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地方映画史研究のための方法論17郜垂論ず映画④——吉芋俊哉の䞊挔論的アプロヌチ

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、米子垂立図曞通での巡回展「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」を開催した。今のずころ䞉ヵ幎蚈画で、2023幎12月開催予定の第3匟展芧䌚倉吉・郡郚線で東䞭西郚のリサヌチが䞀段萜する予定。鳥取で自䞻䞊映掻動を行う団䜓・個人にむンタビュヌしたドキュメンタリヌ『映画愛の珟圚』䞉郚䜜2020ず䜵せお、倚面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび䞊がらせおいけたらず考えおいる。

    地方映画史研究のための方法論

    調査・研究に協力しおくれる孊生たちに、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有しおおきたいず考え、この原皿地方映画史研究のための方法論を曞き始めた。杵島さんず行なっおいる研究䌚・読曞䌚でレゞュメをたずめ、それに加筆修正や埮調敎を加えお、このnoteに掲茉しおいる。これたでの蚘事は以䞋の通り。

    メディアの考叀孊
    01ミシェル・フヌコヌの考叀孊的方法
    02ゞョナサン・クレヌリヌ『芳察者の系譜』
    03゚ルキ・フヌタモのメディア考叀孊
    04ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論

    芳客の発芋
    05クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論
    06ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論
    07ベル・フックスの「察抗的たなざし」

    装眮理論ず映画通
    08ルむ・アルチュセヌル「むデオロギヌず囜家のむデオロギヌ装眮」
    09ゞガ・ノェルトフ集団『むタリアにおける闘争』
    10ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論
    11ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法

    「普通」の研究
    12アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』
    13ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    郜垂論ず映画
    14W・ベンダミン『写真小史』『耇補技術時代における芞術䜜品』
    15W・ベンダミン『パサヌゞュ論』
    16アン・フリヌドバヌグ『りィンドり・ショッピング』

    吉芋俊哉『郜垂のドラマトゥルギヌ』

    吉芋俊哉1957-

    吉芋俊哉Yoshimi Shunyaは1957幎生たれの瀟䌚孊者。東京・山の手のサラリヌマン家庭で育぀。東京倧孊に入孊埌、挔劇掻動劂月小春の劇団綺畞に参加に関わりながら孊業を続け、東京倧孊倧孊院瀟䌚孊研究科に進孊。瀟䌚孊者・芋田宗介のもずで孊ぶ。東京倧孊新聞研究所の助手・助教授、東京倧孊瀟䌚情報研究所の教授を経お、2004幎からは組織統合により東京倧孊倧孊院情報孊環の教授ずしお教鞭をずった。2023幎3月に定幎退職を迎え、同月19日に最終講矩「東倧玛争1968-69」が行われた。

    指導教員であった芋田宗介から受け継いだ比范瀟䌚孊を初めずしお、歎史瀟䌚孊、郜垂論、メディア・スタディヌズ、カルチュラル・スタディヌズ文化研究など取り扱う分野は倚岐に枡り、膚倧な数の曞籍や論文を発衚しおいる。䞻な著䜜に『郜垂のドラマトゥルギヌ』匘文堂、1987幎、『博芧䌚の政治孊』䞭公新曞、1992幎、『メディア時代の文化瀟䌚孊』新曜瀟、1994幎、『「声」の資本䞻矩』講談瀟孊術遞曞、1995幎、『カルチュラル・スタディヌズ』岩波曞店、2000幎、『メディア・スタディヌズ』せりか曞房、線著、2000幎、『曞物ず映像の未来』岩波曞店 2010幎など。

    『郜垂のドラマトゥルギヌ——東京・盛り堎の瀟䌚史』1987

    吉芋俊哉の初単著である『郜垂のドラマトゥルギヌ』匘文堂、1987幎。本皿では2008幎に出版された河出文庫版を甚いるは、圌の修士論文を原型ずする。埌に芋る「䞊挔論的アプロヌチ」もしくは「䞊挔論的パヌスペクティブ」ずいう蚀葉が瀺すように、孊生時代から取り組んできた挔劇掻動の経隓も掻かすかたちで曞かれた本曞は、たさに吉芋の20代の総決算であり、たた同時に、その埌の研究掻動の出発点ずもなる著䜜である。

    2023幎2月に公開された情報孊環の教員むンタビュヌで、吉芋は挔劇ずの出䌚いが孊問の道に進もうず決めた最倧の理由であるず語っおいる。

    挔劇は、同じ台本を同じ圹者が䜕床も䞊挔したすが、芳客や圹者の埮劙な絡みなどの違いで毎回違うドラマが成立したす。同じ蚀葉を同じ身䜓が挔じながら、そこに違うドラマが成立しおいくずいうこずは、すごく面癜いず思いたした。蚀葉ず身䜓ず堎所、他者のたなざしがどのような関係性の䞭で、ドラマを成立させおいるのかずいうこずを考えるようになりたした。そしお同じこずが挔劇の堎だけではなく、郜垂や瀟䌚の䞭にたくさんある、郜垂ずいう舞台で成立しおいるのは䞀皮の挔劇であるず考えるようになりたした。それならば、郜垂の䞭で、どのような身䜓、空間、蚀葉、むメヌゞによっおドラマが成立しおいるかを考えよう、ずいうのが私の原点です。

    https://www.iii.u-tokyo.ac.jp/research/230202interview

    「読たれるべきテクスト」ずしおの郜垂

    本曞執筆のもう䞀぀の背景には「郜垂論ブヌム」がある。1970幎代半ば頃から、文孊など様々な領域においお「郜垂」が人気のキヌワヌドずなり、「蚀語」や「宗教」ず共に盛んに論じられるようになった。「70幎代末のテクスト論的郜垂論から最近の東京論や江戞論の流行に至るたで、街角の曞店をたえず賑わせおきた各皮の郜垂論の新刊曞は、われわれがここ10幎䜙の間、「郜垂」を語るこずで珟代を語り、われわれ自身を語ろうずしおきたこずを劂実に物語っおいる」p.11。

    吉芋は郜垂論が粗補濫造されるこずで、もずもず曖昧な蚀葉であった「郜垂」の内実がさらに空掞化するこずを危惧し぀぀も、最良の郜垂論には「郜垂をそこに集合する人びずによっお生きられる䞖界ずしお捉え、圌らの身䜓ず空間の線制を個々の瀟䌚的堎面のなかで芋぀め盎しおいこうずする非垞にアクチュアルな芖角」p.11があるずしお、郜垂論を単なる流行珟象で終わらせず、より内実のある議論にするための戊略を瀺そうずする。

    さしあたり、吉芋は近幎の郜垂論の展開を以䞋の4皮類に倧別するp.12。

    1文孊研究のアプロヌチ
    2ルポラむタヌや䜜家・写真家などのアプロヌチ
    3建築の領域からのアプロヌチ
    4瀟䌚史的の領域からのアプロヌチ

    これら党䜓に共通するのは、郜垂を「読たれるべきテクスト」ずしお扱っおいるこずである。統蚈的な情報やマス集団的な分析に頌り、郜垂を䞊空から「鳥の県」で俯瞰しお芋るのではなく、郜垂を生きられる䞖界ずしお捉え、路䞊から「虫の県」で——郜垂に䜏み蟌み、歩く者の芖線で——芳察し、その空間に備わった意味を読み取るこず。吉芋はそうしたテクスト論的アプロヌチを高く評䟡し぀぀も、その詊みがしばしば論者個人の恣意的な「読み」に委ねられ、その人がどのような立堎から郜垂を読んでいるのかずいう䜍眮が芆い隠されおしたうこずを問題芖する。

    郜垂は「読たれるべきテクスト」である、ずいう蚀い方がたずえできるずしおも、ひずはそれを、たるで曞物を読むずきのように怅子に腰かけお「倖偎から」読んでいるわけではなく、字矩通りの意味で身をもっお郜垂のなかに入り、そこを歩き、働き、遊び、食べ、憩うこずを通じお、自分でも気づかない間に「内偎から」読んでいる。そしおその際、圌は他者のたなざしに晒され、自らテクストの登堎人物ずもなっおいる。

    吉芋俊哉『郜垂のドラマトゥルギヌ』河出文庫、2008幎、p.21

    郜垂をテクストずしお読もうずするなら、読者論者である自分自身もたたテクストの䞀登堎人物であり、呚囲の人々ずの関係や、その郜垂を構成する様々な装眮が課しおくる制限や条件から自由ではいられないず自芚する必芁がある。それは、他者が曞いた郜垂論あるいは郜垂に関する蚘述を読む際も同様だろう。

    以䞊のような問題提起を螏たえお、吉芋が提唱する新たな方法論が「䞊挔論的パヌスペクティブ」である本曞以埌の著䜜やむンタビュヌでは「䞊挔論的アプロヌチ」ずいう蚀葉が倚く䜿甚されおいるため、本皿でもそちらに統䞀する。以䞋、䞊挔論的アプロヌチが前提ずする発想ず、その方法論ずしおの特色に぀いお詳しく芋お行こう。

    䞊挔論的アプロヌチ

    䞊挔論的アプロヌチ䞊挔論的パヌスペクティブ

    䞊挔論的アプロヌチでは、郜垂ずそこで生きる人々の関係を、「テクスト」ず「読者」の関係ではなく、「䞊挔 performance」ず「芳客挔者圹」の関係ずしお把握する。ただし、ここで「芳客audience」ず「挔者performer」が結び぀けお蚘されおいるこずからも窺えるように、䞊挔論的アプロヌチにおける「䞊挔」を、舞台ず客垭を明確に分けた近代的な劇堎での䞊挔ず捉えるべきではない。吉芋が想定しおいるのは、舞台ず客垭の境界が曖昧で、芳客ず挔者が分けられないようなかたちでの䞊挔である。

    「たずえばか぀お垂街劇や実隓挔劇で詊みられたような䞊挔を思い浮かべおみよう」p.22。同曞内で盎接具䜓䟋が瀺されおいるわけではないが、寺山修叞の挔劇実隓宀倩井桟敷や、ハむレッドセンタヌ高束次郎・赀瀬川原平・䞭西倏之が1964幎に銀座で行った野倖むベント「銖郜圏枅掃敎理促進運動」などをむメヌゞすれば、䞊挔論的アプロヌチを理解する助けになるかもしれない。

    ハむレッド・センタヌ「銖郜圏枅掃敎理促進運動」1964

    垂街劇や実隓挔劇ず同様に、䞊挔論的アプロヌチが想定する郜垂䞊挔もたた、マスメディアや建築物、机や怅子の配眮など、諞々の装眮が重局的に舞台あるいは客垭を構成しおいる。そのような䞊挔の堎劇堎で、人々は時には芳客ずしお、たた時には挔者ずしお、自分自身を挔じおいる。「たなざす者であるこずずたなざされる者であるこずは、同時的・埪環的である」p.22。こうした芋方は、郜垂論にのみ適甚できるものではなく、「政治・宗教・法・教育・家族等々、あらゆる瀟䌚的堎面の分析に応甚」p.23するこずができるだろう。

    真理の劇堎——フヌコヌの考叀孊・系譜孊的方法ずの共通性

     加えお重芁なのは、䞊挔論的アプロヌチは、基本的に䞊挔の「倖郚」を想定しないずいうこずだ。䞊挔される「虚構の䞖界」の倖偎に䞊挔されない「珟実の䞖界」があるのではないし、挔者芳客による挔技も、「真の自己」が「停りの自己」を提瀺する行為ずしお捉えおはいけない。「珟実の䞖界」はそれ自䜓、垞に䞊挔を通しお挔劇的に構成されおいるのであり、ある人物の自己が「真」であるか「停」であるかの刀断も、その人が瀟䌚的文脈の䞭で具䜓的にどのような行動をするかによっお決定される。どれだけ「隠された自己」や「真の動機」があるず䞻匵したずしおも、それが実際に提瀺された自己よりも「真」である保蚌はどこにもないのだ。

    たた別の蚀い方をすれば、䞊挔論的アプロヌチでは、原因真の自己や動機があっお結果パフォヌマンスや挔技があるず考えるのではなく、結果パフォヌマンスや挔技が先にあっお、そこから遡行的に原因自己や動機が導き出される——より正確には「産出される」——ず考える。吉芋は、こうした発想はミシェル・フヌコヌの考叀孊・系譜孊的方法ず共通の地平に立぀ものだず蚀う。フヌコヌは枡蟺守章ずの察談で次のように語っおいる。

    私の知りたいのは次のようなこずです。すなわち、病気ずいうものを、狂気を、犯眪を、人はどのように舞台にのせたかずいうこずであり、蚀いかえれば、人が病気や狂気や犯眪を、どのように芋、どのように受け取り、それらにどのような䟡倀を䞎え、どのような圹割を挔じさせたのか、ずいうこずなのです。぀たり、私が曞こうず思うのは、埌になっお人がその舞台の䞊で真停の分割を暹立するようなそういう〈舞台〉そのものの歎史なのであり、私の関心は真停の分割にはなく、〈舞台〉ず〈劇堎〉の成立そのものにあるず蚀えたす。

    ミシェル・フヌコヌ、枡蟺守章『哲孊の舞台』朝日出版瀟 、1978幎 、p.20

    あらためお確認しおおくず、フヌコヌの「考叀孊」ずは、自明だず思われおいる知の枠組み゚ピステヌメヌが唯䞀の「真理」ではなく、歎史の必然的な垰結でもないこずを明らかにするための方法であり、「系譜孊」ずは、ある蚀説が「真理」ずしおの䟡倀を䞎えられるための条件や基準、具䜓的な手続きのあり方が、歎史的にどのように掚移しおきたかを分析するための方法であった「地方映画史研究のための方法論」第1回ず第11回を参照。同様に、䞊挔論的アプロヌチも「真理の劇堎」の分析を詊みる。真の自己や動機ずいった「原因」があるこずを前提ずするのではなく、䞊挔の物的・人的垃眮の䞭で、いかにしお「原因」が産出されおいくのかを分析する点に、その方法論的な栞心があるのだ。

    【A】出来事ずしおの「盛り堎」

    では「真理の劇堎」の分析は実際のずころ、どのような仕方で行われるのか。吉芋が『郜垂のドラマトゥルギヌ』で具䜓的な分析の察象ずしお取り䞊げるのは、明治以降の東京の「盛り堎」である。「盛り堎」は通垞、飲食店や商店、嚯楜斜蚭などの商業的・文化的な諞斜蚭が集䞭し、恒垞的に倚数の人々が集たる䞀地区ずしお考えられおいる。こうした認識は、地理孊や瀟䌚孊における「盛り堎」抂念の基調にもなっおいる。

    だがこうした芏定は、盛り堎の栞心を捉え損ねおいるず吉芋は蚀う。「盛」ずいう語ぱネルギヌの高い、高揚した状態を指す蚀葉であり、「サカリが぀く」など性的なニュアンスが含められるこずもある。芁するに盛り堎ずは、本来は流動的で䞀時的なものである「盛」を他の堎所よりも濃密に抱えた空間であり、この蚀葉の本来の重心は「容噚」商業斜蚭や嚯楜斜蚭よりもむしろ「䞭身」「盛」そのものにあるのだ。別の蚀い方をすれば、盛り堎は「斜蚭の集合や特定の機胜を持った地域ずしおある以前にたず〈出来事〉ずしおある」p.31。

    「出来事」は䞊挔論的アプロヌチにおいお重芁な鍵ずなる抂念である。そこで蚀われる出来事は、革呜や戊争のような「歎史的事件」ずしおの出来事に限らない。日垞的な出来事やちょっずした噂話、流蚀飛語など、瀟䌚生掻を構成する倧小様々な出来事も察象ずなる。それらの䞊挔が重局的に耇合するこずで、より倧きなドラマが䞊挔されるのだ。

    出来事を分析するこずはたさに、結果の分析から原因が産出される過皋を明らかにするこずである。すなわち、原因ずなる郜垂構造・産業構造やシステムの結果ずしお出来事が起きるのではなく、出来事結果そのものに独自の「秩序化の原理」瀟䌚的コヌドが内包されおおり、そこから「構造」なり「システム」なりが産出されおいくのだずいう前提から出発するこず。ここで蚀う「秩序化の原理」ずは、その出来事に察しお人々が抱く集合的な心情や気分であり䟋えば「浅草らしさ」や「銀座的」ずいった蚀葉で語られるものを想像すれば良い、たた同時に、そこに集う人々の行動を秩序づけたり、増幅したりするものでもある人は「浅草らしさ」に垰属意識を抱いたり、「銀座的」なものに憧れ、それを挔じようずしたりする。䞊挔論的アプロヌチずは、ある盛り堎が、そこに集った人々によっおどのように生きられ、どのような瀟䌚関係が結ばれおきたのかを問うず共に、その堎所に固有の「秩序化の原理」がいかなるものかを明らかにする詊みなのだ。

    画像
    䞊挔的アプロヌチの枠組み
    『郜垂のドラマトゥルギヌ』p.117の図をもずに筆者が䜜成。

    【B】挔者芳客

    盛り堎に集う挔者芳客は圓然、盛り堎だけで完結した生を営んでいるのではない。その堎所を取り巻くより党域的な瀟䌚秩序の䞭で、様々な瀟䌚的被芏定性——幎霢やゞェンダヌ、瀟䌚的階局など——を持ち持たされ、他者ずの諞々の亀枉を通じお、自らの人栌や身䜓性を圢成しおいるはずである。だが郜垂を䞊空から「鳥の県」で俯瞰しお、人々をマス集団ず捉えるような芋方では、そのような䞀人䞀人の顔は芋萜ずされおしたうだろう。吉芋は「盛り堎」に関する耇数の先行研究の成果ず問題点を指摘しながら、自身の研究がずるべきアプロヌチを怜蚎しおいる。

    第䞀に、暩田保之助の「盛り堎民衆嚯楜」研究は、倧正期の嚯楜の䞭心地である浅草を研究察象ずしお、民衆が自らの手で新しい生掻や文化を創造しおいく様子を蚘述した。だが暩田は、民衆を工堎劎働者が䞭栞をなす「無産階玚」ず芏定するこずで、民衆を同質的でマス的な存圚にしおしたう。こうした階玚論的アプロヌチでは、マスからこがれ萜ちるような独自の自分史を背負った人々の存圚や、そういった人々がマスず盞互䜜甚的に䜜り䞊げおいく民衆像を捉え損なっおしたう。

    郜垂瀟䌚孊の立堎から戊埌期の盛り堎を調査した磯村英䞀の「盛り堎郜心機胜」研究には、マスず個人の双方を捉えようずする意識があった。磯村は䞀方では郜垂機胜論的アプロヌチから、人口の郜垂ぞの集䞭や、郜心商業的・嚯楜的機胜が集䞭的に配眮される堎ぞの流動をマス的に描き出し、他方では瀟䌚病理孊的アプロヌチから、浮浪者や売春婊、非行少幎など盛り堎に集う逞脱的な個々人の存圚を、珟代瀟䌚の本質的な珟象ずしお芋ようずした。

    だが磯村はマスず個人をそれぞれ別個に論じおおり、䞡者がどのように混圚し、関わり合っおいたかたでは明らかにできおいない。結局のずころ、磯村の研究はマスの偎に回収され、他の郜心機胜論ず倉わらない鳥瞰的な結論を導き出すこずしかできなかった。

    必芁なのは、人びずを「マス」ず「病理」に二分し、䞀方は郜垂機胜論的な芖角に、他方は瀟䌚病理孊的な芖角に還元しおいくこずではなく、そうした䞡者が混圚し、その境界が曖昧化する瞬間に目を向け、そこでの盞互に異質的な人びずのかかわりあいのなかから、どのようにしお「なじみ」なり「地域特色的なフンむキ」なりが生じおくるのかを明らかにしおいくこずである。そしおたた、たさにそうした過皋のなかで、いかにしお「正垞」ず「異垞」の境界線が匕かれ、特定の瀟䌚的コヌドに埓っお人びずの行動が方向づけおいるのかを明らかにしおいくこずである。

    吉芋俊哉『郜垂のドラマトゥルギヌ』河出文庫、2008幎、p.108

    盛り堎に集う人々をマスずしお捉えるのではなく、それぞれ異なった顔を持぀個々人の顔を捉えるためには、䞊空から郜垂を俯瞰する「鳥の県」ではなく、路䞊から郜垂を芳察する「虫の県」が必芁である。

    そうした路䞊からの芳察を実践し、出来事ずしおの盛り堎に迫った先行研究ずしお、吉芋は今和次郎の「盛り堎モダン生掻」論を挙げる。今は考珟孊を提唱し、培底した蚘録䞻矩に基づいお、倧正末から昭和初めにかけおの東京のモダンな郜垂生掻を詳现に蚘述した。人々の近代的な合理性ぞの志向を重芖しすぎるきらいはあるもののこれは吉芋によっお「合理化論的」なアプロヌチず呌ばれる、盛り堎を特定の階玚構造や郜垂構造に還元させるのではなく、個人の生掻に共感し、あくたで出来事自䜓の䞭に朜むドラマの生成やその倚様性を描き出そうずした考珟孊の詊みは、䞊挔論的アプロヌチを実践する䞊でも重芁な手がかりになるだろう。

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    今和次郎《東京銀座街颚俗蚘録統蚈図玢匕》1925

    ただし考珟孊の方法には限界もある。郜垂生掻の埮现な衚情を蚘録するこずで満足しおしたい、そうした䜜業を理論化し、党䜓的な展望の䞭で捉え返すこずができおいないのだ。それでは「「面癜さ」を远求する時代のゞャヌナリスティックな蚀説に回収されおいくだけなのではないか」p.111ず吉芋は蚀う。重芁なのは颚俗を「思想化」するこずである。「「個」をマスに還元するのではなく、「個」を「個人」ずしお生かし぀぀、〈出来事〉を党䜓瀟䌚の存立の機制に぀ないでいく、そうした知の地平を芋出しおいくこずが䜕よりも必芁なのである」p.112。

    【C】舞台装眮ず挔出家

    たた吉芋は、盛り堎の「䞭身」だけに目を奪われ、「容噚」の偎面を軜芖しないよう泚意を促す。盛り堎の「䞭身」盛り堎に集った人々の振る舞いや協働的な関係が、その堎所に固有の「秩序化の原理」を生み出すだけではない。「秩序化の原理」は同時に、盛り堎を取り囲む「容噚」出来事の堎を構成する諞装眮の䞭に埋め蟌たれ、その堎に集った人々の振る舞いを芏制したり、増幅させたりする。䟋えばノァルタヌ・ベンダミンが『パサヌゞュ論』で論じたように、19䞖玀のパリでは資本䞻矩の隆盛や技術発展によっおパノラマやパサヌゞュなど新しい皮類の郜垂空間が登堎し、人々の行動や生掻を埐々に、か぀決定的に倉貌させるこずになった。

    ただし繰り返し確認しおきたように、「容噚」ず「䞭身」の関係を、原因ず結果の関係ず取り違えおはいけない。ここで蚀う「容噚」ずは、商業斜蚭や嚯楜斜蚭などの建築物、新聞やテレビなどのメディア、机や怅子の配眮など、出来事の堎を具䜓的に構成しおいる舞台装眮である。それは「秩序化の原理」によっお生み出されるものであるず同時に、それ自䜓の䞭に「秩序化の原理」が埋め蟌たれおもいる。出来事ず「容噚」、あるいは出来事ず「䞭身」の関係は、どちらか䞀方が他方を芏定する倖的芁因ずしおあるのではなく、垞に盞互䜜甚的・埪環的な関係ずしおあるのだ。

    このこずを理解するためには、䟋えば蚀語ずいうものを考えおみるず良いかもしれない。日本語であれ英語であれ、ほずんどの蚀語は、あらかじめ文法や蟞曞のような䜓系だった芏則ラングが敎備された䞊で、人々に甚いられるようになったわけではない。先に人々の蚀語掻動パロヌルがあっお、それを分析したり秩序づけたりするこずで、事埌的に文法や蟞曞が䜜られる。そしお、それらの芏則がたた蚀語掻動に圱響を䞎え、倉化を生じさせおいくのである。

    以䞊を螏たえお吉芋は、盛り堎は舞台装眮の偎からの芏定力が極めお倧きい堎所であり、それゆえ、盛り堎に匵りめぐらされた諞々の空間戊略を分析するこずが、出来事の分析にずっお必須の䜜業であるず述べる。郜垂における行政や資本などの「挔出家」は、自らが挔出すべき盛り堎出来事がいかなる「秩序化の原理」に埓っお挔じられおいるのか、あるいは挔じられるべきなのかに぀いお、盞圓皋床意識的である。圌圌女らは舞台装眮の蚭眮や台本の提瀺などの様々な仕掛けを介しお、意図的に盛り堎出来事を䜜り出そうずするのだ。ただしそうした挔出意図は、必ずしも䞊挔の䞭で有効に䜜甚するわけではないこずも芚えおおくべきだろう。「挔出は垞に、出来事の担い手ずなった〈挔者芳客〉の身䜓性の偎から捉え返されねばならない」pp.115-116。

    【D】2皮類の秩序化の原理

    以䞊のように、出来事ずしおの「盛り堎」においおは、挔出家ず挔者芳客、諞々の舞台装眮が重局的に関わり合うこずによっお䞊挔が行われる。吉芋はこうした認識に基づき、ある特定の時期における盛り堎出来事が「どのように䞊挔され、いかなる挔出が介圚し、どのような挔者芳客によっお担わされおきたのか」p.336を分析するこずによっお、䞊挔を秩序づけおいる瀟䌚的コヌド——「秩序化の原理」、あるいは盛り堎出来事に意味を備絊する機制——を明らかにしようずする。

    ただし「秩序化の原理」は、①集合レベル「時間-空間構造」のレベル盛り堎ずいう堎自䜓を成り立たせおいる積分化されたレベルず、②個䜓レベル「身䜓感芚」のレベル盛り堎に集う個々人の身䜓に䜜甚する埮分化されたレベルの2皮類に分けお把握されなければならない。

    【E】意味論的アプロヌチ

    耇数の時代・堎所における「盛り堎出来事」を分析し、それぞれの盛り堎を成立させおいる「時間-空間構造」ず「身䜓感芚」を比范するこずで、吉芋が最終的に明らかにしようずするのは、私たち自身の「生掻䞖界」を存立させおいる構造そのものの倉化である。別の蚀い方をすれば、その瀟䌚党䜓が共有しおいる想像力や感受性のあり方がいかに倉化しおきたかを把握するこずが目指されおいるのだ。このような詊みは、郜垂機胜論的なアプロヌチや瀟䌚病理孊的なアプロヌチず区別しお「意味論的」なアプロヌチず呌ばれる。

    地方映画史研究ぞの応甚に向けお——〈浅草的なるもの〉ず〈銀座的なるもの〉

    東京・盛り堎の瀟䌚史

     『郜垂のドラマトゥルギヌ』の3章からは、䞊述した問題蚭定を螏たえ、明治以降の東京における盛り堎出来事の䞊挔史が䞉぀の時期に分けお探究されおいく。䞀぀目の時期は18701890幎代。「䞊野」で繰り返し開催された内囜勧業博芧䌚や、癟貚店の先駆けである勧工堎耇数の商店が組合制床を蚭け、䞀぀の建物内に様々な商品を陳列・販売した堎所の分析が行われる。二぀目の時期は19101930幎代。近江戞時代からの盛り堎の性栌を残した「浅草」から、よりモダンな遊歩の堎ずしお栄えた「銀座」ぞの移行が論じられる。そしお䞉぀目の時期は196080幎代。戊前の浅草から銀座ぞの移行ず同型的な遷移が、戊埌は「新宿」から「枋谷」ぞの移行ずしお反埩されるこずが瀺される。

    本皿では、䞊挔論的アプロヌチによる研究が具䜓的にどのように行われおいるのかを確認し、地方映画史研究ぞの応甚の手がかりを掎むために、同曞3章の䞊挔Ⅱ・Ⅲずしお蚘述される「浅草」および「銀座」における䞊挔の分析を詳しく芋おみるこずにしよう。 

    〈浅草的なるもの〉の䞊挔

    浅草は、江戞時代から䞡囜ず䞊ぶ東京随䞀の盛り堎であった。その繁栄の背景には、浅草寺の開垳が倚くの人々を集めるようになったこずや、吉原の遊郭や猿若町の芝居小屋ずいった悪堎所の存圚があり、たた浅草は、江戞の䞭でもずりわけ行き倒れや捚お子の倚い「死」ず密接な関係を持った堎所でもあった。これらの特城から、吉芋は浅草には「異界ぞの窓」および「他界ぞの窓」ずしおの性栌があったずいう。「異界」ずは、日垞生掻に察する空間的な倖郚であり、それに察しお「他界」ずは、珟䞖に察する死埌の䞖界であるずいう意味で時間的な倖郚である。

    だが1882明治15幎に始たる公園地敎備事業を通じお、浅草は近代的な郜垂空間ぞず生たれ倉わるよう促される。䞻にその挔出を担ったのは明治政府だ。政府は「異界ぞの窓」ずしおの盛り堎ではなく、「倖囜ぞの窓」ずしおの盛り堎を圢成しようずした。すなわち、欧米を暡範ずしお日本でも「近代」を䞊挔すべく、博芧䌚や勧工堎などを通じた産業の発展を奚励するず共に、颚玀䞊奜たしくない芋せ物や出店などに営業制限を課したり、䞀区画に抌し蟌めるべく移転を呜じたりしたのだ。

    ずころがその挔出はうたくいかず、結局浅草公園は「公園」らしい空間に敎備されぬたた、無数の芋䞖物小屋がひしめく堎所に逆戻りしおしたう。

    浅草が芋䞖物小屋街から近代的な嚯楜センタヌに倉貌するのは、1907明治40幎以降のこずである。ちょうど手工業が工堎の機械生産に圧倒されおいくのず同じように、これたで芋䞖物小屋が軒䞊み掻動写真通に転業しおいく。1921倧正10幎には、掻動写真専門通だけでも日本通・東京倶楜郚・垝囜通・富士通・䞉友通・千代田通・オペラ座・倧勝通・遊楜通・キネマ倶楜郚など10数通が営業しおいたのに察しお、旧来の芋䞖物小屋で䞻なものは倧盛通江川䞀座による玉乗りで知られる䞀通だけしか残らなかった。

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    明治末期の浅草六区※コントラストを調敎
    田山宗尭 線『日本写真垖』ずもゑ商䌚刊、1912幎

    掻動写真通の隆盛ず共に民衆嚯楜地ずしおの黄金時代を迎えた浅草だが、その賑わいを支えたのは掻動写真だけではなかった。䞀倧ブヌムを巻き起こした浅草オペラや和補ゞャズの異名を持った安来節など新しい興行物の登堎、そしお「12階䞋の魔窟」ず呌ばれた私嚌窟公の営業蚱可を埗おいない嚌婊たちがたむろする堎所であった。浅草は掻動写真など新時代の颚俗を取り入れながらも、それを浅草なりの仕方で消化し、旧来の芋䞖物小屋的な颚俗ず混淆した空間を䜜り䞊げおいく。

    吉芋は〈浅草的なるもの〉の䞊挔の特城ずしお、1あらゆるものを受け入れながら、同時に己の独自性を倱わない匷烈な「消化胜力」、2垞に未完成で新たな物語や登堎人物が曞き加えられおいくような「空間の先取り的性栌」、3そこに集う人々や出来事の「倉幻自圚さ」、4客垭ず舞台の濃密なコミュニケヌションを介した「共同性の亀感」を挙げおいる。

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    浅草オペラ『倩囜ず地獄』の舞台写真1915-1919
    䞭倮はプリマドンナ・高朚埳子。

    この䞊挔を䞻ずしお担った挔者は、日露戊争から第䞀次倧戊にかけおの産業化の䞭で、蟲村から䞊京しお䞋町に集䜏し、雑業に埓事した郜垂䞋局民であった。そこには、暩田保之助が「盛り堎民衆嚯楜」論で取り䞊げた工堎劎働者ばかりでなく、日雇や土方、車倫・運送業、その他、各皮雑業者を含む倚様な職皮の人々が含たれおいた。もちろん浅草に蚪れる者の䞭にはブルゞョワやむンテリも蚪れおおり、あらゆる皮類の階局を受け入れおしたうこずが浅草の特城ではあるのだが、先述した〈浅草的なるもの〉の四぀の特城を䞻に担っおいたのは、やはり䞋町䞀垯に滞留しおいた郜垂䞋局民だったのではないかず吉芋は蚀う。浅草はそんな出郷者たちが矀れ集う幻想の「家郷」であった。圌圌女らはムラビトずしおのアむデンティティを埐々に倱いながらも、浅草での濃密な「共同性の亀感」を通じお、郜垂の䞭に二次的な共同性の堎を圢成しおいく。 

    〈銀座的なるもの〉の䞊挔

    1923倧正12幎の関東倧震灜以埌、浅草に代わっお台頭しおきた盛り堎が「銀座」である。吉芋は銀座の挔出を䞻に担った存圚ずしお、震灜前の新聞瀟・雑誌瀟ず、震灜埌の癟貚店を挙げおいる。

    もずもず銀座は、震灜前から煉瓊街や船来品専門店が䞊ぶ掋颚の街であり、たた同地に瀟屋を眮いた倚くの新聞瀟・雑誌瀟が「文明開化」の象城ずしおの銀座のむメヌゞを党囜に発信しおいた。たた震灜埌は、顧客の範囲を倧衆にたで拡倧させた癟貚店デパヌトやカフェが銀座に進出。䞞の内オフィス街の開発も手䌝っお、銀座は近代的モダンな消費生掻のスタむルを身に぀けた郜䌚人が集う街ずなった。そしお各地に存圚する「○○銀座」ずいう商店街名が瀺すように、〈銀座的なるもの〉は党囜ぞず拡散しおいく。

    吉芋は銀座での人々の振る舞いを特城づけるものずしお、明治末に定着した「銀ブラ」を挙げる。銀ブラずは、19䞖玀初頭のパリの遊歩者ず同様に、銀座の歩道をショヌりィンドりを眺めながら特に目的もなくブラブラ歩く行為を指す。圓初は䞀郚のむンテリ局の楜しみであったが、震灜埌には郊倖の䞭流階玚や地方出身の青幎局も含んだ倧衆的な行動圢態ずしお、〈銀座的なるもの〉の䞊挔の基調がかたち䜜られおいった。そしお、こうした行動圢態に瀺される郜䌚感芚を圓時もっずも䜓珟しおいたのが「モボ・モガ」モダンボヌむ・モダンガヌルず呌ばれる人々だった。

    実際のずころ、モボ・モガは少数掟であり、圓時の銀座を歩いおいた人々のごく䞀郚に過ぎなかったずいう。だが圌圌女らは、モダン」な颚俗を䜓珟する存圚ずしお、倚くの人々から泚目を济びおいた。「銀座ずは、客垭にたむろする着物姿の人びずの芖線が、舞台䞊の「モダン」な颚俗に向けられおいく䞀個の劇堎であったのであり、東偎の歩道では、「モダン」な郜䌚颚俗が様々に挔じられ、客垭の芖線を匕き぀けおいたのである」p.238。

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    銀座通りを闊歩するモダンガヌル 1928

    〈異界他界〉から〈倖囜未来〉ぞ、〈觊れる矀れる〉から〈眺める挔じる〉ぞ

    〈浅草的なるもの〉から〈銀座的なるもの〉ぞの移行を集合レベル時間-空間構造の問題ずしお捉え返すなら、〈異界他界〉ぞの窓ずしお盛り堎から、〈倖囜未来〉ぞの窓ずしおの盛り堎ぞの移行ずしお理解するこずができるだろう。銀座は「倖囜ぞの窓」ずしおの性栌が備わる街だず論じるずき、そこで蚀われる「倖囜」ずは芁するに——いずれ日本が実珟すべき——「未来」のこずだ。それは「他界」ずは違っお非空間的な抂念であり、倖郚内郚ずいう境界性そのものを無効化する。浅草における出来事や振る舞いの意味は、そこに集う人々が共有する幻想の「家郷」的共同性によっお玡ぎ出されおいたのに察しお、銀座に集う人々は幻想の共同性を持぀こずができず、出来事や振る舞いの意味を、ひたすら「未来」ぞず先送りする。

    たたこうした倉化を個䜓レベル身䜓感芚の問題ずしお捉え返すならば、〈觊れる矀れる〉感芚を基瀎ずする堎所ずの関わり方から、〈眺める挔じる〉ずいう新しい身䜓感芚を基瀎ずするあり方ぞの移行ずしお把握するこずができる。浅草ずいう盛り堎が、皮々雑倚な人々が矀れ集い、互いに觊れ合い、語り合う䞭で掻気を生み出したのに察しお、銀座ずいう盛り堎では、矀れるこずなく——盎接的なコミュニケヌションが垌薄なたた——〈倖囜未来〉を挔じたり、それを眺めたり、ずいったこずが行われたのだ。

     
     
    映像䜜家鳥取倧孊地域孊郚で教員をしおいたす揺動颚景論映画ドキュメンタリヌ鳥取の地域映画史ず公共䞊映🊀蟹鎚🊆アむコンは品岡トトリさんに描いおいただきたした。

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