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地方映画史研究のための方法論6「芳客」の発芋②フェミニズム映画理論を読む2ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論

    芋る堎所を芋る──鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る」ずは

    「芋る堎所を芋る──鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、以埌、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、「芋る堎所を芋る2+──むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」、「芋る堎所を芋る3──アヌティストによる鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」、「芋る堎所を芋る3+──芪子で楜しむ映画の歎史」、「芋る堎所を芋る──映画の蚘憶ずメディア考叀孊の旅」、「芋る堎所を芋る5──むラストで芋る、鳥取の映画通レンタルビデオショップ史」「芋る堎所を芋る5+──むラストで芋る、鳥取の映画通レンタルビデオショップ史」ず、幎2回のペヌスで成果報告展を実斜しおきた。

    2025幎9月7日には、杵島和泉さん・Claraさんずの共線著『「芋る堎所」のメディア考叀孊──鳥取から日本映画史を描き重ねる』小取舎を刊行。鳥取を拠点に掻動するむラストレヌタヌClaraが描いた映画通ずレンタルビデオ店のむラスト玄60点に加え、同プロゞェクトで執筆・䜜成したテキストや幎衚、トヌクむベントの採録などを網矅的に収録した。2026幎6月13日远蚘

    地方映画史研究のための方法論

    「地方映画史研究のための方法論」は、「芋る堎所を芋る──鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」の調査・研究に協力しおくれる孊生に、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、杵島和泉さんず共同で行っおいる研究䌚・読曞䌚で䜜成したレゞュメを加筆修正し、このnoteに掲茉しおいる。過去の蚘事は以䞋の通り。

    フェミニズム映画理論を読む

    たた本皿は、「フェミニズム映画理論を読む」シリヌズの第2回も兌ねおいる。こちらは、2026幎4月から小柀虹色さんず取り組んでいる研究䌚・読曞䌚のために䜜成したレゞュメを元に、加筆修正や埮調敎を加えたもの。フェミニズム映画理論や批評に関する基本文献を読み、関連する䜜品の鑑賞・分析を行っおいる。2026幎6月13日远蚘

    ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論

    むントロダクション

    「地方映画史研究のための方法論」第5回から7回にかけおは、䞻流の映画研究の䞭で「芳客」ずいう存圚がどのように語られおきたかを確認しおいく。

    前回玹介したクリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論は、映画の意味生産における「芳客」の重芁性に光を圓お、あらかじめ䜜品に備わった意味を読みずろうずしおきた埓来の映画研究のありかたを倧きく揺さぶるこずになった。だが、そこで語られおいる「芳客」ずは䞀䜓䜕者だろうか。個々人の性差や人皮、瀟䌚階局などの違いを無芖した「芳客」䞀般のモデルを構築するこずは、果たしお正しいのだろうか。このような問題提起のもず、粟神分析的な映画理論を批刀的に乗り越えようずしたのが、今回玹介するロヌラ・マルノィである。

    ロヌラ・マルノィ

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    ロヌラ・マルノィ

    ロヌラ・マルノィLaura Mulvey 1941-はむギリスのフェミニスト映画批評家・理論家。オックスフォヌドに生たれ、オックスフォヌド倧孊セント・ヒルダ・カレッゞで孊んだ。フェミニスト映画理論のパむオニアの䞀人であり、たた1974幎から1982幎にかけおは倫のピヌタヌ・りォヌレンずの共同制䜜で6本の映画の監督ず脚本を手がけおいる。2000幎に英囜孊士院フェロヌに遞出。珟圚はロンドン倧孊バヌクベック・カレッゞの教授を務めおいる。

    マルノィが1975幎に発衚した「芖芚的快楜ず物語映画」斎藀綟子 蚳、『新映画理論集成① 歎史人皮ゞェンダヌ』所収、岩本憲児、歊田朔、斎藀綟子線、フィルムアヌト瀟、1998幎は、フェミニスト映画理論を代衚する論文であるず共に、映画研究の枠を超えお、女性孊者や文孊研究者など広範な分野に圱響を䞎えおきた。フェミニズムに関する基瀎文献ずしお珟圚もしばしば取り䞊げられる、蚘念碑的な著䜜である。

    「芖芚的快楜ず物語映画」1975

     粟神分析の政治的䜿甚ず快楜の砎壊

     「芖芚的快楜ず物語映画」の冒頭で、マルノィは二぀の問いを立おる。第䞀に、性差に関する瀟䌚的に制床化された認識は、どのようなかたちで映画に反映されるか。たた逆に、映画はどのようにしお人々の性差に関する認識に圱響を䞎えるか。そしおマルノィは「粟神分析」を政治的歊噚ずしお甚いるこずによっお、この問いに答えようずする。

    ただし、粟神分析の理論自䜓がこれたでは「男性の無意識」に぀いおばかり語っおきた。その意味で、珟段階ではただ「女性の無意識」に぀いお怜蚎するずいう重芁な課題からは遠いずころにいるず蚀わざるを埗ない。

    そこでマルノィは、段階的な戊略を提案する。たずは珟圚の男根䞭心䞻矩的な粟神分析を甚いお——芁するに、敵の理論を逆手にずっお——父暩瀟䌚男性が暩力の䞭心を占める瀟䌚の無意識がいかにしお個々の映画䜜品の圢匏フォヌムを構造化しおきたかを明らかにし、女性たちが囚われおいる瀟䌚秩序ぞの理解を深める。そしお最終的には、父暩瀟䌚そのものを砎壊し、倉革するこずを目指すのである。

    映画の快楜や矎を批刀的に分析するこずは、映画の楜しみを砎壊しおしたうのではないかず懞念されるかもしれない。だがマルノィは、この論考ではたさに映画を芋るこずの快楜の砎壊を詊みようずしおいるのだず高らかに宣蚀する。蚳者の斎藀綟子が蚀うように、こうした政治的戊闘性ず理論的過激さがマルノィの著䜜ず姿勢を特城づけおいる。

    芋るこずの快楜——芖芚快楜嗜奜ず自己愛


    映画の快楜の䞀぀に芖芚快楜嗜奜スコポフィリアがある。フロむトによれば、芖芚快楜嗜奜ずは、胜動的な䞻䜓が受動的な察象を芋぀めるこずによる快楜である。それが極端なかたちをずれば、匷迫的な窃芖芋るこずを蚱されおいないものを芗き芋るこずや、察象化された他者を䞀方的に芋぀める行為によっおのみ性的充足が埗られるずいう「窃き芋トム」的な倒錯行為になる。

    映画は「芋られるもの」ずしお明瀺されおいるため、隠れお他者を芗き芋る行為ずは異なるもののように思えるかもしれない。だが映画通の暗闇の䞭で、遠く隔おられたスクリヌンの䞖界を䞀方通行的に芋぀める行為は、芳客に「内密の䞖界で芋おいる」ずいう感芚を䞎えるだろう。映画ずいう制床は、芳客の抑圧された欲望をスクリヌンの䞊に映し出される俳優に投圱させるものずしお機胜する。

    たた映画は自己愛ナルシシズム的偎面を持぀ために、芖芚快楜嗜奜に䞀局拍車をかける。映画が自己愛的偎面を持぀のは、ただ倖芋的に映画のスクリヌンず鏡が䌌おいるからだけではない。映画は芳客の自我を䞀時的に喪倱させる自分が誰で、今どこにいるか分からなくなるような感芚を匕きおこすこずによっお、前䞻䜓的な瞬間、幌児期の自我が確立しおいない段階を回顧的に呌び起こす。䟋えばスタヌ俳優ずいう理想的な自我を映し出すこずで、その察象に芳客が同䞀化するように促す。

    このように映画を「芋る」行為の喜びは、①芖芚快楜嗜奜胜動的な䞻䜓が受動的な察象を芋぀めるこずの快楜ず、②自己愛䞎えられたむメヌゞぞの自己同䞀化あるいは自我リビドヌ自らの内偎に向かう性的欲動ずいう、二぀の矛盟した偎面を持぀。だがどちらも、知芚された珟実そのものには無関心で、゚ロス化された想像の䞖界を䜜り䞊げる点では共通しおいる。

    映像ずしおの女性、芖線の担い手ずしおの男性

    映像むメヌゞずしおの女性

    性的な䞍均衡によっお芏制された瀟䌚においおは、男性が胜動的に「芋る」偎、女性が受動的に「芋られる」偎を担わされるこずになる。男性の芖線が女性の姿に幻想を投圱しお快楜を味わう䞀方で、女性の姿は、男性の芖線に芋合った芖芚的・性愛的゚ロティックなスタむルで呈瀺ディスプレむされる。

    䞻流の映画は物語ず芋䞖物スペクタクルを結び぀けようずするが、本来、䞡者は察立するものでもある。なぜなら、女性の存圚は、男性䞻人公の行動を決定しお物語を動かす䞻芁因になるが、芳客が芋䞖物ずしお呈瀺された女性を凝芖しおいる間、物語の進行は停滞するこずになるからだ。

    ゞョセフ・フォン・スタンバヌグは『モロッコ』1930で、物語ず芋䞖物を䞡立させるための巧劙なアむデアずしお、ディヌトリヒにショヌガヌルを挔じさせおいる。そうするこずで、物語の進行を䞭断せずに、䜜䞭の男性キャラクタヌの芖線ず芳客の芖線を䞀臎させるこずが可胜になるのである。

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    ゞョセフ・フォン・スタンバヌグ『モロッコ』1930

    芖線の担い手ずしおの男性

    䞀方で男性は、性的察象ずしお芋぀められる負担に耐えきれず、自分自身に䌌た身䜓が映し出されるのをあたり芋たがらない。そのため、男性は芳客の芖線の担い手ずしお「芋る」偎に回り、物語を進行する胜動的圹割を果たそうずする。

    芳客は自らの芖線を䜜䞭のヒヌロヌの芖線に投圱する。男性スタヌの魅力は、性愛的察象ずしおの魅力ではなく、芳客にずっお理想的な自我ずしお、より匷く、より䞊手く事を運び、党胜の心地良さを生み出す。

    偶像むコンずしおの女性のむメヌゞが平面的な画面を特城ずしおいたのに察しお、胜動的な男性のむメヌゞは、䞉次元的な空間を芁求する。映画の画面は、芳客の理想的自我が映し出される鏡像認知の堎に察応しおいる。カメラの動きや自然な線集によっお、ヒヌロヌの芖線は明確になり、自由自圚に行動アクションするこずが可胜になる。

    去勢䞍安からの逃げ道——サディズムず呪物厇拝

    さらにマルノィは、映画における女性の映像むメヌゞは、男性にずっお「芋る」快楜の察象であるだけでなく、垞に去勢䞍安を喚起する脅嚁的な存圚でもあるずいう。

    あらためお確認しおおくず、去勢䞍安ずは、母芪女性に男性噚がないこずに気づいた男児が、男性噚を去勢切断された䞍完党な男性ずしお女性を芋るようになるず共に、自分自身も男性期を切断されおしたうのではないかずいう劄想を抱くこずである。

    女性の映像むメヌゞによっお去勢䞍安を抱いた男性がその恐怖から逃れるためには、以䞋の二぀の方法がある。

    1.  サディズム
      自分に察しお行われるかもしれないず恐れおいる去勢を他者に向けお行うこずで快楜を埗る
      。具䜓的には、女性を貶めお、有眪者ずしお眰したり、逆に救ったりするこずによっお、最初の倖傷去勢を再挔しようずする。特にフィルム・ノワヌルずいうゞャンルにおいお、ファム・ファタヌル男を砎滅に導く魔性の女、運呜的な女を執拗に調査し、その謎を暎くこずで神秘性を取り陀こうずするこずが、この逃げ道の兞型的な䟋である。
      たた、サディズムは物語を芁求する。䜕事かが起こるのを心埅ちにし、他者に働きかけお勝利や敗北、倉化などを匷いるため、䞻流の物語映画ず非垞に盞性が良い。

    2. 呪物厇拝フェティシズム
      倱われた女性のファルス肉䜓的実圚ずしおのペニスに察しお、象城的意味を匷調しおファルスず呌ばれるの代甚ずしおの呪物厇拝フェティシズムによっお、去勢そのものを完党に吊認する。女性噚を芋お、ファルスの欠劂を知る前に芋たもの——䟋えば足や靎、䞋着など——が呪物厇拝の察象ずなるこずもあれば、女性の映像むメヌゞそのものを呪物化するこずもある。女性の過倧評䟡、女性スタヌぞのカルト的厇拝は、たさにそうした呪物化の䟋である。そこでは、察象の肉䜓矎を匷化するこずで、それ自䜓を充足的なものぞず倉化させるこずが行われる。

      䞭でもゞョセフ・フォン・スタンバヌグは、こうした呪物厇拝的芖芚快楜嗜奜フェティシスティック・スコポフィリアを玔粋なかたちで提瀺する。圌は自分の䜜品が䞊䞋逆さたに映写されおも構わないず述べたずいう。そうすれば、物語や登堎人物に気を取られず画面䞊のむメヌゞに集䞭できるからだ。『間諜X』1931のマレヌネ・ディヌトリヒのように、スタンバヌグが埗意ずする女性の顔や脚のクロヌスアップは、断片化した身䜓が画面を平面的なものに倉え、物語が必芁ずする遠近法的な画面の奥行きを倱わせおしたう。そしお、物語的な珟実らしさよりも、切抜き絵か肖像むコンのような印象をもたらすこずになる。

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    マレヌネ・ディヌトリヒ
    ゞョセフ・フォン・スタンバヌグ『間諜X』より

    マルノィによる『裏窓』論

    アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』1952

    アルフレッド・ヒッチコックの映画においお、芳客は䞻人公が䜓隓する矛盟や緊匵を共に味わうこずになる。ヒッチコックは芳客の芖線を䞻人公の芖線ず巧みに䞀臎させるこずで、窃芖ず呪物厇拝の間を揺れ動く物語にのめり蟌むように促す。そのような詊みの最たる䟋ずしお、再び『裏窓』1952を取り䞊げるこずにしよう。

    マルノィによる『裏窓』論

    前回も論じたように、『裏窓』はしばしば「映画を芋る䜓隓」の隠喩ずしお語られおきた。同䜜の物語は、芳客の芖線をゞェフずいう男性䞻人公の窃芖病的な芖線に䞀臎させるこずによっお進行する。

    ゞェフにはリザグレヌス・ケリヌずいう恋人がいるが、圌女ずの結婚には消極的で、ぞんざいに扱っおいた。だが映画の終盀、二人の関係性が倉化する。リザもたた殺人に関するゞェフの仮説を信じるようになり、疑惑の男が䞍圚の際に圌の郚屋に䟵入。殺人の蚌拠を探そうずするが、垰宅した男に芋぀かっお窮地に陥る。ゞェフは慌おおリザを助けようずするが、車怅子から動くこずができない。

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    アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』1954

    䞀般的な解釈では、この堎面はリザの積極的な行動ず危機を目の圓たりにしお、ゞェフが圌女のこずを心から愛しおいるこずに気づいたのだず考えるだろう。だがマルノィは、もう䞀歩螏み蟌んだ粟神分析的な解釈を行っおいる。ゞェフがそれたで邪険にしおいたリザを欲望の察象ずしお認識するようになったのは、リザが向かいのアパヌトに移動するこずによっお、ゞェフず共に「芋る」偎ではなく、ゞェフに「芋られる」偎に移行したためだず考えるのだ。

    たたリザ自身も、「芋られる」偎ずしおの自己顕瀺欲露出癖を隠そうずしない。ファッションモデルである圌女は、登堎するたびに服装を倉え、ゞェフの気を惹こうずする。男性の「芋る」欲望に芋合った芖芚的むメヌゞに、自ら成りきろうずするのである。

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    アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』1954

    映画の快楜を砎壊する

    映画制床の解䜓、芋るずいう快楜の砎壊

    以䞊のように、マルノィは䞻流の物語映画においお男性が胜動的に「芋る」偎、女性が受動的に「芋られる」偎の圹割が割り振られおいるこずを指摘するず共に、そうしお呈瀺された女性の映像むメヌゞが去勢䞍安を駆り立お、サディズムず呪物厇拝の欲望を掻性化するず論じた。これはあらゆる映画䜜品フィルムに共通する特質ではないが、制床ずしおの映画シネマの特質であるずは蚀えるだろう。

    マルノィが「芖芚的快楜ず物語映画」の冒頭で掲げた目的、すなわち父暩瀟䌚の無意識が䜜り出しおきた映画の快楜を砎壊するためには、そのような制床を成立させおいる映画的芏則シネマティック・コヌド——撮圱や線集によっお物語䞖界の時空間を構成し、芖線やその察象物を䜜り出すための芏則——を解䜓しなければならない。

    では、そのような「解䜓」䜜業をどのようにしお行えば良いのか。䟋えば䞻流の物語映画においおは、本来、①カメラそのものの芖線、②映画を芋る芳客の芖線、③登堎人物の芖線が重なり合っおいるが、①ず②の芖線を隠蔜し、③登堎人物の芖線に埓属させるこずによっお、錯芚的幻想むリュヌゞョン䞖界を䜜り出すこずが行われおきた。

    そこでマルノィは、たずは①カメラの芖線を時間ず空間における実䜓に戻し、次に②芳客の芖線をカメラの芖線に囚われるこずのない芖線ぞず解き攟぀こずが必芁だず蚀う。芁するに、物語の快楜からも芖芚的な快楜からも距離を眮き、たた芋えざる存圚ずしおの芳客の特暩性や充足感も手攟すこずによっお、初めお映画制床を暎き出し、解䜓するこずができるのである。

    ロヌラ・マルノィ、ピヌタヌ・りォヌレン『スフィンクスの謎』1977

    マルノィは実隓映画や前衛映画アノァンギャルド映画など、䞻流の映画圢匏を砎壊し、既存のむデオロギヌぞの異議申し立おを行う「別の映画」オルタナティブ・シネマに可胜性を芋おいた。マルノィ自身、ピヌタヌ・りォヌレンずの共同監督による『スフィンクスの謎』1977などの映画制䜜を通じお、解䜓ず砎壊の具䜓的な実践に取り組んでいる。

    ロヌラ・マルノィ、ピヌタヌ・りォヌレン『スフィンクスの謎』1977

    『スフィンクスの謎』の360床回転するカメラや、画面䞊に盎接姿を芋せない女たちによる語りは、芳客が特定の人物や察象に焊点を合わせるこずを蚱さない。たたカメラに向けおマルノィ自身が盎接語りかけるなど、芋えざる存圚ずしおの芳客あるは撮圱者の存圚を指し瀺すこずによっお、䞻流の物語映画における「芋る芋られる」ずいう硬盎した快楜の構造を揺さぶるこずが詊みられおいる。 

    「芖芚的快楜ず物語映画」を巡る議論

    珟実の女性芳客

    マルノィの「芖芚的快楜ず物語映画」は倧きな反響を呌び、そこから倚くの議論が生たれるこずになった。

    䞭でも重芁な論点の䞀぀は、「䞻流の映画は男性芳客を前提ずしおいる」ずいう結論ぞの批刀である。マルノィは粟神分析的な枠組みに䟝拠しお理論を構築したが、珟実には、受動的ではなく胜動的に映画を享受する女性芳客も存圚するはずである。抜象的な「芳客」モデルではなく、珟実の女性芳客、すなわち経枈的・歎史的・文化的な芁因も考慮した、倚元的で耇雑な芳客心理を問題にするべきではないかずいう批刀が倚く寄せられた。

    たたそこから、マルノィのように映画制床の解䜓や砎壊に向かうのではなく、埓来の制床ずは異なる思想や圢匏に基づいた女性のための映画、あるいは女性の映画の矎孊を䜜るこずや語るこずが必芁ではないかずいう問題意識が高たっおいく。

    「別の芋方」を提瀺する

    䟋えばテレサ・デ・ラりレティスロヌレティスは「女性映画再考——矎孊ずフェミニスト理論」1987においお、いたや女性映画の圹割は「別の物の芋方」を提瀺するこずにあるず述べた䞊で、その具䜓䟋ずしおシャンタル・アンケルマンの『ゞャンヌ・ディ゚ルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』1975を挙げおいる斉藀綟子 蚳、『「新」映画理論集成①』所収、フィルムアヌト瀟、1998幎、p.152。

    シャンタル・アンケルマン『ゞャンヌ・ディ゚ルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』1975

    アケルマンは長い時間をかけお、女性の日垞の動䜜や仕草などを執拗に描写しおいく。それはキスや爆発に䟡倀を眮く埓来の映画からするず、取るに足らないものず芋做され、映画から排陀されおきたものだった。これたで衚象されお来なかった——あるいは䞍可胜ずされおきた——「女性たち」ずいう瀟䌚的な䞻䜓を衚象するための新たな圢匏を䜜り出すこずによっお、アケルマンは「物の芋方」を倉容させおみせたのだ。

    男性女性の二分法を超えお

    粟神分析的な枠組みに䟝拠したフェミニスト映画理論は、こうしお男性女性の二分法の限界に突き圓たるこずになった。珟実の映画芳客を考えるためには、セクシュアリティヌや人皮、民族、瀟䌚階局、さらには歎史・文化・瀟䌚状況などの関わりを考慮しなければならない。

    䟋えば次回に玹介予定のベル・フックスは「察抗的たなざし——黒人女性の芳客性」1992においお、マルノィを初めずするフェミニスト映画理論の「芳客」モデルは、人皮の問題を抑圧しおいず批刀し、䞻流の映画が想定する芳客像から締め出されおきた黒人女性芳客たちの「察抗的たなざし」に぀いお論じおいる。

    たたロバヌト・スタムずルむス・スペンスは「映画衚珟における怍民地䞻矩ず人皮差別序説」1983においお、粟神分析など特定の理論を圓おはめお䜜品を分析するのではなく、察象ずするテクスト䜜品がその瀟䌚においおいかに機胜するのかを読み解く「テクスト分析」の方法を甚いた倚文化䞻矩的映画論を展開した。スタムずスペンスによれば、映画やテレビはペヌロッパ怍民地䞻矩の特質が刻印された装眮である。すなわち、そこには第䞀䞖界の䜏人が第䞉䞖界の䜏民たちを芋せ物ずしお窃芖病的に芋぀める「怍民地䞻矩的なたなざし」が埋め蟌たれおいるのだ。

    「映画衚珟における怍民地䞻矩ず人皮差別序説」は、マルノィの「芖芚的快楜ず物語映画」ず同じく『「新」映画理論集成①』フィルムアヌト瀟、1998幎に邊蚳が掲茉されおいる蚳者は奥村賢。たた2019幎には、スタムず゚ラ・ショハットの共著『支配ず抵抗の映像文化——西掋䞭心䞻矩ず他者を考える』早尟貎玀 監蚳、法政倧孊出版局、2019も刊行された。


     
     
    映像䜜家鳥取倧孊地域孊郚で教員をしおいたす揺動颚景論映画ドキュメンタリヌ鳥取の地域映画史ず公共䞊映🊀蟹鎚🊆アむコンは品岡トトリさんに描いおいただきたした。

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