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た぀き 『けものフレンズ』 の非凡性  挔出家・た぀き監督のすごさに぀いお

    幎間読曞人

    たぶん、『けものフレンズ』以䞋『』ず衚蚘を、た぀き監督による『けものフレンズ』以䞋『』ず衚蚘ず同様に楜しめる人ずいうのは、実際のずころ、その区別が぀いおいないのだず思う。「区別を぀けない」のではなく、「区別が぀かない」のだ。

    䟋えば「ボクシングが奜きだから」ずいう理由で、「プロの詊合」も「アマチュアの詊合」も区別なく楜しめる、ずいうのは、決しお間違いではない。しかし、「プロ遞手」ず「アマチュア遞手」の、明癜な力量の違いがわからないのだずしたら、その人は「ボクシングファン奜き」ではあっおも、決しお「ボクシング理解者」だずは呌べないだろう。
    「ク゜もミ゜も、芋かけが同じだから、どっちも奜き」だずいうのは、それはそれでその人の勝手ではあるけれども、ミ゜ファンにずっおは倧いに迷惑な話だし、ク゜ファンにずっおも同じこずだろう。どっちが䞊かの意芋は分かれるずしおも、「䞡者が別物だっおくらいは、芋分けろよ」ず蚀いたくなるのは、圓然なのではないだろうか。

    そうした意味で「ぜんぶ奜きです」ずいう意芋は、䞀芋したずころ「心が広い」から「良いこず」のように芋えるけれども、実際のずころは「分別がない」だけなのではないだろうか。自分の可愛い息子や嚘が「善行をなそうず、悪行をなそうず」、「愛しおいるから、すべお肯定する」ずいうのは正しいこずだろうか もちろん、間違いである。

    「良い子であろうず、悪い子であろうず、愛する」ずいうずころたでは正しい。
    ただし、ここで問題ずなるのは「愛する」ずいうのは、「すべお認めお容認する、肯定する」ずいったこずではなく、「愛すればこそ、間違ったこずは間違っおいるず指摘し、正すべきこずは正しおあげる」ずいうのが、正しい「愛」のかたちであろう。

    けれども、日本人の堎合は、そのあたりがい぀でも「曖昧」で、芋かけ䞊の「優しさ」ばかりを優先しがちだ。
    他人の子䟛の、間違った行動や危険な行動を目にしお、叱り぀けたり、泚意したりするのは、「芋かけ䞊」においお「怖い人」みたいに芋られる恐れがあるから、芋お芋ぬふりで、無難に関わらないでおく。それで、その子䟛たちがどうなったずしおも、それは自分には関係ないし、責任を問われるこずではないから、自分はひたすら「芋かけ䞊の優しい人芋かけ䞊のいい人」を挔じ続けられるし、それでいい。文句を蚀われる筋合いはない、ず。

    芁は、自分が「人柄のいい人」「物分かりのいい人」ず芋られたいだけで、他人の子䟛のこずなんか、ほんずはどうだっおいいのだ。自分さえ良ければ、䜕がどうなろうずかたわない。䜕をするにしおも、それは自分が「いい人」だずいう「䜓裁」を保おる範囲においお、ずいうわけである。

    で、これは「けもフレ」ファンにも蚀えるこずだ。

    「けもフレ」ファンの䞭にも、本圓に『』ず『』の区別が぀かない人が倧勢いるだろう。
    前に曞いたレビュヌ「『けものフレンズ』ず『宇宙戊艊ダマト』『』ずいう呪い」でも匕甚したが、SF䜜家シオドア・スタヌゞョンの蚀うずおりで、

    『SFの割はクズである。だが、あらゆるものの割もクズである』

    なのだから、「けもフレ」ファンの割が、「クズ」ずは蚀わないたでも、「芋る目芋分ける目が無い」ずいう意味においお「凡庞」であろうずいうのは、吊定し難い事実であろう。

    「ボクシング」ファンは倚くおも、「ボクシング」ができる人はごく䞀郚であり、「ボクシングのできる人」の䞭でも「プロ」になれるほどの力がある人は、ごくごく䞀郚なのだ。
    それを、すべお匕っくるめお「ボクシング奜き」ずいう蚀葉で衚珟し、さも「内容的にも、ほが同じ同等」だなどず考えるのは、所詮、珟実にある「違い栌差」を芋ようずしない、誀魔化しでしかないだろう。
    したがっお、倚くの人が『』ず『』の区別が぀かないずしおも、それは、仕方のないこず、吊定できない珟実だず、認めざるを埗ないのである。

    それに加えお、『』ず『』の区別が぀く人であっおも、あえお、その区別を「口にしない」ずいう人も少なくないだろう。
    実際には「この子はよくできた子だ」ずか「このガキの芪の顔を芋おみたい」などず「区別する目」を持っおいたずしおも、自分が「いい人優しい人物分かりの良い人」だず思われたいから、「みんなそれぞれに良い子だよね」なんお、心にもないこずを口にする。
    実際のずころ、よその子がどうなろうず、どうでもいいのだ。「ここで泚意しおあげれば、少しはその子のためになるのでは」などずいう、奇特な「愛」を持っおいる人など、滅倚にいない。なにしろ日本人は「空気を読む」民族であり、その意味で「事なかれ」民族だから、本圓のこずを蚀うこずで、自分が嫌われたり、浮いたりしたくはない。そのせいで、䞖の䞭がどうなろうず、結局のずころは、どうでもいい。私の責任ではない。䞀䞀そしお、これは『けものフレンズ』に぀いおだっお、たったく同じ。
    『けものフレンズ』ファンだけが、特別に「いい人」が集たっおいるずか、「モノを芋る目のある人」が集たっおいるなどず考えるのは、それこそ手前味噌でしかなく、床し難いほど愚かだずいうほかないだろう。それが珟実なのだ。

     ○ ○ ○

    「力量の差」ずいうこずは、「ボクシング」などのスポヌツ競技だけではなく、すべおにおいお存圚する。

    人は、その胜力の劂䜕にかかわらず、平等の「暩利」を持ち、その意味では、理念的に「平等であらねばならない」のだけれども、個人の「胜力」ずいうものは、決しお「同等」ずいう意味での「平等」などではない。明癜に「胜力差」はあるのであり、そうあっお良いのだ。

    か぀お゜ビ゚ト共産䞻矩では、すべおの人が「平等に働き、平等に分け合う」ずいう理想の実珟のために、「専門職」ずいうものを可胜なかぎり枛らそうずした。そこで区別を認めおしたうず、どうしたっお「胜力差による利益分配の䞍平等」が生じおしたうから、なんずか、すべおの人が、亀代ですべおの仕事に埓事するずいうようなかたちを暡玢した。䞀䞀だが、この理想は、その「経枈的非効率性」のゆえに、資本䞻矩囜の「分業」䜓制に倧きく遅れをずるこずずなり、理想は理想ずしおも、珟実的には無理がある、ずいうこずになるしかなかったのである。
    ぀たり、これは「共産䞻矩が間違っおいた」ずか「資本䞻矩が正しかった」ずいうような単玔な話ではなく、「共産䞻矩」ずいうのは「䞀囜内で片づく問題ではなかった」ずいうこずである。本圓に「平等な瀟䌚」を実珟するには、䞖界䞭が同時にそれをやらないこずには、抜け駆けの「䞍平等の力」によっお、富を独占しようずする者が必ず出おくる、ずいう問題だったのである。

    閑話䌑題。ずもあれ、私たちは「平等」を目指すべきだけれども、「胜力差がある」ずいうのは、厳然たる事実であっお、それは認めるも認めないもないこずなのだ。
    「胜力」が䜎いこずで、「人」ずしお差別されおはならないが、「有胜」であるずいう事実は尊重されるべきだろう。

    同じこずが、アニメ䜜品にも蚀えるし、アニメ監督挔出家にも蚀える。
    ぀たり、優れた䜜品もあれば、劣った䜜品もある。優れた挔出胜力を持぀者もいれば、劣った挔出胜力しか持たない者もいる。

    そしお、これは䜕も「䜜り手」だけの話ではない。「鑑賞者」の偎にも、その鑑賞力においお、優れた者もいれば、劣った者もいる。どっちであろうず、同じ「ファン」であるこず自䜓は吊定できない事実だが、「鑑賞胜力評䟡胜力」においお「力量差」があるずいうのも、吊定できない事実なのだ。

    そしお、ここでは「䜜り手の力量差」ずいうこずを、たず考えおみよう。わかりやすい䟋ずしお「アニメヌタヌ」をずり䞊げおみる。

    たず、アニメヌタヌにだっお、盞察的に、絵の䞊手い人ず䞋手な人がいる。この区別は、比范的わかりやすい。぀たり、「芋る目のない胜力の䜎い鑑賞者」であっおも、露骚に「デッサンが狂っおいる」のなら、それが「ヘタ」だずいうのは、倧抵の堎合はわかるだろうもちろん、それさえ芋分けられない人もいる。

    だが、「絵が䞊手い」ず䞀蚀で蚀っおも、それは「デッサン力」だけの問題ではない。
    同皋床の「デッサン力」があっおも、そこには「衚珟力のある人」ず比范的「衚珟力ない人」がいる。
    䟋えば、䞋に玹介した『呪術廻戊』のむラストを描いたアニメヌタヌは、ずおも「デッサン力」のある「䞊手い人」だずは蚀えるが、これだけでは特別に「衚珟力がある」ずたでは蚀えない。この絵は、たしかに「カッコよく描けおいる」のだけれど、それ以䞊の深みはない。食っおおくには、ちょうどいいかもしれないが、じっず向き合っお、絵画鑑賞的に鑑賞するほどのものではない。その「深み」がないのだ。

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    䞀方、次に瀺した『あしたのゞョヌ』の本線䜜画は、「䞊手く描けおいる」以䞊の「衚珟」がなされおいる。
    雚空を芋䞊げる矢吹䞈の瞳は、単に雚空を芋䞊げおいるのではなく、䜕かを考えおいるずいうのは、芋る者が芋れば明らかなこずだし、単に「雚が降っおきたなあ」ずか「どこで雚宿りしようか」などず考えおいるわけではないずいう皋床のなら、鑑賞力がない者が芋おも、それず感じるこずくらいはできるはずだ。䞀䞀だが、これも「衚珟力のない」アニメヌタヌが描けば、単に「空を芋䞊げおいるだけ」の絵にしかならないのだ。

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    䟋えば、䞻芁な人物が、人登堎するアニメ䜜品の堎合、䞋手なアニメヌタヌだず、どの人物にも、同じ走り方をさせおしたう。「い぀もの自分のパタヌン」で走らせるからだ。無論、男女の区別くらいは぀けるだろうし、それ以前に、絵コンテを描いた挔出家が、ある皋床は走り方を絵にしおいるから、それに沿っお描くずいうこずもあるだろう。しかし、アニメヌタヌ出身ではない、絵の苊手な挔出家の絵コンテだず、そこたで詳しくは描かれおおらず、団子に䞲を刺しお、線の四肢を生やしただけ、みたいな「人䜓蚘号」に「党力で走っおいる」ずかの説明曞きを添えおいるだけ、ずいったこずもあろう。その堎合には、どのように走らせるかは、アニメヌタヌに䞀任されおおり、そこで問われるのが、アニメヌタヌの「理解力」であり「衚珟力」なのだ。

    「A」ずいうキャラクタヌず「B」ずいうキャラクタヌは、䜓栌が違うから走り方も違うずいうだけではなく、その性栌や経歎も違うから、それも走る際のフォヌムの違いずしお珟れるだろう。たた、同じ人物でも、元気な時ず疲れおいる時では走り方が違うし、奜きな人に駆け寄っお行く時ず、怖いものから逃げる時では、圓然、走り方も違っおくる。

    ぀たり「衚珟力のある」アニメヌタヌずいうのは、そこたで考えお描くべき状況を理解しお描き方を倉えるのだが、䜕も考えずに描くアニメヌタヌは、ただ「走らせる」だけになっおしたう。

    しかし、䞡者の、この「明らかな違い」もたた、倚くの鑑賞者には認識されない。
    「蚀われおみれば、なるほどぜんぜん違う」ず気づかされおも、指摘されなければ、別に䜕の区別もなく平然ず芋過ごしおしたう。なぜなら、どんな走らせ方をしようず、シナリオ的には、぀たりストヌリヌ的には、おおむね問題がないからである。

    しかし、優れた䜜品ず凡庞な䜜品を隔おるのは、たさにこの郚分なのだ。

    同じように「走っおいる」ず蚀っおも、その䞭身がぜんぜん違うように、「泣いおいる」「笑っおいる」ずいっおも、その衚珟は決しおひず぀ではない。
    䟋えば、「泣いおいる」ずいっおも、ただ「涙を流しおいればいい」ずいうものではない。「嬉し泣き」もあれば「悔し泣き」もある。その皋床のわかりやすい区別なら「口や眉」の圢で区別もできるだろうが、「倧切なものを倱い、その喪倱感によっお、本人も自芚しないたたに、静かに涙を流し続けおいる」ずなるず、そこでは「衚珟力」の違いが倧きく出おしたうだろう。そもそも「鈍感」であり、その意味で「衚珟力を欠いた」アニメヌタヌだず、「倧切なものを倱い、その喪倱感によっお、本人も自芚しないたたに、静かに涙を流し続けおいる」などずいう「キャラクタヌの感情解釈」は、挔出家が指定しないかぎりは、決しお思い浮かびもせず、ただ「悲しそうに泣いおいる」ずか「呆然ずしお泣いおいる」ずいう衚珟にずどたるのが粟䞀杯なのである。そのアニメヌタヌが、「デッサン力がある」ずいう意味で「絵が䞊手い人」であったずしおも、だからず蚀っお「繊现な衚珟」ができるずいう保蚌など、どこにもないのだ。

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    もちろん、前述のずおり、こうした「繊现な郚分」での衚珟の違いは、鈍感な鑑賞者には気づかれない。しかし、こうした「繊现な䜜画」「繊现な挔出」ずいうのは、決しお、たたたたその時だけのものではなく、䜜品を通しお、そのアニメヌタヌが、その挔出家が、可胜なかぎり䜜品に蟌めるものなのだから、そうしたスタッフによっお䜜られた䜜品ず、鈍感なスタッフに䜜られた䜜品では、たずえ同じ原䜜マンガのアニメ化䜜品であろうず、最終的には、その完成床においお倧きな違い開きが出おくるこずになる。

    だから、昚今のように、䜜画に時間がかけられ、ずおも芋栄えのする䜜品になっおいるにもかかわらず、しかし「いたひず぀盛り䞊がらない」ずか「よくできた䜜品だけど、傑䜜ずたでは蚀えない。倚分、残らない䜜品だろう」ずいうようなこずにもなる。
    なぜなら、「䜜品の質」ずしおの完成床を決めるのは、単に「デッサン力のある、絵の䞊手いアニメヌタヌ」が描いお、挔出家が「原䜜に忠実にやる」だけではダメだからだ。
    アニメは「動いおいる」のだから、吊応なく「動きのある衚情の倉化」「動きのある芝居」を぀けなければならないはずなのだが、「原䜜どおりであればいい」などずいう安盎な考え方に支配されれば、それは束瞛にしかならず、生き生きした衚珟を阻害しおしたうこずにしかならないからだ。

    しかし、ならばどうしお「原䜜どおりであればいい」などずいう考え方に支配されるのかずいえば、それは「生き生きした衚珟」ず「そうではない衚珟」ずの区別が぀かない鑑賞者が、その区別の぀かなさにおいお「原䜜どおりであればいい」ず芁求しがちだからである。

     ○ ○ ○

    そんなわけで、『けものフレンズ』ファンではあるずしおも、『』ず『』の区別が぀かない人が倧半だずいうのは、それはそれで圓然の結果でしかないのかもしれない。
    良くお「やっぱり『』の方が良かった」。むしろ「どっちも同じようなものじゃないか」ず本気でそう評䟡する人が少なくないのである。芁は、本気で「区別が぀いおいない」のだずしおも、決しお䞍思議なこずではないのだ。

    前蚘のレビュヌ「『けものフレンズ』ず『宇宙戊艊ダマト』『』ずいう呪い」で玹介した、た぀き監督による『けものフレンズ コミックアラカルト』の衚玙画に぀いお、私は、

    『この衚玙絵は、た぀き監督のセンスの非凡さを、非垞によく衚しおいる。キャラクタヌ解釈の深さ、ずいうこずだ』

    ずいう泚釈を぀けたが、たぶん、この蚀葉の意味を十党に理解した人は、ほずんどいなかったであろう。
    なんずなく「耒めおいるな」ず思っただけで、読み流した人が99パヌセントだったのではないだろうか。

    だが、この「泚釈」は、このむラストが「䞊手い」ず、ただ耒めおいるわけではない。だからこそ、わざわざ「センスの非凡さ」「キャラクタヌ解釈の深さ」ず具䜓的に曞いおいるのである。䞀䞀だが、それでも、この蚀葉に意味を理解できた人は、ほずんどいなかったのではないか、ずいうこずだ。

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    だから、ここでは、このむラストのすごさを、具䜓的に解説しよう。

    たず、かばんちゃんから芋おいくず、

    ・「垜子を脱いでいる」ずいうのは、リラックスを衚珟しおいる惰性的に、垜子を被らせたたた、にはしおいない。

    ・その「衚情」は、「嬉しい」ず「恥ずかしい」ず「困ったなあ」ずいう感情のミックスされたものであるこずが衚珟されおいる。
    かばんちゃんは、基本たじめだから、自分たちがネタにされたマンガを芋お、「嬉しい」ず同時に「恥ずかしい」ずも「困ったなあ」ずも感じおいるのが、この衚情からは窺えるのだ。
    そしお、この耇雑埮劙な感情衚珟ずいうのは、「デッサン力がある」だけでは䞍可胜だ。たず、かばんちゃんずいうキャラクタヌの性栌を深く理解しおいないこずには、こうした埮劙な衚情は出おこない。深く理解した䞊での的確な衚珟が、ここではなされおいるのである。

    ・かばんちゃんは、ここで本を読みながらも「ここ面癜いよ」「ここを芋おごらんよ」ずサヌバルに説明しおいる。これは、サヌバルがマンガずいうものに慣れおいないから、解説しおあげおいるずいうこずであり、ここに人間文化的なものに぀いおの䞡者の理解の差が瀺されるず同時に、文化的なものに関する「教える・教わる」ずいった、二人の関係性が描かれおいる。
    圓然のこずながら、文化的なこずでは、かばんちゃんが先生䟋えば、玙飛行機の䜜り方などだし、自然に぀いおは、サヌバルが先生で、二人は、足りないずころを補い合う、察等の友人関係である。

    ・真面目なかばんちゃんは、きちんず脚を揃えお座っおいる。

    次は、サヌバルである。

    ・サヌバルの芋開かれた瞳には、文化的なものぞの驚きず奜奇心がみなぎっおいる。
    サヌバルはサバンナで生きおきたのだから、マンガずいう人間文化は、この時初めお出䌚ったものだずいうのがわかる。たた、そのように衚珟されおいる。

    ・䞡手をテヌブルの端にかけ、テヌブルに顎を぀けおいるサヌバルの姿勢は、いかにも幌い者独特のものであり、かばんちゃんが手にしおいる「マンガ本の内容」ではなく、むしろ「マンガ本」ずいう、珍しい「物」に興味が集䞭しおいるために、我を忘れおいる、ずいうのがわかる。
    人間なら、かばんちゃんず同じ目の高さで、マンガ本を芗き蟌むだろうが、基本けものであるサヌバルは、マンガ本ずいう芋慣れぬ「物」を芋おいるせいで、その目線の高さもおのずず違っおくるのだ。

    ・しかしながら、そこに「集䞭」はあっおも「緊匵」はないから、䞡足は芋おのずおり、足裏を䞊にしお、぀た先だけを地面に぀けおいる。これは姿勢を䜎くしおいるから、おのずず䞡の足裏を地面に぀けにくいためではあるのだが、だからずいっお、䞋肢を「ハ」の字に開いお足裏を地面に぀けるのではなく、そのたた埌方に持っおいった結果、このような圢になっおいる。圓然、この姿勢では、即座には立おないから、これは普段以䞊に緊匵を解いおいる蚌拠である。

    以䞊のように、このむラストには、かばんちゃんずサヌバル、それぞれの「性栌」が、深い理解においお「衚珟」されおおり、たた「䞡者の深い関係性」たでもが、よく衚珟されおいる。
    だから、私は、

    『この衚玙絵は、た぀き監督のセンスの非凡さを、非垞によく衚しおいる。キャラクタヌ解釈の深さ、ずいうこずだ』

    ず「泚釈」したのである。

    そしお、ここで忘れおはならないのは、た぀き監督のこうした「深いキャラクタヌ理解」は、䜕もこのむラスト枚にずどたるものではなく、『』ずいう䜜品の端々に反映されおいる、ずいう事実なのだ。

    次にその察比物ずしお、『』を䞻題ずした、同じ『けものフレンズ コミックアラカルト』の「ゞャパリパヌク線その」の衚玙画を芋おみよう。

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    このむラストも非垞に「䞊手い」人が描いたものだずいうのは間違いない。本線アニメ『』より、よほど生き生きず描けおいるずいっおも良いだろう。
    状況蚭定は、仲良し人組で「けものポヌズ」をずっおプリクラ撮圱、ずいったずころだろうか。サヌバルが奔攟に楜しそうなのに察し、カラカルはもう少し萜ち着いおいる。キュルルは、この二人に圧倒されおいる感じだ。

    ぀たり、このむラストは、こうした状況蚭定的な「物語性」をよく衚珟しおはいるのだか、しかし、個々のキャラクタヌに぀いおは、さほど深く掘り䞋げられおはいない。このポヌズや衚情は、この人ではなくおもよくお、「仲良し人組のプリクラ」ずしお、キャラクタヌはいくらでも「亀換可胜」なのだ。「元気な二人ず、圧倒されがちなもう䞀人」ずいうトリオであれば、別に「カルカラ、サヌバル、キュルル」である必芁などない、「䞀般的な状況」の衚珟にずどたっおいるのである。
    特にサヌバルに぀いおは、これはもう、明らかに『』のサヌバルではなくなっおしたっおいる。「䌌お非なる」䜕かにしかなっおいない。
    たしかに、絵は「䞊手い」し、「生き生きず描けおいる」ずいうのは間違いないが、「サヌバルが描けおいる」ずは蚀い難いのだ。

    以䞊のように曞くず、私が䞊の枚目の衚玙むラストに぀いお、『』だから難癖を぀けおいる、ず思う人もいるかもしれない。
    だから、たた別のむラストに぀いお、芋おみよう。

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    䞊のむラストは『』をむメヌゞしお曞かれたものであるこずは明癜である。たた、決しお䞋手ではない。いや、むラストずしお䞊手だし、衚情も生き生きず描けおいる。
    しかし、ここでも問題になるのは、このむラストレヌタヌは、かばんちゃんずサヌバルを「らしく」描こうずしおいながらも、自分の「筆法」ずずもに、自分の「願望」である「楜しそうにしおいる」ずいうこずだけが前面に出過ぎおいお、これも蚀うなれば、キャラクタヌの「亀換可胜」なむラストにずどたっおいる。二人のキャラクタヌを、普通の人間に女の子に入れ替えお「癟合マンガアン゜ロゞヌ」の衚玙にするこずは、容易に可胜なのだ。

    ここで、最初の、た぀き画の衚玙に戻っおみるず、このむラストが、容易には「亀換䞍可胜」な、かばんちゃんずサヌバルのためのむラストだずいうのがわかるだろう。䞀䞀これこそが「キャラクタヌ理解の深さによる、衚珟力の違い」ずいうこずなのである。

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     ○ ○ ○

    このように、むラスト枚ずっおみおも、よく「読み蟌むならば」、その「力量の差」は明癜ずなる。
    だが、倚くの人は、こうした「深さ」を芋過ごしがちであり、衚面的に「同じようなこず」が描かれおいれば、それは「同じようなもの」ずしお理解しおしたう。

    サヌバルが登堎すれば、『』のサヌバルであろうず『』のサヌバルであろうず、「同じもの」に芋えおしたう。

    䟋えば、次のむラストのような、性栌のたったく窺えないサヌバルも、

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    たた䞋のような、いかにも「媚び媚び」で、「可愛いだけ」のサヌバルでも、同じ「サヌバル」だず思っおしたう。

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    だが、それは実のずころ、「プロボクサヌ」ず「アマチュアボクサヌ」の違いがわからない人の「目」、あるいは「プロ野球」ず「草野球」の区別が぀かない人の「目」ず、同じレベルのそれでしかない、ずいうこずなのだ。

    もちろん、そのレベルの人でも、「ボクシング」や「野球」を論じるこずは可胜だ。
    い぀の時代にも、テレビニュヌスを芋る皋床の知識で「床屋政談」をする人が倧勢いるし、ボクシングや野球やサッカヌの「お茶の間評論家」になる人も倚い。圌らは圌らなりに「自分はそれなりの芋識が備えおいる」぀もりなのだが、珟実にはそれは「アマチュアの独りよがり」でしかないずいうのは、吊定しがたい珟実なのだ。

    そしおこれは、「アニメファン」に぀いおも、たったく同じこずである。
    「本」を読んでいるだけでは、小説家にもなれなければ、評論家にもなれないのず同じで、アニメを芋おいるだけでは、アニメ䜜家にもなれなければ、アニメ評論家にもなれない。

    「実力のある本物」になるためには、圓然のこずながら「才胜」ず「努力研鑜」が必芁なのだが、特別な才胜が無いのは仕方ないずしおも、ならばそれを補うだけの䞊倖れた努力をしないこずには、いくらグッズを買い集めたずころで、それで「アニメ」䜜品をきちんず「評䟡」するこずが出来るようになるこずなど、金茪際ない。

    それは、「胜力」がなければ、「文孊䜜品」や「矎術絵画」の適切な評䟡ができないのずたったく同じこずで、「アニメ」だから「誰でも評䟡できる」などずいう考え方は、「アニメを舐めるな、このど玠人が」ずいうこずにしかならない。

    だから、䜕を「奜き」になるかは、その人の勝手だし、䜕なりず、どうなりず奜きにすればいいのだが、しかし「䜜品評䟡」を倖に向けお語るのであれば、それなりの芚悟ず責任を持っお語っおもらわなければならない。なぜなら、それは「瀟䌚的な行為」だからである。

    たた、その時に「私は奜きだけど、䞀般的には、どうかわからない」ずか「私は評䟡するけど、客芳的には、どうだかわからない」などずいう、あらかじめ「逃げ道」を甚意した䞊での「自分語り」など、じ぀のずころ「ゎミ」でしかないずいうこずくらいは自芚したうえで、「ゎミ」を垂れ流しおほしい。
    個人的に「奜き」だずいうだけなら、黙っお奜いおいればいいだけなのに、そういうこずをわざわざ口にするのは、じ぀は「自分に共感しおほしい私を支持し、承認しおほしい」ずいうこずであっお、「䜜品を耒めたい」ずいうこずではないのである。

    だから、本気で「䜜品を耒めたい」ず思うのであれば、他人にも䌝わる蚀葉で、「正しく」語らなくおはならない。
    それができないずころでの䜜品評䟡ずいうものは、無意味な混乱芁玠でしかないし、そんなものが増えれば、皋床の䜎い「倚数意芋」が「正しい」などずいう、頭の悪い勘違いが蔓延るこずにもなるのである。

    「傑䜜は傑䜜、駄䜜は駄䜜」ず正しく評䟡されなければならない。
    しかし、そのように「正しく評䟡」できるのは、その「胜力」のある者だけなのだずいう珟実は、少々過酷なものではあれ、盎芖すべきだろう。
    「評䟡を語る暩利」は誰にもあるが、「正しい評䟡を語る胜力」は、誰にでもあるわけではない。厳しいようだが、これが珟実。
    いくら「そうであっおほしい」ず願っおも、なりない人がすべお平等に、プロスポヌツ遞手やタレントやアニメヌタヌや映画䜜家になれるわけではない。東倧に入れるわけでもない。これが珟実なのだ。

    いくら「ボクシングを愛しおいる」ずいっおも、「胜力」もないのに「プロのリングに䞊がる」のは、「ボクシング」を冒涜するこずにしかならないし、これは「アニメ」に぀いおも、たったく同じこずなのである。

    「のけもの」にはしない。
    しかし、フレンズにも、空を飛べる者もいれば飛べない者もいる。

    だから、飛べない者は、自分にできるこずを、正しく行うこずで、自身を生かすべきなのだ。

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    2023幎9月11日

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