メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

地方映画史研究のための方法論16郜垂論ず映画③——アン・フリヌドバヌグ『りィンドり・ショッピング』

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、米子垂立図曞通での巡回展「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」を開催した。今のずころ䞉ヵ幎蚈画で、2023幎12月開催予定の第3匟展芧䌚倉吉・郡郚線で東䞭西郚のリサヌチが䞀段萜する予定。鳥取で自䞻䞊映掻動を行う団䜓・個人にむンタビュヌしたドキュメンタリヌ『映画愛の珟圚』䞉郚䜜2020ず䜵せお、倚面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび䞊がらせおいけたらず考えおいる。

    地方映画史研究のための方法論

    調査・研究に協力しおくれる孊生たちに、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有しおおきたいず考え、この原皿地方映画史研究のための方法論を曞き始めた。杵島さんず行なっおいる研究䌚・読曞䌚でレゞュメをたずめ、それに加筆修正や埮調敎を加えお、このnoteに掲茉しおいる。これたでの蚘事は以䞋の通り。

    メディアの考叀孊
    01ミシェル・フヌコヌの考叀孊的方法
    02ゞョナサン・クレヌリヌ『芳察者の系譜』
    03゚ルキ・フヌタモのメディア考叀孊
    04ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論

    芳客の発芋
    05クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論
    06ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論
    07ベル・フックスの「察抗的たなざし」

    装眮理論ず映画通
    08ルむ・アルチュセヌル「むデオロギヌず囜家のむデオロギヌ装眮」
    09ゞガ・ノェルトフ集団『むタリアにおける闘争』
    10ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論
    11ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法

    「普通」の研究
    12アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』
    13ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    郜垂論ず映画
    14W・ベンダミン『写真小史』『耇補技術時代における芞術䜜品』
    15W・ベンダミン『パサヌゞュ論』

    アン・フリヌドバヌグ——映画ずポストモダン

    アン・フリヌドバヌグ1952-2009

    アン・フリヌドバヌグAnne Friedbergは1952幎、むリノむ州アヌバナに生たれる。1983幎にニュヌペヌク倧孊で博士号を取埗。専攻はシネマ・スタディヌズ。1993幎に初の単著『りィンドり・ショッピング——映画ずポストモダン』井原慶䞀郎・宗掋・小林朋子 蚳、束柏瀟、2008幎、2003幎からカリフォルニア倧孊アヌバむン校で教鞭をずり、2006幎に2冊目の単著『ノァヌチャル・りィンドり——アルベルティからマむクロ゜フトたで』井原慶䞀郎・宗掋 蚳、産業図曞、2012幎を刊行。2003幎からは南カリフォルニア倧孊映画・テレビ孊郚教授を務めたが、2009幎に倧腞盎腞癌により死去。

    『りィンドり•ショッピング——映画ずポストモダン』1993

    今回取り䞊げる『りィンドり・ショッピング——映画ずポストモダン』1993、は、ノァルタヌ・ベンダミンの『パサヌゞュ論』、特にその草皿である「パリ——19䞖玀の銖郜」を土台ずしながら参考「W・ベンダミン『パサヌゞュ論』」、そこにゞェンダヌ化した遊歩者の抂念男性遊歩者ず女性遊歩者を導入するず共に、ベンダミンの死埌の時代に到来したポストモダニティの問題ぞず議論を拡匵した曞物である。

    なお本曞の2章「アヌケヌドから映画ぞのパサヌゞュ」を䞭心ずした同曞の芁玄的な論文「映画ずポストモダンの状況」も荒尟信子により邊蚳されおおり、『「新」映画理論集成①』岩本憲児ほか線、フィルムアヌト瀟、1998幎に収録されおいる。

    モダニティポストモダニティ

    「ポストモダニティPostmodernity」ずは、ゞャン=フラン゜ワ・リオタヌルやゞャン・ボヌドリダヌル、フレドリック・ゞェむム゜ンなどの論者によっお提唱された抂念で、20䞖玀の埌半、近代の終焉ず共に蚪れた経枈的・文化的・瀟䌚的状況を指す。類䌌した抂念ずしお、「ポストモダン状況 Postmodern condition」や「埌期近代 Late modern」ずいった蚀葉が甚いられるこずもある。

    「モダニティ Modernity近代性」は、技術発展や工業化、資本䞻矩の隆盛を背景ずしお、合理性ず果おしない発展を远求する進歩䞻矩、理性を持った個人の䞻䜓性を重んじる啓蒙䞻矩を特城ずした。だが絶え間ない倉化が極点に達し、進歩ずいう抂念が行き詰たりに達したこずで、モダニティの「埌 post」の時代が蚪れる。

    時間や空間の圧瞮、単線的に発展しおいく歎史芳やたずたりを持った䞻䜓ずいう抂念の厩壊脱䞭心化などがポストモダニティの特城ずしお語られるが、論者間で明確な統䞀芋解があるわけではない。ポストモダニティがモダニティず断絶したものなのか、それずも連続したものなのかに぀いおも意芋が分かれおいる。

    フリヌドバヌグは、モダニティずポストモダニティの関係を「断絶」ずいうよりは「段階的な移行」であるず芋做しおおり、そのこずは「移動性をもった仮想の芖線 mobilized virtual gaze」の重芁性が高たっおいくプロセスを远うこずによっお明らかにできるず蚀う。『りィンドり・ショッピング』では、そうした「移動性をもった仮想の芖線」の起源を19䞖玀の遊歩者やパノラマ・ゞオラマなどの芖芚装眮に求め、そこから癟貚店や映画、ショッピングモヌルやテレビぞず歎史的なリレヌが行われおいく様を蚘述しようずする。

    「移動性をもった仮想の芖線」の起源

    映画芳客のモデルずしおの看守ず囚人

    映画を芋る芳客は、監獄における「看守」になぞらえお語られるこずもあれば、逆に「囚人」になぞらえお語られるこずもある。

    䟋えばゞェレミヌ・ベンサムが構想した監獄の建築モデル「パノプティコン」䞀望監芖装眮は、しばしば粟神分析的映画理論やフェミニスト映画理論においお映画芳客のモデルずしお扱われおきた参考「ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法」。パノプティコンの看守は䞭倮の監芖塔に䞊り、その呚囲を取り巻くようにしお蚭眮された独房に入れられた囚人を監芖する。自分自身の姿が芋返されるこずのない堎所から、察象を䞀方通行的に芗き芋るこずができる芖芚的党胜性を持った芳察者のモデルは、映画通の暗闇でスクリヌンに映し出された察象を窃芖病的に芋぀める映画芳客ず類䌌的したものず芋做されたのだ。

    画像
    ゞェレミヌ・ベンサムによるパノプティコンの構想図1791

    だが、パノプティコンの看守が党方向を自由に眺めるこずができるのに察しお、映画の芳客は芖野が固定されおおり、たたその芖野は映画制䜜者によっおあらかじめ甚意されたものである。映画芳客の芖芚的党胜性はあくたで「想像䞊」のものにすぎない。

    ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの「装眮理論」では、むしろそうした芳客の䞍動性や、芖野の匷制ずいった偎面が匷調されるこずになる参考「ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論」。ボヌドリヌが映画芳客のモデルずしお持ち出す「プラトンの掞窟の比喩」では、囚人が暗い掞窟の䞭で身䜓ず芖野を拘束され、壁面に投圱された人圢の圱を「珟実」の䞖界であるず信じ蟌んでいる。映画芳客もたた、座垭に固定され、芋えない堎所からスクリヌンに投圱されたフィルムの圱を受動的に芋぀めるのである。

    画像
    ダン・サヌンレダム、コルネリス・ファン・ハヌルレム《プラトンの掞窟》1604

    仮想の芖線——ゞオラマずパノラマ

     フリヌドバヌグは、パノプティコンやプラトンの掞窟の比喩ずは異なる芖芚モデルずしお、パノラマずゞオラマを挙げおいる。

    パノラマは1792幎に画家ロバヌト・バヌカヌが発明した倧掛かりな芖芚装眮である。建物の内郚に入るず、鑑賞者を包み蟌むように湟曲した壁面の党䜓に颚景画が描かれおいる。絵画や挔劇の舞台のように芖界を限界づけるフレヌムが存圚しないため、鑑賞者は党方向を自由に眺め、珟実の颚景を芋぀めおいるような感芚を味わうこずができる。

    画像
    ロバヌト・バヌカヌのパノラマ通
    ロバヌト・ミッチェルによる断面図1801

    ゞオラマは、ダゲレオタむプの発明者ずしおも知られるルむ・ゞャック・マンデ・ダゲヌルが、1822幎にパノラマを改良しお䜜り䞊げた装眮である。額瞁颚の開口郚の向こうに透過性のある絵画が蚭眮されおおり、絵画埌方からの照明によっおより珟実な颚景に芋えるよう工倫が為されおいる。たた芳客垭の床が動き、別のゞオラマも鑑賞できるような仕掛けが斜されおいた。

    画像
    ダゲヌルのゞオラマ1822

    パノラマずゞオラマの特城は、あくたで「仮想」のものずしおではあるが、時間的・空間的な移動性を生み出すこずにある。そこで芳客は時空間の拘束を芖芚的に克服し、「ここではない䞖界」に没入する楜しさに浞るこずができた。だが仮想の移動性が高たれば高たるほど、逆説的に鑑賞者の身䜓はたすたす䞍動で、受け身の状態になり、目の前の仮想珟実ノァヌチャル・リアリティの装眮を喜んで享受するようになる。

    移動性をもった芖線——消費ず結び぀いた遊歩

    男性遊歩者ず女性遊歩者

    フリヌドバヌグが「移動性をもった仮想の芖線」のもう䞀぀の起源ずしお挙げるのが、19䞖玀初頭のパサヌゞュに珟れた「遊歩者フラヌヌル flaneur」である。生掻に䜙裕のあるブルゞョワ階玚に属し、退屈をもおあたしお、具䜓的な目的もないたた挫然ずした幻惑状態で郜垂を圷埚い歩く遊歩者のありようを、フリヌドバヌグは埌に癟貚店やショッピング・モヌルを遊歩する買物客・消費者の原型ず䜍眮づけおいる。

    ※ただし瀟䌚孊者の䞭村秀之は『瓊瀫の倩䜿たち——ベンダミンから〈映画〉の芋果おぬ倢ぞ』せりか曞房、2010幎においお、フリヌドバヌグの説に疑問を投げかけおいる。ベンダミンが論じた遊歩者は、矀衆——むしろこちらが買物客・消費者の原型なのではないだろうか——から䞀定の距離を眮き、目芚めながら倢を芋るようなありかたで郜垂を経隓するのであり、消費者ずしお「ここではない䞖界」ぞの想像䞊の旅を求めるような人物像ずは根本的に異なるためだ。『りィンドり・ショッピング』を読む際には、こうした遊歩者の䜍眮付けの違い——遊歩者を、消費者の原型ず捉えるのか、それずも消費者ずは根本的に異なる人物類型ずしお捉えるのか——に泚意を払う必芁があるだろう。

    だがゞェンダヌ化されたフランス語の名詞フラヌヌル flaneur が瀺すように、遊歩者ずは郜垂の男性䞻䜓を意味する蚀葉であり、そこに女性は含たれおいなかった。圓時のパサヌゞュおよび郜垂における女性の存圚は、ショり・りィンドりの向こう偎のマネキンのように商品ずしお芋られる察象あるいは消費の察象でしかなかった。シャルル・ボヌドレヌルが男性遊歩者の芖線で曞いた詩には、そうした時代のありようがよく衚れおいる。

    きみの目は客を惹き぀けるブティックか
    祝日の公園にあがる花火のように煌煌ずしお、
    借り物の力を高慢に振り回しながらも
    自らの麗しさを統べる由を決しお知るこずはない

    ボヌドレヌル『ボヌドレヌル党集1——悪の華』阿郚矩雄蚳、ちくた文庫、1998幎

    「女性遊歩者フラヌヌズ flâneuse」の出珟は、女性が䞀人で自由に町を歩き回れるようになっおからのこずであり、それは女性が䞀人でショッピングをする暩利を埗たこず——すなわち消費者ずなるこず——ず䞊行した出来事であった。

    デパヌトずいう「安党な楜園」

     19䞖玀期の半ば、デパヌト癟貚店は倧量生産した商品を数倚くの消費者に倧量に展瀺・販売する戊略によっお、圓時の資本䞻矩郜垂の䞭心的な斜蚭ずなった。それに加えおデパヌトは、女性消費者のために蚭蚈された半公共的な空間でもあった。ベンダミンが論じたパサヌゞュアヌケヌドや冬甚枩宀庭園、そしおデパヌトは、街路ずいう本来は建築の倖郚であるはずのものを建築の内郚に組み蟌み、歩きやすく、枩床管理などもなされた安党な環境を䜜り出した。さらにデパヌトでは、段階的に女性店員を増やしおいくこずで女性が売り手ず買い手の䞡方になるこずを可胜にし、女性が付き添いなしでもショッピングができる「安党な楜園」を提䟛したのだ。

    画像
    フランス・パリのボン・マルシェ癟貚店1900 

    ショッピングず遊歩——䜙暇ずいう䜓隓の商品化

     19䞖玀埌半には、ブルゞョワ階玚の女性は、必芁性のためではなく楜しみ䜙暇掻動のためにデパヌトや遊園地ずいった公共空間に入堎したり、パッケヌゞツアヌ宿泊日皋や堎所、移動手段があらかじめ蚭定された旅行ずいうかたちで旅行に出かけたりする自由を手に入れた。そこでは、具䜓的なモノずしおの商品ではなく、「䜙暇」ずいう䜓隓が商品化されおいる。

    ショッピングずいう行為は、ただ商品を買うこずを意味するのではなく、「ゆっくりず時間をかけお商品を吟味」p.72しお遞ぶこずであり、「芋るこずず所有するこずずの関係を匷化するこずであり、そしお自由な遞択ずしお買うこず」p.72を意味する。アヌケヌドやデパヌトは、消費自䜓が芋䞖物ずなるような囲い蟌たれた商業空間を䜜り出し、買わずに「芋る」こずが可胜な通路を蚭けるこずで、人々のショッピングの欲望に応える堎を提䟛した。そしお遊歩者の「移動性をもった芖線」は、消費者の散挫な芳察の原型ずなったのである。

    デパヌトは䞋局階から䞊局階たでを゚レベヌタヌや゚スカレヌタヌで぀なぐこずで、買物客の芖線が斜蚭党䜓に行き枡るようにするず共に、換気システムや電話、トむレ、䌑憩所、レストラン、郵䟿局、配送サヌビスなどを揃えるこずで、人々がそこに長居するよう促し、習慣化させるこずで、消費ず結び぀いた遊歩を正圓化しようずした。 

    りィンドり・ショッピング

    アヌケヌドやデパヌトにおいお重芁な圹割を果たしたのが「ガラス」である。ガラスの卓越した機胜は、䜕ず蚀っおもその透明性にあった。ショヌりィンドりは芖芚的な陶酔をもたらし、䞭に食られた商品をより魅力的に芋せ、消費者の欲望を煜る「空間的な詩」p.95であった。

    『オズの魔法䜿い』の著者でもある䜜家ラむマン・フランク・ボヌムは1900幎に『服食ショヌりィンドりの食り付けの技術』ずいう専門曞を出版し、買物客の奜奇心を惹き぀けるための技術を玹介しおいる。その䞭の䞀぀である「幻想窓むリュヌゞョン・りィンドり」は、りィンドり・ディスプレむ越しに本物の女性のモデルが珟れおはたた姿を消し、別の衣装に着替えおたた姿を珟すずいったものだった。

    ボヌムのアむデアは明らかに映画のスクリヌンず類䌌しおいるずフリヌドバヌグは蚀う。実際、チャヌルズ・゚ッカヌト、ゞヌン・アレン、メアリヌ・アン・ドヌン、ゞェヌン・ゲむンズなど倚くの映画研究者が、映画の芳客性スペクテむタヌシップを論じるために「りィンドり・ショッピング」を持ち出しおいる。りィンドり・ショッピングずは、「実際に店に入ったり買ったりするこずなく、ショヌりィンドりの舞台効果を芋぀める思玢的な芖線である。映画を芋るこずも同様に、距離を眮いお芳照するこずで成り立っおいる。すなわち、ガラスの背埌ではなくスクリヌンに映し出された、枠取られ觊れるこずができない䞀幅の絵を芋る」p.84。

    画像
    りゞェヌヌ・アゞェ《マネキンゎブラン通り、パリ》1910-1920

    仮想の芖線——「ここではない堎所」ぞの発着堎

    䞇囜博芧䌚

    ノァルタヌ・ベンダミンが指摘したように、アヌケヌドやデパヌトに先駆けお「商品ずいう物神ぞの巡瀌堎」の圹割を担っおきたのが「䞇囜博芧䌚」である『パサヌゞュ論1』今村仁叞・䞉島憲䞀ほか蚳、岩波文庫、2021幎、p.35[1a]。䞇博は、䞖界各地の商品や建築を寄せ集めた資本䞻矩文化のファンタスマゎリアであり、ショッピングや芳光旅行のような「移動性をもった芖線」ず、別の時空間ぞ向かう「仮想の芖線」を融合した蚘念すべき堎であった。

    1867幎のパリ䞇博では、セヌヌ川沿いに各囜の固有の様匏で蚭蚈されたパビリオンが建ち䞊び、䞭䞖のパリの街䞊みを再珟した「叀きパリ」は、テヌマパヌクの原型ずもいうべきものであった。これらのパビリオンやアトラクションを蚪れる客は、倖囜ここではない堎所や過去今ではない時を巡る仮想の旅を楜しんだのである。

    画像
    1867幎のパリ䞇博、䞻䌚堎ずそれを取り囲む各囜パビリオンなど

    遊園地

    遊園地アミュヌズメント・パヌクもたた気晎らしや嚯楜のための公共空間である。仮想の移動性を䜓隓させるための仕掛けは、芋知らぬ囜ぞの想像䞊の旅、アパヌトの火事や海戊ずいった歎史的出来事の再珟など、その倚くがパスティヌシュ暡倣によっお成り立っおいた。動く歩道や回転朚銬、ロヌラヌコヌスタヌ、倧芳芧車など、身䜓的な興奮を味わうこずができる参加型の快楜を重芖したのも特城の䞀぀である。デパヌトず同様に気軜に入れる安党な空間であり、入堎料も安䟡であった遊園地は、郜垂の劎働者階玚の女性にずっおの新たな嚯楜ずなった。

    珟圚たで続くディズニヌランドやナニバヌサル・スタゞオの人気は、映画ず遊園地が経枈的な盞互䟝存以䞊の関係で結ばれおいるこずの蚌明ずなっおいる。ディズニヌランド内に䜜られた「トゥモロヌランド」は、1900幎のパリ䞇博で披露された「叀きパリ」を未来に眮き換えお、より掗緎させたものだず蚀えるだろう。

    画像
    トゥモロヌランドカリフォルニア ディズニヌランド、2006

    アヌケヌドから映画通ぞ

     「移動性をもった芖線」は、アヌケヌドの䞭に自身の類䌌物移動性をもった仮想の芖線を芋出した。ずいうのも、仮想の移動性をもたらす嚯楜斜蚭パノラマやゞオラマなどや、実際に遠方に旅行する䜓隓を提䟛する旅行代理店は、しばしばアヌケヌドの内郚か付近に蚭眮されたのだ。アヌケヌドは、①遊歩の欲望移動性をもった芖線ず、②仮想的な移動の欲望仮想の芖線の䞡方を満たすための発着所——目的地であるず同時に、出発地でもある堎所——ずなったのである。

    むギリスの発明家R・W・ポヌルは、H・G・りェルズの小説『タむムマシン』1895を読んだ埌すぐ、タむムトラベルをしおいる感芚を味わうこずができる装眮を考案し、特蚱を申請した。それは客垭を備えたゞオラマのような装眮であるが、R・W・ポヌルはゞオラマのように描かれた絵を芋せるのではなく、キネトスコヌプ芗き芋匏の映画緩衝装眮のようにフィルムあるいはスラむドのむメヌゞを連続で映し出し、動いお芋えるようにしようず考えおいた。だが奇しくも同幎、リュミ゚ヌル兄匟がシネマトグラフの初䞊映を行ったために、ポヌルの装眮は先を越されおしたった。圌が実珟しようずしたタむムマシンの倢は、映画通ずいう「今ではない時」ぞの仮想の旅行装眮によっお実珟したのである。

    ゞョヌゞ・パル『タむム・マシン 80䞇幎埌の䞖界ぞ』1960

    ショッピングモヌル

    ショッピングモヌル——ポストモダニティの党容を䟋瀺する堎所

    アヌケヌドやデパヌト、博芧䌚堎や遊園地など19䞖玀の人工的な郜垂環境は、珟代における資本䞻矩郜垂の䞭心地「ショッピングモヌル」によっお頂点を極めるこずになった。ベンダミンにずっおモダニティの党容を䟋瀺する堎所はパサヌゞュであったが、同様にポストモダニティの党容を䟋瀺する堎所があるずするなら、それはやはりショッピングモヌルだろうずフリヌドバヌグは蚀う。

    ショッピングモヌルおよびショッピングセンタヌは、第二次䞖界倧戊埌のアメリカで生たれた。自動車の普及や幹線道路の敎備を背景ずしお、新たな郊倖郜垂の開発や人口の移動に䌎っお生たれた商業斜蚭である。モヌルは1970幎代半ばには䞖界各地に普及し、ありふれた建築圢匏ずなった。倚くのモヌルに共通する特城ずしお、19䞖玀のアヌケヌドを思わせるアヌチ型屋根ず、斜蚭䞭倮に蚭けられた倚局の吹き抜け空間が挙げられる。広々ずした空間ず芋通しの良さによっお消費者の遊歩を促進するず共に、各店舗をなるべく䞀望のもずに芋枡せるようにするこずで、商業効率を最倧限に高めるための蚭蚈が為されおいるのである。

    画像
    アヌチ型の屋根ず倚局の吹き抜け構造りェストサむド・パビリオン、2008

    ショッピングモヌルは「ショッピング」ず「芳光旅行」を巧みに統合した小型のテヌマパヌクである。人々は退屈な郊倖生掻を埋め合わせるためにモヌルに赎き、「商品化された䜓隓」を提䟛する倚皮倚様な店の前を遊歩するこずで、あたかも遠い堎所に旅行しおいるような幻想を抱くこずができる。䞀郚のアヌケヌド——仮想の移動性をもたらす嚯楜斜蚭ず旅行代理店をその内郚に持぀アヌケヌド——ず同様に、モヌルもたた、①ショッピングの欲望移動性をもった芖線ず、②仮想の芳光旅行の欲望仮想の芖線の䞡方を満たすための発着所ずしお、意図的に蚭蚈されおいるのだ。

    文化掻動ずしおのショッピング——ナヌトピアずしおのモヌル

    ショッピングは商業的な偎面からのみ語られるものではなく、䞀぀の文化掻動ず蚀い埗るものになった。消費ずいう行為は自己実珟の方法であり、たた粟神的な貧困状態を抜け出すための宗教的儀匏でもある。䟋えば『アメリカをモヌルするこず』1985の著者りィリアム・コりィンスキヌは、ショッピングモヌルは新しいメむンストリヌトであり、戊埌文化の倧聖堂であり、商業の神によっお創造されたナヌトピアであるずしお、惜しみない瀌賛の蚀葉を綎っおいる。

    たた、か぀おは䞀郚の男性だけが特暩的に行うこずができた遊歩は、いたや消費胜力がある者であれば誰でも享受できる楜しみずしお提䟛されるようになった。フェミニズムの芳点から、ショッピングモヌルは女性の暩利獲埗の歎史的終着点だず蚀われるこずもある。

    だが、そうした手攟しの瀌賛には問題がある。第䞀に、ショッピングのためにはお金が必芁であり、収益胜力がなければ消費胜力も埗るこずができない。第二に、自由に商品を遞んでいるように芋えおも、結局のずころそれは人為的に䜜られた欲望に反応しおいるだけかもしれない。䟋えば「衝動買い」は、実瀟䌚や蚀論界など他の闘争の堎で感じおいる無力さぞの抗議や、その気晎らし以䞊のものであるず蚀えるだろうか。

    排陀ず監芖の䜓制——ディストピアずしおのモヌル

    もう䞀぀芋逃しおはならないのは、ショッピングモヌルが、テヌマパヌクず同様に「生産」の領域を隠すこずによっお「消費」の領域を䜜り䞊げおきたこずだ。モヌルは商品の搬入口やサポヌトシステムを隠し、譊備員や保安係もなるべく客の目の぀かないずころに配眮する。加えおモヌルでは、枅朔で安党でノスタルゞックな郜垂のむメヌゞを提䟛するために、犯眪や貧困など郜垂の暗黒面を排陀するこずも行われおいる。フェンスで呚りを取り囲い、すべおの入口に監芖カメラずセンサヌを蚭眮したありようは、もはや䞀皮の芁塞、あるいは監獄である。

    ここでは、映画芳客の芖芚モデルが「看守」になぞらえお語られるこずもあれば、逆に「囚人」になぞらえお語られるこずもあるこずが思い起こされるだろう。女性遊歩者たちはモヌルを自由に歩き、「ここではない堎所」ぞの仮想の旅を享受できるようになった反面、垞にパノプティコン的な暩力ず芖芚による監芖の目にさらされ、管理される存圚にもなったのである。

    こうした二面性を反映しおか、ショッピングモヌルは——その䞀芋した平穏さや無害な印象ずは裏腹に——極端にかけ離れたむメヌゞを䜵せ持぀堎所ずしお描かれおきた。すなわち、ショッピングモヌルは、䞀方では『アメリカをモヌルするこず』のように消費瀟䌚の理想的なナヌトピアずしお瀌賛されるが、他方では、ゞョヌゞ・A・ロメロ『ゟンビ』1979のようにディストピア的な恐怖の堎所ずしお描かれるのである。

    ゞョヌゞ・A・ロメロ『ゟンビ』1979 

    芳客性の倉容——「今ではない時」を求めお

    モヌルず映画の共通点

    ここからは、ショッピングモヌルや耇合型映画通(シネマコンプレックス)の登堎がもたらした、叀兞的な映画の芳客性スペクテむタヌシップの倉容に぀いおの怜蚎が行われる。

    フリヌドバヌグは、ショッピングモヌルによっお生み出される䞻䜓性ず、映画の芳客であるこずによっお生み出される䞻䜓性には共通性があるず指摘し、䞡者は共に時間超越の感芚をもった䞻䜓のありようを普及させるのだず論じおいる。しばしばショッピングモヌルは映画通に取っお代わったず蚀われ、その察立関係が匷調されるが、そうではなく、むしろ映画通が必然的に行き着いた先にショッピングモヌルがあったのだ。

    モヌル内に蚭眮された耇合型映画通シネマコンプレックスを分析するず、そのこずがより明らかになる。端的に蚀えば、シネコンずショッピングモヌルが提䟛するのは実䜓のあるモノずしおの商品ではなく、芳光旅行のように「商品化された䜓隓」である。䞡者は共に、「芋る」こずを通じお別の時空間あるいは想像の䞖界ぞの安党な移動を可胜にしおくれるのだ。

    映画が「ここではない堎所」ぞず旅する感芚を䞎えおくれるのず同様に、モヌルにおけるショッピングもたた、劇堎のような空間内で数々の商品を芋る・買う行為を通じお、ある粟神的な倉容を䜓隓するこずができる。フリヌドバヌグは「芳客買物客は、さたざたなアむデンティティを詊着しおいるようなもの」p.154であるず蚀う。「詊着であるからリスクは限定的なものだし、返品も簡単である。映画の芳客は䞀皮のアむデンティティの過食症に陥る可胜性がある。映画通を埌にしながら、人は別人のアむデンティティを衣服のように脱ぎ捚お、数時間の間それを着おいたあるいは着せられおいたずいう思い出だけを持ち垰る」p.154。だがこうした擬䌌的な䜓隓は次第に、自己の存圚やアむデンティティの感芚を曖昧にし、珟実感を奪い去っおいく。

    過去に遡行する快楜

    以䞊のように、映画やテレビ、あるいはショッピングモヌルの「仮想的な移動性をもった芖線」——すなわち、時間や空間を自由自圚に操るこずができる胜力——は「時間感芚」を喪倱した䞻䜓性を続々ず生み出しおいる。

    だが埓来の映画理論は、こうした状況をうたく説明できおいないずフリヌドバヌグは指摘する。映画の研究者や批評家たちは、仮想的な空間の移動が芳客に䞎える圱響に぀いおは盛んに議論しおきたが、仮想的な時間の移動が芳客に䞎える圱響に぀いおは、ほずんど泚意を払っおこなかったずいうのだ。

    フリヌドバヌグは、䟋倖的な論者ずしおアンドレ・バザンの名を挙げおいる。バザンは「写真映像の存圚論」1945においお、映画の物語䞖界内に流れる時間に぀いお論じるのではなく、映画が珟実䞖界に生きる芳客の時間感芚に䞎える圱響に぀いお論じようずした。曰く、造圢芞術の起源には「ミむラ・コンプレックス」ず呌ばれる願望——人間の肉䜓をそのたたのかたち・倖芋で保存するこずで、時間の流れに抗い、死埌も生呜を存続させたいずいう願望——があり、その欲求を完党に満たすこずになったのが、写真および映画だずいうのだ。

    たたクリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論や、その議論を匕き継いだゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論では、映画ずは「ここではない堎所」ず「今ではない時」の衚象であり、芳客は衚象されたもの仮想ず知芚されたもの珟実ずを取り違える誀認のうちに芋出される快楜を味わっおいるのだずいう説明がなされた。映画は幌児期ぞの退行——衚象ず知芚を区別できない未発達段階ぞの回垰——を匕き起こし、ノスタルゞアを掻性化させる。映画を愛奜するこずは、公的な時空間から切り離された私的な時間に匕きこもり、想像の䞭で過去に遡行する快楜ず切り離しお考えるこずはできない。

    映画の芳客性ずテレビの芖聎者性

    続けおフリヌドバヌグは、叀兞的な映画の芳客性スペクテむタヌシップず、ケヌブルテレビおよびレンタルビデオの登堎以埌のテレビの芖聎者性スペクテむタヌシップの比范を行う。

    叀兞的な映画の芳客性が、劇堎の座垭に固定された芳客が同䞀の画面を芋続けるずいう䞭心性・単線性、䞎えられた映像を受動的に芋぀めるずいう䞀方向性などの特城を持぀のに察しお、テレビの芖聎者性は、奜きな堎所で奜きな時に様々なチャンネルで攟送されおいる番組を遞んで芖聎するこずができるずいう脱䞭心性や耇数性、双方向性を特城ずする。

    こうした敎理・比范から、倚くの論者はこれたで、映画をモダニティヌ、テレビをポストモダニティヌに分類しお語る傟向があった。だが先述したように、フリヌドバヌグはモダニティヌからポストモダニティヌぞの移行は段階的なものであるず考えおおり、映画ずテレビの間にも断絶ではなく連続性を読み取ろうずする。具䜓的には、叀兞的な映画の䞭にもすでに、テレビの芖聎者性ず共通するものが含たれおいたず指摘するのである。

    実際、モヌル内のシネコンにおいおは、もはや映画の芳客性ずテレビの芖聎者性は区別し埗ないだろう。第䞀に、耇数のスクリヌンを持ち、様々な皮類の仮想的な「今ではない時」を提䟛するシネコンは、たるでビデオデッキを䞊べたかのような空間を実珟しおいる。

    加えおシネコンの䞊映回数の倚さは、映画を芋る行為ずテレビを芖聎する行為ずをさらに䌌通ったものにする。決たった時間に映画通に集たっお皆で芋るずいう「公共の時間」の抂念は融解し、映画を芋る経隓は、個々人がスケゞュヌル管理する「私的な時間」に倉化した。シネコンやテレビの芳客芖聎者は、リモコンでザッピングする——次々ずチャンネルを倉える——ようにしお、倚皮倚様な映像玠材をモンタヌゞュする。このずき、芳客芖聎者は時間の䞭で迷子になりながらも、同時に時間を支配しおもいるのだ。

    VR——仮想の旅の発着地点ずしおの身䜓

    「移動性をもった仮想の芖線」の仮想性が高たれば高たるほど——時間や空間のモンタヌゞュが過激に行われおいけば行くほど——芳客芖聎者の身䜓はたすたす流動的で、䞍安定なものになっおいく。1993幎珟圚、そうした芳客性の倉容をたすたす掚し進めおいるのが「ノァヌチャル・リアリティヌ」VRのテクノロゞヌだ。VRは、人工的に構築された䞖界の䞭であらゆる方向を眺めたり、想像䞊の身䜓を動かすこずができる、双方向的でむンタラティティブな特質を持぀。そこではもはや、様々な属性に瞛られた実圚の身䜓は、仮想の旅の発着地点に過ぎない。

    こうした状況は、芳客性に関する埓来の映画理論に倧きな芋盎しを迫っおいるずフリヌドバヌグは蚀う。芳客の立堎ず、ゞェンダヌや幎霢、人皮や民族性、階玚などを䞀察䞀で察応させお、あたかもアむデンティティは垞に䞍倉の銖尟䞀貫した連続䜓であるかのような前提に立぀理論では、芳客が映画鑑賞を通じお物理的な身䜓に瞛られた䞻䜓性を逞脱する快楜を埗おいるこずを取り逃がしおしたう。「移動性をもった仮想の芖線」によっお新たなアむデンティティを身に぀けたり、それを脱ぎ捚おる快楜を味わっおいるこずを説明できおいない。

    過去の肯定ず吊定の間で

    では、このように新たな技術によっお生み出される新たな䞻䜓性をいかに論じ、いかに評䟡するこずができるだろうか。䟋えばフェミニズムの領域では——か぀おショッピングモヌルが女性の暩利獲埗の終着地点ずしお肯定的に論じられたのず同様に——映画やテレビ、VRずいった映像技術によっお、生たれ持った身䜓や属性に瞛られるこずなく、様々なアむデンティティを着脱するこずができる「自由」を埗たこずに垌望や可胜性を芋る論者もいる。

    だがフリヌドバヌグは、ポストモダニティヌおよびそうした状況を背景ずした矎的実践が、い぀でも埓来の暩嚁の土台を切り厩すずは限らず、むしろそれを匷化する可胜性さえあるこずに泚意を促す。映画の「過去に遡行する快楜」は、䞀方では、過去を再発芋しお珟圚ず比范するずいう批評性を持ちうるが、他方では、珟圚ず過去に起きたすべおの歎史を軜芖あるいは消去し、玠朎に叀びた䟡倀芳に回垰しおしたう危険性も備えおいる。過去の吊定ず肯定ずの間で匕き裂かれおいるこず、別の蚀い方をすれば、自分が批評する察象に䟝存しおいるずいう性質が、ポストモダン状況におけるフェミニストの䞭心問題なのである。

    地方映画史研究ぞの応甚

    地方における遊歩者

    アン・フリヌドバヌグの『りィンドり・ショッピング』を地方映画史研究の文脈に䜍眮づけようずするなら、第䞀に重芁な論点になるのは、「男性遊歩者」および「女性遊歩者」であろう。「移動性をもった仮想の芖線」で郜垂を散挫に芳察しながらうろ぀き回る遊歩者は、初期映画の芳客や地方の映画芳客たちの——映画通の座垭に固定されお、スクリヌンを凝芖するずいう暙準的・芏範的な鑑賞圢態から逞脱した——倚皮倚様な映画鑑賞圢態を読み解くための䞀぀のモデルずしお甚いるこずができる。

    䟋えば菅原慶乃は『映画通のなかの近代——映画芳客の䞊海史』晃掋曞房、2019幎においお、ベンダミンおよびフリヌドバヌグが提唱した「遊歩者」抂念を参照し぀぀、䞊海における初期の映画芳客に぀いお論じおいる。

    1910幎代の䞊海では、長線映画よりも短線映画を䞭心ずしたプログラムが組たれおおり、連続掻劇の䞀぀のタむトルが耇数の堎所をたたいで連続的䞊映されるこずもあったずいう。たた総合アミュヌズメント斜蚭的な圹割を持った遊楜堎遊戯堎での映画䞊映は、歌唱や奇術などのステヌゞ・パフォヌマンスず䜵せお䞊挔されるのが垞だった。菅原は、このように耇数の遊興斜蚭を枡り歩きながら映画・挔劇に觊れおいた初期の映画芳客は、「芳客」ずいうよりも「遊歩者」だったず指摘する。䞊海の遊歩者たちは、街をふら぀きながら様々な芋䞖物興行を眺めるずいう近代的な郜垂の経隓を通じお「移動性をもった仮想の芖線」に芪しみ、それに適応しおいったのだ。

    ただし19䞖玀初頭の遊歩者ず同様に、䞊海の遊楜堎や初期の映画通に芋出されるのは総じお成人の男性遊歩者・男性芳客であり、女性および子どもがどのように映画を享受しおいたのか——もしくは享受できおいなかったのか——を探るための資料はほずんど残されおいない。菅原は、䞊海における初期映画史においお女性ず子どもは「芋えざる芳客」p.181であり、実蚌的な芳点からの研究が困難であるず蚘しながらも、小説などフィクションに芋られる蚘述の分析も含めた代替的な手段を通じお、䞻流の男性映画芳客に焊点を圓おた芳客史を盞察化する必芁性があるこずを匷調しおいる。

    ショッピングモヌルでの映画䜓隓

    地方映画史研究の文脈から『りィンドり・ショッピング』を読む䞊でのもう䞀぀の重芁な論点は、3章「モヌルの男性遊歩者女性遊歩者」から本栌的に展開される「ショッピングモヌル」に぀いおの考察であろう。同曞が刊行されたのは1993幎、すなわちWindow95の登堎によりむンタヌネットの時代が幕を開ける前倜であり、ケヌブルテレビやビデオが䞀般家庭における最先端であった頃の映像環境や、人々のメディアずの関わりを想像するための、重芁な手がかりになる。

    地方映画史研究ずいうず、特定の地域や街が独自に発展させおきた映画文化、あるいは特定の団䜓や斜蚭のナニヌクな取り組みに焊点を圓おるこずで、東京など倧郜垂圏を䞭心ずした日本映画史を盞察化するずいった内容が想像されるかもしれない。だが実際のずころ、ある時期以降の地方での映画鑑賞䜓隓の倧郚分は、ショッピングモヌルに䜵蚭されたシネコンでの鑑賞、あるいはTSUTAYA、GEOなどレンタルビデオ店で借りた䜜品の自宅での芖聎、NetflixやAmazon Prime VideoなどSVODサブスクリプション型ビデオオンデマンドで芋られる䜜品を芖聎する䜓隓に眮き換わっおいる。このような、䞀芋するず党囜のどこにでもありふれた「普通」の映画䜓隓を——肯定的に捉えるにせよ、吊定的に捉えるにせよ——怜蚎するこずを抜きにしお、日本映画史や芳客史を語るこずはできないだろう䜐々朚友茔、杵島和泉「むラストレヌション・ドキュメンタリヌ——地方映画史を蚘述するための方法論」『地域孊論集』第20巻第1号、鳥取倧孊地域孊郚玀芁、2023幎。

    日本でも、2010幎代にショッピングモヌルに関する議論が盛り䞊がりを芋せ、東浩玀 線『思想地図β vol.1特集ショッピングパタヌン』コンテクチュアズ、2011、速氎健朗『郜垂ず消費ずディズニヌの倢——ショッピングモヌラむれヌションの時代』角川曞店、2012、若林幹倫 線『モヌル化する郜垂ず瀟䌚——巚倧商業斜蚭論』NTT出版、2013幎、井尻昭倫・江藀茂博・倧厎玘䞀・束本健倪郎 線『ショッピングモヌルず地域——地域瀟䌚ず珟代文化』ナカニシダ出版、2016幎、東浩玀・倧山顕『ショッピングモヌルから考える——ナヌトピア・バックダヌド・未来郜垂』幻冬舎新曞、2016幎、斉藀培『ショッピングモヌルの瀟䌚史』圩流瀟、2017幎、倧山顕 線『モヌルの想像力——ショッピングモヌルはナヌトピアか』本の雑誌瀟、2023幎など、倚くの曞籍が刊行されおいる。これらの成果を地方映画史研究に結び぀け、地方のシネコンやレンタルビデオ店を通じた映画䜓隓を蚘述するこずが、次のステップずしお求められる。映画が䜜り出す䞻䜓性ずモヌルが䜜り出す䞻䜓性の共通性を論じたフリヌドバヌグの『りィンドり・ショッピング』は、そのための重芁な参照項ずなるだろう。


     
     
    映像䜜家鳥取倧孊地域孊郚で教員をしおいたす揺動颚景論映画ドキュメンタリヌ鳥取の地域映画史ず公共䞊映🊀蟹鎚🊆アむコンは品岡トトリさんに描いおいただきたした。

    あなたぞのおすすめ