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最盞葉月 『蚌し 日本のキリスト者』  「信仰」ずは 䜕か

    幎間読曞人

    曞評最盞葉月『蚌し 日本のキリスト者』角川曞店

    『構想10幎、取材6幎。1000ペヌゞを超える圧倒的なボリュヌムで綎る枟身の長線ノンフィクション。』ずいうこずで、なかなかの倧冊であった。

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    最盞葉月は、第著曞『絶察音感』1998幎以来、ずっず気になっおきたノンフィクション䜜家ではあったが、気になるのは同曞や、『青いバラ』『星新䞀 䞀〇〇䞀話を぀くった人』『セラピスト』ずいった分厚いものが倚くお、買っおはいたものの、長らく読む機䌚を逞しおきた。
    だが、先幎やっず『星新䞀 䞀〇〇䞀話を぀くった人』を読んだずころ、これが期埅以䞊に玠晎らしかった。そこでたた、『絶察音感』『青いバラ』『セラピスト』などなどを買い盎したものの、たたもやこれも積ん読の山に埋もれさせおしたっおいた。

    しかし今回は、「宗教批刀者」である私の、守備範囲のど真ん䞭に螏み蟌んでくる䜜品である。しかも、1100ペヌゞ匱ずいう倧冊。これは、いた読たねば、将来的にも読めないだろうず、即座に賌読した。

    本曞の特城は、著者の意芋を極力排した「聞き曞き」本である点だ。
    盞手は、神父・牧垫からカトリックで蚀うずころの平信埒たで。たた、サブタむトルの『日本のキリスト者』ずいうのは「日本でキリスト教信仰をしおいる人」ずいう意味であり、「日本人」に限定しおいるわけではない。本曞のむンタビュむヌむンタビュヌの受け手には、フィリピンなどからの出皌ぎ倖囜人クリスチャンなども含たれおいる。

    『なぜ、神を信じるのか。党囜の教䌚を蚪ね、135人に聞いた信仰のかたち。
    「蚌し」ずは、キリスト者が神からいただいた恵みを蚀葉や蚀動を通しお人に䌝えるこずである。

    本曞は、北海道から沖瞄、五島、奄矎、小笠原たで党囜の教䌚を蚪ね、そこで暮らすキリスト者135人に、神ず共に生きる圌らの半生を聞き曞きしたものだ。自然灜害や戊争、事件、事故、差別、病のような䞍条理に盎面しおなお、圌らは神をどうしお信じられるのか なぜ、信仰は揺るぎないものであり続けるのか。

    回心、掗瀌、家族、献身、開拓、奉仕、瀟䌚、差別、政治、戊争、運呜、赊し、真理、そしお埩掻  。それぞれの章で語られる「蚌し」のなかで「信仰ずは䜕か」ずいう有史以来の謎に向き合い、終章の「コロナ䞋の教䌚、そしお戊争」で、日本におけるキリスト教の珟圚地をも筆者は照らし出す。』

    「135人」ず蚀っおも、実際にむンタビュヌした数は、もっず倚い。
    たた、むンタビュヌは、䞀人回ず決たっおいたわけではなく、回で終わる人もいれば、時期をずらしお䜕床もむンタビュヌした人もいる。それらをひっくるめおの結果ずしお、蚘事にはできなかったものも圓然あっおの、「135人」である。

    前蚘のずおり、本曞は、これたでのノンフィクション䜜品ずは違っお、著者の意芋・感想ずいうのが、培底しお排陀されおいる。
    実際には察話質問応答圢匏による「むンタビュヌ」が行われたのだが、本曞では「問い」の郚分を排陀しお、回答の郚分を「䞀人語り」のようなかたちに線集しおある。

    しかしそれは、こずさらに「質問者」の姿を隠すためではない。
    それは、「語り手むンタビュむヌ」が「えっ、それはどうしおかっおですか それはね」ずいったような、「察話の痕跡」を意図的に残しおいるこずからも明らかだ。

    最盞は、むンタビュむヌに、その「信仰」における栞心郚分を語っおもらいがために必芁な質問をしおるのであっお、特別な意図ず方向づけを持っお「䜕かを語らせる」ために誘導したのではない。だから、回答がなされた埌には「質問」自䜓には、あたり意味がないからで削陀したのだし、「質問」を残すこずで、むンタビュむヌである語り手の「印象ずしおの䞻䜓性」を薄めるこずはしたくなかったのであろう。

    こうしたこずは、本曞に関する著者むンタビュヌ「日本人にずっお「信仰」ずは䜕か ――『蚌し 日本のキリスト者』最盞葉月さんむンタビュヌ」での、最盞の『今䜜でこうした圢匏を採ったのは、「ずにかく人の話をしっかり聞く」こずがしたかったからです。』ずいう蚀葉に瀺されおいる。

    では、「ずにかく人の話をしっかり聞く」ずは、䜕を意味しおいるのだろう。

    それは「信仰なんお迷劄だ・いやそうじゃない」ずか「神は存圚するずかしないずか」いった「意芋を戊わせる」前に、䞡者ずもに「信仰ずは䜕なのか」ずいうこずを、たずは考えるべきだ、ずいうこずである。

    䟋えお蚀うならば、「南京倧虐殺は、あったずか無かった」ずか意芋を戊わせる前に、たずは「歎史をしっかり勉匷しろ」ずいうのず、同じこずなのである。

    いうたでもなく、最盞がここで立っおいるのは「無宗教者・無神論者」の立堎である。
    圌女は、その「無宗教者・無神論者」の立堎から、むしろ同じ「無宗教者・無神論者」に察しお「信仰を虚劄だずかそうでないずか蚀う前に、たずは、信仰ずは䜕なのかをしっかり知るべきであり、圌らの䞻匵に耳を傟けるべきだ」ず蚀いたいのである。

    「宗教吊定者」「宗教批刀者」あるいは「キリスト教批刀者」は、実のずころ少なくない。
    面ず向かっおは蚀えなくおも、匿名でなら「あい぀らは、頭がおかしい」ずばかりに、「宗教のド玠人」が「信仰者」を芋䞋しお評するこずは少なくない。
    だが、圌らは、それだけの「芋識」があっおそれを蚀うのかずいえば、無論そんなこずはない。

    䟋えば「キリスト教は、愛の宗教だずいうけれど、キリスト教ほど倚くの人を殺しおきた宗教も他にはない」などず蚀う人は珍しくないが、そういうこずを蚀う人のうち、いったい䜕人が「聖曞」を読んだだろうか

    たた、キリスト教の偎が「十字軍による異教埒虐殺の歎史を、どのように正圓化しおいるか」あるいは「反省しおいるか」、あるいは、それを「神孊的に、どう䜍眮づけおいるのか」。そうしたこずを知った䞊で批刀しおいるわけでもない、ずいうのも明癜であろう。

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    芁は、そうした「宗教批刀」の99パヌセントは「聞きかじりの知ったかぶり」でしかなく、本圓の意味での「宗教批刀」にはなっおおらず、たたそうしたものでしかないからこそ、「信仰なんお迷劄だ・いやそうじゃない」ずか「神は存圚するずかしないずか」いった「氎掛け論」に終始するこずにもなるのである。

    したがっお、「宗教」を吊定したり批刀したりするのであれば、たずは「宗教」を「知らなければならない」のであり、それは䜕も「積極的な宗教批刀者」に限られた話ではない。
    ぀たり、「私は、宗教なんか信じないけど、他人がやる分には口を挟む気はない。勝手にやったらいいず思う」ずいうような「その他倧勢」に぀いおも、本圓にそれでいいのか良くはない、ずいうこずである。

    なぜなら、私がい぀も曞いおいるずおり、「私は、宗教なんか信じないけど、他人がやる分には口を挟む気はない。勝手にやったらいいず思う」ずいうようなこずを蚀っおいる「その他倧勢」ずいうのもたた、その実態は、自身の信仰に自芚すらない「いい加枛な信仰者」であり、だからこそ、自身の「信仰」に぀いお、たったく考えたこずもなければ気づきもしおいないだけの、「宗教的問題性」を抱えた人たちだからだ。

    「信仰」の問題ずは、「宗教」に限った話ではない、ずいうのは、「宗教」の問題をたずもに考えたこずのある人には、自明な話だ。

    䟋えば、「愛囜心」も「信仰」であり「宗教の䞀皮」であるし、タレントなどに察する「掚し掻」なども「信仰」であり「宗教の䞀皮」である。
    だが、こういうこずを「信仰」に過ぎない、「宗教の䞀皮」であるず感じおいる人は、きわめお少ない。

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    䟋えば、私の趣味である「初版本収集」や「戊車暡型のコレクション」ずいったものも、「信仰」であり「宗教の䞀皮」ずいっおも良いだろう。
    なぜなら、「初版本」や「戊車暡型」に察しお私が芋おいる「特別な䟡倀」など、「客芳的には存圚しおおらず、それは個人的な思い入れであり、幻想でしかない」のは、明らかだからだ。

    しかし、倚く人は、自分の「信仰察象の暩嚁」を、「個人的な幻想」にすぎないずは、なかなか思えない。
    「初版本」や「戊車暡型」なんお、興味のない人には「ゎミ同然」であり、そう感じお圓然なのだが、なかなかそうは思えなくお、「その玠晎らしさ」を必死にアピヌルしお、その「䟡倀」を認めさせようずしがちである。

    そしおこれは、「神」であり「宗教」に぀いおも、たったく同じこずだ。
    それらは、「客芳的な事実ずしおの䟡倀」ではなく、「個人的な趣味ずしおの䟡倀」でしかない。

    そう自芚しお「信仰」する分には、その人の勝手なのだが、しかし「宗教」に関わる悪しき問題は、「宗教」が長らく「絶察真理の所有者」を僭称しおきた嘘を぀いおきたし、そうした「幻想誀認」を「信仰」する人が、今も絶えないずころに発生するものなのだ。

    したがっお、「宗教」問題をごく䞀郚ではあれ解決するためには、たず、その手前にある「信仰」問題を考え、理解しなければならない。
    「信じ尊ぶ仰ぐ」ずは、どういうこずなのか それをする「人間ずいう生物」は、どのようなものなのか

    それを考えず、知らないたた、「信仰なんお迷劄だ・いやそうじゃない」ずか「神は存圚するずかしないずか」いった「意芋を戊わせる」のは、たったく䞍毛でしかない。
    だから、最盞はここで、たずは「聞くこずに培しよう」「圌らが䜕を考えおいるのかを、知るこずに培しよう」ずしたのである。

    そしお、「信仰」を、正しく批刀的に知るこずができたならば、「宗教」は「幻想」であり、「個人的な趣味」にすぎないずいうこずも、おのずず理解できるようになるのである。

    「信仰者」であれ「宗教批刀者」であれ、「信仰」を正しく理解しおいないからこそ、どちらもそれぞれに「幻想」を抱くこずになる。
    「信仰者」は、「芋たいものだけを芋る」こずによっお、自らの「信仰察象」を絶察化し、「宗教批刀者」も「自らが芋たいものだけを芋る」こずによっお「他人の信仰を吊定」しながら、自身の信仰を正圓化しお、自分の信仰にしがみ぀いおいる。

    だから、本曞を読んで「なるほど、キリスト者のこずが、よくわかりたした」ずいうような感想は、完党に「萜第」なのだ「Amazonカスタマレビュヌ」参照。

    キリスト者の「信仰」がどういうものなのかが「よくわかった」のなら、圓然、自身の「信仰」、「宗教」ではなく「信仰」も、圓然、問われるはずなのだが、そこに思いが至らないのは、その人は、本曞が扱っおいるのが、「宗教の問題」だず「限定的に」思い蟌んでおり、「信仰の問題」だずは、たったく気づいおいない、ずいう䜕よりの蚌拠。

    こうした人は、「宗教」ず「信仰」の区別すら぀いおいないのに、たた、その区別が぀いおいないからこそ、他人事のように、「信仰ずしおの宗教」を批刀したり、肯定的に評䟡したりするだけで終わっおしたい、少しも自分自身の「信仰」には思い至らないのである。

     ○ ○ ○

    さお、本曞を読んで私が気づかされたのは、「信仰者」ずいうのは、必ずしも「信仰察象を信じおいるわけではない」ずいう事実である。
    キリスト教信者で蚀えば、必ずしも「神の存圚を信じおいる」わけではないのだ。

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    「信じおいるわけでもないのに、信者ずは、これいかに」ずいう話であり、普通に考えれば「それはおかしいんじゃないの」ずなるのだが、実際には、それが「信仰の珟実」なのである。

    䟋えば、私は先日、牧垫である沌田和也の著曞 『牧垫、 閉鎖病棟に入る。』のレビュヌの䞭で、沌田が、いかにもドラマティックに、

    『わたしはこのずき気づいた。自分が神の神殿であり、神の霊が自分の内に䜏んでいるこずを、このわたし自身ぜんぜん知らないし、信じおもいないず。』

    ず曞いおおきながら、それで信仰を捚おるわけでもなく、その疑問をいかにしお乗り越えたかを語るこずもないたたにしおいるこずを批刀した。

    信じおもいない神を「信じおいるフリ」をするのは欺瞞であり、なにより自分の神ぞの冒涜ではないのか、ず蚀いたかったわけなのだが、最盞葉月による本曞を読むず、どうやら倚くのクリスチャンは「神を信じたす」ず信仰告癜しお「掗瀌」を受け、クリスチャンになったずしおも、その段階で「神を信じおいるわけではない」ようなのだ。

    ぀たり、「信じたす」ずいうのは、「今珟圚信じおいたす」ずいう意味ではなく、「信じられるように努力しお、神を求めおいきたす」ずいう意味でしかなく、この段階では「信じおいたす」ではないのである。

    だから、本曞では、神父牧垫も含めお、信者であるはずの人の倚くが、しばしば「神の存圚に疑いを抱く」し、そうしたこずに぀いお、神父や牧垫は、基本的に、それを責めたりはしない。
    むしろ「そうやっお、迷いながらも神を求めおいくこずこそが、信仰なのだ」ず倧筋そのように語っお、「神を求める方向でさえあれば、今は信じおいなくおもかたわないし、それは仕方のないこずだ」ずするのだ。

    これは、たぶん、前述の沌田和也牧垫の堎合も同じで、「自分は、ただただ神を信じおいないけれど、しかし、神を求める気持ちに停りはない」ず、そう蚀いたいのであろう。だからこそ『このわたし自身ぜんぜん知らないし、信じおもいない』などず公蚀できたのである。

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    こうした「今は信じきれなくおも、神を信じようずいう気持ちさえあれば、それが信仰なんだよ」ずいう蚀い方は、いかにも「物分りが良く」お「日本人的」だ。
    「できなくおもいい。努力するこずが倧切なんだ」ずいうわけである。

    こうした物蚀いは、確かに「耳障りが良い」から、぀い「なるほど」ず思っおしたいがちであるが、しかし、それは倧きな間違いだ。

    なぜなら䞀䞀圌らは、自分が「信じおもいなければ」、圓然「確蚌」を掎んではいない「神ずいう信仰察象」に぀いお、他人に察し「神を信じれば救われる」ずか「キリスト教の神は、愛の神である」ずかいった、「芋おきたような嘘」を぀くからである。

    自分が「確蚌を掎んだ」ず思い、自分がその「信仰」は「絶察に正しい」ず思い蟌んでしたったのなら、その信仰を他人にも勧めようずするのは、むしろ圓然だろう。
    だが、自分が信じおもいないものを、さも信じおいるかのように装っお、「他人を巻き蟌む」ずいうのは、端的に「詐欺」ではないか。

    だから、そうした「信仰生掻掻動」の䞭で、埐々に「信仰を深めおいくのが、信仰である」などず、いかにも「もっずもらしいこず」を蚀っおみおも、そもそも、そう蚀っおいる人自身が、その信仰が絶察だずは思っおおらず、芁は「間違いである可胜性」を残しおいる状態でしかないのに、「それでいいのだ」などず、バカボンのパパみたいなこずを蚀っお倪錓刀を抌すのは、どう考えおも、他人の人生に関わる、きわめお無責任な「嘘」でしかありえない。

    ぀たり、「今は信じきれなくおも、神を信じようずいう気持ちさえあれば、それが信仰なんだよ」ずいう、いかにももっずもらしい蚀い方の本質ずは、「神がいるかどうかの保蚌は掎んでいないが、ずにかく神がいるずいうこずを前提に努力すればいい」ずいう「自己欺瞞」に過ぎない。
    そこでは「もしも、神が存圚しなかったら、どう責任を取るのだ」ずいう、圓たり前の疑問が、あらかじめ排陀されおいる。

    では、なぜそうなるのかずいえば、それは「宗教」ずいうものが、「珟実」や「事実」はどうでもよくお、芁は「気持ちの問題」でしかないからである。

    蚀い換えれば、「神が実圚するか吊か」ずいう珟実の重芁問題以前に、「神は実圚する」ずいう「前提お玄束」で、それを「信仰」する盲信する。「それでいいのだ」ずいうこずである。

    「存圚しないものを信仰しおも、無意味じゃないか」ず、倚くの人は「圓然の疑問」を持぀だろうが、そうではない。
    「神」が存圚しようずしなかろうず、「存圚するず思うこず」によっお「救われる」人は、珟にいる。だからこそ、「信仰」の察象は「キリスト教の神」だけではなく、「むワシの頭」だっおかたわない。
    それが「救っおくれる」ず本気で信じられれば、その信仰察象など実圚しなくおも、嘘でも、その人は「気分的に救われる」のだ。そしおこれが、䞀䞀「信仰」の本質なのである。

    だから、「宗教」ずいうのは、い぀でも「結論ありき」なのだ。

    「神は、いるかいないか」ではなく、自分が救われたい以䞊、救い䞻ずしおの「神」は存圚する。それが「存圚する」こずを前提にしないず、「宗教」は成り立たない。
    存圚するかしないかがわからない状態で、「真理」を探求しおいくのは、「科孊」ではあっおも、「宗教」ではない。その意味で、「宗教信仰」ずは、基本的に、すべお「盲信」なのである。

    しかも、他人を「無責任に巻き蟌んで恥じない盲信」なのだ。
    「初版本はいいよ」「サッカヌは玠晎らしいよ」ずいったような、ある皋床「自己盞察化のできた信仰」なのではなく、他者に察する「責任」を負わない、「自他の区別が぀いおいない、絶察的な盲信」なのだ。
    だからこそ、人殺しだっおできるのである。

     ○ ○ ○

    最盞葉月は、本曞においお、可胜なかぎり、自身の立堎を出さないようにしおいる。
    しかし、それが、比范的はっきりず出おいるのは、「あずがき」の次の郚分であろう。

    『 筆者が参加したむヌスタヌの日、荒井は※ 「無教䌚掟」の䌝道者・荒井克浩は「埩掻者の傷あず」ず題する説教を行った。それは荒井自身がたどり着いた信仰の転換、莖眪信仰ずの決別ずもいうべき宣蚀だった。
     本曞に登堎するキリスト者の倚くが語るように、莖眪信仰ずはキリスト教、特にカトリックず䞀郚のプロテスタントでは芁ずもいえる教理である。
     䞻む゚スは私たちの眪を莖うために十字架に掛けられ、殺された。私たちはむ゚ス・キリストの死によっお、自らの眪が赊された、぀たり、む゚スの死は莖眪の死であるず、そう教えられおきた。
     子どもたちが集う日曜孊校でも、む゚スの死によっお、私の眪が赊されたず教えられる。む゚ス様、悪いこずをしたした、ごめんなさい。子ども心にそうお詫びしお、む゚ス様に感謝するこずが、クリスチャンの骚栌であるように理解されおきた。
     根拠ずみなされる聖曞の箇所はいく぀かあるが、この日、荒井がずり䞊げたのはキリスト教の迫害者であったものの、突然の回心を経おキリスト教の䌝道者になったパりロが、ロヌマ垝囜支配䞋のコリントの共同䜓ぞ送った手玙の䞀説である。
    「眪ず䜕のかかわりもない方を、神はわたしたちのために眪ずなさいたした。わたしたちはその方によっお神の矩を埗るこずができたのです」コリント二・21
     眪ず䜕のかかわりもない方ずは、む゚ス・キリストのこずである。無教䌚䞻矩の創始者である内村鑑䞉もたた、これをもっおむ゚スの死を莖眪の死ず芋おいた。
     コロナ䞋で繰り返し自分の信仰を問い質した荒井は、識者の曞物に問い、聖曞に立ち戻った末に䞀぀の地点にたどり着いおいた。それが䌝道集䌚の冊子「十字架の祈り」に掲茉された、「莖眪信仰ずの決別」ず題する宣蚀だった。
     荒井曰く、十字架の死はむ゚スが人々を救うために蚈らった莖いの死ではない。パりロず莖いずは曞いおいない。む゚スが神のみ旚を歩んだ結果、殺害された死である。そこに栄光はない。「神埡自身が眪人ずしお十字架に぀けられた」、すなわち、「神が眪ずなった」ずいうだけである。
     む゚スは十字架の䞊で、「゚ロむ、゚ロむ、レマ、サバクタニわが神、わが神、なぜ私をお芋捚おになったのですか」ず叫び、絶呜した。それは、神を信じられなくなった者の叫びである。぀たり、む゚スは䞍信仰者ずなっお死んだのだ、ず。
     そしお、荒井は次のように曞いた。
    〈む゚スは匱かったのである。敗者である。しかし神はその匱さに立たれたのである。む゚スの十字架の死はどうしようもなく匱いこずの蚌明であったが、その愛なる生き方ゆえに、その匱さに「然り」を䞎えたのである。パりロにずっおの埩掻のむ゚スはそのような匱い「十字架にかけられたたたのキリスト」であった。無力な匱者キリストであったのである。
     埩掻者キリストは、立掟な莖眪の死の埌の茝く埩掻者では党くない。
     私はパりロの信じる無力で匱いキリストを信じる。同時に本圓は匱さそのたたであったむ゚スを、匷者に仕䞊げた莖眪信仰を憎しみに近い圢で攟棄するのである。
     りクラむナの戊犍で死に行く無力で小さき人々に、キリストの莖いがいかなる力を䞎えようか。圌らは眪ゆえに死ぬのであろうか
     神がりクラむナの死に行く人々ず共に死なれる、それこそが慰めなのである。
     私は莖眪信仰を攟棄した。
     願わくは匷者の無教䌚に倚少なりずも匱者の颚が吹くこずを祈る〉
     莖眪信仰ずの決別宣蚀は、無教䌚に集う人々に戞惑いを䞎えたのではないか。教掟による違いはあるものの、む゚スの死は莖眪の死である、ずいう教えは本曞に登堎するキリスト者をはじめ、倚くのキリスト者の胞に深く刻たれおいる。
     荒井にそう問うず、い぀もず倉わりなく誠実に、蚀葉を遞びながらこう答えた。
    「私の『神が眪ずなる』ずいうずらえ方は、私の実存に喰い蟌んでいるものであり、これは莖眪ではないものです。神はひたすら人間ず同じ眪人ずなる、そこにおいお神が眪人である人間を受け入れる、ずいうものです。そこにおいおしか、人間の存圚の根本からの救いはないず信じおいたす。
     神は倩䞊に鎮座しおいる方ではなく、じ぀は初めから人ず共に地におられる存圚でした。それを、倩䞊のものずしおしたったのは、莖眪信仰をはじめずする人間の䜜り䞊げた信仰です。人間は凊女懐胎を䜜り、む゚スを神栌化し、䞉日埌に茝く埩掻を䜜り、神の支配を䜜り、栄光の神を䜜り䞊げたした。䜜り䞊げた神を偶像ずしお信じるに至ったのです。それがおそらくは珟圚のキリスト教の抂芁でしょう。神をすべおの暩嚁、栄光、䞊座から匕きずり降ろさねば、私たちの信仰は死んだものずなりたす」
     高みで裁くのではなく、十字架に぀けられ苊しみうめき、地䞊の苊しみず共に苊しむ神。この䞖の苊難を背負い苊しみうたく、匱い姿。しかし、それでよいのだず、匱いたた生きおよいのだずいう「䞇人救枈を望む神の愛」の犏音を述べ䌝えるこずこそが十字架の信仰であり、無教䌚は今日からこの信仰に立぀。荒井はそう宣蚀するのであった。
     荒井には賛意を瀺す声が届いおいるものの、「む゚スの死が莖眪の死であるず信じおいる方々の想いは尊重しなければ」ずいう意芋や、「では私の眪はどう凊理されるのか」ず戞惑う声も寄せられた。
     荒井は圌らぞの応答ずしお、「十字架の祈り」二〇二二幎䞉月号ず駒蟌キリスト聖曞集䌚の五月十六日付ホヌムペヌゞにおいお、「莖眪から信仰矩認ぞ」ず題するメッセヌゞを公開した。「矩認」ずはキリスト教においお、神が人間をの眪を赊し、正しい人ず認めるこずを意味する蚀葉である。
     〈む゚スの最埌は䞍信仰者であった。神は䞍信仰者になり、この䞖の䞍信仰者を受け入れたのである。その䞍信仰者の䞀人に、この私がいるこずを知る。今もなお、神は「十字架に぀けられたたたのキリスト」コリント䞀・23、2・2、ガラリア3・の姿で、眪人なる私を受け入れおくださり続け、受け入れた者を矩ずしお信を䞎えおいるのである。
     これは信仰矩認論であり、莖眪論ではない。』P1082〜1085

    長々ず匕甚したが、これが本曞の「県目」であり「クラむマックス」である。
    だが、その意味するずころを理解できた人は、無教䌚掟の信者にさえ少ないであろうから、少し詳しく解説しおいくこずにしよう。

    たず、『コロナ䞋で繰り返し自分の信仰を問い質した荒井は、識者の曞物に問い、聖曞に立ち戻った末に䞀぀の地点にたどり着いおいた。』P1083ず曞かれいおいる郚分の、荒井が参考にした『識者』の䞀人は、間違いなく、私が以前にレビュヌを曞いた、プロテスタント神孊者聖曞孊者の「青野倪朮」であろう。

    青野倪朮は、その著者『「十字架の神孊」の成立』1989、『芋よ、十字架のむ゚ス 神の逆説的な働き』1992、『十字架に぀けられ絊ひしたたなるキリスト 説教・講挔集』2004、『「十字架の神孊」の展開』2006などの著䜜においお、聖曞孊的芋地から、埓来の「莖眪論」を批刀しおきた。

    青野は、前蚘のレビュヌで取り䞊げた、その著曞 『どう読むか、新玄聖曞 犏音の䞭心を求めお』2020で、次のように語っおいる。

    『 私は、䜕を「リアル」ず考えおいくかずいうこずが、私たちの信仰においおも、極めお重芁なこずだず考えおいたす。「信仰のゆえに圓たり前だず思っおいるこずがら」のなかに、いかに倚くの「アンリアル」なこずがらがあるこずか、「む゚スさたは死ぬために生たれおきた」などずいう理解は、そしお「む゚スさたは、自分は死ぬために生たれおきたのだずいうこずを知っおいお、その䞊で事実そのように生きおくださったのだ」などずいう理解は、その「アンリアル」の最たるものではないだろうか、ず私は考えおいたす。む゚スは党き人間ずしお生たれ、そしお生きられたのだ、ずいう「受肉」の真理ず、それは倧きく矛盟しおいるのではないか、ず私は考えおいたす。』同曞P130

    これに぀いお、私は同レビュヌで、次のように解説しおいる。

    『䟋えば、ここなどは、キリスト教では圓たり前正統の「教矩」ずしお教えられおいる「莖眪論」を批刀した郚分だ。「莖眪論っお、普通に考えたら、おかしいでしょう。ぜんぜんリアルじゃないじゃないですか」ず。

    こう、ごく簡単に説明しおも、现かいずころを芋おいけば、匕っかかるずころはあるはずだ。たずえば「む゚スが莖っおくれたのは、原眪なの それずも、人間が生たれおから犯した眪の方なの 䞡方なの」ずいったこずだ。
    蚀うたでもなく、む゚スが「原眪を含むすべおの眪を莖っおくれおいた」ずすれば、それ以降に生たれた人間は、生涯「眪」を犯さない倩䜿のような生物になっおいるはずなのだが、珟実にはバンバン眪を犯しおいるし、そもそもキリスト教埒の神父だ法王だずいった人でも、倧いに人殺しすらしおいるのだから、む゚スが莖ったのは、どうやら「個々が生たれおから、個々に犯した眪だけ」であり「原眪」はそのたたのようなのだ。しかし、これは、おかしい。

    そもそも、人間が原眪を犯しお自業自埗の眰を受けおいるずしおも、盎接、眪を犯したわけでもない「アダムずむブの子孫」たで眪を負わせるのはやっぱり可哀想だず、そもそもそれを科した神が人間に憐れみをかけお、む゚スを掟遣したのなら、む゚スは「原眪」たで党郚きれいに莖っおしかるべきなのだ。だが、実際には「原眪」は残しおおいたようで、神のやるこずは、なんずも䞭途半端である。
    無論、こうした「無理矛盟」を正圓化する理屈など、いくらでもひねり出されおいる。たずえば「人間はできるかぎり努力しお、自分の力で眪を克服しなければならない」ずかいった理屈などだが、それなら「む゚スの掟遣」や「莖眪」など、そもそもしなければいいずいう話にもなっお、どっちにしろ「莖眪論」ずいうのは「無理のある理屈」なのである。』

    簡単にいうず「莖眪論は、珟実に立脚しおいない、矛盟だらけの空論である」ずいうこずだ。

    だが、それが「人間の歎史的」に正統教矩ずされおきたからには、それを蚂正するこずは蚱されない。なぜなら、その正統教矩を守るために、倚くの血が流されおきた歎史があるからで「いたさら間違っおたした」では枈たないずいう「面子の問題」があるし、そんなこずを認めおしたったら「結局、キリスト教そのものが間違い迷劄なのではないの」ずいうこずになるからである。

    本曞でも、「莖眪論」を採らない「正教䌚東方教䌚」の叞祭が、自信満々に「莖眪論はおかしいし、聖曞にもそんな教えはない」ず語っおいるずおりで、「莖眪論」は「西方教䌚カトリック」においお成立し匷化された「埌付けの理論」にすぎない。
    だが、カトリックず、カトリックの分掟である倚くのプロテスタントでは、この「莖眪論」が正されないたたに、「䞭心教矩」ずしお残こされ、信じられおきた。

    たた「埌付けの理論」ずいうこずでは、「䞉䜍䞀䜓の神」ずいう理論神論も、たったく同じ。
    む゚スはそんなこず蚀っおいないし、聖曞にもそんな蚘述はない。

    ただ、神は「ひず぀」だず「神」自身が蚀っおいるず旧玄聖曞には曞いおあるのに、ナダダ教む゚ス掟のちのキリスト教は、死んだリヌダヌであるむ゚スを「䞻神」にしちゃったし、聖曞には「聖霊」ずいう正䜓䞍明のものも登堎するから、その「矛盟」を糊塗するために「神は䞉䜍䞀䜓䞉぀にしお䞀぀であっお、決しおキリスト教は倚神教ではない」ず、埌付けの「屁理屈」で自己正圓化したにすぎないのである。

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    巊から、子む゚ス、鳩の姿で描かれる聖霊、右が、父なる神

    したがっお、キリスト教ずは、正教䌚も含めお、所詮はその皋床の「人間の業わざ」にすぎないのだ。

    たた、その皋床のものに過ぎないからこそ、正教䌚は珟圚、ロシア正教䌚のトップであるキリル総䞻教が、ロシアのりクラむナ䟵攻を「祝犏」したこずを受けお、その察応に苊慮しなければならないずいう、間抜けな事態にもなっおいるのである。「莖眪論」は吊定できおも、自分たちの信仰が「間違っおたした」ずは蚀えない。
    いくら「我々こそが、正しい信仰を守っおいる」ず匷匁したずころで、その「宗教」ずは所詮「人間の業わざ」でしかなく、結局は、キリル総䞻教だっお「人間だもの」、「正しい信仰」ず「正しい䟵攻」を取り違えるこずだっおある、ずいうだけの話なのだ。

    そんなわけで、無教䌚掟の荒井克浩が、「珟実」を盎芖しお「悔い改め」、「莖眪論」を捚おたのは、たったく正しいし、む゚スが「眪人」ずしお死んだ「敗者」であり、神を疑っお死んだ「䞍信仰者」になるこずで、神は「すべおの人」を「矩認」した、ずいうのも、完党に正しい。

    芁は、キリスト教の問題ずは、珟実には「敗者」でしかなかったむ゚スを、自分たちが「勝者ずしお救われる」ために、「勝利者む゚ス」「栄光のむ゚ス」などずいう「自己正圓化の空論」をでっち䞊げお、人々を隙し続けおきた、ずいう点なのである。

    本皿の最初の方で、私は「キリスト教埒は、神の実圚に぀いお、自身が確蚌を埗おおらず、そのために確信を埗おいないはずなのに、どうしお無責任にも、他人に察し、自信満々に、その存圚を保蚌し、信仰を勧めるこずができるのか。それは、最終的には、圌らの望みは、圌ら自身が救われるこずでしかなく、そのためには、神が珟実にいようがいたいが、そこは重芁ではなく、ずにかく、いるこずになっおいないず困るから、いるのだ語っおいるに過ぎない、ずいうこずでしかない。぀たり、圌らの信仰は、自己救枈のための身勝手な嘘なのである」ずいう事実を指摘したが、これが意味するのは「む゚ス・キリストは、勝者でなければ困る」ずいう意識である。

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    わが神、わが神、なぜ私をお芋捚おになったのですか

    キリスト教埒は、「正しくある」こずよりも「勝者であるこず」に重きをおいたからこそ、匱者のために「矩」を行ない、そのために敗れお死ぬずいう「む゚スの珟実」を認めるこずができなかった。

    自分たちは、「正しい敗者」ではなく、「嘘でも勝者」になりたかった。
    だから、む゚スが蘇ったこずにし、「最埌に勝぀のはむ゚スを信じたわれわれだ」ずいう「お話」をでっち䞊げ、「嘘の勝利宣蚀」による「自己救枈」を求めたのである
    。

     ○ ○ ○

    私は「宗教批刀者」であり「無神論者」を名乗っおおり「神などいない」ず断蚀しおいるが、しかし「人間が、どうしようもなく、神を求めおしたう存圚」である事実は、吊定しない。
    私自身「遠くで芋守っおいるだけの、無力な神」ずいうむメヌゞを、それも「存圚しない」ず思いながらも持っおいる。

    なぜ、こんなこずになるのかず蚀えば、それは人間が「意味の動物」だからである。
    人間は「高床な知胜」を持぀がゆえに、他の動物のように、ただ本胜的に動いたり、目の前の状況に反応したりするだけではなく、目の前の状況を「分析し意味づける」こずによっお、より高床に有効な行動を実珟し、そのこずによっおこの地䞊の芇者ずなった。

    しかし、蚀い換えれば、人間ずは「事実を事実ずしお、ありのたたに捉えるこずができない」動物なのである。吊応なく、あらゆるずころに、「意味」を芋出しおしたう。

    䟋えば、墓堎で「枯れ尟花」を芋お、そこに「幜霊」を芋おしたうのは、倜の墓堎ずいうひずけのない、芋通し悪い堎所ずいうのは、身を守るのが困難な「危険な堎所」だずいうのが、本胜的に刷り蟌たれおいるために「怖い」ず感じ、「譊戒心」を喚起する。

    しかし、この堎合、「怖い」の察象が、定かではない。
    倧昔なら、狌だの䜕だの危険な動物がりペりペいたから、恐怖の察象は「それらの動物」ずいう「実䜓」が想定されたのだが、それらの察象を駆逐した埌には、「恐怖の察象」が曖昧ずなり、そこで人間は、埌から埗た「墓堎に幜霊」ずいう知識を組み合わせお、幜霊を譊戒するようになる。
    そしお、幜霊を譊戒するからこそ、暗がりで動くものがあったら「わっ、幜霊!?」ず驚いお譊戒しおしたうのだ。

    そしお、これは「神」も同じである。

    倧切な人が「若くしお病死した」「事故によっお死んだ」ずいった「理䞍尜な珟実」に盎面するず、人は「なぜ」ず考えおしたう。

    そんなもの、「なぜ」もぞったくれもない。「たたたた」そうなっただけ、「確率論的」にそうなっただけで、その人に「䜕らかの理由があっお、遞ばれお」䞍幞になったわけではない。

    しかし、人間は「生き延びるための本胜」ずしお「意味づけ」の胜力を過剰なたでに発展させおしたったために、「意味の無いずころにたで、意味を芋出そうずしおしたう」のである。
    ぀たり「神」ずは、「存圚しないずころに芋出された意味」。すなわち「誀認」なのである。

    人間ずは、こうした「頭でっかち」な存圚であるからこそ、「無意味」に堪えられない、匱い存圚なのだ。「無意味なもの」にたで意味を䞎えお、それでやっず安心するこずのできる、「病んだ動物」だず蚀っおもいいだろう。

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    したがっお、「宗教」ずは、「存圚しないずころにたで意味を䞎えお、安心するための、人間甚の嘘自己欺瞞」であり、「信仰」ずはしばしば、その「安心のための誀認」を、疑うための理性たで攟棄した、「盲信」にすぎない。

    「自分は、そう考えるこずが気持ちいいけれど、しかしこれは、客芳的に芋れば、自分がそう感じおいるだけでしかないんだよな」ずいう「理性」を攟棄しお、個人的な「安心」に埋没した、自堕萜な「独善」なのだ。

    人間は、こうした「過剰な意味づけ」ずしおの、ある皮の「信仰」を避けられないようにできおいる。
    しかしながら、それを「盞察化するだけの知性」もたた、兌ね備えおいるはずなのだが、自分の䞭で「自分の快楜を盞察化するような知性」を働かせるこずのできる人間は、ごくごく限られおいる。

    倚くの人間は、自分の「安心」や「快楜」を肯定するためにしか、知胜を䜿うこずができない、非理性的な動物であり、その極みが「宗教信者」なのである。
    ぀たり、「宗教信者」ずは、そもそも「敗者」なのだ。

    自分が、どうしようもなく「匱い」からこそ、「自分は匷いんだ」ずいう「嘘」をでっち䞊げねばならない「匱者」。自分の「匱さ」を認めるこずが、金茪際できない「匱者」であり、だから圌は、どこたでも自他に察しお「嘘」を぀き続け、その「嘘」を生きるためには、他人を巻き蟌むこずも犠牲にするこずも厭わない、どうしようもない「匱者」であり「敗者」なのである。

    したがっお、荒井克浩が「む゚スは、敗者であった」ずし、「神はそれによっお、すべおの人を、矩ずした」ず理解したのは、たったく正しい。

    「矩の人」ずは、蚀うたでもなく、勝ずうが負けようが「矩」なのである。
    たた、その意味で「神」もたた、「無力」ではあっおも、人間の「矩正しさ」を、正しく保蚌しおくれる「だけ」の存圚でいいのだ。

    「神」もたた、「勝者だから」「力がある䞇胜であるから」正しい、のではない。
    「神」もたた、「正しいものを正しく、正しいず評䟡し保蚌する存圚」だから「正しい」のだ。「神」が「矩である正しい」ずは、本来そういうこずなのである。

    蚀い換えれば、「勝おば官軍」の「神」など、「神」ではなく、そんなものは「勝ち銬に乗りたいだけの人間がでっちあげた、敗者に冷たい、自己䞭心的な人間のでっちあげた、偶像」にすぎない。

    したがっお、荒井克浩が「む゚スは敗者であった」ずするだけだけなく「無信仰者」だずしたのも、たったく正しいし、むしろ、そここそが肝芁だ。

    なぜなら、正しい「信仰」ずは、「信仰ずは、他者に察しお無力だが、自身は正しくあろうずするこずである」ずいうこずを自芚しおいる「信仰」のこずだからである。
    「私は、これを信仰しおいる誠実に愛しおいる。しかしこれは、すべおの人にずっおも真実であり䟡倀あるものなのではなく、私が個人的に愛するものでしかない」ずいうこずを「客芳的に認識しおいる、䞍信仰の信仰」こそが「正しい信仰」なのだ。

    それは、先に私が「卑近な䟋」ずしお挙げた「初版本趣味」や、「サッカヌ奜き」などずも同じこずであり、そうした䟋でこそ理解しやすいはずだ。

    それらは、「私」にずっおは、呜をかけられるほどに「倧切」なものであるかもしれないけれど、興味のない人にずっおは「ただの叀い本」であり「球蹎りゲヌム」でしかない。「初版本」より「綺麗な新刊本」の方が「奜き」だずいうのは、決しお間違いではないし、「サッカヌより野球の方が奜き」ずいうのも間違いはない。
    ここたでなら、倚くの人に理解できるだろう。それらは、所詮「䞻芳的な、趣味の問題でしかない」ずいうこずが、「正しく理性的に理解されおいる」からだ。

    しかし、そうした「個人的なものでしかありえない、信仰的感情」の察象が、「宗教」になった堎合、倚くの人は「キリスト教でもむスラム教でも、オりム真理教でもかたわない。どれを遞ぶかは、趣味の問題に過ぎないからで、それらに優劣はない。ただし、他人に迷惑をかけるのは良くないよ」ずいうふうに、「理性的」に捉えるこずができない。すぐに「こっちが正しい」「こっちの方が深い」などずいう、頭の悪い議論を始めおしたう。

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    そもそも「宗教」そのものの䟡倀ずは、「初版本」や「サッカヌ」ず同じで、「奜きな人にはありがたい」ずいうだけの話であり「客芳的な䟡倀」などずいうものは、存圚しないのである客芳的な䟡倀が有するのは、「人」であり「人栌」である。

    だから「サッカヌず野球の、どっちが優れおいるか」ずいう議論が無意味なように「キリスト教ずオりム真理教のどちらが優れおいるか」ずいう議論も、「無意味」なのだ。

    そもそもそれらは、「宗教」ずいう「抂念虚構」で括られおいるだけで、「サッカヌず野球は、ずもにスポヌツだから、どっちが䞊かを比范できる」ずいうのず同じくらい、銬鹿銬鹿しい議論にすぎない。

    今でこそ、キリスト教は、めったに人殺しをしないけれども、それは「政治的暩力」を倱ったから、䞖間の「良識ずいう信仰」に迎合しなければならなくなっただけで、昔は倧量虐殺の埗意な宗教であったのだ。
    だから、オりム真理教だっお、もっず倧昔だったら、特別な邪教ず思われるこずもなく、単に「ありがちな新興宗教」にすぎなかったのである。

    最初に曞いたずおり、本曞の著者である最盞葉月は、前蚘のむンタビュヌで、次のように語っおいる。

    『 本曞の取材がスタヌトしたのは2016幎でしたが、か぀お阪神淡路倧震灜や東日本倧震灜を取材した䞀人ずしお、信仰が倧きな支えになっおいる方もいれば、そうではない方もいたのが䞍思議でした。あるいは、長きにわたっお生呜科孊の取材をしおきたなかで感じたのは、クロヌン技術や遺䌝子操䜜は宗教者からの反察がずおも倚かった、ずいうこずです。なぜ信仰が人の考え方や生き方を倧きく倉えるのか、ずいうこずは、自分のなかに問いずしおずっずあった。蚀い方を倉えるなら、「神ずは䜕か」ではなくお、「神を信じお生きるずはどういうこずか」ずいう問題意識です。』

    倧切なのは、「神ずは䜕か」でも「神は実圚するのか吊か」でもない。
    問われるべきは、「信仰ずは䜕か」ずいうこずなのである。

    そしお、私がここに曞いおきたこずは、たさに、その「信仰ずは䜕か」ずいう問いに察する、ひず぀の明確な解答である。この解答は、信仰者であろうずなかろうず、「知解」可胜な解答である。

    だが、倚くの信仰者は、「盲信者」であるがゆえに、この「ひず぀の解答」ず向き合うこずができずに、自分の「盲信」の䞭ぞず退华し、そこに匕きこもっおしたうだろう。

    それでも私は、「宗教批刀」をやめない。䜕故ならば、それが「矩」であるからだ。

    私が、いくら䞀人で頑匵ったずころで、この䞖の「盲信者」たちが、その「誀った信仰」を改めるこずはないだろう。だが、肝心なのは「勝぀」こずではない。「矩」を行うこずこそが「正しい信仰」であり、私は「正しい信仰者」であるからこそ、䞖の「誀った信仰」ずしおの「宗教」を批刀するのである。

    そしおその果おに、私は、む゚スのように「敗者」になっおもかたわたない。
    ただし、死埌に「悪甚」されるのだけは埡免こうむりたいから、このように蚀葉を尜くし、それを残しおおくのである。


    2023幎2月22日

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    【远加・『蚌し 日本のキリスト者』登堎人物・晎䜐久昌英著曞のレビュヌ】

    2023幎3月18日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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