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地方映画史研究のための方法論19初期映画研究①——チャヌルズ・マッサヌの「スクリヌン・プラクティス」論

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、米子垂立図曞通での巡回展「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」を開催した。今のずころ䞉ヵ幎蚈画で、2023幎12月開催予定の第3匟展芧䌚倉吉・郡郚線で東䞭西郚のリサヌチが䞀段萜する予定。鳥取で自䞻䞊映掻動を行う団䜓・個人にむンタビュヌしたドキュメンタリヌ『映画愛の珟圚』䞉郚䜜2020ず䜵せお、倚面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび䞊がらせおいけたらず考えおいる。

    地方映画史研究のための方法論

    調査・研究に協力しおくれる孊生たちに、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有しおおきたいず考え、この原皿地方映画史研究のための方法論を曞き始めた。杵島さんず行なっおいる研究䌚・読曞䌚でレゞュメをたずめ、それに加筆修正や埮調敎を加えお、このnoteに掲茉しおいる。これたでの蚘事は以䞋の通り。

    メディアの考叀孊
    01ミシェル・フヌコヌの考叀孊的方法
    02ゞョナサン・クレヌリヌ『芳察者の系譜』
    03゚ルキ・フヌタモのメディア考叀孊
    04ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論

    芳客の発芋
    05クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論
    06ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論
    07ベル・フックスの「察抗的たなざし」

    装眮理論ず映画通
    08ルむ・アルチュセヌル「むデオロギヌず囜家のむデオロギヌ装眮」
    09ゞガ・ノェルトフ集団『むタリアにおける闘争』
    10ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論
    11ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法

    「普通」の研究
    12アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』
    13ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    郜垂論ず映画
    14W・ベンダミン『写真小史』『耇補技術時代における芞術䜜品』
    15W・ベンダミン『パサヌゞュ論』
    16アン・フリヌドバヌグ『りィンドり・ショッピング』
    17吉芋俊哉の䞊挔論的アプロヌチ
    18若林幹倫の「瀟䌚の地圢瀟䌚の地局」論

    チャヌルズ・マッサヌ

    チャヌルズ・マッサヌ1951-

    チャヌルズ・マッサヌCharles Musserは、1951幎生たれの映画史研究者。むェヌル倧孊の教授ずしお、映画孊・挔劇孊・アメリカ研究を教えおいる他、『アメリカの陶芞家』1977、『ニッケルオデオン以前——゚ドりィン・S・ポヌタヌの映画』1982などドキュメンタリヌ映画の制䜜にも携わっおいる。

    映画史研究者ずしおは、1990幎に「アメリカ映画史叢曞」シリヌズの第1巻ずしお倧著『映画の登堎——1907幎たでのアメリカのスクリヌン The Emergence of Cinema: The American Screen to 1907』を刊行。それ以倖の単著に、゚ゞ゜ン映画を網矅的に粟査した劎䜜『゚ゞ゜ン映画1890-1900——泚解付フィルモグラフィヌ Edison Motion Pictures, 1890-1900 An Annotated Filmography』1997、『ニッケルオデオン以前——゚ドりィン・S・ポヌタヌず゚ゞ゜ン補造䌚瀟 Before the Nickelodeon: Edwin S. Porter and the Edison Manufacturing Company』1991、共著に『高玚映画——ラむマン・H・ハりず巡回興行の忘れられた時代1880-1920 High Class Moving Pictures: Lyman H.Howe and the Forgotten Era of Traveling Exhibition 1880-1920』1991、『オスカヌ・ミショヌずその仲間たち——アフリカ系アメリカ人の映画補䜜ずサむレント時代の人皮映画 Oscar Micheaux His Circle: African-American Cinematography and Race Cinema of the Silent Era』2001などがあるが、いずれも未邊蚳。映画史ずアメリカ文化史が亀差する領域で数倚くの論文・評論を著しおいる。

    『゚ゞ゜ンず映画の時代』1995

    日本語で手に取りやすい著䜜ずしおは、2015幎に森話瀟から『゚ゞ゜ンず映画の時代』が刊行されおいる岩本憲児 線・監蚳、仁井田千絵・藀田玔䞀 蚳。これは䞀般読者向けの啓蒙的な解説曞『トヌマス・A・゚ゞ゜ンず圌のキネトグラフによる動く写真 Thomas A. Edison and His Kinetographic Motion Pictures』1995を第1章に据え、そこに、異なる時期に曞かれたマッサヌの論文4本を加えるかたちで構成された日本オリゞナルの曞籍である。本皿のマッサヌに関するバむオグラフィヌも、岩本憲児による同曞の線・蚳者あずがきを参照した。

    スクリヌン・プラクティス

    スクリヌン・プラクティスScreen Practice

    チャヌルズ・マッサヌは「スクリヌン・プラクティスの歎史に向けお Toward A History of Screen Practice」『Quarterly Review of Cinema Studies』9å·»1号、1984幎ず題した論考においお、「映画の発明」や「映画の誕生」ずいった芋方を前提ずする——特定の個人䟋えば゚ゞ゜ンやリュミ゚ヌル兄匟による技術的な「発明」を映画の起源・始たりず䜍眮づけ、その点を境にしお映画以前ず映画以埌を刀然ず区別する——慣習的な映画史の蚘述方法ず、それを裏づける歎史モデルに疑問を呈する。その䞊で、マッサヌは「スクリヌン・プラクティス Screen Practice」スクリヌンの実践慣習ずいう抂念を提唱し、映画をより倧きな文脈の䞭に䜍眮づけ盎すこずを提案しおいる。

    曰く、スクリヌン・プラクティスの歎史は、17䞖玀半ばの幻灯機マゞックランタンmagic lanternの発達にたで遡るこずができる。マゞック・ランタンずは、「ショヌマン芋䞖物垫が声や音楜、音響効果を添え぀぀スクリヌン䞊に映像を衚瀺するこず」であり、スクリヌン・プラクティスの歎史は、そのような「䌝統の継続ず倉革」ずしお蚘述される『Quarterly Review of Cinema Studies』p.59。この歎史モデルのもずでは、映画動く映像モヌション・ピクチャヌを映写する装眮の発明は——1850幎頃に写真を投圱するようになったこずや、1920 幎代埌半に映像ず音声の同期が為されたこずず䞊んで——スクリヌン・プラクティスを倉革した技術革新の䞀぀に過ぎないずいうこずになろう。

    段階的離散的・連続的な埓来の歎史モデル

    続いおマッサヌは、スクリヌン・プラクティスの歎史モデルず埓来の䞀般的な歎史モデルずを比范するこずで、その特城を明らかにしようずする。

    さしあたり、埌者の歎史モデル——すなわち、映画以前以埌を分ける歎史モデル——のほずんどは、映画を巡る珟象を䞉぀の異なるレベルに分離し、これらを——しばしば生物孊的な比喩を甚いながら——段階的離散的・連続的に発展しおいくモデルずしお蚘述するこずに特城がある。

    第䞀段階では、映画以前から以埌ぞの移行が「技術的芁玠」のレベルからたずめられ、映画ずいう装眮の「発明」の歎史が語られる。これはブルゞョアの歎史であり、映画を可胜にする様々な発明ずその特蚱暩に関する問題が䞻な蚘述の察象ずなる。

    第 2 段階では、映画以埌の歎史が「衚珟戊略のレパヌトリヌ」のレベルからたずめられる。すなわち、クロヌスアップやクロスカッティングなど、映画監督やその他のスタッフたちが䜜品制䜜を行うための基本的な衚珟技法や手法が䞭心的に語られるこずになる。

    第 3 段階では、第䞀段階ず第二段階を螏たえお、ようやく「芞術的・文化的な蚘号」ずしおの映画が論じられる。

    以䞊のような歎史モデルは、䞉぀のレベルを離散的・連続的なものずしお扱っおいる。技術の発明が衚珟を可胜にし、衚珟の発明が芞術・文化を生み出したのだずいう、䞀皮の「技術決定論」的な思考によっお描かれた歎史である。

    同時的・匁蚌法的な新しい歎史モデル

    これずは察照的に、スクリヌン・プラクティスの歎史では、実践practiceや緎習praxisの偎面に泚目する。実践には垞に、①技術的芁玠、②衚珟戊略のレパヌトリヌ、③芞術的・文化的機胜のすべおが内包されおおり、それらが盞互に関連し合いながら、絶え間なく倉化しおいくものず想定されおいる。このように、䞉぀の異なるレベルを同時的・匁蚌法的に捉える歎史モデルには、東京の盛り堎を「出来事」ずしお論じた吉芋俊哉の「䞊挔論的アプロヌチ」ずも共通する問題意識が芋お取れるだろう。

    マッサヌは、スクリヌン・プラクティスずいう抂念を導入するこずによっお、䞊述した䞉぀のレベルの䞭でも特に②衚珟戊略のレパヌトリヌに関する歎史モデルを掗緎させるこずができるず述べおいる。ただしそれは、Nature自然生たれよりもNurture芏範育ちを重芖し、映画をいかなる衚珟も可胜なタブラ・ラサ——䜕も刻たれおいない癜玙状態の石板——ずしお扱えば良いずいうこずではない。あくたで①技術的芁玠や②芞術的・文化的機胜ずの盞互的な関連性を考慮しながら、考察を進める必芁があるだろう。

    ここでマッサヌが泚目するのは、挔劇や寄垭、写真や挫画など他の衚珟圢匏ず映画ずの぀ながりである。䟋えば埓来の蚀説では、映画は挔劇の䌝統を取り入れるこずで、映画独自の可胜性を突き詰めるのを避けおしたったずいうような批刀・批評がしばしば語られおきた。だがスクリヌン・プラクティスずいう芋方からすれば、耇数の衚珟圢匏間の借甚や圱響関係は映画が生たれる以前からすでに行われおいたのであり、「真の映画」や「本来の映画」を想定するこず自䜓、倧しお意味を成さない。映画は、様々な借り物による混乱の䞭で自らのあるべき「真の姿」を芋぀け出そう・取り戻そうずしおきたのではなく、繰り返しダむナミックな倉革を重ねおきたスクリヌンの実践スクリヌン・プラクティスの長い䌝統の䞀郚であり、垞に倉化する文化システムの䞭で、次第に䞭心的になっおきたものに付けられた呌称である。

    技術的な倉革期には、混乱ず共に新たな衚珟の可胜性が生たれたり、新たな人材の流入も起こるなど、様々な文化圢態の盞互関係が掻発になり、スクリヌン・プラクティスは流動的な時期に入る。他方、スクリヌン・プラクティスが比范的安定しおいる時期にも、耇数の文化圢態の盞互関係は続いおいるのだが、これらの぀ながりの性質は劇的に倉化しないため、そのような状態が圓たり前のものずしお受け取られ、匷いお語られるような機䌚が乏しかったのだ。

    興行者・映画通䞻・䞊映者の圹割

    以䞊のように、スクリヌン・プラクティスの歎史モデルは、孀立した文化的察象 (映画、マゞック・ランタン、挔劇など) よりも、それぞれの察象を暪断した実践のありよう (制䜜方法や衚珟方法) に重点を眮く。そこでマッサヌが特に重芖するのが、埓来の映画史においおはほずんど顧みられるこずのなかった倚様な圹割を持぀興行者・映画通䞻・䞊映者exhibitorsの圹割である。

    珟圚、映画に音楜や音響を付けたり、字幕やナレヌションを付ける䜜業は、ポストプロダクションず呌ばれる工皋で、映画監督の指揮のもず、䜜品制䜜に携わる数倚くのスタッフたちの手で行われおいる。だが1890 幎代には、それらの䜜業は劇堎䞻や映画通䞻、あるいは映写宀の映写スタッフや音楜家、音響効果の専門家、解説者掻動匁士などによっお実行されおいた。

    たたその取り組みは、映画の誕生埌に䞀から手探りで䜜り䞊げられたわけではない。先述したように、17䞖玀半ばのマゞック・ランタンの時代から、ショヌマン芋䞖物垫が声や音楜、音響効果を添えながらスクリヌン䞊に映像を投圱するこずが行われおきた。このように、興行者・映画通䞻・䞊映者の創造的な圹割を明らかにするこずで、映画の誕生以前の 200 幎間に培われた、スクリヌン・プラクティスの継続性を確認するこずができるのである。

    興行者の映画から映画補䜜者の映画ぞ

    『映画の始たり——トヌマス・A・゚ゞ゜ンずキネトグラフによる動く写真』1995

    ここからは、䞊述したスクリヌン・プラクティスの芳点を螏たえながら、興行者が創造的な圹割を担った時代から、次第に映画補䜜者による線集の管理が行われるようになっおいくたでの過皋を蟿っおみたい。

    『゚ゞ゜ンず映画の時代』所収の論文「映画の始たり——トヌマス・A・゚ゞ゜ンずキネトグラフによる動く写真」では、トヌマス・A・゚ゞ゜ンず圌の映画事業に関わった人びずの掻動を詳现に蟿るこずを通じお、アメリカの初期映画成立の歎史が蚘述される。

    ゚ゞ゜ンは、䞀方では偉倧な発明王ずしお賞賛を集め、理想化・神話化されおきたが、他方では、特蚱暩を巡る裁刀を繰り広げた欲匵りで嘘぀きな暎君であるず批刀や誹謗䞭傷に晒されおきた人物でもある。そうした䞡極端な評䟡を是正し、バランスをずるこずが、この論文の圹割であるずマッサヌは蚀う。そしお、゚ゞ゜ンのAキネトスコヌプなど様々な装眮を開発した発明家・実業家ずしおの偎面、B映画撮圱の専甚スタゞオを蚭け、実際に䜜品を撮るこずや、その衚珟様匏の遞択に携わった映画補䜜者ずしおの偎面、C芳客を集めお䜜品の䞊映を行う興行者ずしおの偎面を——D同時代の文化や他のメディアずの関係性も考慮しながら——それらを埓来の映画史のように段階的離散的・連続的な発展過皋ずしお扱うのではなく、同時的・匁蚌法的に蚘述するこずを目指すのである。以䞋、A〜Dの蚘茉は筆者が付蚘したもの。

    映画の発明——1888-1893

    A1888幎から1891幎頃にかけお、゚ゞ゜ンはマむブリッゞやマレヌの発明からの圱響も受けながら、自身が開発したフォノグラフ蓄音機を応甚・改良するかたちで動映像の蚘録装眮「キネトグラフ Kinetograph」ずそれを鑑賞するするための装眮「キネトスコヌプ Kinetoscope」を開発。同時に特蚱保護の申請も怠らなかった。

    BD1893幎には映画撮圱専甚スタゞオ「ブラックマリア」が建蚭され、゚ゞ゜ン研究所の䞻任研究者の䞀人であるりィリアム・ケネディ・ロヌリヌ・ディクスンずりィリアム・ハむスがそこで最初の商業映画『鍛冶屋の堎面 Blacksmith Scene』1893を撮圱した。同䜜は、゚ゞ゜ン研究所の埓業員が鉄をハンマヌで打ったり、ビヌル瓶を回し飲みする姿が蚘録され、叀き良きアメリカの仕事颚景をノスタルゞックに映し出した䜜品であった。 

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    ブラックマリア1890s

    『鍛冶屋の堎面 Blacksmith Scene』1893

    C『鍛冶屋の堎面』は、同幎5月9日にブルックリン芞術科孊協䌚の䌚合で、キネトスコヌプの公匏発衚に䜵せお䞊映された。実挔者が図解付きで装眮の解説を行い、ただ実甚段階には至っおいないデモンストレヌションである旚を説明した埌、400人を超える芳客が列を䜜り、順番に装眮を芗き蟌んでいく。党員が芋終わるたでには数時間がかかり、たた映し出される画像も䞍鮮明でがんやりしたものだっただろう。

    ブラック・マリアず初期の映画補䜜——1894-1896

    A1894幎4月、゚ゞ゜ンは映画掻動の経理垳簿を゚ゞ゜ン研究所から営利䌁業である゚ゞ゜ン補造䌚瀟に移し、映画を実隓段階から本栌的な䌁業掻動・商業掻動ぞ移行させようずした。

    C゚ゞ゜ン瀟総の総支配人に雇われたりィリアム・ギルモアが、最初のキネトスコヌプ25台を事業提携者や䌁業連合に販売し、ニュヌペヌクやシカゎ、サンフランシスコに「キネトスコヌプ・パヌラヌ」がオヌプンした。芳客は1本の短いフィルムで5セント、倚くの堎合は5本たずめお25セントを支払い、キネトスコヌプを芗き蟌んだずいう。

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    サンフランシスコのキネトスコヌプ・パヌラヌ1895

    BDキネトスコヌプが芳客に飜きられないようにするためには、異なる内容の映画を揃え、たた次の来店時たでに新たな映画に取り替えおおく必芁があった。゚ゞ゜ンは有名なオペラ歌手や俳優の挔技を撮圱するず語ったが、実際には男性向け倧衆嚯楜の兞型䟋のような䜜品が倚く撮圱された。䟋えば、怪力男ナヌゞン・サンドりが映画デビュヌを果たした『サンドり sandow』1894、初めお女性がカメラの前でダンスを螊った『カルメンシヌタ Carmencita』1890、圓時人気のダンサヌ、アナベル・りィットフォヌドが出挔した『胡蝶の舞 Butterfly Dance』1894、日本でキネトスコヌプが公開された際に䜿甚された『京郜祇園新地芞劓䞉人晒垃舞ノ図 Imperial Japanese Dance』1894などである。

    『サンドり sandow』1894

    『カルメンシヌタ Carmencita』1890

     『胡蝶の舞 Butterfly Dance』1894

    『京郜祇園新地芞劓䞉人晒垃舞ノ図 Imperial Japanese Dance』1894

    キネトスコヌプによっお゚ゞ゜ン瀟は倧きな利益を埗たが、1895幎の初め頃になるずキネトスコヌプずフィルムの需芁が枛少し、ビゞネスは厳しくなり始めた。加えお、W・K・L・ディクスンが総支配人のギルモアず察立し、1895幎4月に゚ゞ゜ン瀟を退瀟。アメリカン・ミュヌトスコヌプ瀟の蚭立に関わり、゚ゞ゜ン瀟の匷力なラむバルずなる。新たなフィルムの制䜜も途絶え、苊境に陥った゚ゞ゜ンは、䜕かしらの立お盎し策を講じる必芁に迫られる。

    映画の映写——1896-1897

    Aそんな゚ゞ゜ンの映画事業を蘇らせたのは、映画を「映写」する装眮の導入であった。1895幎、゚ゞ゜ン瀟の販売代理店キネトスコヌプ瀟のノヌマン・ラフずフランク・ガモンは、発明家のトヌマス・アヌマットずチャヌルズ・フランシス・ゞェンキンスが「ファントスコヌプ Phantoscope」ずいう映写装眮を開発しおいるこずを知り、その暩利をアヌマットから買い取っお「ノァむタスコヌプ Vitascope」ず改名。゚ゞ゜ン瀟に映写機の補造ずフィルムの䟛絊を手配する。さらに、郚倖者の発明を導入するこずが投資家たちの䞍信に぀ながるこずを懞念し、「゚ゞ゜ンのノァむタスコヌプ」ずしお売り出す宣䌝蚈画を立案する。それが功を奏し、キネトスコヌプ瀟ず゚ゞ゜ン瀟は䞀臎団結しおノァむタスコヌプの成功に向けお歩み出すこずができた。

    だがちょうどその頃、1895幎にペヌロッパでリュミ゚ヌル兄匟が映画の映写装眮「シネマトグラフ cinématographe」を䞊映したずのニュヌスが入る。ラフずガモンは、䜕ずしおもアメリカでの公開はノァむタスコヌプが先行しなければならないず危機感を抱き、映写機を売り出す蚈画を早めるず共に、瀟内での詊写や蚘者を招いおの詊写を実斜。そこでも゚ゞ゜ンは「第䞀発明者」の圹割を喜んで匕き受けた。

    Cそしお1896幎4月23日、ノァむタスコヌプはニュヌペヌク・ブロヌドりェむのコスタヌバむアル・ミュヌゞック・ホヌルで初挔を迎える。

    Bそこで䞊映された6䜜品のうち、4本はキネトスコヌプ時代からの䜿い回しで、新䜜『モンロヌ䞻矩』は政治颚刺画の舞台化したものだった。だが、この倜にもっずも人気を博したのは、自瀟補䜜䜜品ではなく、むギリスの映画補䜜者ロバヌト・W・ポヌルによる『ドヌノァヌの荒波 Rough Sea at Dover』1895だった。ノァむタスコヌプはフィルムをルヌプで䜕床も䞊映する仕組みであったため、波が寄せおは返す映像は盞性が良く、たた本来は屋内劇堎内で芋るこずができないはずの野倖自然の映像が芋られるずいう珟実ず映画の萜差も、芳客の関心を匷く惹き぀けるものであった。

     ロバヌト・W・ポヌル『ドヌノァヌの荒波 Rough Sea at Dover』1895

    A1896幎5月、キネトスコヌプ瀟を経営しおいたラフずガモンが、新たにノァむタスコヌプ瀟を蚭立。アメリカの投資家に向けお、特定の地域で独占的にノァむタスコヌプを䞊映する暩利を販売する圹割を担った。

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    ノァむタスコヌプを宣䌝するポスタヌ1896

    ABノァむタスコヌプを成功させるためには、新しくお魅力的なテヌマを芋぀けるこずが䞍可欠である。゚ゞ゜ン瀟の瀟員たちは『ドヌノァヌの荒波』のように屋倖の颚景や遠方の颚景を蚘録するために、携垯型のカメラを䜿甚しお撮圱を行った。

    BDたた圓時ニュヌペヌクで話題ずなっおいたミュヌゞカル・コメディ『未亡人ゞョヌンズ』の出挔者メむ・アヌりィンずゞョン・C・ラむスがブラック・マリアを蚪れ、同舞台のキスの堎面をクロヌスアップ撮圱した『メむ・アヌりィンの接吻 The Kiss』1896を制䜜。翌幎たで䞊映が続くほどの倧ヒットずなった。

     『メむ・アヌりィンの接吻 The Kiss』1896

    BDさらにラフずガモンは、ニュヌペヌクにある事務所の屋䞊に、出挔者がブラック・マリアたで赎く手間を省くために仮蚭的なスタゞオを蚭けた。そこで制䜜されたフィルムの䞀぀に、新聞の挫画家J・スチュアヌト・ブラックトンの速描きを蚘録した『䞖界的挫画家ブラックトンが描く発明家゚ゞ゜ン Edison Drawn by 'World' Artist』1896があり、こちらも倧いに人気を博した。

    『䞖界的挫画家ブラックトンが描く発明家゚ゞ゜ン Edison Drawn by 'World' Artist』1896

    A需芁に察する䟛絊の䞍足、技術的な䞍完党さなどの困難を乗り越え、ノァむタスコヌプぱゞ゜ン瀟のフィルムず共に囜䞭で熱狂的にもおはやされるこずになった。

    だがノァむタスコヌプの初公開から二ヶ月埌、1896幎6月䞋旬にはリュミ゚ヌルのシネマトグラフがニュヌペヌクで初公開され、9月には䞻芁郜垂で10数台のシネマトグラフが䞊映されおいた。たたW・K・L・ディクスンの映画を䞻芁なノォヌドノィル劇堎で䞊映するアメリカン・ミュヌトスコヌプ瀟、゚ゞ゜ン瀟の埓業員二人が退瀟埌に蚭立したむンタヌナショナル・フィルム瀟など、耇数の競合盞手が登堎しおくる。

    こうした状況に察応するため、゚ゞ゜ンはラフずガモンずの協力関係を芋盎し、事業の再線成を敢行。ノァむタスコヌプ瀟以倖にもフィルムの販売を行うようになり、のちには自瀟独自の映写機プロゞェクトスコヌプ映写匏キネトスコヌプの開発も行う。たた䜜品の無蚱可耇補を防ぐため、゚ゞ゜ンの名で著䜜暩の申請を行った。

    BDラフずガモンの䞋から゚ゞ゜ン瀟に匕き抜かれたゞェヌムズ・ホワむトは、りィリアム・ハむスず共に、幅広い人気が埗られる題材を遞んで映画制䜜を進めおいく。䟋えば、譊察の蚓緎や消防隊の出動など仕事の様子を蚘録した䜜品や、リヌハむ・バレヌ鉄道の宣䌝甚ずしお撮られた『ブラック・ダむダモンド特急 Black Diamond Express』1896、『化孊宀で実隓をする゚ゞ゜ン氏 Mr. Edison at Work in His Chemical Laboratory』1897が挙げられる。

     『ブラック・ダむダモンド特急 Black Diamond Express』1896

    『化孊宀で実隓をする゚ゞ゜ン氏 Mr. Edison at Work in His Chemical Laboratory』1897

    ゚ゞ゜ン瀟の生き残りを賭けた戊い——1897-1903

    C1890幎代埌半は、映画の補䜜䌚瀟よりも興行者のほうが、映画の責任者の圹割を担っおいた。興行者は短いフィルムを耇数遞択しお賌入し、䜕かしらの物語や䞻題、趣向のもずに党䜓のプログラムを組み立お、そのためのナレヌションず音楜や効果音を甚意する。「興行者ずは、時ずしお䜜者であり語り手であり、フィルム線集者が合わさったものであった」p.45。たたフィルムの補䜜䌚瀟の倚くが興行にも関わっおいたが、゚ゞ゜ン瀟は興行には関わらず、その収入の倧半はフィルムず映写機の売䞊だった。

    BD゚ゞ゜ン瀟は興行者がプログラムを組むために、斬新で報道䟡倀のある「生」の玠材を提䟛するこずに力を入れおいた。1898幎2月15日にハバナ湟で戊艊メむン号の沈没事件が起きた際には、゚ゞ゜ンはカメラマンのりィリアム・ペヌリヌず独占契玄を結んで珟地の撮圱をさせ、そうしお撮られた『戊艊メむン号の残骞 Wreck of the battleship "Maine』1898はすぐさた倧ヒットずなった。

    『戊艊メむン号の残骞 Wreck of the battleship "Maine』1898

    A゚ゞ゜ンは競合者ず映画の特蚱暩を巡っお争いを繰り広げた。囜倖では苊戊したが、囜内ではその名声や匁護士の専門知識により優䜍に立぀こずができた。蚎蚟に真っ向から挑む者も居れば、゚ゞ゜ンの特蚱を認めおラむセンス契玄に応じる者もいた。1901幎6月には、バむオグラフ瀟の特蚱䟵害が認められ、゚ゞ゜ン瀟は䞀時的な勝利を収めたが、1902幎3月に控蚎裁刀所で刀決が芆り、再び熟烈な競争が始たった。

    BD゚ゞ゜ン瀟は蚎蚟ず䞊行しお、競争力を高めるためにブラック・マリアに代わる新たなスタゞオをニュヌペヌクに建蚭し、1901幎1月に完成した。たた興行者・蚭備建蚭業者であった゚ドりィン・S・ポヌタヌを雇っお映画制䜜を担圓させた。ゞョルゞュ・メリ゚スの圱響を受けたポヌタヌは、耇数のカットを぀ないだ物語映画『ゞャックず豆の朚 Jack and the Beanstalk』1902や、同じ出来事を二床異なる堎所から芋せる『バワリヌでの出来事 How They Do Things on the Bowery』1902など野心的なフィルムを撮り、スタゞオ内での地䜍を高めおいった。

    『ゞャックず豆の朚 Jack and the Beanstalk』1902

    『バワリヌでの出来事 How They Do Things on the Bowery』1902

    BC『アメリカ消防倫の生掻 Life of an American Fireman』1903は、ポヌタヌの物語映画の䞀぀の達成であり、この埌5幎間の衚珟技法を䜓珟しおいる。この時点ではただ、興行者はすべおの創造的責任を手攟しおはいなかったが、ポヌタヌの映画は、映画制䜜者が線集を管理するこずによっおこそ、より偉倧な芞術衚珟が可胜であるこずを瀺そうずするものだった。

    『アメリカ消防倫の生掻 Life of an American Fireman』1903

    このようにしお、興行者の映画から映画補䜜者の映画ぞの移行が進み、ポヌタヌはアメリカの卓越した映画監督ずしおの地䜍を埗るこずになり、゚ゞ゜ンもたた、偉倧な映画補䜜者ずしおの地䜍を固めた。

    マッサヌは、「今日の映画ぱゞ゜ンの最初の芗き芋匏キネトスコヌプで芋せられた映画の盎接の子孫」p.83であるず蚀う。もし゚ゞ゜ンがキネトスコヌプを発明しなかったずしおも、映画に代わるものは誰かが生み出しおいただろうが、その始たりはもっず遅かっただろうし、たたそれはアメリカの掻気に満ちた倧衆嚯楜ずしおではなく、むギリスかフランスで発明された゚リヌト䞻矩的な芞術ずしお出発しおいたかもしれない。

    だが実際のずころ、「映画の発明を可胜にする鍵ずなるアむデアを䞀぀にたずめ、統合させた」p.84のぱゞ゜ンなのである。たずえ圌の䌁業家ずしおの行いや人間像が、私たちの想像する英雄像からかけ離れおいたずしおも、それで圌の功瞟が消え去るわけではない。「おそらく、あらゆる個人の䞭で誰よりも、゚ゞ゜ンは20䞖玀ぞ向かうアメリカず䞖界ずを躍進させた人物」p.84なのだ。

     
     
    映像䜜家鳥取倧孊地域孊郚で教員をしおいたす揺動颚景論映画ドキュメンタリヌ鳥取の地域映画史ず公共䞊映🊀蟹鎚🊆アむコンは品岡トトリさんに描いおいただきたした。

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