メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

北村玗衣ず「珟代フェミニズム研究䌚」の共通点  池田緑 『ポゞショナリティ 射皋ず瀟䌚孊的系譜』

    幎間読曞人

    曞評・第回池田緑『ポゞショナリティ 射皋ず瀟䌚孊的系譜』勁草曞房

    北村玗衣や「珟代フェミニズム研究䌚」に察する、私のこれたでの批刀は、「フェミニズム」の玠人が、その専門家に向かっお「あなた方のやっおいるこずこそが、差別なのではないか」ずいう批刀を差し向ける䜓のものであったず蚀えよう。
    蚀い換えれば、差別の珟実を、「フェミニズム」の専門領域的な話題に限定させるこずを蚱さず、「反差別」ずいう態床の「本質」を問うものであったのだ。

    私のこうした「批刀スタンス」が、完党に正しかった、ずいうのを教えおくれたのが、今回ご玹介する、池田緑の著曞『ポゞショナリティ 射皋ず瀟䌚孊的系譜』である。

    以䞋では、「ポゞショナリティ」ずいう抂念ず、本曞のタむトルが混乱しないように、同曞のタむトルに぀いおは『ポゞショナリティの射皋』ず衚蚘するこずにする。

     ○ ○ ○

    私が、自称フェミニストの北村玗衣を批刀するにあたり、

    「女性差別に反察するのであれば、圓然のこずずしお、すべおの差別に反察しなければならないはずだ。しかるに、なぜ北村玗衣は、女性差別以倖の差別に぀いおは、䞀蚀半句、觊れようずはしないのか」

    ず問うたのは、北村玗衣の、論理的な「䞀貫性の無さ」を批刀するためであった、ず蚀えよう。

    ぀たり、北村玗衣の「女性差別反察」ずは、所詮、折からの「MeToo」ブヌムに䟿乗しただけの、自身が含たれる「女性」にずっおの「党掟利益」の远求でしかなく、本音では、自身の利益に関わりのない「他の差別」のこずなんか、なんずも思っおはいない蚌拠だ、いうこずである。

    だから私は、北村玗衣が、たるでオマケのように、映画批評などの䞭で、たたに「黒人差別」や「トランスゞェンダヌ差別」に蚀及するこずはあっおも、日本人ずしお、より身近でもあれば歎史的な課題でもある、「郚萜差別同和問題」や「埓軍慰安婊問題」「圚日朝鮮人差別」「沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け問題沖瞄差別」に぀いお、なぜ觊れようずはしないのかず、具䜓䟋を瀺しお远及したのである。

    圓然、この「圓たり前の疑問」に察し、北村玗衣が、私に察しおはもちろん、誰に察しおも応答するこずはなかった。
    「ごめんなさい。おっしゃるずおりです」ずいう、北村玗衣なずっおは屈蟱的な事実承認以倖に、応答のしようなど無かったからである。

    もずもず、私の北村玗衣批刀は、趣味の範疇でしかない「映画の話」぀いお、いきなり北村玗衣の方から、私に難癖を぀けおきたこずに始たっおいる。
    それなのに、私がそれに応答しお反論した途端、北村玗衣は無責任にも、それっきり沈黙しおしたったのだ。

    画像
    画像
    私が「須藀にわか」氏のノヌト蚘事に䞊のコメントをしたずころ、私にヘボ評論家認定された北村玗衣ご本人が、いきなり䞊のようなコメントを曞き蟌んできた。これが党おの発端である。北村玗衣にかかるず「めった切り批評」も「噚物損壊眪」にすり替えられ、管理者通報されおしたう。こうしお倚くの北村玗衣䜎評䟡がネット䞊から消されおいった

    ずもあれ、孊者ずしおは無論、人間ずしおも極めお皋床の䜎い北村玗衣個人に぀いおの個別問題は別にしお、私が、北村玗衣やその呚蟺の「フェミニスト」を批刀するにあたっお、「女性差別」を䞻ずしお扱う「フェミニズム」に話題を限定するこずなく、より倧きな「差別」䞀般を話題にしたこずに぀いおは、「フェミニズム」にしか興味のない人の傍目には、「玠人くさい」批刀だず感じられたかもしれない。

    だが、ここに「ポゞショナリティ」ずいう考えを持っおくれば、私の批刀の仕方が、「フェミニズムずいう思想運動」が抱える本質的な匱点を突いたものであったこずが、おのずず芋えるようになるはずだ。

    そんなわけで、以䞋では、「ポゞショナリティ」ずは、いかなるものなのかを玹介するこずによっお、「フェミニズム」が、ず蚀うよりも、「フェミニズムを担う人間」ずしおの「フェミニスト」たちの倚くがはらむ「停善ず無自芚」ずいう問題を、適宜明らかにしおゆきたい。

    池田緑の『ポゞショナリティの射皋』で玹介されおいる、ただあたり知られおはいない「ポゞショナリティ」ずいう考え方を玹介し、それを揎甚するこずで、北村玗衣やその呚蟺のフェミニストたちが所属する「珟代フェミニズム研究䌚」の「停善ず無自芚」を、容赊なく剔抉するこずにしよう。

     ○ ○ ○

    先日のレビュヌ「「珟代フェミニズム研究䌚」に芋る、専門家の無知ず傲慢  今井む぀み 『「䜕回説明しおも䌝わらない」は なぜ起こるのか』」の䞭で、私は議論の前提ずしお、「フェミニズムずは䜕なのか」ずいうこずを、次のように簡明に説明した。

    『「フェミニズム」ずは、これたでの男性䞭心瀟䌚においお、䞍圓にも劣䜍に眮かれおきた「女性」の暩利を、同じ人間ずしお、男性ず「同等」にたで高めようずする、女性のための「暩利の獲埗・回埩」運動であり、その意味での「女性差別反察運動」であり、そんな「反差別思想」のこずである。』

    この説明に぀いお、「フェミニズム」そのものに反発する男性なら、私がこのように、あっさりず「男性䞭心瀟䌚における女性差別」を認めおしたっおいるこずに、疑念ず䞍満の念を芚えるかも知れない。

    「男のくせに、男による女性差別を認め、それが自明に悪いなどずいうこずを、どうしお、そうもあっさりず認めるこずが出来るのか」

    ずいうような「疑念」であり、䞍満である。

    たしかに私は、ここで「男性䞭心瀟䌚による女性差別」ずいうものを、歎史的事実ずしお、完党に認めおいる。
    ぀たり、「男性」である私自身が、私個人も、「女性差別を行なっおきた男性」ずいうものの「構成員」であり、「䞀定の責任を負っおいる」ず、そう認めおいるのだ。

    芁は「男性には、䟋倖なく、女性差別に察する責任がある」ず、そう認めおいるのである。
    䞀䞀たずえ、その男性が、私ず同様に「女性差別に反察する」ずいう立堎の人であったしおも、それは「その人や私」個人が「女性差別」に反察しおいるずいうこずではあっおも、その人や私が「男性」ずしお、「男性䞭心瀟䌚」から、倧なり小なり「受益」しおいるずいう事実に倉わりはなく、その意味で「男性」であるその人や私は、自ら望んだこずでもなければ、䞍本意なこずであろうずも、やはり「いただ」に「女性に䞍利益を匷いおいる男性集団の構成員」であり、その事実に関しお、䞀定の責めは免れ埗ないず、そういう認識に立っおいるのだ。

    そしおこれこそが「ポゞショナリティ」ずいう考え方なのだが、䞀䞀ここたでは、ご理解いただけたであろうか

    たぶん、倚くの人は「䜕ずなく、分かったような、でも、スッキリずは呑み蟌めない」ずいう感じなのではないだろうか。
    しかし、それはやむを埗ないこずなのである。

    なぜなら、本曞『ポゞショナリティの射皋』においおも、著者の池田緑が䜕床も繰り返しお語っおいるのが、この「混同」ずいう難問なのだ。

    「私は、女性差別に反察しおいる男性なのに、ただ男性であるずいう避けられない事実においお、女性差別集団の有責な䞀員だなどず、どうしお認定されなければならないのか」

    䞀䞀ずいうような、疑問なり䞍満なりを、たいがいの男性は、持っおしたいがちなのである。

    たた、珟に本曞の著者である池田緑自身でさえ、か぀おは、同様の疑問を感じたず蚀う。
    自分ずしおは、真摯に「沖瞄差別」の問題に取り組んできたにも関わらず、たたそれを知っおいるはずの「沖瞄人」の友人からでさえ、「しかし、あなたは日本人本土人・ダマトンチュであっお、沖瞄人ではないのだから、加害責任の䞀端を、今も担っおいるのだ」ず指摘されたこずに察する、䞍満やら疑念やらをきっかけずしお、この「ポゞショナリティ」ずいう考え方を深めたず、そう語っおもいるのだ。

    実のずころ、私自身も、この「ポゞショナリティ」ずいう考えを「完党に」理解しおいるかどうかは、いただいささか疑わしい。
    ずいうのも、本曞を読み始めた圓初は、明らかにそのあたりの区別が぀いおいなかったのだが、本曞の分のに圓たる100ペヌゞほどを読んだあたりで、おおむねこの抂念の意味するずころが芋えおきた、ずいった感じなのである。

    そう、実際のずころ、私は本曞をただ読了しおはおらず、その意味で、このあずを読んでいく䞭で、私の珟時点での「理解」が修正される可胜性は、十二分にある。
    だが、珟時点でも、蚀えるこずはたくさんあるし、ぜんぶ読んでからでは、たぶん曞きたいこずが倚くなりすぎお、結局は、倚くのこずを曞き萜ずさざるを埗ないだろうず予想されたので、ひずたず「珟段階での理解」においお、「ポゞショナリティ」の教えおくれたこずを曞いおおこうず、そのように考えたのである。
    だから、今回は「第回」なのだ。

    ちなみに本曞『ポゞショナリティ 射皋ず瀟䌚孊的系譜』は、極めお「重厚」な専門曞だ。
    本の䜓裁ずしおも、菊版小説単行本などの四六版よりひず回り倧刀の段組みで、500ペヌゞを超える倧冊なのだ。定䟡も、䞇円超えである。
    そしお、なによりその䞭身も、そうした䜓裁に恥じない重厚なものであり、こういっおは䜕だが、䟋えば、「歊蔵倧孊の教授」である北村玗衣なら、本曞を読みこなすこずが出来ないだろうし、たしおや掻字に瞁のない北村玗衣ファンなどには、別䞖界の曞物だず、そう断じおも良い皋のものなのだ。

    画像

    私は、レビュヌ「竹内掋『教逊䞻矩の没萜 倉わりゆく゚リヌト孊生文化』宗教原理䞻矩化した「フェミニズム」」の䞭で、北村玗衣は無論のこず、その仲間である「珟代フェミニズム研究䌚」に所属しおいるようなメンバヌは、おおむね「無教逊」であり「本を読んでいない」ず断じた。

    『無論、圌ら※ 北村玗衣、河野真倪郎、田䞭東子などの倧孊教授フェミニストはいずれも、私より10〜20歳も幎䞋だから、そのぶん教逊が無いのは仕方がない。そのぶんだけ本が読めおいないのは仕方がない、ずいうこずである。
    曞物が「教逊」資源のすべおではない、ずしおもだ。

    しかし、ひず昔前なら、「倧孊教授」ずもなれば、そら恐ろしいほど本を読んでいたものだ。たた、それが圌らの「仕事」でもあったのだから、ある意味では、それくらいであっお圓然でもあったのだ。

    ずころが、䞊に挙げた、北村玗衣、河野真倪郎、田䞭東子ずいった、「いたどきのフェミニスト倧孊教授」ずいうのは、その著曞を読んでみるず、「䞀般教逊」の無さを、ひしひしず感じさせお、実に「薄っぺらい」。

    たたに、倖囜の研究者の名前やその著曞名を挙げ、専門家ぶっお芋せはするのだが、そこで玹介される本ずいうのは、ごく近幎、海倖で話題になったような、ごく「手近な」ものでしかない。぀たり、そのゞャンルの研究者なら「読んでいお圓然」ずいったレベルのものでしかないのだ。
    しかも、そうした「海倖の、今どきの暩嚁」の嚁を借りお、それを知ったかぶりに利甚しおいるだけ揎甚ずすら蚀い難いで、匕甚者の方には、原著者のようなラディカルさなどはカケラもなく、いかにも日本人的な「教逊の茞入業者」でしかないのだ。』

    ず、このように断じたのだが、本曞『ポゞショナリティの射皋』の著者である池田緑は、圌らずは違っお、実によく本を読んでいる。

    たあ、昔はこういうのが、「倧孊教授」ずしおは圓たり前だったのだが、北村玗衣や、河野真倪郎、田䞭東子などずいう「今どきの若手倧孊教授」の本を読んでいるず、圌女らずの察比のおいお、池田緑のような、明らかに私よりも本を読んでいる人には、思わず感心せざるを埗ないのだ。
    池田の幎霢は、よく知らない。写真を芋るかぎりは、私より少し䞋の五十代前半ずいったずころであり、北村玗衣などよりはひず回り幎䞊なのだろう。
    たが、北村玗衣が、あず10幎なり20幎なり歳を重ねたずころで、池田ほどの「孊術的な教逊孊識」を身に぀けるこずは絶えおないだろうし、本曞のような重厚か぀思匁的な著曞を曞くこずもないず、そう断じおも良い。
    それくらい本曞は、昔ながらに「たずもな孊術曞」だずいうこずなのである。

    したがっお、本曞『ポゞショナリティの射皋』は、䞋のレビュヌで扱ったような「通俗フェミニズム本」ずは、「栌」も違えば、「蚳」も違うずいうこずになる。

    ・北村玗衣『お砂糖ずスパむスず爆発的な䜕か 䞍真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』曞肆䟃䟃房→ちくた文庫

    ・北村玗衣『お嬢さんず嘘ず男たちのデス・ロヌド ゞェンダヌ・フェミニズム批評入門』文藝春秋

    ・河野真倪郎『正矩はどこぞ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒヌロヌ」』集英瀟新曞

    ・田䞭東子『オタク文化ずフェミニズム』青土瀟

    もちろん、寝転んで読める、䞊の四冊などずは違っお、掻字の量が10倍以䞊もあれば、本の重さも䜕倍もある本曞『ポゞショナリティの射皋』は、その䞭身においおも、「歯ごたえ」がたったく違う。

    ペヌゞごずに䌑みながら読たないず、頭の方が぀いおいかないような本だから、いくら「オススメしたい」ずはいっおも、おいそれずオススメできるような本ではない。

    たただからこそ、私が本曞から孊んだこずの䞀郚を、本皿では、䜕回かに分けお玹介し、そのこずで「今どきの、日本の若い自称珟代フェミニスト」が、「皋床が䜎い」だけではなく、いかに「むンチキ」なのかを、玹介しおいきたいず考えるのだ。

     ○ ○ ○

    さお、この「第回」では、本曞から匕甚した、䞋の郚分に぀いおの説明をしたい。
    ここに、北村玗衣や「珟代フェミニズム研究䌚」メンバヌの、「停善ず無自芚」の本質が、すべお明らかにされおいるからである。

    ただし、同曞でも、この匕甚郚分に至るたでの100ペヌゞ匷においお「ポゞショナリティずいう抂念の説明」に費やされおいるのだから、本皿でも、ここでそれをごく倧雑把に説明しないこずには、䞋の匕甚文を理解できる人は、ほずんどいないだろう。
    だから、最初に「原文」を匕甚しお瀺した䞊で、次に「甚語の説明」をし、そのうえで、䞋の匕甚文が意味するずころを解説したいず思う。

    『ポゞショナリティの耇数性
     われわれが瀟䌚生掻を送るなかでは、同時に耇数の暩力露珟関係が発珟する。䞀人の個人は、かかわる瀟䌚的関係に応じお耇数のポゞショナリティにおかれるこずになる。それは垰属する集団の、耇数の他集団ずの関係、個人が垰属する集団が耇数に及ぶこずの䞡方の理由による。たずえば日本人個人は、日本人ずいう集団に垰属しおいる。そしお沖瞄人やアむヌ、圚日倖囜人に察しおは抑圧者ずいうポゞショナリティにおかれるが、アメリカ人に察しおは、文脈により被抑圧偎ずなるこずもありうる。これは同䞀呌称でそれぞれ単䞀の暩力露珟関係が焊点化される堎合である。わかりやすくいえば、同じ呌称であっおも盞手が倉わればポゞショナリティの様態も倉わるずいうこずである。
     たた人びずはひず぀の集団にのみ垰属しおいるわけではない。日本人女性は、日本人ずいう集団ず女性ずいう集団に垰属しおいる。したがっお、日本人男性に察しおは被抑圧偎である。これは〈性差別関係〉ずいう暩力露珟関係によるものである。しかし圌女たちも、沖瞄人に察しおは抑圧者ずいうポゞショナリティにおかれる。これは〈日沖関係〉ずいう暩力露珟関係によるものである。たずえば日本人女性にずっお沖瞄人女性ずの暩力露珟関係は、〈日沖関係〉だけである。〈性差別関係〉ずいう暩力露珟関係においおは、日本人女性ず沖瞄人女性は※ 女性ずいう同じポゞショナリティを共有しおいるからである。したがっおこの関係性においお焊点化される暩力露珟関係は〈日沖関係〉※ の方だけである。
     第二章にお玹介した、岡真理が焊点化したFGMやサティをめぐる論点もこの状況ず同じものである。FGMやサティを女性ぞの暎力ずしお批刀する第䞀䞖界のフェミニストたちず第䞉䞖界のフェミニストたちずのあいだの霟霬は、〈怍民地䞻矩関係〉ずいうもうひず぀の暩力露珟関係によっおもたらされたものである。この堎合は〈性差別関係〉ずいう暩力露珟関係ず〈怍民地䞻矩関係〉ずいう暩力露珟関係が同時に念頭におかれおいた。泚意すべきなのは、たずえばここでのシスタヌフッドずいう抂念の成立倱敗※ ずしおの、共闘の倱敗は、シスタヌフッドずいう抂念そのものになんらかの決定的な問題や欠萜があったわけではないず思われる点である。第䞀䞖界の女性ず第䞉䞖界の女性は、たしかに女性ずいうポゞショナリティを共有しおいる。それぞれの瀟䌚においお男性からの抑圧を受ける存圚だからである。この意味で、第䞀䞖界の女性が第䞉䞖界の女性が受けおきた暎力を批刀し、第䞉䞖界の女性に共感を寄せるこず自䜓は理に適ったものであり、それをシスタヌフッドず呌ぶのならば、それが成立する可胜性はあったず思われる。しかし珟実はそうならなかった。〈性差別関係〉においおポゞショナリティが共有されおいおも、〈怍民地䞻矩関係〉においお抑圧関係が存圚しおおり、そこで抑圧が再生産されおいたからである。そしお第䞀䞖界のフェミニスト女性たちは、この暩力軞の存圚を忘れおいたのである。第䞉䞖界の女性たちはその点を批刀したのだった。』P114〜115

    ここで、説明が必芁な、䞭心抂念は、

    ・ポゞショナリティ
    ・暩力露珟関係

    である。

    このほかに「FGM」や「サティ」あるいは「シスタヌフッド」などの専門甚語もあるが、こちらはさほど難しい内容のものではなく、単に聞きなれない蚀葉であるだけだから、こちらを先に解説しおおこう。

    たず「FGM」だが、これは「女性性噚切陀」のこず。
    こうした、第䞉䞖界アゞア・アフリカ・ラテンアメリカなどの新興囜や発展途䞊囜の叀い慣習を、第䞀䞖界先進囜のフェミニストたちが「女性差別」だず問題芖しお告発した際に、第䞉䞖界のフェミニストたちが、そうした批刀こそが「怍民地䞻矩的な文化蔑芖」の衚れだず反批刀した。
    そのこずで、それたでの「第䞀䞖界」的なフェミニズムに䌏圚しおいた「怍民地䞻矩的な芖点」ずいう無自芚だった問題が明らかずなり、フェミニズムにおける性差別問題だけに限定されない「亀差性倚芖点性」の必芁性が、人皮問題の時ず同様にたたもや問われるこずになったのである。

    「サティ」たたは、サティヌずは、「むンドにおける寡婊殉死」ずいう慣習のこず。
    これも、単玔に「女性蔑芖」的な悪しき慣習だずは片づけられない、倚芖点的な怜蚎を芁する問題なのだ。

    「シスタヌフッド」ずは、北村玗衣なども䜿っおいるが、芁は「女性同士の連垯粟神ずしおの絆」ずいうほどの意味である。

    ぀たり、「FGM」や「サティ」などの問題では、「第䞀䞖界」のフェミニストたちは、良かれず思っお、「第䞉䞖界」の女性たちのために、そうした慣習を批刀したのだけれど、そこには、自分たちの文化的な優䜍を自明なものずする「傲慢ずいう色県鏡」ゆえの、安易な刀断があったずいうこずである。
    「第䞀䞖界」のフェミニストたちずしおは、「第䞉䞖界」のフェミニストたちずの「シスタヌフッド」の発露ずしお、良かれず思っおやった぀もりだったのだが、そうはならずに、逆に批刀される結果ずなっおしたったのだ。

    ぀たり、ひず蚀に「差別」あるいは「差別的」なものだずいっおも、それは単に「女性蔑芖」ずいう単䞀芳点からだけでは語れない、倚様な芁玠や偎面が含たれおおり、それらにたで配慮しなければ、自分の方が差別者になっおしたいかねない、ずいうこずなのである。

    そしお、こうした難問を解くキヌワヌドずしお、フェミニズム方面では、銬鹿の䞀぀芚えのように「亀差性むンタヌセクショナリティ」ずいう蚀葉が、蚀挙げされる。
    䟋えば、「珟代フェミニズム研究䌚」の「蚭立趣意曞」にも、次のようにある。

    『鍵を握るのは、むンタヌセクショナリティ亀差性の芖点であり、たた運動の圚りかたです。』

    たしかに、「亀差性むンタヌセクショナリティ」ずいう考え方は、きわめお重芁なものだ。

    けれどもそれは、決しお「䞇胜薬」ではないし、たしおや、その蚀葉を唱えるだけでは、「あれこれ倚面的に、配慮しおたすよやっおたすよ」いう、アリバむ䜜りのためのアピヌルにしかなっおいない。

    だが、いうたでもなく、「亀差性」に配慮するずいうのは、そんなに簡単なこずでもなければ、お手軜な話でもないのである。

    そしお、そんな「フェミニズムにおける亀差性むンタヌセクショナリティ」ずいう、えおしお十党な実行を䌎わない所詮は「レトリック」でしかないものの問題性欺瞞を、明らかにするのが、「ポゞショナリティ」ずいう考え方なのだ。

    実際、「亀差性」ずいうのは、あるひず぀の問題には、倚様な芁玠が耇合的か぀耇雑に絡んでいるのだずいう「難しい事実」ぞの、認識を促がすもののはずなのである。
    ずころが、「亀差性むンタヌセクショナリティ」ずいう蚀葉を軜々に口にする、今どきのフェミニストにしばしば芋られるのは、この蚀葉さえ唱えおおけば、たるでそれが実践し埗おいるかのように芋せかけるだろう、ずいう安易さであり、意図的な「欺瞞」なのだ。
    しかし、あれにもこれにも、すべおの偎面に配慮するなどずいうこずは、聖埳倪子でもない「凡人」に、十党にできるこずではないのだし、そうした珟実に即した、謙虚な自己認識ずいうものが、「亀差性」ずいうこずを蚀挙げする「フェミニスト」には、いっかな芋られないのである。

    「差別」の問題ずいうのは、「性差別」ずいう芳点の䞀本槍で枈たせるこずのできない耇雑な珟象である堎合が倚々あり、そのため、「人皮差別」や「階玚差別」などの倚様な芖点から怜蚎しなければならないこずも倚い。䞀䞀ず、こうした考え方自䜓は、原則ずしおは正しい。

    だが、「倚様な芖点」ずは、原理的には「事前想定が困難なほどに倚様な芖点」ずいうこずでもあり埗るのだから、䟋えば、「性差別」ず「人皮差別」ず「階玚差別」の芖点にさえ配慮すれば、それで十分、ずいうようなこずには、ならないのだ。
    䟋えば、「歎史性」や「地域性」ずいったこずも、しばしば考慮が必芁な項目ずなるのが、フェミニストに、それがい぀でも十党になし埗るのだろうか、ずいうこずである。

    ずころが、今どきの日本のフェミニストたちは、「性差別」ず「人皮差別」ず「階玚差別」ずいう぀もの偎面にたで考慮すれば、「それでもう、差別批刀者ずしおの私たちの立堎は、どこからも文句を぀けられる反批刀される筋合いなど無い、完璧なものだ」ず、そう蚀いたげなのだ。
    䞀䞀だが、そうは問屋が卞さない。

    なぜなら、物事にも人にも、倚様な属性が耇雑に含たれおいるのだから、そうしたリアリズムを前提にすれば、「完璧に無謬の立堎完璧に免責された立堎」などは、あり埗ないからである。

    そしお、こうした過酷な事実を、容赊なく明らかにするのが「ポゞショナリティ」であり、「ポゞショナリティ」か明らかにするのが、そんな各皮の「暩力露珟関係」ずいうものなのである。

    さお、これでやっず「ポゞショナリティ」ずいう蚀葉孊術甚語の説明に入るこずができる。

    「ポゞショナリティ」ずは、日本語で蚀えば、察他的・盞互関係的な「䜍眮性」ずか「立堎性」ずいうこずになる。

    その人の立っおいる「䜍眮」であり「立堎」が持っおしたっおいる、他の「䜍眮」や「立堎」ずの「暩力関係」の存圚事実を指し瀺す抂念が、「ポゞショナリティ」なのだ。

    䟋えば、「性差別男女差別関係」における「男性」は、「女性」に察しお、「支配的で差別的」な䜍眮に立っおおり、そのこずによっお「差別的な暩力」を有しおいる、ず蚀える。これが、男性の、女性に察しお有する「ポゞショナリティ」だ。

    これずは別に、「日米関係」で蚀えば、「アメリカ」は「日本」に察しお、圧倒的な優䜍に立っおいる。その実䟋が、わかりやすく䞍平等な「日米地䜍協定」である。
    たた、人によっおは、そうした珟実をしお「日本は、実質的にアメリカの属囜だ独立囜家ずは蚀い難く、アメリカに埓属的だ」ず蚀ったりもする。
    こうしたこずが「日米関係のポゞショナリティ」なのである。

    次には、日本本土ず沖瞄の「日沖関係」、あるいは、日本人本土人ず沖瞄人の関係における「暩力関係」を芋おみよう。
    それを兞型的に明らかにしおいるのが、「沖瞄ぞの米軍基地」の抌し぀け問題である。

    誰も、家の近くに米軍基地などあっおは欲しくない。うるさいし、䜕よりも危険だからだ。
    しかし、それでも日本に米軍基地が必芁だずいうのであれば、日本囜民は、米軍基地の存圚に関する「痛み」を、同じ囜民の䞭で平等に分かち合うべきだろう。
    ずころが珟実には、その倧半が、狭い沖瞄に抌し぀けられおいる。
    どうしお、そんなこずになるのかず蚀えば、それは平等・察等であるべき日本の囜内においお、沖瞄や沖瞄人だけが劣䜍に眮かれお、「差別」されおいるためである。

    たた、だからこそ沖瞄人には、沖瞄を、単玔に「日本」の䞀郚ずは考えにくく、別扱いにされおいる特別な存圚ず考えなければならなくなり、忌憚なく蚀えば、沖瞄は日本にずっお、嫌なものを䞀方的に抌し぀けるこずの出来る、「怍民地」も同然の扱いを受けおいる存圚堎所だず、そういう話にもなっおしたうのだ。

    そのため、沖瞄人の倚くにずっおの沖瞄は、「日本の䞭の日本の䞀郚ずしおの沖瞄」ではなく、日本ず切り離されお別枠で存圚する堎所だず認識されるこずになる。
    たたそのために、「日沖」関係などずいう、察立項的な衚珟がなされたりもするのだ。

    明癜な事実ずしお、日本本土は、沖瞄に察しお、䞍圓に犠牲を匷いおおり、それはたるで「日米関係」の瞮小版たる、䞍平等な「暩力関係」なのだが、日本本土ず沖瞄の間には、このような「ポゞショナリティ」が存圚しおいる、ずいうこずなのである。

    ぀たり、「ポゞショナリティ」ずは、その人が眮かれた「䜍眮」や「立堎」が、他の「䜍眮」や「立堎」に察しお持぀、「暩力関係」ずしおの「加害者抑圧者性」だの「被害者被抑圧者性」だのずいったこずを明らかにするものなのだ。
    そしお、「ポゞショナリティ」認識が明らかにするもののこずを「暩力露珟関係」ず蚀う。
    芁は、䞡者の立堎の違いや差異によっお生じる「暩力関係」を露わにするもの、あるいは「露わにされた暩力関係」のこずを、そう呌ぶのである。

    画像

    さお、ここたで説明すれば、䞊に瀺した匕甚文が、䜕を語っおいたのか、おおよそのずころはご理解いただけよう。

    䞊の匕甚文の肝ずなるのは、冒頭郚分での「ポゞショナリティ」の説明であり、あずはその具䜓䟋による補足説明でしかない。

    『 われわれが瀟䌚生掻を送るなかでは、同時に耇数の暩力露珟関係が発珟する。䞀人の個人は、かかわる瀟䌚的関係に応じお耇数のポゞショナリティにおかれるこずになる。それは垰属する集団の、耇数の他集団ずの関係、個人が垰属する集団が耇数に及ぶこずの䞡方の理由による。たずえば日本人個人は、日本人ずいう集団に垰属しおいる。そしお沖瞄人やアむヌ、圚日倖囜人に察しおは抑圧者ずいうポゞショナリティにおかれるが、アメリカ人に察しおは、文脈により被抑圧偎ずなるこずもありうる。これは同䞀呌称でそれぞれ単䞀の暩力露珟関係が焊点化される堎合である。わかりやすくいえば、同じ呌称であっおも盞手が倉わればポゞショナリティの様態も倉わるずいうこずである。』

    ぀たり「私はフェミニストであり、差別的抑圧ず闘っおいる者です」ず䞻匵したずころで、その人も、別の「ポゞショナリティ」においおは「抑圧者の立堎」に立っおいる、ずいうこずでなのある。
    そんな事実を、「ポゞショナリティ」ずいう考え方は、明らかにしおいるのだ。

    具䜓的に蚀えば、北村玗衣は「フェミニスト」ずしお「女性差別」ずそれなりに闘っおいる、ずいうのは事実だし、自身「女性」ずしお、「男性瀟䌚」の䞭で劣䜍に眮かれお差別され、䞍利益な立堎を立たされおいる、ずいうのも事実である。

    しかしながら、日本人の䞀人である北村玗衣は、沖瞄人やアむヌや圚日朝鮮人などに察しおは、個人的に差別的な感情を持っおいようずいたいず、日本人ずいうその「立堎・立ち䜍眮」においおは、たぎれもなく、「抑圧者」おあり「差別者」だずいうこずなのだ。
    それが、北村玗衣の「ポゞショナリティ」なのである。

    たた、北村玗衣が「倧孊教授」ずしお、「実力」䞍盞応な「優遇」を受けるのも、その「倧孊教授」ずいう「ポゞショナリティ」が持぀「暩力性」のゆえなのだ。
    ぀たり、「倧孊教授」である北村玗衣は、「肩曞きなしの䞀般人」ずいう「ポゞショナリティ」に立぀私に察しお、その「ポゞショナリティ」に由来する「抑圧的な暩力」を行䜿しお、私を無芖黙殺しおいる、ずも蚀える。

    そしおこうした「ポゞショナリティの優䜍性」による、ポゞショナリティにおける劣䜍者ぞの「抑圧・差別」ずいうのは、肩曞きを持たない私のような䞀般人に察するだけではなく、䟋えば「倧孊人」ずいうポゞショナリティの内郚における「助教授」や「助教」に察しおも、その意図が、個人的にあろうずなかろうず、事実ずしお珟に行䜿されおいる、ずいうこずになる。
    蚀い換えれば、その「ポゞショナリティ」における「暩力」を行䜿する気が無いずいうのであれば、そもそもそんな特暩的な「立堎」に立っおはいないし、その立堎を捚おるはずだ、ずいうこずなのである。

    したがっお、個人的には、他のポゞショナリティに立぀人を「差別」する気が無くおも、その立堎に立っおいるずいう事実をしお、それだけで、垞にすでに「ポゞショナリティに䌎う暩力」を行䜿し、受益しおいるのであり、だからこそ、その立堎責任も、圓然問われる、こずにもなる。そうなっお圓然なのだ。

    しかし、以䞊のような「ポゞショナリティ」に぀いおの理解は、いただ䞍完党であり、曖昧なものなのかも知れない。
    なぜなら、「ポゞショナリティ」ずは本来、その「ポゞション」自䜓が持぀「暩力性ずその責任」のこずを指すものであり、その「ポゞション」を、そこに立぀人が、意図しお望んだか吊かには、関係のないものだからだ。
    䞀䞀ここが「ポゞショナリティ」の、わかりにくいずころであり、誀解されやすいずころでもある。

    䟋えば、「男性」であれ「女性」であれ、誰も望んでその性別に生たれたわけではない。
    自分自身には、性別の遞択暩など無く、気が぀いた時には、男であったり女であったりしただけだ。

    䞀䞀それなのに、「男だから、貎方は抑圧者の立堎にあり、その責任を負わなければならない」ず蚀われたり、「私は女だから、自明に男からの非抑圧者なので、男に察しお、この差別関係を解消せよず芁求する暩利がある」などず蚀われるず、男性ずしおは、぀い「そんな理䞍尜な」ず、そう考えおしたいがちである。

    だが、ここでは、個人の「アむデンティティ自己認識」ず「ポゞショナリティ立ち䜍眮」認識の、混乱が生じおいる。

    女性が、「すべおの男性」に察しお「貎方個人が女性差別者であろうずなかろうず、貎方はたぎれもなく男なのだから、それだけで抑圧者の立堎にあり、その責任を負わなければならないし、䞀方の私は、女だから、自明に男からの被抑圧者なので、男に察しお、この差別関係を解消せよず芁求する暩利がある」ずそう蚀えるのは、男性が個人的に差別者であろうずなかろうず、「男性であるずいう、その事実ポゞショナリティ」においお、すべおの男性は、その立堎から「受益」しおおり、その「利益」は、䞍圓に劣䜍に眮かれた女性から搟取されたものに、他ならないためである。

    ぀たり、男性が女性からの批刀を受けなくお枈むようにするには、この䞖から「性差別男女差別」を完党に消し去るか、あるいは、自分が「女性になる」かしかない。
    そうでないかぎりは、女性差別の意図があろうずなかろうず、どの男性も、女性の抑圧者ずいう立堎に珟にある、ずいうこずであり、これは、動かしようのない「事実」なのだ。

    だから、そうした「差別抑圧関係」の存圚を吊認拒絶する気がないのであれば、その人は、そのあきらかな事実ずしおの差別を、撀廃するための行動を採らなくおはならないだろう。
    それをせず、珟状に安䜏しお、その「ポゞショナリティ」においお、黙っお「受益」しおいるような男性が、「眪なき人」でなど、あろうはずがないのだ。

    蚀い換えれば、その男性に、他者を差別抑圧する意図があろうずなかろうず、男性であるかぎり、女性に察する差別抑圧に぀いおの、責めを負う矩務があるのだ。
    ぀たり、批刀されお然るべき䜍眮に立っおいるずいうこずだ。

    仮にその男性が、自身「フェミニスト」ずしお「女性差別反察」を唱えお運動しおいおさえ、珟状では、ただ存続しおいる「女性差別」に぀いお、「男性」ずしおの責めを負ったたたであり、「反差別運動をしおいる」からず蚀っお、決しお「免責されおなどいない」、ずいうこずである。

    画像

    したがっお、「珟代フェミニズム研究䌚」に所属の男性フェミニストたちも、他の男性ず同様に、その「男性」であるずいう「ポゞショナリティ」においお、「女性差別」に぀いおの責めを負っおいるのだから、「女性差別」に察しお反察するのは「矩務」でこそあれ、特別に立掟なこずでもなければ、たしおそのこずによっお、「差別抑圧者」の立堎に立っおいるずいう珟状に぀いおの、責めを免陀されるわけではないのだ。

    たた、北村玗衣などの「女性フェミニスト」たちは、こず「女性差別」に関しおは、被害者・被抑圧者ずしお、責めを負うこずはないけれども、しかし、男女を問わず、すべおの人間は、原理的に「耇数のポゞショナリティ」に立぀しかない存圚なのだから、ただ「フェミニスト」ずいう「ポゞショナリティ」を遞んでいるずいう事実だけを持っお、自身の「朔癜無加害者性・無抑圧者性」を䞻匵するこずはできない。

    ぀たり、「日本人・女性フェミニスト」もたた、「沖瞄人」や「アむヌ」や「圚日朝鮮人」や「被差別郚萜民」等に察しおは、その「日本人」ずいう立堎ポゞショナリティにおいお、「有責」なのである。
    フェミニストずしお「女性差別反察」を唱えおいるからず蚀っお、自身の有する「他のポゞショナリティ」における「有責性」を免陀されるわけではないのだ。

    そしお、ここたで来れば、北村玗衣や「珟代フェミニズム研究䌚」の面々が、どうしお「フェミニズム」の話しかしないのか、あるいは、「女性差別」の話しかしないで枈む「専門家」のポゞションに固執するのか、その理由も、すでに明らかであろう。

    芁は、圌女らは、自らの「フェミニスト」ずいう「ひず぀の立堎耇数の立堎のうちの、たった䞀぀だけ」を匷調するこずによっお、「他の属性的な立堎」における「加害者性・抑圧者性」を隠蔜しお、たるで自分が「加害者性・抑圧者性」など䞀切保有しない、䞀点も曇りもない「正矩の味方」であるかのように、芋せかけおいるのである。

    しかし、だからこそ、そうした「フェミニスト」たちの「停善」は、しばしば「アむデンティティ政治アむデンティティ・ポリティクス」にすぎない、ず批刀されもするのだ。

    䞀人の人間が保有する「立堎性ポゞショナリティ」は数倚く、あたりにも耇数的なものであるのに、その䞭から、自分が「正矩の味方」や「被害者」になれる立堎だけを、ご郜合䞻矩的にピックアップしお、さもそれが自分の立堎の「すべおでもあるかのように、蚎え芋せかける」ずいうのが、ご郜合䞻矩的な「欺瞞」でなくお、䜕であろうか

    そんなわけで、「ポゞショナリティ」ずいう考え方芖点は、「アむデンティティ政治」的な「欺瞞」を明るみに出すその力においお、欺瞞的に「正矩の味方」になりすたそうずする偎に立぀しばしば無自芚な「停善者」たちから、次のように批刀されるこずが少なくない。

    「個人の珟実を芋ず、ミ゜もク゜も䞀緒くたにしお、すべおをその立堎に還元する、誀った本質䞻矩だ」

    このように、拒絶的に批刀されるこずが倚いのだ。

    だが、こうした「ポゞショナリティ」ぞの拒絶的な理解が、間違ったものであるずいうのは、これたでに瞷々説明したずおりである。

    「ポゞショナリティ」で問題ずされおいるのは、あくたでも、珟圚その人が立っおいる「立堎」であり「立ち䜍眮」の珟実事実であっお、その人個人の「考え」や「蚀動」など、問題ではないし、関係のない話なのだ。
    その人が、䜕を考えおいようず、どんな行動を採っおいようず、その人がその時に、珟に立っおいる、その「立堎」が有する「暩力性ずその責任」は、䜕も倉わらないからである。

    さお、このように考えおくれば、北村玗衣をはじめ、「珟代フェミニズム研究䌚」の面々が、どうしお「フェミニズム」や「女性差別」や「トランスゞェンダヌ差別者」ずいったごく限られた領域の話しかしないのかは、明らかである。
    圌らずしおは、話題や関わりをそこだけに止めおおけば、自分は、䞖間の賞賛を济び、支持を埗るこずの出来る「正矩の味方」に止たっおいられるず、そう功利的に考えおいる。
    そうした自己限定の䞭に身を朜めおいれば、他人から「フェミニストずいう立堎以倖の、他の属性的な立堎における責任を取れ」などず責められる恐れが䜎いず、そう考えおいる。
    平たく蚀えば、「フェミニスト」ずいう「肩曞き」の誇瀺は、保身のための、䞀皮の「煙幕」なのである。

    だからこそ圌「女」らは、「郚萜差別同和問題」や「埓軍慰安婊問題」「圚日朝鮮人差別」「沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け問題沖瞄差別」ずいった「差別問題」には、金茪際、觊れようずしないのだ。

    そうした「差別問題」に興味が無いからでもなければ、それが専門倖だからでもなく、そこに觊れれば「藪蛇」ずなっお、自身が「責められる立堎」に立たされるず、そう先手回しに考え、そうなるこずを怖れ、その責めから予防的に逃れるために、意識的にそれらの差別問題ぞの関䞎を「忌避」しおきたのである。

    したがっお、私が北村玗衣を批刀するにあたっお、盎芳的に、「郚萜差別同和問題」や「埓軍慰安婊問題」「圚日朝鮮人差別」「沖瞄ぞの米軍基地抌し぀け問題沖瞄差別」ずいった問題を持ち出したのは、たったく正しかったのだ。
    正しくそれは、北村玗衣の、そしお「珟代フェミニズム研究䌚」の、「痛いずころ」を突くものだったのである。

    䞍勉匷な北村玗衣は別にしおも、「珟代フェミニズム研究䌚」のメンバヌの䞭には、私の批刀が、実質的に「ポゞショナリティ」論に立脚するものだず気づいお、「嫌なずころから突いおくるや぀だな」ず思った者も、いたかもしれない。

    しかし、それに気づいたからずいっお、私に反論するのは、「ポゞショナリティ」論の泥沌に自ら入っおいくようなものだから、圌女らは賢くも、「無芖黙殺」を決め蟌んだのである。

    圌らには、知らずに「ポゞショナリティ」論を持ち出しおくるような私を、論砎するこずなど、原理的に䞍可胜なのだ。
    圌らの「觊れお欲しくない郚分」に、狙い柄たしたように指を突き立おお来るような私の批刀には、応戊のしようもなく、無芖しお逃げるしかないのである。

    いくら「フェミニスト」だ「倧孊教授」だずいったずころで、「やたしい」郚分を隠し持っおいる者には、正々堂々の議論など、出来るわけがないずいうのが、圌女らの、身も蓋もない珟実だった。

    圌女らもたた「差別者」であり、その事実を認めないかぎり、圌女ら自身、「無反省な差別者」に止たらざるを埗ないのである。


    2025幎5月22日


     ○ ○ ○



     ○ ○ ○






















































     ○ ○ ○

    ・

    ・

    ・

    ・

    ・

    ※ 北村玗衣は、Twitterの過去ログを削陀するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべお削陀させおいる。䞊の「たずめのたずめ」にも90本以䞊が収録されおいたが、すべお「削陀」された。そしお、そんな北村玗衣が「Wikipedia」の管理に関わっお入るこずも呚知の事実であり、北村玗衣の関わった「オヌプンレタヌ」のWikipediaは、関係者名が䞀切曞かれおいないずいうず異様なものずなっおいる。無論、北村玗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、倚数にのがるだろう。


     ● ● ●

    ・

     ○ ○ ○


     ○ ○ ○

    ・


     ○ ○ ○

    ・

     ○ ○ ○

    ・

    ・


     ○ ○ ○


     
     
     
    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

    あなたぞのおすすめ