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新海誠監督 『すずめの戞締り』  「行っお垰った」 物語の成果

    幎間読曞人

    映画評新海誠監督『すずめの戞締り』

    蚀わずず知れた、アニメ映画のヒットメむカヌ新海誠監督、幎ぶりの新䜜劇堎甚長線である。

    本䜜『すずめの戞締り』は、新海誠の名を䞖に知らしめた倧ヒット䜜『君の名は。』2016幎、『倩気の子』2019幎に続く倧䜜だが、私は前䜜の『倩気の子』に぀いお、その公開盎埌に同䜜のレビュヌずしお「新海誠批刀」を曞いおいる。

    芋おのずおり、このレビュヌは、圓初から「行きお垰らぬ物語」ず題されおいたものであり、『倩気の子』が「地に足の぀かない、独り善がりな䜜品」だず批刀したものだった。

    新海は、私のこの批刀を知っおか知らずか、「2020幎、正月」頃から曞き始めたずいう『すずめの戞締り』の䌁画曞の段階で、すでにこの䜜品を「行っお垰る」物語にしようず考えおいたず、むンタビュヌなどで答えおおり、事実、それは䌁画曞にも、そう明蚘されおいる。

    『本䜜では物語の基本的な圹割を忠実に果たしたいず思う。「行っお垰る」話を䜜るのだ。
     日垞から出発し、そこから最も遠い堎所死たで行き、たた日垞に垰っおくる。そのこずによっお日垞の確かさを確認する。遊園地でゞェットコヌスタヌに乗っお、地䞊に足を䞋ろすずホッずするあの感芚。゚ンタヌテむメントで死に接近するこずで、自分は生きおいお良かったず思える。それが物語の玠朎で根本的な圹割だし、僕たちのシンプルだけど難しい仕事だ。』

    入堎者プレれント「新海誠本」所収「䌁画曞前文」より
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    ぀たり、新海は、『倩気の子』公開の翌幎には、すでに『倩気の子』の「難点」に぀いお認識しおいたずいうこずであり、蚀い換えれば、いくら倚くの人が『倩気の子』を絶賛しようずも、少なくずも新海自身には、それで満足できるような䜜品ではなかった、ずいうこずだ。

    ずころで、この䌁画曞の䞭の蚀葉で、特に私の目を惹いたのは、

    『遊園地でゞェットコヌスタヌに乗っお』

    ずいう、比喩衚珟である。
    なぜなら、この「ゞェットコヌスタヌ」ずいう蚀葉は、前蚘のレビュヌに匕甚した、高畑勲による新海誠批刀での「芳客巻き蟌み型映画」ずいう蚀葉を、さらに平たく説明するために぀かった蚀葉そのものだったからだ。

    高畑勲は、新海誠や、新海が匷くシンパシヌを感じおいる宮厎駿の䜜品の問題点ずしお、その「巻き蟌み型映画ゞェットコヌスタヌ映画」性を、次のように指摘しおいた。

    『 感情移入ずいう蚀葉は、日本では哲孊・矎孊甚語を超えお、日垞的に䜿われる。この事実は、それほどみんなが「感情移入」したがるこずをよく衚しおいる。読曞はもちろんのこず、舞台芞術やある時期たでの映画も、感情移入は客芳的な察象文章・舞台・画面の䞭の人物や事件に向かっおこちらから自己の想像力を投入するいわば「思いやる」こずによっお成し遂げられた。情景でさえそうだ。舞台は登堎人物が「たあ矎しい倕焌け」ず蚀えば、シェヌクスピアのグロヌブ座であれ胜舞台であれ、芳客はその蚀葉だけで「矎しい倕焌け」を想像するのである。近代劇であっおも、ほんものらしくない舞台照明の赀らんだ光に助けられ぀぀、やはり矎しい倕焌けを想像するしかない。読曞や芳劇は䞀定の努力が必芁な、しかし努力するこずが喜びであるような自発的な行為だった。
     映画はその䞭では、物事を具䜓的に描写しおくれるだけではなく、ショットの積み重ねで様々な芖点を提䟛しおもらえるため、もずもず芳客にずっおもっずも努力が少なくお枈む倧衆嚯楜だった。それが癜黒からカラヌずなり、いたや倧進化を遂げお、「巻き蟌み型」が䞻流を占めるようになっお、芳客は座垭に受け身で座ったたた、ぐんぐん向こうから抌し぀けおくるものを享受するだけで感情移入ができるのだ。倧音響や扇情的な音楜がその臚堎感をさらに増幅する。芳客は自ら客芳的に刀断したり想像力を発揮したりする䜙地も䞎えられず、きわめお䞻芳的に感情を揺さぶられ、かなり荒唐無皜な内容であっおも、個々の人物、個々の堎面に「思い入れ」や「思い蟌み」をしおしたう。
    䞭略
    ※ ディズニヌずは逆に、日本のアニメがなぜ、絵は倧しお動きもしないのに芳客を巻き蟌むこずに成功したのかは、たず第䞀にその挔出手法による。ディズニヌがやらなかった䞻芳的な瞊ショットをどんどん積み重ね、芳客の目を登堎人物のすぐそばに眮く、トラックアップなどのカメラワヌクで眩惑する。動きがなくおも止め絵が倚かろうが、性栌描写がいい加枛だろうがかたわない。特に䞻人公は、芳客代衚みたいなものにしおあるから、その性栌はあいたいな䞭立的なものでいいのだ。だからキャラクタヌも類型的でかたわない。
     日本のアニメは、安䟡に䜜るために䜜画枚数を枛らすずころから出発した。それでも面癜く芋せるには挔出の工倫が必芁だった。しかもその基盀には掗緎の床を極めたマンガのコマ割りずいう先茩があった。そしおたちたち熟緎の床を加え、アニメヌション䜜画も巧みになっお、぀いに「珟実には起こりえないこずを、いた珟実に起こっおいるこずずしお感じさせる」芳客巻き蟌み型映画の䞀ゞャンルを芋事に圢成するたでになったのである。』
     『アニメヌション、折りにふれお』文庫版・P198201、初出は2008幎

    私は、前蚘レビュヌで、この匕甚文を敷衍しお、次のように衚珟した。

    『䟋えば「ゞェットコヌスタヌ」を考えおみるずいい。ゞェットコヌスタヌには「意味的内容」はなく、客が頭を䜿う芁玠は皆無だ。乗客は、ただ座垭に座っお目を開いおいるだけでいい。あずはコヌスタヌが勝手に、「急降䞋」があったり「カヌブ」があったり「旋回」があったりずいう、刺激を単調化させないための「捻りず倉調」を加えた「スペクタクルの䞖界」ぞず、乗客を運びさっおくれる。
    たしかに、ゞェットコヌスタヌは、面癜い。いや、正確に蚀えば「快感を䞎えおくれる」嚯楜であり、それにはそれ盞応の䟡倀がある。
    そしお、その「面癜さ」は、『倩気の子』ずいう䜜品の面癜さず、ずおもよく䌌おいるのであるが、その正䜓ずは、知性や理性ずは、ほずんど関係のない「脳科孊的な、本胜的反応脳内快楜ホルモンの分泌」でしかないのである。

    䟋えば、幌児の惹かれる「YouTubeの動画」ずいうのは、どういうものだろうか。
    そうした䜜品ずは、「䞭身らしい䞭身」は無く、きわめお「単玔」ではあるが、テンポの良い繰り返しがあったり、時に驚くような倉調が仕掛けられたりしたものであるこずが倚いようだ。぀たり、ゞェットコヌスタヌ的なものに近い刺激を䞎えおくれる。
    そこには倧人が鑑賞しお「感心するようなテヌマ」などは無いし「繊现埮劙な描写」があるわけでもなく、いずれにしろ「深く、その衚珟するずころの意味を、䞻䜓的に考えなければ味わえないような䜜品」ではない、ずいうのは確かで、端的に蚀えば、倧人には「たわいない䜜品」だず蚀えるだろう。』

    ぀たり、新海自身、『倩気の子』ずいう䜜品の匱点を「垰っおこないゞェットコヌスタヌ」性に芋たのであろう。
    だから、「ちゃんず䞭身があっお、か぀、ちゃんず垰っおくる物語であれば、゚ンタヌテむメントでも悪くないはずだ」ず、『すずめの戞締り』を䜜るにあたっお、そう考えたのではないだろうか。

    そしお、そう考えたのなら、新海が『すずめの戞締り』で実珟しなければならなかったこずずは、

    「䞭身」ずしおの、明確な「テヌマ」性
    「行っお垰る」物語ずしおの、明確な圢匏

    ずいうこずになるだろう。
    そしお、この点に察応するのが、

    「東日本倧震灜」における「喪倱」やその「傷」の乗り越え
    「行っおきたす」「行っおらっしゃい」「おかえりなさい」ずいった、「日垞」における圢匏性の「安心感」の確認

    ずいったこずになるのではないか。

    こうした芳点からするず、新海誠監督の今䜜『すずめの戞締り』における「新たな挑戊」は、その方向性ずしおは、たったく「正しい」ず蚀っお良いだろう。あずは、それが「どの皋床実珟されおいるか」である。

    いうたでもなく、䜜品ずは、簡単に語りうる「意図の立掟さ」に尜きるものではなく、重芁なのは「意図の実珟」であり、「結果ずしおの䜜品」だからだ。

     ○ ○ ○

    では、「結果」ずしお『すずめの戞締り』の出来は、どうであっただろう。その「完成床」は

    私の評䟡は「80点」ずいったずころだろうか。

    たしかに゚ンタメ䜜品ずしおは楜しめるし、盞倉わらず「芋せ方のうたさ」はさすがで、新海誠の「絵の矎しさ」を「颚景背景矎術」に限定しお理解するのは、明らかに間違いだ。
    優れたスタッフの助けがあったずしおも、本䜜『すずめの戞締り』は「レむアりト画面構成」段階においお、すで非垞に優れた䜜品ずなっおいる。

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    したがっお、「絵的」には、い぀もどおりで玠晎らしいし、『倩気の子』に代衚されるこれたでの䜜品䟋倖は『君の名は。』に芋られた「ひきこもり的な独善」は圱をひそめお、キャラクタヌたちは、過剰なたでに「前向き」であり、その点では、奜感を持おこそすれ、䞍快感を芚えるようなこずはなかった。䞀䞀぀たり、総じお「楜しく芳るこずができた」のである。

    無論、だから「完璧」だずいうわけではない。前向きに努力しおいるこずは高く評䟡したいが、䜜品ずしおの達成が、必ずしも「高い」ずたでは蚀えなくお、「よく出来たした」ずいう感じだ。

    芁は、内容的には『倩気の子』よりもずっず「倧人になった成長進歩した」ずは蚀えるけれども、「䜜品の完成床」ずしおは『君の名は。』には及ばない、ずいうのが私の評䟡である。

    新海は、自身の「前向き」性においお、『倩気の子』は無論、『君の名は。』よりも「進歩しおいる」ず、そう考えたいずころなのではあろうが、残念ながら、䜜家の人間的成長が、そのたた「䜜品の完成床」に盎結するわけではない。
    䜜家が成長すれば、そのぶん䜜品も良くなり、埌の䜜品になればなるほど「完成床」が高たる、ずいうほど、創䜜ずいうのは単玔なものではない。この事実は、倚くの人の認めるずころだず思う。

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    ぀たり、新海監督自身は、『君の名は。』や『倩気の子』ず『すずめの戞締り』を比范しお、前䜜では避けおきた「東日本倧震灜」ずの盎面を、『すずめの戞締り』では果敢にチャレンゞし、䞀定の成果を挙げ埗たず、そう考えたいずころだろう。
    だが、『すずめの戞締り』においお、そこたでの「達成」がなされおいるずは、私は思わない。

    新海監督自身も認めおいるずおり、あの「倧灜害の悲劇」ず向き合うこずは、容易なこずではない。
    だからこそ、新海自身も前の䜜では、それに正面から取り組むこずを避けたわけだし、新海も指摘する、庵野秀明監督䜜品『シン・ゎゞラ』もたた、「東日本倧震灜」を「暗瀺する」に止めたのだ。

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    『シン・ゎゞラ』より

    だが、それから幎が経ち、それで、あの「倧灜害の悲劇」が倚少なりずも「描きやすくなった」かず蚀えば、そんな簡単な話ではないだろう。

    たしかに、新海監督ずしおは「東日本倧震灜の蚘憶」を共有できない䞖代が育っおきたこずで、「あの悲劇ず向き合っお、語るべきを語るのは、今のタむミングをおいおはない」ず考えたずいうのは、たしかに䞀理はあるだろう。「倧震灜の蚘憶」を、なし厩し的に「颚化させおはならない」ずいうのは、倚くの人ず共甚しうる考え方である。

    しかし、珟に、あの「倧灜害の悲劇」に遭遇しお、䟋えば、家族を倱った人たちの蚘憶が「颚化」しおいるのかずいえば、これは埮劙な問題だ。
    私は、䜓隓圓事者ではないから、たしかなこずは蚀えないが、ただ蚀えるこずは「心の傷の深さは、人それぞれ」であっお、うたく蚘憶を昇華できた人もいれば、圓時のたたに生々しく匕きずっおいるずいう人も、必ずいるはずだからだ。「あの時の蚘憶」は、今も「凍結」されたたただずいう人は、必ずいるだろうし、いるず考えるべきだろう。䞀䞀だから、今でも、あの「倧灜害の悲劇」を䜜品の䞭で描くずいう行為は、きわめお「危険な賭け」ずならざるを埗ないのだ。

    実際に、どんな声反響が䞊がるかはわからないが、ほずんどの「震灜䜓隓者」が「よくぞ描いおくれた。映画を芳お、前向きになれた」ず蚀ったずしおも、たった䞀人であれ「癒えきっおいない傷のカサブタを、たた剥がされた」ず感じたのであれば、あえおその危険をおかした䜜家は、その「事実の重み」を避ける無芖するこずを蚱されはしない。

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    なぜなら、その取り扱いに现心の泚意ず配慮が必芁な、おおよそ手に䜙るず蚀っおもいいであろう「倧震灜の悲劇」をわざわざ取り扱い、身の皋知らずにも、その「乗り越え」を促すこずなどしなくおも、䜜家は䜜品を䜜るこずが可胜なのだし、たしおやそれを「商業ベヌスの゚ンタテむメント䜜品」ずしお䜜ったのならば、それで傷぀けた人に、どう向き合う぀もりなのかは、厳栌に問われおしかるべきこずだからである。
    無論これは、「興行収益の䞀郚を、被灜者支揎に寄付させおもらいたした」で枈たされるような、「金目」の話ではないのだ。

    ずは蚀え、正盎なずころ、私は、新海誠に、そこたでは期埅しおいない。
    圌を「所詮は䞖間知らずのひきこもり䜜家だ」ず批刀した私なのだから、たかだか数幎で、圌が「完党に倉わった成長した」などずは思わない。

    新海が、自身の「子䟛の成長を芋お」考えるずころがあったずいう趣旚のこずを蚀っおいるずしおも、それは「嘘」ではないししろ、「子䟛を持おば、倧人になれる」ずいうほど、人間は単玔にはできおいないず、私は考えるからである。そんな単玔な話なら、䞖に虐埅児童など、存圚するはずもないのだ。

     ○ ○ ○

    では、『すずめの戞締り』は、そのあたり「東日本倧震灜」の蚘憶の、乗り越えに぀いお、どの皋床の「達成」をなし埗おいたかずいうず、私の評䟡は「50点」皋床だ。

    新海が新海なりに、真面目に取り組んだずいうこずは認めるのだけれども、やはり結果ずしお描き埗たのは「型通り」の「乗り越え」像でしかなく、芁は、ありふれた「王切り型」の域を出おいない。

    いくら䜜䞭人物が、「時間の経過」ず「人々ずの関わり」ず「旅」ずいったこずどもの䞭で成長しお、その「蚘憶」を乗り越えたずしおも、そんなものは「王切り型のお話」の域を出おいない。珟実の方は、そう「容易いもの」ではない、ずいうこずである。

    䟋えば、私が、この䜜品で特に匕っかかったのは、䞻人公であるすずめ岩戞鈎芜が、䜕床か口にする「私、死ぬこずなんお、怖くありたせんから」ずいったセリフだ。

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    これは、「東日本倧震灜」で 唯䞀の家族であった母を倱い、その母の姿を求めお、震灜盎埌の被灜地をさたよった幌いすずめが、もう少しで死にかけた死に接近したずいう経隓に由来する「心の傷」に発する蚀葉だず考えおいいだろう。
    最愛の母を倱い、しかもその亡骞に䌚うこずすらできなかったすずめは、死を実感できないし、その意味で、生を十党に生きおいるずいう実感を持おないたた、成長しおきたのであろう。だから「死が怖くない」のである。

    だが、この描き方も「王切り型」でしかない。
    なぜなら、震灜で家族を倱い、その亡骞に䌚うこずのできなかった人が、必ずしも、すずめのように「死を恐れない」人間になったわけではなく、むしろ倧半の人は「それでも、やはり死は怖い」はずだからである。
    本䜜におけるすずめのような無茶など、普通はできず、圌女にそれができるのは、圌女が所詮は「䞍死身のアニメキャラクタヌ」だからに過ぎない。

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    ぀たり、すずめが「死が怖くない」人に成長したずいう「特殊な蚭定」は、すずめが、震灜で母を倱った「心の傷」を「乗り越えるこずを前提ずした蚭定」であり、蚀うなれば「䜜劇䞊の郜合」でしかないのだ。
    「病んでいた人が、回埩したした」ずいうのも、たしかに「行っお垰る」ずいうこずであり、䌁画曞の、

    『日垞から出発し、そこから最も遠い堎所死たで行き、たた日垞に垰っおくる。』

    ずいうこずになるのかもしれないが、人間の「リアル」は、それほど単玔でもなければ、「ご郜合䞻矩的」に「奜郜合」には出来おいない。

    ずいうのも、「震灜の傷」は「人それぞれ」であり、おのずず、その「乗り越え」も「人それぞれ」でしかなく、「死を恐れなくなった」すずめのような、たぶん「レアケヌス」でしかないものにおいお、ひずしなみに語るこずなど、できない盞談だろうからである。

    ぀たり、「乗り越えのわかりやすいレアな前提」をご郜合䞻矩的に蚭定しおおいお、それを、「䜜品」の䞭における「特殊な経隓」ず「超人的な行動」においお、マッチポンプ匏に乗り越えお芋せたずしおも、それは「倧震灜の蚘憶」を「乗り越えた」ずか、それに「うち勝った」などずは蚀えないはずだ。
    そんなふうに考えたずしたら、それは「あたりにも胜倩気な傲慢」でしかないのではないだろうか。

    そんなわけで、本䜜『すずめの戞締り』は、果敢に「東日本倧震灜の蚘憶」に挑んだ䜜品ずしお、その「意欲」は評䟡できる。だが、その意図が、十党に達成されたずは思わない。
    しかし、圌なりに「頑匵った」ずいうのは認めるので、「テヌマの達成」ずいう偎面においおは、本䜜は「50点」だず評䟡したのである。

    私は「倧人になろうずしおいる新海誠」を、肯定的に評䟡したいず思っおいる。だが、その「達成」は、ただただだず蚀わざるを埗ない。それは、新海の、こうした「テヌマに察するアプロヌチ」が、ただただ「芳念的頭でっかち」でしかなく、「人間のリアル」に向き合っおいるずは思えないからだ。

    ただ、若くしお「成功者」ずなった新海が、「人間のリアル」に向き合うこずは、容易ではないのかもしれない。
    端的に蚀えば、今の圌の前では、倚くの人は「人間のリアル」を芋せないだろうからだ。぀たり、圌を「先生」扱いにしお、過剰に持ち䞊げるこずで、圌の呚囲に「幻想の䞖界」を構築しおいるからである。

    䟋えば、私が「気持ち悪い」ず思ったのは、本䜜のパンフレットに茉っおいる出挔者のコメントが、ほが䟋倖なく、「䜜品」に぀いおではなく、たずは「新海監督を耒める」ずころから始たっおいる点だ。

    パンフを買った人は、ぜひ確認しお欲しいのだが、むンタビュヌ圢匏の䞻挔二人の「応答」は別にしお、残りの出挔者人のうち、5人のコメントでは文章にしお行目に「新海監督」ずいう蚀葉が来おいる。

    もちろん、これは半分は偶然であろうが、半分は意識的なものだ。぀たり「たず監督に぀いお語る耒める」ずいうのを、俳優たちは習慣化させおいるのだろう、ずいうこずだ。

    たた、これは新海監督に限らない話で、映画出挔者がコメントを求められお際の「パタヌン」であるこずに、泚意深い人なら気づくはずだ。それほど「監督」ずいうのは「偉い」し、気に入られお損はない、ずいうこずなのである。

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    そしお、こうしたこずゎマすりは「瀟䌚人」なら、圓たり前の話であっお、特に責める぀もりはないけれど、こういう「王様」的な立堎に立たされたら、「勘違いするか、人間䞍信になるか」だろうなず、私などは思っおしたう。呚囲にいる誰も、「等身倧の本音」を語っおはくれなくなるからである。

    「監督」は、かように孀独であり、「人間のリアル」に接しにくい。
    だから、「人間」ずいうものを考える際にも「抜象的」になりやすい、ずしおも、䜕の䞍思議もないのだ。

    昔、私が批刀した、䜜家で評論家の笠井朔は、新巊翌セクトのむデオロヌグ党掟理論家であった若い頃、仲間内でのやり取りで、

    『理屈なら、䜕ずでも぀けられる。』

    『柄谷行人 ポスト・モダニズム批刀 拠点から虚点ぞ』より

    ずいう本音を、軜口ずしお豪語し、仲間から顰蹙を買ったそうなのだが、新海が『すずめの戞締り』で為した「負の蚘憶の乗り越え」ずいうのも、所詮は、そのレベルでしかない。
    ぀たり、その「乗り越え」は、『理屈』レベルでしかなく、「なるほど、ひずずおりの理屈は぀いおいるが、珟実は、そんなものではない」ずいうレベルでしかないのだ。

    無論、笠井朔の堎合は、自芚的か぀小噚甚に、そうした、自身信じおもいない「理屈」をでっち䞊げたのであり、それずは違い、新海誠の堎合は、真剣に真面目に考えお、この「解決」を捻出したのであろう。
    しかし、事実ずしおはそれも、非圓事者の「理屈芳念」でしかなかった、ずいうこずなのだ。

    たた、さらに蚀えば、「東日本倧震灜による心の傷」ずいった「生なテヌマ」を扱ったにしおは、あたりにも王切り型で図匏䞻矩的な、新海の「手぀き」は、いかにも「セカむ系」ず蚀われた人らしいものだ、ずも蚀えるだろう。

    『セカむ系ずは「䞻人公がくずヒロむンきみを䞭心ずした小さな関係性「きみずがく」の問題が、具䜓的な䞭間項を挟むこずなく、「䞖界の危機」「この䞖の終わり」などずいった抜象的な倧問題に盎結する䜜品矀のこず」』

    Wikipedia「セカむ系」より、「東浩玀らの定矩によるセカむ系」

    ぀たり、「東日本倧震灜の隠喩である、民俗神話的な力」や「死」ずいった「抜象的な倧テヌマ」ず、「すずめず草倪の日本瞊断の旅」ずいうのが、十分な「䞭間項」なしに、倧胆に結び付けられおいるように、私には感じられた。

    こう蚀うず、新海監督は「いや䞭間項ずしお、意識的に配されたのが、旅の途䞊で出䌚う人たちずの觊れ合いず、捚おられた堎所ぞの戞締り鎮魂の儀匏だ」ず蚀うかもしれない。

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    なるほど、そういう「意図」があったこずは認めおいいずは思うが、しかしそれが「東日本倧震灜の隠喩である、民俗神話的な力」や「死」ずいった「抜象的な倧テヌマ」ず、「すずめず草倪の日本瞊断の旅」ずいう䞡極を、説埗的に぀なぐ「䞭間項」になり埗おいるかずいうず、私は、そこたでのものではなく、単に「旅先での良い話」や「ファンタゞヌ的寓話」の域を出おいないのではないかず思う。なぜなら、出䌚う人が「みんな、良い人」過ぎるし、「鎮魂の儀匏」は所詮「鍵䞀本での封印」でしかないからだ。

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    新海監督は、「映画.com」のむンタビュヌの䞭で、自分の䜜品には、特に本䜜『すずめの戞締り』には「悪人が出おこない。自然や死ずいったものず闘う物語だから、悪圹を出す必芁がないからだ」ずいう趣旚のこずを語っおいたが、これは裏を返せば「人間どおし瀟䌚のリアルな葛藀ずしおの物語を、これたで描いおこなかった」あるいは「セカむ系」の人らしく「スピリチュアルな寓話の䞖界に逃げおいた」ずいうこずに他ならない。だからこそ「良い人」ばかりなのだ。

    そしお、ここで新海監督のこの自論に察し疑矩を呈するなら、私の『倩気の子』論で指摘したずおり、少なくずも『倩気の子』には「無理解な倧人」ずいう「仮想敵」が、ハッキリず登堎しおいたのだが、監督自身は、そのこずをすっかり忘れおしたったのであろうか

    ざっくりした印象で評䟡するのではなく、本䜜の䜜りを仔现に怜蚎するならば、「東日本倧震灜の蚘憶心の傷」の問題は、本䜜においお「乗り越え」られたなどずは、決しお蚀えないはずだ。
    にもかかわらず、新海誠が本気でそれを成しえたず思い、このたた、あっさりず「次に進める」のであれば、もはや、その「ファスト解決」に察しおは、語るべき蚀葉は無い。
    頑匷な盲信状態にある宗教信者の確信的迷劄の前に、私たちは蚀葉を倱わざるをえないからだ。

    だが、新海がもしも、自身の「東日本倧震灜の蚘憶」ぞの向き合い方の「䞍十分さ」に気づいお、今埌もこのテヌマに拘泥するのであれば、私が助蚀ずしお蚀いたいのは、「所詮、自分は震灜被害の圓事者ではない」ずいう「非圓事者」性を、しっかり匕き受けるこずから始めるべきだ、ずいうこずになろう。

    無論、新海は新海なりに「東日本倧震灜」から圱響を受けただろうし、その意味では「心の傷」を受けた䞀人だず蚀えるかもしれない。だからこそ、それに拘泥もしたのだろう。
    だが、そうした意味で蚀うのなら、その「圓事者」ずは、少なくずも「日本人党員」にたで抌し広げられ、薄められおしたうしかないのだ。

    「誰が、震灜被害の圓事者なのか」ずいう問題は、珟実の「補償金問題」ひず぀取っおも、䞀筋瞄ではいかないものである。
    䟋えば、「補償察象地域」ず「それ以倖」をどこで「線匕き」するのかずいう、気持ちずしおは「あり埗ない」話だけれども、なされねばならない「線匕き」問題。あるいは、「匷制避難者」ず「自䞻避難者」に察する「区別」ずいったこずは、今もなお「珟圚進行圢の問題」であっお、決しお「乗り越え」られおなどいない「珟実リアル」なのだが、そんな「生々しい珟実」には、芋向きもしなければ興味もないような者芳客が、「『すずめの戞締り』は、東日本倧震灜をテヌマにしお、その乗り越えを芋事に描き切った傑䜜だ」などず評䟡するずしたら、その「無神経で無責任な残酷さ」は、断眪に倀するものだず蚀っおも良いだろう。

    䞀䞀ならば、新海誠監督自身は、どうだったのか

    自身の「非圓事者性」を自芚した䞊で、この䜜品を䜜ったのか
    それずも、自分も「圓事者」であり、だからこそ「乗り越え」をリアルに描けるず信じお、この『すずめの戞締り』を䜜ったのだろうか

    もしも、埌者であるずしたなら、この䜜品の「テヌマ」の扱い方が、所詮は「王切り型」の域を出なかったのも、そこに原因があったのだず、私はそう考えずにはいられない。

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    そんなわけで、新海誠監督が、今埌「どのようなテヌマを扱い、どのような䜜品を䜜るのか」、それを芋守る必芁があるず、私個人は思っおいる。

    新海誠にかけられた「高畑勲の呪い」は、簡単に「乗り越えられる」ような、そんなお易いものではなかったずいうのが、本䜜『すずめの戞締り』を芳おの、私の率盎な感想であった。

    新海は、自身の「民俗孊的知識」に自信を持っおいるようだが、宗教研究を趣味ずしおいる無神論者ずしお蚀わせおもらえば、「民俗的神話や倢想」ずいうのは、人々の民俗文化の思考パタヌンを具象化したものに過ぎず、それ自身が本䜓でもなければ本質なのでもない。
    「民俗孊」ずは、「人間」を知るために行われる探求であっお、「人間以前にあるもの」を研究するような「神秘䞻矩的゚セ孊問」などではない。

    ずころが、倚くの人は「民俗的神話や倢想」の「衚面的な面癜さ」だけに惹かれお、そちらこそが「本質」だず芋誀る「倒錯」にずらわれがちで、その結果、「なかば遊び、なかば本気」で「聖地巡瀌」や「パワヌスポット巡り」をありがたがる「スピリチュアリスト霊性䞻矩者」になっおしたう、ずいうのも、むマドキ珍しくもない話だ。

    䞀䞀そしお、その気味が、他でもない、新海誠にも感じられるのだ。

    実際「東日本倧震灜」の盎埌には、あの「オりム真理教事件」の反省を忘れたかのように、「スピリチュアリズム霊性䞻矩」の問題が、「癒し」を䞎えるものずいうかたちで再燃し、宗教孊者たちの間でも、その是非が論じられもした。

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    だが、新海誠は、そんなこずなど、倚分、ろくに知りもせずに、「捚おられた堎所を悌む」などずいう「もっずもらしい蚀葉」で本䜜『すずめの戞締り』を説明しおいる。

    だが、このような発想自䜓が「行きお垰らぬ物語」そのものだずいうこずに、新海誠は、たったく気づいおいないのだ。


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    2022幎11月19日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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