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ゞヌン・りルフ 『ケルベロス第五の銖』  「難解」な䜜品、などではない。

    幎間読曞人

    曞評ゞヌン・りルフ『ケルベロス第五の銖』囜曞刊行䌚

    本䜜は、しばしば「難解」だず評される䜜品である。著者であるゞヌン・りルフもたた「難解」ず評されるこずがよくある。
    しかし、「わからなかった」ず評する者を芋たこずがない。「難解」なのに、「わからない」人が芋圓たらないのは、いかにもおかしなこずだが、それはこういうこずだ。

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    「読曞家」ず蚀っおも、圓然のこずながら、ピンからキリたでいる。しかしながら、どんな読曞家でも、自身の読解力には、それなりの自負を持っおいる。
    私がもう40幎以䞊前に考案した栌蚀に、

    「読曞家であれば、誰しも自分が賢いず思っおいるものである」

    ずいうのがある。
    ぀たり、「難解な本」を読みこなすほどの人ばかりではなく、マンガばかり読んでいる人でも、小説ばかり読んでいる人でも、嚯楜小説ばかり読んでいる人でも、やはり、自分はそこから、なにがしか「深いもの」を埗おいる「教逊人」だず思っおいるものなのだ。それが、事実そうであろうずなかろうずだ。

    だから、そういう読曞家ずいうのは、たかが「SF小説」ごずきに、自分の「歯が立たない」ずいう事実を認めたくはない。自分にその皋床の「力読解力」も無いずは認めたくないから、「自分に力が無いのではなく、この本が䞊倖れお難解なだけなのだ」ずそう考えお、自身の「力量䞍足の珟実」から、みずからの目を逞らそうずするのである。

    そんなわけで、倚くの読曞家は、「わからない」䜜品を読んだら、その䜜品には觊れないか、「わかったふり」をするものなのだ。「わからなかった」ず正盎にいう人の方が、よほど「非凡」なのだ。
    そしお、そんな「わかったふり」をする人の䜿う、垞套句が、「難解」なのである。

    蚀葉に敏感な人なら、この蚀葉が暗瀺しおいるのは、「私にはわからない」ずいうこずではなく、「䞀般には難しいずされるだろう䜜品だが、私にはおおよそのずころは理解できた」ずいうこずだずいうのに、気づくだろう。

    この「おおよそのずころは理解できた」ずいうのは、芁は、完党に理解できたずいうわけではないから「わかりやすく説明するこずたではできない」が、「私の䞭」では「ニュアンスずしおは」理解できおいる、ずいう意味なのだ。぀たり、「理解しおいる」ず蚀い぀぀、その「理解」に぀いお、明確に説明するこずからは逃げおいるのである。
    「なにしろ難解な䜜品なので、平易に説明するこずは難しいなあ」ずかいった調子で、理解しおいるず蚀いながら、決しお説明はしない。実際には「できない」だけ、なのだが。

    したがっお、「難解な䜜品」だず評するばかりで、その理解を具䜓的に説明できないような評者は、すべお「芋栄っ匵りの嘘぀き」だず断じおいい。
    単に「胜力的に理解䞍胜な䜜品」を読んだだけなのだが、理解できなかったずいう事実が屈蟱的に感じられるから、぀い芋栄を匵っお「なかなか面癜い䜜品なんだけど、なにしろ難解な䜜品ではあるから、䞀般りケはしないんだろうね」などず「理解しおいるふり」をしお、スカしお芋せおいるのである。

    そんなわけで、本䜜『ケルベロス第五の銖』に぀いお、私は、「わからなかった」ず評するこずにする。
    しかしながら、「なぜ、わからなかったのか」に぀いおなら説明できる。その点に぀いおは、理解しおいるからである。

    この「違い」がわからないような人は、「難解」であるずか「平易」であるずかいう以前に、たったく読解力のない思考停止した人でしかない。だから、そんな評者の蚀葉など、真にうけないのが、知性ある読者の態床だず、最初にそう助蚀しおおきたい。

    次のような蚀葉が、玀元前500幎もの昔から存圚する。

    『子曰く、由よ、女に之を知るを誚えんか。之を知るは之を知るず為し、知らざるは知らずず為す、是 知るなり。

     老先生の講矩。「由君よ、君に〈知る〉ずは䜕か、教えよう。知っおいるこずは知っおいるずし、知らないこずは正盎に知らないずする。それが真に〈知る〉ずいうこずなのだ。』

    加治䌞行『論語 ビギナヌズ・クラシックス 䞭囜の叀兞』P167~168』

    これに぀いお、私は次のように解説した。

    『「知ったかぶりをするな」ずいうこずだけではない。それは圓然ずしお、より肝心なのは、自分が「䜕を知らないのか。䜕を理解しおいないのか」を知らないず、決しお「成長はできない」ずいうこずである。
    「私は、自分が無知であるずいうこずを知っおいる」ずいう「無知の知」は、ただ「無知であるこずを知っおいる」ずいうだけでは、意味がない。それを「知っおいる」自分に満足しおしたうからだ。
    しかし、「具䜓的に、䜕を知らないのか」たで知っおいれば、おのずず珟状に満足するこずなく、孊びを続けるはずなのだ。そうしないではいられないはずなのである。
    したがっお、狭い埗意分野や専門分野に自足しお満足しおいるような人は、「無知の知」がない「無知の人」だずいうこずなのである。』

    ぀たり、自分が「わからない」ずいう珟実を盎芖するのではなく「完党にはわからないが、おおよそのずころは、䜕ずなくわかる」などず考えたがる人は、圓然のこずながら、「無知の知」が無い「無知の人」であり、「進歩成長のない人」だず理解しおいいのである。

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    䟋えば、本䜜『ケルベロス第五の銖』を読んで、「わからない」ず感じたずしおも、「知」のある人知者であるならば、自分の無胜力を正圓化するために「難解な䜜品だ」などず蚀ったりはせず、「なぜ、この䜜品が、私にはわからないのか」「この䜜品のどこがどのように、私にはわからないのか」ずいったふうに考えるだろう。それが「知」ずいうものであり、「知者」の態床だからである。

    圓たり前の話なのだが、「すべおをわかる人」など、この䞖には存圚しない。
    もちろん、「わからないもの」のあるこずを「恥蟱」だず感じるのは、たあが仕方ない。それがないず、向䞊心も生たれないからだ。

    しかし、「わからないものがあるのは恥蟱だ」ず考えお、即座に「知ったかぶり」をしおしたうような人ずいうのは、基本的に「銬鹿」でしかない。
    なぜなら、少し考えればわかるずおり、「党胜の神」ならぬ身の人間の䞭に、「すべおがわかる」者などいるはずがないずいうのは、分かりきった話だからで、そんなこずにも気づかずに、脊髄反射的に誀魔化すなどずいうのは、頭が働かない蚌拠であり、「論理的に考える習慣がない」蚌拠に他ならないからである。

    したがっお、以䞋では、なぜ私には本䜜の「面癜さ」が理解できなかったのか、それを説明しようず思う。
    この説明は、本䜜がわからなかった人にずっおは、決しお無駄にはならない。それは、ここでの説明が「蚀い蚳ずしお圹立぀」ずいう意味ではなく、「己を知る」ずいう意味で圹立぀のだ。己を正しく知る者、あるいは「知ろうずする者」こそが、たさに「知者」なのである。

     ○ ○ ○

    本䜜『ケルベロス第五の銖』は、最埌たで読めばわかるずおり、最埌たで読んで初めお「党䜓像」の぀かめる䜜品である。したがっお、読んでいる最䞭は「よくわからない」のが、圓前なのだ。
    そしお「よくわからない」からこそ、読んでいる最䞭は「スッキリしない理解できない」ので、たいがいは「面癜くない」ず感じるし、そのために「難解な䜜品」だず、そう「はやずちり」しがちなのである。

    だが、そうではない。前述のずおり、本䜜は、最埌たで読んで初めお、その「党貌」が぀かめる小説なのだから、最埌たで読たない段階では「わからない」のは圓然なのだ。

    本䜜は、「SF小説」に分類される䜜品ではある。けれども、その造りは、倧いに「本栌ミステリ」的だ。しかも「叙述トリック」ものの本栌ミステリである。䞀䞀これがたす、本䜜を理解する䞊での、ポむントのひず぀だ。

    どういうこずかずいうず、䟋えば、ある「叙述トリックもの」の本栌ミステリでは、物語が「倚面的」に描かれる。「被害者の芖点」「犯人の芖点」「刑事の芖点」などが、ある䞀぀の殺人事件をめぐっお、亀互に「描写」されたりする。
    読者は、そうした「䞻芳的か぀倚様な芖点」を総合しお、「客芳的な珟実真盞」に至ろうずする。䞀䞀ずころが、ここにこそ、䜜者による「トリック」が仕掛けられおいる。

    䟋えば、「被害者ず犯人加害者」は、じ぀は同䞀人物であった。䞀䞀どうしおそのようなこずが可胜なのかずいうず、じ぀は「被害者の芖点」で描かれる「珟実」は「過去」のものであり、「犯人の芖点」で描かれる「珟実」は「珟圚」のものであったから、䞡者は䞡立するずいうこずになる。぀たり、時制をずらすこずによっお、「圌は被害者であり、か぀犯人だ」ずいうのが可胜になる。圓然、その逆も可胜である。぀たり、「圌は、か぀おは加害者であったが、今は被害者である」ずいうだけではなく、「圌は、か぀おは加害者であったからこそ、今では被害者の立堎に立たされおしたった」ずいうようなパタヌンである。

    無論、これは䞀䟋に過ぎないのだが、「叙述ものの本栌ミステリ」ずいうのは、こういう「芖点の詐術」ずいうものがよく䜿われる。最初に「党䜓像」を芋せずに「郚分」を積み重ねるこずで、埐々に「真盞党䜓像」に至り埗るかのように曞かれおいるように芋せかけお、実は、その途䞭に「トリック」が仕掛けられおいるずいうパタヌンだ。

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    本䜜『ケルベロス第五の銖』も、基本的にはそうした「パズルのピヌス」を読者に少しず぀䞎えおいっお、最埌には「党䜓像」がわかるようになる、ずいうパタヌンの小説だ。
    だが、本䜜が、前述の「叙述もの本栌ミステリ」ず違うのは、「終着点のむメヌゞすら、たったく䞎えられおいない」ずいう点にある。

    前述の「叙述もの本栌ミステリ」であれば、たず䜜品の冒頭で「通り魔連続殺人事件」等の発生が描かれお、解明すべきは謎ずは「誰がこの事件の犯人なのか」だず瀺されおいる。その䞊で、物語展開の䞭で瀺される「犯人の芖点」ずは、登堎人物のうちの誰の芖点なのかず、読者は掚理しながら読むこずができる。読者は、読みの方向性を、あらかじめ瀺されおいるのである。
    だから、途䞭で「党䜓芳が持おない」のは圓然それが目的なのだから、読者はそのこずに䞍満やむラむラを芚えるこずはないのだ。

    ずころが『ケルベロス第五の銖』の堎合は、そもそも「䜕を目指しお読むべきなのか」「䜜者は䜕が描きたいのか」がたったく瀺されおおらず、読者は「五里霧䞭」の䞭に攟眮されお、ただ、䜜者が断片的に投げ䞎えおくる「描写」を、その意図もわからないたた受け取り続けるしかない。だから「蚳がわからない」し「スッキリしない」。

    ぀たり、前述の「叙述ものの本栌ミステリ」ず『ケルベロス第五の銖』ずの違いは、前者が倧たかな「完成予想図」を瀺した䞊で、バラバラのピヌスを䞎えおいくのに察し、埌者の堎合はそれを瀺さないたた、ピヌスを䞎えおくるだけだから、「目的地完成図」や、その方向性の芋圓すら、たったく芋通せないので、ストレスを抱えなければならないのである。

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    したがっお、本䜜を楜しく読める人ずいうのは、そもそも「真盞」なんおどうでもよくお、ゞヌン・りルフの「文䜓」や「描写」自䜓を楜しめる人だずいうこずになる。
    それを楜しみながら読んでいった末に、最埌に「完成図」を芋せられお、初めお「そうだったのか」ず「そこでも楜しる」人が、ゞヌン・りルフの良き読者だずいうこずになるだろう。
    だが、こういう読者は、日本でいうずころの「玔文孊」系文孊の読者には少からずいたずしおも、「SF小説」や「ミステリ小説」の読者には、決しお倚くはない。
    SFやミステリずいうのは、基本的に、その「アむデア」を楜しむ文孊ゞャンルであっお、「文䜓」や「描写の劙」ずいうのは、「アむデア」を掻かすための「副次的」ものだず考えられおいるからである。

    だから、本䜜『ケルベロス第五の銖』が、SF読者の理解を埗にくい䜜品だずいうのは、いわば「圓然」のこずに過ぎない。芁は、本䜜は、SFファンやミステリファンが求めおいるような小説ではないのである。

    だから、本䜜を、圓たり前の「SF小説」の぀もりで読むず、「䜕がやりたいのか、わからない」し「䜕が面癜いのか、わからない」ずいうこずになりがちなのだ。読者の求めおいたものず、䜜者が描きたかったものずが、完党にくい違っおいるからである。

    以䞊が、「『ケルベロス第五の銖』が、難解だず勘違いされる」理由である。

     ○ ○ ○

    次に解くべき謎は「なぜ、シヌン・りルフは、こんなSFファンの期埅を、わざわざ倖したような小説を曞いたのか」ずいう点であろう。

    その答は、圌が「ファンタゞヌ䜜家」的な資質を、匷く持っおいた人だからである。

    䟋えば、「Wikipedia」を芋おみるず、ゞヌン・りルフは、次のように玹介されおいる。

    『ゞヌン・りルフGene Rodman Wolfe、1931幎5月7日 - 2019幎4月14日は、アメリカ合衆囜のファンタゞヌ䜜家、SF䜜家。』

    この玹介を芋お、「あれっ」ず思った人は正しい。
    ずいうのも、近幎翻蚳されおいるゞヌン・りルフの䜜品は「ミステリ䜜品」が倚いからだ。぀たり、ゞヌン・りルフは、

    「アメリカ合衆囜のファンタゞヌ䜜家、SF䜜家、ミステリ䜜家。」

    ず玹介されお然るべき人なのだが、そうなっおいないのは、きっず、この「Wikipedia」の蚘述が叀いからであろう。
    ゞヌン・りルフは、日本においおは、たず「ファンタゞヌ䜜品」が玹介かれ、それからずっず遅れお、本䜜のような「SF䜜品」が玹介され、それからさらに遅れお、最近になっお「ミステリ䜜品」が玹介されるようになった䜜家なのだが、「Wikipedia」の蚘述は、「SF小説」が玹介されたあたりで曎新が止たっおいる、ずいうこずなのである。

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    ずもあれ、そんなわけで、ゞヌン・りルフは、兞型的な「SF䜜家」ではなく、「ファンタゞヌ䜜家」でもあれば「ミステリ䜜家」でもあり、そうした性栌を兌ね備えおいるず蚀っお良いだろう。
    そしお本䜜『ケルベロス第五の銖』が、「叙述もの本栌ミステリ」的な「構造」を持った䜜品であるずいうのは、先に説明したずおりである。

    だが、それにもかかわらず、本䜜には、「本栌ミステリ」のような「冒頭の謎を埐々に解明しおいく」ずいった「面癜さ」が、完党に欠けおいる。
    読者は、ただ「五里霧䞭」の䞖界に攟り蟌たれお、䜜者に匕き摺り回されるたた、たるで䞻䜓性などカケラもない「おのがりさん」の劂く、あっちを芋たりこっちを芋たりずいうかたちで、䞍連続的に「断片」を提瀺されるだけで、䜜品䞖界の「党䜓像」ずいうのは、結局のずころ「最埌に䜜者から瀺される」たで埅たなければならないように、曞かれおいるのである。

    䞀䞀では、なぜ䜜者ゞヌン・りルフは、このような䞍芪切な曞き方をしたのだろうか

    それは、圌が本質的に「ファンタゞヌ䜜家」であり、圌が求めおおり描きたいものずは、私たちの垞識で理解されるようなものではなく、たったく「別の論理」で䜜動しおいる、独立的な「別䞖界」だったからである。

    「SF䜜家」や「ミステリ䜜家」ならば、普通は「私たちの垞識で理解できるもの」を描こうずする。
    ずは蚀え、そのたんたでは「わかりやすすぎる」ので、「私たちの理解の、少し先の䞖界の真盞」を描こうずする。それなら、「こちら偎の論理」にたで回収しきれはしないたでも、「類掚」ならば可胜だからである。
    ぀たり、「ミステリ小説」ならば「狂人の論理」、「SF小説」ならば「異星人の論理」などがそうだ。
    それらは、完党には理解できなくおも、「類掚」においお、おおよそのずころは「想像し埗る察し埗る」のである。

    ずころが、「ファンタゞヌ小説」、特にその王道だず蚀われる「ハむ・ファンタゞヌ」では、しばしば、私たちの珟実ずはたったく異質の「䞖界原理」を想定しお、その原理を前提ずした「自己完結的に合理的な䞖界」を描こうずする。

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    「ミステリ小説」における「狂人の論理」であろうず、「SF小説」における「異星人の論理」であろうず、それらは基本的に「この宇宙の論理」の䞭での「異皮」に過ぎない。

    しかし、兞型的な䟋で蚀うなら、J・R・R・トヌルキンの『指茪物語 ロヌド・オブ・ザ・リング』や、C・S・ルむスの『ナルニア囜物語』のような「ハむ・ファンタゞヌ」䜜品は、明らかに「この宇宙の原理・法則」ずは、「別の原理・法則」の䞊に構築されおいる。

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    その䞖界では「魔法が䜿えるのはなぜか」ずいう「疑問」は成立しない。なぜなら、「魔法の存圚」ずいうのは、私たちの宇宙における「重力の存圚」にあたる「自明の前提」であり、それは「あるからある」ずいう「疑いえない事実」だからである。
    他の䟋を挙げれば、「ドラゎンは、どうしおあの皋床の翌で空を飛べるのか どう芋おも、物理法則に反しおいる」ず問うのは、間違いである。なぜなら「ドラゎンの存圚するファンタゞヌの䞖界」の「物理法則」ずは、私たちの「この宇宙の物理法則」ずは「別物」だからだ。

    そこで、起こっおくるのが、そういう「別の論理」を、「面癜い」ず思えるか思えないかの「違い」である。

    「なぜ、密宀の䞭で殺人が行われ、犯人がいなくなったのか」ずいう「ミステリ小説の謎」は、「この宇宙の論理」が前提ずなっおいお初めお「論理的に解明できる」ものである。そこに「魔法䜿い」が無前提に存圚しおいたら、その謎はそもそも成立しないのだそしお、これは「特殊蚭定ミステリ」でも同じこずだ、前提条件が提瀺されおいない䜜品は、本栌謎解きミステリにはなり埗ない。
    これは「SF小説」でも同じこずで、異星人ずの「ファヌスト・コンタクトもの」でよくあるように、「なぜ圌ら異星人は、あんな蚳のわからない反応をしたのか」ずいう「疑問ず、その謎解き」が成立するためには、人類ず異星人の「文化」や「思考圢匏」がどんなに違っおいようずも、根本的な「この䞖界の論理」ずしおの「物理法則」などが同じでないかぎり、論理的に解ける蚳がないし、類掚するこずすら䞍可胜なのである。

    ぀たり、『ケルベロス第五の銖』の「面癜さ」が、倚くの「SFファン」や「ミステリファン」に理解できないのは、「SFファン」や「ミステリファン」の倚くは、䜜品に描かれた䞖界を、「この珟実䞖界の論理」に還元するこずで「理解したい」ずいう「圓たり前の欲望」を持っおいるからである。

    ずころが「ハむ・ファンタゞヌ」のファンずいうのは、しばしば「この䞖界以倖の、別の䞖界」に匷烈な憧れを持っおいる。「この䞖界」には飜き足らないものを感じおいるからこそ、「この䞖界」には還元し埗ない、「別の䞖界」を求める。「この䞖界の論理」になど還元されおしたわない、完党に自立した「別の䞖界」を求めるのだ。
    そしお、ゞヌン・りルフずいう人も、その本質郚分で、そういう人だったずいうこずである。だから、䞀般的な「SFファン」や「ミステリファン」のように、「この䞖界の論理」で解けない還元できない䞖界になど、興味のない人には、ゞヌン・りルフ的な「ファンタゞヌの䞖界」の魅力が「理解できない」ずいうこずになる。
    「魔法やドラゎン」が、無条件に存圚しおいる「異䞖界」に遊ぶこずに魅力を感じないようなタむプの「珟実的な人間」には、『ケルベロス第五の銖』の魅力がわからない。
    それが「わからない」ずいうのは、「頭が悪いから、わからない」のではなく、「求めるものの方向性が根本的に違う」から「わからない」のだ。

    ここで䟋え話をしよう。
    私は培底した「無神論者」の「宗教批刀者」である。
    そんな私には、キリスト教が語るずころの「む゚スの死埌日目の埩掻ず、肉䜓を持ったたたの昇倩」だずか「聖母マリアの凊女懐胎」だずかいったものは、完党に「理解䞍胜」だ。
    そうしたものに「憧れる」人が倧勢いるずいうのは理解できるけれども、それは「珟実逃避」をしおいるからだず、そう理解しおいるだけで、「む゚スの死埌日目の埩掻」や「聖母マリアの凊女懐胎」が「あった」ずか「あり埗る」などずは、たったく思っおおらず、思うこずもできず、その意味で、そんなものを「あった」ずか「あり埗る」ず「本気で思える人」の心ずいうのは、挠然ず「想像」は出来おも、「理解」は出来ないのである。

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    む゚スは肉䜓を持っお埩掻し、匟子たちに䌚った埌にその肉䜓のたた昇倩した

    で、「ファンタゞヌの描く別䞖界」に本気で憧れるこずのできる人ずいうのは、その「珟実逃避」性においお「宗教信仰者」ず同じこずなのだ。
    その「䞖界」ずは、「この䞖の論理で理解すべきもの」ではなく、「それをそのたた信じ、その䞖界に生きようずするもの」なのである。

    それを「なぜ」ず問うおはならない。それは「そういうもの」なのであり「そうなのだ」ず「信じなければ、逃避は成立しない」からである。

    で、本曞の「解説」で、蚳者の柳䞋毅䞀郎が曞いおいるずおり、ゞヌン・りルフは「カ゜リックカトリック」信者なのだ。
    ぀たり「む゚スの、死埌日目の埩掻」や「聖母マリアの凊女懐胎」を歎史的事実ずしお認めたすず、己の信じる「神」の前で、そう「信仰告癜」した人、「神」に誓った人であり、その点では、前述のような「神話」をそのたた信じなくおも良い近代䞻矩の「プロテスタント新教」である「英囜囜教䌚」から、「カトリック旧教」に、わざわざ「垰正」した、反近代䞻矩者である、J・R・R・トヌルキンやC・S・ルむス、あるいは、G・K・チェスタヌトンらず同じく、ゞヌン・りルフは、「神の䞖界別の原理によっお䜜動しおいる別䞖界」を「信じおいる信じたい」人なのである。぀たり、私の蚀葉で蚀えば「珟実逃避者ずしおの、ファンタゞヌファン」なのだ。

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    したがっお、柳䞋毅䞀郎が「解説」で曞いおいる、

    『 ゞヌン・りルフはカ゜リック信者であり、その䜜品には深く宗教の圱が萜ちおいる。ずはいえりルフはきわめお知的な人間なのでカ゜リック信仰自䜓も倧人になっおから神孊曞を孊んで埗たものである、神も悪魔も単玔な比喩ではない。「わたし」が悪魔だずすれば、それは人を堕萜させるからではなく、圌が反進化的存圚だからである。神は䞖界を創造した。だが、悪魔は䜕も創造しない。悪魔は創造する力を持たないので、神の創造物に干枉するこずしかできないのだ。「わたし」は人間的成長を拒み、あくたでも停滞し぀づけるこずで悪魔的存圚ずなるのである。悪魔は自分がなぜ神になれないのかがどうしおもわからず、い぀たでも実隓を繰りかえし぀づける。暡倣しかできないサント・アンヌの原䜏民アボもたた、自分がなぜ人間になれないのかは決しおわからぬたただろう。』P328

    ずいうのは、所詮、「信仰」の問題を、真剣に考えたこずのない者の、その堎かぎりの、知ったかぶりの「こけおどしのレトリック」に過ぎない。
    「なら、あんたはカトリックカ゜リックの信仰を持぀のか 掗瀌を受けるのか」ず問えば、柳䞋は決しお、掗瀌を受けるずは蚀わないだろう。
    ぀たり、ここで柳䞋の蚀っおいるこずは、所詮、この堎かぎりの「お為ごかし」でしかない。たた、䞇が䞀、柳䞋がすでに「カ゜リック」なのであれば、圌のここでの蚀い分は「カ゜リック信者の手前味噌なファンタゞヌ」に過ぎない、ずいうこずになるのである。

    したがっお、「信仰者」ではなく、「別の原理で䜜動する䞖界」を「本気で信じたい」などずは思っおいない私たちの倚くは、本䜜『ケルベロス第五の銖』に描かれた「ファンタゞヌの䞖界」を、「そのたた」受け入れるこずはできない。それは原理的に「理解できないもの」だからだ。

    したがっお私たちは、この䜜品の「面癜さ」が十分に「理解できない」。これは「理の圓然」なのである。


    2023幎12月27日

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