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ゞョルゞョ・アガンベン 『王囜ず楜園』  〈愛〉の䞀撃

    幎間読曞人

    曞評ゞョルゞョ・アガンベン『王囜ず楜園』平凡瀟

    珟代哲孊者による、真っ向からの「異端の曞」である。
    もちろん、「キリスト教」に察する「異端の説」を唱えた、正真正銘の「異端の曞」であり、比喩ずしおの「異端」ではない。か぀お、柁柀韍圊ブヌムの頃に蚀い習わされた「異端の文孊」ずいった堎合の「比喩ずしおの異端」ではなく、「キリスト教の正統教矩」に異を唱えた、逃げも隠れもしない、文字どおりの「異端」の曞だ。

    Amazonのカスタマレビュヌでは、すでに぀ほどの評䟡が投じられおいるが、レビュヌは「無気力」氏の䞀本のみ。しかも、そのタむトルが「ごく䞀郚の読者向け」ずあるずおりで、「無気力」氏自身も、

    『本䜜のテヌマは、キリスト教における楜園ず王囜の問題であり、おそらく倧半の日本の読者には銎染の薄いものだず思う。よっお、読んでいおも、アガンベンの議論の革新性が分かりにくい。』

    ずのこずで、平たく蚀えば「わからなかったので、楜しめなかった」ずいうこずだろう。圓然である。

    本曞の県目は「キリスト教の正統教矩」である「原眪論」批刀なのだから、キリスト教の正統教矩を知らなければ話にならないし、「原眪論」ずいうものの重みを知らなければ、アガンベンの本曞での議論が、いかに「真っ向唐竹割り」的に倧胆なものかもわからない。
    自身の芪類瞁者も含めお、キリスト教埒を党員敵にたわすような、身もふたもない議論を、アガンベンはずうずう、やらかしたのではなく、確信犯的に、やっおしたったのだ。

    『 本曞は、Giorgio Agamben. Il Regno e il Giardino, Neri Pozza Editore, Vicenza 2019 の党蚳である。ペヌゞを少しめくっおいただければお気づきのように、ピロニムス・ボスの《悊楜の園》にはじたり、「珟眪」をいわばでっち䞊げるアりグスティヌスぞの痛烈な批刀ず、スコトゥス・゚リりゲナによる巧みなアりグスティヌスの転倒、そしお反スコラ䞻矩者ずしおのダンテ解釈で頂点に達する本曞は、いっおみれば異端の曞である。ペラギりス掟やドナトゥス掟、さらにマルキオンずいった歎代の異端者たちの名前が随所に登堎し、結末あたりで、ロヌマ教䌚から砎門されたフランスの神孊者アルフレッド・ロワゞが呌びだされる。時が時なら、おそらく発犁や焚曞を免れなかったこずであろう。たもなく八十寿を迎えようずする哲孊の倧埡所が、しかも䞊倖れお神孊にも粟通しおいるず評刀のむタリア人孊者が、なぜここにきおこれほどたでオヌプンに異端的な身振りをずったのだろうか。』

    P171「異端者ずしおのアガンベン䞀䞀蚳者あずがきに代えお」より

    この「蚳者あずがき」冒頭郚を軜く解説するこずで、本曞がいかに「奜き者」にはワクワクさせられる曞物かを説明しおみよう。

    たず、ピロニムス・ボスの《悊楜の園》だが、この䞉連祭壇画枚のパネルからなる祭壇画の、特に「地獄」を描いた、右の郚分が有名。䞭倮の「悊楜の園」を描いた郚分ではなく、むしろ、いかにも怪しげなこの「地獄」郚分の方こそ、日本人の倚くも目にしたこずがあるはずだ。それは、子䟛向けの『悪魔事兞』なんかにも、この郚分だけがしばしば玹介されおいるからで、そこには子䟛が倧奜きな悪魔や怪物じみた異圢がたくさん登堎しおいるのだ。぀たり、この「悊楜の園」ずいう䜜品は、キリスト教絵画なのだが、「異教」「異端」臭がプンプンする䜜品なのだ。

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    もちろん、「地獄」を描いた郚分がそうなるのは圓然なのだが、問題は、画家が、特に「地獄」を楜しんで描いおいる感じが、ひしひしず䌝わっおくる点なのである。

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    アりグスティヌスは、キリスト教の正統教矩を䜜った、最倧の「教父」である。
    「キリスト教の教矩」を䜜ったのは、無論、む゚スその人ではないし、む゚スの死埌に、む゚スを「䞻神」ず認めた十二䜿埒たちでもない。生前のむ゚スは、ナダダ教埒だったし、む゚スを「神」であるず認めた埌の十二䜿埒たちも、蚀うなれば「ナダダ教キリスト掟」みたいなものであった。異邊人宣教で知られ、理論掟でもあった䜿埒パりロは、埌に「聖曞」に収められる指導的手玙を曞いおいるが、それでも「教矩」を䜜ったわけではない。「キリスト教の教矩」を䜜ったのは、む゚スや䜿埒たちに関する文献を研究しお、䜕が正しい「キリスト教」かを圢䜜っおいた初期の理論家たちで、キリスト教では「教父」ず呌ばれる人たちである。で、その䞭で、䞀番有名なのがアりグスティヌスなのだ。

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    キリスト教に詳しくなければ、アりグスティヌスの名を聞いおも「ギリシャの哲孊者か」くらいの感じだろうし、それでいお日本人でも、その名前だけはよく耳にするほど有名なので、うっかりアリストテレスなどずごっちゃにしたりしおしたうほどの人なのである。

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    で、この人が「原眪論」を䜜った。「原眪論」ずは、神が「眪なき人間」アダムずむブを䜜ったお䞋さったのに、二人が「犁じられた林檎」を食べおしたったために「眪」を垯びおしたい、以来、その子々孫々たで、その「眪」は匕き継がれおいる。そういう「最初の眪」だから「原眪」なのである。䞀䞀で、本曞で、アガンベンは、このアりグスティヌスの「原眪論」を、無理なでっち䞊げだず、神孊的に批刀しおいるのである。

    『ペラギりス掟やドナトゥス掟、さらにマルキオンずいった歎代の異端者』ずいうのは、キリスト教史を勉匷すれば、必ず登堎する、代衚的な「異端」だ。キリスト教埒にずっお、どれくらい有名なのか喩えお蚀うず、『りルトラマン』における「バルタン星人やザラブ星人、さらにメフィラス星人」くらいに有名である。
    だが、「バルタン星人やザラブ星人、さらにメフィラス星人」は、人間䞖界を「倖」から襲っおくる「異星人異教埒」ずいう「䟵略者」だったけれども、『ペラギりス掟やドナトゥス掟、さらにマルキオンずいった歎代の異端者』ずいうのは、蚀うたでもなく「キリスト教埒」であり、蚀わば「身内」である。ただ、その「考え方思想」を「正しくない」ず吊定され、「悪圹」にされおしたった人たちなのだ。
    芁は、自称「正統掟」の教父たち぀たりアりグスティヌスなどず、「神」や「キリスト」や「掗瀌」ずいったこずに぀いおの「解釈」で意芋察立しお、排陀されおいった人たちであり、いわば「教父になり損ねた、敗れた理論家たちず、そのグルヌプ」である。

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    ペラギりス・たるで手配曞

    『フランスの神孊者アルフレッド・ロワゞ』は、よく知らない。そういう新しいずころたでは、ただ勉匷できおいないからだが、私の知っおいる範囲で蚀えるこずは、フランスはカトリック囜であるけれども「ガリカニズム」ずいっお、「ロヌマ教䌚」からの政治的干枉を拒絶しお、自分たちの信仰を守っおきた䌝統をがある。通垞、カトリックでは「ロヌマ教䌚ロヌマ法王庁バチカン」の呜什は絶察なのだが、フランスのカトリックは、「自由」を匷く䞻匵しお、けっこう蚀いたいこずを蚀う䌝統がある。で、ロワゞも、そういう䌝統に連なる人であり、それでもやりすぎお「砎門カトリック教䌚远攟」された硬骚挢なのであろう。
    私の「掚枬」はここたでで、「Wikipedia」を確認しおみるず、

    『アルフレッド・フィルマン・ロアゞAlfred Firmin Loisy, 1857幎2月28日 - 1940幎6月1日は、フランスの神孊者。1879幎にカトリック教䌚の叞祭に叙階され、1889幎から母校のパリ・カトリック孊院で聖曞の教授を務めた。その聖曞研究によっおカトリック教䌚における近代䞻矩を代衚する䞀人ずしお知られる。ロワゞヌずも衚蚘される。
    聖曞をカトリック教䌚の䌝統的解釈によるのではなく、啓蒙期以来発展しお来た近代の歎史孊的、批刀的方法によっお研究するこずを䞻匵した。この䞻匵のためロアゞは1893幎に教授を蟞めるこずになり、1902幎に刊行した䞻著『犏音ず教䌚』を含む著曞5冊が1903幎に怜邪聖省によっおカトリック教䌚で犁曞ずなった。1907幎にロヌマ教皇ピりス10䞖が回勅で近代䞻矩を批刀、断眪したが、ロアゞは教皇の意向に埓わず反論を発衚しお1908幎にカトリック教䌚から砎門された。
    ロアゞのもっずも有名な蚀葉は『犏音ず教䌚』における「む゚スは神の囜を予告したが、到来したのは教䌚であった」である。』

    ず、こんな感じだ。
    芁は、「反近代」を掲げた反動保守教皇であるピりス10䞖の呜什に逆らっお「私は、科孊的か぀合理的に、聖曞を研究する」ず蚀っお、その節を曲げず、砎門になった人だずいうこずである。玠晎らしい。

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    ピりス10䞖

    ちなみに、文䞭の『怜邪聖省』ずいうのは、昔の「異端審問所」であり、珟圚の「教理省」で、芁は、教矩に関する「チェック・指導郚門」。
    前ロヌマ教皇であるベネディクト16䞖は、この「教理省」のトップだった人で、倚くのリベラルな神孊者をいじめ倒した。
    それが、ロヌマ教皇になった途端、䟋の「叞祭による信埒児童に察する性的虐埅問題スポットラむト事件等」が噎出し、さらに「バチカン銀行の資金掗浄問題」なども発芚しお、あれやこれやで悩んだあげく、「異䟋の生前退䜍」をした人であるザマアミロだ。

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    ベネディクト16䞖ペヌれフ・ラッツィンガヌ元・教理省長官

    以䞊、このように「蚳者あずがき」の冒頭郚に登堎する「䞻な人物」をチェックしただけでも、本曞はじ぀に面癜そうではないか。
    もちろん、基瀎的な予備知識は必芁だが、ある皋床、理解できれば、こんな「ちゃぶ台返し」みたいな本が、面癜くないわけがないのである。
    だから私ずしおは、「面癜くない読者」ずは、「正統掟カトリック教埒」か「キリスト教の基瀎知識を持たない人」だずいうこずを、たず匷調しおおきたい。「面癜くない」のは、著者のせいではない、ずいうこずである。

    が、たあ、それにしおも「専門的で難しい本」であるこずは間違いない。倧筋では理解できるが、现かい議論では、䜕しろ哲孊者のそれだから、こちらの頭が぀いおいかないのも仕方がない。だから、あずは、私が理解できた範囲での「倧たかな玹介」だず思っおほしい。

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    ○ ○ ○

    「原眪論」に぀いおは、アりグスティヌスの玹介のずころで少し曞いたずおりで、芁は「眪の遺䌝論」であり、これが「キリスト教の正統教矩」になっおいお、各皮の「キリスト教教矩・神孊」は、この「原眪論」を瀎石の䞀぀ずしお構築されおいる。したがっお、「原眪論」を吊定しおしたうず、「正統教矩」が総厩れになりかねないので、特に「カトリック教䌚」は「原眪論」を死守しようずし、これに異を唱える者をたずは「指導」しお「撀回」を求め、それに応じなければ「異端の説を唱える信仰的䞍届者異端者」ずしお「砎門」しおしたう。「おたえはもう正統信仰の信者ではないよっお、おたえには神の救いはない」ずいうこずである。

    しかし、いくら「暩力」でねじ䌏せようずしおも、「おかしいものはおかしい」ず考える人は、いなくならない。
    「カトリック教䌚」の暩力が及ばない「プロテスタント」の神孊者には、圓然「原眪論」に異を唱える人も少なくない。「原眪論」に異を唱えたからずいっお、キリスト教埒を蟞めさせられるわけではないからである。
    しかしながら、「原眪論」ずいうのは、「プロテスタント」が生たれる前からの「正統教矩」なのだから、「プロテスタント」においおも「原眪論」は、基本䞭の基本教矩であっお、そう簡単に「間違いでした」ず蚀えるような、軜いシロモノではない。぀たり、プロテスタント信者は無論、プロテスタント神孊者の倧半は、今でも「原眪論」に立脚しお、キリスト教を理解しおいるのである。

    では、「カトリック」はどうかずいうず、前述のずおり「蚀論公衚の自由」が無い。しかし、「おかしいものはおかしい」ず考える人は、プロテスタントず同様に出おくるし、その䞭には「黙っおいられない人」もいる。「神の前においお、信仰的良心は停れない」ずいうわけである。䞀䞀で、本曞の著者アガンベンも、神孊者ではないけれど、そうした「良心的カトリック理論家」の䞀人なのだ。

     ○ ○ ○

    では、「原眪論」の、どこがいけないのか。䞀䞀それは無論、「眪の遺䌝」ずいう郚分である。

    普通に考えお「アダムずむブが、サタンの誘惑に乗っお、犁断の実を食べ、眪にたみれたからず蚀っお、どうしお、それ以降の〝すべおの人類〟は、眪を抱えた状態で生たれおくる、なんお話になるんだ。そんなもん、日本で蚀えば『芪の因果が子に報い、可哀想なのはこの子でござる』みたいな理䞍尜であろう。そんな䞍合理で無慈悲なこずを、完党無欠の、愛の神が蚱すわけがないじゃないか」ずいうこずになるだろう。少なくずも、クリスチャンでなければ、そう考えるのが圓たり前だし、キリスト教埒だっお、同じように考えお、ずうおい玍埗できない、぀たり「盲信」なんかできないずいう人も出おくる。

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    しかし、なにしろ、尊敬すべき「キリスト教最倧の教父」であるアりグスティヌスが、論敵を葬っお、「原眪論」を「正統教矩」に䜍眮づけ、さらにキリスト教䌚は、その埌ずヌっず、それを「正統教矩」だずしおきたのだから、いたさら「間違いでした」ず蚀えるものではなない。

    䟋えば、「原眪論」の間違いを認めおしたったら、珟圚の「キリスト教正統教矩」の根幹をなす「莖眪論」が揺らいでしたう。
    「む゚スは、自らが十字架に架かるこずによっお、人々の眪を莖ったのだしたがっお、む゚スは無力だったから殺されたずいうわけではない。十字架にかかるこずで、人々を救うために、地䞊に掟遣されたのが、救枈者む゚ス・キリストなのだ」ずいう、あれである。

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    なぜ「原眪論」を吊定するず「莖眪論」が揺らいでしたうのかずいうず、「む゚スが莖った、人々の〝眪〟ずは、どの眪のこずなのか」ずいう議論に発展せざるを埗ないからである。

    ぀たり、む゚スが莖ったのは、

    過去未来を含めた、すべおの人の原眪ず、個々人が犯した眪のすべお
    過去未来を含めた、すべおの人の原眪だけ
    過去未来を含めた、すべおの人の個々に犯した眪だけ
    む゚スが十字架にかかるたでの人類すべおの、原眪ず個々の犯した眪
    む゚スが十字架にかかるたでの人類すべおの、原眪だけ
    む゚スが十字架にかかるたでの人類すべおの、個々の犯した眪だけ

    の、いずれなのか、ずいった面倒な議論になっおしたう。

    たず、〜は、む゚スの死埌に生たれた人類はすべお「む゚スに救われたわけではない」ずいうこずになっおしたうから、䞍採甚。
    たた、だず、人類は「あらかじめむ゚スのよっお眪を莖われおいるから」なんでもありで眪も犯せるし、信仰も必芁ない、ずいうこずになっおしたうから、これもダメそもそも、完党にすべおの眪を莖われおいたら、人類は眪を犯せない存圚ずなっおいなくおはならず、ずいうこずは、この䞖界はすべお、倩囜神の囜になっおいないずいけない。だが、事実は、そうなっおいない。

    残るはずだが、の、む゚スが莖ったのは「過去未来を含めた、すべおの人の個々に犯した眪だけ」ずいうこずになるず、なぜ、む゚スを掟遣した父なる神は、む゚スの犠牲によっおすら、「原眪」を莖わせなかったのかず、その「䞭途半端な救枈」の意図が、どうしおも疑われおしたう。

    したがっお、いちばん尀もらしいのは、の、む゚スは「過去未来を含めた、すべおの人の原眪だけ」を莖ったずいうこずになるだろう。
    過去未来を含めた、すべおの人の「原眪」は莖っおあげたのだから「あずは自己責任ですよ」ずいうこずになるからだ。で、その「自己責任の眪個々が犯した眪穢れ」から救っおあげるのが「神の仲保者」である「教䌚」である、ずいう理屈だ。
    ぀たり、の理屈なら、いちおう「なるほど」ずいうこずになる。

    だが、ここで「原眪論」が吊定されおしたった堎合、は䞍成立ずなっおしたう。

    そこで、む゚スが莖ったのは、おのずず残りの「自己責任の眪個々が犯した眪穢れ」ずいうこずにした切り替えたずしおも、それが「過去未来を含めた、すべおの人の、自己責任の眪個々が犯した眪穢れ」だずしおしたうず、もはや「教䌚」の出番はなくなっおしたう。前述のずおり、すべおの人の眪は、む゚スのよっお、あらかじめ莖われおいるからだ。

    しかしたた、だからず蚀っおのように、む゚スが莖ったのは「む゚スが十字架にかかるたでの人類すべおの、個々の犯した眪」だず限定しおしたうず、む゚スの死十字架以降の人類は「む゚スに恩矩はない」ずいうこずになっおしたっお、これも「教䌚」的には䞍郜合である。

    䞀䞀したがっお「キリスト教䌚」ずしお、その存圚意矩を担保するためには、是が非でも「原眪論は正しい」ず倧前提した䞊で、の、む゚スが莖ったのは「過去未来を含めた、すべおの人の原眪だけ」ずいうこずに、しおおかなければならないのであるただし、すべおの人ず蚀っおも、それは「掗瀌を受けた」ずいう条件付き。
    それでも、この「原眪」の範囲が、きわめお曖昧。䟋えば、原眪が莖われたのなら、もう、人は死ななくおいいのではないか。ならば、眪も犯さないのではないか、等

    もちろん、キリスト教埒は、基本的には、こんな「論理的な話」はしない。したら「負け」だからで、そこは「信仰は理屈じゃないんだ」ず蚀っおおけば、その方が信者りケも良いから、わざわざ「寝た子を起こすような議論」はしない。
    だが、「原眪論」を吊定されおしたうず、「莖眪論」たで吊定しなければならなくなっおくるから、是が非でも「原眪論」は死守しなければならない、ずいうこずになる。

    それに、そこたで詰めお考えなくおも、そもそも「原眪論」の誀りを認めおしたったら、傍目には「結局、原眪論からしお間違っおいたずいうこずは、キリスト教そのものが間違っおたずいうこずでしょう」ずなっおしたう蓋然性が、きわめお高い。それは、「教䌚」ずしお、絶察に困るのである。

     ○ ○ ○

    しかし、「真面目な信者」ずいうのは、そういう「政治的刀断」を「教矩や神孊に、からめおはならない」ず、倧真面目に䞻匵する。なぜなら「神の存圚を、心底信じおいるのであれば、人間的な解釈の誀りを改めるのに、䜕を恐れる必芁があろうか」ず考えるからである。たったくの「正論」である。だからこそ、「教䌚」ずしおも困るのだ。

    で、キリスト教、あるいはカトリックの歎史の䞭には、実は「アりグスティヌス様の考え方も、ちょっず問題はある」ず思っおいた人も、少なからずいた。正統掟ずしお名を残しおいる人の䞭にもいたのであるこのあたりの人に、本曞で蚀及しおいる、スコトゥス・゚リりゲナやアンセルムス、ダンテなどがいる。ただ、露骚な蚀い方で批刀をしなかったので、倧目に芋られたか、気づかれなかったのだ。

    そのぞんは「教䌚」も、「老獪」であり、䞊手に「ゆるい」。なぜなら、教䌚が問題にするのは、「理論」そのものではなく、その「圱響力」だからである。
    芁は「どう考えおもいいけど、それをあからさたに公蚀するなよ」ずいうのが、「教䌚」政治的な考え方だったので、「角の立たない蚀い方」なら、倧目に芋お問題にせず、たた、それをしお「教䌚の寛容」だなどず自慢したりしおいたのである。

    『 原眪の教矩は、ひずえに『ロヌマの信埒ぞの手玙』の䞀説512の解釈にかかっおいるのだが、芋解を倉えたずしお批刀するナリアヌスに答えおアグスティヌスは、䜿埒パりロの蚀葉をほが字矩どおりに繰り返すこずで、たさしくその教矩を芁玄しおみせ、さらに回心のはじめから垞にそれを真実だずみなしおきたず断蚀しおいる『ナリアヌス駁論』VI,12,39ずするならば、アりグスティヌスによる解釈の戊略を泚意深く怜蚌しおみるのがいいだろう。圌が利甚しおいるラテン語蚳においお、パりロの䞀説は以䞋のようにある。「ひずりの人によっお眪が䞖に入り、眪によっお死が入ったように、死はすべおの人に及び、それによっおすべおの人は眪を犯したのですPer unum hominem intravit in mundum et per peccatum mors et ita in omnes homines pertransiit, in quo omnes peccaverunt.」。アりグスティヌスにずっお決定的なのは、in quo の解釈である。圌はこれを䜕らの躊躇もなくアダムに結び぀けおいる。぀たり、「その男によっおすべおの人は眪を犯したのです」、ずいうわけである。
     かねおより研究者たちが説明しおきたずころでは、この郚分に察応するギリシャ語原文の衚珟 epi'o※ oの䞊に「–」が付くは、結果に関連する節を導くため、「それがもずで、その結果ずしお」の意味になるずいうこず、さらに盎前にある男性圢の語、぀たり「死thanatos」をおそらく指しおいる、ずいうこずであるすなわち「死の垰結ずしお、すべおの人が眪を犯す」ず読めるのである SCHREINER,pp.273-274;FITZMYER,passim』

    P25〜26、※は匕甚者蚻

    いやもう、芋るからに難しそうだし、難しいのだが、誀読を承知で、私が理解した範囲で蚀うず、アりグスティヌスは、本来「死の垰結ずしお、すべおの人が眪を犯す」ず理解すべきずころを、「アダムの眪の垰結ずしお、すべおの人が眪に染たった」ず、無理を承知で匷匁的に解釈した、ずいうこずなのではないだろうか。

    ぀たり、アりグスティヌスのパりロ解釈たる「原眪論」では、アダムは「眪」を犯すこずによっお「死の定め」を䞎えられおしたい、その「死の定め」は、以降「人間の定め」ずなった。぀たり、「氞遠の生の楜園」ずいう特暩を倱っお、「他の動物」䞊みになっおしたった。そしお、人間は「死の定め」を埗たからこそ、それぞれが「眪」を犯すこずにもなっおしたった、ずいうこずである。

    しかし、ギリシャ語原文の衚珟に埓うならば、「眪」が遺䌝したわけではない原眪論は間違い、ずいうこずになる。
    ぀たり、「犁断の実を食べた」ずいう「原眪」は、アダムずむブに止たり、人間は「䞍死ずいう特暩」を奪われただけであり、たた「死の定め」に「垰した」からこそ、人間は、生きんがために、個々に「眪」を倚かれ少なかれ犯さなければならない存圚になったのだ、ずいうこずなのだ。

    これが「原眪論」ず、どう違うのかずいうず、神は、アダムずむブの「二人だけ」に「特暩」を䞎えたけれど、二人は自ら犯した眪で、その「特暩」を倱った。以降「人類」は、「特暩」を䞎えられおない「本来のかたち」で生きるこずになっただけであり、「眪ずしおの死」が理䞍尜にも「遺䌝」されたわけではない、ずいうこずだ。

    「原眪論」は、䜕もしおいない「生たれたばかりの赀ちゃん」でも、「原眪」を持った存圚である、ずした。
    これがアりグスティヌスの「眪」解釈だが、ラテン語蚳前のギリシャ語聖曞を正しく読めば、「死の垰結ずしお、すべおの人が個々に、自己責任で眪を犯す」のであっお、「原眪」なんおものは持っおいない。
    したがっお、最埌の審刀で裁かれるのは「個々人の眪」だけであり、「生たれおすぐ死んだ赀ちゃんは、眪を犯しおいないから、掗瀌を受けおいなくおも、倩囜に行ける」し、「生前、キリスト教ず出䌚う機䌚のなかった異邊人も、掗瀌を受けおいなかったからずいっお、地獄行きが決たっおいるわけではない」ずいうこずになるのである。䞀䞀これは、しごく真っ圓な理屈ではないだろうか。

    しかし、それでは「教䌚」的には、困るのだ。
    「すべおの人」が「原眪」を抱えおいるずいう「蚭定」にしおいるからこそ、救われたければ地獄に行きたくなければ、䟋倖なく「すべおの人」は「掗瀌を受けお、この教䌚に付きなさい」ず蚀えるのであっお、「原眪」が無ければ、キリスト教信仰は「絶察的に必芁なもの」ではなくなっおしたうからである。

    『 ここでもたたアりグスティヌスにおいお、神孊的動機は教䌚の動機ず䞀臎しおいる。ずいうのも、人間本性が恩寵なしに眪を犯さないでいるこずができるずするなら、秘跡を通じお恩寵を授ける教䌚は必芁なくなっおしたうからである。』P44〜45

    画像8

    サン・ピ゚トロ倧聖堂

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    以䞊のように、アガンベンの「原眪論」批刀は、スリリングで面癜いず思う。
    「思う」ずいうのは、私の理解が䞍確かだから、断蚀はできないが、ずいうこずである。

    が、私の胜力䞍足は別にしお、本曞の面癜さの䞀端くらいは感じおいただけたのではないだろうか。
    私が、䞊で我流に解説したのは、あくたでも本曞のごく䞀郚なのだから、必芁な知識を持っお味読するならば、本曞は間違いなく面癜い、刺激的な「知的闘争の曞」なのである。

    2022幎3月26日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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