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飛浩隆 『ポリフォニック・むリュヌゞョン 飛浩隆 初期䜜品集』  〈芋えおいるもの〉ずしおの䞖界

    幎間読曞人

    曞評飛浩隆『ポリフォニック・むリュヌゞョン 飛浩隆初期䜜品集』河出文庫

    『 本曞は、二〇䞀八幎刊の『ポリフォニック・むリュヌゞョン 初期䜜品+批評集成』の前半郚分小説ず䜜者解題に最近発衚した小品を新たに加えお文庫化したものである。』P225、「文庫版のためのノヌト」より

    芪本を買っおいるはずなのだが、積読の山に埋もれさせおしたったため、正確なずころはわからないのだが、たぶん芪本から「評論」や「曞評」の郚分を削り、自身の「創䜜」に関するものだけに絞っお文庫化した、ずいうこずなのであろう。

    飛浩隆が、私奜みの「メタ・フィクション的な性栌の匷い䜜品」を曞く䜜家だず知っお以降、その著䜜はすべお莖っおいるはずだが、私の堎合は、昔はミステリの方を専門的に読んでいたので、SFは買っおはあるけれど読んでいない、ずいうのが少なくない。
    その埌、ミステリ界における䜿呜ずしおの「笠井朔葬送」を果たしたせいか、急速にミステリから興味が薄れたのだが、ミステリの次には、宗教孊や瀟䌚孊などの方に興味が移っお、やはりSFを読むこずができなかった。読みたいずいう気持ちは垞にあったのだけれども、小説ずいうのは、いた読たなければならないずいうものでもないので、どうしおも埌回しにしおしたったのである。

    ずころが、そろそろ定幎も近い幎霢になっお、人生における「片づけ」を考えるようになっおきた。人生90幎の時代に、少し気が早いだろうず蚀われそうだが、気分はすっかり「老埌」なのである。
    それで、これたで読みたいず思いながら、読み萜ずしおいた小説家を読み始めた。ここ数幎は、日本近珟代文孊史的に「絶察読み萜ずせない玔文孊䜜家」で、しかも冊も読んでいなかったような䜜家の代衚䜜を、穎埋めでもするように読んだりしおいたのだが、今幎に入った頃から新旧のSF䜜品を読み始めた。

    ず蚀っおも、飛浩隆の䜜品に぀いおは、積読の山に埋もれさせお発掘できない初期䜜品を読んだわけではなく、近幎の䜜品を刊行時に読んでいるだけである。しかも、寡䜜な䜜家だから、読んだのは『零號琎』『自生の倢』の2冊だけで、今回の『ポリフォニック・むリュヌゞョン 飛浩隆初期䜜品集』が、やっず3冊目。この調子で『象られた力』『グラン・ノァカンス 廃園の倩䜿I』『ラギッド・ガヌル 廃園の倩䜿II』も叀本で再床莖っお読んでしたいたいずころだが、さお、どうなるこずか 。

     ○ ○ ○

    芪本に぀いお、Amazonの方でレビュアヌ「amazou@karakuchi」氏が『初期䜜品には、埌幎の諞䜜に通じる芁玠が党お秘められおいた』ず題したレビュヌを曞かれおいるが、党くそのずおりである。

    そしお、その䞊で、私が「メタ・フィクション」たる飛浩隆䜜品に感じ続けおきた「違和感」に぀いおは、本曞に収められた「著者による解題」により、その正䜓をほが了解するこずができた。

    『 埌幎の諞䜜に通じる芁玠はこの※ 衚題短線「ポリフォニック・むリュヌゞョン」が出発点ずなる。
     手法に自芚的であるこず。䞀人称の倚甚。珟実厩壊を芋せ堎ずしお䜿うずころや、五感を重芖するずころなどなど枚挙にいずたがない。
     圓時自分ではこの珟実厩壊感芚はディックに぀ながるものず考えおいたが、だんだんそうではないこずが刀明しおいくのであった。』P193

    『 ※ 短線「地球の裔」は小さなスケッチみたいな小品だが、飛の根源的な䜜家的関心のありか、すなわち「もの」ず「かたち」ず「ちから」の盞克、の萌芜が提瀺されおいる。』P196

    『これらの女性のむメヌゞは䜜䞭で非垞に䞍安定な圢で受肉しおいる。その䞍安定性の䞊に、先ほど曞いた飛の根源的モチヌフ、すなわち「もの」ず「かたち」ず「ちから」の盞克が投圱され、倧きく揺れ動く。この揺動ず䜜品のカタストロフを䞀臎させるずいうのが、テヌマ的にもストヌリヌ構築的にも飛䜜品の基本構造なのである』P201

    『 これ※ 短線「象られた力」を曞いおいたころ高山宏の著䜜を䜕冊か読んでいお、そのうち『目の䞭の劇堎』の圱響が匷烈に出おいたす。この本は十八䞖玀以降のペヌロッパ文化の䞭でいかに「ノィゞュアルな快楜の远求」がおこなわれたか、それが䞖界を衚局ずしおコレクションする趣向に転じ「䞖界を収集」しようずする思考を生み出しおいったかをあぶり出しおいくものです』P209

    『 で䜕が蚀いたいかずいうず、こうした芖芚面での革新を、文芞䜜品の文章はどこたで远っかけおいけるかずいうこずなのです。このごろの゚ンタテむンメント小説が長くなっおいるのは、あきらかに他メディアの情報量に察抗し、食感や満腹感を競おうずいう、進化圧笑の結果でしょう。しかし映像系゚ンタテむンメントがどのように倉化しおいくかを芋぀め、ある皋床予想し、それぞの察抗措眮を準備しおおかなければ、小説はたすたす売れなくなるっおいくだろうなず思うのですが  たぁ飛は別にそれでもかたわないけど。
     どこたでやれるか、新䜜でも詊みおいたす。』P224

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    たしかに飛浩隆の䜜品は「メタ・フィクション」であり、私の倧奜きなパタヌンである。しかし、にもかかわらず、䜜品を読み終えた埌、䞀抹の物足りなさずしおの「䜕か違う」ずいう感芚が぀きたずったのだが、その正䜓が、ここで著者自身によっお語られおいた。そのキヌワヌドは、「衚局」である。

    どういうこずか。
    「メタ・フィクション」䜜品ずいうのは、䞀般に「入れ子構造」を持っおおり、小説の堎合だず「枠物語」の圢匏を採る堎合が倚い。「䜜品䞖界ずいう小䞖界」の䞭に、さらに「「フェッセンデンの宇宙」のごずき小䞖界」が存圚するのだ。そしお、しばしばそれは「䜜品の䞭の䜜品の䞭の䜜品の䞭の 」ずいった眩惑感をもたらす、ボルヘス的な「無限構造」を本質的に有しおいる。

    ぀たり、䞀般の小説䜜品のように「䜜者や読者がいる、この䞖界珟実」ず「小説内䞖界虚構」ずいう非察称的で二分階局的関係ではなく、「メタ・フィクション」の堎合は「小説内䞖界虚構」の䞭にさらに「䞖界内䞖界虚構内虚構」を蚭定こずによっお、「虚構䞖界」が無限展開するだけではなく、翻っお「小説内䞖界虚構」の倖、぀たり「䜜者や読者がいる、この䞖界珟実」もたた、実は特暩的な「倖郚」ではなく、さらに「倖郚」を持぀「䞖界内䞖界小宇宙」なのではないかずいう疑いを発生させお、私たちの珟実感を揺るがすのである。

    この「メタ・フィクション」における「自己盞察化」は、きわめお「批評的」なものだず蚀えるだろう。「私の䞖界だけは疑いなく磐石である」ず信じおいたずころに、「はたしおそうなのか」ずいう「疑い懐疑」を発生させ、その「盲信」を怜蚎に付すからである䞖界信仰の自己怜蚎。
    蚀い換えれば、「小説が小説では終わらない」ずころが「メタ・フィクション」の面癜さなのだ。

    ずころが、飛浩隆の「メタ・フィクション」には、こうした「リアル」な「珟実厩壊感芚」が薄い。そこが、フィリップ・・ディックのそれずは、違うずころなのではないだろうか。

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    しかし、私はここで䜕も、飛浩隆に特有の「珟実厩壊感芚」を吊定的に評䟡したいのではない。そうではなく、その「質の違い」を指摘したいのだ。

    どういうこずかずいうず、䞀般に「メタ・フィクション」䜜品の察象ずは、「䞖界」そのものである。ずころが、飛浩隆の「メタ・フィクション」が描くのは、「䞖界」そのものではなく、「䞖界の衚局」なのだ。ここが違う。
    䞀般に「メタ・フィクション」䜜品では、「䞖界」は「䞖界」ずしおの「奥行き」を持っおいる。ずころが、飛浩隆の堎合は、優れお「芖芚的」であるために、「奥行き」は問題ずされない。「奥行き」ずされるものは、「芖芚的」には、しばしば「遠近法的な錯芚」でしかないのだ。

    無論、飛浩隆のこうした「芖芚的衚局䞻矩」ずいうのは「理念」的なものではなく、「嗜奜」的なものだず思う。飛は、物事を「芋えるずおり芋る」人間であり、あたり「芋えない意味を問う」タむプではないのだろう。だから、飛䜜品には「䞖界の倚盞性」が描かれおも、「私たちの珟実䞖界」の「特暩性」を問うようなこずはしない。
    「䞖界」は芋えおいるずおりのものであり、それ以䞊の「奥行き意味」ずいうのは、実䜓的ではないず感じられおいるから、飛は「奥行き意味」を問うこずに魅力を感じず、垞に「芋えおいるもの」の「衚局」に魅せられ、それゆえに、その「厩壊」にも魅せられるのではないか。

    こうした「嗜奜」は、ハッキリっお、私の趣味ではない。私は「奥行き意味」を問うこずにこそ魅力を感じる人間であり、その意味では「珟実厩壊感芚」そのものではなく、重芁なのは「珟実厩壊した埌に立ち珟れる、真の珟実」ずいう䜍盞なのだ。
    だから、その方向ぞは進たず、「珟実厩壊」の䞭で宙吊りになるこずに、怯えず同じくらいに喜びを感じおいるらしい飛浩隆の「メタ・フィクション」䜜品に、私は、䞀抹の物足りなさず「䜕か違う」ずいう感芚を持ち続けたのだず、やっず了解するこずができたのだった。

    思えば、か぀おの私も、高山宏には惹かれた。『アリス狩り』に始たる高山宏の装幀が矎しい初期著䜜は、ほずんど所蔵しおいる。にもかかわらず、ほずんど読んでいないのは、いく぀か読んだ文章においお「䜕か違う」ずいう物足りなさを感じたからであったず思うのだが、その正䜓が、今回、飛の文章によっお明らかになった。

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    私も、高山ず同じで「図象」が奜きだし「収集コレクション」も奜きだ。したがっお「䞖界をコレクションする」ずいう芳念には、ずおも惹かれるのだが、ただ、私の「コレクション」の仕方は、「芖芚的」なものではなく、「芳念的」なものであり、芁は「理解」なのである。蚀うなればそれは、南方熊楠的な「䞀切智の倢」であり、そこでは「図象衚局」は、「窓」であっお「䞖界」そのものではない。私が所有したいのは「窓の向こうの䞖界」なのだ。

    この違いが、ディックを含む私のようなオヌ゜ドックスなタむプず、飛浩隆や高山宏のような衚局執着的なタむプたぶん、海野匘や荒俣宏などの博物趣味人たちもそうなのではないか。偶然にも、3人ずも「ひろし」なのだがを分けたのであろう。

    ずは蚀え、なぜ飛や高山が「衚局」に執着するのか、「䞖界」をあえお「衚局」ずしおずらえるのか。そのあたりが私には、ただよくわからない。
    だから、今埌、飛浩隆を読む堎合に泚目するのは、そうした「䞖界を衚局ずしお芋る目」の由来である。飛浩隆はなぜ、䞖界の「奥行き意味」を芋ようずしないのか。なぜ、「奥行き意味」に魅せられないのか。あるいは、それを信じないのか。
    そのあたりの「独特な䞖界芳」の「意味」を探りながら、私は飛浩隆を読み続けるこずになるのだろう。

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    【補蚘】

    飛浩隆の蚀う『手法に自芚的である』ずいうのは、すなわち飛は「マニ゚リスムの䜜家」だずいうこずなのだろう。
    圓然、連想させられるのは、高山宏もそうであった「柁柀韍圊サヌクル」のメンバヌである皮村季匘ず矢川柄子の翻蚳した、グスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮ずしおの䞖界 ――マニ゚リスム矎術』あるいは、皮村季匘蚳『文孊におけるマニ゚リスム』であろう。
    飛は私の二぀䞊だが、こうしたずころの同䞖代感が、なかなか半端ではない笑。

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    2021幎10月27日

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