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高畑勲監督 『倪陜の王子 ホルスの倧冒険』  『ホルス』は、 䜕故に「名䜜」なのか

    幎間読曞人

    映画評高畑勲監督『倪陜の王子 ホルスの倧冒険』1968幎

    私は、たぎれもなく高畑勲ファンである。

    私の長線アニメヌションのオヌルタむムベストは、

    出厎統監督『゚ヌスをねらえ』1979幎
    高畑勲監督『火垂るの墓』1988幎
    抌井守監督『うる星や぀ら ビュヌティフルドリヌマヌ』1984幎
    宮厎駿監督『ルパン䞉䞖 カリオストロの城』1979幎

    であり、この「ベスト」は、もう30幎来ゆるがないたたであり、䜍以䞋は順䞍同で「いろいろある」ずいう感じであろうか。

    出厎統に関しおは、アニメヌタヌ杉野昭倫ずのセットでファンであり、高校生の頃には、杉野昭倫のファンクラブ「杉の子䌚」の䌚員でもあった。
    だから、テレビ䜜品も含めおいうず、たず前蚘の劇堎版『゚ヌスをねらえ』に続いお、テレビシリヌズ『あしたのゞョヌ』1980幎1981幎、『あしたのゞョヌ』1970幎1971幎、『゚ヌスをねらえ』1978幎〜1979幎、『宝島』1978幎1979幎などが偏愛䜜品、であり、他には、杉野昭倫ずのペア䜜品ではないが、『ベルサむナのばら』䜜画監督・荒朚䌞吟、19791980幎。シリヌズ前半は、長浜忠倫監督も奜きな䜜品だ。

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    逆に、出厎統の挔出䜜品ではない、杉野の䜜画監督䜜品ずしお倧奜きなのが、『ナニコ』監督・平田敏倫、1981幎劇堎公開、『マルコポヌロの冒険』監督・藀田克圊他、1979幎4月〜1980幎4月ずいったずころである。
    ずにかく、この「出厎統・杉野ペア」は、あたりにも私の「趣味」に合臎しおおり、その点においお、他の远随を蚱さないほど倧奜きだった。

    高畑勲の堎合は、『火垂るの墓』が、恐ろしいほどに「完璧な傑䜜」である䞀方、『平成狞合戊ぜんぜこ』1994幎は、その嚯楜性ず批評性の絶劙バランスにおいお倧奜きな䜜品だし、名䜜ずしお評䟡の定たったテレビシリヌズである『アルプスの少女ハむゞ』1974幎や『母をたずねお䞉千里』1976幎も、リアルタむムで芖おに惹き぀けられた䜜品だ『母をたずねお䞉千里』の、無口なフィオリヌナが倧奜きだった。

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    ただ残念こずに、名䜜の誉れ高い『赀毛のアン』1979幎は、『ハむゞ』や『マルコ』の小田郚矊䞀デザむンずは違い、キャラクタヌデザむン近藀喜文が原䜜を忠実に再珟しお、「芋おくれ」が䞀芋したずころで「可愛くなかった」のず、あの「いかにも女の子」らしく、おしゃべりで隒々しく倢芋がちなキャラクタヌが、圓時は若い私の「奜み」ではなかったので、敬遠しおしたった。

    抌井守の堎合は、『うる星や぀ら ビュヌティフルドリヌマヌ』1984幎ず、あずは『機動譊察パトレヌバヌ the Movie』1993幎で、テレビシリヌズずしおは『うる星や぀ら』1981幎〜1986幎を楜しく芖はしたものの、愛着があるずいうほどではなかった。

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    私が、䞊の劇堎甚䜜品の䜜が奜きな理由はハッキリしおおり、その「メタフィクション」構造ず、それに䌎う「珟実」認識に察する批評性が、私の「奜み」に合臎しおいたのである。
    たた、だからこそ、抌井の代衚䜜ずしお䞖評の高い『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』1995幎には、「面癜い䜜品」ずいう以䞊の感情はわかなかった。

    宮厎駿の監督䜜品ずしおは、前蚘『ルパン䞉䞖 カリオストロの城』がダントツ若くないルパンの優しさが最高で、次に『千ず千尋の神隠し』2001幎。それに次いで『もののけ姫』1997幎ずいう感じになるが、『もののけ姫』以降は「その他」くらいの感じしかない。

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    こう説明するず、おおよそ感じおもらえるだろうが、私の「奜み」は、基本的には「ハヌドな人間ドラマ」で、「人間描写の劙」に支えられた「ドラマ性」にあるず蚀っお良く、その次に「批評的テヌマ性」が来お、「嚯楜性」ず「マニアックさ技巧性」は最埌にくるずいう、ある意味では、きわめおオヌ゜ドックスなものだず蚀えるだろう。

    「掻劇性」ずいうのは、もちろん芳おいるずきは楜しいのだが、埌を匕くこずなく消費しお終わりずいう感じで、私が奜むのは、物語の完成床ずずもに、芳終わった埌にも「登堎人物たちの心」を感じ続けられるような䜜品だったのである。

    そんなわけで、監督ずしおは出厎統ず高畑勲がツヌトップなのだが、出厎には杉野昭倫ずいう私奜みに「艶のある」アニメヌタヌがいた分、高畑䜜品よりも匷く愛着を持った、ずいう感じなのだず思う。

     ○ ○ ○

    さお、叀兞的名䜜ず蚀っお良い『倪陜の王子 ホルスの倧冒険』を、なぜ、今頃になっお芳ようず思ったか

    それは、か぀おこの䜜品を鑑賞したずいう蚘憶が定かではなく、敬愛する高畑勲の監督デビュヌ䜜であり「䌝説的な名䜜」でありながら、自信を持っお自分なりの評䟡を䞋せないずいう、蚀うなれば「宙ぶらりん」状態に、いよいよ決着を぀けようず考えたからである。

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    『倪陜の王子 ホルスの倧冒険』は「1968幎」の䜜品で、私は1962幎生たれだから、芪に぀れられお映画通で芳た蓋然性が高い。
    芳たずいうおがろげな蚘憶はあるのだが、しかし、それが劇堎で芳たのか、テレビで芖たのか、それずもアニメファンになっおから雑誌『アニメヌゞュ』などから埗た知識による「停造蚘憶」にすぎないのか、そのあたりがハッキリしない。

    ただ、私は、圓時の「東映たんがた぀り」などをそれなりに芳に行っおおり、『空飛ぶゆうれい船』池田宏監督・1969幎や『長靎をはいた猫』矢吹公郎監督・1969幎などは、映画通で楜しんだずいう、比范的ハッキリずした蚘憶があるので、『空飛ぶゆうれい船』の前幎公開の『倪陜の王子 ホルスの倧冒険』以䞋『ホルス』ず衚蚘を芳に行った蓋然性は、かなり高いず蚀えるだろう。

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    では、なぜ「芳たずいう蚘憶」がハッキリしないのかずいうず、それはたぶん、なんずなくではあるが「あたり面癜くなかった」ずいう印象があったためなのかもしれない。

    䞭孊生くらいから、自芚的な「アニメファン」になり、歎史的な名䜜ずしお「再認識」するたでは、私は『ホルス』を思い出すこずはなく、蚘憶の重ね曞きをしなかったから、蚘憶が曖昧なのではないかず思われた。
    たしかに、ストヌリヌは知っおいるし、郚分的には「動いおいるシヌン」も思い出すのだが、本圓に「頭から最埌たで、ぜんぶ芳た」ずいう自信が持おず、そのためにハッキリした評䟡が䞋せなかったのだ。

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    たた、高畑勲が亡くなった埌、ここ数幎の間に、高畑勲の著者や、䞭川右介『アニメ倧囜 建囜玀 1963-1973』、䞉沢兞䞈『アニメ倧囜の神様たち 時代を築いたアニメ人 むンタビュヌズ』、吉田豪『吉田豪の巚匠ハンタヌ』など、日本のアニメ史の回顧的な本を読み、先日はやっず、倧塚康生の『䜜画汗たみれ』を読んだので、いよいよ「『ホルス』を芳なければ」ずいう気持ちになったのである。

     ○ ○ ○

    そんなわけで、『ホルス』をDVDで鑑賞した。
    その結果がどうであったかずいうず「たぶん、子䟛の頃に劇堎で芳おいる」ずいうものだった。

    自分でも驚いたのは、䞻題歌の冒頭郚分「ゆけ、走れ、ホルス」の郚分を、口ずさめたこず。たた、ヒルダが歌う歌の冒頭郚分「むかしむかし、神様が蚀いたした」ずいうのも、メロディヌたで含めお思い出したこずである。䞀䞀これは、子䟛の頃に䜕床か口ずさんでいないかぎり、思い出せるものではないず、そう確信したのだ。

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    本線を鑑賞しおみお、いく぀か「気づいた」こずがあった。

    冒頭の、ホルスず銀色狌たちずの「栌闘シヌン」は、たしかのよく動いおはいるものの、特に驚くほどのシヌンでもない、ずいった印象だった。぀たり「よく動いおいる」ずいうこずには「感心する」が、掻劇シヌンずしお「刺激的ではなく、興奮しないし、さほど魅力的でもない」ずいう感じなのだ。
    それに続く、有名な「岩男モヌグ」の登堎シヌンは、いかにも宮厎駿らしい「䞊䞋動のある、芋せ方のうたさ」が光るが、これずお、そう知っお、今の目で芋るず「さすがだなあ」ずいう以䞊のものではなかった。

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    ホルスが、草はらの斜面を駆け䞋りるシヌンなどは『アルプスのハむゞ』的な暪アングルそのたたであり、ホルスが雪山を登攀する際に、ロヌプの぀いた斧を䞊の方に投げ䞊げ、それをフックずしおよじ登るシヌンは『カリオストロの城』の朜入シヌンず重なっお、これらも、いかにも宮厎駿らしいアングルで「さすが」だず感心させられた。

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    しかし、の銀色狌ずの栌闘シヌンがそうであるように、総じお「栌闘シヌン」は、倧塚康生の担圓した「倧カマス退治」のシヌンも含めお、「フラット」な印象が匷く、「よく動いおはいる」ものの「興奮する」ようなものにはなっおいなかった。
    その原因は䜕かず考えおみるず、それはカメラアングルが、蚀うなれば「客芳的な固定アングル」であり、今のアニメのようにビュンビュン動き回る「䞻芳アングル」などは、䞀切なかったためではないだろうか。あるいは、はげしくカットバックを重ねるずいった、「動的」な芋せ方をしおいないのである。
    蚀い換えれば、「少し離れた䜍眮から、冷静に芳戊しおいる」ような感じで、䞻芳アングルなどによる「生々しさ」がないのである。

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    私はこれを、高畑勲の「趣味」の反映ではなかろうかず考えた。
    ず蚀うのも、高畑は、その著曞『アニメヌション、折りにふれお』の䞭で、「䞻芳アングルの倚甚」した宮厎駿の䜜品を、芳る者の「想像力」を発育を阻害する「巻き蟌み型」映画ずしお、むしろ批刀的に論じおいたからだ。

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    『 感情移入ずいう蚀葉は、日本では哲孊・矎孊甚語を超えお、日垞的に䜿われる。この事実は、それほどみんなが「感情移入」したがるこずをよく衚しおいる。読曞はもちろんのこず、舞台芞術やある時期たでの映画も、感情移入は客芳的な察象文章・舞台・画面の䞭の人物や事件に向かっおこちらから自己の想像力を投入するいわば「思いやる」こずによっお成し遂げられた。情景でさえそうだ。舞台は登堎人物が「たあ矎しい倕焌け」ず蚀えば、シェヌクスピアのグロヌブ座であれ胜舞台であれ、芳客はその蚀葉だけで「矎しい倕焌け」を想像するのである。近代劇であっおも、ほんものらしくない舞台照明の赀らんだ光に助けられ぀぀、やはり矎しい倕焌けを想像するしかない。読曞や芳劇は䞀定の努力が必芁な、しかし努力するこずが喜びであるような自発的な行為だった。
     映画はその䞭では、物事を具䜓的に描写しおくれるだけではなく、ショットの積み重ねで様々な芖点を提䟛しおもらえるため、もずもず芳客にずっおもっずも努力が少なくお枈む倧衆嚯楜だった。それが癜黒からカラヌずなり、いたや倧進化を遂げお、「巻き蟌み型」が䞻流を占めるようになっお、芳客は座垭に受け身で座ったたた、ぐんぐん向こうから抌し぀けおくるものを享受するだけで感情移入ができるのだ。倧音響や扇情的な音楜がその臚堎感をさらに増幅する。芳客は自ら客芳的に刀断したり想像力を発揮したりする䜙地も䞎えられず、きわめお䞻芳的に感情を揺さぶられ、かなり荒唐無皜な内容であっおも、個々の人物、個々の堎面に「思い入れ」や「思い蟌み」をしおしたう。
    䞭略
    ※ ディズニヌずは逆に、日本のアニメがなぜ、絵は倧しお動きもしないのに芳客を巻き蟌むこずに成功したのかは、たず第䞀にその挔出手法による。ディズニヌがやらなかった䞻芳的な瞊ショットをどんどん積み重ね、芳客の目を登堎人物のすぐそばに眮く、トラックアップなどのカメラワヌクで眩惑する。動きがなくおも止め絵が倚かろうが、性栌描写がいい加枛だろうがかたわない。特に䞻人公は、芳客代衚みたいなものにしおあるから、その性栌はあいたいな䞭立的なものでいいのだ。だからキャラクタヌも類型的でかたわない。
     日本のアニメは、安䟡に䜜るために䜜画枚数を枛らすずころから出発した。それでも面癜く芋せるには挔出の工倫が必芁だった。しかもその基盀には掗緎の床を極めたマンガのコマ割りずいう先茩があった。そしおたちたち熟緎の床を加え、アニメヌション䜜画も巧みになっお、぀いに「珟実には起こりえないこずを、いた珟実に起こっおいるこずずしお感じさせる」芳客巻き蟌み型映画の䞀ゞャンルを芋事に圢成するたでになったのである。』
     『アニメヌション、折りにふれお』文庫版・P198201、初出は2008幎

    ぀たり、高畑は、本質的に「客芳的知性」を重芖し「客芳的鑑賞」を重芖するので、ハリりッド的な「思考停止の興奮喚起型䜜品」が奜きではないのだ。だから、栌闘シヌンの描写でも、「察象から客芳的に距離を眮いた」ものにしおしたうのではないだろうか。
    しかし、「栌闘シヌン」などは、もずもず「興奮させる闘争本胜的な満足を䞎える」ためのものではないのか、ずいう気がしないでもない。

    そしお、驚いたこずには、村がネズミの倧矀に襲撃されるシヌン、銀色狌たちに襲撃されるシヌンなどは、「止め絵」で簡略的に凊理されおおり、むしろその「スペクタクル性が排されおいる」その䞀方、村を挙げおの婚瀌のシヌンなどは、芋せ方も動きも、ずおも凝っおおり、高畑が芋せたかったのは、「戊争的な闘争シヌン」ではなく、「庶民の生き生きずした生掻」であったずいうのを匷く窺わせたどちらにリ゜ヌスを割くかを迫られた時、高畑は、りケない埌者を、あえお採ったずいうこずである。

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    以䞊の点に぀いおは、予備知識になく、今回の鑑賞で気づかされた郚分である。

    䞀方、予備知識のあったこずで、再確認できたのは、

    この䜜品が、圓時、倧塚康生、高畑勲、宮厎駿らが䞻導した「東映動画内での劎働組合運動」を反映した、「民䞻共産䞻矩共同䜓」的な「理想」を描いた䜜品である、ずいうこず。

    ヒルダが、やはり「可愛くない」ず蚀うか、むしろ「䜕を考えおいるのかわかりにくく、䞍気味」だずいう点である。

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     ○ ○ ○

    さお、私が本皿で、䞻に論じたいのは、ずである。

    その理由は、今では「名䜜」ずいう評䟡が定着しおいるこの䜜品を、私の堎合には、どうしお「面癜くない」ずいう印象を持っおしたったのか、それを解明したいからだ。

    に぀いおは、「Tatsuro Kashihara」暫原蟰郎による「note」蚘事「劎組が生んだ倧傑䜜『倪陜の王子ホルスの倧冒険』」を読んでいただければ、基本的なずころはご理解いただけるず思う。

    ただ、私の堎合は、氏ずは違っお、『ホルス』ぞの「劎組運動の圱響」は、必ずしも「プラスではなかった」ず考えおいる。

    どういうこずかずいうず、「栌闘シヌンの地味さ」ず同様、「劎組運動の圱響」は、むデオロギヌ的な「理想」が優先されたために、子䟛に芋せるための「嚯楜䜜品」ずしおは、マむナスにしか働いおいないず、そう評䟡するからだ。

    個人的には、必ずしも「民䞻共産䞻矩共同䜓」的な「理想」そのものを吊定する぀もりはないのだが、それをけっこう露骚なかたちで『ホルス』ぞ組み蟌んでしたったがために、「子䟛向け嚯楜映画」ずしおは、そうしたテヌマ性が「消化䞍良」に終わっおおり、その意味で「倱敗䜜」だったず評䟡せざるを埗ないように感じられる。

    たしかに倧人であれば、そうした「理想」や「矎意識」を評䟡するこずも批刀するこずも可胜なのだが、子䟛には、おおよそ理解困難だし、端的に蚀っお、子䟛たちはそうした描写には興味がない。぀たり、「村の共同䜜業魚獲り」や「村を挙げおの婚瀌の祝い」ずいったものシヌンには興味がなく、芋たいのは「悪ずの戊い」や「カッコよくお匷い䞻人公」や「ハラハラドキドキの展開」ではないだろうか。

    無論、圓時の高畑は、そうした「ありがちな目先の面癜さだけの䜜品」は䜜りたくなかったのだろうし、「村の共同䜜業魚獲り」や「婚瀌の祝い」ずいったものを盛り蟌んだのも、子䟛たちに「瀟䌚的な理想」を感じおずっお欲しいずいった「教育的意図」があったのだろう。

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    それ自䜓は、少しも悪くはないどころか、玠晎らしい「心がけ」だずは思うのだが、しかし、芳るのは子䟛たちなのだから、たずは子䟛たちが「面癜い」ず感じられる䜜品にしなければ、その「理想」に魅力を感じお芋おもらうこずができず、結果ずしおは倱敗、ずいうこずにしかならないからである。

    ぀たり、高畑勲の『ホルス』での挔出は、やや「芳念的」であり「理念先行で、それに衚珟が十分に぀いおいっおいなかった」ず蚀えるのではないだろうか。

    蚀うたでもないこずだが、こうした「嚯楜䜜品」においおは、「テヌマ」を蚭定するのず、その「テヌマ」を䜜品の䞭に昇華しお衚珟するのずでは、ぜんぜん話が違う。

    䟋えば、私たちの䞖代だず、䞀倧ブヌムになった『宇宙戊艊ダマト』のプロデュヌサヌ西厎矩展が、圓時しきりに「『宇宙戊艊ダマト』のテヌマは、愛です」ず連呌しおいたが、そうしたテヌマが、同䜜の䞭で十党に描けおいたずは、ファンですら、誰も本気で信じおはいなかったろう。
    『宇宙戊艊ダマト』は、「愛」ずいうテヌマを描いおいたから「傑䜜」なのではなく、やはり、斬新な「SF宇宙掻劇」であり、その䞭で「人間的な葛藀を描いた䜜品」ずしお「傑䜜」だったのである。

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    ぀たり、「テヌマ」ずいうのは、「掲げたり」「盛り蟌んだり」するだけでは䞍十分であり、あくたでも䜜品の䞭で「楜しみ぀぀、自然に感じ取れるもの」になっおいなければならないのだが、残念ながら『ホルス』では、それができおおらず、「民䞻共産䞻矩的共同䜓の理想」が「矎意識の抌し぀け」の域に留たっおしたったから、少なくずも子䟛にずっおの、䜜品の「魅力」にはなっおはいなかったのではないだろうか。

    次は、に぀いお。
    この問題に぀いおは、アニメヌタヌの西田亜沙子が、むンタビュヌで「ヒルダずいう「女性」の生々しい存圚感」ずいう、じ぀に鋭い指摘をしおいるので、たずはこちらを読んでいただきたい。

    『母いわく、私のアニメ奜きが始たったずいう『魔法䜿いサリヌ』に觊れお以来、ずにかく女の子を描くのが奜きだった私にずっお、「女の子」ずしおたず思い浮かぶのが『ホルス』のヒルダなんです。たるで本圓に生きおいるかのような、実際に存圚しおいるかのような女の子が日本のアニメで描かれたのは、『ホルス』が最初なんじゃないかず思いたす。』

    『それこそ『魔法少女たどか☆マギカ』にも぀ながっおいくような、ダヌクヒロむンの始祖なんじゃないかず思ったりもしたす。私はそういう、女の子の䞭にある闇ず光みたいなものが奜きで。「かわいい」だけの消費物だけじゃない女の子ずしおヒルダは描かれおいる。もちろん、挔出の力も倧きいですし、子䟛には少々難解ないんじゃないかず思えるシナリオの力もある。でも、それ以䞊に森康二さんが描く颚になびく髪の毛だったり、マりニにずいう女の子がヒルダの倪ももを揺すったずきの肉が揺れる感じを芋お、「服の䞭に肉䜓が入っおいる」ずいう感芚を、この映画で初めおおがえた気がしたす。自分が生たれた頃に、もうすでにこんな映像が䜜られおいたのかずいう驚きも感じたすね。』

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    これである。

    子䟛の私は、ヒルダが、それたでのアニメキャラの「女の子」ずは違っお、劙に生々しく、その反面、䜕を考えおいるのかがどうにも「理解䞍胜」な、その謎めいた存圚性においお、「䞍気味」だず感じおいたのだ。

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    単に、ヒルダが「悪魔グルンワルドの効」だからずか「村が滅がされたのに、なぜ圌女だけが生き残ったのか」ずか「グルンワルドから氞遠の呜を䞎えられた圌女は、すでにどのくらいの歳月を生きおきたのか」ずいった「内容的なこず」ではなく、その「䜕を考えおいる苊しんでいるのかがわからない」ずいう存圚感や、どこかに「女の生な゚ロティシズム」を感じさせられお、幌い男の子であった私は、その「異質性」や「非日垞性」に、怯えたのではなかったろうか。

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    それは私が、アン・シャヌリヌ『赀毛のアン』の「女の子らしさ」反発したのず、きっず同じこずだろう。
    私が、アニメの䞭に求めおいた「女の子」ずは、ある意味で「類型化された安党な女の子」であっお、「リアルな女の子」ではなかった。
    「リアルな女の子」は、たいがいは「理解䞍胜」であり、その点で「うずたしい」存圚であったから、私はもっぱら男の子どおしで遊んだし、䟋えば、出厎統の描く「倧人の女性」は、男の私にも理解可胜な「同じ人間」であっお、そこには「生なたな、性のにおい」など無かったのである。

    ぀たり、もずもず私は「生な女性性」ずいうのが苊手であり、「性のにおい」が苊手だったのだろう。だから、女性を「敬しお遠ざける」ずいう傟向が、私には、ずっずあったように思う。

    たしお、『ホルス』を芳たのは、歳時なのだから、ヒルダの攟぀謎めいた「女性性」ずいうのは、「魅力」ではなく、むしろ「理解䞍胜な䞍気味さ」ず感じられたのだろう。

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    だが、それが「悪魔の効」ずいう蚭定のせいだず誀認させられ、そのため「なんずなく嫌だな」「面癜くないな期埅したものずは違った」ず感じたのではないだろうか無論、物語的な郚分で、ヒルダの「暗い過去」をあれこれ忖床し、考察するこずは容易に可胜だが、それは本質的なものではないず、私には思える。

    先日、パク・チャヌク監督の「サスペンス・ロマンス」映画『別れる決心』のレビュヌを曞いたが、私が惹かれたこの映画の「謎めいた闇」ずは、実は、か぀おの私が、『ホルス』のヒルダに感じ、そしお怯えた「生身の闇」だったのではないかず、今にしお思う。

    このように芋おくるず、『ホルス』ずいう䜜品は、「お話」こそ型どおりの「少幎勇者の冒険譚」ずいうこずになるのかもしれないが、その奥に隠されおいたのは、「民䞻共産䞻矩共同䜓の理想」だずか「リアルな女性性」ずいったものであり、その意味では、たさに「倧人向けの䜜品」だった、ずいうこずになるのではないか。

    蚀い換えれば、『ホルス』は、倧人が芋れば「深い䜜品」であり、その意味で「先駆的な傑䜜」だず評するこずのできる䜜品なのだが、しかし、そうしたものぞの理解を子䟛に求めるずいうのは、いささか無茶な話だし、「楜しめ」ずいうのも、無理な話なのではないだろうか。
    ぀たり、『ホルス』は、「子䟛向け䜜品」ずしおは、「倱敗䜜」だったず断じおもいいのではないだろうか。

    ただし、それは「䞍出来だから」でも「無内容だったから」でもなく、「圢匏ず内容が䞀臎しおいなかった」ずいう点においおの「倱敗䜜」である。

    したがっお、結論ずしお私が蚀いたいのは、『ホルス』を「倧人の芖点」から芳お「傑䜜」だずか「名䜜」だずか評䟡するのは、いささか片手萜ちであり、公平な評䟡ずは蚀えないのではないか、そうした評䟡は「倧家ずなった䜜家の旧䜜」を、珟圚の芖点から「肯定的に評䟡するためになされた、ためにする評䟡」ずいう、いささかアンフェアな偎面があるのではないか、ずいうこずだ。

    『ホルス』が「ずおもよくできた䜜品なのに、公開圓時は評䟡されなかった、䞍遇な䜜品」だず、たるで「芳客であった子䟛たち」が悪いかのように語るのは、おかしいず思う。
    『ホルス』は、たしかに「倧人の目から芋れば」「今の目で芋れば」ずいう条件付きでなら、「傑䜜」であったずは蚀えるだろう。

    しかし、それをしお「正圓な評䟡を受けなかった䞍遇な䜜品」であるかのごずく蚀うのは、今の「倧家」たちに察する気遣いを優先した、䞍圓な評䟡である思う。

    たしかに『ホルス』はよくできた䜜品だし、時代に先駆けた䜜品であり、その意味で「傑䜜」だずは蚀えるだろう。
    だが、それず同時に、その「圢匏ず内容の䞍䞀臎」ずいう明癜な「欠点」においお、劥圓に倱敗した「倱敗䜜」だずも蚀えるのではないだろうか。

    いくらよく出来おいたずしおも、芳客を眮き去りにした、䜜り手の「自己満足」においお倱敗した䜜品を、単玔に「名䜜」ず呌んで枈たせるのは、それはそれで、倧いに䞍公正な評䟡だし、そうした評䟡に察する「芋たいものだけを、芋たいように芋おいるだけではダメだ」ずいう考え方こそ、優れお「高畑勲的」だず、私にはそう思えるのだ。

    そしお、そう断眪した䞊で、私自身を斬り返すならば、私は「子䟛」ず「男」は奜きだが、基本的に、「女」は奜きではないのだろう。特に「生の女」は。

    たただからこそ、私には「女性蔑芖」がなかったのではないかずも思う。
    距離があり、距離を眮くからこそ、「女性」を察象化しお客芳的に芋るこずができるその䞀方で、「愛憎」の絡んだ「感情」を持っお芋るこずが、ほずんどなかった、ずいうこずなのかもしれない。
    抜象的な「女性」だからこそ、「男も女も、同じ人間じゃないか」ず、あっさり蚀えたのかもしれない。
    たた、そうした意味で、私にずっおヒルダずいう「女性」は、今もなお、できれば敬遠したい存圚なのだろう。

    そしお、さらに蚀えば、長い時間、人間たちのそんな匱さを芋぀めながら生きおきたヒルダの「絶望」を、䞖間を知らない少幎ホルスの無垢や村人たちの善意や団結で救うこずなど、はたしお本圓にできるものなのか

    ヒルダずいう存圚の突き぀けおくる、こうしたあたりにもリアルか぀重い懐疑においお、『ホルス』ずいう䜜品は、今もなお「安心しお楜しむこずのできない傑䜜」なのではないだろうか。

    『 ヒルダの子守歌

     䜜詞深沢䞀倫、䜜曲間宮芳生

    むかしむかし かみさたがいいたした
    おやすみ みんな
    やさしい わたしのこどもたちよ

    むかしむかし かわうそがいいたした
    おねがい かみさた
    くろくたのうでに お぀ぐさり
    おやすみかわうそよ くろくたのうでは
    もうはねた

    むかしむかし くたどもがいいたした
    おねがい かみさた
    かわうそがこざかな あらしたす
    おやすみくたたちよ かわうそたちは
    もうひにくべた

    むかしむかし かみさたがいいたした
    おやすみ みんな
    やさしい わたしのこどもたちよ

    「Anison!」より  』


    2023幎3月16日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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