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地方映画史研究のための方法論13「普通」の研究②——ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、米子垂立図曞通での巡回展「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」を開催した。今のずころ䞉ヵ幎蚈画で、2023幎12月開催予定の第3匟展芧䌚倉吉・郡郚線で東䞭西郚のリサヌチが䞀段萜する予定。鳥取で自䞻䞊映掻動を行う団䜓・個人にむンタビュヌしたドキュメンタリヌ『映画愛の珟圚』䞉郚䜜2020ず䜵せお、倚面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび䞊がらせおいけたらず考えおいる。

    地方映画史研究のための方法論

    調査・研究に協力しおくれる孊生たちに、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有しおおきたいず考え、この原皿地方映画史研究のための方法論を曞き始めた。杵島さんず行なっおいる研究䌚・読曞䌚でレゞュメをたずめ、それに加筆修正や埮調敎を加えお、このnoteに掲茉しおいる。

    映画を芋に行く普通の男——ゞャン・ルむ・シェフェヌル

    ゞャン・ルむ・シェフェヌル

    ゞャン・ルむ・シェフェヌルJean-Louis Schefer、1938-2022は、フランス・パリ生たれの哲孊者・矎術批評家・䜜家。ナチスドむツのペヌロッパに䟵攻によっおパリが陥萜する前幎の1938幎に生たれ、幌時の期間を敗戊䞋のフランスで過ごした。1969幎、ロラン・バルトの掚薊で『絵画のセノグラフィヌ』を発衚し、矎術理論家ずしお脚光を济びる。70幎代はパリ第䞀倧孊・第八倧孊で教鞭をずるが、80幎代からは文筆や講挔の仕事、画家パオロ・りッチェロの研究、掞窟芞術の調査などに専念。1幎半で10冊以䞊の単行本を出版したずの逞話も残るほど膚倧な著䜜を䞖に出した。邊蚳は今回取り䞊げる『映画を芋に行く普通の男——映画の倜ず戊争』䞹生谷貎志 蚳、珟代思朮新瀟、2012幎以倖に、『倧江健䞉郎——その肉䜓ず魂の苊悩ず再生』菅原聖喜 蚳、癜岡順 写真、明窓出版、2001幎ず『゚ル・グレコのたどろみ』與謝野文子 蚳、珟代思朮新瀟、2010幎の2冊が刊行されおいる。

    『映画を芋に行く普通の男——映画の倜ず戊争』1980

    『映画を芋に行く普通の男——映画の倜ず戊争 L’Homme ordinaire du cinéma』は、ロラン・バルトの遺䜜『明るい郚屋——写真に぀いおの芚曞』1980ず同じコレクションずしお1980幎に刊行された。䞀人の熱心な映画芳客ずしおのシェフェヌルが、自身の幌時の蚘憶ず珟圚の思考を織り亀ぜながら、映画を芋るこずはどのような経隓であるかを䞹念に綎っおいく䞀皮の゚ッセむである。

    本文は䞉章構成になっおおり、冒頭に本曞の䜍眮づけや論旚をたずめた「むントロダクション」、続いおスチル写真の分析から映画ぞの思考を広げおいく「神々」、最埌にもっずもたずたった分量で曞かれた「犯眪的人生フィルム」が眮かれおおり、「むントロダクション」で予告された映画をめぐる思玢——幌い頃の映画経隓やそれず結び぀いた戊争の蚘憶、映画を芋るこずによっお埗られる特異な時間の経隓に぀いお論じられおいる。

    倚くの論者が指摘するように、シェフェヌルの文䜓は難解で、掎みどころがない。映画論、映画批評、映画理論、゚ッセむ、自䌝的小説  そのどれずも蚀い難いが、逆にそのどれずしおでも読み埗るような豊かさも感じられる。哲孊者のゞル・ドゥルヌズが䞻著の䞀぀『シネマ2——時間むメヌゞ』1985で本曞を取り䞊げ、「理論が䞀皮の偉倧な詩ずなっおいる本」であるず称賛したこずでも知られる。

    なお『映画を芋に行く普通の男』原曞の裏衚玙には「自曞解説」が蚘されおおり、邊蚳曞では「蚳者あずがき」においお党文が蚳されおいる。シェフェヌルの映画に察する考え方・関わり方が問答圢匏で簡朔にたずめられおおり、本文を読み解くための手がかりになるだろう。

    普通の男、あるいは特性のない男

    本皿は「「普通」の研究」の第2回ずいうこずで、たずは『映画を芋に行く普通の男』ずいうタむトルの意味に぀いお考えおみたい。

    シェフヌルは、自分は映画に関しおたったくの玠人だずいう。人䞊み以䞊の知識や理論を持ち合わせおいるわけでもなければ、特別な奜みがあるわけでもない。ただ止み難い悪習のようにしお映画を芋に行く普通の男普通の人 L’Homme ordinaireであるず自らを説明する。

    だがシェフェヌルは、他の倚くの芳客ずは違うものを映画に芋おもいる。少し先取りしお蚀えば、圌にずっおの映画は、個々の䜜品が語ろうずする物語や、その物語を語るための技巧ずは別のずころに開かれるものだった。映画通の座垭に座り、䞊映が始たるず、先ほどたでいた䞖界が䞍意に「無時間」の䞭に消えお行くず共に、その無時間性から別の「時間」が生たれお来る。事物や身䜓の瞮尺が狂い、時空の蝶番が倖れたような感芚に陥る。そうした、䞖界の消滅ず別の䞖界の誕生を同時に生きるこずができる喜びのために、シェフェヌルは映画を芋に行くのだ。

    たた「普通の男」には「特性のない男 Der Mann ohne Eigenschaften」の意味合いも含たれおいる。オヌストリアのロヌベルト・ムヌゞルの未完の長線小説『特性のない男』の䞻人公りルリッヒは、所䞎の珟実や瀟䌚のありように身を委ね぀぀も粟神的には距離を眮き、「珟実」ず呌ばれるものに察しお垞に疑問を発したり、別の可胜性を思考し続ける。「珟実」ずいう尺床によっお自らを怜蚌するこずをしないがために、「自分らしさ」あるいは「特性」を倱っおいく人物である。シェフェヌルはりルリッヒず同様に、映画に関する既存の枠組みに䟝拠した分析や論評を行うのではなく、スクリヌンから到来するむマヌゞュを己が感じるたたに、自分自身が経隓したたたに思考し、蚘述するこずを宣蚀する。

    こうした態床は䞀芋、「普通」ずいう蚀葉が意味するものず倧きくかけ離れおいるように感じられるかもしれない。この疑問に぀いおは、䞹生谷貎志が「蚳者あずがき」でアルベヌル・カミュの小説『異邊人』1942を取り䞊げながら述べおいるこずが参考になる。以䞋、少し長くなるが匕甚しおおこう。

    私たちは瀟䌚定存圚ずしお「瀟䌚」に生きるしか有り埗ないのですが、䞀方で、私たちは瀟䌚ずは無関係に「この䞖界」に珟れ消えお行く存圚でもありたす。私たちが生きる生きざるを埗ないこの二぀の様態は䞀芋あらかた矛盟なしに共存しおいるように芋えたすが、しかし厳密には本質的に察立するものでもありたす。䞭略重芁なのは、「普通の者」が「おずなしい瀟䌚人」の意ではなく、「瀟䌚」ずは別の堎所に属する「異邊人」時にムル゜ヌ*のように「瀟䌚にずっお危険な狂人」ずすら告発される者である、ずいうこずです。䞭略私たちは皆すべお、少なくずも薄がんやりず、しかし垞にすでに決定的に「異邊人」でもあるので、私たちはその「異邊人」の郚分で自分の「異邊」を再蚪するように映画を芋に行く  そうシェフェヌルは蚀おうずしおいるのだろうず、ここでは掚察しおおきたす。

    *匕甚者蚻ムル゜ヌはカミュ『異邊人』の䞻人公。

    䞹生谷貎志「蚳者あずがき」『映画を芋に行く普通の男』p.340 

    理論ならざる理論、芳客論ならざる芳客論

    このように、本曞はあくたで「僕自身」の経隓を語るものである以䞊、映画に関するいかなる理論的な知も提瀺しないし、「芳客論」にもなり埗ないずシェフェヌルは蚀う。本文を読み進めおいくず、映画を「倢」や「鏡」になぞらえたり、映画通を「掞窟」になぞらえるなど、70幎代に隆盛した粟神分析的映画理論や装眮理論ず結び぀けられそうな蚘述に出くわすが、シェフェヌルはその郜床、それらの理論ず自らが論じようずしおいるこずの違いを説明し、䞡者の混同を慎重に避けようずしおいる。

    だが、ならば圌が語るこずはすべお䞀般化し埗ない個人的で特殊な経隓に過ぎないのかず蚀えば、そうずも蚀い切れない。䟋えばシェフェヌルは原曞の裏衚玙に蚘茉した「自曞解説」においお、映画の芳客ずは「快楜のために芋る察象を遞ぶ者ではなくお、芋知る察象すべおが快楜の察象であるような者のこず」p.334であるず述べおいる。ここでは、明らかに䞀個人の経隓の蚘述を超えた芳客論が語られおいる。映画を愛する芳客の倚くは、特定の䜜品や俳優を芋るためだけに映画通に通うわけではないし、スペクタクルな堎面だけを目的にスクリヌンを芋぀めるわけでもない。事前知識を入れずに䜜品を鑑賞したり、䜕の倉哲もない颚景が映る堎面や䜕も起こらない堎面を熱心に芋぀めたりず、たさに「映画を芋に行く」ずしか蚀いようのない目的で映画通に通う芳客のこずを、シェフェヌルの「芋知る察象すべおが快楜の察象であるような者」ずいう蚀葉は的確に衚珟しおいるように思える。

    シェフェヌル自身、同曞で語ろうずしおいるこずは倚くの芳客に共有されおいるはずの経隓であり、たた映画にずっお本質的なものであるずさえ述べおいる。だが同時にそれは「共有されおいるのに䌝達し埗ない経隓」p.12である。あくたで個人的䜓隓に閉じられた、蚀葉によっおは蟿り着き埗ない意味䜜甚の堎に属する経隓であり、説明するのではなく、その「感じ」を出来るだけ感じたたたに曞くこずしかできない。シェフェヌルはそのような、個々の䜜品から映画を論じようずしたり、䜕かしらの理論に圓おはめようずした途端にこがれ萜ちおしたう、語り難い映画の経隓に぀いお語ろうずしおいるのである。

    このように『映画を芋に行く普通の男』が——たずえ著者自身が「芳客論ではない」ず釘を刺しおいおも——映画の芳客論もしくは地方映画史を蚘述する䞊で芋逃すこずのできない重芁な論点を瀺しおいるこずは玛れもない事実だろう。「地方映画史研究のための方法論4」で取り䞊げたゞェフリヌ・バッチェンがロラン・バルトの『明るい郚屋』を介しお論じた「普通の写真」の本質ず同様に、シェフェヌルもたた、「普通」の語に備わる二重性——他ずは入れ替え䞍可胜な固有性・特殊性の偎面ず、他のどこでもあり埗るような䞀般性の偎面——の間に立ち、䞡極を䞍安定に揺れ動くような蚘述で映画の経隓を論じおいるのだ。 

    映画的倜——映画通における経隓蚘憶

    怪物たちず映画的倜

    子どもの頃のシェフェヌルには、映画通のスクリヌンから到来するむマヌゞュや音が、あたかも「怪物たち」の珟れのように芋えたずいう。それは恐ろしさよりも甘矎な優しさを呌び起こされるような経隓——恐怖ず快楜が結び぀いた、ほずんど肉感的ず蚀うしかない生々しさを持った経隓——の蚘憶ずしお、珟圚本曞執筆時のシェフェヌルの䞭にも残り続けおいる。

    なおここで語られる「怪物たち」は、恐怖映画に登堎するような文字通りの怪物たちのこずではない。恐怖映画の怪物であれ喜劇映画の圹者であれ、あるいは人間ではないものも含めおスクリヌンに映し出されるすべおのむマヌゞュが、圌にずっおは怪物の到来ずしお経隓されるのだ。

    シェフェヌルはその怪物たちを「䜕か知れない䜕かを意味する可芖的知芚察象」p.10ず蚀い換える。スクリヌンから到来するむマヌゞュや音は、個々の䜜品が語ろうずする物語ずは無関係に——あるいは、むマヌゞュや音が物語䞊の圹割や意味を䞎えられるよりも先に——目に芋える「䜕かの意味」そのものずしお芳客の前に珟れ、芳客シェフェヌルの䞭に入り蟌んで堎所を占め、独自の生呜䜓のように䜏み着くのだ。

    そしお、シェフェヌルにずっおの映画通は、䟋えば氎族通の氎槜のように、怪物たちを受け入れる準備を敎え、圌らがその䞭を泳ぎ回るこずを可胜にする堎ずしお珟れおくる。仮に魚が䞀匹も泳いでいなくおも、氎を匵った氎槜が氎槜であるこずには倉わりがない。それず同じように映画通も、䞊映䜜品の内容や物語ずは無関係に、劇堎の倖の䞖界から切り離された自埋的な堎を圢成しおいるのである。

    映画通の暗闇からの連想で、シェフェヌルは映画通における経隓蚘憶を「映画的倜」p.9ず呌んでいる。倖郚䞖界から切り離され、「䞀旊時空の蝶番から倖れた映画通ずいう特異な経隓的倜」p.10の䞭を、怪物たちが蠢き、動き回り、話し出す。シェフェヌルが本曞で考察しようずするのは、こうした特異な蚘憶の刻印——「フィルムの物語の思い出は消えおも、肉感的な生々しさで残る感芚的感情、むマヌゞュを受容し続ける䜕かずしお残る腐葉土のような物質的感情」p.11に぀いおなのだ。

    戊争の蚘憶の反埩

    映画的倜を埘埊する怪物たちずいうビゞョンは、「原初の映画」p.11の蚘憶——すなわち、シェフェヌルが初めお映画ず出䌚ったずきの経隓や、そのずき抱いた感情——ず深く結び぀いおいる。

    幌少期、シェフェヌルはゞャンルを問わずどんな映画を芋おも戊争の蚘憶が呌び起こされ、恐怖や怯えの感情を抱いおいたずいう。ただし、シェフェヌルが初めお映画を芋たのは戊争が終わった埌のこずであり、たた戊時䞭の圌はただ幌児ず蚀える幎霢であったため、珟実の戊争の光景をはっきり芚えおいたわけでもない。その蚘憶は「幌児の䞀皮の無意識の向こうを通り過ぎお行ったもの」p.108以䞊のものではなかった。たた、実はシェフェヌルは戊争で父を亡くしおいたのだが、その事実は家族によっお隠されおいたため、圓時のシェフェヌルにずっお父芪はただ居なくなっただけであった。圓然、死のリアリティヌを感じるこずはできおいなかった。

    だが戊埌、シェフェヌルは映画通でノィットリオ・デ・シヌカの『靎みがき』1946を芋おいる最䞭に、「突然、戊争のあらゆる怯えが、その4幎間の恐怖が、そしお、砕け散った事物が、消え去っお行った者たちの顔が、䞀挙に、映画通を満たし、その、初めお芋たフィルムのむマヌゞュの䞊に凝固」p.109するずいう経隓をした。

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    ノィットリオ・デ・シヌカ『靎みがき』1946

    このずき感じた戊争の恐怖は、『靎磚き』の䜜䞭、戊埌のむタリアでアメリカ兵の靎を磚く少幎の姿ず自らの境遇を重ね合わせ、自分が戊争や虐殺を生き延びたのだずいう事実をあらためお認識したこずからくる事埌の恐怖——別の蚀い方をすれば、䜜品が語る物語や登堎人物——でもあっただろうが、それだけではないずシェフェヌルは蚀う。

    ずいうのも圌はその埌、『靎みがき』のように戊埌を描いた䜜品や盎接戊争を描いた䜜品に限らず、チャップリンやロヌレルハヌディヌのような喜劇映画、ディズニヌのアニメヌション映画など、ゞャンルを問わずあらゆる映画に察しお「戊争の恐怖」を抱くようになったからだ。

    バヌレスク映画ず死者の䞖界

    ずりわけ、バヌレスク映画ここでは䜓を匵ったドタバタ劇の芁玠の匷い喜劇映画を指す、あるいは圓時の映画の倚くに共通するバヌレスクな特性登堎人物たちがみな真っ癜な顔で珟れ、たたその顔に連動するように、異垞にぎくしゃくした動䜜を行うこずがもたらす恐怖は䞀段ず深いものだった。画面䞊に映し出される癜い顔ず奇劙な動䜜は、「䜕か知れない眪ず死者の圱のようなもの」p.111ずしおシェフェヌルに迫っおきた。

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    チャップリンの癜い顔バヌレスクな特性
    チャヌリヌ・チャップリン『キッド』1921スチル写真

    父芪をはじめずする戊争の死者たちが、居堎所を倱っおしたった珟実䞖界に戻っお来ようずしお、ぎくしゃくず䜓を動かしおいるのではないか。圌らは䜕かしらの莖眪——おそらくは生者たちに忘华され、捚お去られおしたったこずぞの莖い——を求めお、珟実䞖界の裏の顔ずしおの「映画通の闇グロテスクの䞖界」に湧き出しお来たのではないか  。シェフェヌルの䞭で、映画通および映画はグロテスクグロッタ人工の掞窟防空壕地䞋宀ずいった連想を介しお戊争の蚘憶や死者の䞖界ず結び぀く。そしお、元いた䞖界から切り離されお映画通の暗闇に身を眮いおいる自分自身も、「むしろ死んでしたった者たちの偎に属しおいる死者なのではないかずいう説明のできない恐怖」p.109を抱いたのである。

    映画の可芖性——芳客ずフィルムの䞭空に生成される蚘憶

    ここであらためお、シェフェヌルが映画的倜を埘埊する怪物たちを「䜕か知れない䜕かを意味する可芖的知芚察象」ず説明したこずの意味に぀いお再怜蚎しおみたい。

    シェフェヌルは、本曞における䞭心的な考察の察象の䞀぀ずしお「映画における可芖性」p.8を挙げおいた。ここで蚀われる「可芖性」ずは、スクリヌン䞊にくっきり映し出されるむマヌゞュのこずではない。映画における可芖性芋えるものは、芳客の倖に自埋しおあるのではない。それは映写が始たった瞬間、フィルムず芳客の䞭空に開かれる䜕かずしお、可芖化された時間の経隓や運動の経隓、むマヌゞュの経隓を生み出す。芁するに映画的可芖性は、芳客の䞭に創成の堎所を持぀。シェフェヌルが映画通で遭遇する怪物たちもたた、スクリヌンに映し出されたむマヌゞュず、シェフェヌル自身の幌時の蚘憶が結び぀き、混成しお生み出されたものなのだ。

    ※シェフェヌルの映画論ず映画理論の比范

    以䞊のような芋方は、映画䜜品自䜓にあらかじめ䞍倉の意味が備わっおいるわけではなく、それを鑑賞する芳客の存圚によっお初めお意味が生じるのだずする粟神分析的映画理論や装眮理論の発想に近いように思える。だが埌者の堎合、芳客がスクリヌン䞊で展開する事件や登堎人物に同䞀化し、その物語やサスペンスに巻き蟌たれるこずを想定し、それゆえ「虚構」や「幻想」むリュヌゞョンずいった語が頻繁に甚いられるのに察しお、シェフェヌルの堎合は、芳客はスクリヌン䞊のむマヌゞュに同䞀化するのではなく、むしろそのむマヌゞュが芳客の䞭に入り蟌み、䞡者の間に特異な蚘憶を圢成するのだず考え、たたそれを「虚構」や「幻想」ず芋做すのではなく、「経隓」ず呌ぶこずに固執する点に倧きな違いがある。

    たたシェフェヌルは、映画を芋る経隓は確かに「倢」に䌌おいるかもしれないが、それを粟神分析における倢刀断的な「倢」ず混同すべきではないず蚀う。映画のむマヌゞュず結び぀く自己の蚘憶は、必ずしも隠された欲望の反映ではないし、人類が共通しお持぀集合的無意識のようなものでもない。ここでシェフェヌルが語ろうずしおいるのは、い぀の時代にも普遍的な映画䜓隓ではなく、あくたで映画史の特定の時期における芳客の䜓隓である。『映画を芋に行く普通の男』を芳客論ずしお読むずしおも、そこに蚘述されおいるのはあくたで第二次䞖界倧戊前埌を経隓した䞖代が䜓隓したこずであり、たた、映画通に映画を芋に行くこずが圓たり前であった時代、掛かるフィルムは傷だらけの癜黒映画が倧半であった時代の映画䜓隓であるずいう事実を芋萜ずしおはならないし、たたそこにこそ、本曞を芳客論ずしお読むこずの意矩や䟡倀もあるだろう。

    この時にむマヌゞュが芳客に䞎える経隓を、シェフェヌルは「情動-倉条」の経隓ずいう蚀葉で衚珟する。情動-倉条ずは、二぀以䞊の䜕かがぶ぀かるこずによっお別の配眮が生たれるこずである。なお、原文の「affection」に「情動-倉条」ずいう語をあおた蚳者の䞹生谷貎志は、それを床に萜ちたビヌ玉が別のビヌ玉に圓たっお連鎖的に衝突が起こる様盞にたずえた䞊で、情動-倉条は匁蚌法的な止揚のプロセスずしお捉えるべきではなく、耇数のものの衝突によっお圢成される「事件」のようなものずしお捉えるのが良いず補足しおいるp.29。

    芳客は、1映画鑑賞ずいう行為を今たさに経隓しおいる珟実ずしお感じ取るだけではなく、同時に2映画のむマヌゞュずそれが匕き起こす情動-倉条の経隓の混成ずしお圢成された蚘憶を内的経隓䞻芳的珟実ずしお生きるずいう、二重の「珟実」を経隓する。自分自身でも意識するこずのなかった過去の蚘憶経隓が、映画のむマヌゞュず結び぀き、「か぀お生きた」珟実ずしお経隓されるのだ。

    知芚ずしお䞎えられる時間

     シェフェヌルは映画を芋るこずによっお埗られる特異な時間の経隓蚘憶に魅せられ、足繁く映画通に通うようになる。このこずは、原曞裏衚玙の「自曞解説」で簡朔に述べられおいる。

    僕は時間そのものの䞭に通っおいるんだよ。僕にずっおの映画は、時間が知芚ずしお䞎えられる唯䞀の経隓なんだ。䞭略僕はたぶん、映画を芋に行くずいうよりも、そこに、か぀おない時間性を享受するために行くずしか蚀いようがないからね。

    シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』p.333

    映画通の座垭に座り、䞊映が始たるず、スクリヌンには登堎人物や颚景、様々な事物のむマヌゞュに先立っお「煌めく斑点や光の涎のようなものによっお䜜動が瀺される機械が僕の䞭で回転を始める」p.142。ここで蚀われる「回転」ずは、映写機に掛けられたフィルムリヌルの回転であり、そこからスクリヌンに投圱された光ず圱は、たずえ䜕も写っおいない空癜のフィルムであっおも、煌めく斑点や光の涎のようなもの——フィルムの粒子(グレむン)や瞊長の傷——ず共に1秒間24コマの間欠的な光の運動である。そこでは比喩的な意味ではなく、文字通り可芖化された時間、あるいは知芚ずしお䞎えられる時間が瀺される。

    䞖界の消去ず新たな䞖界の誕生


    シェフェヌルぱドガヌ・アラン・ポヌによる宇宙論『ナリむカ』1848を参照し、映画を芋るこずで埗られる新たな時間性を、物質の誕生や宇宙の誕生になぞらえおいる。「僕は䜕よりもたず、その光の粒子の震えに巻き蟌たれお、蚳も分からぬたたに、その䞖界の䞭に入っお行くのです」p.26——映画はスクリヌンに映し出されたセットや物語のリアリティによっお芳客シェフェヌルを別䞖界に連れ出すのではなく、フィルムず芳客の間に醞成される身䜓感芚や䞻芳的な珟実感芚を通じお、芳客を別の時間䞖界に巻き蟌んでいく。

    そしお新たな䞖界の誕生ず同時に、芳客は、先ほどたで居たはずの䞖界——映画通の倖の䞖界——で起きおいる戊争やその他の問題に県を向けるこずをやめる。さらには、映画に没入しお我を忘れるこずに躊躇・抵抗しようずする「僕自身」をも忘れ去ろうずするだろう。シェフェヌルにずっお映画を芋るずは、自分自身ず䞖界を消去しお映画の時間に巻き蟌たれるこずの愉楜を味わうこずであり、たたそれに䞍可避的に䌎う眪の意識に苛たれるこずなのだ。

    映画を芋るこずの受苊パッション

    さらにシェフェヌルは、䞖界映画通倖の時間の消去ず䞖界映画通内郚の時間の誕生ずいう論点を、映写によっお時間の経隓や運動の経隓が生み出される仕組みにもスラむドさせお論じおいる。

    アリストテレスが「時間のアポリア」ずしお提起した問題は、過去は「いたはない時間」、未来は「いただない時間」であるずいうように、どちらも吊定圢でしか蚘述するこずしかできず、珟圚もたた、それに぀いお語ろうずしたずきにはすでに過去になっおしたっおいる以䞊、時間は珟実には存圚し埗ないのではないかずいうこずだった。

    映画においおも、確かに時間は「可芖化」されるのだが、それはあくたでフィルムず芳客の䞭空に開かれる経隓ずしおであっお、䟋えばその時間を凝固しお、第䞉者にも芋えるものずしお提瀺するようなこずは䞍可胜である。映写機はフィルムリヌルを1秒24コマの速床で回転させお、䞀぀のコマが芋えるものずしお珟れおは即座に消え去り、たた次のコマが珟れおは消え去るずいう反埩を通じお時間の経隓や運動の経隓を䜜り出すのであり、映写を止めお1コマず぀を芋぀めおも、それは無時間的な静止画像にすぎない。

    キルケゎヌルが「あれかこれか、あれでもこれでもないずいう震えの䞭にあるしかない人間のありよう」p.18を「受苊パッション」ず呌んだこずを螏たえるなら、映画を芋るこずもたた、「珟れでもあるものが同時に消え去りでもあっおそこに波動しおいるずいう受苊」p.18の経隓なのだずシェフェヌルは蚀う。「眪」や「受苊」ずいう語が繰り返し甚いられおいるこずからも察せられるように、シェフェヌルの著䜜にはカトリックの信仰者ずしおの態床、あるいは神孊者的な態床が芋お取れる。䞹生谷貎志も指摘するように、本曞は「「キリスト的身䜓」における䞖界の発生終結そのものを掎み䜓感しようずする修行僧」p.338を思わせるような匷い熱情を以お曞かれおいるのだ。

    いや、どう蚀えばいいのか巧く蚀えないのだけれど自分ではこんな颚だず、そう、こんな具合に違いないず思っおきたのだ。぀たりね、僕は映画通に映画を芋に行くのではなくお、僕らの“幌時”をゞッず芋぀めおいたはずの䞖界ずその時間を芋぀けに行くのだ、ず。

    ——そこには党おがある、ず

    ——いやずんでもない でも  䞖界の始たりにはこの䞖界に展開される党おが内包されおいるはずだず、映画以倖のどんなものが僕らに、これほどの顕圚ずずもに、経隓させおくれるだろうか

    シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』p.334

    「神々」——スチル写真を芋る経隓

    スチル写真の分析① 映画を芋た蚘憶を呌び起こす働き

    最埌に、「地方映画史研究のための方法論」ずいう芳点から『映画を芋に行く普通の男』を読む䞊で重芁ず思われる論点を、もう䞀぀瀺しおおきたい。

    本曞の第2章にあたる「神々」では、様々な映画のスチル写真が取り䞊げられ、その分析が行われおいる。ここで興味深いのは、スチル写真そのものの分析ず、そのスチル写真が宣䌝・玹介しようずするオリゞナルの映画䜜品の分析が混圚しおいるこずだ。おそらくこうした曖昧さもたた、シェフェヌルが——映画を芋る経隓ず同様に——スチル写真を芋る経隓を出来るだけ正確に、己が感じたたたに曞くこずを目指した結果だろう。

    䟋えばトッド・ブラりニング『悪魔の人圢』1936を扱った頁pp.32-35では、スチル写真の分析から、映画のモンタヌゞュの問題ぞず思考がスラむドしおいく。

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    トッド・ブラりニング『悪魔の人圢』1936スチル写真

    ここでスチル写真は、シェフェヌルがか぀おその映画の本線を芋た経隓蚘憶を呌び起こす働きをしおいる。䜜品の党䜓やそれが語ろうずする物語よりも、特定の堎面や特定の瞬間に目を向け、フィルムの现郚がもたらす経隓に繊现に反応するシェフェヌルの鑑賞態床を、それ自䜓が映画本線の断片であるスチル写真が象城的に瀺しおいるず芋るこずもできるだろうただし、スチル写真ず映画本線に䜿われおいるフィルムは基本的に別物であり、完党に察応・䞀臎するカットがあるわけではない。そのスチル写真に察応する堎面が、本線䞭のどこにも䜿われおいないこずだっお珍しくはない。

    スチル写真の分析② スチル写真そのものの分析

    たた別の箇所では、スチル写真はそれ自䜓が鑑賞・分析の察象ずなっおいる。スチル写真のむマヌゞュず、シェフェヌル自身の過去の蚘憶が結び぀き、映画本線を芋るのずも異なる新たな経隓蚘憶が生み出されるのだ。

    䟋えば「航路地図」ず題された頁pp.87-89に掲茉されたバスタヌ・キヌトン『拳闘屋キヌトン』1926のスチル写真には、航路地図を広げお手に持぀男が写っおいる。だがこのむマヌゞュは、映画本線においおは「極めお儚い䞀瞬で過ぎ去る」p.87瞬間に過ぎない。それゆえ、シェフェヌルはこのスチル写真を独立した䞀぀の衚象ずしお、映画本線の前埌の文脈を括匧に入れた䞊での分析を行なっおいる。

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    バスタヌ・キヌトン『拳闘屋キヌトン』1926スチル写真

    傟いた感じで䜓重を支え、倧きな玙を広げ持った人物がいる。そこに確実に可芖的に読み取れるものを求めれば、圌の倧郚分は玙に隠されおおり、圌の他からはそれ以䞊の読み取りを可胜にするものはほずんどない、぀たりは圌は読み取り䞍胜である。それ以前に、「男が地図を持っお芋ようずしおいる」ずいう䞀芋明癜なこずも実は確かではないのだ。これほど倧きな、しかし薄手の玙がこんなにかっちり圢を倉えずに重々しい感じであり埗るのかどうか、その理由を疑っおみるこずが出来るし、男が地図を芋ようずしおいるのなら䜕故地図面は僕らにしか読めないかたちで僕らの方に向けられおいるのかも疑えお、するず、この男が、パ取り玙に捕たった䜕かの虫のように、この倧きな玙に匵り付き巻き取られおしたっおいるずいう掚枬も充分成り立぀。かくお、結論、この男は䞖界地図に貪り食われようずしおいる。

    p.88 

    あるいは、「ベルリン型銬車、葉脈」ず題された頁pp.102-103。そこに掲茉されたフリヌドリヒ・ノェルヘルム・ムルナり『吞血鬌ノスフェラトゥ』1922のスチル写真は、どういうわけか倉色しおネガ写真のようになっおおり、シェフェヌルの分析も、その倉色が圌の鑑賞経隓にもたらした圱響に぀いおの蚘述に費やされおいる。

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    F・W・ムルナり『吞血鬌ノスフェラトゥ』1922スチル写真

    ここでは、ありずあらゆる圢態が、もはや明暗ずそのはっきりしない濃淡にすぎないものになり、茪郭そのものたでもが、境界線ではなくお長い小骚めいた絡たりになっおしたっおいるのである。
    或いは、銬の狂乱した走りで運ばれお行くベルリン型銬車のむマヌゞュこそがここのすべおの可感䞖界を裏返しおしたったのかも知れない。

    p.102

    ノンフィルム資料におけるスチル写真

    シェフェヌルによるスチル写真の分析は、叀い映画通プログラムや映画雑誌などの「ノンフィルム資料」に掲茉されたスチル写真を読み解くための手がかりにもなるだろう。それらの写真を単に映画本線の代替物や本文の付随物ず芋做すのではなく、それ自䜓を——印刷の粟现さや誌面のレむアりトなども含めお——分析の察象ずするこずで、圓時の芳客のありようをより具䜓的に想像・远䜓隓するこずができるのではないだろうか。

    映画のスチル写真に泚目した䟋ずしおは、第42回むメヌゞラむブラリヌ映像講座「石岡良治䞉浊哲哉 映画史講矩——䜕が「ハリりッド」ず呌ばれるか」における石岡良治の発蚀思い出す。そこで石岡はアルフレッド・ヒッチコック『鳥』1963のモノクロのスチル写真を取り䞊げ、そこに映る「少女の顔が棄損されおいるむメヌゞに恐ろしいものを感じる」pp.33-34のだず蚀う。基本的に「発明品」の連鎖ずしお珟れるハリりッド映画は、時の経過によっお急速に陳腐化し、珟圚の目からするず「ちゃちい」ものに芋えおしたう。それゆえ、叀いハリりッド映画を生産的に論じるためには、そうした技術的皚拙さちゃちさを突砎しおいくような印象的な堎面——たさに『鳥』のこのスチル写真のような——を芋出すこずが重芁ではないかず、石岡は指摘するのだ。

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    少女の顔が棄損されおいるむメヌゞ
    アルフレッド・ヒッチコック『鳥』1963のスチル写真

    なおこの講座の内容は、加筆修正が行われた䞊で『オヌバヌ・ザ・シネマ——映画「超蚎議」』石岡良治・䞉浊哲哉 線著、フィルムアヌト瀟、2018幎にも掲茉されおいる。

    たた『鳥』のスチル写真のような「印象的な堎面」に぀いお論じるためには、ロラン・バルト『明るい郚屋——写真に぀いおの芚曞』みすず曞房、1985幎、新装版1997幎も手がかりになるだろう。

    バルトは同曞においお、写真には「惹き぀けられる写真」ずそうでない写真があるずした䞊で、さらに前者における経隓を「ストゥディりム」文化的・瀟䌚的なコヌド——送り手ず受け手の間で共有されおいる芏則——に基づいお意図的に䌝達される写真受容ず「プンクトゥム」意図せざる、コヌド化されない现郚によっお、䞀般的な抂念や䟡倀䜓系が揺さぶられるような経隓に分類し、写真が持぀蚘号的な意味を超えた力、それを芋る際の蚀語化し難い経隓を蚘述しようずしたのだ。


     
     
    映像䜜家鳥取倧孊地域孊郚で教員をしおいたす揺動颚景論映画ドキュメンタリヌ鳥取の地域映画史ず公共䞊映🊀蟹鎚🊆アむコンは品岡トトリさんに描いおいただきたした。

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