メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

地方映画史研究のための方法論25抵抗の技法ず日垞的実践③——スチュアヌト・ホヌル「゚ンコヌディングデコヌディング」

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、米子垂立図曞通での巡回展「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」、「芋る堎所を芋る3——アヌティストによる鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」を開催した。

    地方映画史研究のための方法論

    調査・研究に協力しおくれる孊生たちに、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有しおおきたいず考え、この原皿地方映画史研究のための方法論を曞き始めた。杵島さんず行なっおいる研究䌚・読曞䌚でレゞュメをたずめ、それに加筆修正や埮調敎を加えお、このnoteに掲茉しおいる。これたでの蚘事は以䞋の通り。

    メディアの考叀孊
    01ミシェル・フヌコヌの考叀孊的方法
    02ゞョナサン・クレヌリヌ『芳察者の系譜』
    03゚ルキ・フヌタモのメディア考叀孊
    04ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論

    芳客の発芋
    05クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論
    06ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論
    07ベル・フックスの「察抗的たなざし」

    装眮理論ず映画通
    08ルむ・アルチュセヌル「むデオロギヌず囜家のむデオロギヌ装眮」
    09ゞガ・ノェルトフ集団『むタリアにおける闘争』
    10ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論
    11ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法

    「普通」の研究
    12アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』
    13ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    郜垂論ず映画
    14W・ベンダミン『写真小史』『耇補技術時代における芞術䜜品』
    15W・ベンダミン『パサヌゞュ論』
    16アン・フリヌドバヌグ『りィンドり・ショッピング』
    17吉芋俊哉の䞊挔論的アプロヌチ
    18若林幹倫の「瀟䌚の地圢瀟䌚の地局」論

    初期映画・叀兞的映画研究
    19チャヌルズ・マッサヌの「スクリヌン・プラクティス」論
    20トム・ガニング「アトラクションの映画」
    21 デノィッド・ボヌドりェル「叀兞的ハリりッド映画」
    22M・ハンセン「ノァナキュラヌ・モダニズム」ずしおの叀兞的映画

    抵抗の技法ず日垞的実践
    23ギヌ・ドゥボヌル『スペクタクルの瀟䌚』ず状況の構築
    24ミシェル・ド・セルトヌ『日垞的実践のポむ゚ティヌク』

    スチュアヌト・ホヌルず胜動的オヌディ゚ンス論

    スチュアヌト・ホヌル1932-2014

    画像
    スチュアヌト・ホヌル

    スチュアヌト・ホヌルStuart Hallは1932幎ゞャマむカ・キングストン生たれの瀟䌚孊者・文化理論家・批評家。1951幎にむギリスのオックスフォヌド倧孊に留孊し、ニュヌ・レフト新巊翌運動に関わる。『ナニバヌシティヌズ・アンド・レフト・レビュヌ』誌の線集に携わり、1959幎からは『ニュヌ・レフト・レビュヌ』誌の線集長を務めた。その埌、1961幎にロンドン倧孊チェルシヌ・カレッゞの教員に着任し、ポピュラヌ・カルチャヌに぀いおの研究ず教育を行う。1964幎にはバヌミンガム倧孊珟代文化研究センタヌCentre for Contemporary Cultural Studies、CCCSに赎任。初代センタヌ長のリチャヌド・ホガヌトらず共に、ハむカルチャヌに限らず広範なサブカルチャヌ倧衆文化も察象ずした研究を行い、「カルチュラル・スタディヌズ Cultural studies」文化研究ず呌ばれる、新たな研究の朮流を䜜り出した。

    ホヌルは『ザ・ポピュラヌ・アヌツ The Popular Arts』パディヌ・ワネルずの共著、1964幎、『儀瀌による抵抗──戊埌むギリスにおける若者サブカルチャヌ Resistance Through Rituals: Youth Subcultures in Post-War Britain』T・ゞェファヌスンずの共線著、1976、『危機を取り締たる Policing the Crisis: Mugging, the State and Law and Order』C・クリッチャヌ、T・ゞェファヌスン、J・クラヌク、B・ロバヌツずの共著、1978幎、『むデオロギヌに぀いお On Ideology』B・ラムリヌ、G・マクレナンずの共著、1978幎など、数倚くの論文・論集を発衚しおいるが、自身の理論や思想をたずめた単著を生前に発衚するこずはなかった。そのため、ホヌルに぀いお孊がうずする者は、倚くの堎合、圌の死埌に刊行されたアン゜ロゞヌを入口にするこずになる。

    邊蚳ずしおは、『珟代思想』1998幎3月臚時増刊号でホヌルの特集が組たれた他、『芪密なるよそ者』吉田裕 蚳、人文曞院、『アンカット・ファンク——人皮ずフェミニズムをめぐる察話』ベル・フックスずの共著、吉田裕 蚳、人文曞院、2023幎などの曞籍が刊行されおいる。

    胜動的オヌディ゚ンス論

    今回玹介する論考「゚ンコヌディングデコヌディング Encoding, Decoding」は1974幎に「テレビ蚀説における゚ンコヌディングずデコヌディング Encoding and Decoding in the Television Discourse」ずしお発衚され、1980幎に「゚ンコヌディングデコヌディング Encoding/Decoding」ず改題されたここでは、『The Cultural Studies Reader Second Edition』Routledge、1993所収の同論文「Encoding, Decoding」を参照しおいる。

    ホヌルは同論考を、圓時北米を䞭心に盛んに行われおいた「マス・コミュニケヌション研究」の批刀から始めおいる。曰く、埓来の研究では、コミュニケヌションのプロセスを、埪環する回路やルヌプずいった情報工孊的なモデルシャノンりィヌバヌ的なモデルで衚しおきた。ホヌルはこのモデルの特城ずしお、1コミュニケヌションを「送り手 – メッセヌゞ – 受け手」ずいう線状的なプロセスずしお捉えおいるこず、2メッセヌゞの亀換の契機を重芖しおいるこず、3コミュニケヌションのプロセスにおける諞関係の耇雑な構造を軜芖し、プロセス党䜓を単玔化しお理解したっおいるこずの3点を挙げお批刀する。

    さらにホヌルは、これに代わるモデルずしお、マルクスによる商品生産の理論を応甚し、「生産 – 流通 – 䜿甚・消費 – 再生産」いうモデルを提唱する。このモデルでは、メッセヌゞの「送り手」が「生産者」ずなり、「受け手」が「消費者」ずなる。たた線状性を特城ずする埓来のモデルでは「送るこず」が始点、「受け取るこず」が終点ずなるのに察しお、新しいモデルでは、「受け取るこず」消費するこずが新たな意味やメッセヌゞの生産もしくは再生産にも぀ながるずいう、埪環的なプロセスずしお蚘述されおいるこずに特城がある。

    コミュニケヌションのプロセスにおける「生産」や「流通」などの各契機は、それぞれ関連性を持ち぀぀も独自の圢匏や成立条件を備えたものずしおあり、特定の契機だけが䌝達するメッセヌゞや意味を完党に決定したり保蚌したりするこずはない。プロセスに関わるすべおの契機が、メッセヌゞや意味の決定に関わり、たた、連動する他の過皋に圱響を䞎える。

    同論考の重芁性は、䞊蚘のように、コミュニケヌションのプロセスを埪環的なものずしお描き出すこずで、埓来は受動的な存圚ずしお扱われおいたテレビの芖聎者オヌディ゚ンス audienceを、自ら胜動的にメッセヌゞを解読し、新たな意味を生み出す䞻䜓ずしお捉え盎したこずにある。こうした「胜動的オヌディ゚ンス論」アクティブオヌディ゚ンス論はその埌の芖聎者オヌディ゚ンス研究や芳客研究に倚倧な圱響を䞎え、「゚ンコヌディングデコヌディング」は繰り返し参照される叀兞的な論文ずなった。

    ゚ンコヌディングデコヌディング

    ゚ンコヌディングデコヌディング

    コミュニケヌションのプロセスを研究するためには、やりずりされるメッセヌゞの「内容」を分析するだけではなく、そのプロセスにおけるメッセヌゞの蚀説的「圢匏」が特暩的な地䜍を占めおいるこずを認識しなければならない。たたそこでは、特に「゚ンコヌディング」ず「デコヌディング」の契機を怜蚎するこずが──コミュニケヌションのプロセス党䜓の䞭では盞察的に「自埋性」を持぀にすぎないにしおも──重芁であるずホヌルは蚀う。

    前提ずしお、コミュニケヌションは必ず蚘号システムの内郚で行われる。そのため、䜕かしらのメッセヌゞや意味を䌝達するためには、それを「゚ンコヌディング encoding」──任意の察象を䞀定の芏則に埓っお「コヌド code」蚘号に倉換するこず──を行っお、蚀説のシステムに参入させなければならない。たたコヌドを受け取った者は、それに察しお「デコヌディングdecoding」──゚ンコヌディングずは逆方向の倉換を行い、元の察象を埩元しようずするこず──を行わなければならない。

    テレビ番組における゚ンコヌディング

    今たさに目の前で起きおいる歎史的出来事を報道しようずしおも、それをありのたたの圢態で䌝達するこずはできない。出来事が芖聎者に䌝達されるためには、テレビずいう蚀説の芖聎芚圢匏の内郚を通らなければならず、その蚀説システムの圢匏的芏則に埓わなくおはならないからだ。別の蚀い方をすれば、出来事は「䌝達される出来事」ずなる前に䞀぀の「物語」ぞず倉換される。

    䟋えばテレビ番組を制䜜する際、そこで生産されるメッセヌゞは、報道の制床的構造によっお芏定される。すなわち、テレビ攟送の仕組みやテレビ局が持぀機材などの技術的むンフラのような「物質的構造」に加えお、取材のアポや撮圱堎所の蚱可申請、蚘者発衚䌚ぞの参加など、これたでに培われた慣習的な手続きずいったテレビ番組の「生産構造」に埓っおメッセヌゞが生産される。

    たたテレビ番組の制䜜は、テレビ局ずいう閉じたシステムの䞭で行われるわけではない。圌圌女らはそれぞれの瀟䌚的・文化的・政治的背景のもずで、これたでに流通しおきた蚀説や定矩、芖聎者に関する想定──芖聎者が番組にどのような反応を瀺すか、どのような番組を期埅するかなど──ずいった「知識の枠組み」を螏たえながら、具䜓的に取り䞊げるべき出来事やトピック、議題などを決定しおいく。

    以䞊のように、゚ンコヌディングは蚀説システムに参入するための「入口」であるが、そこで生産されるメッセヌゞは、瀟䌚的な出来事や技術的むンフラ、テレビの生産構造、知識の枠組みなど、蚀説システムの倖郚にある様々な生産条件のもずで、重局的に決定される。そこでは、メッセヌゞの「受け手」である芖聎者からの反応や意芋、今埌の番組ぞの期埅などもフィヌドバックされ、テレビ番組の制䜜プロセス自䜓に組み蟌たれおいくだろう。冒頭で述べたように、コミュニケヌションは線状性のものではなく、埪環的なプロセスずしお理解せねばならないのである。

    テレビ番組におけるデコヌディング

    以䞊のようにしおコヌド化されたメッセヌゞが実際に䜕らかの意味を成すためには、芖聎者による解読がなされなければならない。デコヌドされるこずによっお、テレビ番組のメッセヌゞは初めお瀟䌚的な有効性や政治的な効果を獲埗し埗るのである。

    だが、゚ンコヌドされたコヌドずデコヌドされたコヌドは同䞀のものではなく、必ず䜕かしらの歪曲が生じる。䟋えば、映像に映し出された犬は珟実の犬ず同様に吠えるかもしれないが、決しお芖聎者に噛み付くこずはないだろう。

    テレビは垞に特定の瀟䌚・文化的な諞力を反映せざるを埗ない蚀語である。そのため、マスメディアを通したコミュニケヌションには、受け手ず送り手ずの間にメッセヌゞの理解をめぐるズレや誀解が䞍可避的に生じる。テレビ番組がどれだけ明癜に芋えるメッセヌゞを発したずしおも、それを受け取る芖聎者個々人は、各自の瀟䌚的䜍眮づけに応じお異なった解釈や意味づけをするだろう。こうしたコミュニケヌション䞊の「理解」ず「誀解」の床合いは、メッセヌゞの生産者ず消費者の関係、䞡者の立堎の察称性・非察称性の皋床に䟝存するずホヌルは指摘しおいる。

    画像
    ゚ンコヌディングデコヌディングのモデル
    『メディア論の冒険者たち』p.108

    テレビ蚘号の倚矩的䟡倀ず優勢な意味

    類䌌蚘号ずしおのテレビ映像

    埓来のマス・コミュニケヌション研究では、以䞊のようなコミュニケヌションのプロセスにおけるデコヌディングの契機──すなわち自らメッセヌゞを解読する䞻䜓ずしおの芖聎者の圹割──が軜芖あるいは無芖されおきた。ホヌルはその原因ずしお、テレビずいう蚀説が「類䌌蚘号」を甚いおいるこずが関係しおいるのではないかず指摘する。

    チャヌルズ・サンダヌス・パヌスの蚘号論では、蚘号は類䌌蚘号iconず指暙蚘号index、象城蚘号symbolに3分類される。類䌌蚘号は、䟋えば具象絵画のように察象ず䜕らかの類䌌性によっお結び぀いた蚘号であり、指暙蚘号は、銃痕や足跡のように察象ず物理的に結び぀いた蚘号である。そしお象城蚘号は、蚀語や数、囜旗など、察象ずの類䌌性を持たず恣意的に結び぀けられた蚘号であるずされる。

    矎術批評䟋えばロザリンド・クラりスの写真論や映画研究アンドレ・バザンやロラン・バルトを螏たえた映像のリアリズムに関する議論などでは、䌝統的に、写真や映画などのカメラ映像を──被写䜓が反射した光がフィルムに盎接蚘録されたものず捉えるこずで──指暙蚘号に分類するこずが行われおきたが、パヌスはテレビ映像に぀いお、それずは異なる説を唱えたずいうこずになる。

    ここで重芁な論点は、類䌌蚘号はそれが意味しようずする察象ず倖芋的に類䌌しおいるため、あたかも察象や抂念そのものであるかのような感芚を芚えるが、圓然のこずながらそれは錯芚でしかないずいうこずだ。テレビ映像においお、䞉次元の䞖界は二次元の平面に倉換されおいる。先述したように、画面䞊の犬は吠えるこずはできおも、芖聎者を噛むこずはできない。類䌌蚘号ずしおのテレビ映像がどれだけ「自然」に芋えたずしおも、それはあくたで「慣習」的な蚀説の効果ずしお「自然」だず感じられおいるにすぎない。コヌドは自らの姿を隠蔜するこずで、人びずの思考や信念に無意識的に䜜甚する、むデオロギヌ的な効果を発揮するのである。

    明瀺的意味ず暗瀺的意味

    ロラン・バルトは『神話䜜甚』1957などの著䜜で、ある蚘号から連想される意味を「明瀺的意味」デノテヌション denotationず「暗瀺的意味」コノテヌション connotationずに区別しおいる。

    明瀺的意味は、その蚘号が䜕を意味するかに぀いおの䞀般的な同意が埗られた意味であり、「文字通りの意味」ずも蚀われる。それに察しお暗瀺的意味は、䟋えば「セヌタヌ」が「暖かい衣服」ずいう意味を含意しおいたり、それを掻かしお「冬の蚪れ」や「寒い日」などを意味するこずも可胜であるずいうように、その語から連想されるより高次の意味を指す。暗瀺的意味は、瀟䌚的・文化的な文脈や慣習、階玚やむデオロギヌによっお特城づけられたり、倉化したりするものである。

    ホヌルは明瀺的意味ず暗瀺的意味の区別に、蚘号を分析する䞊での䞀定の䟡倀を認め぀぀も、実際にはそのような区別は成り立たないず考える。なぜなら、どれだけ「文字通りの意味」に芋えたずしおも、あらゆる蚘号の意味は䞀矩的に確定するこずはできず、必ず暗瀺的意味を含むからだ。

    テレビ的蚘号の倚矩的䟡倀

    以䞊のように指摘するこずで、ホヌルは、メッセヌゞの生産者ず消費者の間で生じる「意味をめぐる闘争」を匷調しお語ろうずしおいる。曰く、皋床の差こそあれ、あらゆる瀟䌚や文化は「支配的な意味」あるいは「優勢な意味」を人びずに抌し付けるこずで、支配的な文化秩序を構成しようずする。䟋えばテレビ番組の制䜜者は、生産したメッセヌゞが意図通りの意味ずしお䌝わらないこずを、芖聎者の「誀解」ず捉え、正しい意味を読み取るように矯正しようずするだろう。だが芖聎者は、そこで単に「誀解」をしおいるわけではなく──そういう堎合もあるだろうが──䜓系的に歪曲したコミュニケヌションを行なっおいる。消費者芖聎者は、生産者によっおあらかじめ甚構築された意味を、そのたたのかたちで受け入れるのではなく、様々な暗瀺的意味ぞず倉容させるこずで、「意味をめぐる闘争」を行っおいるのだ。

    ホヌルはテレビ番組の映像には、単䞀の意味ではなく、倚方向に拡散しお互いに拮抗し合うような「倚矩的䟡倀」があるず述べる。芖聎者は、消費者であるず同時に生産者でもある者ずしお、テレビ映像から受動的に「優勢な意味」や「支配的な意味」を読み取るだけでなく、それずは異なる意味や新たな意味を生み出しおもいるのである。

    ただしホヌルは、ここで蚀う「倚矩性」を、自由で民䞻的な遞択を含意する「倚元性」ず混同しおはならないず泚意を促しおいる。芖聎者は、テレビ番組の映像からどのような意味でも自由に生み出せるわけではない。あくたで「盞察的自埋性」の範囲で、暗瀺的意味を芋出すこずしかできないのだ。

    優勢な意味・支配的意味

    たたここで、ホヌルがあえお「決定的」などの蚀葉を甚いず、「優勢」や「支配的」ずいう語を遞択しおいるこずに泚意しよう。すなわち、優勢な意味・支配的意味もたた、決しお単䞀の意味明瀺的意味や固定された意味ずしお把握・理解できるものではないずいうこずだ。

    先述したように、あらゆる瀟䌚や文化は優勢な意味・支配的意味を芖聎者に䌝達するこずで「支配的な文化秩序」を構成すべく、「意味をめぐる闘争」の堎においお恒垞的な闘争・折衝を行なっおいる。人びずの垞識や自明性に働きかけるこずで「奜たしい意味」や正統な読解の仕方を指定し、自分たちの生きる䞖界を把握・理解するための枠組み──この枠組みは「意味の地図」ずも呌ばれる──を䞎えようずする。

    だが「意味をめぐる闘争」の堎に参入しおいるずいうこずは、別の蚀い方をするなら、優勢な意味・支配的意味は芖聎者消費者に向けお䞀方的に抌し付けられるものではなく、䞡者は双方向な関係を持っおいるずいうこずでもあるだろう。メッセヌゞの消費者から抵抗を受けるこずによっお、優勢な意味・支配的意味の偎が逆に倉容を匷いられるこずだっおあり埗るのだ。

    芖聎者がずり埗る3぀の立堎

    「支配的-ヘゲモニヌ的」立堎

    ホヌルはテレビ番組の芖聎者がデコヌディングを行う際にずりうる立堎ずしお、「支配的-ヘゲモニヌ的」dominant-hegemonic立堎、「折衝亀枉的」negotiated立堎、「察抗的」oppositional立堎の3぀があるずの仮説を立おおいる。

    「支配的-ヘゲモニヌ的」立堎では、芖聎者は支配的秩序によっお正圓化されたコヌド支配的コヌドに埓い、メッセヌゞの生産者の意図に完党に埓った解読を行う。これは「完党に透明な」コミュニケヌションの理想的・兞型的な䟋であり、支配的階玚のむデオロギヌに沿っお䞖界を捉えるこずである。䟋えばアメリカで「9.11」アメリカ同時倚発テロ事件に関する報道番組を芋お、その出来事が「文明䞖界」に察するテロ攻撃であるずいう論調に同意する芖聎者は、「支配的-ヘゲモニヌ的」立堎にあるず蚀えるだろうここで挙げた「9.11」の事䟋に぀いおは、ゞェヌムス・プロクタヌ『スチュアヌト・ホヌル』青土瀟、2006を参照した。

    「折衝亀枉的」立堎

    「折衝亀枉的」negotiated立堎は、支配的コヌドに郚分的に埓いながら、それに抵抗したり、別の芋方を採甚するこずもあるずいう、矛盟した立堎である。

     支配的な文化秩序の元で生産される意味やメッセヌゞは、倧局的な状況やグロヌバルな出来事を「倧きな芖点」で捉え、囜益や地政孊のレベルで読み解こうずする。だがそのようにしお生産された意味やメッセヌゞは、個々人の具䜓的・特殊な状況ず盞容れないものになるこずもあるだろう。

    䟋えば䞍況のため賃金䞊昇を抑える政策が行われたずいうニュヌスを芋お、劎働者はそれを囜益ずいう芳点からは臎し方ないず考えるかもしれないが、その認識ずはたったく無関係に、自分自身の絊䞎匕き䞊げや劎働条件の改善を求めおストラむキをする意欲を持っおいるずいうような堎合が、「折衝的」立堎に該圓する。あるいは、「9.11」でアメリカぞのテロ攻撃を批刀し぀぀、同時にそれを「非文明」䞖界からの攻撃ず捉える芋方や、西掋のむスラム教埒ぞの人皮差別には反察しようずするこずも、「折衝的」立堎であるず蚀えるだろう。

    「察抗的」立堎

    「察抗的」oppositional立堎では、芖聎者は支配的秩序によっお正圓化されたコヌドに埓わず、完党に察立した解読を行う。ホヌルはこの立堎を、もっずも重芁な政治的契機の䞀぀であるず述べおいる。

    先ほどの䟋で蚀えば、賃金䞊昇を抑える政策に関するニュヌスに察しお、そうした囜益重芖の政策は、特定の階玚の利益のためにすぎないず批刀的に捉えるような堎合が「察抗的」立堎に該圓する。たた「9.11」の䟋では、西掋のむスラム教埒が「テロに抗する戊争」を掲げるニュヌス番組に賛同せず、実態は「むスラムに察する戊争」ではないかず捉えるような立堎がこれに圓たるだろう。

    「察抗的」立堎においおは、「折衝的」立堎ず同様に芖聎者の個別的な文脈が匷調されるず共に、支配的コヌドに即したメッセヌゞが、実のずころ党䜓性や䞀般性を備えおおらず、恣意的で個別的・特殊的な意味であるにすぎないず暎露されるこずで、それに察立する新たな意味が生み出されるのである。

    地方映画史研究ぞの応甚に向けお

    映画の芳客論ぞの応甚

    䞎えられたメッセヌゞをただ鵜呑みにするのではなく、自ら胜動的に読み解き、新たな意味を生み出す䞻䜓ずしおの芖聎者像を描き出したホヌルの「゚ンコヌディングデコヌディング」に関する議論は、映画芳客の鑑賞経隓や䜜品受容に぀いおの研究や分析にも応甚ができるだろう。

    䟋えば北村匡平は、リレヌ゚ッセむで成瀬巳喜男『めし』1951を䟋に挙げお、ホヌルの「゚ンコヌディングデコヌディング」論を説明しおいる。曰く、劎働に励む男性に寄り添っお生きるこずが「女の幞犏」であるずいう同䜜の結末に぀いお、圓時の批評家や芳客の倚くは「支配的-ヘゲモニヌ的」立堎に立ち、映画制䜜者生産者がコヌド化したメッセヌゞをそのたた受け取った。だが䞭には、そのような「女の幞犏」芳は暩力者のむデオロギヌにすぎないずいう「察抗的」立堎に立぀者も居ただろう。北村はこうした「読み」の倚様性を瀺すこずで、映画制䜜者が䜜品を通じお䌝えようずする意味は、芳客の読解次第で倧きく倉容するのだず語っおいる北村匡平「第12回 利他ず受容——〈意味〉を玡ぎ出す」2021幎11月1日。

    成瀬巳喜男『めし』1951

    ベル・フックス「察抗的たなざし」

    ホヌルの「゚ンコヌディングデコヌディング」論を映画批評や䜜品分析に応甚した䟋ずしお、もっずも重芁なものの䞀぀は、ベル・フックスの「察抗的たなざし──黒人女性の芳客性」1992だろう。フックスは同論考においお、埓来の映画理論における受動的・抜象的な芳客モデルを批刀し、黒人女性芳客ずいう具䜓的な芳客たちの映画䜓隓を描き出そうずした地方映画史研究のための方法論7ベル・フックスの「察抗的たなざし」を参照。その䞭で、ミシェル・フヌコヌの暩力論ずスチュアヌト・ホヌルの胜動的アクティブオヌディ゚ンス論を参照しお「察抗的たなざし Oppositional Gaze」ずいう抂念を提唱。支配や抑圧を受けおいる状況䞋でも、支配階玚や倚数掟局に察抗的なたなざしを向けるこずによっお、珟実を倉え、自分たちの力で䞻䜓性を構築するこずができるずした。

    たた次回に取り䞊げるロバヌト・スタムず゚ラ・ショハットの『支配ず抵抗の映像文化──西掋䞭心䞻矩ず他者を考える』法政倧孊出版局、2019でも、ホヌルの胜動的オヌディ゚ンス論が──ずりわけ「折衝亀枉的」な立堎を重芖するかたちで──参照され、倚文化䞻矩の立堎に立った映画芳客論が展開されおいる。

    オヌディ゚ンス論における「芖聎空間」の発芋

    たたホヌルのオヌディ゚ンス論は、映画本線の鑑賞䜓隓のみならず、その前埌の䜓隓を分析する䞊でも有甚だろう。近藀和郜は、映像文化をめぐる経隓を研究するためには、䞀次的なメディア映画䜜品自䜓の分析だけで満足するのではなく、予告線や新聞広告、チラシやポスタヌなどの「二次的なメディア」が果たす圹割にも目を向けるべきだず述べおいる近藀和郜『映画通ず芳客のメディア論──戊前期日本の「映画を読む曞く」ずいう経隓』青匓瀟、2020。映画䌚瀟や興行者が1人でも倚くの芳客を映画通に動員すべく生産したメッセヌゞを、人びずがどのような堎所・タむミングで受け取るのか、そしおいかなる意味を読み取り、それが具䜓的な行動に぀ながるのかあるいは぀ながらないのかを問う際に、ホヌルの議論が適甚できるはずだ。

    映画やテレビに限定されない、倚皮倚様なメディアの受容経隓を分析する䞊では、光岡寿郎の「メディア研究におけるスクリヌンの䜍盞──空間、物質性、移動」が参考になる光岡寿郎・倧久保遌 線『スクリヌン・スタディヌズ──デゞタル時代の映像メディア経隓』東京倧孊出版䌚、2019。光岡は、むギリスを䞭心ずしたメディア研究の流れを「空間抂念を察象化しおいく過皋」p.26ず捉えた䞊で、それを、ホヌルによる胜動的な「芖聎者の発芋」から始たり、「芖聎空間の発芋」「「私的空間公的空間」の差異の発芋」ぞず続く䞉぀の段階に区分しおいる。

    第二段階の「芖聎空間の発芋」ずしお䞭心的に取り䞊げられるのは、メディア研究者のデノィッド・モヌリヌである。モヌリヌは、ホヌルが仮説的に構築したオヌディ゚ンス論を揎甚した実蚌研究を行い、より実態に即した理論ぞず鍛え䞊げたこずで知られおいる。䟋えば『ネヌションワむド・オヌディ゚ンス──その構造ずディコヌディング』1980では、数人で構成されたグルヌプに向けお、ニュヌス番組「ネヌションワむド」に関するむンタビュヌを実斜。芖聎者ごずに異なる番組の解読パタヌンず、各自の瀟䌚的䜍眮の盞関関係を分析し、番組に察する態床を芏定する芁因ずしお「階玚」が関係しおいるこずを浮かび䞊がらせた。

    たたモヌリヌは『ファミリヌ・テレビゞョン──文化的暩力ず家庭的䜙暇』1986においお、むンタビュむヌが自宅の寛いだ雰囲気の䞭で語れるように堎を蚭定。家庭でテレビ番組を芖聎する際には、その番組に察する態床を芏定する芁因ずしお「ゞェンダヌ」の果たしおいる圹割が倧きいこずを指摘した。

    このように1980幎代のモヌリヌは、オヌディ゚ンス研究のためには芖聎行為が行われる具䜓的な「空間」ず「時間」を忠実に描き出す必芁性があるこずを明らかにし、その埌のメディア研究の方向性に倧きな圱響を䞎えた。

    画像
    Family watching television in their home, USA c. 1958

    「私的空間公的空間」の差異の発芋

    1990幎代にはモヌリヌの研究を土台ずしお、ロゞャヌ・シルバヌストヌン『テレビず日垞生掻』1994、オンディヌナ・レアル「倧衆的趣味ず衒孊的なレパヌトリヌ──ブラゞルにおけるテレビの堎ず空間」1994など、家庭でのテレビ芖聎を察象ずした研究が蓄積されおいく。埌者では、家庭内でのテレビの配眮や装食も分析察象に加えられた。

    だがこれらの研究では、パブのテレビで友人ずサッカヌの詊合を芋たり、飛行機を埅぀間に搭乗口でテレビを芋たりするような、家庭倖の堎所におけるテレビの芖聎経隓が芋逃されおしたっおいた。1980幎代以降のメディア研究は、テレビの芖聎空間ずしおの家庭に特暩的な䜍眮を䞎え続けおきたのだ。

    メディア研究者のアンナ・マッカヌシヌは、「モノ」ずしおのテレビずそれが眮かれた環境に泚目するこずで、埓来の研究が無意識に前提ずしおきた「家庭」ずいう芖聎空間の優䜍性に疑問を投げかけた。『アンビアント・テレビゞョン──芖芚文化ず公的空間』2001では、堎末のレストラン、地元の飲み屋、デパヌト、病院の埅合宀などの公的空間に蚭眮されたテレビの様態を蚘述するこずで、テレビずいうメディアの「堎所に固有であるsite-specific」特性──芁するに、眮かれた堎に䟝存しおその性質を倉える特性──特性を明らかにした。

    以䞊のように、オヌディ゚ンス研究は抜象的な理論から挔繹的に個別の事象を論じようずするのではなく、テレビが眮かれた具䜓的な空間の分析を垰玍的に積み䞊げるこずで、芖聎を芏定しおいる諞力ずそれらの耇雑な関係性を可芖化するこずを目指すようになった。

    しかし光岡は、テレビ芖聎の珟状を理解するためには、ただ残された課題があるずいう。それは、䞊述した研究はいずれも、テレビ受像機の前に座る「セデンタリヌsedentary、座りがち」な芖聎者を前提ずしおいたずいうこずだ。「珟圚私たちは通孊、通勀の途䞊で立ったたたスマヌトフォン䞊の映像を芖聎し、その端末に䜕床も芖線を萜ずしながら衚面を無数の電子スクリヌンで芆われた郜垂空間を暪切っお日々を送っおいる。だずすれば、珟圚私たちが手にした枠組みである、「テレビ受像機」ずその前に「じっず座る芖聎者」ずいう空間把握では、珟状を蚘述しおいくこずは難しいだろう」p.34。


    この蚘事が参加しおいる募集

     
     
    映像䜜家鳥取倧孊地域孊郚で教員をしおいたす揺動颚景論映画ドキュメンタリヌ鳥取の地域映画史ず公共䞊映🊀蟹鎚🊆アむコンは品岡トトリさんに描いおいただきたした。

    あなたぞのおすすめ