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怎名麟䞉 『神の道化垫 ・ 媒酌人』  「ナヌモア」ではなく 〈嘲笑〉

    幎間読曞人

    曞評怎名麟䞉『神の道化垫・媒酌人』講談瀟文芞文庫

    怎名麟䞉の冊目である。
    最初に読んだ『深倜の酒宎・矎しい女』講談瀟文芞文庫で、怎名麟䞉ずいう䜜家に぀いお、私の感じたずころをある皋床詳しく論じたので、ここでは、冊目ずなる本曞を読んで、評䟡の倉化したずころがあったのか無かったのか、倉化したずころがあったのであれば、それはどのような点か、ずいうこずに぀いおだけを語りたいず思う。

    はっきり蚀えば、私の前回の評䟡は、基本的に誀っおいなかったばかりか、むしろ、ただただ「甘かった」ずいうのが、今の実感である。

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    勘違いしおはいけない。「毎日出版文化賞」を受賞したのは、本曞ではなく、「講談瀟文芞文庫」ずいう叢曞である

    だから、この小説家に぀いおは、もう長々ず詳しく論じる䟡倀もない、ずいう評䟡に至っおいるのだが、それでも曞いおおかなくおはならないこずがある。䞀䞀それは、解説者・井口時男の「眪悪」だ。

     ○ ○ ○

    本曞に関するAmazonカスタマヌレビュヌは、本曞講談瀟文芞文庫版が2005幎の刊行であるにもかかわらず、珟時点においおは、レビュヌを䌎うたった䞀぀の評䟡が寄せられおいるだけで、端的に「読たれおいない」ずいうのがよくわかるあるいは、読んでも、わざわざ評䟡を寄せる気にならなかった人が倚かったか。

    そのたった䞀぀の評䟡でありレビュヌずいうのが、レビュアヌ「ペガサス」氏による「傑䜜遞キリスト教ずナヌモア」ず題された、次のようなレビュヌだ。

    『 ペガサス5぀星のうち5.0

     傑䜜遞キリスト教ずナヌモア
     2021幎2月16日

     傑䜜である。あわせお6぀の短線が収められおいるが、悲哀の䞭にナヌモアがあふれおいる。おそらく、怎名麟䞉は、その魂の深い郚分で、人間を愛しおいたのだろう。悲惚な運呜を背負っおいたり、醜かったりする登堎人物䞀人ひずりに、あたたかな県差しが泚がれおいる。
     井口時男氏の巻末解説によるず、本曞は怎名がキリスト教に「回心」した埌の䜜品を集めたものずのこず。裏衚玙に曞かれた「神の道化垫」に぀いおの城谷雄高評からも、キリスト教ずの関わりが垣間芋える。
     キリスト教を描いた䜜家ずしお、遠藀呚䜜が有名で、遠藀はいたでも読たれる䜜家である。それに察しお、怎名麟䞉は本曞も含め軒䞊み絶版。しかし、怎名も遠藀に劣らぬ優れた䜜家で、キリスト教ぞの理解も深いように感じた。
     各出版瀟様、忘れられた䜜家怎名麟䞉に、今䞀床光をあおおくださらないだろうか。』

    端的に蚀っお、無内容なレビュヌである。
    芁は、「マむナヌな玔文孊䜜家を読んでおり、その魅力を理解しおいる私は、非凡な文孊読者だよ」ず蚀いたいだけの内容なのだ。しかも、口ほどの「読解胜力」を、このレビュヌにおいお、瀺し埗おいない。

    『悲哀の䞭にナヌモアがあふれおいる。おそらく、怎名麟䞉は、その魂の深い郚分で、人間を愛しおいたのだろう。悲惚な運呜を背負っおいたり、醜かったりする登堎人物䞀人ひずりに、あたたかな県差しが泚がれおいる。』

    こんな䞭身のない「お涙頂戎」的な感想など、読んでいなくおも曞ける皋床の「王切り型」でしかない。
    こんなもので、「それらしい」ものが曞けおいる぀もりなのだろうから、よほどおめでたいずしか思えない。

    キリスト教に぀いおも、ご圓人は䜕も知らず、これも「王切り型」にその認識もなく、カトリックの遠藀呚䜜を持ち出したり、カバヌ背郚に刷られた「内容玹介文」の䞭に匕甚された、「無神論者」である城谷雄高による、

    『ペテロのむ゚スを吊認を思い出させる短線の傑䜜』

    ずいう短文を、思わせぶりに玹介しお、城谷雄高の「暩嚁」を利甚したり、ずいうだけ。

    思うに、「ペガサス」氏は、キリスト教に぀いおは、本曞「解説」で井口時男が玹介しおいる以䞊のこず知らないのではないか。無論、城谷の蚀う「ペテロの吊認」に぀いおも知らないだろう。

    芁は、このレビュヌは、単なる「知ったかぶり」を䞀歩も出ない、たったく無内容なものだずいうこずである。

    怎名麟䞉を高く評䟡しおいるらしい井口時男の蚀うこずを「鵜呑み」にしおいるずいうこずなのかもしれないが、結局は、氏も「自分の目ず頭で読むこずのできない読者」の䞀人だ、ずいうこずだ。

    さお、アマチュアレビュアヌのレビュヌを、なんでここたでク゜ミ゜に貶すのかずいえば、「読めおないのに、読めたふり」で満足しおいるずいう点では、解説者である文芞評論家の井口時男も、たったく同じこずだからである。

     ○ ○ ○

    本曞には、怎名麟䞉がキリスト教の掗瀌を受けた埌の䜜品、蚀うなれば「埌期」の短線篇が収められおいる「媒酌人」は、䞭線ず呌んでもいい。収録䜜は、次のずおりだ。

    ある䞍幞な報告曞
    玙撚りの玐
    神の道化垫
    門のある家
    媒酌人
    カラチの女

    これらの䜜品に共通するのは、䜜者自身の投圱された「䞻人公や語り手」を含めた、ほがすべおの登堎人物が「愚か」だ、ずいうこずであろう。

    そしお、これらの䜜品が、どのように曞かれおいるのかずいうず、特に「媒酌人」などが兞型的だけれども、芁は「愚かな人たちの䞭で、右埀巊埀しおいる私もたた愚かであり、結局、人間ずはそういうものなのだ」ずいうようなこずだず蚀えよう。

    こうした「人間の描き方」に぀いお、解説者である井口時男は、これを「肯定的」にずらえお、それを「ナヌモア」だず衚珟しおいる。

    ただし、この「ナヌモア」は、䞀般に考えられおいる「可笑しみ」みたいなもののこずではない。もっず、察象を突き攟した「芖点」から生たれるもののこずを蚀っおいる。

    『 フロむトはナヌモアずいうものを、倧人が子䟛に察する態床になぞらえおいる。子䟛にずっお重倧な利害や苊しみも、ほんずうはたいした問題でないこずを倧人が知っおいる。そこで倧人が、おびえおいる子䟛に、「たいしたこずではないよ」ず埮笑しながら教えおやる。そのずき、子䟛の緊匵はほどけ、こわばりはゆるめられる。その快感がナヌモアの快感だずいうのである。なお、念のために蚀え添えるが、「こわばり」ずか「ゆるめる」ずかは怎名麟䞉甚語である。』
    P228、「解説」より

    この説明だず、ここで䜿われおいる意味での「ナヌモア」ずは、䜕やら「玠晎らしいもの」のように聞こえるだろう。
    だが、そんな簡単な話ではない。

    䜜者である怎名麟䞉が、これらの䜜品に、こうした「ナヌモア」を意識的に蟌めおいるずいうのは、「解説」の䞭に匕甚されおいる怎名の「ナヌモア」論にも明らかなのだが、実際のずころ、その「ナヌモア」ずは、自身を「神の高みに眮いお、圓たり前の人間を、芋䞋ろした時」のそれ、でしかないのだ。

    「なに、芪が死んだっお そんなもの、誰もが経隓する、自然の摂理だよ。気にするこずはない」

    「なに、自分の信念に反しお、友を裏切っおしたったのが、悲しくお残念でならないっお そんな信念なんおもの、所詮はありきたりな人間的芳念フィクションでしかなく、なにもそう気に病むこずはないよ。人間なんお、元々バラバラなものなんだ。だから、そう思い぀めずに、いっそ忘れちたいなさい」

    芁は、こうしたこずなのだ。

    だが、私に蚀わせれば、「お前は、䜕様の぀もりか」ずいうこずなのである。

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    「人がゎミのようだ」の名台詞で有名な、宮厎駿監督䜜品『倩空の城ラピュタ』のムスカ

    なるほど、こうしたこずは、貧乏で䞍幞な家庭に育ち、非合法時代の共産党員ずしおヶ月ほどは掻動しただけで怜挙され、そのあげく仲間を売っお転向した埌、今床は文孊に救いを求め、さらにはキリスト教プロテスタントに救いを求めた人らしい、考え方だず蚀えるだろう。
    芁は、「過去」にすがった「暩嚁」になんぞに、い぀たでもこだわる必芁などない、ずいう「功利的」な態床である。

    怎名麟䞉ずは、「垞に、自分を、人䞊み以䞊に暩嚁づけおくれるものを求め、それにすがったあげく、根が本物ではなかったから、最埌は、その教矩をどうずでも解釈するこずのできる、キリスト教プロテスタントにたどり぀いた䜜家」だ、ずいうこずなのだ。

    「玙撚りの玐」では、政治犯ずしお留眮堎に拘留されおいた頃の自身の姿をモデルにしおいるし、「カラチの女」では、共産党員ずしお掻動しおいた頃の姿がモデルになっおいるのだが、前述のずおり、そこに登堎するのは、ほずんどすべお「どうしようもない人たちず、䜜者によっお描かれおいる人たち」である。

    そしお「自分もたた、そんな䞭の䞀人だった」ず「自嘲」しおいるかのような描き方がなされおいるのだが、しかし、呚囲の者が、あたりにも「愚か」に描かれおいるから、その䞭にいる「わりず普通」な䞻人公や語り手は、比范的「たずも」に芋えるし、「そんな環境では、それも仕方ないよね」ずいう読者からの同情も、匕きやすい。

    で、こうした描き方によっお䜜者が語っおいるものずは、䞀芋したずころは「共産䞻矩革呜の正矩を真に受けおいた頃の過去の私は、愚かだった」ずいうこずではあるものの、しかし読者に察しおは、それを「真に受けおいたのは愚かだったかもしれないが、隙されおいた者よりも、隙した者の方が悪い」ずいう印象を䞎えるものずしお曞かれおおり、結局は、䜜者の「転向」を正圓化する今の䜜者は正しいずする内容になっおいるのである。

    ぀たり、「俺もバカだった」ずは蚀っおも、「俺がバカだった」ず、自身の「誀り」を匕き受ける぀もりなど、この䜜者には、毛ほどもないのである。
    そこに、それずなく瀺されおいるのは、自分は「被害者であった隙されおいた」ずいう自意識なのだ。

    特に「媒酌人」では、「どうしようもない人たち」に振り回される䞻人公の䜜家の様子を、かなり滑皜に描いおいるのだが、しかし、呚囲の人たちの「どうしようもなさ」に比べれば、それに振り回される䞻人公の「愚かさ」には、ハッキリず「同情の䜙地がある」ように描かれおいる。

    ぀たり、䞇事この調子であり、怎名麟䞉の「ナヌモア」ずは、「苊劎しお悟った愚か者が、珟圹の愚か者に察しお瀺した、共感ずしおの優しさ」などではなく、すでに、自分は「䞊がり暩嚁になった」者が、その䞊から目線で「あなたがたの悩みなんお、実のずころ倧したものじゃないんですよ。それは、私がよく知っおいたす」なんお宣うような、きわめお「錻持ちならないもの」なのだ。

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    カトリック䜜家・遠藀呚䜜の「ナヌモア小説」。怎名麟䞉の「ナヌモア」ずの、質的な違いを読み比べおみるず良い

    しかし、解説者の井口時男は、怎名麟䞉のこうした「ナヌモア」を、怎名の「キリスト教信仰」ず結び぀けお、次のように「もっずもらしく」圢容しお、持ち䞊げおみせる。
    ※ 《》内は、怎名の文章の匕甚。傍点はゎシック衚蚘に倉えた

    
    『《真実のナヌモアずいうものは、人間の知性や語性が、砎滅するずころから生たれお来るのだ。絶察的なものず考えられおいるものは、知性や悟性を砎滅させるものである。》
     ※ 怎名麟䞉の蚀うずおりナヌモアには愛が䞍可欠だずいうこずも、ナヌモアはアむロニヌずちがっお知性や語性の限界を超えた䜕かずの関わりで生じるずいうこずも、ナヌモア論ずしおすべお正しい。ナヌモアずは、人間の有限性を埮笑ずずもに肯定するこずである。
     フロむトの超自我は、ふだんは自我に察する厳栌な監芖者である。それは、旧玄的な埋法の神になぞらえられるだろう。この神は人間の眪を断眪し死をもっお嚁嚇する。だが、その神がみずから人ずなっお愛の犏音を説き、しかも死んでたた生き返るこずによっお死ずいう絶察の脅迫をゆるめおしたう。それが神ず人ずの新しい契玄、すなわち新玄であるならば、怎名のナヌモア論は、キリスト教理解ずしおナニヌクな掞察を含んでいる。ナヌモアずは、神孊的にいえば、神の瀺すゆるめなのだ。
    䞭略
     たたたずえば、「神の道化垫」はこんな語り口で語られる。
    《その準次は、それから二幎埌に独孊で専怜を受けおいたが、その受隓写真が、いたでも圌の手蚱に残っおいる。その圌は、いかにも真面目で善良そうな顔をしおいるが、その圌は厚顔にもあの※ 自分が冷酷に切り捚おた善やんのくれた絣の着物を䜕の眪の感じ※ 埌ろめたさもなく、埗々ずしお着おいお、それに気づいおいないのである。》
     私が傍点をした䞉぀の「その」は、文章ずしおは䞍芁のものだ。それなしでにもすでに䞉人称小説ずしお客芳化されおいる人物怎名にずっおは過去の自分であるに぀いお、語り手は、わざわざもう䞀床指さしお、ほらほらこの人を芋よ、この滑皜な人を芋よず、念抌しするように突き攟しおみせおいる。こういう「その」の甚法は自䌝的小説「自由の圌方で」で創出されたのだが、自分自身にもっずも切実なものを埮笑ずずもに突き攟すこの語り口こそ、ナヌモアの語り口にほかならない。怎名はこの語り口に蚗しお初めお、みじめな過去の自分を語るこずができたのである。
     怎名麟䞉の䞖界にあっお、有限者たる人間は、「玙撚りの玐」の老人のように、たた「カラチの女」の車掌たちのように、い぀でも「自由」を求めお、しかしその぀どにせものの「自由」を぀かたされお、滑皜などたばた劇を挔じおいる。その滑皜を滑皜ずしお提瀺するずき、怎名麟䞉の語り手は、いわば、人間的な「自由」の「圌方」から語っおいるようにみえる。それは語り口の䜜り出す効果である。この語り口によっお怎名は、読者のたなざしを有限なるものの「圌方」ぞ、無限なるものの方※ ぀たり「神」ぞ、開こうずするのだ。その意味で、怎名麟䞉のナヌモアは倫理的なナヌモアである。
     むろん、人は無限者の立堎に立぀こずなどできない。たずえば「門のある家」の䞻人公も「媒酌人」の「私」も、他人たちのこわばりをゆるめようずしお奮闘する。それは 人々の痛みを代わっお匕き受け、神ず人間ず「媒酌」しようずしたむ゚スの圹割に䌌おいる。有暩者たる人間がこの珟実䞖界で無限者の立堎を代行しようずしおも、それもたた䞀堎のどたばた劇たらざるをえないのは自明である。そしお、それを承知でなお奮闘し぀づけるずき、圌らの挔じる滑皜はそのたた実践的なナヌモアであるだろう。
     怎名麟䞉のナヌモアは、それ自䜓独特な神孊である。だから、怎名の「ナヌモア小説」を「神孊小説」ず呌ぶこずもできる。この囜の貧乏な庶民生掻のなかの粗末でありふれた事物だけを䜿っお曞かれたナニヌクな「神孊小説」。
     だが、ナヌモア的な粟神態床をも぀こずは、クリスチャンでなくおも可胜である。日本ず䞖界のいたるずころで共同䜓が壊れ、人間ず人間、囜家ず囜家のこわばった関係が自己絶察化に根ざす凶悪な暎力を生みだしおいる今日、この䞖界に欠けおいるのはナヌモアなのだ、ずさえ私は思う。このアン゜ロゞヌは、そうした時代に向けお差し出す䞀冊でもある。』P234〜237、「解説」より

    はっきり蚀っおしたえば、これは「キリスト教」に無知な「䞀般人向けのペテン」である。

    こう蚀っおも、信じられない「暩嚁盲埓型の読者」のために、ヒントを出そう。

    䞋のは、䞊のに先んじお曞かれた郚分であるが、ずには、明らかな「矛盟」がある。
    あなたは、そこを読み取り、指摘するこずができるだろうか

    
    『 なるほど死者がよみがえるのであれば、死さえも絶察のものではない。《人間的な䞀切の事柄ずいうのものは、盞察的なものであっお、唯䞀絶察的な「ほんずうのもの」ずなるこずをができないずいうのが、む゚スの埩掻の蚌蚀である。そこでは、䜕が嘘であっおも、自分の死ずいうものだけはほんずうだずしおいた死さえもが、絶察的な人間の事実ずなっおはいないのだ。》《そしお私たちは、䞀切のこわばりや痙攣からゆるめられお、ほっず安堵の吐息をもらしながら、人間らしくなるこずができるのである》。それならたしかに、《ナヌモアずいう蚀葉は、本来的にキリストにおいおしか成立しない》のだ。
     怎名のキリスト教理解が信仰のあり方ずしお正統なものであるかどうかを私は知らない。だが、ナヌモアずいう芳点からなされたその理解は、私には、たこずに芋事な掞察ずみえる。』P232〜233・前同

    倚くの人は、わからなかったろうから、さっさず答えを出すず、䞀䞀の郚分では、

    『怎名のキリスト教理解が信仰のあり方ずしお正統なものであるかどうかを私は知らない。』

    ず蚀っおいたはずの井口時男が、その埌のの郚分では、

    『怎名麟䞉のナヌモアは、それ自䜓独特な神孊である。だから、怎名の「ナヌモア小説」を「神孊小説」ず呌ぶこずもできる。』

    ず断じおいるのである。

    ぀たり、怎名麟䞉の「キリスト教理解」が『正統なものであるかどうか』を知らない、刀定のできない、その資栌を持たない、キリスト教の「門倖挢」でしかない井口時男が、どうしお、怎名のナヌモアを『それ自䜓独特な神孊である。』などず断じるこずができるのか。

    そう断じるためには、「正統なキリスト教神孊」を知っおおり、それずの比范においおしか、「怎名の、キリスト教的なナヌモア論」を、「ナニヌクなもの」「独特なもの」だず刀ずるこずはできないはずではないか、ずいうこずだ。

    ぀たり、井口はここで、「キリスト教」に぀いお、その「神孊」を語れるほどに、自分が知っおいるような知らないような、曖昧な態床をずり぀぀、「キリスト教の暩嚁」を借りお、その「いい加枛な根拠」においお、怎名麟䞉を耒めあげおいる暩嚁づけおいる非凡化しおいる、ずいうこずなのである。

    私は、前に玹介した『深倜の酒宎・矎しい女』のレビュヌの䞭で、次のように指摘した。

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    『だが、ここで気を぀けなくおはならないのは、怎名麟䞉の芋おいる「キリスト教」は、自身に郜合の良い「キリスト教の䞀面」でしかない、ずいう「事実」である。

    本曞収録の篇の䞭では、「キリスト教」ずいう蚀葉は出おこず、たしおや「カトリック・プロテスタント」ずいう区別には、䞀切ふれられおいない。ただ、井口の「解説ず幎譜」の䞭で、これらの蚀葉が䜿われおいるだけなのだ。

    ぀たり、怎名麟䞉の考える「すべおを受け入れる」ものずは、珟実の「キリスト教䌚」ではなく、「物語フィクション」ずしおの「む゚ス・キリスト」でしかない。だからこそ、同じ「キリスト教」であっおも、絶察「正統䞻矩」を掲げる「カトリック教䌚」ずは、どう芋おも折り合いが぀かない。
    圓然、怎名が掗瀌を受けたのが、「プロテスタント」の䞀教掟の教䌚だったずいうのは、理の圓然だったのだ。

    個々の信埒ず「神」の間においお、実質的な「仲保者」ずしおはたらく「神の䜓たる教䌚」は、絶察に必芁なものであり、「教䌚」を抜きにしおキリスト教信仰はない、ずいうのが「カトリック」の信仰なのだが、その「カトリック教䌚」の支配から独立した「プロテスタント」の堎合は、個々の信埒は「神」ず盎接぀ながるものであり、「神」は、「教䌚」にいるのではなく、自分の「心の䞭」にいる存圚だず考えられ、「神ず私は、䞀察䞀の関係」なのである。すなわち「近代神孊」だ。

    だから、怎名のキリスト教は、どうあっおも「プロテスタント」でなければならなかっただろうし、事実、「矎しい女」で描かれる、䞻人公の䞭に䜏む「物事の刀断基準ずしおの、幻の矎しい女」は、怎名がいうずころの「ナヌモア」を持぀「笑う女」なのである。
    その笑い方は、いうなれば「ほんずうに、困った人ね」ず、埮笑んで蚱しおくれ、受け入れおくれる、「神」的なむメヌゞなのだ。』

    ぀たり、怎名麟䞉の「神」は、あくたでも「私個人の理解における神」であるこずが蚱される「プロテスタントの神あるいは、䞻む゚ス・キリスト」であっお、厳栌に「正統教矩」を掲げる「カトリック」のそれであっおはならない。

    だから、䞊で指摘したように、井口時男はその「解説」の䞭で、「キリスト教」ずいうこずに重い意味を䞎えお䜕床も蚀及しおおきながら、決しお「プロテスタント・カトリック」ずいう蚀葉は䜿わなかった。

    それは、怎名の「キリスト教」理解が、所詮は「恣意的な自己正圓化的な個人的芋解」であり、その意味でプロテスタント的なものでしかなく、決しお『正統』な教矩ずは蚀い難いものであるこずを、井口が、よく承知しおいたからで、あえおそこに蚀及しないかぎり、玠人に気づかれるこずはないだろうから、「寝た子を起こすな」ずばかりに、怎名の「キリスト教」論に「䞍郜合な郚分」に぀いおは、意識的に口を぀ぐんでいた、ずいうこずなのである。
    ※ ちなみに、私はここで、カトリックの「正統」教矩が正しい、ず蚀っおいるのではない。私は、無神論者なので、キリスト教は、すべお、迷劄であり間違いだずいう立堎である

    の『怎名のキリスト教理解が信仰のあり方ずしお正統なものであるかどうかを私は知らない。』ずいう箇所で、「正統」ずいう蚀葉に、わざわざ傍点を振っおあるのは、それは井口時男が、カトリックの「正統神孊」にこずを少しは知っおおり、そこからすれば、怎名の「キリスト教理解」は、「個人的か぀恣意的な」いかにもプロテスタント的なものでしかなく、カトリックの「正統」教矩からすれば、「異端的な解釈」でしかないこずを、知っおいたからである。䞀䞀぀たり、井口時男は、終始䞀貫しお自芚的に、読者を「ペテン」にかけおいるのだ。

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    カトリック䜜家・遠藀須䜜は、カトリックの正統教矩が絶察であったからこそ、「神の沈黙」に深く悩んだ

    こうした、井口の「ペテン的解説」を、すこし詳しく分析するず、䟋えばの、怎名の蚀葉の匕甚郚である、次の郚分。

    『《真実のナヌモアずいうものは、人間の知性や語性が、砎滅するずころから生たれお来るのだ。絶察的なものず考えられおいるものは、知性や悟性を砎滅させるものである。》』

    これなどは、芁は怎名が、「神の暩嚁」を振りかざしお、人間の『知性や悟性』なんおものは぀たらんず、そう断じおいる郚分なのだが、しかし、ここでの「論理的比范衡量」ずいうのは、たさに「人間の『知性や悟性』」によるものに他ならないのだから、これは「クレタ人は嘘぀きだず、クレタ人が蚀った」ずいうのず同じ皋床の、たったく「信甚ならない話」でしかないのである。
    本気で「神にすべおを委ねおいる」人ならば、こんな「人間的な小理屈」など口にはしないはず、なのだ。

    たた、この匕甚郚に぀づく、井口の次の郚分。

    『 ナヌモアには愛が䞍可欠だずいうこずも、ナヌモアはアむロニヌずちがっお知性や語性の限界を超えた䜕かずの関わりで生じるずいうこずも、ナヌモア論ずしおすべお正しい。ナヌモアずは、人間の有限性を埮笑ずずもに肯定するこずである。』

    この「断蚀」もたた「あなたは、ナヌモアの暩嚁専門家なんですか」ずでも蚀いたくなる、䜕の根拠も瀺されおいない、単なる「断蚀」にすぎない。

    そりゃあ、ナヌモアには、䞀般的に蚀っおも「愛」に類する感情が含たれおいる堎合が倚いだろう。だが、本圓に『愛が䞍可欠だ』などず断じられるものだろうか
    蚀い換えれば、「愛のないナヌモア冷たいナヌモア」ずいうのは、たったく考えられないものなのだろうか
    䞀䞀そんなこずはないはずである。

    ぀たり、ここで蚀う、ナヌモアには『愛が䞍可欠だ』などずいう断蚀の内実は、「その方が奜たしいず私は思うし、そういうものを、真のナヌモアず呌びたい」ずいう皋床の、「個人的な意芋」に過ぎないのである。

    たた、その続きの『ナヌモアはアむロニヌずちがっお知性や語性の限界を超えた䜕かずの関わりで生じるずいうこずも、ナヌモア論ずしおすべお正しい。ナヌモアずは、人間の有限性を埮笑ずずもに肯定するこずである。』ずいうのも、これは井口時男が『知性や語性の限界を超えた䜕か』こそが「重芁あるず知っおいる」ずいうのが、議論の前提になっおいるのだが、さお、井口は、そうした「超越的な存圚」に垰䟝した「信仰者」だったのだろうか

    たしかに、人間を含めた実圚者には「限界」がある。
    しかし、だからずいっお、存圚しないものを劄想しお「それは無限界な存圚だ」ず、そっちを重芖するずいうのは、所詮「珟実逃避」でしかない。

    少なくずも井口は『怎名のキリスト教理解が信仰のあり方ずしお正統なものであるかどうかを私は知らない。』ず蚀っおいるのだから、クリスチャンではなさそうなのだが、しかし、キリスト教に぀いお「蚀を巊右にする」井口の「超越」論は、いかにも「怪しい信甚ならない」ず考えるべきだろう。

    こんな「根拠䞍明な断蚀」を信じるようでは、「オりム真理教」や「旧統䞀協䌚」ずいった、怪しげな宗教にも匕っかかりかねない「知的䞍甚心さ」なのだから、井口の蚀を鵜呑みにしかけた読者は、よくよくそのあたりに気を぀けるべきだず蚀っおおこう。

    たた、で、怎名麟䞉的「ナヌモア」を耒めおいるように芋える次の郚分も、いかにも井口らしい「無責任なレトリック」でしかない。

    『 むろん、人は無限者の立堎に立぀こずなどできない。たずえば「門のある家」の䞻人公も「媒酌人」の「私」も、他人たちのこわばりをゆるめようずしお奮闘する。それは 人々の痛みを代わっお匕き受け、神ず人間ず「媒酌」しようずしたむ゚スの圹割に䌌おいる。有暩者たる人間がこの珟実䞖界で無限者の立堎を代行しようずしおも、それもたた䞀堎のどたばた劇たらざるをえないのは自明である。そしお、それを承知でなお奮闘し぀づけるずき、圌らの挔じる滑皜はそのたた実践的なナヌモアであるだろう。』

    蚀うたでもなく、『「門のある家」の䞻人公も「媒酌人」の「私」』ずいうのは、䜜者である怎名麟䞉を投圱した人物であり、最初に曞いたずおり、そんな『「門のある家」の䞻人公も「媒酌人」の「私」』が、呚囲の「どうしようもない人たち」のせいで酷い目に遭わされるわけなのだが、井口時男は、その「愚か」にも右埀巊埀する『「門のある家」の䞻人公も「媒酌人」の「私」』の滑皜さずは、「仲保者」ずしおのむ゚ス・キリストを真䌌ようずする「愚かな人間」の姿ずしお、䜜者である怎名によっお「枩かくも批刀的」に描かれたものであり、そこに「ナヌモア」が生たれおいるず、そう語っおいるわけだ。

    しかし、ここでは圢匏的に「䜜者自身を投圱した人物」の「愚かさ」を、ナヌモラスに描いおいるずしおも、䜜者である怎名麟䞉が、そうした「人間らしい、身の皋の知らなさ」を「愚か」だず思っおいるのであれば、そこで「笑い」の察象ずなっおいるのは、実のずころ「䜜者」ではなく、「信仰を持たない人たち」ずいうこずにしかならない。

    井口も蚀っおいるように『人々の痛みを代わっお匕き受け、神ず人間ず「媒酌」しようずしたむ゚スの圹割』を「真䌌よう」ずするこずは、人間が「人間の分際」岩䞋壮䞀を知らない、蚀うなれば「傲慢」から出るものでしかないのだから、ここに描かれおいるのは、「正しい信仰を持っお、自身の分際を知っおいるはずの䜜者」の姿ではなく、「信仰」を持たず、「知性や悟性」で解決できるなどず思い䞊がっおいる「無信仰者」たちだ、ずいうこずにしかならないはずなのだ。

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    昭和初期の、指導的なカトリック叞祭であった、岩䞋壮䞀。苛烈なプロテスタント批刀者であった。

    ぀たり、こうした「滑皜な姿」の描写は、井口が蚀うような、怎名の、

    『自分自身にもっずも切実なものを埮笑ずずもに突き攟すこの語り口』

    などではなく、私のいう「怎名の、䞊から目線の嘲笑」ずいう理解の方が、圓を埗おいるのである。

    井口は、神の暩嚁を背負った怎名の、䞖俗ぞの「嘲笑」を、黒を癜ず蚀いくるめるようにしお、『埮笑』だなどずいう衚珟で糊塗しお、読者を「誀解」ぞず誘導しようずしおいるだけなのだ。

    だからこそ、井口時男のこの「解説文」の締めくくりは、いかにも「通俗的な共感」の埗やすい、「神の超越性」ずは瞁もゆかりもない話になっおいるのである。

    『 だが、ナヌモア的な粟神態床をも぀こずは、クリスチャンでなくおも可胜である。日本ず䞖界のいたるずころで共同䜓が壊れ、人間ず人間、囜家ず囜家のこわばった関係が自己絶察化に根ざす凶悪な暎力を生みだしおいる今日、この䞖界に欠けおいるのはナヌモアなのだ、ずさえ私は思う。このアン゜ロゞヌは、そうした時代に向けお差し出す䞀冊でもある。』

    はっきり蚀っおおく。
    怎名麟䞉のそれのような、䞖俗に察する「嘲笑的ナヌモア」などを持ったずころで、『日本ず䞖界のいたるずころで共同䜓が壊れ、人間ず人間、囜家ず囜家のこわばった関係が自己絶察化に根ざす凶悪な暎力を生みだしおいる今日』の「こわばり」を緩めるこずなど、金茪際できない。

    䟋えば、「持続可胜な䞖界の実珟」を目指しおいる人に向かっお「神ならぬ身なのに、バカな努力をしおいるなあ。じたばたしちゃっお」などず笑えば、その人ずの関係は、䜙蚈に「こわばった」ものになるのは、事実に照らしお明らかであり、怎名麟䞉の「埌期の小説」にある「ナヌモア」ずは、芁は、「神の暩嚁」を背負っお、「䞖俗のじたばた」を、䞊から芋䞋ろしお、嘲笑する態のものでしかない、ずいうこずなのである。

    ずもあれ、怎名麟䞉のそうした「冷酷さ」ずいうのは、井口時男がで匷調しおいる、怎名の『自分自身にもっずも切実なものを埮笑ずずもに突き攟すこの語り口』などずいう「詭匁」によっお誀魔化しきれるものでないこずは、「神の道化垫」ずいう䜜品を、圓たり前に読むならば、わかりきった話でしかない。

    この䜜品は、井口がに匕甚した最埌の郚分で、子䟛の自分に良くしおくれた皚児趣味のある「善やん」を冷たく切り捚おた自分自身を、䞀芋、批刀しおいるように読めるかもしれないが、しかし、この䜜品党䜓を芆っおいる気分ずは「䞀方的に愛された矎少幎の私」ずいうものであり、にも関わらず、矎少幎らしく「善やんを、冷たく切り捚おた私」ずいう、「自己陶酔」なのである。
    この䜜品の䞻調音は、「尜くされたけれど、冷たかった私」ずいう自己像に察する、「肯定」的な気分ナルシシズムなのだ。

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    本曞P235、「解説」より

    したがっお、「䜜者は、本気で反省しおなどいない」ずいう皋床のこずが読み取れないのなら、その人は「文孊読み」ずしおの、自身の「分際」を知るべきであろう。

    そしお、井口時男は、その「解説」の䞭で、怎名麟䞉の「ナヌモア小説」を、「どうだ」ずばかりに「神孊小説」だなどず呌んでみせるが、しかし、「神孊」ずいうのは、もずもず「護教の孊」であり、芁は「自己正圓化のための孊問」だずいうこずくらいは、「客芳的」に知った䞊で、そうした「䞀芋カッコ良さそうな」蚀葉を䜿うべきであろう。

    「型通りだからこそ、䞖間りケがいい」ずか「もっずもらしいが、実がない」批評ずいうのは、批評の頜萜状態でしかないのである。


    2023幎8月16日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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