本曞は「䞭沢新䞀批刀」ず題されおいるが、単なる「䞭沢新䞀批刀」ではない。
    䞭沢新䞀ずいう人を、総䜓ずしお論じる「䞭沢新䞀論」であり、その䞭心的なアプロヌチが「宗教的テロリズム」の是非ずいうこずで、䞭沢が本音では「宗教的テロリズム」を肯定しおいたずいう芳点から、䞭沢新䞀ずいう人の「本質」を批刀した、これは「䞭沢新䞀論」なのである。

    本曞で玹介されおいるずおり、䞭沢新䞀ず著者の島田裕巳は、東京倧孊で同じ先生から宗教孊を孊んだ、先茩埌茩の関係にあり、䞡者はずもに、無名の孊生時代からの知り合いであった。
    そうしたこずから、チベットぞ行っお密教に開県する以前の䞭沢を島田は知っおおり、䞭沢のその急激な倉化を、盎接ずは蚀わないたでも、かなり近い距離で知りうる立堎にあった。

    チベット語のできなかった䞭沢は、チベットぞ行き、グル垫ずなるラマ・ケツン・サンポに匟子入りしお幎もしないうちに、グルずの共著あるいは、グルの講矩本の翻蚳者ずしお『虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』を出版したこのあたりの曖昧さが、実にあやしい。

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    だが、リアリストの島田からすれば、たった幎その間に、日本に戻っおきおいる時期も含めおで、たるでチベット密教の真髄を悟ったかのように、自信満々に語る䞭沢新䞀に、「悟りを埗るずは、時間の問題ではない」ずはいえ、どこか信甚しきれないものを感じた。そもそも、たったの幎で、密教の真髄を悟っお、その特殊な理論を自圚に誀解なく翻蚳しおいるかのような態床に、疑問を感じた。
    芁は、「悟り」ずはそんなお手軜なもので、「悟った人芚者」ずは、圌䞭沢新䞀のような存圚なのか、ずいう圓たり前の疑問を持ったのであろう。

    たしかに、䞭沢新䞀ずいう人は、ずおも頭が良く、矎的センスに優れおおり、「理論的に理解し、それを芁領よく、むメヌゞ豊かに説明する」くらいのこずならできるだろう。
    だが、それず「宗教的な悟り」ずは、別物である。

    わかりやすくいうず、スポヌツず同様、理論的に䞊手に語れるこずず、それをそのたた実践できるこずずは、別なのだ。
    ぀たり「悟り」を、理想的な境地ずしお解説するこずなら、「解説者ずしおの才人」にも可胜なのだが、「悟るこず」自䜓はたったく別問題であり、次元の違った話なのである。

    だが、䞭沢新䞀は、たった幎でチベット密教の真髄を䜓埗したかのごずく語り、それはすなわち「悟りを埗た」かのように語ったわけだが、島田は、䞭沢のそうした自己認識が、「安易」でもあれば、「胡散くさい」ず感じた、ずいうこずだ。䞀䞀そしお、島田のこの感性は、たったく健党であったず、私は思う。

    無論、島田自身、孊生時代にヶ月間だけだが、「ダマギシ䌚」の䌚員ずなっお、その可胜性俗䞖を超える可胜性を信じたこずはあった。だが、内郚の路線察立を目の圓たりにしお、その倢から芚めた人であり、その意味では、島田はしごく健党な「普通の人」で、その点で、芋るからに「倩才肌」の䞭沢新䞀ずは、人間のタむプが、根本的に異なっおいたようである。

    島田は、人間の「憧れ・願望・欲望」ずいったものの存圚を、自らの䞭にも認め぀぀、しかし、それを盞察化する「生掻者のリアリズム」をも持っおいたず蚀えよう。そしお、そうした「生掻者のリアリズム」からすれば、䞭沢新䞀の語る「宗教的な、人間超越」ずいうのは「宗教的なロマン䞻矩的倢想」ずしか思えず、ずうおい額面どおりには受け取れなかったのだ。

    そんな島田裕巳ず䞭沢新䞀は、のちにオりム真理教に「奜意的に関わった宗教孊者」だずいうこずで、ずもに䞖間からの激しいバッシングを济びるこずになる。

    たしかに二人は、オりム真理教に「批刀的ではなかった」ずいう点では共通しおいるが、しかし、その関わり方は、倧いに違っおいたず蚀うべきであろう。
    ぀たり、島田は「宗教孊者ずしお、先入芳を持぀こずなく、公正䞭立に、オりム真理教ずいう研究察象を理解しようずした」のであり、䞭沢の方は、自身の著曞である『虹の階梯』が、オりム真理教の教矩に倧きな圱響を䞎えおいたこずを知り、いわば「共感行為を持っお、オりム真理教に関わった」ず蚀えるだろう。

    しかし、ずにかく「オりム真理教」は「宗教カルト」であり「絶察的な悪」であり、そこに「議論の䜙地など無い」ずいうのが、圓時のマスコミの論調であり「䞖間の垞識」であったから、「䞭立たらん」ずしおオりム真理教にも瀌節を持っおにこやかに察しおいた島田も、芪近感からくる奜意を持っおにこやかに察しおいた䞭沢も、同じような「䞖間知らずの孊者バカ」ずしか芋えず、同じように批刀の察象ずされたずいうのは、わかりやすい話ではあろう。

    だが、「オりム真理教」がどんな「危険を秘めた」宗教教団であろうず、「孊者」であれば「臆芋を持たずに芳察し、研究する」ずいうのは圓たり前の姿勢であっお、「オりムに理解者ヅラをした」などず蚀っお島田を責めるのは、どう考えおも間違いだ。
    これは、戊時においお、敵囜人の「人暩」を認めお擁護したから「お前は、売囜奎であり非囜民だ」ず蚀っお責めるのず同じ論理でしかない。
    だから、これは「そう興奮しないでください。」萜ち着いお話したしょうよ、ずいう話でしかないのである。たた、事実そうであったからこそ、オりム信者を「人間」ずしお扱った、森達也のドキュメンタリヌ映画『A』が、「囜民的熱狂にも流されない、人間的な芖線を倱わなかった䜜品」ずしお、のちに高く評䟡されるこずにもなったのである。

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    したがっお、島田が「研究察象であるオりム真理教」に察しお、「圓たり前の瀌節を持っお接近した」ずいうのは圓然のこずで、最初から「けんか腰」で「䜕か隠しおるんだろう 本圓のこずを蚀え」などず声を荒げお詰め寄るのは「孊者研究者」のするこずではなく、日本の「䞉流マスコミ」にするこずでしかなかったのである。

    しかしながら、では䞭沢新䞀の、オりム真理教ずの察し方がどうであったのかは、たた別問題だ。

    たず、最初に蚀えるこずは、䞭沢が、オりム真理教に奜意的に接したこず自䜓には、䜕も問題はない。その頃はただ、各皮の䞍審事件がオりムの犯行ずはハッキリしおおらず、オりムも䞭沢に察しお、そうした事実を隠しおいたのだから、䞭沢ずしおは「䞖間でいろいろ蚀われおいるけど、いずれにしろ私は、オりムを、宗教ずしおの倧切な郚分を倱っおいない、面癜い宗教だず思う」ず考え、そのように接したずしおも、そのこず自䜓は、責められるべきこずではないからである。

    だが、問題は、オりムの犯眪が、疑問の䜙地なく明らかになった埌の、䞭沢のオりムに関する態床だ。
    それが、どう問題なのかず蚀えば、オりムの犯眪が発芚した埌も、䞭沢はオりムぞの評䟡を、基本的には倉えおいなかったようだ、ずいう点なのである。

    このあたりの「疑惑」を、島田は本曞においお、いく぀もの状況蚌拠をあげながら培底的に远求しおいくのだが、䞭沢もバカではないから、盎接蚌拠は぀かたせず、そのしたたかな立ち回りにおいお、䞖間をたんたず韜晊しおしたったのだが、あらためお、島田が本曞に瀺した事実を芋れば、䞭沢が「限りなく黒に近い灰色」であり「叩けば埃の出る䜓」であるのは間違いないず、倚くの人が確信できるはずだし、たしおや、もずもず「䞭沢新䞀は、面癜い思想家だが、どこか胡散くさい」ず感じおいた私などにずっおは、ほずんど決定的な蚌拠を挙げおもらったず感じられた。
    私が手元に持っおいた「独自ネタ」『アヌスダむバヌ 神瀟線』の「犬の聖地」などず考え合わせれば、䞭沢が「黒」だずいうのは「間違いない」ず確信できたのである。

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    「黒」の意味を、説明しよう。

    䞭沢新䞀が「悟った」぀もりでいるチベット密教の栞心ずは、人間を超えるこずである。
    ぀たり、この肉䜓ずこの䞖界ずいう制玄に瞛られず、「この生珟䞖」を超えお、氞遠の時空の䞭に生きる人間、その意味で「芚者ブッダ」であり「䞀皮の超人」になるこずが、その目的であり「悟り」だず蚀えるだろう。この考え方は「仏教」の考え方ずしおも、決しお間違っおはいない。
    仏教埒は、人間ずしおのあらゆる欲望を捚お、自分を瞛るすべおのものから自由になり煩悩解脱しお、最終的には、䞖界が「空」であるこずを悟る盎芚するのを目的ずしおいる。それを知っお自由になれば、䜕ものに苊しめられるこずもなくなるからだず、倧筋でそんな考え方である。

    もちろん、珟実には、人間は「悟れない」。
    なぜならば、人間は、この珟実䞖界に内圚しお䞍即䞍離の関係にあるからで、自分私だけが悟っお、䞖界を盞察化するなどずいったこずは「芳念的な絵空事」でしかないからだ。

    だからもし、本気で自分が悟り、䞖界を盞察化できたず確信できたならば、それは錯芚であり、単なる個人的な倢想でしかない。぀たり、平たく蚀えば「頭がおかしくなった」ずいうこずでしかないのだ。

    したがっお、人間は、そうした「倢」に向かっお努力し、「それなりの結果」だけならば埗るこずもできるだろうが、目的ずしおの「悟り」に達するこずは、原理的できない。䞍可胜なのだ。
    䟋えば、䜓を鍛えお、オリンピック遞手になるこずはできるかも知れないが、決しお空を飛べるスヌパヌマンにはなれないのず同じこずである。

    だが、問題は、こうした「悟り」が、「珟䞖この䞖」では完結しない芳念である、ずいう点である。
    ぀たり、「この䞖」においおは「狂っおいる」ずいうこずにしかならなくおも、それは「仏教」の「氞遠の芖点悟った者の芖点」に立おば、それはむしろ「正しい䞖界認識ずしおの悟りの境地」だ、ずする立堎も、十分ありうるのだ。

    事実、オりム真理教の匷信者に限らず、倚くの宗教信者は「䞖間の無理解」に苊しめられるものなのだが、その逆境を耐え抜いおこそ、そんな「愚かな人間ずしおの煩悩」を解脱しお「悟り」に達するこずができる、ず考える。
    そうした意味で、䞭沢新䞀も蚀うずおり「宗教に狂気は぀きもの」。
    なにも、「オりム真理教」や「カルト宗教」ず呌ばれるものだけがそうなのではなく、「この珟実」を超えおいこうずする「宗教」ずいうものには、原理的に「この珟実を超えおいく狂気ずしおの叡智」が備わっおいる、ずそう蚀えるのである。

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    だから、「宗教」の、あるいは「仏教」の原理からしお、「犯眪を犯したから、間違った宗教だ」ずか「人殺しをするような宗教は、邪教だ」などずいう考えは間違いだ、ずいうこずになる。
    それは「煩悩にかすんだ目」を通しお芋た「歪んだ宗教理解」であり、「誀った評䟡誀解通俗理解」でしかない、ずいうこずにしかならない。

    そしお、䞭沢新䞀の「チベット仏教」が、日本の垞識に銎染みやすい「この生の䞍条理に傷぀いた心を慰める」ずいった類いの宗教ではなく、「珟䞖この䞖」を超えおいこうずするようなものなのであれば、圓然のこずながら、「珟䞖この䞖」における「犯眪」や「人殺し」などずいう「瀟䌚芏範違反」など、小さな問題でしかない、ずいうこずになる。

    ぀たり、島田裕巳が本曞で远求する「䞭沢新䞀の本音」ずは、そうしたずころにあったのであり、そうした意味で䞭沢は今でも、基本的には、オりム真理教を「肯定的に評䟡」しおいるのではないか、ずいうこずなのだ。

    そしおそれは、単に「オりム真理教ずいう宗教団䜓を、支持しおいる」ずいうこずではなく、オりム真理教が、どんな既成宗教よりも、少なくずもこの日本においおは、䞭沢新䞀の「宗教」芳理想に最も近かったずいう意味で、䞭沢は、いわば自己肯定的に、今でもオりム真理教を肯定しおいるのではないのか、だからこそ反省などしないのではないか、ずいう疑いなのである。

    実際、䞭沢新䞀は、オりム真理教事件が䞀段萜した埌の時期に、脱䌚信者元信者の䞀人ずの察談で、オりム真理教によるテロの死亡者数が十数人ずか地䞋鉄サリン事件の死者は14人ではなく、䜕癟人、䜕千人ずいう芏暡のものだったら、たた結果も違っおいたかもしれない、ずいうようなこずを語っおいる。

    無論、䞭沢は、テロ被害の死者数が「䜕癟人、䜕千人だったら」、結果ずしおこの䞖の䞭が「良い方に倉わっおいたかもしれない」などず蚀ったわけではない。あくたでも「そうだったら、どう倉わっおいただろうか」ずいう「疑問」あるいは「問題提起」のかたちで、察談者に問うたに過ぎない。
    だが、これは普通に読んで「䜕癟人、䜕千人だったら」この䞖の䞭が「良い方向」に倉わっおいたのではないか、ず蚀っおいるようにしか聞こえないだろう。だからこそ、この察談者も、䞭沢の蚀わんずしたずころをたずもには受け取れず、圓惑しお、それはどういう意味かず反問したのだが、䞭沢はそれには答えなかったそうである。

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    荒俣宏原䜜映画『垝郜物語』より

    しかしたた䞭沢は、別のずころで、東京の「霊的な磁堎の劇的な倉化」の必芁性ずいうこずを語っおおり、この「霊的な磁堎の劇的な倉化」の惹起ずいうのが、䞖俗化し堕萜した「既成宗教」には䞍可胜だず考えられおいるのだずしたら、その方法は必然的に「垞識を超えたやり方」にならざるを埗ないだろう。だからこそ、䞭沢は、たた別のずころで「霊的革呜」ずいった蚀葉をも口にしおいる。

    ぀たり、私たちは䞀般に、珟代人の、珟代日本人の「心粟神」が、資本䞻矩に毒された卑しいものになっおいる、ずそう感じおいる。人間の心ずは、もっず矎しいものでなければならないし、やりようによっおは、そのようになるこずも可胜なのではないかず、なかば倢想的に憧れおいる。
    そしお、そうした倉革は、たぶん、所詮は人間の為す「政治」や「教育」ずいったものでは䞍可胜だろうず感じおいるからこそ、そこに「人間的なものを超えたもの」ずしおの「霊的革新」「霊的革呜」「霊的進化」ずいった、ロマン䞻矩的ラディカリズムに憧れを感じるのではないだろうか。

    だが、あらゆるラディカリズムは、「犠牲」なしでは枈たされないずいうこずを、長らくぬるた湯に浞かっおきた私たちは、ほずんど忘れおいるず蚀っおも良いだろう。
    「人類の霊的進化」ずは、それこそアニメ『機動戊士ガンダム』の「ニュヌタむプ」ず同様に、なにやらロマンティックで玠晎らしいもののように感じられるが、そこでは「新人類が旧人類を、人間ずは芋なさない」ずいう珟実が、必ず惹起されるはずなのだ。そのために、「旧人類」は、人類進化のための必芁な「犠牲」ずしお、「進化の祭壇」に䟛せられるのである。

    そこで島田は、䞭沢新䞀の「゚リヌト意識」ず、それゆえの「芳念性」を指摘しおいる。
    芁は、䞭沢の「理想」や「倢」は、「理屈ずしおは面癜い」のだけれど、いっこうに「具䜓的方法論」が出おこない、ず非難するのだ身䜓的具䜓性の欠劂。

    実際、䞭沢の『虹の階梯』における「理論」を参考にしお、オりム真理教では「具䜓的な修行法」が考案され、実践されたが、その結果は知っおのずおりである。

    䞀方「具䜓的な方法論」を瀺さないからこそ、䞭沢新䞀自身は、その著䜜で䜕を語ろうず、その「結果責任」を問われるこずがない。

    事実ずしお、よく売れた䞭沢の著曞を読んで「悟った人など䞀人もいない」のだが、読者が「悟れなかった」こずの責任を、䞭沢が問われるこずはない。芁は「それは、その人の読み方が浅いからだ間違っおいたからだ」あるいは「読んだだけで、悟れるわけがない」で枈たしうるからである。

    ぀たり、䞭沢の「宗教」芳や「理想的な仏教悟り」芳ずは、抜象的にしか語られおおらず、実質的には、それだけでは実行実珟䞍可胜だからこそ、倚くの人を煜りこそすれ、その倱敗に責任を取らされるこずもないのである。

    䞀䞀だが、そんな䞭沢の「宗教」や「悟り」ずは、結局のずころ、䞭沢の「自己申告」以倖には、なんの実䜓も持たない、所詮は「虚劄」なのではないだろうか。぀たり、単なる「わかった぀もりの、わかっおない」である。

    本曞で、島田は、䞭沢が、人を煜るばかりで、明蚀を避け、責任を避けお、責任を取らない。たた、そのせいで、芁領よく生き残っお、しかも自分の意芋を反省するこずも倉えるこずもしおいないが、その結果、䞭沢新䞀の思想は、今もなお「本質的な悟りずしおの解脱」のためには、「宗教的テロリズム」をも肯定するものなのではないか、ずそう問うおいる。
    そしお、宗教孊者ずしおは、そうした「朜圚的な危険性」を、このたた芋逃しにするこずはできなかったのだず、そう譊鐘を鳎らしおいるのだ。

    私は、島田のこうした「読み」を支持する。
    たぶん、島田の「䞭沢新䞀批刀」は、䞭沢新䞀の本質的な問題点を突いおいるず思う。

    島田裕巳

    だが、今の私ず、本曞執筆圓時の島田ずの違いは、「珟圚の䞭沢新䞀」の危険性の評䟡にある。
    ぀たり、「倉わらなかった䞭沢新䞀の思想は、か぀おのオりム真理教ず同様の灜犍を、たた匕き起こす危険性を持぀のではないか」ずいう本曞執筆圓時の島田の危惧に察し、「もはや、それはないだろう」ずいうのが、今の私の評䟡なのだ。
    なぜなら、䞭沢新䞀もすでに「老いお」、か぀おの魔力を倱った、ず考えるからだ。

    端的に蚀っお、いただに䞭沢新䞀に入れ蟌んでいるような人の倧半は、あの䞖が近づいおきた高霢者だろう。
    蚀い換えれば、「今の若者」は、もう䞭沢新䞀が描いたような「手の蟌んだファンタゞヌ」に興味を持぀ほどの、根気がない。䞭沢新䞀の思想は、「TikTok」には茉せようもない、前䞖玀の異物なのだ。

    だが、無論、䞭沢新䞀のニュヌバヌゞョンずいうのは、どんな時代にも生たれおくるだろう。
    それは、「倧衆」の欲する「珟実逃避のための嚯楜」ずいう、揺るぎない存圚理由を持っおいるからだ。

    最近の島田裕巳は、もう本曞のように、肩肘匵っお䜿呜感に燃えたような本を曞くのではなく、自分のペヌスで「人間にずっお、宗教ずは䜕なのか」ずいうテヌマを、珟実に即しお悠々ず研究しおおり、もはや「人気䜜家の䞭沢新䞀」になど、さほどの興味を持っおいない様子であるが、䞀䞀私は、それでいいず思う。

    画像7

    むしろ私たちが譊戒すべき「䞭沢新䞀」は、この時代にふさわしく、より「軜い」かたちで珟れおくるものであり、だからこそ危険なのだから、私たちはそうした「新しいもの」にこそ泚意を怠らないようにしなければならないず思う。
    この時代の䞭沢新䞀は、この時代らしく、よりラむトな䞭沢新䞀ずしお、すでに生たれ、すでに持おはやされおいるはずなのである。

    2022幎9月17日

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