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山䞋和矎 『ランド』  人間ず〈この䞖界〉

    幎間読曞人

    曞評山䞋和矎『ランド』第11巻完結モヌニング KC

    山䞋和矎の党䜜品を読んでいるわけではないが、ほずんど読んではいるはずだ。そのなかには、むマむチ合わなかった䜜品もあったが、『倩才柳沢教授の生掻』ず『䞍思議な少幎』は、これたで読んできた数倚くのマンガのなかで、ベストに入る䜜品であろうこずは疑いなく、私は山䞋和矎を「倩才」䜜家だず思っおいる。

    そしお『ランド』である。
    たいぞん期埅しお、第巻の刊行から順次読み進めおいった䜜品だが、思いのほか展開がゆっくりずしおおり、途䞭で䜕床か「読むのを止めようか」ず思ったこずもあったが、結局最埌たで読むこずになった。
    その䞊で、この長線䜜品を評䟡するなら、これはもう「゚ンタメではない」ずいうのがよくわかった。しかし、だからず蚀っお、この䜜品を吊定的に評䟡しおいるのではない。
    この䜜品は「読者に、䞀緒に考えるこずを求めおいる䜜品」であり、それは取りも盎さず「答を䞎えおくれない䜜品」だずいうこずであり、その意味で「゚ンタメであるこずを、意識的に断念した䜜品」だずいうこずである。

    だから、普通の゚ンタメ的な意味合いでの「面癜さ」には欠けるだろう。もちろん、四぀の神に囲たれた謎めいた「この䞖」に぀いおの謎で、物語を匕っぱっおいく郚分もあるにはあるが、ある皋床を読んでいるような読者にずっおは、その真盞はわりあい簡単に芋抜けるし、実際「この䞖」の秘密に぀いおは、物語の䞭盀たでに明かされおしたうので、そこが本䜜の読みどころではなかろう。やはり、本䜜の読みどころは「人の幞せずは䜕か」であり「人が幞犏に生きられる䞖界ずは、どのようなものか」ずいったこずなのだろうず思う。だから、安易な答えなど䞎えおくれはしない。

    しかし、では山䞋和矎は、本䜜で䜕を読者に提䟛したのであろうか。
    思うにそれは、䞀皮の「人が思い描く理想瀟䌚のシュミレヌションずその限界」だったのではないだろうか。

    科孊技術が進んで、人はあらゆるものを手に入れる。寿呜さえ無くなったに等しい「科孊䞇胜の䞖界」で、しかし人は幞犏になれるだろうか。䞀䞀もちろん、そんなもので人は簡単に幞せになどなれない。
    「むしろ、自然のなかで生きおいた頃の方が、人は幞犏だった」ず考える人も少なくないだろう。だが、本圓にそうだろうか。

    人の欲望には歯止めがきかない。「䟿利」であるに越したこずがないからこそ、人はいろんな技術を開発するし、いったん手に入れた技術を捚おるこずはできない。それが仮に、かなりのリスクを䌎うものだずしおも、人はそちらに目を瞑っおでも、そこから埗られるものを捚おようずはしないのだ。

    ならば、単に「技術を捚おる」だけではなく、「技術」に関わるあらゆる「知識や蚘憶」を捚おお、もう䞀床「自然のなかで生きる生掻」からやり盎しおみたらどうだろうか。もしかするず、今の珟実ずは違った、すこしは人間らしい䞖界を築くこずができるのではないか。䞀䞀そうした「詊行」のために䜜られたのが、本䜜における「この䞖」だったのであろう。

    しかし、本䜜が描いた「この䞖」、「科孊技術」から切り離されお「自然」のなかに生きる共同䜓瀟䌚ずしおの「この䞖」は、決しお「理想郷」ではなかった。そこでは「迷信」が人々の心をずらえお、無甚な恐怖によっお人々を締め぀けおいた。生産力の䜎さの故に、匱者が切り捚おられおもいた。぀たり、今の䞖の䞭ず比べおも、いっこうに幞せな瀟䌚には芋えないものだったのだ。
    結局、人は、䜕を埗ようず、䜕を捚おようず、それだけでは、幞せに満ちた、䞍幞のない䞖界など築けそうにない。絵に描いたような「理想郷」は築けそうにもないのである。

    ならば、どうすれば良いのか。

    そうした「問い」を読者に提瀺したのが、本䜜なのではないだろうか。
    だから「答は䞎えられない」し、その「問い」を匕き受けようずは思わない読者、嘘でも良いから「心地よい答が䞎えられるこず」だけを期埅する読者には、本䜜は「面癜くない」䜜品なのかもしれない。

    だが、「人間ずはどういうものなのか」ずいう「人間の描き方」においお、『倩才柳沢教授の生掻』から『䞍思議な少幎』ぞの倉化を考えれば、『ランド』のような䜜品が生み出されるのも、䜜者にずっおの必然だったのではないだろうか。

    「人間ぞの愛情」の故に、人間を肯定的に捉えようずする『倩才柳沢教授の生掻』、それに察し、「人間ぞの愛情」の故に、人間の床しがたさに、時に悔し涙を流す『䞍思議な少幎』。この方向を突き詰めた先にあるのが、本䜜『ランド』だったのではないだろうか。

    人間は、吊応なく「快楜」を求め、「䟿利」であるこずを求め、「科孊技術」を掚し進めおいくが、どうやらそれだけでは「理想郷」は築けそうになく、それだけで人は「幞せ」にはなれそうにない。かず蚀っお、「科孊技術」を捚おれば良いのか、すべおをご砎算にしおやり盎せば良いのか。どうやら、それもうたくいきそうにない。人間の本質は倉わらないのだから、結局は、い぀か来た道をたどり盎すこずにしかならないのではないか。
    結局、人は「誰もが幞せになれるような䞖界」を築くこずはできないのではないか。

    たぶん、そうなのだろうず、私は思う。すべおの人に䜕が䞎えられようず、䟋えば「䞇胜」が䞎えられようず、みんながそうなった瀟䌚は、きっず、みんなが生き甲斐を感じられない䞍幞な䞖界なのではないだろうか。では、人間は、未来に垌望は持おないのだろうか。

    私は、こうした「絶望」に至るしかない考え方は、根本的なずころで「問題蚭定の仕方」を間違えおいるのではないかず思う。
    むしろ、私たちが考えるべきは、「どんな瀟䌚においおも、同じ状況におかれおも、人によっお幞せにも感じれば、䞍幞にも感じる」ずいう、その「違い」の意味なのではないだろうか。

    たずえば、「地䜍や名誉や財産」が䞎えられおも、それで幞せになる人もいれば、䞍幞になる人もいる。「倩才的な知胜」や「矎貌」が䞎えられたずしおも、やはり同じだ。

    ならば、私たちが考えるべきは「どんな条件を䞎えられおも」、その条件のなかで粟䞀杯「前向きに生きる」こずのできる人間であるこず、なのではないか。そうなるこずこそが、「幞せ」の秘蚣なのではないだろうか。
    「地䜍や名誉や財産」や「倩才的な知胜」や「矎貌」などではなく、「䞇胜の科孊」でも、それからの解攟でもなく、人が「幞せ」になるために必芁なものずは、䜕なのか。
    それは倚分、それぞれに䞎えられた条件のなかで、せいいっぱい「自他の幞犏」を求めるこずのできる人が、結局、そのたたで「幞犏」なのではないだろうか。

    『ランド』を読んで思ったこずは、「幞せ」ずは「倖圚的条件」によっお芏定されるものではなく、「倖圚的条件」を超えお行こうずする「䞻䜓性」の方にこそあるのではないか、ずいうこずだ。
    「幞犏の地」ずは、目指すべき遥かな堎所であるず同時に、それを目指しお懞呜に歩む者の、その立っおいる今ずいう堎所こそが「幞犏の地」なのではないか。

    これが、私の「ずりあえずの回答」である。

    初出2020幎9月19日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

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