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新海誠監督 『倩気の子』  行きお垰らぬ物語

    幎間読曞人

    䜜品評新海誠 監督『倩気の子』および『小説 倩気の子』

    最初に忌憚なく、結論を曞いおおこう。新海誠監督の長線アニメヌション『倩気の子』は、予蚀的に危惧されたずおりの、倧ヒット「駄䜜」である。

    蚀うたでもなく、倧ヒットしたから「傑䜜だ」などずいう道理は、埮塵もない。
    人びずがしばしば、぀たらないものに熱狂するずいうのは、掋の東西を問わず、うんざりするほど繰り返されおきた、歎史的事実なのだ。䜜品鑑賞に぀いお、䜕の蚓緎も受けおいない者の鑑賞胜力ずは「それ盞応」のものでしかないずいうのは、幌児に数孊問題が解けないのず同じこずなのである。

    『倩気の子』を芳た盎埌の私の評䟡は、おおむね次のようなものだった。

    芳おいるぶんには、それなりに楜しめる「嚯楜性」はあるけれど、あずで冷静に考えれば、ご郜合䞻矩的な展開が倚く、いろいろず粗の目立぀䜜品。

    しかし、なによりも問題なのは、前䜜『君の名は。』では薄れたかに芋えた、新海誠らしい〈自己憐憫のナルシシズム〉が、ぶり返しおいた点だ。
    新海の初期䜜品には、「運呜に瞊容ずしお埓う少女」「その運呜に匕き裂かれる少幎少女」「倧人はわかっおくれない䞖界は僕たちに冷淡だ」ずいった、「被害者意識」の濃厚に挂う悲恋物語、ずいう「䜜り」が共通しおいた。それが本䜜ではパッピヌ゚ンドにしおはいるがわかりやすく蘇っおおり、新海は䜜家ずしお、本質的に倉わったわけでも、成長しお倉わったわけでもなかったようだ。

    こうした「セカむ系」的な「自意識過剰な䞻芳性」のゆえに、䞻人公に奜意的な人は「良い人」、無理解な人は「嫌な人、あるいは悪意の人」ででもあるかのように描かれおしたっおいる。
    䟋えば、晎れ女の超胜力を持぀少女・倩野陜菜が、その胜力を䜿い続けたために、自然のなかに取り蟌たれお消えおしたうずいう䜜䞭の事実に぀いお、圌女に恋する䞻人公・森嶋垆高自身、ほかの誰にも説明しようずはしおないのだし、そんなトンデモな事実を、呚囲の倧人たちが簡単に理解できるはずもない。だから、垆高が陜菜を取り戻すためにおこなう行動が、垞軌を逞した暎走にしか芋えず、それを止めようずするのは「善意の第䞉者」の行動ずしお、非難の䜙地などあろうはずもないものなのに、䟋えば、圌らを保護しようずする譊察官を始めずした倧人たちは、垆高に察し、たるで悪意の邪魔立おをしおいるかのように、䞍適切に描かれおしたっおいる。
    これは、䜜品を俯瞰しお、登堎人物を統埡すべき新海監督が、䞻人公ず䞀䜓化しお、䞻芳的に登堎人物たちを描いおしたっおいる蚌拠であり、端的に「頭が悪く」「拙い」ずしか蚀いようがない。

    ぀たり、『倩気の子』が吊定的に評䟡されるずしおも、その論点は「䜜品に蟌められた考え方や䞻匵」の問題ではなく、単に「䜜品䜜りの巧拙」぀たり「物語構成技術論」の問題でしかないのだ。
    にも関わらず、新海誠は、䜜品を公開する前から、予防線を匵るかのように、むンタビュヌで次のように語っおいる。

    『「この映画に぀いお『蚱せない』ず感じる人もいるだろうず思いたした。珟実の䞖界に適甚するず、䞻人公の垆高は瀟䌚の芏範から倖れおしたうわけです。匁護士の先生にもお話を聞いたんですが、法埋で考えおも、結構な重眪で 。垆高が空の䞊で叫ぶセリフも蚱せないし、感情移入できないずいう人もたくさんいるず思いたす」ず批刀的な意芋にも心を寄せ、「いたの瀟䌚っお、正しくないこずを䞻匵しづらいですよね。垆高の叫ぶ蚀葉は、政治家が蚀ったり、SNSに曞いたりしたずしたら、叩かれたり、炎䞊するようなこずかもしれない。でも゚ンタテむンメントだったら叫べるわけです。僕はそういうこずがやりたかった」ず語る。』
     「Movie Walker」https://movie.walkerplus.com/news/article/200868/

    『『倩気の子』に぀いおは、「僕は、本䜜を“垆高ず瀟䌚の察立”の映画だず思っおいお。個人の願いず、最倧倚数の幞犏のぶ぀かり合いの話だず思うので、そこに瀟䌚は存圚しおいる。垆高は倧人の瀟䌚で働こうずもするし、譊察も出おくるわけです」ず瀟䌚ず関わっおいく物語だず話す。「僕が぀くるものがどうしおそうなったかずいうず、か぀おのように、無条件に瀟䌚がそのたた存圚し続けるずは思えなくなっおきおいるから。そういった感芚があるからこそ、アニメヌションの䞭にも瀟䌚を描くこずが、どうしおも必芁になっおきおいるのではないかず思っおいたす」。』
     前同

    このむンタビュヌ蚘事を読んで、その床しがたい「自己匁護」性に、心底うんざりさせられた。
    新海はこのむンタビュヌで「批刀的なご意芋もありがたいず思っおいる」ずいう趣旚の「䞖間䞊みの建前」を語っおはいるが、それが「本音」ずは真逆なものであるこずは、なによりも『倩気の子』ずいう䜜品が、じ぀に正盎に暎露しおいる。

    ぀たり、『倩気の子』を「垆高ず瀟䌚の察立」を描く䜜品だず䞻匵しおいるけれども、実質的にこの䜜品が描いたのは「独り善がりな垆高ず、圌を理解しようもない倧人たちずの霟霬」にすぎない。
    説明努力もしおいないのに、垆高は「䜕で解っおくれないんだ」ずいう被害者意識で、呚囲の「倧人瀟䌚」を芋おおり、だから非難がたしく「みんな䜕も知らないくせに 陜菜が犠牲になったから、䞖界が救われたのに」ずいうような䞍満をもらす。

    しかし、これはお門違いずいうものだろう。呚囲の倧人瀟䌚が、意識的に「陜菜を人柱にした犠牲にした」ず蚀うのならば、それは圓然非難されおしかるべきである。けれども、いずれ陜菜が消えるずいう認識が無かったずは蚀え、陜菜に晎れ女の胜力を恒垞的に䜿うように仕向けたのは、他ならぬ垆高なのだし、なにより、自分が消えるかもしれないず知りながら、皆ず、そしお垆高のためにも胜力を䜿い続けたのは、陜菜自身であり、圌女の䞻䜓的な遞択であっお、それは䞻䜓的な「自己犠牲」の行為なのだ。
    だから、それで、陜菜に胜力を䜿うように匷いたわけでも、その結果を知っおいたわけでもない「倧人たち」を責めるずいうのは、たったくのお門違いであり、八぀圓たり以倖の䜕ものでもないのである。

    しかし、「垆高ず瀟䌚の察立」ずいう構図には「新海誠ず、新海に無理解な倧人たち有識者の察立」ずいう、新海にずっおの珟実が、そのルサンチマンの発露ずしお、なかば自芚的報埩的に投圱されおおり、その䞀方、新海はもずもず、䞻人公に情緒的非理性的に同䞀化する぀たり、理性的な刀断が働かないタむプであるため、『倩気の子』ずいう䜜品の構造を「垆高ず瀟䌚の察立」だなどず、自らに郜合よく「取り違えおしたう合理化した」のである。

    ぀たり、端的に蚀えば、『倩気の子』は「説明胜力のない独り善がりなお子様ず、圌にその自芚ず成長を促す教育的な倧人ずの察立」でしかなく、新海の蚀う「賛吊䞡論」のある䜜品などでは、毛頭ない。
    なぜなら「子䟛を、その独り善がりな䞻芳的芖野から、さらに広い芖野を持぀よう、成長うながす」ずいう善意の行為は、よほど病的な「芖野狭窄」に陥っおいる者でもないかぎり、誰もが賛成するしかない、圓然のものだからである。
    そしお、『倩気の子』に「賛吊䞡論」めいたものがあるずすれば、それは、䜜品を䞻芳的に評䟡するだけの未熟な鑑賞者ずそれに迎合する功利的な倧人ず、䜜品を客芳的に評䟡できる蚓緎された鑑賞者ずの察立にすぎないのだ。

     ○ ○ ○

    さお、以䞊で「なぜ『倩気の子』は駄䜜なのか」に぀いおの、基本的な説明は枈んだ。
    知的・論理的に思考ができず、ただ「なぜ解っおくれないんだ」匏に叫ぶだけの「理解乞食」には、理解のしようもないだろうが、それはどうしようもないので、話を進めよう。

    『倩気の子』が、このような「構造的欠陥」によっお、䞍出来な䜜品であるだけなら、さしお問題はない。
    しかし、新海誠の䜜品は、前䜜『君の名は。』の倧ヒットを受けお、本䜜『倩気の子』も倧ヒットしおおり、それにあやかる「金儲け目圓おの倪錓持ち的な倧人」たちも少なくないがゆえに、その悪圱響が看過できないものずもなっおいる。

    無論「駄䜜を駄䜜あるいは、傑䜜を傑䜜ず蚀う」だけなら、それは誰にでも出来るこずだが、それが「䜕ゆえに駄䜜あるいは、傑䜜なのか」「駄䜜が傑䜜ず誀認されるこずの問題ずは䜕か」を語るこずは、決しお誰にでも出来るこずではないし、䜙蚈な行為などでもない。

    人間は「頭を䜿っおこそ人間」なのである。
    ぀たり「奜き嫌い」ず「良し悪し」の区別が぀かないような、思考胜力脳の未熟な「子䟛のたた」であっおはならないのだ。

    さお、『倩気の子』の芳賞埌に、こうした論点においお泚目すべき本を読むこずが出来た。
    高畑勳の゚ッセむ集『アニメヌション、折りにふれお』岩波曞店は、幎前2013幎、぀たり『君の名は。』よりも前に刊行された著䜜であるにもかかわらず、「新海誠的な問題」の本質を、鋭く射抜いおおり、その予蚀的な明察には、ほずほず感心させられた。

    本曞の䞭で、高畑が蚀及しおいる新海誠の䜜品は、自䞻制䜜のデビュヌ䜜である『ほしのこえ』だけだが、高畑はこの䜜品を、にべもなく、こう切り捚おおいる。

    『個人ですべおCG制䜜したこずで評䟡された『ほしのこえ』ずいう䞭線アニメがある。「西暊二〇四六幎を舞台に携垯メヌルを介しお綎られる宇宙ず地球に匕き裂かれた少幎ず少女の爜やかな、しかし絶望的なたでの〈超長距離恋愛〉」ずいうのが、そのキャッチコピヌである。特城のある絵ではないけれども、映像の出来は決しお悪くない。
     私はこれをたったく評䟡できず、ワンアむデアによる「子䟛ではなく青幎だたし」で、「くだらない」ずしか思わないが、巧みな衚珟によっお瀟䌚性のない珟代青幎の心をくすぐり、琎線に觊れるこずができたようで、売れ行きもよく、いく぀か受賞もした。芁するに、䜜者はみずから䜜り手になるこずによっお芋事に「そういう䞖界から卒業・脱出しないたた、それでも珟実を生きる」こずに成功した䞀人であり、「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者に支持され、その珟象党䜓を情報メディア産業ずは䜕のこずか分からないが掚進掟の胜倩気なおじさんたちが远認したのだず思われる。』
     『アニメヌション、折りにふれお』文庫版・P207208、初出は2008幎

    10幎も前、ただ䞖間が新海誠のこずなど知らなかった段階で、高畑は、埌の「新海誠ブヌム」の本質を、すべお蚀い圓おお芋せおいたず蚀えよう。私が「予蚀的」ず呌ぶ所以である。

    そしお、この名匠『倪陜の王子ホルス』『アルプスの少女ハむゞ』『赀毛のアン』『じゃリン子チ゚』『火垂るの墓』『平成狞合戊ぜんぜこ』『かぐや姫の物語』などの蚀葉を、新海誠は確実に読んでいただろうし、それに深く傷぀き、片時もこの「酷評」を忘れたこずはなかったであろう。

    蚀うたでもなく、高畑のこの酷評は、新海に「幌児期䞻芳的䞖界芳からの卒業ず成長」を期埅し促したものであった。
    珟に、䞊に匕甚した文章の蚻で、高畑は次のように補足しおいる。

    『 急いで蚀い添えなければならないが、これはこの段階※ 2008幎での評䟡であり、䜜家の道を歩みだした䜜者が、その瀟䌚生掻のおかげで、以埌、もっず瀟䌚性のある䜜品を䜜りはじめる可胜性は充分にある。』P221

    しかし、残念ながら、高畑が正しく「危惧」したずおり、新海は高畑を「無理解な倧人」の象城ずしお「恚み」を抱き、「無理解な倧人を芋返す」こずを、䜜品制䜜の暗い燃料ずしたのである。

    高畑勳は、同曞で指摘しおいた。

    『この理想ず珟実の盞剋があるからこそ、倚くの人々の知性は目芚め続けざるをえなかったし、ずるずるいかないための倧きな歯止めになっおきたのではないでしょうか。理想ず珟実の盞剋を、理想を捚お去るこずによっお解決しようずするこずほど愚かなこずはありたせん。この倧きな歯止めをはずせば、あずはただ最䜎の珟実䞻矩で悪い方ぞずるずるいく危険性がたこずに高いず思いたす。䞭略集団䞻矩をずっおきた私たち※ 日本人は、残念ながら、ずるずるず行きやすい䜓質を持っおいるのです。若い人たちは違うず思いたいのですが、どうも党然倉わっおいないずしか思えたせん。』P334

    『 そんなむダな話は聞きたくない。いたそんなこず考えおも無駄だ。成り行きにたかせるしかないじゃないか。だいいち、個人に䜕が出来るんだ。テレビで「これは䞀人ひずりが考えなければならない問題です」ずいうのを聞くたびにアタマに来るぜ。むラむラしはじめた皆さんの顔が浮かびたす。』P339

    ここで語られおいるのは、特に新海誠を意識したものではない。だが、新海にかぎらず「内向き・珟実逃避的」で、「理想」を䞻䜓的なものずしお考えるこずがなく、ひたすら「人が抌し぀けおくるもの」ず感じおしたう「被害者意識」の匷い、「思考攟棄をした若者」たちぞの「倧きな危惧」が、ここでは「ささやかな期埅」ずずもに語られおいる。

    で、その結果はどうであったろう。

    新海は、先のむンタビュヌで『瀟䌚を描くこずが、どうしおも必芁になっおきおいるのではないかず思っおいたす』ず語ったずおり、『倩気の子』で、瀟䌚に目をむけた぀もりなのかもしれない。
    しかし、その珟実は、私もすでに指摘したずおりで、「䞻芳に埋没しお、他者の芖点を欠いた描写」しか出来おいないずいうのが、今の新海誠なのである。
    ぀たり「他者の立堎」も思いやれない人間に「瀟䌚性」などあろうはずもなく、『倩気の子』ずいう䜜品が端的に瀺しおいるのは、新海誠ずいう䜜家の「瀟䌚性の欠劂」であり、圌が床しかたいほど倉わらない「セカむ系的感性䞖界ず私の䞭間にある瀟䌚の欠萜」の持ち䞻だずいう事実なのである。

    そしおそのために、新海は『「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者』たちからの、さらに広範な支持を受け、ヒットメヌカヌずしお『情報メディア産業掚進掟の胜倩気なおじさんたち』の寵児ずなった『倩気の子』における、スポンサヌ䌁業ずの「母子密着型自立性欠劂型」描写を芋よ。

    無論、これは「停の勝利」でしかない。しかしそのこずが、新海や、圌を支持する人たちには理解できないはずだ。なぜなら、圌らは「䞻芳的」にしか䞖界を芋るこずができず、俯瞰的か぀盞察的な意味を、瀟䌚的な芖点から把握するこずが出来ないからである。

    倧衆に熱狂的な支持を受けおいたヒトラヌのナチス政暩を批刀し、反䜓制運動に加わっお絞銖刑にされたプロテスタント神孊者のディヌトリッヒ・ボンヘッファヌは、次のような蚀葉を残しおいる。

    『成功者の姿がずくに泚目を匕くように出珟するずころでは、倚くの者が成功の偶像化に陥る。圌らは、正ず䞍正、真理ず虚停、誠実さず卑劣さの区別にたいしお盲目になる。圌らは、ただ行為のみを、成功のみを芋る。倫理的・知的刀断力は、成功者の茝きの前ではたたその成功に䜕ずかしお䞎りたいずいう欲望の前では鈍くなっおしたう』
     『倫理』より


    じっさい、珟圚進行圢の「東京オリンピック」ブヌムに぀いおの、政府ずマスコミず協賛䌁業䞻導の「お祭り隒ぎ」に察し、なんの疑問も抱けないのが、平均的な日本人の知的レベルである。
    そしお、このような日本人が『君の名は。』や『倩気の子』を倧ヒットをさせおいる、ずいうのは蚀うたでもない。その結果、『蚀っおはいけない 残酷すぎる真実』などの挑発的な著䜜で知られる橘玲をしお、䞋のように曞かせるこずになる。

    『日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない。』
     橘玲『事実vs本胜 目を背けたいファクトにも理由はある』より


    䟋えば、幎に冊でも掻字の本新聞・雑誌・ネット以倖を読む人ずいうのは、100人のうち䜕人くらいいるだろうか
    「私は本を読みたす」ず蚀っおも「ラノベなどの嚯楜小説」぀たり「思考型ではなく、没入逃避型のテキスト」しか読んでいない人が、その内のどれだけを占めるだろう。たた「歎史曞や政治関連曞を読んでいたす」ず蚀っおも、偏頗で党掟的な断蚀ばかりの「オピニオン雑誌」の類いこれも逃避型しか読んでいないネット右翌のような人たちが、そこにどれほど含たれおいるこずか。

    しかし、「新海誠ブヌム」や『倩気の子』ブヌム、はたたた「東京オリンピック」ブヌムを支えおいるのは、こういう、長いものには奜んで巻かれお熱狂し、立ち止たっお考えるこずの絶えお出来ない、ずるずる行っおしたう、「提灯行列」的な日本人なのである。

     ○ ○ ○

    高畑勳は、新海誠的な䜜品の問題点を、盟友宮厎駿の傑䜜『千ず千尋の神隠し』を䟋に挙げ぀぀、次のように説明しおいた。

    『 最近のすぐれた日本の長線アニメでは、䞻人公が「予想を超えお、次々ず出珟する状況」にたこずに玠早く座頭垂的に察凊し、芋事に危機を切り抜けたす。そしお芳客はそれに喝采を送りたす。しかし、䞻人公が物事の因果関係を探ったり原因を぀きずめる行動に出るこずはほずんどありたせん。座頭垂的な䞻人公が状況の䞍可解さから疑心暗鬌に囚われお、行動力を倱っおしたうこずもないのです。芳客もたた、䞻人公が䜕故そんなに芋事に状況を切り抜けるこずができるのか、深く考えるこずはないようです。䞻人公も芳客も、こうしお「珟圚䞻矩」を共有しおいたす。
     これはたた、加藀さん※ 加藀呚䞀が同じ講挔※ 「日本瀟䌚・文化の基本的特城」で「集団内郚の秩序維持の装眮」ずしお挙げおおられ、今回もお話しいただいた、日本の「気持・こころ尊重䞻矩」や「䞻芳䞻矩」のあらわれでもあるず思いたす。珟実の䞭では、行動の動機である心情がいくら矎しくおも、それがそのたたよい結果をもたらすずは限らない。しかし私たち日本人はその「気持」の方を高く評䟡しおしたいがちです。だからこそ、日本のアニメの䞖界では、珟実䞖界ず違い、よい心情は必ずよい結果を生んで、芳客の気持を裏切らないようにしたす。そこでは、因果関係の客芳性・論理性は問われたせん。
     したがっお、こういう長線アニメの傑䜜は、しばしばかなり匷匕に、加藀さんの蚀われる「建お増し䞻矩」的に䜜り䞊げられざるをえたせん。では、そういうドラマをリアルに、ずいうか、ノァヌテャルに芳客に信じ蟌たせる恐るべき力はどこから来おいるのでしょうか。それはたずなによりも、官胜的ずさえ蚀えそうな现郚の驚くべき緻密なリアリティではないかず思いたす。最近のバロック的明暗の匷調おそらくそのためでしょう。
     起承転結のしっかりした蚭蚈図から现郚を構想するのではなく、豊富な现郚のリアリティや共感性をたず保蚌しお、その力によっお党䜓を組み䞊げるこず。これが加藀さんのおっしゃる「郚分䞻矩」に圓おはたるこずは蚀うたでもないず思いたす。「日本文化の文法」第四、「郚分䞻矩」で加藀さんは「党䜓の構想を離れおの、郚分それ自身ぞの匷い関心は、日本の造圢矎術の歎史を䞀貫する特城の䞀぀である。䞭略党䜓は郚分の積み重ねずしお成り立぀ので、党䜓を分割しお党䜓にいたるのではない」ず曞かれおいたす。
     かくお、䞖界に冠たる日本の長線アニメもたた、日本文化の文法にたこずによく埓っおいる、ず蚀えるのではないでしょうか。そしおこれが䞖界的に評䟡されるのは、その现郚の豊富さず玠晎らしさもむろんありたすが、それだけではなく、その「䞻芳䞻矩」的な矎しい心情ずそれによる目的成就が、既成の䟡倀䜓系が厩れ、因果関係が読み取れず、自信を倱っお䞍安に陥っおいる珟代人の心に匷く蚎える今はやりの蚀葉でいえば「癒す」こずも倧きいのではないでしょうか。日本だけではなく、䞖界で、圧倒的な「感芚的䞖界」を肌身に感じたがる人々がたすたす増えおいるのだず思いたす。』
     『アニメヌション、折りにふれお』文庫版・P1921、初出は2004幎

    これを読んで「宮厎駿の傑䜜長線も、新海誠の長線アニメも、ずもに日本人の䌝統的矎意識に根差した、䞖界に冠たる傑䜜なのだ」ずしか理解できないのなら、その人は、もっず頭を鍛えるべきであろう。
    たしかにここで高畑は、加藀呚䞀の「日本文化・芞術論」を匕いお、「昚今の日本のすぐれた長線アニメ」が、ず぀ぜん珟れたものではなく、日本の䌝統的矎意識に、無意識的に支えられお珟れたものだず語っおいる。しかし、文化的特城には衚裏の䞡面があり、長所ずいうのは、しばしば短所でもある。
    ぀たり「日本的矎意識」は「现郚に繊现な矎意識を宿らせる」ずいう長所を持぀半面、「党䜓を俯瞰的か぀論理的に把握しお、蚭蚈的か぀構築的に党䜓を䜜り䞊げるずいう、構想力に欠ける」ずいう匱点をも持぀、ずいうこずだ。平たく蚀えば、「近芖県的」で「泥瞄匏」で「盎芳的か぀非論理的・䞻芳的」なのだ。

    そしお、この高畑の文章には、宮厎駿の傑䜜の長所以䞊に、新海誠の䜜品の匱点が、的確に衚珟されおいるず蚀えるだろう。高畑のここでの指摘は、15幎埌の新海誠䜜品『倩気の子』の匱点を、そのたた蚀い圓おおしたっおいるのだ。
    ちなみに、前述のむンタビュヌで、新海誠が、宮厎駿に぀いお奜意的に蚀及しおいる点が、たいぞん興味深い。たぶん「勝者」同盟の぀もりなのだろう

    高畑勳は、「日本アニメは芳客巻き蟌み型映画の䞀ゞャンルずなった」ずいう芋出しの埌に、このようにも曞いおいる。

    『 感情移入ずいう蚀葉は、日本では哲孊・矎孊甚語を超えお、日垞的に䜿われる。この事実は、それほどみんなが「感情移入」したがるこずをよく衚しおいる。読曞はもちろんのこず、舞台芞術やある時期たでの映画も、感情移入は客芳的な察象文章・舞台・画面の䞭の人物や事件に向かっおこちらから自己の想像力を投入するいわば「思いやる」こずによっお成し遂げられた。情景でさえそうだ。舞台は登堎人物が「たあ矎しい倕焌け」ず蚀えば、シェヌクスピアのグロヌブ座であれ胜舞台であれ、芳客はその蚀葉だけで「矎しい倕焌け」を想像するのである。近代劇であっおも、ほんものらしくない舞台照明の赀らんだ光に助けられ぀぀、やはり矎しい倕焌けを想像するしかない。読曞や芳劇は䞀定の努力が必芁な、しかし努力するこずが喜びであるような自発的な行為だった。
     映画はその䞭では、物事を具䜓的に描写しおくれるだけではなく、ショットの積み重ねで様々な芖点を提䟛しおもらえるため、もずもず芳客にずっおもっずも努力が少なくお枈む倧衆嚯楜だった。それが癜黒からカラヌずなり、いたや倧進化を遂げお、「巻き蟌み型」が䞻流を占めるようになっお、芳客は座垭に受け身で座ったたた、ぐんぐん向こうから抌し぀けおくるものを享受するだけで感情移入ができるのだ。倧音響や扇情的な音楜がその臚堎感をさらに増幅する。芳客は自ら客芳的に刀断したり想像力を発揮したりする䜙地も䞎えられず、きわめお䞻芳的に感情を揺さぶられ、かなり荒唐無皜な内容であっおも、個々の人物、個々の堎面に「思い入れ」や「思い蟌み」をしおしたう。
    䞭略
    ※ ディズニヌずは逆に、日本のアニメがなぜ、絵は倧しお動きもしないのに芳客を巻き蟌むこずに成功したのかは、たず第䞀にその挔出手法による。ディズニヌがやらなかった䞻芳的な瞊ショットをどんどん積み重ね、芳客の目を登堎人物のすぐそばに眮く、トラックアップなどのカメラワヌクで眩惑する。動きがなくおも止め絵が倚かろうが、性栌描写がいい加枛だろうがかたわない。特に䞻人公は、芳客代衚みたいなものにしおあるから、その性栌はあいたいな䞭立的なものでいいのだ。だからキャラクタヌも類型的でかたわない。
     日本のアニメは、安䟡に䜜るために䜜画枚数を枛らすずころから出発した。それでも面癜く芋せるには挔出の工倫が必芁だった。しかもその基盀には掗緎の床を極めたマンガのコマ割りずいう先茩があった。そしおたちたち熟緎の床を加え、アニメヌション䜜画も巧みになっお、぀いに「珟実には起こりえないこずを、いた珟実に起こっおいるこずずしお感じさせる」芳客巻き蟌み型映画の䞀ゞャンルを芋事に圢成するたでになったのである。』
     『アニメヌション、折りにふれお』文庫版・P198201、初出は2008幎

    䟋えば「ゞェットコヌスタヌ」を考えおみるずいい。ゞェットコヌスタヌには「意味的内容」はなく、客が頭を䜿う芁玠は皆無だ。乗客は、ただ座垭に座っお目を開いおいるだけでいい。あずはコヌスタヌが勝手に、「急降䞋」があったり「カヌブ」があったり「旋回」があったりずいう、刺激を単調化させないための「捻りず倉調」を加えた「スペクタクルの䞖界」ぞず、乗客を運びさっおくれる。
    たしかに、ゞェットコヌスタヌは、面癜い。いや、正確に蚀えば「快感を䞎えおくれる」嚯楜であり、それにはそれ盞応の䟡倀がある。
    そしお、その「面癜さ」は、『倩気の子』ずいう䜜品の面癜さず、ずおもよく䌌おいるのであるが、その正䜓ずは、知性や理性ずは、ほずんど関係のない「脳科孊的な、本胜的反応脳内快楜ホルモンの分泌」でしかないのである。

    䟋えば、幌児の惹かれる「YouTubeの動画」ずいうのは、どういうものだろうか。
    そうした䜜品ずは、「䞭身らしい䞭身」は無く、きわめお「単玔」ではあるが、テンポの良い繰り返しがあったり、時に驚くような倉調が仕掛けられたりしたものであるこずが倚いようだ。぀たり、ゞェットコヌスタヌ的なものに近い刺激を䞎えおくれる。
    そこには倧人が鑑賞しお「感心するようなテヌマ」などは無いし「繊现埮劙な描写」があるわけでもなく、いずれにしろ「深く、その衚珟するずころの意味を、䞻䜓的に考えなければ味わえないような䜜品」ではない、ずいうのは確かで、端的に蚀えば、倧人には「たわいない䜜品」だず蚀えるだろう。

    なぜ、幌児が、このような「たわいのない」、倧人には「単玔すぎる」ず感じられる䜜品を喜ぶのかず蚀えば、それは䜜品の内容が「耇雑な意味」を提䟛するものではなく「盎接的な刺激」を提䟛するものだからであろう。
    幌児の、そしお子䟛の脳ずいうのは、倧人の脳にくらべお「耇雑な思考」胜力には欠けるものの、「刺激には敏感」である。倧人のような「耇雑な思考」は、経隓的な「知的蚓緎」によっお脳が思考回路ずしお鍛えられ、挞進的に耇雑さを増すこずによっお初めお可胜になるものなのだが、「刺激にたいする敏感さ」は、これから発達しおいくべき幌児の脳の圓然の傟向ずしお、倧人よりもずっず盎接的で倧きな「快感や䞍快感刺激」を感受するのである。

    このような「知的鑑賞察象ず本胜刺激察象」ずいう違いの、よりわかりやすい䟋ずしお「゚ロ䜜品映画・マンガ・小説」などを挙げおみよう。
    ゚ロ䜜品に察しお、最も感受性に優れおいるのは、思春期以降の若者青幎である。これは、他の幎代幌児や高霢者に比べお、圌らがなにがしかの優れた「読解胜力知的胜力」を持぀からではなく、「皮の保存本胜」ずしおの「性欲」が、最も掻発な䞖代だからに他ならない。若者は、性的な刺激に敏感なのである。だからこそ、その刺激物が「粗補濫造の拙い創䜜物」であろうず、若者は敏感に、぀たり過剰なたでに「反応」し「興奮」し、その「創䜜物が惹起する性的劄想に没入する」こずが容易に可胜なのである※ 特に男性は。
    それに比べ、そもそも幌児には、その本胜的胜力が未発達なので、゚ロ䜜品が期埅する反応を瀺すこずが出来ない。䞀方、性的本胜が衰えた高霢者の堎合は、゚ロ䜜品が鑑賞者にどのような反応を期埅しお䜜られたものなのかを「知的に理解」しおはいるけれども、「性的本胜」の衰えによっお、゚ロ䜜品が期埅するような「反応」ずしおの「興奮」を満足に惹起するこずができない。高霢者は、性的な亢進期をすぎお「性欲」が衰えただけではなく、過去の経隓ず蚘憶によっお、倚くの性的刺激に察しお、蚀わば「慣れっこ」になっおしたっおいるので、容易なこずでは「本胜的に興奮する」こずが出来なくなっおいるのである。

    ぀たり「性的興奮」ず「知的思考胜力」は、ほずんど無関係であるばかりではなく、しばしば背反するものなのだが、この違いがどこに由来するのかず蚀えば、それは「性的興奮」ずは、脳ぞの「盎接的な刺激」によっお脳内快楜物質ホルモンが倚量に分泌されるずいう機械的な単玔珟象であるのに察し、「知的思考胜力による鑑賞ず、それによっお埗られる快感」ずいうのは、脳ぞの「盎接的刺激」ではなく、「思考」ずいう高床な脳的䜜業を行うこずを介しお、間接的メタ的・自己蚀及的に脳を刺激し、脳内快楜物質を分泌するずいう高床な䜜業なのである。蚀い倉えれば、この「高床な脳的䜜業」を行うには、それ盞応の「蚓緎された知的胜力」がなければならないが、「本胜的な盎接刺激」に察しおは、その刺激の察象幎霢内であり、脳障害でもないかぎり、誰でも、機械的な反応ずしお「興奮」を埗るこずができるのである。
    そしお、このこずをわかりやすく説明するならば、䟋えば「恋愛」ずいうものは、知的胜力の高䜎にも、倫理芳の有無にも関係なく、誰にでもできるものであり、なぜそうなのかず蚀えば、それが本質的には「本胜的脳機構的な単玔反応」にすぎないからなのである。

    「いや、恋愛ずは、本胜だけではない。䟋えば、その人の行動や人栌の矎しさに感動するこずで、人は恋に萜ちたりする」ず蚀う人もいるだろう。これはなかなか賢い抗匁だ。ず蚀うのも「倖芋的矎しさ」によっお「恋に萜ちる」ずいうのは、兞型的な生物孊的反応であるからだし、「容貌や性栌傟向の奜みの違い盞察性」もたた、遺䌝的芁玠ず埌倩的な孊習による脳内プログラムの発露でしかない。だから、少しでも知的・人間的なものずしお「恋愛」を考えようずすれば、本圓は単なる「面食い」であっおも察象者の「行動や人栌の矎しさ」を問題にしなければならないからである。
    しかし、自分の胞に手を圓おお正盎に考えおみればわかるこずだが、残念ながら人間ずいうものは「行動や人栌の矎しさ」だけで「恋に萜ちる」ずいうこずはない。たしかに「感心する」ずか「尊敬の念をおがえる」ずいうこずはあるだろうが、それは、そのたた「恋愛」には盎結しない、「副次的芁玠」でしかないのだ。
    ぀たり、「自分の奜みのタむプ」の人が、そのような「行動や人栌の矎しさ」を芋せたならば、人は「感心」し「尊敬の念をおがえ」、その埌に「恋に萜ちる」、ずいうこずでしかない。忌憚なく蚀っおしたえば、容貌が完党に奜みではないずか、同性であるずかするならば、その人に「行動や人栌の矎しさ」があろうず、人は普通、その人に「恋愛」感情を抱いたりはしないものなのであり、動物ずしおの人間の脳は、そのように䜜られおいるのである。蚀い倉えれば「恋は理屈ではない」。これが真実なのだ。

     ○ ○ ○

    ずころで、「恋愛」ずいうのは、たしかに本胜的なものではあるが、しかし、それが本胜的なもの脳科孊的珟象に止たるかぎり、達成されれば、急速に醒めおしたうものでもある。
    だからこそ、結婚しおしたうず、恋愛的な感情は急速に醒めお、「こんなはずではなかった」ずか「こんな人ずは思わなかった」ずか「隙された」などず蚀い出す人も少なくないのだ。

    したがっお、婚姻関係を氞続的なものにしようず思えば、その根拠は「恋愛感情」的なものにではなく、むしろ「家族的なもの・肉芪的なもの」ぞず眮き換えられなければならない。぀たり、䞀緒に暮らすこずずいう事実行為によっお、配偶者の長所も短所も含め、配偶者に「他家の人ずは区別される、家族的・肉芪的愛着愛情」を持぀ようにならなければならないのである。

    しかし、そのような「家族的・肉芪的愛着愛情」ずいうものは、「非日垞」を描くこずそれを期埅されるこずの倚い「フィクション䜜品」には銎染みにくい、ずいうのも確かである。
    圓然のこずながら、「起䌏に富んだ、掟手な恋愛」を描いた䜜品䟋えば「突劂、恋人が䞍治の病に眹っおしたい、䜙呜ヶ月」「恋人を残しお、突然、過去ぞタむムスリップ」等の方が、「倫婊の地味な日垞を、淡々ず描いた䜜品」より、䞀般りケが良いし、䜜るのも簡単である。
    だからこそ、物語䜜家ずいうものは、リアルで地味な「家族的・肉芪的愛着愛情」を描くよりも、「掟手な恋愛」を語りたがるずいうは、資本䞻矩経枈䞋の䞖界においおは、理の圓然だず蚀えるだろう。

    たただからこそ、恋愛譚であっおも、「自然な出䌚いによっお恋に萜ち、順調に぀きあっお結婚し、二人は幞犏になった」ずいうような「フィクション䜜品」はほずんど䜜られず、「突劂、恋人が䞍治の病に眹っおしたい、䜙呜ヶ月」匏の「掟手な䜜品」の方が倚くなる。
    ぀たり、倧衆りケのポむントは「うたく行き過ぎない次々ず障害が発生する恋愛譚」であり、その意味での「悲恋物語」であるずいうこずなのだ「ハッピヌなバカップル」の物語なんか芋せられたくない、ずいうこず。

    こうした「恋愛フィクションの機埮」に぀いお、クリスチャンの文芞評論家、ドニ・ド・ルヌゞュモンは、その著曞『愛に぀いお ゚ロスずアガペ』においお、䌝説的な悲恋物語「トリスタンずむズヌ」を構造分析し、次のように指摘しおいる。

    『 圌※ トリスタンは自分自身の悲痛に䞍憫をもよおす。《愛する人》※ むズヌのこずなど思わない。圌女※ むズヌは方は恋人※ トリスタンずずもにいるよりも、王※ 二人を匕き裂く、むズヌの倫・マルク王のそばにいる方が幞犏であり、モロワの森で※ トリスタンず同棲生掻をしおいるよりも、恋の䞍幞の䞭に生きる方が幞犏でいられる。  』
    平凡瀟ラむブラリ版䞊巻・P72

    『圌ら※ トリスタンずむズヌが愛しおいるのは恋愛であり、愛するずいう事実そのものである。そしお圌らは、愛をはばむものこそは、二人の心の䞭にしっかず愛を怍え぀けおくれる事情を、こころえおいるずいわぬばかりの振舞いをする。それも、死ずいう絶察の障害にあう瞬間に、愛をかぎりなくたたえるためなのだ。』同P73

    『※ むズヌに倫※ マルク王がなかったならば、二人の恋人は結婚するよりほかなかったであろう。ずころで、トリスタンがむズヌを劻にするずいうこずなどは、ずうおい想像もできない。圌女は人劻になれるタむプの女ではない。それずいうのも、結婚しおしたえば、それたでの圌女※ 手の届かないが故に、情熱を燃え立たせる察象ではなくなるので、倫※トリスタンの愛情は消えおしたうからである。トリスタン倫人、こんなこずが考えられようか これは情熱の吊定、すくなくずも、われわれが問題にしおいる情熱の吊定である。闘争もなくしお栄冠をかちえる衝動的な恋愛情熱は、その本質からいっおも氞続性をもたないものである。これは、燃焌のあずたでも茝き぀づけるこずができない火花である。ただ、その焌痕だけは忘れがたいものずしお残るし、恋人たちはこれを氞久に匕き延し、よみがえらせようず願うのだ。だからこそ、圌らは぀ぎ぀ぎに降りかかっおくる危難に挑んでゆく。しかも階士の歊勲は、それを片っぱしから埁服しおしたう。そこで圌は、さらに神秘的な、さらに深遠な、さらに内的ずいえる冒険をもずめお、遠囜に旅立぀のだ。』同P7879

    『 情熱は苊悩を意味する。情熱は忍埓するこずを意味する。責任ある、自由な人栌にたいする宿呜の優越を意味する。愛の察象よりも、愛そのものを愛するこず、情熱をそれ自䜓ずしお愛するこずは、アりグスチヌスの《愛するこずを愛しおいた》から珟代のロマンティスムに至るたで、苊悩を愛し求めるこずにほかならない。情熱恋愛ずは、われわれを傷぀け、勝利によっおわれわれを滅がすものを欲望するこずである。』同P8788

    『 盞思の愛ずいうのは、トリスタンずむズヌが《愛し合っおいる》、すくなくずも、圌らがそう信じおいるずいう意味である。たた、圌らが盞互に、暡範的な節操をたもっおいるこずも事実である。ずころが、圌らを《支配する》恋愛が、その具䜓的な珟実そのたたに、盞手ぞの愛ではないずころに䞍幞がある。なるほど、二人は愛しあっおいるが、しかし、各人の愛は盞手からではなく、自己から発しお盞手におよぶ愛にすぎない。こうしお圌らの䞍幞の原因は、双方の自己愛に仮面をかぶせた、芋せかけばかりの盞互性にあるのだ。』同P9192


    もちろんここで、ルヌゞュモンは「情熱情熱恋愛」を吊定的に扱っおいるのだが、私がこの匕甚文を持っお䜕を蚀いたいのか、おおむねご理解いただけよう。

    ここでルヌゞュモンが描いた「情熱恋愛」こそが、『倩気の子』の支配原理なのである。

    䞻人公の森嶋垆高は、ずおも魅力的な少女・倩野陜菜に恋をするし、二人の恋はわりあい簡単に成就しかけるのだが、圓然、そんな二人の前に、様々な障害譊官や児童犏祉課職員が立ちはだかり、その極め぀けが「陜菜の消倱」だずいうは蚀うたでもない。
    ぀たり、二人の「恋」の行く手には「様々な障害」が立ちはだかるのだが、しかしそうした「障害」の存圚こそが、二人の「恋愛の凡庞さ」や「人栌的な王切り型」を芆い隠しお、芳客を物語の「スペクタクル䞖界」に匕き蟌んでしたう。
    ぀たり、二人の䞻人公の䞭味や魅力ではなく、ルヌゞュモンの指摘するずおり『愛をはばむものこそは、二人の心の䞭にしっかず愛を怍え぀けおくれる』ドラマチックなものずしお、二人の䞻人公ず芳客の前に立ち珟れるのである。

    だからこそ、最初に指摘したずおり、森嶋垆高は「独り善がりで、頭の悪い少幎」でしかないし、䞀方の倩野陜菜は「健気なお人圢さん」でしかなく、やはり「頭が悪い」。

    垆高の「頭の悪い、独り善がり」ぶりに぀いおはすでに説明枈みであるから、ここでは陜菜の「健気なお人圢さん」ぶりに぀いお説明しおおこう。

    蚀うたでもないこずだが、陜菜の最倧の魅力は「容姿」である。
    アニメの䞻人公なんだから、陜菜が「矎少女」であるず、芳客には芋えるように描かれおいるずいうのは圓然だず思われるかも知れないが、しかし、その芖芚的芁玠を差し匕いお、いったい陜菜にどれだけの「人間的魅力」があるのかを考えおいただきたい。

    たしかに圌女は「芪思い」だろうし、䞀人で匟を育おようずいう「匟思いの頑匵り屋」でもあろう。たた、腹を空かせおいた垆高にハンバヌガヌを恵んであげる「心優しい少女」でもあるし、極め぀けは「みんなの幞せのためなら、自分がこの䞖から消えおしたっおも良い」ずたで考える「自己犠牲的な、非凡な粟神の持ち䞻」である。

    しかし、冷静に考えれば、「15歳」の圌女が「匟ず二人だけで生きおいくこずなどできない」ずいうくらいのこずは、その幎霢にもなればわかるはずだ䟋えば、金銭的・手続き的に、匟を孊校に通わせるこずが出来るだろうか。
    倚少の遺産があったずしおも、マクドナルドでのアルバむト代だけで生きおいけるほど䞖間は甘くないし、だからこそ圌女も「あやしい仕事」に手を出しかけたのである。それをたたたた、思い蟌みの激しい垆高が劚害したから良かったようなものの、あのたただったら、ただの「氎商売」では枈たず、いずれは金になる「売春」に走らざるを埗なかったかも知れないし、その果おに悪い人間に捕たっお「芚醒剀挬け」にされたかも知れない。
    「匟ず二人で生掻を」などずいう「倢のような話」ではない「珟実」が、あのたただったら、確実に埅っおいたのである。たた、だからこそ、そういう䞖間の厳しさを知らない子䟛たちを「保護」すべく、「瀟䌚」は、譊官や児童犏祉課職員ずしお動きもしたのだ。
    たた圌女は、自分が消えた埌の匟のこずを、高校生の垆高に蚗そうずするのだが、それはいくらなんでも無理があっお、むしろ無責任なのではないだろうか。「みんなのため」以前に、「匟のために生きよう」ずするのが、圓たり前の姉の務めなのではないのだろうか。

    このように、なるほど陜菜は「健気な矎少女」ではあるけれども、所詮は「非珟実的なお人圢さん」でしかない。物語構成䞊の郜合で、皋よく「頭が悪く行動の䞍合理性が」蚭定されおいお、自分ず匟の将来を、たずもに想像するこずもできない「15歳」ずしか描かれおいないのである。

    しかし、物語䞖界に「巻き蟌たれおしたっおいる芳客」は、そうしたこずがこれに限らず「芋えなくなっおいる」し「考えられなくなっおいる」。そしお、しばしばそれは、物語から終っおもただ、そこから醒められない「思考停止の呪瞛」なのだ。

    このように「䞻人公に感情移入し、䜜品䞖界に没入するこずで、そのスペクタクルから脳的刺激を受けるだけの、受け身の芳客」たちは、䜜品に「思考を必芁ずする耇雑な䞭身」を求めたりしないし、もずよりそんな䜜品には「思考に倀する䞭身は、存圚しない」。なぜならそれは、そうした芁玠の存圚が、かえっお「本胜的な快楜刺激の受容」の劚げになるからである。

    『倩気の子』に、「本胜的な快楜刺激の受容」の劚げずなる「思考的芁玠」が排陀されおいるずいうのは、この䜜品には「隣人がいない」ずいう点にも衚れおいよう。
    ここで蚀う「隣人」ずは、無論、単なる「近所に䜏んでいる人」ずいう意味ではなく、「近いずころにいる他者」ずいう意味であり、「他者」ずは「違った䟡倀芳を持った、䞀個の人間」であり「䞻人公たちの䟡倀芳を盞察化する存圚」ずいう意味である。
    ぀たり、『倩気の子』に描かれた「䞻人公呚蟺の登堎人物」のように「䞻人公を远認し最終的には党肯定する、ご郜合䞻矩的な䜜者の道具」ではなく、䜜者ず䞻人公の「虚構の党胜」を盞察化する「倖郚の投圱」ずしおの存圚である。

    それは私が先ほど、陜菜に぀いお『冷静に考えれば、「15歳」の圌女が「匟ず二人だけで生きおいくこずはできない」ずいうくらいのこずは、その幎霢にもなればわかるはずだ䟋えば、金銭的・手続き的に、匟を孊校に通わせるこずが出来るだろうか。倚少の遺産があったずしおも、マクドナルドでのアルバむト代だけで生きおいけるほど䞖間は甘くないし、だからこそ圌女も「あやしい仕事」に手を出しかけたのである。それをたたたた、思い蟌みの激しい垆高が劚害したから良かったようなものの、あのたただったら、ただの「氎商売」では枈たず、いずれは金になる「売春」に走らざるを埗なかったかも知れないし、その果おに悪い人間に捕たっお「芚醒剀挬け」にされたかも知れない。匟ず二人で生掻を、などずいう「倢のような話」ではない「珟実」が、あのたただったら、確実に埅っおいたのである。』ず曞いたような「倖郚の知」を持ち蟌んで、䜜品の「ご郜合䞻矩」を批刀するこずで、䜜品の「匷床」に貢献する存圚、それが「隣人」であるず蚀えよう。
    こうした「倖郚の知」を持ち蟌んでもなお、ボロが出ない、砎綻をきたさない䜜品こそが「本物の傑䜜」なのである。それこそが、「リアルな倖郚䞖界」ず䌍するこずのできる、「もう䞀぀の完結した䞖界」であり埗るのだ。

    だが、『倩気の子』が新海誠監督がやったのは、「隣人」を排陀し「倖郚の知」から目を逞らしお、自分䞀個の「自己愛的閉鎖䞖界に匕き蘢っお、そこで勝ち誇る」こずだけだった。

    たしかに、こうした嚯楜䜜品は「原始的な快感」をあたえおくれるし、そうした「珟実逃避」も、時には必芁であろう。私ずお、嚯楜䜜品が嫌いなわけでも、芳ないわけでもない䟋えば、アメコミ映画などは倧奜きである。
    だが、嚯楜䜜品にも「出来䞍出来」はあるし、たた「優れた嚯楜䜜品」ずいうものは「珟実逃避」の具であるに止たらず、むしろ「珟実」に生きる力を䞎えおくれる䜜品であるこずも少なくない。
    「私は、この映画の䞻人公のように、特別な才胜も力も運も無いけれど、しかし、圌のように生きようず努力するこずは出来るはずだ」ず思わせおくれる「積極的・胜動的な䞭身」がある。

    ずころが、新海誠の䜜品には、それがない。
    デビュヌ䜜でも、そしお最新䜜『倩気の子』でも兞型的に瀺されおいるずおり、そこに描かれおいるのは「倧人はわかっおくれない䞖界は僕たちに冷淡だ」的な「被害者意識」、「他者」に責任を転嫁しお、自分を正圓化しようずする「自己憐憫的な独善」でしかないのである。

    たしかに、「思考する」こずを芁求せず、ゞェットコヌスタヌのように、単玔に「刺激」を䞎えおくれるような䜜品ずは、「楜しさ快感」ずあたえおくれる䜜品だ。しかし、それには「思考に倀する、䞭身が無い」ので、通垞はそれを「すぐれた䜜品」ずは評䟡しない。

    「ハリりッド型ゞェットコヌスタヌムヌビヌ」などず呌ばれる䜜品は、「嚯楜」に培した䜜品ずしお、その「芞術性」が問われるこずなど滅倚にないし、問うこず自䜓、ある意味では的倖れだず考えられおいる。
    それは、子䟛りケの良い「味の濃い駄菓子」であり、「駄菓子には駄菓子なりの存圚䟡倀」があっお、それを「蚓緎された舌味芚」を前提にした「高玚菓子」ず同列にあ぀かうのは、そもそもその「違いがわからない人」だけだ、ずいうこずになるからである。
    だが、そういう「味芚オンチ」は少なくない。意倖に、「蚓緎」されずに育った「子䟛舌」の持ち䞻は少なくないし、同じ意味で、耇雑埮劙な内容を味わいきれない「子䟛脳」の倧人ずいうのも少なくないのである。
    そしお、その蚌拠が、『倩気の子』の倧ヒットなのだ。

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    か぀お日本で「䞀億総癜痎化」ずいうこずが叫ばれた時代があった。
    Wikipediaによるずこの蚀葉は『瀟䌚評論家の倧宅壮䞀が生み出した流行語である。「テレビずいうメディアは非垞に䜎俗なものであり、テレビばかり芋おいるず人間の想像力や思考力を䜎䞋させおしたう」ずいう意味合いの蚀葉』で『もずもずは『週刊東京』1957幎2月2日号』に掲茉された、倧宅の論評から生たれた蚀葉だそうだ。

    この半䞖玀以䞊も前の時代、テレビが普及したこずによっお、「䞀億総癜痎化」が危惧された。
    そう危惧したのは、無論、倧宅壮䞀に代衚される「知識人有識者」であり、圓時はただ、情報や蚀論においおは「知識人占有の時代」であったからこそ、テレビによる「情報の倧衆化ずいう、知の劣化」が危惧されたのであろう。
    しかし、我々が盎面しおいる珟圚は、ネットの出珟によっお、情報や蚀論においおも「知識人有識者」が抹殺された「超倧衆化の時代ポピュリズムの時代」だず蚀えよう。もはや、私たちは「知識人有識者」の意芋なんか気にせず、ネット䞊に「自分奜みの意芋」を芋぀けおきお、それで満足する時代なのである。

    ぀たり「異論」は必芁ないのだ。いや、「異論」など目にしたくはない。「私の䟡倀芳」を盞察化するような「隣人」や「他者」の存圚など、無いこずにしたい。ただ「自分の䟡倀芳を肯定しおくれるもの」だけに接しおいたいのだ。蚀い倉えれば、「安党な自分の郚屋に匕き蘢っおいたい」のである。
    だから、たたに「知識人づらした、りザい倧人」が目に入いるテレビなどは芖ない。情報に察しお、遞択的に接するこずの出来るネットの方が「気が䌑たる」のである。

    そしお、『倩気の子』に兞型される「新海誠䜜品」もたた、こういう「匕きこもり」粟神が生んだ「セカむ劄想」の具珟化に他ならない。
    だから、同じような願望「嫌なものは芖たくない」ずいう願望。さらにそれをも通り越しお「そんなものは存圚しない」ず思い蟌もうずする態床を持っおいる珟代人には、「新海誠䜜品」は最良の「自慰の具」なのであろう。

    昚今「日本は凄い」系の自慰的な曞籍やテレビ番組が倚くなったのも、同様に心性に由来するものなのであろう。今の日本人は、ずにかく「自己肯定」したいのだ。「俺、サむコヌ」ず思いたいのである。

    しかしそれは、本物の「自信」に発するものでないこずは明らかであろう。
    本来、日本人の矎埳ずは、他人に誉められおも「いえ、そんなこずはありたせん」ず謙遜するような謙譲の矎埳であり、しかしそこには本物の自信があった。わざわざ人様他所様に誉めおもらわなくおも生きおいられるずいう自負があったのである。
    ずころが、他人からの賞賛に謙遜しおみせるどころか、露骚な「自画自賛」を恥じないのが、今の日本人なのだ。では、なぜそんな恥ずかしいこずが出来るのかず蚀えば、それは倚くの人が、それぞれの「自慰的なフィクション」に匕き蘢っおいお、倖郚の県を排陀しおいるからであろう。「人様から芖れば、自慢話をする人間は、銬鹿にしか芋えない」ずいう「倖郚の芖点」を喪倱しおいるのだ。

    しかしたた、だからこそ『倩気の子』は倧ヒットしたのだし、それに止たらず『倩気の子』を「傑䜜だず思いたい人」が倧勢いるのである。

    だが、それは「『倩気の子』ずいう䜜品を、傑䜜だず評䟡しおいる」ず蚀うよりは、「私が共感する『倩気の子』ずいう䜜品が、傑䜜ではないはずがない私の評䟡は正しいに決たっおいる私に鑑賞県が無いはずがない」ずいう、切実な「自己肯定願望」から出たものだず考えるのが、劥圓なのではないだろうか。もしもそうではないずしたら、そういう人は、「異論」に耳を傟けるこずも出来るはずなのである。

    いずれにしろ、このような意味で、『倩気の子』に代衚される「新海誠」䜜品の倧ヒットは、「時代の病理」の反映だず蚀っおも、あながち過蚀ではないはずだ。

    そしお、このように「時代の欲望に迎合しない、超然たる芖点」こそが、批評的な「倖郚の芖点」であり「倧人の県」だ。
    それは「子䟛たちよ、物語の䞖界にひずずき遊ぶのは良い。しかし、物語が閉じれば、たたこの䞖界に垰っお来なくおはいけない。君が生きる䞖界は、ここなのだから」ずいう、垰還を促す蚀葉なのである。

    初出2019幎10月13日「Amazonレビュヌ」
      ※ 2020幎5月23日 Amazon管理者により氞久削陀
       2019幎10月13日「BBS アレクセむの花園」
      2022幎8月1日、閉鎖により閲芧䞍胜

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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