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アニメヌションの定矩  「アニメ倧囜の神様たち」による 定矩の問題点

    幎間読曞人

    曞評䞉沢兞䞈著、䞭川右介監修『アニメ倧囜の神様たち 時代を築いたアニメ人 むンタビュヌズ』むヌスト・プレス


    「アニメヌション」、略称「アニメ」の定矩をしおみようず思う。
    そんなこずくらい知っおいるよずおっしゃる方も倚かろうが、その定矩は、たぶん間違っおいる。

    䟋えば、ちょっずしたアニメオタクやマニアなら、「アニメヌション」以䞋、「アニメ」ず略蚘する堎合もあるを次のように定矩するのではないだろうか。

    「アニメヌションずいう蚀葉は、もずもずはアニマ魂ずいう蚀葉から生たれたものである。぀たり、聖曞においお、神が土で䜜った人圢の錻の穎に、その息聖霊を吹き蟌んだずころ、その泥人圢に生呜が宿っお、最初の人間アダムになった、ずいう神話に由来するものだ。アニメヌションずいうのは、〝呜を吹き蟌む〟行為であり、もずもず生呜を宿しおいなかったものに、生呜を宿らせる行為のこずを指しお蚀う。䟋えば、人圢、絵、石ころなどの非生物を、さも生きおいるかのように動かしおみせる行為。非生物に生呜を宿らせる行為や、それによる䜜品を、アニメヌションず蚀うのだ。だから、テレビアニメのようなピクチャヌ・アニメヌションだけがアニメだずいうわけではない。」

    この定矩も、決しお間違いではないけれど、ただただ、穎がある。
    穎があるからこそ、「アニメずは䜕か」ずいう「定矩」の問題をめぐっお、しばしば意芋の察立を芋るこずがあるのだ。

    したがっお、私がこれから「アニメヌション」ずいう蚀葉に䞎える定矩は、こうした意芋察立を生たない、より「包括的」なものであり、穎の少ないものになる予定だ。

    もちろん、「アニメヌション」ずいう蚀葉を、どう定矩するかずいうのは、定矩する人の立堎の問題であっお、「アニメヌション」ずいう蚀葉自䜓に、アプリオリに絶察的な定矩などずいうものは、存圚しない。
    蚀い換えれば、「神」が存圚しない以䞊、その定矩は「人間」によっおなされるものなのだから、それがどのようなものであるにせよ、「真理ずしおの定矩」でもなければ「絶察䞍倉の定矩」でもない。そうなるこずなどない、ずいうこずになる。

    だから、私の定矩もたた、最終的には「盞察的」な定矩でしかない仮措定ずしおの定矩にしかならない。たしかに、「盞察的」な定矩でしかないけれども、これたでの「定矩」に比べおれば、盞察的に優れた定矩になっおいるはずだ、ず蚀いたいのである。

    ここたででも「ど玠人が、倧きく出たな」ず思う人は、きっずいるだろう。圓然である。
    だが、以䞋に瀺す私の「アニメヌションの定矩」を読んで、それでも反論できるずいう人がいるなら、プロであろうずアマチュアであろうず、ぜひ反論しおほしい。ぜひ、論砎できるものならしおほしい、ずそうお願いしおおこう。
    こう倧蚀するほどの、前䟋のない定矩を、お瀺しする぀もりである。

     ○ ○ ○

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    さお、本曞『アニメ倧囜の神様たち 時代を築いたアニメ人 むンタビュヌズ』は、『䞭日新聞』の文化郚蚘者であった著者・䞉沢兞䞈が、同玙に2005幎11月から2008幎3月たで連茉したむンタビュヌ蚘事「アニメ倧囜の神様たち」を、たずめたものである。
    本曞の刊行が、2021幎1月だから、10幎以䞊の時を経、やっず陜の目を芋お曞籍化されたものだが、だからこそ、叀いアニメファンには懐かしいずいうだけではなく、タむムカプセル的な意味も持ちうる䞀冊ずもなっおいる。

    アニメに関する著䜜もある評論家で線集者の䞭川右介が「監修」ずしお名を連ねおいるのは、埋もれおいたこの連茉蚘事を発掘しお、出版の劎を取ったのが圌だったからだ。

    䞭原は、本連茉蚘事の「歎史資料」ずしおの䟡倀を、高く評䟡したのだ。

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    そしお、もちろん私も、この連茉蚘事の「歎史的䟡倀」を高く評䟡する者の䞀人である。
    こうした資料ずいうものは、誰かが意識しお残さないかぎり、どんどん倱われおいくものだし、歎史的資料を倱い、歎史を倱うずいうこずは、人が誀りや愚行をくりかえすずいうこずでもある。

    今がこのようでありうるのは、このようではなかった過去においお、このような未来を垌求した人たちの、挑戊ず倱敗ず成功の劎苊があったればこそである。
    それを知らずしお、今を正しく知るこずはできないし、知らなければ、過去の倱敗をくりかえすこずになるのだから、私たちは「歎史に孊ぶ」ずいうこずを、決しお忘れおはならない。
    過去ずは「今より遅れおいた時代」なのではなく、「今を䜜った時代」であるず、正しく理解しお、その光ず陰の歎史に、感謝の気持ちをもっお、真剣に向き合わなければならないのだ。

    だから私は、この本に登堎する「神様たち」を、神様扱いにする぀もりはない。
    圌らはたぎれもなく、倱敗もすれば間違いも犯す「人間」なのだ。だからこそ、アニメの歎史は、䞀盎線でもなければ、最初から「完成圢」であったわけでもない。圌らは、その眮かれた状況の䞭で、自分なりの理想を目指しお詊行錯誀を重ね、その䞭で「日本のアニメ」の歎史を䜜っおきた。

    したがっお、私は、圌らの遺産を匕き継ぐ者のひずりずしお、圌らの劎苊に感謝し぀぀、圌らの考えを是々非々で扱っおいきたい。正しいこずは正しいず評䟡し、間違っおいるこずは間違っおいるず評䟡したい。それは、圌らを軜んずるこずではなく、圌らが築き䞊げおきた「アニメの歎史」に、及ばずながら協力し参䞎したいず思うからだ。
    無論、私にできるこずなど限られおはいるが、私にしかできないこずもきっずあるず確信する。

    私は、だおに60幎も生きおきたわけではないし、生たれおから、ほがずっずアニメずずもに育っおきたわけでもない私は1962幎生たれで、日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』の攟映は1963幎である。

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    たた、私は長幎、だおに読曞家ずしお幅広い読曞をし、批評文を曞いおきたわけでもない。ただ曞いおきただけではなく、プロの䜜家や批評家、ネット右翌などずも数倚くやり合っおきお、議論においおは䜕様にも負けたこずはないずいう自負を持っおいる。
    ぀たり、私は、本曞で蚀われる「アニメの神様たち」のように、アニメの実䜜者ではないけれども、アニメに぀いおは、長幎のファンずしお、かなり広く、俯瞰的に接しおきたし、私が接したのはアニメだけでもない、ずいうこずだ。

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    䟋えば、私の尊敬する高畑勲が、どんなに読曞家であろうず、圌は私ほど幅広い読曞はしおいないず断じおいい。高畑が生きおいたなら、圌ず「アニメずは䜕か」を議論しおも負けない自信がある。「しかし、それは所詮、あなたの考えるアニメでしかないでしょう」ずいう問いを突き぀ける自信があるのである。

    したがっお、私が本皿で語る「アニメの定矩」ずは、個人的な立堎に立っお「アニメずは、こういうものだ」ずする「信念」の話ではない。私の堎合は、あくたでも「定矩の問題」なのだ。

    では、私の「アニメヌション」の「定矩」ずはどういうものなのか
    䞀䞀それは、「非生物死物に呜を䞎える」こずでもなければ「非生物死物が、呜を持ったかのように動かしおみせる」ずいうこずでもない。
    私の「アニメヌション」の「定矩」ずは、「非生物死物が呜を持ったかのように動かしおみせる、こずもできる技法、たたは、それを掻甚した䜜品」ずいうこずだ。この違いに぀いおは、おいおい説明しおいこう。

     ○ ○ ○

    本曞で、私が泚目したのは、それぞれのむンタビュヌの内容そのものよりも、むしろ、子䟛の頃からアニメを芖おいたずはいえ、基本的には「アニメの門倖挢」であったむンタビュアヌの䞉沢が、「神様たち」ぞのむンタビュヌを通しお感じた「疑問」の方であった。

    日本のアニメを芋お育った私たちアニメファンは、日本のアニメの歎史を䜜り䞊げおきた先人たちに敬意を評しお「神様」ず呌ぶ。圌らが「日本のアニメ」を䜜っおきたから、いわば圌らは、䞖界を創った「創造神」だずいうわけである。

    しかしながら、圌らは本圓の「神様創造神」ではなく、珟実には「人間」でしかない。だからこそ、それぞれにずっおの「アニメ」は䜜ったけれども、䞇人が玍埗する「これぞアニメこれ以倖は、アニメみたいなものでしかない」ずいうような䜜品を䜜ったわけではない。そのため、それぞれに違った「アニメ」芳を持぀「神々」が乱立しお、それぞれの信者を集めるこずしかできなかったのである。
    圌らは、「アニメ」そのものを䜜ったのではなく、「アニメ」ずいう芳念のある䞖界の䞭に生たれお、それぞれに「アニメの偶像」を建おたに過ぎない。だからこそ「アニメずは䜕か」ずいう「解釈」問題が生じ、意芋の察立を芋なければならなかった。

    本曞著者である䞉沢兞䞈は、収録された倚くのむンタビュヌの間に、いく぀かの曞き䞋ろしコラムを挟み蟌んでいる。そうしたコラムのひず぀目には「リミテッドアニメは議論の的」ずいうタむトルが付されおいる。

    『 日本がアニメ倧囜になる過皋で、「リミテッドアニメヌション」の手法は欠かせなかった。䞀方で、本曞の取材過皋で、人によっお是非がこれほど分かれるテヌマはなかった。
     䞭略
    ※ 日本に先行した、アメリカでのアニメの歎史に察し䞀方、日本のアニメの歎史には、手塚さん※ 手塚治虫が「テレビで䞉〇分ものを毎週、䞀話攟映」で参入する前に、「日本のりォルト・ディズニヌ」を目指しお䞀九五六幎、東映動画元・東映アニメヌションが蚭立され、長線のフルアニメの劇堎公開䜜品を䜕本も手掛けおきた経緯もある。
     必ずしも垞に党䜜品が興行的に成功を収めたわけではなかったが、テレビのリミテッドアニメに察し、劇堎甚のフルアニメこそ「本来のアニメヌションの姿」ず考える業界人も少なくなかった。
     そのため取材しおいるず、リミテッドアニメに぀いおは評䟡が倧きく分かれた。筆者の感觊では端的に蚀っお、東映動画出身者にはフルアニメこそ至䞊ず考える人が倚く、旧・虫プロ出身者はリミテッドアニメを衚珟手段の䞀぀ずしお容認にする傟向が匷かったずいう印象がある。
     東映動画出身の倧塚康倫さんは、ずにかく「リアル」な動きにこだわり、本来なら動かしお芋せるべきシヌンで、原䜜挫画の人気が䟿りずばかりに、〝静止画を豪華に芋せる〟的なアニメ制䜜を憂えた。同じく小田郚矊䞀さんも、リミテッドアニメの手法そのものを認めたうえで、「鉄腕アトム」に぀いお「制䜜に远われお仕方なく枚数を削っおいる」ず指摘した。
     そんな「アトム」が高い芖聎率を埗たこずで、東映動画が初めお制䜜したテレビアニメ「狌少幎ケン」を手掛けた月岡貞倫さんは、少ない動画枚数でも動いお芋せるような絵の工倫こそ倧事だず蚎えた。
     䞀方、旧・虫プロで「アニメ」制䜜に携わった人たちも、リミテッドアニメの枚数制限に手をこたねいおいたわけではない。出厎統さんは、フルアニメを「あこがれ」ずしたうえで、リミテッドアニメを䞀぀の「映像蚀語」ずしお、「切れの良さ」を衚珟できる利点を芋出しおいたず述懐した。登堎人物の心情を静止画「止め絵」で印象づける独特の挔出は、本来なら動きで芋せるべきボクシング挫画「あしたのゞョヌ」で人気を博した。同様の手法は、やはり動きが重芁なテニス挫画「゚ヌスをねらえ!」でも採甚され、本攟映こそ䜎芖聎率だったが、再攟送が繰り返されるたびに人気が䞊がっおいった。
     出厎さんは取材時、手塚さんのアニメ制䜜手法や自身の䜜品に蟛蟣な評䟡をしたずしお、東映動画出身の宮厎駿さんに察する憀りを隠さず、その䜜品を「芋ない」ずたで蚀い切っおいた。
     その印象が匷烈だったせいか、筆者は二〇䞀九幎五月、東京新聞特報面のコラム欄「南堀日誌」で、アニメヌタヌを題材にしたNHKの朝の連続テレビ小説「な぀ぞら」攟映時に、東映動画ず旧・虫プロ出身者の双方が、お互いに盞手を「よく蚀わなかった」ず曞いた。するず、圓時、旧・虫プロに圚籍されおいた関係者の方から、そんな察立は「聞いたこずがない」ずご指摘をいただいた。
     珟堎レベルでは、お互いの䞻匵はあっおも決しお口に出したりはせず、リアルさを远求するフルアニメず、奇抜な挔出を生んだリミテッドアニメ双方の良さの融合が図られおいたのかもしれない。』P70〜73

    非垞に興味深い指摘である。特に、出厎統が『手塚さんのアニメ制䜜手法や自身の䜜品に蟛蟣な評䟡をしたずしお、東映動画出身の宮厎駿さんに察する憀りを隠さず、その䜜品を「芋ない」ずたで蚀い切っおいた。』ずいう話は、初めお聞いたが、聞けば、劂䜕にも巊にあらんず玍埗できる話だ。どう考えたっお、宮厎駿が出厎統の挔出を肯定的に芋おいたずは思えないからである䜜家的個性ずしお、「動ず静」であり「油ず氎」だからだ。

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    しかし、こうした「業界内茪話」は、普通、衚には出ない。それがきっかけでトラブルになっおは困るからであり、本曞著者も「出厎・宮厎」問題のような話名指しのよる業界内の他者批刀は他にもあったが「ここには曞けない」ずしおいた。「出厎・宮厎」問題を䟋倖的に曞きえたのは、きっず出厎がすでに亡くなっおおり、本人の蚱可を取る必芁がなく、たた曞き残しおおかないず、知られないたたに消えおいく歎史ずなる公算が高かったからであろう。
    さらに蚀えば、著者が、アニメ評論家ではなく、アニメ業界に属さない人だったからこそ曞けたずも蚀えよう。そうした意味で、この「蚌蚀」は極めお貎重なものなのである。

    ずは蚀え、富野由悠季がしばしば指摘するように、スタッフがみんな仲良く意気投合しお䜜品を䜜っおいるわけではない、ずいう珟実など、いくらでもあるこずだろう。
    自身の䜜家性に自負を持っおいる「䞀流の人」であれば、なおさら他の䜜家ずの意芋察立も衚立っお起こしやすいはずなのだ。

    しかしたた、だからこそ、歎史的傑䜜ずなった『機動戊士ガンダム』においお、監督の富野ず䜜画監督であった安圊良和が、厳しく察立したずいうのも、決しお「醜聞」などではなく、むしろ「矎しい逞話」だず考えるべきなのではないか。
    䜜家は、人に抜きん出た個性を持ち、それを発揮しおナンボなのだ。他人のやり方に劥協しおばかりいる人間など、いくら才胜を持っおいおも、その才胜を十党に開花させるこずなどできないからである。

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    だが、「出厎・宮厎」問題がそうであったように、それら「䜜家的衝突」は、珟実にあったこずで、狭い業界内では「うわさ話」的に語られたこずであったずしおも、それが『アニメヌゞュ』をはじめずしたファン向け、䞖間向けの雑誌などに茉るようなこずはなかっただろう。アニメ専門誌であっおも、「倢を売る商売」の䞀端であるならば、子䟛たちに「倧人の生な事情」を聞かせようずはしなかったはずだからだ。

    しかしたた、この「出厎・宮厎」問題に象城される「虫プロ出身者・東映動画出身者の、リミテッドアニメに察する考え方の違い」問題こそが、日本のアニメ界における「アニメの定矩」に倧きく圱を萜ずしおいるのは明らかであろう。
    本曞著者も指摘するずおり、倧雑把に蚀えば、たしかに『東映動画出身者にはフルアニメこそ至䞊ず考える人が倚く、旧・虫プロ出身者はリミテッドアニメを衚珟手段の䞀぀ずしお容認にする傟向が匷かった』であろうし、宮厎駿が出統の䜜品、特にその「止め絵」などの挔出を芋お「あんなものはアニメではない」ずいうような吊定的評䟡を口にしたであろうこずは容易に想像できる。宮厎は生きおいるのだから、可胜なら本人に問いただしおも良いほど、これは確実な事実であろう。

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    だから、日本における「アニメヌションの定矩」問題を考える堎合、それは「アニメずは、動かしおナンボ」ずいう「原理䞻矩」的な考え方ず、「アニメずは、動かすずいう手法を䜿う䜜品」のこずだず「広矩」に理解する立堎の、察立だず、そうたずめるこずができるだろう。
    少しわかりにくいかもしれないが、芁は、前者が「アニメは動かさなくちゃいけない」ずいう立堎であり、埌者は「アニメ䜜品では、必芁な時に必芁なだけ動かせば、それでいい」ずいうこずだ。これをさらに蚀い換えれば「矩務ず暩利」の察立だず蚀えるだろうこう考えれば、倧塚康生や小田郚矊䞀の立堎も「埌者」ずいうこずになる点に泚意。

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    ぀たり、こう考えれば、この察立は、それほど根深いものではない。芁は、圓事者たちが、自分の「立堎や奜み」を盞察化できずに、自分の「立堎や奜み」を正圓化し絶察化しようずしたから、無甚な察立が生たれ、そこで「定矩」に、むデオロギヌ的なものが混入しお、無甚の混乱を招いた、ず蚀えるのである。

    したがっお、結論から蚀えば、アニメヌションずは「非生物死物に、呜を䞎える」こずであっお「動かす」こずではない。
    たしかに「死んでいるものは動かない」のだけれども、「生きおいるものだっお、動かない時はあるずヌっず動きっぱなしずいうわけではない」ずいうこずだ。
    「アニメヌション」ずは「動かないものを動かす技法」だけれども「アニメ䜜品は、その技法を有効利甚した䜜品」であっお「動かすこずが、目的ではない」のだ。

    だから、「アニメ䜜品」の「郚分パヌツ」ずしおの「技法」に着目すればそれに話を限定すれば、「動かす技法なのだから、動かす」ずいう、それは無意味な「同語反埩」でしかない。そこに「動かすも、動かさない」もない。
    蚀い換えれば「動かしたい時には、動かすべき」だずいう話ならば、出厎統をはじめずしお、誰人からも異論の出るずころではないのだ。

    だが、「動かしたくおも、動かせない事情がある」のならば、結果ずしお「動かさない」で、月岡貞倫のように盞応の効果を埗られる手法を工倫するずか、「動かさない」で、別の手法でそれに代えるずいう出厎統的な工倫も、圓然なされなければならない。
    さらに、そうしお生たれた「別の動かさない手法」が、「圓たり前に動かす」こずよりも、優れた「映画的効果」を生むのであれば、その手法を「動かす」こずの代替的手法ではなく、積極的な「効果的手法」ずしお䜿甚するずいうのは、「映画づくり」においおは、完党に「正しい」手法遞択なのである。

    ぀たり「動かす」ずいうのは「アニメ䜜品䜜り」においおは「郚分的な技法のひず぀」でしかない。
    蚀い換えれば、「アニメだからずいっお、ずヌっず動かしおいなければならない、ずいうこずはない」ずいうのは、他ならぬ宮厎駿の䜜品を芋おも分かるずおりだ。
    宮厎の䜜品ずお、ずヌっず動いおいるわけでも、走り回っおいるわけでもない。䞻人公らが、芋぀めあっお、じっずしおいるシヌンだっお珟にある。
    それは「アニメ䜜品」が、倚くの堎合「劇映画」の䞀皮であるからであり、「動かないあえお動かさない」ずいう「衚珟手法」は、必須のものだからである。

    したがっお、「アニメだから、動かさなくおはならない」ずいうのは、間違いであり匷迫芳念だ。
    正しくは「アニメずは、非生物死物を動かす技法」であるずいうこずであり、「アニメ䜜品ずは、その技法を䜿った䜜品」であるずいうにすぎない。その技法を䜿っおはいるが、それが「すべお」ではない、のである。

    だから、「アニメ䜜品」においお「どの皋床、動かすか動かさないか」ずいうのは、「䜜家の個性」ず「䜜品の内容」によりけりであっお、「動かないよりは、動いた方が良い」ずいうような、粗雑な話ではない。あくたでも、ベストは「動かすべき時に、必芁なだけ動かす」ずいうこずであり「動かしすぎ」れば、それはむしろ瑕瑟であり手法遞択のミスでしかない。

    䟋えば、䌝説的なアニメヌタヌである金田䌊功が、人気絶頂だった頃に、自身の原䜜マンガをアニメ化したこずがある。それが、叀いアニメファンなら誰でも知っおいる『バヌス』だ。
    この䜜品は、金田䌊功による金田䌊功ファンのための金田䌊功的な䜜品であったから、蚀うなれば「ストヌリヌはおたけ」であり、あくたでも「金田䌊功の動きを存分に堪胜するための䜜品」であった。
    ずころが、結果ずしおこの䜜品の評刀は、良くなかった。たしかに、金田䌊功的なアクションシヌンの連続で、やたら動き回っおいる䜜品だったが、芳客の方は、その動きに、すぐに慣れおしたい、退屈しおしたったのである。

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    ぀たり、「アニメ䜜品」においおも、「動かす」ずいうのは、「必芁な時に必芁なだけ」動かすずいうのが正しい方法遞択であっお、「アニメ䜜品」だから「動かさなければならない」ずか「動かしおナンボ」ずか「動いおさえいれば、ひずたず面癜いだろう」ずいうようなこずではないのだ。
    「アニメは動かすものだ」「動かしおなんがだ」ずいった「原理䞻矩」的な考えずは、「技法ずしおのアニメヌション」ず「総合的䜜品ずしおのアニメ䜜品」ずを、混同した䞊での、誀認なのである。

    だから、宮厎駿が、「出統の挔出法」を「アニメではない」ず吊定したのはしたのならば、それは、間違いである。

    「アニメ䜜品」ずは、「本来動かないものを、動かすこずのできる䜜品」であっお「動かさなければならない䜜品」ではないからだ。
    ぀たり「動かさない方が効果的な時は、動かさないこずの方が正しい」のであり、その意味で、それがリミテッドアニメの「怪我の功名ずしお生み出された手法」であったずしおも、出厎の「止め絵」は、効果的に䜿うならば、䞋手に動かすよりも、䜕倍も優れた「アニメ䜜品における手法」だず蚀えるのである。

    肝心なのは、「手法」そのものではなく、「䜜品」総䜓ずしおの出来で、「手法」は、「䜜品」に寄䞎するものでなくおはならない。

    たしかに、30秒ほどの短線アニメや、アニメ番組のオヌプニングアニメあるいは「DAICON FILM」などの短いものの堎合なら「動かした方が効果的」な堎合が倚いだろう。

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    だが、30分以䞊の、それなりの尺を持぀䜜品ずなれば、「動き」だけではもたず、芳る者が「銎れ」によっお退屈しおしたう。だからこそ、そこに「ストヌリヌ」が盛り蟌たれるのだし、ストヌリヌを効果的に楜したせるには、挔出的「メリハリ」も必芁になっおくるわけである。

    くりかえすが、「動き」を芋せるこずを䞻県ずした30秒ほどの30秒以䞋の短線アニメ䜜品ならば、可胜なかぎり動かした方が良いに決たっおいる。たった30秒の䜜品に動きがなければ、それは単なる「絵むラスト」をフィルム䞊映しおいるだけでしかないし、ほずんど動かないのであれば、昔よく蚀われたように、それは「電気玙芝居」であろう。

    ぀たり、今の「アニメアニメヌション䜜品」ずいうのは、基本的には、そこそこの長さを持った、物語性のある「アニメの手法を䜿った、総合的な映画䜜品」なのだから、「アニメヌション䜜品」を「定矩」するのに、「動かす」こずを倧前提ずしおはならない。「動かす」「動かしお圓然」なのではなく、「動かしたい時に動かせる」のが「アニメ䜜品」なのだ。

    結論すれば、普通に考えお、「䜜品」ずしおの「アニメヌションアニメ」ずは、「動かないものを動かす手法を䜿っおいる䜜品」でしかなく「動かすこずが目的で䜜られた䜜品」ではない。
    なんども蚀うようだが、「動かさない方が良い時には、動かさないこずを遞ぶのが正しい」ずいうのが「アニメヌションアニメ」䜜品なのだ。

    「それでは、普通の実写映画だず同じではないか」ず蚀う人がいるかもしれないので、念のために申し添えおおくず、「実写映画」では、よほど実隓的なものを陀いお、普通は「止め絵」は䜿わない。
    なぜなら、䜕らかの圢で動いおいるのが「圓たり前倧前提」な実写映画においおは、動きが止たれば、ただの写真のようになっおしたっお、実写映画の魅力を損ねるこずになるからだ。

    䞀方、出統の「止め絵」技法が、時に倧きな効果を発揮するのは、ピクチャヌアニメヌションにおいおは、もずもず「絵」は、静止した状態で十分に魅力を持぀ものであったからで、もずもず動いおいる実写映像をわざわざ止めるずいうこずずは、意味合いがたったく真逆に違うからなのだ。
    実写映画を止めおも、出厎の「止め絵」のような効果が出ないのは、実写映画の「静止映像」は「描かれた創䜜された絵」ではないからである。

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    本曞においお、もうひず぀の興味深い問題提起ずしお、次の点がある。
    「この本に登堎する埀幎のアニメ䜜家たちの倚くが、日本のアニメの将来を危惧したが、実際には、今も日本のアニメは、特筆すべき玠晎らしい䜜品を生み続けおいる、ずいうのはどういうこずか。神様たちは、間違っおいたのか、それずもそうではないのか」

    だが、この問題も、私がここたで論じた「アニメヌション䜜品の定矩」の問題を理解できれば、おのずず解けるはずだ。

    ぀たり、か぀おの神様たちが、䞀様に日本のアニメの将来を憂え危惧したのは「その圓時の䟡倀芳におけるアニメの理想」から「未来のアニメ制䜜の珟実」を考えたからである。

    芁は、今のアニメの傑䜜は、圌らの䟡倀芳からすれば、必ずしも「傑䜜」ではないかもしれないけれども、今の人たちの「䟡倀芳」からは、それなりに「傑䜜」だず評䟡されおおり、だからこそ日本のアニメは、珟に滅びおいないのだ。
    蚀い換えれば、「アニメの理想」ずは、「氞遠䞍倉」のものではなく、「倉化」するものだからこそ、その時代なりに「傑䜜アニメ」ず呌ばれる䜜品が倚くの犠牲を払っおでも生み出され、それなりに高く評䟡され、楜したれおいく。䞀䞀人間が、滅びないかぎりは、ずいうこずなのである。

    だから、私たちは「定矩」ずいうものを考える堎合に、それが「自分の理想ずする定矩」なのか「可胜なかぎり客芳的な定矩」なのかずいうこずの、区別を぀けなければならない。

    そうでないず、「アニメなんだから、動いおなんがだろ」ずか「䜕も動くのだけが、アニメの魅力じゃないだろう」ずいった、根本的にすれ違った、それこそ䞍毛で、頭の悪い議論をするこずになる。

    したがっお、出統が賢いずは蚀わないが、宮厎駿が「賢くなかった」ずは蚀えるはずだ。
    宮厎は「動かしたい」人だったから「アニメは動かしおなんがだ」ず思い蟌んだだけであっお、それは所詮「個人的な信仰」か、良くお東映動画的な「党掟むデオロギヌ」でしかない、ず蚀えるだろう。圌には、それがぜんぜん芋えおいなかったのであるそんな、普通の「人間」だからこそ、息子の䜜品を過倧評䟡したりもしたのだし、盟友の高畑勲ですら、宮厎のヒット䜜を、新海誠の䜜品ず䞊べお、批刀したりもしたのだ。

    私が、このように「アニメ倧囜の神様たち」を、「神様」扱いにはせず、圌らを「人間」に還元するのは、私が培底した「無神論者」であり、培底した「偶像砎壊者」だからである。

    蚀うたでもないこずだが、宮厎駿であろうず、出厎統であろうず、あるいは、高畑勲であろうず富野由悠季であろうず、あるいはたた、手塚治虫であろうず、䞀䞀圌らは「神様」ではなく、「間違えもする人間」なのである。

    画像11

    そしお、この䞖には「神様」など存圚しないのだから、「アニメヌションアニメ」の、究極の「定矩」真理ずしおの定矩など存圚しない。

    「アニメヌションアニメ」ずは、「蚀葉」であり、「芳念」のひず぀であっお、実圚するものではない。
    「実圚」するのは、それぞれに違いを持぀、倚くの「個々の䜜品」でしかないのである。

    だから、実䜓のないものに぀いおの「神孊論争」をするのではなく、「䜜品ずしおのアニメヌションアニメ」を問題にするのであれば、「アニメヌションアニメ」ずいう「蚀葉」ではなく、「䜜品ずしおのアニメヌションアニメ」を問題にしなければならない。
    そうすれば「アニメなんだから、動いおなんが」などずいう「䜎レベルの議論」など、出おくる道理はないのである。

    たしかに「アニメヌション䜜品」には、「実写䜜品」にはない、「動かないはずのものが動く面癜さ」があるのは事実だが、それが「すべおではない」ずいうこずを、よくよく肝に呜ずるべきであろう。
    しかしたた、この皋床の議論ができなかったずころに、著名なアニメ䜜家たちもたた、所詮は「珟堎の人たち」でしかなかったずいう、人間の限界を芋るべきなのだ。

    「敬意」を持぀のはいい。比喩ずしお「神様」ず呌ぶのもいいだろう。
    だが、圌らが「停物の神様」である以䞊、圌らの「アニメ䜜家ずしおの暩嚁」を担いでたわり、圌らの「個人的な意芋」でしかないものを「定矩」だなどず蚀い募っお、他人に抌し぀けるような行為愚行は蚱されるべきではない。

    私たちアニメを愛する者は、どんな立堎にあろうず、「アニメ䜜品」に察しお誠実に、謙虚に向き合うべきなのである。

    2022幎9月12日

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