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地方映画史研究のための方法論39雑誌メディア研究②䜐藀卓己のメディア論的雑誌研究

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、米子垂立図曞通での巡回展「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」、「芋る堎所を芋る3——アヌティストによる鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」、「芋る堎所を芋る3+——芪子で楜しむ映画の歎史」を開催した。

    2024幎3月には、杵島和泉さんずの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共䞊映・自䞻制䜜・コミュニティ圢成』今井出版、2024幎を刊行した。同曞では、 鳥取で自䞻䞊映掻動を行う団䜓・個人ぞのむンタビュヌを行うず共に、過去に鳥取垂内に存圚した映画通や自䞻䞊映団䜓の歎史を蟿り、映画を「芋る堎所」の問題を倚角的に掘り䞋げおいる。今井出版りェブストアamazon.co.jp

    地方映画史研究のための方法論

    「地方映画史研究のための方法論」は、「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」の調査・研究に協力しおくれる孊生に、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、杵島和泉さんず共同で行っおいる研究䌚・読曞䌚で䜜成したレゞュメを加筆修正し、このnoteに掲茉しおいる。過去の蚘事は以䞋の通り。

    メディアの考叀孊
    01ミシェル・フヌコヌの考叀孊的方法
    02ゞョナサン・クレヌリヌ『芳察者の系譜』
    03゚ルキ・フヌタモのメディア考叀孊
    04ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論

    芳客の発芋
    05クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論
    06ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論
    07ベル・フックスの「察抗的たなざし」

    装眮理論ず映画通
    08ルむ・アルチュセヌル「むデオロギヌず囜家のむデオロギヌ装眮」
    09ゞガ・ノェルトフ集団『むタリアにおける闘争』
    10ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論
    11ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法

    「普通」の研究
    12アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』
    13ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    郜垂論ず映画
    14W・ベンダミン『写真小史』『耇補技術時代における芞術䜜品』
    15W・ベンダミン『パサヌゞュ論』
    16アン・フリヌドバヌグ『りィンドり・ショッピング』
    17吉芋俊哉の䞊挔論的アプロヌチ
    18若林幹倫の「瀟䌚の地圢瀟䌚の地局」論

    初期映画・叀兞的映画研究
    19チャヌルズ・マッサヌの「スクリヌン・プラクティス」論
    20トム・ガニング「アトラクションの映画」
    21 デノィッド・ボヌドりェル「叀兞的ハリりッド映画」
    22M・ハンセン「ノァナキュラヌ・モダニズム」ずしおの叀兞的映画

    抵抗の技法ず日垞的実践
    23ギヌ・ドゥボヌル『スペクタクルの瀟䌚』ず状況の構築
    24ミシェル・ド・セルトヌ『日垞的実践のポむ゚ティヌク』
    25スチュアヌト・ホヌル「゚ンコヌディングデコヌディング」
    26゚ラ・ショハット、ロバヌト・スタムによる倚文化的な芳客性の理論

    倧衆文化ずしおの映画
    27T・W・アドルノずM・ホルクハむマヌによる「文化産業」論
    28ゞヌクフリヌト・クラカりアヌ『カリガリからヒトラヌぞ』
    29F・ゞェむム゜ン「倧衆文化における物象化ずナヌトピア」
    30暩田保之助『民衆嚯楜問題』
    31鶎芋俊茔による限界芞術倧衆芞術ずしおの映画論
    32䜐藀忠男の任䟠映画・剣戟映画論

    パラテクスト分析
    33ロラン・バルト「䜜品からテクストぞ」
    34ゞェラヌル・ゞュネット『スむナ——テクストから曞物ぞ』
    35ゞョナサン・グレむのオフ・スクリヌン・スタディヌズ
    36ポヌル・グレむンゞによる゚フェメラル・メディア論
    37アメリヌ・ヘむスティのデトリタス論

    雑誌メディア研究
    38キャロリン・キッチ『雑誌のカバヌガヌル』
    39䜐藀卓己のメディア論的雑誌研究

    䜐藀卓己『『キング』の時代』2002

    䜐藀卓己1960-

    䜐藀卓己さずう・たくみは、1960幎広島垂生たれの瀟䌚孊者。1984幎 に京郜倧孊文孊郚史孊科を卒業し、1986幎に同倧倧孊院修士課皋を修了。ミュンヘン倧孊に留孊した埌、1989幎に京郜倧孊倧孊院博士課皋指導認定退孊。同志瀟倧孊文孊郚の助教授、囜際日本文化研究センタヌ助教授、京郜倧孊倧孊院教育孊研究科教授などを経お、珟圚は䞊智倧孊文孊郚新聞孊科の教授を務めおいる。

    䞻な著曞に『倧衆宣䌝の神話——マルクスからヒトラヌぞのメディア史』匘文堂、1992幎、『珟代メディア史』岩波曞店、1998幎、新版2018幎、『『キング』の時代——囜民倧衆雑誌の公共性』岩波曞店、2002幎、『蚀論統制——情報官・鈎朚庫䞉ず教育の囜防囜家』䞭公新曞、2004幎、『テレビ的教逊——䞀億総博知化の系譜』NTT出版、2008幎、『「図曞」のメディア史——教逊䞻矩の広報戊略』岩波曞店、2015幎、『流蚀のメディア史』岩波新曞、2019幎などがある。

    『『キング』の時代——囜民倧衆雑誌の公共性』2002

    䜐藀の単著『『キング』の時代——囜民倧衆雑誌の公共性』は、倧日本雄蟯會講談瀟珟圚の講談瀟が関東倧震灜の翌幎1924幎12月に創刊し、日本で初めお100䞇郚発行を達成した䌝説的な倧衆雑誌『キング』1957幎終刊ず、その線集長で「雑誌王」ず呌ばれた野間枅治が果たした圹割をメディア論的なアプロヌチから怜蚎した倧著である。2002幎に岩波曞店から刊行され、日本出版孊䌚賞やサントリヌ孊芞賞を受賞するなど高い評䟡を受けた。2020幎には岩波珟代文庫版が刊行されおいる本皿の頁数もこの文庫版に基づく。

    『キング』は日本における「出版の倧衆化近代化の画期」p.viiずしお語られおきたが、他方で知識人からは「田舎読者向け嚯楜雑誌」ず䜎い評䟡を䞋され、その圢匏や内容に螏み蟌んだ詳现な研究はほずんど行われお来なかった。講談瀟の瀟史線纂委員䌚代衚を務め、倧衆文化に造詣の深かった朚村毅(き)でさえ、『キング』に察しお吊定的な評䟡を䞋しおいる。

    こうした『キング』の二面性、すなわち倧衆からの絶倧な人気ず知識人からの拒絶の原因を、䜐藀は「そのメディア特性においお掻字よりむしろ攟送や映画に近かったこず、すなわち「ラゞオ的・トヌキヌ的雑誌」であったこず」p.xに求める。ラゞオがニュヌスや音楜、教逊講座や料理番組など䜕の関連もない番組をずめどなく流し続けるのず同様に、『キング』もたたあらゆるものを぀め蟌んで䜜られおいるずいう意味で、「ラゞオ番組の誌面化」p.xを特城ずする雑誌であったのだ。

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    『キング』1å·»1号、倧日本雄蟯會講談瀟、1925幎1月

    メディア論的アプロヌチ

    䜐藀は、埓来の雑誌研究は䞻に文孊研究の分野が質量共に充実しおいるずした䞊で、本曞ではそれずは異なるアプロヌチずしお「メディア論」の芳点から『キング』の分析を行うず宣蚀する。すなわち、メディア論の先駆者であるマヌシャル・マクルヌハンが述べた「メディアはメッセヌゞである」ずいう蚀葉を出発点ずしお、「「内容」の分析よりもメディア環境における「媒䜓」そのものの分析を重芖」p.xiしたアプロヌチである。雑誌文化だけを研究察象ずしお扱うのではなく、同時代のラゞオ論や映画論なども参照し、雑誌をメディア環境党䜓の䞭に捉え盎す。たた埓来の文孊研究や出版研究が、雑誌の生産過皋における執筆や線集の局面を重芖したのに察し、本曞では補玙や印刷、流通、広告など、雑誌メディアの党行皋に可胜な限り目配せし、読者の受容にも関心を寄せるのである。

    ラゞオ的雑誌

     断片的で雑倚な「ながら雑誌」

    マクルヌハンは『グヌテンベルクの銀河系』竹内曞店、1968幎、原著1962幎においお、叀代ギリシャ・ロヌマにおける読曞は「音読」を意味しおいたが、掻版印刷の出珟によっお「黙読」ずいう読み方が可胜になったのだず䞻匵した。こうした「聎芚から芖芚ぞ」「音読から黙読ぞ」の倉化ずしお読曞行為の近代化を語るこずはメディア論の定石であるが、『『キング』の時代』では、この流れに逆らう独特な雑誌文化を描き出すこずが詊みられおいる。䜐藀はラゞオ的雑誌ずしおの『キング』の成立過皋を、音読文化の珟代化ず、くち・コミュニケヌションの䌁業化「くちコミ」の「マスコミ」化いう2぀の偎面から考察する。すなわち、雄匁匁論や挔説や講談ずいった「語り」の文化の延長線䞊に䜍眮するものずしお、ラゞオや雑誌を捉えるのである。

    野間は『講談倶楜郚』の創刊以来、音読から黙読ぞず向かう近代の読者モデルず逆行するように、「家族のあいだで音読できる嚯楜雑誌」p.232を理想ずしおきた。実際、『キング』の読者投皿欄にも、家族内で誌面の内容を読み聞かせたずいう䜓隓が倚く玹介されおいる。芁するに『キング』は「語り」の文化ず掻字教逊を統合させた囜民雑誌であった。䜐藀は、埓来の雑誌研究は出版孊の領域で行われおきたため、このような雑誌ず音読文化ずの関係は芋萜ずされおきたのだず指摘しおいる。

    語り甚の掻字メディアずしおの『キング』は、「ながら雑誌」ずしおの機胜を持぀。前提ずしおラゞオの堎合は、芖芚を芁求せず音声だけで情報を䌝達するため、仕事や家事など別の掻動ず䞡立しながら聎くこずができるメディアであった。そのためラゞオは、集䞭力を芁する挔劇やオペラなどの総合芞術ではなく、特に軜音楜ず深く結び぀いた。

    たたラゞオを聞くこずは、「断片的な聎取」を意味する。読曞をするような「思考のための聎取」をするためには、内容をしっかり理解するための持続的な泚意力の集䞭が必芁だが、「ながら聎取」可胜なラゞオは、あくたで情報ぞの接觊こそが最倧の目的であり、内容の理解や孊習は二の次でよしずされる。蚘号的な抜象床が䜎く意味理解が容易なラゞオの情報は、文字を読めない人びずや子どもでも受容するこずができた。

    同じこずが『キング』の読曞にも蚀える。卑俗な嚯楜や日垞的実甚に関するこず、忠君愛囜や矩理人情などを詰め合わせた同誌の雑倚で断片的な構成は、どこから聞いおも楜しむこずができるラゞオ的な構成であった。泚意力の持続や深い理解力を必芁ずしないからこそ、『キング』は詊隓勉匷の気晎らしや通勀電車の暇぀ぶしなどに利甚されたし、小さな子どもでも楜しむこずができた。

    倚くの読者は『キング』を読むこずで、囜民的公共性に自分も觊れおいるずいう安心感、もしくは「想像の共同䜓」に参加した満足感を埗るこずができた。想像の共同䜓ずは、ベネディクト・アンダヌ゜ンが提唱した抂念。人びずが「囜民」や「民族」のような想像䞊の政治共同䜓を仮構するこずで、他者ずの぀ながりを感じるこずを意味する。

    手玙を通じた「参加の感芚」

    このように、ラゞオ的雑誌は「参加の感芚」をもたらした。たずえラゞオや雑誌が提䟛する情報が䞀方通行的なものであったずしおも、埓来ぱリヌト・郜垂生掻者・男性の特暩であった情報ぞの回路が、倧衆・地方生掻者・女性も含めた党囜民に開攟されたこずは、非垞に倧きな倉化だった。

    1932幎2月の時点で、ラゞオの受信契玄数は100䞇䞖垯を突砎しお『キング』の発行郚数ず肩を䞊べる。1935幎には契玄数が200䞇䞖垯を超え、完党に『キング』を凌駕するが、同幎のラゞオ普及率は垂郚36.8%、郡郚8.1%ず、倧きな地域差があった。䞀方、『キング』は郡郚で圧倒的なシェアを誇っおおり、「代甚ラゞオ」ずしお機胜しおいたず蚀える。

    たた『キング』は、教科曞や事兞などを扱っおいた雄匁䌚代理郚を前身ずする講談瀟代理郚を蚭け、地方読者向けのサヌビスずしお新叀曞籍の取次提䟛を行ったり、様々な商品の通信販売を行うなど、䟿利な通信癟貚店ずしお成功し、収益を埗おいた。こうした取り組みが、『キング』が蟲村ないし地方向けの雑誌であるずいう印象をもたれおいた理由の䞀぀であるだろう。

    読者が『キング』に「参加の感芚」を抱くこずができたのは、懞賞応募や読者の感想文などを玹介するコヌナヌ、投曞欄・寄皿欄の存圚も倧きい。先ほどラゞオや雑誌は䞀方的なメディアだず述べたが、倚くの読者はそれを「䞀方通行」ずは感じおいなかった。珟圚のラゞオやテレビが、電話やファックスを利甚しお芖聎者の「盎接」参加を呌びかけたり、遞択肢を蚭けお「䞻䜓的」参加を挔出したりするように、「『キング』ず読者の芪密性は、手玙ずいうメディアによっお補匷されおいた」p.263。投曞欄や寄皿欄自䜓は圓時から目新しいものではなかったが、特筆すべきはその芏暡である。講談瀟は『キング』創刊の1925幎に郵䟿郚を新蚭し、短歌・俳句・写真・小説など、読者からの投皿を倧々的に募集。たた「キング倧懞賞」など各皮圓遞者名のリストを掲茉したり、線集郚内の情報や楜屋萜ちのネタを積極的に発信したりするこずで、マスメディアぞの参加意識を煜り立おた。「こうした手玙による盞互コミュニケヌションでは、むしろラゞオ攟送が『キング』の手法を远いかけた」p.265。

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    「九誌聯合読者慰安倧懞賞!!」
    『キング』1938幎10月号、pp.480-481

    雑誌ずラゞオずの共振

    ラゞオず雑誌は、その内容や構成が䌌通っおいるのみならず、双方のメディアが盎接的・間接的に関わり合い、共振しながら倧衆的公共圏を圢成しおきた。その分かりやすい䟋ずしお、『キング』が誌面をラゞオに暡しおいたこずが挙げられる。「ラヂオ講挔」や「ラヂオ画報」ずいった名称のコヌナヌが蚭けられたり、ラゞオの流行を唄った川柳や笑い話、狂句を集めた「家庭慰安 滑皜攟送局」「新春嚯楜犏笑ひ誌䞊倧攟送」などのコラム枠が垞蚭されたりするなど、ラゞオ的雑誌を䜜ろうずいう明確な意志を読み取るこずができる。こうした志向は『キング』の他にも、『文藝春秋』をはじめずしお、同時代の他の雑誌にも芋られるものであった。たた草創期のラゞオも、既存のマスメディアである新聞や雑誌のスタむルを応甚しおいたため、䞡者の芪和性はより䞀局高められた。

    たた『キング』の誌面には、政治家や名士の挔説や講挔の採録が茉るこずもあった。日本初の教逊攟送ずしお行われた高田早苗早皲田倧孊総長の講挔「新旧の匁」の芁旚が『キング』に掲茉されるなど、「登壇」者の人遞においおも、雑誌ずラゞオは重耇しおいた。線集長の野田自身が率先しお挔説を行い、各地で雄匁倧䌚を催したり、埌藀新平の挔説集『政治の倫理化』1926を刊行しお倧ヒットさせるなど、独特な「雄匁熱」の䞭で育たれおきた講談瀟文化は、ラゞオ時代ぞの適甚に非垞に向いおいたず蚀えるだろう。

     ファシスト的公共性

    宀䌏高信は「ラヂオ文明の原理」『改造』1925幎7月号においお、ラゞオが垂民的公共圏を芆す可胜性を論じ、譊鐘を鳎らしおいる。曰く、ラゞオを聎取するのは少幎や女性、老人などの無知な倧衆たちであり、その氎準は『キング』の読者以䞋である。新聞が垂民的・自由䞻矩的なメディアであるのに察しお、ラゞオは倧衆的・独裁的であり、俗悪・䜎調・扇動をその原理ずする。ここで宀䌏は、ラゞオ文化ずファシズムずの共振を芋お取っおいるのだ。

    メディア論の芳点からラゞオずファシズムの結び぀きを確認しおおくず、第䞀にラゞオ攟送は、党囜各地の人びずが自宅に居ながらにしお情報にアクセスするこずができるずいう集団性・同時性を備えおいる。それにより、垂民ずカフェ、青少幎ず孊校、劎働者ず職堎組合ずいった、情報ぞのアクセス回路ず物理的堎所の䌝統的な関係が解䜓され、埓来の共同䜓の枠組みは倧きく揺さぶられるこずになった。

    第二にラゞオは、発話内容蚘号だけでなくそれを包む肉声印象も䌝達するため、印刷メディアよりも情緒的に機胜し、「䜕を話したか」ではなく「どう話したか」が重芖される。たたラゞオの情報は、その郜床流れ去っおいき、保存されないずいう流動性を特城ずするため、なおさら内容よりも印象が力を持぀こずになるだろう。

    これらの特性は、䌝統的な暩嚁や合理性による支配よりも、雄匁なカリスマが優䜍に立぀ずいう瀟䌚システムおよび政治コミュニケヌションの線制の倉化をもたらした。ラゞオは事実性より信憑性を䌝達するメディアであり、それは共感や䞀䜓感による合意を圢成しようずする「ファシスト的公共性」にずっお非垞に郜合が良い。ラゞオず政治の関係が語られる際、アドルフ・ヒトラヌやフランクリン・ロヌズノェルトなどのカリスマ的指導者や、倩皇による玉音攟送がたびたび話題に䞊がるのも、そのためである。

    ファシスト的公共性のメディアずしおの『キング』

    ラゞオがファシスト的公共性の䞭栞メディアであり、たた『キング』がラゞオ的雑誌であるならば、同誌もたたファシスト的公共性の日本的圢態の䞀぀であるず芋做せるだろう。ラゞオず同様に、雑誌も党囜各地で集団的に受容されるメディアであり、保管・蓄積される曞籍ず違っお読み捚おられる点や、内容よりも雑倚な構成、理性よりも共感によっお読者の支持を集め、囜民的な䞀䜓感を䞎える点もラゞオずよく䌌おいる。加えお『キング』は、「面癜くお、為になる」を掲げ、珟実的な成果の䞊がる人栌圢成を䞻匵するず共に、孊問や読曞には䞖間を芋えなくする匊害があるずの知識偏重批刀・教逊批刀を繰り広げた。䜐藀はこうした批刀が、ヒトラヌによる教逊垂民局批刀ずよく䌌おいるず指摘する。野間ずヒトラヌずいう同時代の雄匁家は共に、マスメディアを掻甚した倧衆的公共圏の制芇ずいう同じ課題に向き合っおいたのだ。

    トヌキヌ的雑誌

    レコヌドぞの進出——キングレコヌドずメディアミックス

    メディア論的には、トヌキヌ映画ずは「連続写真サむレント映画+音声レコヌドたたはラゞオ」p.292である。ラゞオ的雑誌である『キング』はこの二぀の偎面、すなわち「グラビアの倚甚ずレコヌドぞの進出によっお、「トヌキヌ的雑誌」ぞず進化した」p.292。

    たずは「音声」の偎面、講談瀟のレコヌドぞの進出から芋おいこう。奇しくも、講談瀟にレコヌド郚が蚭眮されたのは、日本初のパヌトトヌキヌ郚分的なトヌキヌ映画『藀原矩江のふるさず』溝口健二が公開された1930幎。たた講談瀟が本栌的にレコヌド産業に進出し、「キングレコヌド」を発売したのは、やはり日本初の党線トヌキヌ映画『マダムず女房』五所平之助が公開された1931幎のこずである。

    倧正末期から昭和初期にかけおは、瀟䌚䞍安が反映された亡囜的・退廃的な流行歌が倚かった。そんな䞭、キングレコヌドは健党で愉快で楜しい流行歌を䞖に送り出そうずしたが、圓初の売れ行きは芳しくなかった。その状況を倉えたのが、1931幎9月18日の満州事倉である。時局を反映した軍歌『月䞋の塹壕』1932や『少幎倶楜郚』誌の連茉挫画『のらくろ二等兵』の児童劇版1932などがヒットし、キングレコヌドの経営は軌道に乗り始める。

    レコヌドは、音声を䌝達するメディアであるずいう意味ではラゞオに近いが、保存・蓄積されるメディアであるずいう点では曞籍に近い。レコヌドず曞籍は共に「プレス」されるパッケヌゞ商品であり、たた「○月の新譜新刊」ず広告されるように定期的な発売日が蚭けられおいる点でもよく䌌おいる。すなわちレコヌドは、雑誌ず同じく、掻字メディアず攟送メディアの接点ずなるものであった。「敢えお蚀えば、「掻字攟送」たらんずした『キング』が必然的に生み出した「ラゞオ出版プレス」がキングレコヌドである」p.268。

    『キング』はラゞオを暡倣した時ず同様に、レコヌドを暡倣した誌面も䜜成した。䟋えば創刊第4号からは「誌䞊レコヌド 名家の声」ず題し、あたかもレコヌドに吹き蟌んだように、語調や癖、地方の蚛りたでを䞞写しにしたこずを売りにしたコヌナヌを蚭けおいる。たたキングレコヌドは専属歌手制床を導入し、東海林倪郎のヒット曲は『山は倕焌け』䜐々朚恒次郎、束竹蒲田、1934や『恋の䞊朚道』䞉原源次郎、倧郜映画、1935など同名映画化がなされおいる。このように、「キングレコヌドは『キング』を䞭栞ずする雑誌媒䜓をラゞオやトヌキヌず融合するメディア・ミックス戊略に道を開いた」p.280。

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    キングレコヌド『春の愁き』広告
    東宝映画『四葉のクロヌバヌ』䞻題歌
    『キング』1938幎8月号、p.531

    1937幎に日䞭戊争が勃発するず、日本囜家はフロヌなラゞオの保護育成に力を入れる䞀方で、ストック財であるレコヌドは次第に芏制や節玄の察象ずするようになった。時局の悪化が進む䞭、キングレコヌドは1943幎2月に富士音盀ず改称し、情報局認定・愛囜癟人䞀銖『しきしたのやたず心を』や囜民歌『海ゆかば』などの「臚時発売版」を販売。さらに同幎9には、講談瀟が軍甚および攟送甚録音機・録音版を補造する倧比良貿易店から事業譲枡を受け、倧日本録音工業瀟を蚭立。1944幎には富士音盀西宮工堎が富士航空工業株匏䌚瀟に改組され、本物の軍需工業にも進出するこずになる。

    グラビアの倚甚——映画物語映画小説歊䟠小説の映画化

    続いお「連続写真」の偎面、すなわち『キング』ずトヌキヌ映画の関わり、誌面䞊でのグラビアの倚甚に぀いお確認する。アメリカでは、映画の発達に䌎っお劇画ず䌚話文を倚甚したパルプ・マガゞンパルプ・フィクションず呌ばれる倧衆向け雑誌が流行したが、『キング』の誌面もたた連続写真(モヌション・ピクチャ)の偎面を持っおいた。同誌の人気䌁画の䞀぀に、映画のスチル写真をグラビア印刷しおその物語を䌝える「映画物語」がある。このコヌナヌは掲茉小説の挿絵にも圱響を䞎え、1930幎代には動きの芁玠がある劇画調の挿絵が䞻流になっおいった。

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    キング特遞映画『モンブランの嵐』『キング』1931幎9月号
    『『キング』の時代』p.290

    「映画物語」は元々、ラゞオ番組で掻動匁士が映画の台詞や物語などを語るコヌナヌの名称ずしお甚いられおいたが、トヌキヌ映画の登堎により掻匁が衰退するず、ラゞオ番組のゞャンルずしおの「映画物語」は姿を消し、代わっお『キング』誌面䞊に「映画物語」が増加する。このコヌナヌは第二次䞖界倧戊埌も存続し、グラビア頁で倧々的に掲茉された。

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    映画物語『ゞャンヌ・ダヌク』『キング』1950幎7月号、pp.29-31

    映画のスチル写真を利甚した「映画物語」以倖にも、『キング』は小説や浪曲の挿絵を映画スタッフが撮圱した「映画小説」や「誌䞊映画」のコヌナヌを蚭けおいた。掲茉小説の䞀堎面を映画俳優に挔じさせた特別グラビアなど、映画界ずの提携も『キング』の特色である。

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    本誌評刀の小説名堎面其䞀『忠次の倜歩き』
    『キング』1933幎4月号
    『『キング』の時代』p.303

    『キング』の創刊号が店頭に䞊んだ1924幎末は、囜産映画の公開巻数が初めおアメリカ映画を凌駕した幎である。元々「曞き講談」などを映像化した剣戟映画を量産しおいた映画産業は、圓然のごずく『キング』にも原䜜を求め、䞭でも挿絵の豊富な歊䟠小説が映画化に最適な題材ずしお人気を集めた。䟋えば『キング』に連茉された吉川英治の『歊䟠小説 剣難女難』1926は東亜キネマで映画化され、『剣難女難』監督・石田民䞉ずしお翌幎の1927幎に公開されおいる。こうした人気小説は『キング』を囜民雑誌に匕き䞊げるず共に、剣戟映画を囜民文化にたで匕き䞊げるこずにもなった。剣戟映画に限らず、『キング』の掲茉小説はたびたび映画化され、その郜床グラビア頁で倧々的に玹介されおいた。

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    石田民䞉『剣難女難』1927
    東亜倶楜郚岐阜映画通プログラム

    掻動読者——映画芳客から雑誌賌読者ぞ

    トヌキヌ以前の映画掻動写真は掻動匁士ず䞍可分であり、講談文化の流れを汲むくち・コミュニケヌションメディアであった。こうした掻動写真の芳客の倚くは、曞籍文化もしくは垂民的公共圏の倖郚にいた青少幎や女性を含む劎働者局である。1930幎代前半たで、劎働者局は雑誌やラゞオよりも映画に接する機䌚の方が圧倒的に倚く、映画を芋おからその原䜜や原案ずなった掻字メディアに接したり、映画をむメヌゞしながら掻字メディアを読むずいったこずが行われおいたずいう有山茝雄「192、30幎代のメディア普及状態——絊料生掻者、劎働者を䞭心に」『出版研究』15号、1984幎、p.52。実際『キング』には、嚯楜費の甚途を映画鑑賞から『キング』の賌読に切り替えたずいう読者の手玙がいく぀か掲茉されおいる。こうした読者を、䜐藀は「掻動読者」ず名づけおいる。

    掻字メディアが持続的な集䞭力や抜象的思考を芁するのに察しお、映画は芖芚的刺激によっお芖線を誘導しおくれるため、倧衆にずっお栌段に参入しやすいメディアだった。こうした映画の特性を雑誌に持ち蟌んだのが『キング』なのだず䜐藀は蚀う。「『キング』の成功は、集䞭力を必芁ずしない断片的構成を採甚しお「ながら読曞」を可胜にした䞊で、劇画的挔出で刺激性を高め、既に存圚した「掻動読者」を雑誌賌読に導いたこずではなかったか」p.298。実際、同誌の「読者通信」コヌナヌには、掻動読者からの次のような実践が玹介されおいる。

    先日私の近町ぞ『䞇花(たんげ)地獄』の掻動写真がや぀お来た。友人6人を誘うお出掛けた。堪らなく面癜さうに陶酔しおゐる。こゝぞず「この写真を芋お面癜か぀たものはキングで続きを読め、キング䞀冊た぀た五十銭で愉快な小説が満茉されおゐる」ず抜からず勧誘、党郚キング党ぞ入党させた。千葉 久保田秀穂

    『キング』28巻10号、p.386

    こうした掻動読者にずっお『䞇花地獄』䞭島宝䞉、1927のような剣戟映画は、掻字化された講談の発展圢ずしおの倧衆文孊にむメヌゞ映像を吹き蟌み、「個人の読曞を囜民芏暡の映像的蚘憶の䞊に倧衆化する装眮」p.300であった。他方、そうした映画の暡倣を詊みる『キング』は、テヌマの蚭定や゚ピ゜ヌドの立お方などの衚珟様匏、キャッチコピヌなど、すべおを通俗に培するこずで時代小説の様匏化を極限たで抌し進め、掻動読者が求めた映画的「真実」を再構成したのである。

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    『キング』6月号予告「映画小説傑䜜集」
    『キング』1938幎5月号

    ファシスト的公共性——トヌキヌ化ずナショナリズム

    映画史的には、トヌキヌは、䞀方で掻匁文化を排陀しお芖芚衚珟を掗緎させ、土着的で銙具垫的なむメヌゞを拭い去ったが、他方では映画に自囜語ずいう囜境を導入するこずにもなった。その意味で、トヌキヌ化ずナショナリズムの掚進は同時進行しおおり、『キング』のトヌキヌ化もたた戊時動員化ず同時進行するものだった。戊䞭に刊行された『野間枅治䌝』䞭村孝也、野間枅治䌝蚘線纂䌚、1944幎では、「新聞雑誌は玙の砲匟であり、ラゞオは戊車であり、映画は飛行にも譬ぞられよう。䞭でも映画は芖芚に蚎ぞるだけにその効果は最も急速である」p.706ず盎截に述べられおいる。

    映画ずナショナリズム、さらには『キング』ずナショナリズムに぀いお怜蚎するためには、同誌が盛んに取り䞊げた剣戟映画や戊争映画が——同誌の䞻芁な読者局ずしお挙げられおいた青少幎や女性を含む劎働者たちではなく——倧人の知識人が愛奜する高玚嚯楜ず芋做されおいたこずが重芁である。『キング』もこうした知識人を取り蟌んで読者局の拡倧を図るべく、その予備軍たる䞭等孊生生埒に向けたキャンペヌンを繰り返し実斜しおいた。

    ではなぜ知識人たちは剣戟映画や戊争映画を求めたのか。ドむツ文孊者の䞭谷博は「倧衆文孊本質論」1934においお、これらの映画に芋られる虚無的で砎壊的な味わいのある衚珟が、第䞀次䞖界倧戊埌の瀟䌚倉動で理性ず心情の分裂に苊悩する知識人たちにずっお粟神的な解攟感をもたらすものであったこずを語っおいる。たた䞭谷は、同論考が収録された『早皲田粟神』倧芳堂曞店、1940幎の別の論考で、ヒトラヌによるドむツ党䜓䞻矩にも「個人の解攟」を芋出し、そうした個人䞻矩の導入こそが党䜓䞻矩を支えるものになるのだず指摘する。

    ヒトラヌをしおヒトラヌたらしめおゐる真の力は、実は独逞の囜民の力なのだ。時あ぀お我々は、珟今の日本に囜民的英雄の生れ出ないこずを嘆く声を聞くし、英雄さぞ生れ出れば、珟今の日本の行き぀たりは立ちどころに解消するかのやうに語る人を芋る。これほど本末を転倒した話はない。英雄を生み出すものは囜民なのだ。

    䞭谷博『早皲田粟神』倧芳堂曞店、1940幎、pp.33-34

    この䞻匵に、䜐藀は「ファシスト的公共性」の提唱を読み取る。先にも觊れたように、ファシスト的公共性ずは、理性的な蚎議に基づき合意を圢成しおいく埓来型の垂民的公共性ずは異なり、倧芏暡な街頭行進や集䌚、ラゞオやトヌキヌずいったマス・メディアを通じお倧衆に政治的公共圏ぞの参加感芚を䞎え、共感や䞀䜓感によっお合意圢成をしようずする。この点で、剣戟映画などの時代劇映画は前近代的・封建的なロマン䞻矩理性や合理性よりも感情や個人の自由に重きを眮く思想ぞの退行であるずする批刀は重芁な偎面を芋萜ずしおいるず蚀えるだろう。時代劇映画のロマン䞻矩は、囜民統合の必芁性から意図的に「創造された䌝統」であり、衚局的には「封建性」に芋えるかもしれないが、本質的には「近代性」の衚れずしお芋るべきなのである。

     
     
    映像䜜家鳥取倧孊地域孊郚で教員をしおいたす揺動颚景論映画ドキュメンタリヌ鳥取の地域映画史ず公共䞊映🊀蟹鎚🊆アむコンは品岡トトリさんに描いおいただきたした。

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