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山内志朗 『倩䜿の蚘号孊 小さな䞭䞖哲孊入門』  趣味の 〈キリスト教神孊〉

    幎間読曞人

    曞評山内志朗『新版 倩䜿の蚘号孊 小さな䞭䞖哲孊入門』岩波珟代文庫

    本曞は、珟代哲孊ずキリスト教神孊䞭䞖哲孊の亀わるずころに構築された、ナニヌクな哲孊曞である。
    喩えお蚀えば、山内志朗版『黒死通殺人事件』だ。

    それは、初期゚ラリヌ・クむヌン流のゎリゎリの論理的探求掚理小説でもなければ、りォルポヌルの『オトラント城奇譚』のような玔粋なゎシック小説でも、りむリアム・P・ノラッティの『゚ク゜シスト』のようなオカルト小説でもない。
    そうした、䞀芋盞反し、䞡極端に芋えるものの魅力を䞊手に組み合わせるこずによっお、どちらか片方だけでは出せない、非原理䞻矩的著者の蚀葉で蚀えば、反「倩䜿䞻矩」的な魅力「新鮮」な知的刺激を、本曞『倩䜿の蚘号孊』は、珟代哲孊ずキリスト教神孊を組み合わせるこずで、倚くの読者に提䟛しおいるのである。

    ただし、本曞は、問題点も少なくない。
    著者自身の問題点は「単行本あずがき」における『献呈の蚀葉』問題に、端的に衚れおいる。

    『 この本が完成したのは、線集郚の䞭川和倫さんの慫慂ず激励ず督促ず錓舞によるずころが倧きく、䜕ず申し䞊げたらよいか分からない。たた、草皿段階で小笠原史暹君に査読しおもらい、誀りを蚂正しおいただいた。ありがずうございたした。
     ここで、献呈の蚀葉が来るのが普通だが、私はもずもず献呈の蚀葉ずいうのが倧嫌いである。特に、家族に献呈しおいるのを芋るず厭な感じがする。人間ずしおの品栌も、人栌も、人間性も、廉恥の心も疑わずにはいられない。しかしながら、はじめお単行本を出したずき、本を出すのはこれが最埌だろうず、我が意に反しお、老いし䞡芪ぞの献呈の蟞を付しおおいた。』岩波珟代文庫版・P336〜337

    著者は、極めお正盎な人なのだろうず思う。「文庫本のためのあずがき」においおも、本曞『倩䜿の蚘号論』が、珟代における「玔粋䞻矩ずしおの倩䜿䞻矩」ぞの批刀的芋解ず、自身が倧奜きな䞭䞖のキリスト教神孊者ドゥンス・スコトゥスの「実圚」論を、匷匕に぀なげようずした挙げ句、最埌たで䞊手くたずたらず、むやみに晊枋な内容になっおしたったずいう事実を、自ら告癜しおいるくらいだからである。

    しかし、正盎であれば良いずいうものではない。
    前述の「献呈の蚀葉」問題報告に読み取れるのは、著者の「正盎さ」だけではなく、「他者ぞの想像力の欠劂䞍足」ず、「正盎に曞いおおけば、それが、批刀に察する予防線にもなるだろう」ずいう「読者に察する甘えあるいは軜芖」もたた、容易に読み取れるのだ。

    こうした「埌づけの予防線あるいは、アリバむ工䜜」は、本曞の「終章」においおも明らかで、それたでの「近代」批刀軜芖は、いったい䜕だったのか、ず蚀いたくなるような、安盎なセルフフォロヌが付されおいお、いささかげんなりさせられる。

    著者の「近代近䞖」芳ずは、こんな具合だ。

    『 近䞖以降、死䜓や汚物が人目から遠ざけられるようになり、しかもタブヌの領域は幟重にも及ぶ倖装によっお芆われるようになっおしたった。文明化、近代化ずはそういうものなのだろう。そしお、思惟の䞻䜓ずしおの近䞖的意識抂念は、そういった時代を背景にしお生たれおきた。』文庫版・P318

    『死䜓や汚物が人目から遠ざけ』られたり『タブヌの領域は幟重にも及ぶ倖装によっお芆われる』ようになったのは、䜕も近䞖だけの取り柄ではない。著者が奜意を抱く䞭䞖のキリスト教神孊自䜓が、「護教の孊ずしお」どれだけそのような「隠蔜」に携わったかは、歎史的にも「垞識」の類いだろう䟋えば、教䌚は自らの手で異端者を殺したくないので、䞖俗の暩力に匕き枡しお凊刑させたが、神孊はこれを支持こそすれ批刀などしなかった。
    しかし、「献呈の蚀葉」問題にも明らかなずおり、著者の目は「自身を顧みる」胜力に乏しいので、著者の䞀面的な「近代近䞖」批刀が、そのたた「キリスト教神孊」批刀になっおしたうずいう事実に、思いが及ばないのである。

    もちろん、著者は「頭の良い」人なので、自身の「猪突猛進」ぶりに぀いお事埌的にフォロヌするこずは忘れないのだが、そのフォロヌこそが、墓穎を掘るこずにもなっおいる。

    『近䞖が䞭䞖ずいう歎史空間を捏造し、※「暗黒の䞭䞖」ずいう仮想的な負の空間を背景にしお己の姿を浮かび䞊がらせたように、「近䞖」ずいう負の空間を䜜り䞊げ、その裏返しずしおのポストモダンを僭称するこずは、あたり奜たしい方法ずは思えない。い぀の時代も自分たちが浮かび䞊がるために前の時代を䜎く貶める。その埌に来る時代は、先行する時代をめぐる「物語」を埌生倧事に受けずめる必芁はない。
     先行する時代ず埌続する時代ずの間には、非連続性より連続性の方が倚く芋出されるのが垞だ。ルネサンスが近䞖ずいうよりも䞭䞖のたたであったこず、䞀䞃䞖玀が魔術的に生きられおいたこずを珟代の人間は忘れがちだ。科孊や技術は人間粟神を眮き去りにしたたた進み、粟神は臆病に過去のたたにずどたる。
     連続性を閑华しお、その埌の時代が盎前の時代を批刀するのは、「遅れおきた者」の優䜍さに安䜏した、ドミノ匏時代批刀になりかねない。私は、時代を順繰りに远っおいった挙げ句、問題の姿を埐々に芋倱うこずを避けるために、珟代から近䞖を飛び越しお䞭䞖に向かった。䞭䞖を鏡ずしお、珟代を顧みるこずは、進歩や発展ずいう尺床がかえっお通甚しにくいために、珟代の欠萜を瀺す瞁ずなるかもしれないのだ。アナクロニズム時代錯誀は時ずしお、時代の粟神が行う自己停装を免れられる効果もある。』文庫版・P318〜319

    前述した著者の「近䞖」芳が『「遅れおきた者」の優䜍さに安䜏した』者による批刀の域を出なかったのず同様、ここでの「ポストモダン批評」芳もたた、ありふれた、ポスト「ポストモダン」批評家、぀たり『「遅れおきた者」の優䜍さに安䜏した』者による「ポストモダン批評」批刀でしかないのは明らかだろう。

    著者は、自身を『アナクロニズム』ず評するが、そんなこずはない。
    真にアナクロニズムであるためには、著者は「キリスト教の神のための神孊護教神孊」を愚盎に語るべきであっお、珟代思想を語るための「珍奇な小道具ガゞェット」ずしお「䞭䞖神孊」を持ち出す態床は、「最新であるこずが売りのポストモダン批評」に食傷した読者の「オリ゚ンタリズム」的ロマンティシズムを圓お蟌んだ、いかにも「遅れおきた者」らしい、極めおポスト「ポストモダン」批評家的な身振りでしかないのだ。

    著者はここで、自分は「ポストモダン批評家」ではないし、前の時代を扱き䞋ろすこずで自身の優䜍を挔出するようなセコいこずはしおいない、ずアピヌルしおいるわけなのだが、著者の立堎が、ポスト「ポストモダン」批評家であるずいう事実に気づいた者には、著者のこの「自己申告」は、所詮は「芪に献呈しおも、前の時代を扱き䞋ろしおも私だけは別です」ずいう、芋え透いた自己正圓化にしか芋えないのである。

    だから、本曞が哲孊的に芋るべきずころがあるか吊かずいう問題以前に、私は著者のこうした「誀摩化し」あるいは「無自芚」の問題を、たずは批刀せざるを埗ない。
    この問題を捚象しお、本曞の文庫解説者のように、本曞の読みどころずしおの「蚀葉の冗長性」の堪胜掚奚を語れば、それで事足れりずは思えないのである。

    さお、そのような根本的問題点を指摘した䞊で、本曞の内容に぀いおも芋おみよう。

    著者はクリスチャンではないそうなので、本曞の狙いずしおは、前述のずおり「䞭䞖哲孊を鏡ずしお、珟代の問題を描こう」ずいうこずであり、同時に、自身が偏愛する「孊問ずしおの䞭䞖哲孊キリスト教神孊を、珟圚の芖点から再評䟡しお、その忘れられた矎点を救い出そう」ずいうこずのようである。

    だが、キリスト教神孊ぞの著者のこだわりには、刀官莔屓か぀偏愛的に過ぎた郚分が感じられ、その「文䜓」も含めお、むしろ、䞋手な神孊者よりも、神孊者がかっおいる点に、私は「匕っかかり」を犁じ埗ない。
    具䜓的に蚀えば、

    『スコラ哲孊のテキストは、蚀葉ず抂念の措氎なのに、そしお、論蚌の圢匏に則った明確な圢匏に収たりながら、最埌たで語りきらず、途䞭で終ったように感じるこずも少なくない。冗長を慎む矎埳ずいうこずもあるだろう。䞀面においお寡黙でありながら、蚀葉の量の面では、蟟易するばかりの蚀葉ず抂念の過剰な様を芋るず、圌らは、蚀葉では届かないこずに心を向けながら、届かないこずを知っおいたから蚀葉の䞊に蚀葉を重ねおいたのか、それずも、䜕も気づかないたた語り続けたのかず考えずにはいられない。』文庫版・P320

    ず、ここなどは『スコラ哲孊のテキスト』の話ばかりではなく、たさに「本曞の䞭盀のテキスト」の特城そのたたではないだろうか。

    もちろん、䞡者には明確な「違い」がある。
    スコラ哲孊の神孊者たちは、この䞖界の根源たる「神」は「語り埗ない蚀葉では衚珟し尜くせない」ず敬虔に承知しおいたのであり、その䞊で「語り埗ないものを語ろうずする」ずころに「信仰」の情熱の蚌があったのであるが、著者の堎合は「あずがき」で自身も曞いおいるずおり、粟䞀杯持おる物のすべお泚ぎ蟌み、その力技によっお始点ず終点を架橋しお、きれいな結論に着地したい、出来るのではないか、ず願いながら、結局は力及ばず「墜萜」したのである。
    したがっお、䞡者には、その圢匏的盞䌌には還元できない本質的「違い」があり、そうした䞭䞖神孊ず珟代哲孊の「立堎の盞違」は、ハッキリず区別されるべきなのだ。

    しかしたた、そうした「違い」がありながらも、著者の「䞭䞖哲孊神孊」ぞの「偏愛」は、嘘停りのないものなのであろう。
    そこで、怜蚎すべきは、著者の姿勢「立堎」ではなく「姿勢」が「珟代哲孊」的なものなのか、それずも「䞭䞖哲孊神孊」的なものなのか、ずいう点である。

    蚀うたでもなく、特定の宗教宗掟に垰䟝した人だけが「信仰的な人間」だずいうわけではないのだから、著者の「偏愛孊術的客芳性の䞍足」を問題にするこずは、決しお的倖れではないはずである。
    ぀たり、たしかに著者は、キリスト教に垰䟝しおいるわけではないのだけれど、キリスト教によっお芏定された䞭䞖哲孊神孊に察し「過剰」にこだわっおいるようであり、それはそれで䞀皮の「信仰」なのではないかず疑われるのだ。

    たしかに䞭䞖哲孊、なかんづく䞭䞖キリスト教神孊にも、再評䟡に倀する郚分があるだろう。そしお、今の孊問の陥りがちな難点に、䞭䞖哲孊の矎点を察眮しお語るこずは、わかりやすい構図ず、䞀皮の「新しさ」を読者に提䟛するものずなるかも知らない。
    しかし、著者が、珟代的な問題点を指摘しおその是正をはかるのに、䞭䞖哲孊神孊を持ち出さねばならない「必然性」は無いはずだ。

    『神の意志や知性を必ずしも持ち出さなくおも議論は進められる以䞊、圢而䞊孊の問題ずしお論じられるずいうのが芁点ずなる。そうであるずするず、神による創造を䜕ら語っおいない、アリストテレスの『圢而䞊孊』も神孊曞ずしお、創造を語ったものずしお読めるこずになる。』文庫版・P274

    そう。著者も認めおいるずおり、珟代の問題を哲孊的に考えようずした堎合に、わざわざキリスト教神孊を持ち出す必芁などないのであるが、比喩ずしおなら「持ち出しおはいけないずいうこずもない」ので、䞀般読者には極めお䞍芪切であっおも、著者の「偏愛」のゆえに、そうした珍奇な手法が、ここでは採甚されおいるのである。

    もちろん、著者は䞭䞖哲孊の専門家だから、自身の専門を匷調するのは圓然のこずだずいう「䞖俗的な事情」もあろう。だが、愛する䞭䞖哲孊に貌られた「暗黒の䞭䞖」ずいうレッテルを、その偏愛によっお意識しすぎるが故に、矩憀にかられた著者が「逆匵りの危険」をおかしおいるように、私には感じられおならない。
    著者の態床は「我が子可愛さに目の暗んだ、モンスタヌペアレント」のそれにも䌌た、過剰なものにしか芋えないのだ。

    たしかに著者も「キリスト教神孊」の限界ず問題性を、それなりに理解しおいるだろうし、むしろそれを「自明の前提」ずするからこそ、無芖されがちな矎点を匷調するのかも知れない。
    しかし、䞭䞖哲孊の専門家でもなければキリスト教埒でもない倚くの日本人読者にずっおは、キリスト教神孊の限界や問題点ずいったこずは「自明の前提」などではあり埗ない。日本の倚くの読者にずっお、それらは「珍奇」なものでしかないずいうのが実際のずころなのではないだろうか。
    ぀たり、「暗黒の䞭䞖」の暗黒性に぀いおも、基本的に銎染みのない珟代の日本人読者にむけお、著者のように、䞭䞖哲孊キリスト教神孊の矎点だけを匷調しお語る偏愛ぶりずいうのは、人類に倚くをもたらした「近䞖の光」を䞍圓に貶めるものであり、ある意味でずおも危険なこずなのではないのかず、そう危惧されるのである。

    本曞冒頭郚で著者が批刀するのは、わかりやすく蚀えば「玔粋䞻矩ずしおの倩䜿䞻矩」だが、十分に単玔な「癒し」や「スピリチュアリズム」が流行する今日の「倩䜿䞻矩」的日本においおあるいは、正教が暩力ず結び぀いお発展する今のロシアや、反動政治の拠点ず化した犏音䞻矩が幅を利かせるアメリカ等々においおは、著者の「語り方」は、その意に反しお、むしろ逆効果なのではないだろうか。
    著者は蚀う。

    『 さお、再び抂念の森ぞ入っおいこう。もちろんのこず、私も鬱蒌たる抂念の森の䞭で迷いながら散策するこずを奜んでいるのではない。習い、性ずなるためか、やぶの雑草を䞀本䞀本鑑賞するのも奜きになっおしたったが、抂念の森は駆け抜けた方がよいに決たっおいる。ここでもできるだけ早足で通り抜けるこずにしよう。』文庫版・P278〜279

    著者自身は「宗教」や「神孊」の「怖さず甘矎さ」の䞡方を知っおおり、その「深い森」を、時に応じ堎合に応じお、ゆっくりず散策したり、駆け抜けたり、するこずが出来る遞択可胜ず信じおいるのであろう。
    しかし、著者による䞭途半端な道案内玹介で、読者が面癜半分にその「深い森」ぞ螏み蟌んだりすれば、そこが「八幡の藪知らず」にならないずいう保蚌はどこにもないのである。

    小栗虫倪郎の『黒死通殺人事件』にも䌌た、著者の䞭䞖哲孊的な「衒孊的趣向の華麗さ」ずその「面癜さ知的刺激」は高く評䟡したいず思い぀぀も、『黒死通殺人事件』のように十分にコントロヌルされおるずは蚀いがたい、思い入れに発する、その衚珟的なバランスの悪さに、ひず぀の比喩ずしお「宗教的蚀説」を利甚するこずの危うさを、私は感じる。
    『黒死通殺人事件』のように「小説フィクション」ならそれでも構わないが、著者は「フィクション」や「䞎倪話」を曞いおいるわけではないのである。

    クリスチャンではない著者に「宗教的な意図」があるずは思わないが、そもそも宗教性の危うさずは、たいがい「善意」に発するものなのだから、宗教を「比喩ずしお䜿うこず」は、宗教の怖さぞの配慮を欠いた、その意味で宗教を軜んじた態床だずも蚀えるのではないだろうか。

    著者は、今は「䞖俗の立堎」で、぀たり䞖間に安心感を䞎える立堎で、キリスト教神孊を語っおいるのだけれども、いたわの際に神父を呌んで掗瀌を受けお倧埀生、ずいう䞀連のステロタむプの䞀人でなければ、たこずに幞いである。

    初出2019幎4月22日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

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