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石牟瀌道子 『苊海浄土』  むタコ䜜家の秘められた〈実像〉

    幎間読曞人

    曞評石牟瀌道子『苊海浄土 わが氎俣』講談瀟文庫


    解説を読んで驚いた。
    私は、講談瀟文庫の旧版1972幎刊で読んだので、解説は、枡蟺京二による「石牟瀌道子の䞖界」である。
    なお、講談瀟文庫の珟圚の新版の「解説」がどうなっおいるのかは知らない。

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    枡蟺京二は『熊本垂圚䜏の日本の思想史家・歎史家・評論家。代衚䜜に幕末・明治期の異邊人の蚪日蚘を網矅した『逝きし䞖の面圱』などがある。』Wikipedia人で、私もこの人の比范的新しい著䜜である『バテレンの䞖玀』新朮瀟・2017幎を読んでいる。

    枡蟺ず石牟瀌道子ずの関係は、前蚘解説「石牟瀌道子の䞖界」に、

    『※ 本曞『苊海浄土』の「あずがき」にもあるように、本曞の原型をなす『海ず空のあいだに』は、昭和四十幎十二月から翌四十䞀幎いっぱい、私が線集しおいた雑誌「熊本颚土蚘」に連茉された。』

    ずあるずおりで、蚀うなれば、枡蟺は、䜜家・石牟瀌道子ず『苊海浄土』の誕生に立ち䌚った、「生みの芪」の䞀人ずも呌んで良い人物である。

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    その枡蟺が、この解説「石牟瀌道子の䞖界」で䜕を曞いおいるのかず蚀えば、石牟瀌の『苊海浄土』は「䞖間でそう思われおいるようなノンフィクションルポルタヌゞュではなく、フィクションだ」ず断じた䞊で、それを「正圓化しおいる」のである。

    珟実の事件である「氎俣病」問題に぀いお曞かれた『苊海浄土』は、倚くの人にずっおは「ノンフィクションずしおの、ルポルタヌゞュ」ずしお読たれおきた。
    「氎俣病患者の痛み」を、この䜜品を通しおこそ知った、ずいう人は少なくないはずだ。

    だが、解説者の枡蟺に蚀わせれば、この䜜品が「ノンフィクションずしおの、ルポルタヌゞュ」だず思うような人は、「文孊」ずいうものが、たったくわかっおいない、のだそうだ。
    枡蟺はたるで、「文孊」の範囲を確定する暩限を持った暩嚁ででもあるかのように、そう厳しく断じた䞊で、どう読んだっお、『苊海浄土』は、石牟瀌の『私小説』であっお、「珟実」を「そのたた忠実に描いた䜜品」などではない、ず明蚀し、保蚌する。

    『私小説』ずは、どういうこずかずいうず、この䜜品は「氎俣病」ず「氎俣患者」に取材し、それをもずに、「氎俣患者に仮蚗しお、石牟瀌が、自分の氎俣ぞの思いずその内面䞖界を曞いた小説」だ、ずいうこずだ。

    䞀䞀だが、それは「ペテン」ではないのか

     ○ ○ ○

    石牟瀌道子の『苊海浄土』が「氎俣病」を扱い、䞖に「氎俣病」の存圚を知らしめた䜜品であるこずは、もちろん私もよく知っおいたし、この䜜品を『䞖界文孊』ずたで絶賛する人のいるこずも知っおいたから、「氎俣病」の問題ず合わせお、いずれは読たなければならない䜜品だず、長らくそう思っおきた。

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    1969幎・昭和44幎初版単行本の口絵

    実際、もう二十幎以䞊も前に、私は『苊海浄土』『倩の魚 続・苊海浄土』や『怿の海の蚘』を文庫本で買い揃えおいたのだが、その折には、他の本を優先しおしたい、その冊を積読の山に埋もれさせおしたった。

    しかし、昚幎2021幎、ゞョニヌ・デップの䞻挔で、氎俣の惚状を䞖界に報じた写真家ナヌゞン・スミスの掻躍を描いた、アンドリュヌ・レノィタス監督の映画『MINAMATA -ミナマタ-』が公開されたのでこれを芳、続いお今幎は、『ゆきゆきお、神軍』などで知られるドキュメンタリヌ映画の巚匠・原䞀男監督が20幎をかけお制䜜した、時間に及ぶドキュメンタリヌ映画『氎俣曌荌矅』が公開されたので、これも芳た。
    ぀たり、いよいよ、本呜たる『苊海浄土』を読む準備は敎ったずいうこずで、今回、二床目か䞉床目かは倱念したが、たた『苊海浄土』を莖い、やっず読むこずができたずいうわけである。

    䞀䞀ずころが、『苊海浄土』本線を読み終わっお、どうにも「匕っかかる」ずころがある。

    䜕かずいえば、この䜜品は「ノンフィクション」なのか「小説の䞀皮」なのかずいうこずだ。
    少なくずも、この䜜品を「ドキュメンタリヌ」ず呌ぶのは、どうにもしっくり来ない。

    正確に蚀うならば、この『苊海浄土』は「ノンフィクションの䞭に、フィクションが、フィクションだずいう断りなしに、組み蟌たれおいる䜜品」なのである。

    本䜜においお、氎俣病の「歎史的経緯」ず「事実関係」を玹介した郚分に぀いおは、「ノンフィクション」ず呌んで差し支えのないものになっおおり、その郚分に぀いおは、特別優れたものではない。ここに曞かれおいる皋床のこずなら、もっず緻密で客芳的で正確な本が数倚く刊行されおいるであろうこずは、容易に想像できる皋床のものでしかなく、この「ノンフィクション」郚分の䟡倀は、その「先駆性」にあったず蚀えるだろう。だから、いた読めば、「氎俣病」に「完党に無知な人」以倖は、特段どうずいうこずのない内容なのである。

    本曞『苊海浄土』は、党章からなっおおり、第䞀章ず第二章は、こうした「ノンフィクション」郚分だず蚀っお良いだろう。私は、このあたりを読んでいるずきは「それほどの䜜品でもないじゃないか」ず思った。

    ずころが、第䞉章「ゆき女きき曞」に入るず、その内容や文䜓が䞀倉する。

    この第䞉章は、実圚の氎俣病患者の女性・坂䞊ゆきに぀いお曞いた郚分なのだが、「前曞き」的玹介ののちに、坂䞊ゆきの「䞀人称」の語りが始たる。
    第䞉章は「ゆき女きき曞」であり、坂䞊ゆきが語ったこずを、石牟瀌道子が『きき曞』するずいう䜓裁になっおおり、この坂䞊ゆきの「語り」が、きわめお「文孊的」であり、それたで「ノンフィクション」ずしお凡庞ずも蚀えた『苊海浄土』が、ここからガラリずその盞貌を倉えお、茝きだすのだ。

    私は、この『きき曞』郚分を読んで、「これか、これがあるから、『苊海浄土』は名䜜ず評䟡されるようになったのだな」ず、完党に腑に萜ちたのである。

    そしお、こうした『きき曞』は、取材察象を倉えお、第四章、第五章ず続き、第六章では石牟瀌自身ず氎俣の関わりが玹介され、第䞃章では、党線のたずめ的に、再び「ノンフィクション」的な事実関係が語られお、本䜜『苊海浄土』は、いったん幕を降ろすのである。

    ぀たり、端的にいえば、本䜜『苊海浄土』の魅力ずは、「ノンフィクション」郚分にはなく、それを「額瞁」ずしお語られる『きき曞』郚分にこそある。
    そこが「文孊的」であり、読む者をぐいぐいず惹き぀けるのだ。

    だが、この『きき曞』は、坂䞊ゆきらの語ったこずを「忠実に再珟したもの」ではない。
    圌女たち氎俣病患者は、その病による蚀語障害を発症しおおり、きわめお聞き取りづらい発話しかできないからだ。
    䟋えば、こんな具合である。

    『う、うち、は、く、口が、良う、も、もずら、ん。案じ、加え、お聎いお、はいよ。う、海の䞊、は、ほ、ほんに、よかった。』P127

    ずころが、これを、石牟瀌道子が「案じ、加えおどういうこずを蚀いたいのかを掚察しお読み取り、解釈を加えお」曞くず、次のようなものになるのだ。

    『䞀䞀うちは、こげん䜓になっおしもうおから、いっそうじいちゃん倫のこずがもぞかいずしいずばい。芋舞にいただくもんなみんな、じいちゃんにやるず。うちは口も震ゆるけん、こがれお食べられんもん。そっでじいちゃんにあげるず。じいちゃんに䞖話になるもね。うちゃ、今のじいちゃんの埌入れに嫁に来たずばい、倩草から。
     嫁に来お䞉幎もたたんうちに、こげん奇病になっおしもた。残念か。うちはひずりじゃ前も合わせきらん。手も䜓も、い぀もこげんふるいよるでっしょが。自分の頭がいい぀けんずに、ひずりでふるうずじゃもん。それでじいちゃんが、仕様ンなかおなごになったわいちゅうお、着物の前をあわせおくれらす。ぬしゃモモ匕き着ずれちゅうおモモ匕き着せお。そこでうちはいう。ほ、ほん、に、じ、じぃ、ちゃん、しよの、な、か、お、おな、ご、に、なった、な、あ。うちは、もういっぺん、元の䜓になろうごたるばい。芪さたに、働いお食えずいただいた䜓じゃもね。病むちゅうこたなかった。うちは、たえは手も足も、どこもかしこも、ぎんぎんしずったよ。
     海の䞊はよかった。ほんに海の䞊はよかった。うちゃ、どうしおもこうしおも、もういっぺん元の䜓にかえしおもろお、自分で舟挕いで働こうごたる。いたは、うちゃほんに情なか。月のもんも自分で始末しきれん女ごになったもね  。』P127〜128

    こうした「語り」に、胞を打たれない人はいたい。

    『苊海浄土』の第䞉章、第四章、第五章は、このような『きき曞』であり、この郚分こそが、倚くの読者をずらえ、氎俣の問題に目を向けさせたのは、間違いのないこずであり、その点で石牟瀌道子の功瞟の倧きさは、誰人にも吊定できないものだった。

    だが、「匕っかかり」を芚えたのは、こうした『きき曞』郚分での、氎俣の玠朎な人たちの「語り」が、その「文䜓」が石牟瀌道子の手になるものだずしおも、あたりに「文孊的に矎しい」ずいう点である。

    こう蚀っおはなんだが、発話に詰たりながらずはいえ、田舎の玠朎な持民たちに「このようなこずが語り埗るだろうか」ずいう疑問を、私は持ったのである。

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    無論、先にも匕甚した郚分に、氎俣病患者である坂䞊ゆきの『案じ、加え、お聎いお、はいよ。』ずあるずおり、実際には、ゆきは、このずおりの「内容」を語っおはおらず、石牟瀌が「案じ、加え想像で補い、曞き加えた」郚分も少なからずあるのだろう。それをいちがいに非難する぀もりはないが、『きき曞』の郚分が、あたりにも「文孊的に過ぎる」ので、これは「ノンフィクションきき曞ずしおは、やりすぎおいるのではないか」ず疑ったのである。
    ぀たり、この文孊的な『きき曞』の郚分は、いわゆる「事実を玠材にしお曞かれた、フィクション創䜜」なのではないかず、そう疑われたのだ。

    なぜ、こうした「ノンフィクションきき曞ずしおは、やりすぎおいるのではないか」ず、問題にするかずいうず、それは「氎俣病」は、「被害者」だけの問題ではなく、「加害者」も珟に存圚する問題だからである。

    たしかに「うたく語れない被害者」の「思いを汲んで」、「被害者になり代わっお、被害者の思いを代匁する」こず自䜓は、かたわないず思う。
    しかし、それが行きすぎお、石牟瀌が「勝手に想像を膚らたせた、想像の産物」を「氎俣病被害者の思い」だずするのは、やりすぎではないかず思うのだ。それは所詮「解釈」でしかなく、「事実」ではないだろう、ずいうこずだ。

    たしかに、石牟瀌は、氎俣病患者に寄り添い、氎俣病患者の利益にかなう仕事をし、「なり代わっお語られた蚀葉」に぀いおは、その患者自身も「玍埗」したり「よく曞けおいる」あるいは「私ずは思えんくらいに、よう曞けずるばい」くらいの評䟡や承認や支持を䞎えたのかもしれない。
    だが、そうした「半創䜜の蚌蚀きき曞」を持っお、非難される者、悪圹を振られ、憎たれる者は、堪ったものではないし、そもそも、そういうやり方は「フェアではない」のではないだろうか。

    氎俣病を発生させた「チッ゜株匏䌚瀟」は、その「事実行為」によっお断眪されるべき「加害者」だし、事実そうであるのに、その加害責任に぀いおの「情状蚌拠」に、この『きき曞』もどきの「半フィクション」が混入するのは、被害者偎にずっおも、むしろマむナスなのではないか。
    事実においお断眪できる盞手を断眪するのに、どうしお「䜜り事」を混入させなければならないのか。

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    䞖間の目を惹き、䞖間の同情を惹いお、自分たちの味方に぀けられるなら、そんな「现かいこず」など、どうでもいいではないか、ずいうこずなのだろうか 

    実際問題ずしお、少々「うさん臭い手口」を䜿おうず、それで䞖間の同情を惹き、䞖間の目を惹き぀ければ、裁刀闘争のおいおも、政治的闘争においおも、「有利になる」ずいうのは事実だろう。
    だが、だからず蚀っお、こんなやり方を容認しお良いのか 「勝おば官軍」で良いずいうのだろうか

    䞀䞀実際、石牟瀌道子の『苊海浄土』を読んで、このような疑問を持った人は少なくなかったのだろう。
    「この䜜品は、ノンフィクションなのか、フィクション小説なのか、それずも、その䞡方の合わさった、ヌ゚的な䜜品ず呌ぶべきなのか」

    考えおみれば、『苊海浄土』ずいう䜜品は、そのあたりが「曖昧にされおきた䜜品」だったのではないだろうか。

    䞖間䞀般の印象は「氎俣の珟実を描いた䜜品」ずいうこずで「ノンフィクション」に近い印象でありながら、本の売り方ずしおは「文孊」ずいう偎面が匷調され、芁は「小説」であり「ノンフィクションではない」ずいうこずを、におわせおいる。
    だから、実際に読んでみるたでは、この䜜品は、その䜍眮付けが、いたいちハッキリしないのだ。

    そしお、そんな䜜品だからこそ、『䞖界文孊』ずたで高く評䟡する文孊者もいる反面、䞀般的な「日本文孊史」においお、この䜜品が倧きく扱われたり、倧きく䜍眮付けられるのを目にする機䌚がないように、私は思うのだ。

    ぀たり、この䜜品の評䟡は、倧きく「分かれおいる」のではないだろうか。

    䞀方には、その「文孊性」を高く評䟡するず同時に、この䜜品が「氎俣病」問題で果たした瀟䌚的功瞟をも、抱き䜵せで高く評䟡する人たちがいる䞀方で、「ノンフィクションずいう枠組みの䞭に、しれっずフィクションを組み蟌む」ずいうような「むンチキ臭さ」を容認できないず評䟡する文孊者も少なくないのではないか。

    ただ、埌者の人たちは、『苊海浄土』が「氎俣病」問題で果たした、倧きな「瀟䌚的圹割」を考慮しお、「あえお批刀しないでいる」だけなのではないか。
    文孊の問題、あるいは、倫理的な問題ずしおは、蚀いたいこずがいろいろあるけれども、苊しんでいる氎俣病患者の人たちのこずを考慮しお、患者たちの「守護神」になっおいる石牟瀌道子ぞの批刀を、あえお控えおきたのではないだろうか。

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    だからこそ、石牟瀌道子の旧友であり、恩人でもある、぀たり、ひず䞀倍関係の深い枡蟺京二は、『苊海浄土』は培頭培尟「文孊」䜜品であり、石牟瀌道子の蚀わば「私小説」であり、芁は「フィクションであっお、ノンフィクションなどではあり埗ない」ず蚀い切り、この䜜品が「ノンフィクション」だなどず思っお読むのは、それは読む方の間違いであり、胜力が無さすぎるのであっお、そうした「誀読」の責任は「石牟瀌道子にはない」ず、この文庫解説で、石牟瀌の「擁護・救助・免責」を為そうずしたのではないだろうか。

     ○ ○ ○

    『 石牟瀌氏はこのような事態※ 氎俣病問題の展開に、぀ずめおよく぀き合っお来たずいっおよい。それは圌女の責任であったわけであるが、そういう経過の䞭で、圌女にある運動のむメヌゞがたずわり぀き、圌女の著䜜自䜓、公害告発ずか被害者の怚念ずかいう芳念で色づけしお受けずられるようになったのは、やむをえない結果であった。
     しかし、それは著者にずっおもこの本にずっおも䞍幞なこずであった。そういう瀟䌚的颚朮や運動ずたたたた時期的に合臎したために、この優れた䜜品は、粗応な人びずから公害の悲惚さを描砎したルポルタヌゞュであるずか、患者を代匁しお䌁業を告発した怚念の曞であるずか、芋圓ちがいな賞賛を受けるようになった。告発ずか怚念ずかいう蚀葉を倚甚できるのは、むろん文孊的に粗雑きわたる感性である。それは文句なしにいやな蚀葉であり、そういう評語がこの䜜品に぀いお口にされるのを芋るずき、その誕生に立ち合ったものずしお、私はやりきれない思いにかられる。本曞が文庫ずいう圢で新しい読者に接するこの機䌚に、私は、本曞がたず䜕よりも䜜品ずしお、粗雑な芳念で芁玄されるこずを拒む自埋的な文孊䜜品ずしお読たれるべきであるこずを匷調しおおきたい。』P308〜309

    ここで、枡蟺が䜕を蚀っおいるのかずいえば、それは、
    䞀䞀『苊海浄土』は、元来「文孊䜜品」であるのだから、それが仮に、結果ずしお「瀟䌚的な圱響」を行䜿したずしおも、その事実においお、この䜜品や䜜者が「瀟䌚的な責任」を負わなければならない筋合いなどない。
    この䜜品を「瀟䌚告発的なルポルタヌゞュ」䜜品だず読んだのは、読者の「文孊的無胜力」による「誀読」に過ぎず、それは䜜者である石牟瀌道子の責任ではない。
    むろん、石牟瀌は、個人ずしお「氎俣問題」に誠実に関わっおきた。そのせいで、誀解を招く偎面があったかもし埗ないが、しかしそれは、䜜者個人ず小説䜜品を区別できない、読者の無胜力の責任でしかなく、石牟瀌の責任ずは蚀えない。
    䞀䞀ず、倧筋こういうこずだ。

    『 実をいえば『苊海浄土』は聞き曞きなぞではないし、ルポルタヌゞュですらない。ゞャンルのこずをいっおいるのではない。䜜品成立の本質的な内因をいっおいるのであっお、それでは䜕かずいえば、石牟瀌道子の私小説である。
    䞭略
     私のたしかめたずころでは、石牟瀌氏はこの䜜品を曞くために、患者の家にしげしげずず通うこずなどしおいない。これが聞き曞だず信じこんでいる人にはおどろくべきこずかも知れないが、圌女は䞀床か二床しかそれぞれの家を蚪ねなかったそうである。「そんなに行けるもんじゃありたせん」ず圌女はいう。むろん、ノヌトずかテヌプレコヌダヌなぞは持っお行くわけがない。圌女が患者たちにどのようにしお接觊しお行ったかずいうこずは、江接野埜倪郞家を蚪なうくだりを読んでみるずわかる。圌女は「あねさん」ずしお、圌らず接しおいるのである。これは䜕も取材のテクニックの話ではない。存圚ずしお圌女がそういうものであっお、そういうふれあいの䞭で、曞くべきものがおのずず圌女の䞭にふくらんで来たこずをいうのである。
    䞭略
     ずいったふうに続けられる察話が、たさか珟実の察話の蚘録であるずは誰も思うたい。これは明らかに、圌女が自分の芋たわずかの事実から自由に幻想をふくらたせたものである。しかし、それならば、坂䞊ナキ女の、そしお江接野老人の独癜は、それずはちがっお聞きずりノヌトにもずづいお再構成されたものなのだろうか。぀たり文食は圓然あるにせよ、この二人はいずれもこれに近いような独癜を実際圌女に語り聞かせたのであろうか。
     以前は私はそうだず考えおいた。ずころがあるこずから私はおそるべき事実に気づいた。仮にE家ずしおおくが、その家のこずを曞いた圌女の短文に぀いお私はいく぀か質問をした。事実を知りたかったからであるが、䟋によっおあいたいきわたる圌女の答を぀き぀めお行くず、そのE家の老婆は圌女が曞いおいるような蚀葉を語っおはいないずいうこずが明らかになった。瞬間的にひらめいた疑惑は私をほずんど驚愕させた。「じゃあ、あなたは『苊海浄土』でも  」。するず圌女はいたずらを芋぀けられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐにこう蚀った。「だっお、あの人が心の䞭で蚀っおいるこずを文字にするず、ああなるんだもの」。
     この蚀葉に『苊海浄土』の方法的秘密の党おが語られおいる。それにしおも䜕ずいう匷烈な自信であろう。誀解のないように願いたいが、私は䜕も『苊海浄土』が事実にもずづかず、頭の䞭ででっちあげられた空想的な䜜品だなどずいっおいるのではない。それがどのように膚倧な事実のデテむルを螏たえお曞かれた䜜品であるかは、䞀読しおみれば明らかである。ただ私はそれが䞀般に考えられおいるように、患者たちが実際に語ったこずをもずにしお、そこに文食なりアクセントなりをほどこしお文章化するずいう、いわゆる聞き曞の手法で曞かれた䜜品ではないずいうこずを、はっきりさせおおきたいのにすぎない。本曞発刊の盎埌、圌女は「みんな私の本のこずを聞き曞だず思っおいるのね」ず笑っおいたが、その時私は圌女の蚀葉の意味がよくわかっおいなかったわけである。
     患者の蚀い衚しおいない思いを蚀葉ずしお曞く資栌を持っおいるずいうのは、実におそるべき自信である。石牟瀌道子巫女説などはこういうずころから出おくるのかも知れない。この自信ずいうより圌らの沈黙ぞかぎりなく近づきたいずいう䜿呜感なのかもしれないが、それはどこから生たれおくるのであろう。』
    P309〜312

    これである。
    石牟瀌道子は『きき曞』ず曞いおいたが、坂䞊ゆきらの「語り」は、じ぀は「聞き曞き」ではなかった。
    石牟瀌が「倚分、こんなこずが蚀いたいのだろう」ず勝手に想像しお曞いた、「モデル付きフィクション」であったのだ。

    しかも、これは、石牟瀌が『「だっお、あの人が心の䞭で蚀っおいるこずを文字にするず、ああなるんだもの」』ず蚀っおいるずおりで、「確信的になされた創䜜」であり、しかも枡蟺が『文食は圓然あるにせよ、この二人※ 氎俣病患者はいずれもこれに近いような独癜を実際圌女※ 石牟瀌道子に語り聞かせたのであろうか。以前は私はそうだず考えおいた。』ず曞いおいるずおりで、『苊海浄土』を自らの雑誌に掲茉させおいた枡蟺でさえ、圓初は同䜜を「ノンフィクションずしおのルポルタヌゞュ」だず思っおいたし、同䜜はそのような曞物ずしお公刊されたのである。
    䞀䞀぀たり、『苊海浄土』は、連茉時においおも、初刊時においおも、圓たり前に「氎俣病のルポルタヌゞュ䜜品」ずしお公にされおいたのであっお、どこにも「小説・文孊䜜品・フィクション」だず「断られおはいなかった」のだ。

    ならば、人々が『苊海浄土』を「ルポルタヌゞュ」ずしお読むのは、圓然ではないか。

    なにしろ、雑誌掲茉責任者であった枡蟺京二自身にしおからが、圓初は、この䜜品を「ルポルタヌゞュ」だず思っおいたのは、圌が『ずころがあるこずから私はおそるべき事実に気づいた。』『私はいく぀か質問をした。事実を知りたかったからである』ず曞いおいるずおりで、それたで圌は『事実』を知らなかったし、石牟瀌から『事実』を知らされおもいなかったのである。

    ぀たり、石牟瀌は、『きき曞』ず称しお「ノンフィクション」を装い、その「事実を、故意に隠しおいた」こずに、十分「自芚的」だったのだ。だからこそ、枡蟺に远求されお『いたずらを芋぀けられた女の子みたいな顔にな』り、その䞊で、ヌケヌケず『すぐにこう蚀った。「だっお、あの人が心の䞭で蚀っおいるこずを文字にするず、ああなるんだもの」』ずいう態床をずれたのである。

    芁は、石牟瀌道子は、故意に、枡蟺京二はもずより、䞖間を欺いおいた「故意犯」だったずいうこずなのだ。
    「なりゆきでそうなった」ずいうようなこずでない、ずいうのは『本曞※ 『苊海浄土』発刊の盎埌、圌女は「みんな私の本のこずを聞き曞だず思っおいるのね」ず笑っおいた』ずいう蚌蚀にも、明らかなのである。

    枡蟺は、この「解説」においお、『苊海浄土』ずいう『この優れた䜜品は、粗応な人びずから公害の悲惚さを描砎したルポルタヌゞュであるずか、患者を代匁しお䌁業を告発した怚念の曞であるずか、芋圓ちがいな賞賛を受けるようになった。』などず、倚くの「善意の読者」を「粗応」者呌ばわりしおいるが、石牟瀌の身近にいながら、長らく隙されおいたのは、他ならぬ枡蟺京二その人だった。
    なのに、なぜ枡蟺は、自身ず同レベルでしかない、䞖間の読者䞀般を「粗応」呌ばわりしおたで、『苊海浄土』が「明らかな文孊䜜品」だずいうこずに、しなければならなかったのか

    それは無論、「石牟瀌道子の確信犯的ペテン」を知った埌からは、圌自身もその「共犯者」であったからだろう。

    画像8

    『〈この日こずにわたくしは自分が人間であるこずの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶎束のかなしげな山矊のような、魚のような瞳ず流朚じみた姿態ず、決しお埀生できない魂魄は、この日から党郚わたくしの䞭に移り䜏んだ。〉
     こういう※ 石牟瀌の文章はふ぀うわが囜の批評界では、ヒュヌマニズムの衚明ずいうふうに理解される。この䞖界に䞀人でも飢えおいる者がいるあいだは自分は幞犏にはなれない、ずいうリゎリズムである。この文をそういうふうに読むかぎり、぀たり悲惚な患者の絶望を忘れ去るこずはできないずいう良心の発動ず読むかぎり、『苊海浄土』の䞖界を理解する途はひらけない。そうではなくお、圌女はこの時釜鶎束に文字どおり乗り移られたのである。圌女は釜鶎束になったのである。なぜそういうこずが起こりうるのか。そこに圌女の属しおいる䞖界ず圌女自身の資質がある。』P312

    『 こういう衚珟はおそらく日本の近代文孊の䞊にはじめお珟れた性質のものである。ずいうのものは、海の䞭の景色を花にたずえるずいう単玔な比喩をこれたでのわが囜の詩人が思い぀かなかったなどずいう意味ではもちろんなく、ここでずらえられおいるようなある存圚感は、近代的な文孊的感性では觊知できないものであり、ひたすら近代ぞの䞊昇をいめざしお来た知識人の所産であるわが近代文孊が、うち捚おおかえみなかったものだずいう意味である。この数行はもちろん石牟瀌氏の個的な才胜ず感受性が産んだものにちがいないけれども、その圌女の個的な感性にはあるたしかな共同的な基瀎があっお、そのような共同的な基瀎はこれたでわが囜の文孊の歎史ではほずんど詩的衚珟をあたえられるこずもなかったし、さらには、近代垂民瀟䌚の諞個人、すなわちわれわれにはずっくに忘れ去られおいた。
     その䞖界は生きずし生けるものが照応し亀感しおいた䞖界であっお、そこで人間は他の生呜ずいりたじったひず぀の存圚にすぎなかった。』P314

    枡蟺はここで、「䜕」をしようずしおいるのか。
    それは、石牟瀌道子の「ルポルタヌゞュに芋せかけた創䜜」ずいう「ペテン」を、石牟瀌本人に「故意は無かった」ずいうこずで、「免責」しようずしおいるのである。

    そしお、この手口ずは、䞖間にもよくある「被疑者は犯行時、心神喪倱状態であったので無眪」ずいう匁護の「応甚線」である。

    近代的合理䞻矩的なものの芋方では、石牟瀌道子を理解するこずはできない。石牟瀌は、前近代的な胜力、「巫女むタコ」的ず蚀っおも良い特殊胜力感性の持ち䞻であり、いうなれば、釜鶎束の生き霊を「口寄せ」しお、その時は『釜鶎束になったのである。』。
    したがっお、この時に語られたこずに、石牟瀌の「故意」は働いおいないから、圌女の「犯意」を問うこずはできない。
    近代䞻矩のずらわれた人々には理解できないだろうが、石牟瀌道子ずいう皀代の䜜家の真盞であり䞖界ずは、こういうこずなのだ。䞀䞀ずいう、これは「スピリチュアル詐欺」でしかない、ず蚀っおも良いだろう。

    著曞『垞䞖の花 石牟瀌道子』を持぀若束英茔は、スピリチュアリスト

    枡蟺のいう「石牟瀌道子の䞖界」ずは、このように「近代合理䞻矩」では掚し枬れない䞖界だから、珟代の合理䞻矩からすれば、圌女のしたこずが「詐欺やペテンの類い」に芋えたずしおも、「そうではないのだ」ず、枡蟺は䞻匵する。
    石牟瀌はその時、本圓に、その人坂䞊ゆきや釜鶎束になりきっおいるのだから、そのずき語られた蚀葉は「創䜜䜜り事」だずか「嘘」だずいうこずではないのだず、そう枡蟺京二は、石牟瀌道子を庇っお匷匁し、バカバカしい「スピリチュアルな独自解釈」を、私たちに匷いるのである。

    しかし、もしもこんな理屈が通るのなら、倚くの「詐欺・ペテン」においおも、「故意」の立蚌は䞍可胜になるだろう。
    詐欺垫が法廷においお「いや、隙す぀もりはなかったんです。その時は、私も本気でそれを信じおおり、それを善意からみなさんに語っおいただけであり、その壺を買うこずで、みなさんが幞せになるず確信しお、オススメしおいたんです。」ず、蚀い蚳するようなものなのだ。

    ずもあれ、この「容疑者」でさえも、きっず「むタコ」䜓質の人だったのだろうず、少なくずも枡蟺京二なら信じおくれるはずだ。
    だが、私は、こんな蚀い蚳の「嘘」など、どんなに「偉い先生」が保蚌しおも信じはしないし、そういう「近代的合理䞻矩的懐疑」を持っおいる人間だから、これたで「霊感商法」の被害に遭うこずもなかったのである。

    『 圌女の衚珟に䞀皮凄惚の色がただようのは圓然である。䜿われるたたに枯で朜ちおいく持船の網ずか、倜カリリ、カリリず釣糞や網を喰い切る錠たちなどずいう、䞍気味な圢象が、圌女の文章のあいたに珟れる。手をこたねき息を詰めるほかない厩壊感である。この䜜品で描かれる厩壊以前の䞖界があたりにも矎しくあたりにも牧歌的であるのは、これが厩壊するひず぀の䞖界ぞのパセティックな挜歌だからである。
     しかし、もずもずそれは、有機氎銀汚染が起こらなくおも、遠からず厩壊するべき䞖界だったのではなかろうか。石牟瀌氏は近代䞻矩的な知性ず近代産業文明を本胜的に嫌悪をする。しかし、それはたんに嫌悪しおもうどうにもならないものであり、それぞの反措定ずしお「自然に還れ」みたいな単玔な反近代䞻矩を開始しおみでもしようのないこずである。圌女はそういうふうにずれる䞍甚意な蚀葉を゚ッセむなどに曞き぀け぀けおいるけれども、䞖情流行の゚コロゞヌ的反文明論や感傷的な土着䞻矩・蟺境䞻矩などが、そういう圌女の蚀葉にずび぀いお、「氎俣よいずこ」みたいなこずを蚀い出すず、圌女が描いおいる氎俣の颚土が矎しいだけに、どうしようもなくなるわけである。』P316

    䞊の匕甚文の前半郚分は「文孊者」である枡蟺京二が、自身の「文孊者」的な筆力を存分に振るった「華麗なレトリック」で、読者を「石牟瀌道子の䞖界」に匕き蟌もうずしおいる郚分である。人を隙すには、才胜はもちろん、もっずもらしい挔出レトリックこそ倧切なのだ。

    そしお、埌半郚分で、石牟瀌道子ず「゚コロゞヌ運動」を切り離そうずしおいるのは、事実ずしお石牟瀌がそうした運動に関わっお、そのような発蚀もし、そのような運動の「カリスマ」に祭り䞊げられおいるにも関わらず、そういうものは、結局のずころ、いずれ「文孊者」石牟瀌道子の評䟡を揺るがす、マむナス芁玠にしかならないずいうこずを、枡蟺は、賢く芋抜いおいるからである。

    どういうこずかず蚀うず、石牟瀌道子を「すごい䜜家」だず持ち䞊げおいる「䞀般読者」の倧半は、ニュヌ゚むゞ的な「゚コロゞヌ思想」にかぶれた、あたり「文孊䜜品を読んでいない人たち」でしかないし、石牟瀌をやたらず持ち䞊げる文孊者ずいうのも、同様に、石牟瀌ず「運動」ずを䞀䜓的に捉えおいる者ばかりだからだ。
    蚀い換えれば、゚コロゞヌ的な立堎に立たないかぎり、石牟瀌道子の小説ずいうのは、それそのものずしおは「雰囲気のある、䞻情的な矎文」文孊でしかない、ずいうこずである。

    実際、石牟瀌道子の小説は、『苊海浄土』以倖、広く読たれおいる䜜品もなければ、知られおいる䜜品もない。
    石牟瀌ファンなら知っおいおも、文孊䞀般のファンの倚くにずっおも、石牟瀌道子は「『苊海浄土』の人」であっお、他にどんな䜜品があるかたでは、ほずんど知らないはずで、石牟瀌が1993幎に玫匏郚文孊賞を受賞した䜜品のタむトルを蚀える人など、ほずんどいないはずだ。

    たしかに、石牟瀌道子には、䜜家的な才胜がある。それは、私だっお認める。

    だが、いくら才胜のある人だからずいっお、「創䜜」でしかないのものを『きき曞』だずいっお発衚するのは、「ペテン」でしかない。

    たた、実際のずころ『苊海浄土』は、「氎俣病」ずいう「珟実」に関わるものだから、その「話題性」においお䞖間の泚目を集め、䞋䞖話に蚀えば、売れ続けおいるのである。『苊海浄土』䞉郚䜜を陀いおも、石牟瀌道子の小説が「売れおいる」などず思う人は、読曞家ではない。
    蚀い換えれば、石牟瀌道子の「評䟡・評刀」の半分以䞊は、「氎俣病ずいう厳しい珟実」にかかわった「おかげ」であっお、玔粋に、石牟瀌道子の「䜜家的力量」によるものではない、ずいうこずだ。

    枡蟺京二は、前蚘のずおり、

    『そういう瀟䌚的颚朮や運動ずたたたた時期的に合臎したために、この優れた䜜品は、粗応な人びずから公害の悲惚さを描砎したルポルタヌゞュであるずか、患者を代匁しお䌁業を告発した怚念の曞であるずか、芋圓ちがいな賞賛を受けるようになった。』

    ず蚀っおいるが、これは「盗人猛猛しい」蚀い草でしかない。

    ずいうのも、「氎俣病」の方から石牟瀌道子に「䜜り事でもいいから、䞖間に広くアピヌルするものを曞いおください」ず頌んだのではなく、石牟瀌の方が、自分から近づいおいき、自分の「創䜜」を「珟実の事件氎俣病」に絡め、そうず断らず、わざわざ「䞖間に誀解をさせるような圢匏」で曞き、発衚した。それが『苊海浄土』なのだ。

    画像9

    石牟瀌が『「みんな私の本のこずを聞き曞だず思っおいるのね」ず笑っおいた』ずいうのは、石牟瀌が『苊海浄土』の「創䜜」フィクション郚分が『聞き曞』ノンフィクションだず、䞖間で「誀解」されるのを、むしろ喜んで受け入れおいたずいうこずであり、これは圌女が「故意犯」である意図しお行ったこずであるこずの、䜕よりの蚌拠だ。
    それを「石牟瀌道子は、巫女的䜜家だから、圌女に䜜り事をしたずいう故意はなく、したがっお、それを反瀟䌚的な行為だずだ断眪するこずはできない」などず、無理な匁護をしおいる枡蟺京二も、所詮は、自芚的な「事埌埓犯」でしかないのである。

    ちなみに、このレビュヌを曞くためにネット怜玢しおいたずころ、石牟瀌道子ず枡蟺京二の関係を描いた、米本浩二の『魂の邂逅』に぀いおの、ノンフィクション䜜家・梯久矎子によるレビュヌを芋぀けたのだが、そこには、次のようなこずが曞かれおいた。

    『 米本さん、やっぱり曞いたのですね。『評䌝 石牟瀌道子 枚に立぀ひず』から3幎、この本が出るのをわたしは埅っおいたした。かならず曞いおくれるに違いないずいう確信をもっお。
    䞭略
     ずもに家庭を持぀身であった二人の、半䞖玀にわたる深いかかわり。線集者ず䜜家でもなく、闘争の同志でもなく、倫婊でもない。けれどもたしかに女ず男であり、あえお名付けるならば、愛ずしか呌べないものがそこにはあるこずが、3幎前の評䌝からは䌝わっおきたした。でも、それだけではわたしは満足できなかった。もっず深く、この二人のこずを知りたく思ったのです。
    䞭略
     これたでだれも螏み蟌たなかった二人の関係石牟瀌さんが晩幎、たるで聖女のようにメディアで扱われおいたこずもあるのでしょう。本曞『魂の邂逅 石牟瀌道子ず枡蟺京二』で、米本さんはそこに、芚悟をもっお螏み蟌んでいたす。それは、石牟瀌さんのもずに繰り返し通い、圌女の療逊を支えた人たちずずもにその晩幎を芋届けるこずになった米本さんだからできるこずだったに違いありたせん。』

    ハッキリ蚀っお、私は、男女の仲になど興味はないし、有名人だからず蚀っお、特別に倧目に芋る気もない。

    いずれにしろ、枡蟺京二が、石牟瀌道子ず深く぀ながった人間であったのであれば、䞊の文庫解説のような「䞖間を欺くペテン」によっお、石牟瀌道子を庇うべきではなかった。
    「真の愛」があるのならば、是々非々で、事実は事実ずしお認めるべきは認め、批刀すべきこずは批刀すべきではなかったか。

    しかし、枡蟺が、その「疑惑」を远求した際の、石牟瀌の態床を芋れば、圓時からすでに、枡蟺は、石牟瀌のコントロヌル䞋にあったず芋お良いだろう。
    この時、石牟瀌は、枡蟺が「真盞に気づいた」ずしおも、決しお自分石牟瀌を告発するこずなどできないず、そう芋切っおいたのである。だからこそ、䜙裕しゃくしゃくに「笑っお芋せた」のだ。

    『瞬間的にひらめいた疑惑は私をほずんど驚愕させた。「じゃあ、あなたは『苊海浄土』でも  」。するず圌女はいたずらを芋぀けられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐにこう蚀った。「だっお、あの人が心の䞭で蚀っおいるこずを文字にするず、ああなるんだもの」。』

    いたどきの蚀葉でいうなら、これは、若き石牟瀌道子の「おぞぺろ」だったのである。

    2022幎9月27日

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