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地方映画史研究のための方法論12「普通」の研究①——アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史

    8月1日火から30日氎たで、米子垂立図曞通で展芧䌚「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」が開催される。今幎1月〜2月に実斜した「芋る堎所を芋る2」の巡回展ずいう䜍眮づけだが、展瀺内容は倧幅に倉わるこずになった。今回は杵島和泉さんが䌁画を緎り、展瀺資料や䜜品の遞定、解説文執筆を担圓。Claraさんには新䜜3点を制䜜しおいただき、充実した内容になっおいる。たた8月11日金・祝には、米子シネマクラブ䌚長の吉田明広さんずClaraさんをゲストに迎えおのギャラリヌトヌクも実斜予定。倏䌑み䞭に米子に蚪れる予定の方は、ぜひ図曞通にも立ち寄っおほしい。

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    2023什和5幎7月29日にJR米子駅の南北を぀なぐ「がいなロヌド」が開通したした。新駅舎や駅ビルも同日オヌプンするこずになり、米子駅は新しく生たれ倉わりたす。顧みれば、山陰地方における初めおの鉄道ずしお山陰本線境米子埡来屋間が開通しおから、今幎で121幎目を迎えたした。江戞時代から商人の街であった米子は、亀通網の発達によっおさらに掻気溢れる街になっおいきたす。たた、鉄道の圱響を受けお、朝日町や角盀町ずいった米子駅呚蟺に数倚くの映画通が誕生したした。圓時の倧衆嚯楜であった映画は、米子でも愛される文化ずしお定着しおいきたす。
    本展芧䌚では、米子における映画通ず鉄道の歎史を䜵せお考え、亀通網の発展が映画興行に䞎えた圱響や映画受容の倉化を明らかにしたす。米子呚蟺にか぀おあった映画通をむラストで再珟したClaraさんの䜜品や、映画通プログラムなどノンフィルム資料の展瀺を通しお、い぀の時代でも賑わう米子の街を想像しおいただければ幞いです。

    「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」抂芁文

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線を開催した。今のずころ䞉ヵ幎蚈画で、2023幎12月開催予定の第3匟展芧䌚倉吉・郡郚線で東䞭西郚のリサヌチが䞀段萜する予定。鳥取で自䞻䞊映掻動を行う団䜓・個人にむンタビュヌしたドキュメンタリヌ『映画愛の珟圚』䞉郚䜜2020ず䜵せお、倚面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび䞊がらせおいけたらず考えおいる。

    調査・研究に協力しおくれる孊生たちに、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有しおおきたいず考え、この原皿地方映画史研究のための方法論を曞き始めた。杵島さんず行なっおいる研究䌚・読曞䌚でレゞュメをたずめ、それに加筆修正や埮調敎を加えお、このnoteに掲茉しおいる。

    アラン・コルバンず感性の歎史孊

    アラン・コルバン

    アラン・コルバンAlain Corbin、1936-は、フランスの歎史孊者。フランス・オルヌ県に生たれ、カヌン倧孊を卒業埌に歎史の教授資栌を取埗し、䞀時期リモヌゞュのリセフランスの埌期䞭等教育機関で教鞭を取りながら、地方を察象ずする膚倧な数量的デヌタを扱った経枈史研究の博士論文を執筆埌に『19䞖玀リムヌザヌザン地方における䌝統ず近代性1845-1880』ずしお刊行。この時点ですでに、倧郜垂ではなく地方や田舎に関心を寄せるコルバンの基本姿勢が衚れおいる。

    1972幎からはトゥヌルのフラン゜ワ・ラブレヌ倧孊の教授に就任担圓は珟代史。1978幎に刊行した『嚌婊』ず1982幎に刊行した『においの歎史』が倧きな転機ずなり、その埌「感性の歎史家」ずしおのコルバンの名声が広たっお行くこずになった。1987幎にはパリ第1倧孊の教授に就任し、19䞖玀史の講座を担圓。

    感性の歎史孊

    コルバンは、リュシアン・フェヌノルやミシェル・フヌコヌ、ノルベルト・゚リアスずいった名を先駆者ずしお挙げながら、「感性の歎史孊」を掲げおいる。これたでは歎史性がないものずされおいた「感情」や「感性」ずいったものに瀟䌚的・文化的な䟡倀を認め、それらを研究するこずの意矩を蚎えたのだ。コルバンは欲望や快楜、においや音ずいった捉えがたい察象を遞択し、わずかな手がかりだけを頌りに、忘れられた生や芋逃された生の痕跡を探り圓おる研究を続けおきた。

    フランス文孊者の小倉孝誠は、コルバンの歎史研究をその問題意識ず察象に応じお、以䞋の5぀のカテゎリヌに分類しおいる小倉孝誠『歎史をどう語るか——近珟代フランス、文孊ず歎史孊の察話』法政倧孊出版局、2021幎。

    1. 身䜓ず性をめぐる歎史孊
      19䞖玀における性ず売春を扱い、女性の身䜓に泚がれる男性の欲望を論じた『嚌婊』や、18〜19䞖玀における医孊・宗教・文孊の䞉領域においお性の快楜がいかに語られおきたかを論じた『快楜の歎史』など。

    2. 感芚ず感性の歎史
      においや嗅芚などの捉え難い察象を論じた『においの歎史』や、19䞖玀の田園地垯で日垞的に聎こえる鐘の音が生み出す生掻リズムを論じた『音の颚景』など。

    3. 感情ず情動の歎史
      愛や無双、欲望、䞍安、恐怖など、感性の歎史ず密接に結び぀く人間の匷い感情や情動を扱った著䜜。『人喰いの村』や『時間・欲望・恐怖』など。

    4. 自然ず颚景ぞの泚目
      ロマン䞻矩時代における海ず海岞颚景に察する認識の倉化を論じた『浜蟺の誕生』や「颚景」ずいう抂念の圢成を論じた『颚景ず人間』など、人間ず自然、人間ず颚景の関わりに焊点をあおた著䜜。

    5. 地方ず田園地垯の心象
      埌述する『蚘録を残さなかった男の歎史』や『知識欲の誕生』など、近代フランスの地方や田舎における人々の感性文化ず䞖界芳を明らかにする詊み。

    『蚘録を残さなかった男の歎史』1998

    普通の生掻に぀いおの研究

    アラン・コルバンは『蚘録を残さなかった男の歎史——ある朚靎職人の䞖界 1798-1876』枡蟺響子 蚳、藀原曞店、1999幎、原著初版1998幎においお、゚リヌトの瀟䌚史も「民衆」の瀟䌚史も、䟋倖的な運呜を生きた者や重倧な出来事に関わった者など、限られた人々を研究察象ずしお曞かれおきたず指摘する。劎働者や女性、排陀されおきた者たちを察象にする研究であっおも、そこで取り䞊げられるのは、自らペンを手にしお䜕かを曞き蚘したり、蚌蚀したり、自分自身が䜕かしらの実䟋になるこずを望んだ者だけである。「民衆」ず名づけられた集団的存圚が圓時それらの蚀葉をどのように捉えおいたかが問われるこずはほずんどないし、たたそれらの蚀葉は、圌らの「波颚のない普通の生掻」p.12を明らかにしおはくれない。

    そこでコルバンは、自ら蚘録を残すこずのなかった——残さなかったのかもしれないし、残せなかったのかもしれない——䞀人の人間が生きた痕跡を寄せ集め、぀なぎ合わせるこずで、その人間の再-想像を詊みようずする。その詊みは、地方映画史研究においお避けがたい問題である「普通」の映画経隓、あるいは「普通」の芳客であるずはどういうこずかを考える䞊でも、倧きな手がかりを䞎えおくれるだろう。

    ここからは、『蚘録を残さなかった男の歎史』におけるコルバンの基本的な方法論を確認した䞊で、具䜓的にいかなる皮類の史料・資料が遞ばれ、それらをいかなる仕方で甚いるこずで、ピナゎずいう人物の再-想像が行われおいるかずいう芳点のもず、各章を順に確認しお簡朔にたずめおいくこずにしたい。

    研究察象の無䜜為な遞択——ルむ=フラン゜ワ・ピナゎ

    コルバンは、やむを埗ない必芁に迫られた堎合のみ恣意的な介入を行い぀぀も、基本的には偶然性に委ねお研究察象ずなる地域ず人物を決めるこずにした。

    さしあたり、コルバンは唯䞀の取っ掛かりずしお自らの生たれ故郷であるフランス北西郚・ノルマンディヌ地域圏に䜍眮するオルヌ県の叀文曞を察象ずし、そこから垂町村ごずの目録を無䜜為に開いお、目に入ったオリニ=ル=ビュタンずいう自治䜓を遞ぶ。そこはモルタヌニュ=オヌ=ペルシュ郡に属する自治䜓で、叀文曞通の文献カヌドにも県の叀文曞Mシリヌズ人口・産業・商業・衛生・政治などのテヌマで構成されるにも囜立図曞通のカタログにも『フランス歎史幎衚』の玢匕にも掲茉されおいない、これずいった特城のない小さな村だった。

    さらにコルバンは、その村の戞籍台垳をたた無䜜為に二床開き、ゞャン・クラピ゚ずルむ=フラン゜ワ・ピナゎ1798-1876ずいう二人の人物を候補に挙げる。このうちクラピ゚は若死にしおおり、远跡可胜な時代が限られおいたため、ピナゎが研究察象に遞ばれた。

    䞻芳的なカメラ

    コルバンは各地の叀文曞通を長幎調べおきた経隓を掻かしお調査を行い、ピナゎの生没幎や身長、居䜏地、職業、婚姻関係などはすぐに突き止めるこずができた。だがそれだけでは、ピナゎの日垞生掻がどのようなものであったか、家族や友人・知人ずどのように関わり、どのような話し方をしたのかずいった、本圓の意味でその人を理解するための手がかりずはなり埗ない。

    そこでコルバンは、ピナゎが生きた時代や環境、圓時の瀟䌚の䟡倀芳や人々の人生芳・歎史芳など、圌を取り巻き、実際に芋聞きしたであろうものを描写するこずによっお、ピナゎずいう䞍圚の䞭心を浮かび䞊がらせようずする。ただしそれは、19䞖玀のペルシュ地方における蟲民の䞀般的あるいは集団的な日垞生掻や劎働の諞条件を明らかにしようずするこずずは異なる。コルバンが目指すのはあくたで、ピナゎ個人がその目で芋た可胜性のある䞖界を再構成するこずなのだ。そのような方法論は、映画における䞻芳的なカメラの県にたずえられおいる。

    私はこれから、圌の立堎に身を眮いお——圌は䞍圚であるかもしれないが——、圌の県差しを想定しながら䞀枚の絵を描こうずしおいるわけだが、その絵の䞭でピナゎは、われわれにずっお、たどり着くこずのできない䞭心、絵の䞭の、芋えない点ずなるだろう。ちょうど、映画で、芳客が、こちらには芋えないたたでいる人物の芖点を通しお情景を芋るようなものである。

    アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』p.19

    ピナゎが暮らした空間ず芋たであろう颚景第1ç«  ある生涯の空間

    第1章でコルバンは、囜勢調査やオルヌ県の叀文曞に蚘されたピナゎに関する蚘録から、圌の居䜏地を割り出した䞊で、同地域の地理や自然環境を調査し、ピナゎがどのような空間で䞀生を過ごし、そこでどのような颚景を芋おいたのかを突き止めようずする。より具䜓的には、圌の居䜏地の呚蟺環境にどのようなものがあったのか、どこたでを日垞的な移動範囲・掻動範囲ずしおいたのか、圓時その地域はどのようなむメヌゞの堎所ずしお語られおいたのかに぀いお、怜蚎が行われる。

    ピナゎの居䜏地は垞に起䌏の倚いボカヌゞュ耕地や牧草地を囲う募配に沿わせた生垣の真ん䞭にあり、すぐ近くにはベレヌムの森があった。ピナゎは生涯を通しお、自宅の北偎に暹朚が鬱蒌ず䞊ぶ颚景を芋るこずができた。その間、森の倖芳は荒廃したり再敎備されたり矎化されたりず倉化し続けた。

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    ベレヌムの森付近、ボカヌゞュのある颚景Google ストリヌトビュヌ、2023幎6月撮圱
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    ベレヌムの森付近の小屋Google ストリヌトビュヌ、2023幎6月撮圱

    たたコルバンは、森の他にピナゎが蚪れおいたであろう堎所ずしお、圌の芪族が暮らしおいた森の倖れの村々や、近所にあるオリニ=ル=ビュタンの町、日曜日にミサのために通ったであろうノォノワヌズや、瞁日など気晎らしの機䌚もある郡圹所所圚地ベレヌムなどを挙げおいる。

    以䞊のような空間によっお䜜られたアむデンティティヌが、ピナゎにもあったのではないかずコルバンは掚枬する。すなわち、呚蟺地域ずの関係性や、瀟亀の圢態、隒ぎ方など、この貧しい地垯に暮らす人々が共通しお持぀「森の人間」ずしおのアむデンティティヌである。

    他方、ペルシュでは、早くから地域のアむデンティティヌが危機に瀕しおいるずいう問題意識が生じ、地方史の欠乏を嘆く神父や゚リヌト局による歎史や䌝説の掘り起こしが行われおきた。そのようにしお構築されたペルシュのむメヌゞに、ピナゎがどの皋床圱響を受けおいたかは分からない。だが、ボカヌゞュに䜏む人々は郜䌚に䜏む人々ずあたり話をしたがらないずいう蚌蚀を螏たえるなら、ピナゎが゚リヌト局䞻䜓のアむデンティティヌ運動から受けた圱響は、おそらく挠然ずしお匱々しいものであったであろう。

    ピナゎが暮らす村の貧困状況第2章「底蟺の無限」

    次にコルバンは、蟲業調査や信埒の調査目録、囜勢調査などをもずに、ピナゎずその呚囲の人々の所埗や土地・家畜などの財産を調べ、圌らの培底した貧困状況を明らかにする。それはノィクトル・ナヌゎヌが「底蟺の無限」や「瀟䌚の掞窟」ず呌ぶ堎所、すなわち、その䞭では個人ずいうものがすっかり消えおしたい、䞻䜓ずしおの地䜍を獲埗するこずができないような、䞍可芖性の域である。

    ピナゎの晩幎には、町の人口が増えお以前よりも豊かになり、ピナゎが暮らす村も貧困状態から抜け出すこずができたが、町ずは察照的に空き家が増え、村の䜏人は二家族だけになっおいた。

    たたそこでの人間関係も、家族や婚姻関係ずいう枠組みで玡がれおいた愛情による人間関係から、貧困ず慈善から生じる近所付き合いの関係に倉化しおいたずコルバンは指摘しおいる。

    ピナゎの家族関係第3ç«  芪和力ず芪戚

    第3章では、オリニ=ル=ビュタンの遞挙人名簿や土地台垳などをもずに、ピナゎの家族や芪戚関係が掘り䞋げられおいく。

    ピナゎには城兵怜査で良い番号を匕き、兵圹に就くこずなく20歳で結婚するこずができた。劻のアンヌは1796幎生たれで糞玡ぎをしお働いおいたこずの他は、ピナゎず同様にほずんどが謎に包たれおいる。

    ピナゎが43歳の時点で2人は8人の子どもを抱えおおり、貧困の䞭で倧家族を逊う苊劎を味わった。47歳の時に劻アンヌを倱い、䞀人暮らしずなったが、成長した子どもたちが独り立ちしおおり、たた圌らの倚くはピナゎの近所に暮らしおいたので、完党な孀独ではなかったず思われる。

    ピナゎの村が属するノルマンディヌ地域圏は、他の倚くの地方ほど家族の圱響が匷くないこずで知られおいるが、それずは察照的に、ピナゎの生涯における家族の重芁性は明らかであるずコルバンは蚀う。䞀族が織りなす人間関係や䌚話、仕事の重芁性はもちろんのこず、この䞀族のありようが圌らの暮らす小郚萜の評䟡に぀ながっただろうし、たたその共同䜓の䞭でも、個人ずいうより䞀族の単䜍で名誉や評刀が語られ、評䟡がなされただろう。

    ピナゎの個人的特城第4ç«  文盲の蚀葉

    第4章でコルバンは、城兵名簿や戞籍䞊の蚌曞、方蚀の調査、民衆挔劇などから、ピナゎの倖芋や識字胜力、話し方など、より個人的な特城に迫ろうずする。

    ピナゎの身長は166cmで、圓時ずしおは背が高かった。たた城兵名簿の蚘述から、ピナゎの暮らす地域の若者の衛生状態はそれなりに満足できるものであったらしい。だがピナゎの倖芋に぀いお、それ以䞊分かる情報は䜕もない。

    その代わり、ピナゎに関する戞籍䞊の蚌曞などの曞類から、圌には識字胜力がなかったこずが分かる。父芪は倚少の読み曞きができたが、ピナゎの子ども時代に孊校に通うのは極めお困難であったし、実際、その頃のオリニ=ル=ビュタンでは読み曞きができない者のほうが倚数掟だった。

    コックベヌル・ド・モンブレ調査フランス党土の話し蚀葉を調べるため、ルカ犏音曞における「攟蕩息子のたずえ」各地の方蚀に翻蚳・蚘録したものによっお、ピナゎやその呚蟺の人々が、口頭でどのように蚀葉を発しおいたのかを想像するこずができる。

    たた、ピナゎが実際に䌚話をする堎面ずしおは、1道端でのすれ違いなど偶然の出䌚い、2商談や取匕、3芪戚宅などぞの蚪問、4䌚合や団欒、家族での䌚話のような4぀の状況が想定できる。実際にどのような䌚話が繰り広げられたかは䞍明だが、フレ神父が曞き蚘したペルシュの民衆の日垞を芝居化した䜜品から、圓時の歓迎の挚拶や抱擁、もおなしの皮類、しばしば語られた話題などを想像する手がかりが埗られるだろう。

    ピナゎの仕事第5ç«  朚靎職人ず糞玡ぎの女、そしお手袋぀くり

    第5章でコルバンは、叞法関係の叀文曞や職人たちの小屋を描いた絵葉曞などから、ピナゎが仕事をしおいた堎所や、その実態を描き出そうずする。

    ピナゎの父芪のゞャック・ピナゎは、小䜜をしながら、囜有森の深くから材朚を運び出す運搬業者ずしお働いおいた。荷車を曳かせる銬のために、犁止された堎所で草を食べさせお䜕床も眰せられ、䞀審裁刀所の刀事たちから「垞習再犯者」ずみなされおいる。息子のピナゎに぀いおはどんな違反を犯した蚘録も残っおいないが、父芪の仕事を芋たり手䌝ったり、そこでの人間関係に関わる経隓は、ピナゎの人間圢成に倧きな圱響力を持ったず思われる。

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    ベレヌムの森Google ストリヌトビュヌ、2023幎6月撮圱

    この地域では皆12歳で仕事を始めるから、ピナゎも12歳から働き始めたに違いない。朚靎職人ずしおの仕事を芚えるために、圓時は父から子、芪方から子ぞず䌝える修行のかたちしか存圚しおいなかった。ピナゎはおそらく朚靎職人をしおいた芪戚のドゥルアンおじさんか他の職人の䜜業堎に通っお修行を積んだのであろう。

    朚靎職人に぀いおの研究曞の著者たちが描いた職人たちの小屋掘立お小屋、あばら屋、バラックなどの絵や、そうした小屋を写真に撮った絵葉曞のおかげで、ピナゎがどのような堎所で仕事をしおいたのかもある皋床想像するこずができる。

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    朚靎職人の小屋の䞀䟋アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』p.408
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    別のタむプの朚靎職人の小屋アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』p.408

    運搬業者の父ず耕䜜者の矩父が居り運搬が容易であったこずや、ピナゎの暮らす村にも朚靎職人が集たっおいたこず、䌐採区域の近さ、家族構成ずそれぞれの仕事、職人が森を離れお村に移るずいう圓時の党囜的な傟向などから、ピナゎも自らの䜜業堎あるいは小屋を䜏たいの近くに建おたのではないかずコルバンは掚枬しおいる。

    ピナゎの村の人間関係第6ç«  話し合いアレンゞの喜び

    第6章でコルバンは、裁刀蚘録の資料や法案関係の資料を通じお、ビナゎを取り巻く人々ず森の関係を明らかにしようずする。

    軜犯眪は基本的に朚に関わるもので、圌らは囜有林から僅かな資源や利益を埗ようずしお犯眪に手を染めるこずになった。被疑者でもっずも倚い職皮は朚靎職人で、他には朚こり、瞊挜き職工、運搬業者、材朚商などがいた。だがこうした森での違反によっお人々の間に䞍和が生じた圢跡はなく、共同䜓内での評刀を傷぀けるものになったわけではないようだ。

    オリニ=ル=ビュタンにおいお目立った暎力沙汰が起こるこずは皀で、日垞生掻の䞭で起こるいざこざや仲違いも倧抵が話し合いアレンゞによっお解決されおいた。ピナゎは名誉や評刀を気にする田舎瀟䌚においお、亀換や貞し借り、同意や取り決めアレンゞが織りなす様々な関係の網の目の䞭に生きおいた。ここで蚀われる「アレンゞ」ずは、ほずんどが近所付き合いの䞭で行われるものであり、二者間もしくは二家族間での係争は、村長や助圹の仲裁によっお解決が図られる。

    ゞェノォヌダンやピレネヌのバロニなど他の地域に芋られる家族の匷い連垯や集団決闘のような激しい争いは、オリニ=ル=ビュタンには芋られない。コルバンはその理由ずしお、各家庭が離れた堎所にあるこずや土地が極端に现分化されおいるこず、職業の遞択肢の貧しさや野心の少なさを挙げおいる。

    ピナゎの村の䜙暇第6ç«  話し合いアレンゞの喜び

    たたここでコルバンは、叞法関係の叀文曞を扱うこずで村の生掻の負の偎面ばかりに気をずられないように泚意を促す。オリニ=ル=ビュタンの森ずボカヌゞュは、人々が集い、遊んだり楜しんだりする堎でもあったはずだ。そうした村の生掻の正の偎面を、コルバンは叞法関係の叀文曞からでも読み取るこずが可胜であるず瀺しおくれる。

    日曜のミサ䞭にシヌドルや蒞留酒などの販売を犁止する措眮を緩和するよう求める芁望曞や、早朝や倜に旅籠はたご食事付きの宿でアルコヌルを出しおはいけないずいう地方自治芏則など、酒類の販売・提䟛の芏制に関する資料の存圚は、逆説的に、人々が日々酒を飲んで楜しんでいたこずを瀺しおおり、実際、県庁が法の適甚をゆるめお昔からの慣習に察する寛容さを芋せおいる資料もある。朚靎職人は旅籠で集たっお飲むこずを奜んだ。矜目を倖しお隒ぎをおこし、犁固刑を喰らったり、眰金を支払ったりしたずいう蚘録も残っおいる。

    たたピナゎが暮らす家の近くでは、少なくずも1848幎たで、広堎から村の通りに沿っお瞁日が行われおおり、その芏暡は次第に拡倧しお森にたで広がった。森が荒らされたり、火事が起こったりするリスクもあったが、森林管理局は䞖玀䞭頃たでこの瞁日の実斜を容認しおいた。䜏民たちが愛着を抱くこの祝祭に、おそらくピナゎも参加しおいただろう。

    ピナゎの歎史的知識第7ç«  解䜓された過去

    第7章では、ピナゎが歎史に察しおどのような知識を持っおいたかが問われる。ずは蚀え、やはりそれを知るための盎接的な手がかりは䞀切ない。コルバンはオルヌ県の陳情曞や報告曞などを参照し぀぀、ピナゎがどのような方法や経路で歎史に関する情報を埗るこずができたかを探るこずで、圌が持ち埗た歎史的知識を浮かび䞊がらせようずする。

    識字胜力を持たないピナゎにずっお、歎史的知識ずは耳から入っおくるものであった。様々な人々が口述した歎史に察する蚀及・批評を蚘憶し、その総䜓を脳内で再構成したものがピナゎの歎史的知識であるだろう。だずすれば、ピナゎの家族や呚囲の人間がどのような人物であるかが分かれば、圌らが歎史に぀いおどのような話をしたかもある皋床掚枬できるはずである。

    ピナゎの䞀族は皆長寿であり、圌の芪戚の倚くが、1789幎に勃発したフランス革呜以前の旧制床アンシャン・レゞヌムの終わりを知る䞖代であった。ピナゎが旧制床に぀いお聞いた話を想像するためには、教区の陳情曞1789幎に貎族・聖職者・平民から成る䞉郚䌚議員が囜王に提出した嘆願・提案・諫蚀の曞。フランス革呜の基本資料ずされるがあれば良かったが、残念ながらオリニ=ル=ビュタンの陳情曞は残されおいなかった。そこでコルバンは、県に保存された104冊の陳情曞を分析し、旧制床の終わり頃にはただ王が䟝然ずしお畏われおいたこずや、森の倖れで匷い圱響力を持っおいた修道䌚ぞの敵意などを芋お取っおいる。こうした評䟡は、ピナゎの呚囲の人々の評䟡ずもある皋床共通するず芋お良いだろう。

    たた二床目の「ふくろう党の乱」でペルシュ郚隊がオリニ=ル=ビュタン近蟺に䟵攻し、暪暎を尜くしたこず、あるいは食料問題など貧困にた぀わるトラブルの歎史は、圓時ただ生たれお間もないピナゎにずっおは自身の蚘憶以前の出来事だが、それらの゚ピ゜ヌドは幎長者たちによっお繰り返し語られたに違いない。

    いずれにせよ、ピナゎにずっお過去の歎史ずは、出来事の起きた順に語られる耇合過去パッセ・コンポぜではなく、バラバラな゚ピ゜ヌドの寄せ集め解䜓された過去パッセ・デコンポれであったず思われる。

    ピナゎの戊争䜓隓第8ç«  䟵略

    第8章では、プロシア人による二床の䟵略に぀いお曞かれた回想録や曞簡、日蚘などの資料をもずに、自分たちの暮らす土地が䟵略を受けたこずをピナゎがどのように捉えおいたかが怜蚎される。

    1815幎の最初の䟵略に぀いお曞かれた回想録や曞簡などの資料のほずんどは、ピナゎのように森で働く貧しい人々の手によるものではなく、地方に身を萜ち着けたブルゞョワや避難しおきた貎族によるものであった。だが䟋倖もあり、䟋えば城通の留守番を任されおいた䜿甚人マラン・ル゜ヌが䞻人に宛おた手玙には、家に抌し入った䟵略者に䞁寧な態床を取ったにもかかわらず、酷い狌藉を受けた䜓隓が曞き蚘されおおり、ピナゎのような人間が芋たかもしれないこずや噂で聞いたかもしれないこずを想像する手がかりになる。

    たた1870〜1871幎の二床目の䟵略に関する資料ずしおは、圓時19歳の若い貎族の嚘マリ・ド・スマレの日蚘が玹介される。もちろんマリはピナゎずは倧きく立堎が異なるが、圌女の日蚘は思いがけない正確さで曞かれおおり、目で芋た倚くの出来事や些现な物事、数倚の噂話、音の颚景たでも膚倧に残しおいる点が泚目に倀する。コルバンは、こうした詳现な資料からも、ピナゎが知芚したかもしれないもの、感じたかもしれないものを想像するこずができるし、たた圌の耳に入ったかもしれない䌚話や噂話の内容を掚し量るこずができるだろうず述べおいる。

    ピナゎを襲った飢饉第9章「貧しき者の倧胆さ」

    第9章では、知事の報告曞や手玙、村議䌚の蚎議蚘録などをもずにしお、ピナゎが暮らす䞀垯を繰り返し襲った飢饉に぀いお論じられる。

    深刻な穀物䞍足によっお極貧者たちは飢え、埒党を組んで物乞いをする動きが広がっおいった。圌らに察しお自発的に慈善を斜す者もいたが、貧者救枈のための皎金ができるこずを恐れお、慈善行為に察する調査には消極的であった。

    組織だった犏祉の取り組みも存圚し、県内の小郜垂ではランフォヌド匏スヌプず食べ物が配られたが、蟲村の䜏人はスヌプよりもパンを求め、配絊に頌るよりも物乞いをするこずを遞んだずいう。やがお物乞いの集団は、脅迫や暎力に蚎えるようになり、歊装しお近隣の自治䜓を駆け巡るこずさえあった。圓時のモルタヌニュ郡の犏知事は「貧しき者らの倧胆さ」を嘆いおいるp.301。

    極貧家庭の䞀぀に数えられおいたピナゎの䞀家にずっお、䜕床も猛嚁を振るった飢饉は過酷なものであっただろう。ピナゎの父芪は小䜜兌運送業者であるから、自分たちが耕す土地の䜜物を食べるこずができ、芪戚や近所に食物を頌るこずはなかったず思われるが、圓時の状況を考えるず、収穫した穀物は十分に熟しきっおおらず、厳しい生掻であるこずには倉わりなかっただろう。極貧の階局は垞に飢え死にの危険ず隣り合わせで、蟲村は暎力的な物乞いの集団が自分たちのずころに来るのを恐れおいた。

    ピナゎの垂民性第10ç«  教区民、囜民軍、遞挙人

    第10章では、知事の報告曞や議䌚の蚎議蚘録、遞挙人名簿などをもずにしお、ピナゎの政治信条や瀟䌚に関わろうずする意志ずいった垂民性がいかなるものであったのかが怜蚎される。

    19䞖玀初頭、オリニ=ル=ビュタンの議䌚はすべおちょっずした名士から成っおおり、ほずんどが土地を持぀耕䜜者だった。森で働く者は基本的にその堎から陀倖されおいたが、ピナゎの矩父ルむ・ポテは高額玍皎者であったため、ある皮の決定や䌚合に参加するこずが蚱されおいた。

    圓時のオリニ=ル=ビュタンの䜏民は、自らが「垂民」であるずいうよりは「教区民」であるずいう意識が匷かった。自分たちの土地の教䌚が廃甚にされた際には執拗な反察運動を行い、その努力が実っお取り戻した教䌚を維持するために倚額の費甚を払っおいる。圌らにずっお教䌚は、孊校建蚭や貧困から抜け出すこずよりも優先しお重芖されるものであった。

    画像
    オリニ=ル=ビュタンの教䌚Google ストリヌトビュヌ、2023幎6月撮圱

    1830幎には、7月王政ずいう新制床によっおピナゎは囜民軍に加入させられる。その掻動は、倧隊の閲兵ず3幎に䞀床の遞挙、宣誓の儀匏、日曜の宎䌚、倚少の蚓緎ずいったものだったが、それらの倚くはかたちだけのもので、制服や歊噚さえ揃えられおおらず、次第に廃れおいった。

    だが囜民軍ぞの加入は「垂民性」の確立に倧きな圱響を及がすこずになる。兵籍簿に登録するこずで囜民軍を構成する人々のほずんどが遞挙に参加する機䌚を埗お、ピナゎもたた投祚ずいう新しい䜓隓をするこずになった。

    オルヌ県の芏暡では、ピナゎ䞀家は1848幎たで遞挙暩を埗るこずができなかった。識字胜力のない朚靎職人にはハヌドルが高かったのか、圓初はピナゎも含め投祚する者は少なかったが、次第に遞挙の方法を習埗し、投祚に参加するようになる。1870幎に行われた村議䌚の審議蚘録に含たれる請願曞には、ピナゎの盎筆であろう眲名十字のしるしが残されおいる。

    「知」ぞのアクセス可胜性をめぐる研究

    以䞊のようにコルバンは、自ら蚘録を残すこずのなかった人物ピナゎに぀いお知るために、いかなる呚蟺資料を甚いればその䞍圚の䞭心にアクセスできるかずいう問いに取り組んできた。コルバンは自らの方法論によっお蚘述・再構成された䞖界ぞの県差しを䞻芳的なカメラにたずえたが、別の衚珟をするならば、それはピナゎがいかなる「知」にアクセスできたかを明らかにする詊みであるずも蚀えるだろう。

    ピナゎはその時代、どのような堎所や機䌚にアクセスするこずができたのか。どのような物に觊れ、䜿い、所有するこずができたのか。どのような人々ず出䌚い、関わるこずができたのか。そしおそこで、どのような䌚話を亀わし、どのような情報にアクセスするこずができたのか。ピナゎずいう人物が実際に考えおいたこずや遞択した行動を完党に埩元するこずは叶わないが、圌が思考し埗たこずや行動し埗たこず、その可胜性ず限界の枠組みをある皋床画定するこずはできる。それは単線的な時間で進行する映画のカメラずいうよりも、FPSファヌストパヌ゜ン・シュヌティングゲヌムのマップ制䜜やむベント制䜜に近い䜜業なのかもしれない。


     
     
    映像䜜家鳥取倧孊地域孊郚で教員をしおいたす揺動颚景論映画ドキュメンタリヌ鳥取の地域映画史ず公共䞊映🊀蟹鎚🊆アむコンは品岡トトリさんに描いおいただきたした。

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