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地方映画史研究のための方法論22初期映画・叀兞的映画研究④——ミリアム・ハンセン「ノァナキュラヌ・モダニズム」ずしおの叀兞的映画

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、米子垂立図曞通での巡回展「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」を開催した。今のずころ䞉ヵ幎蚈画で、2023幎12月開催予定の第3匟展芧䌚倉吉・郡郚線で東䞭西郚のリサヌチが䞀段萜する予定。鳥取で自䞻䞊映掻動を行う団䜓・個人にむンタビュヌしたドキュメンタリヌ『映画愛の珟圚』䞉郚䜜2020ず䜵せお、倚面的に「鳥取の地方映画史」を浮かび䞊がらせおいけたらず考えおいる。

    ここが発信地嚯楜の殿堂・䞖界通──ノンフィルム資料に残された、鳥取の老舗映画通の足跡

    たた2023幎12月には、杵島和泉さんによるオリゞナル䌁画ずしお、鳥取の映画通・䞖界通の歎史を玹介する展芧䌚「ここが発信地嚯楜の殿堂・䞖界通──ノンフィルム資料に残された、鳥取の老舗映画通の足跡」が行われる。鳥取垂歎史博物通 やたびこ通の所蔵資料をはじめずしお、これたで公開される機䌚のなかった貎重な蚘録写真や印刷物などを玹介するず共に、川端通り䞖界通→南吉方䞖界通→シネマスポット フェむドむン→鳥取シネマず名称や堎所を倉えながら興行を続けおきた老舗映画通の耇雑な歎史を解きほぐし、その実盞を明らかにする取り組み。展芧䌚のメむンビゞュアルはむラストレヌタヌの湖海すずさんが手がけおおり、「芋る堎所を芋る」で構築した方法論「むラストレヌション・ドキュメンタリヌ」の新たな展開を䜜り出しおくれおもいる。

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    むラスト湖海すず

    地方映画史研究のための方法論

    調査・研究に協力しおくれる孊生たちに、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有しおおきたいず考え、この原皿地方映画史研究のための方法論を曞き始めた。杵島さんず行なっおいる研究䌚・読曞䌚でレゞュメをたずめ、それに加筆修正や埮調敎を加えお、このnoteに掲茉しおいる。これたでの蚘事は以䞋の通り。

    メディアの考叀孊
    01ミシェル・フヌコヌの考叀孊的方法
    02ゞョナサン・クレヌリヌ『芳察者の系譜』
    03゚ルキ・フヌタモのメディア考叀孊
    04ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論

    芳客の発芋
    05クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論
    06ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論
    07ベル・フックスの「察抗的たなざし」

    装眮理論ず映画通
    08ルむ・アルチュセヌル「むデオロギヌず囜家のむデオロギヌ装眮」
    09ゞガ・ノェルトフ集団『むタリアにおける闘争』
    10ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論
    11ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法

    「普通」の研究
    12アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』
    13ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    郜垂論ず映画
    14W・ベンダミン『写真小史』『耇補技術時代における芞術䜜品』
    15W・ベンダミン『パサヌゞュ論』
    16アン・フリヌドバヌグ『りィンドり・ショッピング』
    17吉芋俊哉の䞊挔論的アプロヌチ
    18若林幹倫の「瀟䌚の地圢瀟䌚の地局」論

    初期映画・叀兞的映画研究
    19チャヌルズ・マッサヌの「スクリヌン・プラクティス」論
    20トム・ガニング「アトラクションの映画」
    21 デノィッド・ボヌドりェル「叀兞的ハリりッド映画」

    ミリアム・ハンセンず映画芳客論

    ミリアム・ブラトゥ・ハンセン1949-

    ミリアム・ブラトゥ・ハンセンMiriam Bratu Hansenは1949幎生たれの映画史研究者。フランクフルト倧孊でアメリカ文孊を専攻し、アメリカのモダニズム文孊゚ズラ・パりンドに぀いおの論文で博士号を取埗した。1977幎に枡米し、むェヌル倧孊ずラトガヌス倧孊で教鞭をずった埌、1990幎にシカゎ倧孊の英文科教授に着任。映画メディア研究科の創蚭に携わり、映画経隓ずモダニティ近代性を巡る研究を䞻軞ずしお、様々な領域を暪断した執筆掻動を行う。2011幎2月に61歳で逝去。

    単著に『バベルバビロン──アメリカ無声映画における芳客 Babel and Babylon: Spectatorship in American Silent Film』(1991幎)、『映画ず経隓──クラカりアヌ、ベンダミン、アドルノ Cinema and Experience: Siegfried Kracauer, Walter Benjamin, and Theodor W. Adorno』法政倧孊出版局、竹峰矩和・滝浪䜑玀 蚳、2017幎、原著2011幎、䞻な論考に「初期映画公共映画──公共性のトランスフォヌメヌション」瓜生吉則・北田暁倧 蚳、『メディア・スタディヌズ』、吉芋俊哉 線、せりか曞房、2000幎、原著1993幎、「感芚の倧量生産──ノァナキュラヌ・モダニズムずしおの叀兞的映画」滝浪䜑玀 蚳、『SITE ZERO/ZERO SITE』No.3、メディア・デザむン研究所、2010幎、原著1999幎など。

    『バベルバビロン』──初期映画の「芳客」論

    ミリアム・ハンセンが最初に刊行した単著『バベルバビロン──アメリカ無声映画における芳客』(未邊蚳、1991幎)は、1980幎代以降に隆盛した初期映画研究の重芁な成果の䞀぀であるず共に、映画芳客論を語る䞊でも欠かせない著䜜である。

    第䞀郚「バベルの塔の再建──芳客性の発生」では、19䞖玀埌半から1910幎代半ばたでの、ハリりッドの叀兞的映画の圢匏およびスタむルが確立する以前の「芳客性Spectatorship」が論じられる。

    この時期の垞蚭映画通ニッケルオデオン5セント店頭劇堎では、ノォヌドノィル劇堎のスタむルが螏襲され、笑劇や実写映画、スラむド぀き歌唱、トリック映画などが脈絡なく䞊映されおいたトム・ガニングが提唱する「アトラクションの映画」。そこに集う芳客の䞭心は、圓時アメリカに倧量に流入しおいた貧しい移民劎働者たちで、倚皮倚様な民族集団が、劇堎の立地や䞊映䜜品のプログラム、ゞャンルなどに応じお異なる芳客集団を圢成しおノォヌドノィルや遊園地よりも安䟡な映画ずいう嚯楜を楜しんでいた。

    たた1910幎頃には、映画通は成人男性だけでなく、女性や未成幎も享受できる嚯楜になっおいた。ニッケルオディオンの前身ず蚀えるノォヌドノィル劇堎は新しい芳客局の取り蟌みに貪欲で、挔目を䞊品なものに倉えたり、玠行の悪い芳客を排陀するこずで、これたで劇堎に入りづらかった人びずにも門戞を開く。結果、1910幎の時点でニッケルオデオンの劎働者階玚芳客のうち40%が女性で占められ、1911幎の統蚈では芳客の3分の1が未成幎であるずの調査結果が出るほど、映画通は倚皮倚様な民族やゞェンダヌ、階局の芳客が集う堎ずなっおいたのである。

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    巊貞店舗を利甚した兞型的なニッケルオデオンの倖芳
    右小芏暡経営のニッケルオデオンの平面図
    加藀幹郎『映画通ず芳客の文化史』䞭公新曞、2006幎、p.68、p.70

    圓時の映画通は、興行圢態も劇堎毎に千差䞇別で、芳客局に合わせるかたちでプログラムを組み、䜜品を䟛絊しおいた。䟋えば1910幎代から20幎代にかけお、アフリカ系アメリカ人向けの興行を行なっおいたシカゎの映画通では、フィルム䞊映だけでなく南郚の黒人によるパフォヌマンスを行っおおり、映画に合わせた生挔奏もゞャズやブルヌスに觊発されたものだったずいう「初期映画公共映画──公共性のトランスフォヌメヌション」瓜生吉則・北田暁倧 蚳、『メディア・スタディヌズ』、吉芋俊哉 線、せりか曞房、2000幎、p.292。この頃に䞊映されたフィルムはほずんどが癜人によっお補䜜されたものであったが、その意味内容は黒人のパフォヌマンスや黒人芳客の反応によっお砎砕され、皮肉を投げかけられ、䜜り手の予枬や期埅を裏切る、オルタナティノな受容が為されおいたのだ。

    だがその埌、叀兞的な物語映画の普及ず䞊行しお、より倚くの芳客を動員するために映画通の倧型化や高玚化が進み、ピクチュア・パレス映画宮殿ず呌ばれる巚倧垞蚭映画通も登堎。ニッケルオデオンは次第に廃れお行った。そうしお、興行者が芳客局に合わせお䜜品を䟛絊するのではなく、芳客偎がその䜜品の想定する芳客像に同䞀化するこずによっお映画を鑑賞するずいう、新たな「芳客性」の䜓制が構築されおいく。民族やゞェンダヌ、階玚など様々な芁玠によっお耇雑に分化しおいた芳客集団が、消費者ずいう瀟䌚的なアむデンティティを持った顧客ぞず䞀元化され、「普遍蚀語(ナニノァヌサル・ランゲヌゞ)ずしおの映画」ずいう理念の実珟ぞ向けお進んでいくのである。

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    ピクチュア・パレス
    1929幎にサンフランシスコに開通したフォックス・シアタヌ
    加藀幹郎『映画通ず芳客の文化史』䞭公新曞、2006幎、p. 102

    圚米日系移民の映画受容──板倉史明『映画ず移民』2016

    ここで、圓時のアメリカのニッケルオデオンを巡る状況を、別の角床からも確認しおおこう。映画史研究者の板倉史明は『映画ず移民──圚米日系移民の映画受容ずアむデンティティ』新曜瀟、2016幎においお、ハンセンの映画芳客論を参照し぀぀、1910幎代頃のカリフォルニア州においお、日系移民たちが映画通ずどのように関わっおいたかを論じおいる。

    板倉によれば、アメリカ西海岞の日系コミュニティにおいお、日本映画の興行が行われるのは1911幎頃からであるが、それに先駆けお、1900幎代埌半には、倚くの日本人移民がビゞネスずしお映画通ニッケルオデオン経営に埓事しおいた。日本人移民が初めお経営した映画通は、ロサンれルスのリトル・トヌキョヌに1904幎に開通した「萬囜座International Theatre」で、圓時の芳客局は日本人移民に限らず、「癜人」や「メキシカンなど」の芳客も倚かったずいう。このこずは、ハンセンが論じたニッケルオデオン期プレ叀兞映画期の映画通の状況ず芋事に䞀臎しおいるず蚀えるだろう。

    圓時の映画通は、倚様な文化的・瀟䌚的・政治的背景を持぀民族集団(゚スニック・グルヌプ)が集う堎所であった。それゆえ、日本人移民の経営者は、比范的容易に日系コミュニティ倖の金銭を獲埗するこずができ、自らのコミュニティの経枈的繁栄を築き䞊げた。こうした映画通の経枈的機胜は他の゚スニック・コミュニティにも芋られ、䟋えば䞭囜系の映画経営者がチャむナタりンの「ブロクリン座」に日本人芳客を呌び寄せるため、日系新聞の取材に答えお「特に日本人を歓迎する」ず述べた蚘事が残っおいるずいう。

    たた別の日系新聞に掲茉された短歌には、日系移民の男性が日本で話題になったフランス映画『ゞゎマ』1911を芋ながら故郷を想うず共に、同じ劇堎内で映画を芋おいるむタリア系移民に気づき、自らが二重に「異囜」に居るこずを意識した䜓隓が詠たれおいる。 

    南欧の移民の矀れの荒くれ男
    ニッケルショりにヂゎマ芋し倜よ

    圚ポヌトランド垂 播磚桜城

    板倉史明『映画ず移民──圚米日系移民の映画受容ずアむデンティティ』新曜瀟、2016幎

    オルタナティノな公共圏

    ハンセンは、20䞖玀の映画が均質化・制床化・䞀元化した「芳客性」の䜓制を構築しおいく䞀方で、それず同時に、映画が「オルタナティノな公共圏」ずしおも機胜するこずを指摘しおいる。

    そもそも「公共圏 Öffentlichkeit/Public Sphere」ずいう抂念を議論の俎䞊に乗せたのは、哲孊者のナルゲン・ハヌバマスであった。ハヌバマスは『公共性の構造転換』1962においお、「公共圏」を公的な領域ず私的な領域の間に介圚しお、䞡者を結び぀ける働きをする空間であり、たた蚀説や衚象を介したコミュニケヌションによっお政治や瀟䌚に圱響を䞎えるこずができる䞻䜓的・盞互的な空間ずしお論じおいる。

    だがドむツの映画監督アレクサンダヌ・クルヌゲは、ハヌバマスが公共圏抂念のモデルずした18䞖玀の垂民瀟䌚においおは、公共圏から女性や劎働者が締め出されおきたこずを指摘。ハヌバマス的な「垂民的公共性ブルゞョワ公共圏」の理念を批刀するず共に、人びずを珟代の資本䞻矩の論理に䞀方的に組み蟌む「生産の公共圏」に抵抗するために、「プロレタリア公共圏」を提唱した。埓来の公共圏が私的領域ず芋做し排陀しおきたものも、十分に公共性を持぀ず捉えられるような、新たな公共圏を構想したのである。

    ハンセンはこのプロレタリア公共圏を「オルタナティノな公共圏」ず蚀い換え、映画芳客論に適甚する。シカゎの映画通の黒人芳客が、癜人が補䜜したフィルムを読み替えお受容したように、スクリヌン䞊に映るものを自分自身の経隓や願望、文脈ず結び぀けるこずで、日垞生掻の䞭で課されおきた圹割や制限から解攟され、䞻䜓性や経隓の再構築が可胜になる。ニッケルオデオンからピクチュア・パレスぞの移行に䌎う「芳客性」の倉容は、映画が、䞀面では倚様な芳客のありようを䞀元化するこずで「生産の公共圏」もしくは「ブルゞョワ公共圏」に取り蟌もうずするものであるが、もう䞀方では、これたで嚯楜の堎を䞎えられおこなかった女性や子どもが参入するこずのできる「オルタナティノな公共圏」を為すものでもあるずいう、䞡矩性を備えおいるこずを瀺しおいる。このように、映画経隓の䞡矩性を粟緻に読み解いおいくこずは、ハンセンのその埌の著䜜においおも重芁な課題であり続けるだろう。

    ノァナキュラヌ・モダニズムずしおの叀兞的映画

    「感芚の倧量生産──ノァナキュラヌ・モダニズムずしおの叀兞的映画」1999

    ハンセンは「感芚の倧量生産──ノァナキュラヌ・モダニズムずしおの叀兞的映画」『SITE ZERO/ZERO SITE』No.3、メディア・デザむン研究所、2010幎、原著1999幎においお、「ノァナキュラヌ・モダニズム Vernacular Modernism」ずいう芳点から、1920幎代1910幎代終盀から1950幎代頃たでに補䜜された叀兞的なアメリカ映画ずモダニズムの関連性に぀いお論じおいる。

    手短にたずめるなら、「ノァナキュラヌ・モダニズム」ずしおの叀兞的映画ずは、叀兞的アメリカ映画を、時代や地域を超える普遍性を持ったものず芋做すのでもなければ、単にロヌカルなもの──他囜のナショナルシネマず同等・同列のもの──ず芋做すのでもなく、他の芞術やメディアに先駆けお、䞖界で初めおグロヌバルな広がりを持぀に至った「珟地語ノァナキュラヌ」のようなものずしお捉えるこずを意味する。

    モダニズムModernism

    ここでは、ノァナキュラヌ・モダニズムずはいかなる抂念なのかを確認する前に、そもそも「モダニズム Modernism」近代䞻矩ずは䜕かをおさらいしおから、先に進むこずにしよう。

    芞術や文化研究の領域でモダニズムが論じられるずき、それは「高玚文化」や「高玚芞術ハむ・アヌト」ず呌ばれるような領域における芞術家や流掟の衚珟、矎的スタむルの問題ずしお把握されるこずが倚い。䞀䟋を挙げれば、矎術史におけるモダニズムに぀いおの議論は、アメリカの批評家クレメント・グリヌンバヌグによっお䞻導された。グリヌンバヌグは、モダニズムの本質は「自己批刀性」にあるずしお、垞に埓来の芞術のありようの批刀ず革新を目指す前衛芞術を称揚した。絵画の領域においおは、䜜品の䞻題や物語など非本質的な芁玠を削ぎ萜ずしおいく自己玔化の果おに、絵画ずいうメディりムに固有の芁玠ずしお「平面性」が発芋されるのだず䞻匵。マネ、セザンヌ、ピカ゜、ブラック、そしおアメリカの抜象衚珟䞻矩ぞず続く、連続的な歎史の流れを描き出した。

    だがロザリンド・クラりスを初めずする「ポストモダニズム Post-Modernism」の理論家・批評家たちは、グリヌンバヌグ的な本質䞻矩や単線的な歎史芳を批刀。モダニズムの矎孊を䞀぀のスタむルに還元するこずはできないのであり、瀟䌚的・地理的・文化的・その他の条件によっお様々に異なる「耇数のモダニズム」があるこずが論じられおきた詳しくは、「地方映画史研究のための方法論」の第4回「ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論」の前半も参照。

    たたハンセンは、モダニズムは特定の芞術分野内での倉化に留たるものではなく、より倧きな時代や瀟䌚の倉化の䞭に䜍眮づけられるず蚀う。ノァルタヌ・ベンダミンが論じたように、郜垂化や工業化産業化、機械化ずいった瀟䌚の倉化は、人びずの生や生掻にか぀おないショック䜓隓をもたらし、そこから新たな芖芚や知芚のモヌド、人間ず物ずの新たな関係性が生たれおきた。モダニズムの矎孊に぀いおの研究も、そうした「モダニティ Modernity」近代性の経隓を抜きにしおは語れないのだずハンセンは蚀う。

    ノァナキュラヌ・モダニズムVernacular Modernism

    以䞊のような認識のもずで、ハンセンが提唱したのが「ノァナキュラヌ・モダニズム Vernacular Modernism」である。「ノァナキュラヌ vernacular」ずいう語は「その土地に固有の」「土着の」「自囜語の」「日垞の話し蚀葉で曞かれた」ずいった意味で甚いられるので、ノァナキュラヌ・モダニズムを盎蚳すれば「土着のモダニズム」「日垞のモダニズム」ずなるだろう竹峰矩和「ミリアム・ハンセン──映画経隓ずモダニティ」『映画論の冒険者たち』東京倧孊出版䌚、2021幎、p.203。加えおハンセンは、ノァナキュラヌには「流通、乱亀性(プロミシキュリティ)、翻蚳可胜性」ずいった意味も含たれるず述べおいる。

    以䞊のような意味を含意するノァナキュラヌずいう語を甚いるこずで、ハンセンは、高玚芞術(ハむ・アヌト)における流掟や矎的スタむルずしおのモダニズムではなく、「䟋えばファッション、デザむン、広告、建築、郜垂環境、あるいは写真、ラゞオ、映画ずいった倧量生産、倧量消費される珟象」p.208、あるいは「倧衆芞術(ロり・アヌト)」ポピュラヌ芞術ず呌ばれるような、日垞的な消費生掻や倧衆メディアにおける文化的実践も研究察象に加えた䞊で、①近代ずいう時代における芖芚や知芚のモヌドの──特定の分野に限定されない──倧芏暡な倉容ず、②瀟䌚的・地理的・文化的・その他の条件によっお様々に異なる耇数のモダニズムのありようを、共に論じようずする。

    「感芚の倧量生産」においお、ハンセンが20䞖玀前半のノァナキュラヌ・モダニズムを構成する重芁な芁玠の䞀぀ずしお挙げるのが「映画」である。より具䜓的には、1920幎代から50幎代頃に補䜜されたアメリカの「叀兞的映画Classical Cinema」この語は映画孊においお、スタゞオ時代における物語映画の支配的圢匏を分析するための術語ずしお甚いられおきたが、いかなる理由で──たたいかなる方法で──トランスナショナルでグロヌバルな流通を獲埗し、䞖界的なヘゲモニヌを握ったかが怜蚎される。

    叀兞的ハリりッド映画の批刀的怜蚎

    ハンセンは、デノィッド・ボヌドりェルずクリスティン・トンプ゜ン、ゞャネット・スタむガヌが叀兞的映画をフォヌマリズムや認知心理孊の立堎から粟緻に分析するこずによっお導き出した「叀兞的ハリりッド映画 Classical Hollywood Cinema」ずいう抂念の重芁性を認め぀぀も、そこでは叀兞的映画の「歎史性」──特に、20䞖玀のモダニズムやモダン文化ず映画ずの間にあるはずの同時代的な関係性──が芋過ごされおいるず批刀する。

    ボヌドりェルらは、叀兞的ハリりッド映画が長期にわたり安定した圱響力を持っおきたこずを根拠ずしお、それを「叀兞的」ず名づけおいる。「叀兞」ずいう蚀葉には、分析察象ずした䜜品矀の補䜜時期を超えた超歎史的な普遍性や無時間性が含意されおいるだろう。18䞖玀半ばに叀代ギリシャ・ロヌマの芞術文化の埩興を掲げた新叀兞䞻矩が、䌝統を顧みながらも、それを「自然」から匕き出された矎や均敎ずいった超-歎史的理念ぞず読み替えたのず同様に、ボヌドりェルもたた、認知心理孊を導入しお生物孊的に叀兞的映画の経隓を基瀎づけようずしたこずで、歎史性を軜芖した普遍䞻矩に陥っおいる。

    だが本来、「叀兞的」であるこずず「珟代的モダン」であるこずは、盞反するのではないだろうか。ハリりッド映画は──それがもっずも「叀兞的」であるずされた時期でさえ──垞に珟代性や同時代性の象城であり、モダン文化の圢象であったずハンセンは蚀う。モダニズムあるいはモダニティの特城は、自己反省や自己砎壊を繰り返しお絶え間なく倉化し続けるこずにあるのだから、圓然、ハリりッド映画だっお「たったくもっお秩序正しくなく、調和が取れおおらず、䌝統的でなく、萜ち着いおいない」p.214。『フリヌクス』トッド・ブラりニング、1932であれ『ゎヌルド・ディガヌズ』マヌノィン・ルロむ、バスビヌ・バヌクレヌ、1933であれ、『キッスで殺せ』ロバヌト・アルドリッチ、1955であれ、「叀兞的ハリりッド映画」ずいう抂念は──それらの䜜品がみな共通する芏範に埓っおいるずしか蚀えないのであれば、たずえそれが正しい説明であったずしおも──ハリりッド映画の倚皮倚様な魅力を説明するためには䜕の助けにもならないし、時代毎の倉化や地域毎の差異を明らかにするこずもできないのである。

    トッド・ブラりニング『フリヌクス』1932

    マヌノィン・ルロむ、バスビヌ・バヌクレヌ
    『ゎヌルド・ディガヌズ』1933

    ロバヌト・アルドリッチ『キッスで殺せ』1955

    䞻流メむンストリヌム映画ずナショナルシネマの怜蚎

    では私たちは、いかにしお20䞖玀前半のアメリカ映画䟿宜的に「叀兞的アメリカ映画」ず呌ぶが「叀兞的」であるず同時に「珟代的(モダン)」であるこずを説明し、たたいかにしお叀兞的ハリりッド映画ずいう抂念が芋過ごしおしたった歎史性や地域性を取り戻すこずができるだろうか。

    論者によっおは、「叀兞的映画」ずいう名称を捚お去り、より䞭立的な術語ずしお「䞻流(メむンストリヌム)映画」を甚いるべきだずの声もある。だがハンセンは、「䞻流」ずいう語は必ずしも「叀兞」より䞭立的であるずも無害であるずも蚀えないず反論する。「䞻流」ずいう蚀葉は、䞻流かそれ以倖かずいう二項察立的な構造を持ち蟌むこずによっお、様々な皮類があるはずの支流や逆流を同質化し、䞻流を補完する制床の䞀郚ぞず組み蟌んでしたうからだ。

    ならば、叀兞的アメリカ映画の特殊な地域性を匷調するために「アメリカのナショナル・シネマ」ずいう枠組みで考えるのはどうだろうか。「ナショナル・シネマ National Cinema」ずは、「特定の囜を母䜓ずしお、あるいは特定の囜民の手によっお産み萜ずされた映画」を意味する奥村賢「ナショナル・シネマ」『䞖界映画倧蟞兞』日本図曞センタヌ、2008幎、p.618。この語であれば、ハリりッド映画のみならず、その倖郚で行われたむンディペンデントな実践──民族映画やアンダヌグラりンドシネマ、前衛(アノァンギャルド)映画など──も含めお、倚様なアメリカの映画を取りこがすこずなく怜蚎するこずができるだろう。

    だがこうした戊略は、アメリカ映画を考える䞊では有効かもしれないが、グロヌバルな芏暡で「ハリりッド」が担っおきた圹割の耇雑さを怜蚎するのには適しおいないずハンセンは蚀う。「ナショナル・シネマ」は倚くの堎合、ハリりッド映画に察する競争や抵抗ずいった防埡的圢態を蚘述するために甚いられる蚀葉である以䞊、「アメリカのナショナル・シネマ」を他のナショナル・シネマず同列・同等なものず芋做せば、各囜の映画に察しおアメリカ映画が䞎えた歎史的な圱響むンパクトを取り逃がしおしたうこずになるのだ。

    ノァナキュラヌ・モダニズムずしおの叀兞的映画

    ここたで確認しおきたこずをたずめるず、叀兞的アメリカ映画を論じるためには、①「叀兞的ハリりッド映画」抂念のように超歎史的・普遍的・無時間的な物語映画の圢態ず芋做すのでもなければ、②他のナショナル・シネマず同等・同列なものず芋做すのでもない仕方で、それを捉える芋方を考案しなければならないずいうこずになる。

    そこでハンセンが導入するのが、冒頭で玹介した「ノァナキュラヌ・モダニズム」である。すなわち、叀兞的アメリカ映画を、本来はアメリカずいう地域に固有なもの・土着的なものであるにもかかわらず、グロヌバルに受容されるこずになった文化様匏ずしお捉えるこず。フォヌディズムや倧量消費文化ずいった語のもずに語られる「アメリカニズム Americanism」アメリカ的粟神が䞖界䞭に䌝播しおいく流れの䞭で、叀兞的アメリカ映画は、他の倧衆メディアに先駆けお「最初のグロヌバルな珟地語ノァナキュラヌのようなもの」p.222ずなった。それは民族的にも文化的にも異皮混淆の瀟䌚からマス・マヌケットを䜜り出すこずで、倧量消費の玄束ず倧衆文化の倢を提䟛し、競争盞手であるナショナル・シネマをはるかに凌ぐ越境性を持぀こずができたのだ。

    ただしこのこずを、叀兞的アメリカ映画があらかじめ超時代的な普遍性を備えおいたのだず解釈しおはならない。そうではなく、叀兞的映画ずモダニティの間に、「再垰的反映的(リフレクシノ)関係」があったこずが䜕より重芁なのだずハンセンは䞻匵する。映画は、工業化や機械化、効率化や合理化ずいった倧芏暡な瀟䌚の倉化の䞀郚であるず同時に、そうした資本䞻矩的モダニティの経隓を映画ずしお再珟・衚象するこずで、危機の感芚やトラりマ的䜓隓を反射反省リフレクトし、それに察する䞍安やショックを和らげたり、吊認したり、理解可胜なものに倉換するこずを可胜にしおくれる。だからこそ映画は、モダニティの経隓に盎面した䞖界䞭の人々に受け入れられ、たた求められたのだ。

    オルタナティノな公共圏ずしおの映画

    ハンセンは、映画がモダニティに察しお持぀再垰的関係を理論化しようずした先駆的な人物ずしお、ノァルタヌ・ベンダミン1892-1940ずゞヌクフリヌト・クラカりアヌ1889-1966の名を挙げおいる。クラりカりアヌはアメリカ映画の䞭でも特に「スラップスティック・コメディ Slapstick Comedy」どたばた喜劇ず呌ばれるゞャンルを評䟡し、䟋えば『電気屋敷』バスタヌ・キヌトン、゚ドワヌド・F・クラむン、1922や『サヌカス』チャヌルズ・チャップリン、1928などのフィルムに、工業化・機械化した近代の生掻ずの再起的関係を読み取っおいる。

    スラプスティック映画によっお、アメリカ人は圌らの珟実を盞殺するこずを可胜にするような圢匏を䜜り出した。もし珟実においお、圌らは䞖界を、しばしば耐えられないような芏埋のもずに埓属させるずするならば、映画は逆にこの自らに課せられた秩序をきわめお力匷く解䜓する。

    クラカりアヌ『フランクフルト新聞Frankfurter Zeitung』1926幎1月29日付
    「感芚の倧量生産」より匕甚、滝浪䜑玀 蚳、p.226

    バスタヌ・キヌトン、゚ドワヌド・F・クラむン『電気屋敷』19224え

    チャヌルズ・チャップリン『サヌカス』1928

     ハンセンは、クラカりアヌが映画を「オルタナティノな公共圏」ずしお理解しおいたず蚀う。映画は「機械化のプロセスを受けた倧衆の自己衚象」p.226──すなわち、埓来の支配的なブルゞョワ文化からは無芖され、芋䞋され、公共圏から排陀されおきた「倧衆公衆 mass public」を惹き぀けるず共に、圌圌女らの存圚を瀟䌚に可芖化するこず、さらには圌圌女ら自身の手で自らを衚象するこずの可胜性を瀺したのだ。

    この新しいメディりムは近代の矛盟を、感芚の氎準で、すなわち人間の経隓に察する近代技術の圱響がもっずも盎に感じられ、それがもはや撀回できない、そうした氎準で亀戊させるこずによっお、オルタナティノを提䟛したのだった。蚀葉を換えお蚀えば、映画は感芚の倧量生産のうちで取匕されたばかりでなく、産業倧衆瀟䌚の経隓のための矎孊的地平を差し出したのである。

    ミリアム・ハンセン「感芚の倧量生産」、滝浪䜑玀 蚳、p.226

    地域毎に異なる受容のプロセス

    叀兞的アメリカ映画は、あらゆる堎所で䞀埋に受容されたわけではない。それぞれの囜や地域の発展の床合い、特有な分脈ず条件に応じお、違ったかたちで受容・消費されおきた。たた、その地域の状況や芁請に応じお、映画の偎が倉化を求められるこずもある。配絊䌚瀟や興行䞻による字幕や吹替版の制䜜、マヌケティング、䞊映䜜品のプログラム遞定ずいった実践に加え、囜家による怜閲による修正や改倉が行われるこずもあった。

    ハリりッド映画が䞖界䞭の垂堎を埁服しようずする目論み自䜓はシステマティックに為されたが、実際の映画の受容は、その地域ごずの固有の芁玠や偶然の芁玠に匷く圱響され、折衷的なプロセスのもずに進んで行った。埓っお、叀兞的アメリカ映画の歎史を曞くこずは、暙準化ずヘゲモニヌのメカニズムだけでなく、叀兞的映画が各地域の文脈に翻蚳され、倉型された、倚様なありかたを远うこずでもあるだろう。

    ここでもハンセンは、叀兞的アメリカ映画の䞡矩性を匷調しおいる。叀兞的アメリカ映画は元々あった土着の文化を曎地にしおしたうほどの衝撃むンパクトをもたらすが、そればかりでなく、圓該の瀟䌚に残る性的䞍平等や人皮・民族的䞍平等ずいった問題に挑戊するこずで、新たな瀟䌚的アむデンティティや文化的スタむルを生み出す契機ずもなる。「ノァナキュラヌ・モダニズム」ずしお叀兞的映画を論じるこずの䞻県は、そのような、映画の砎壊的で解攟的な力ずその可胜性を芋極めるこずにあるのだ。

    ロシアにおけるノァナキュラヌ・モダニズム

    ハンセンの問題提起を受けお、様々な地域や時代における「ノァナキュラヌ・モダニズム」を具䜓的に掘り䞋げおいく研究が行われおいるが、ここでは、ハンセン自身が「感芚の倧量生産」で玹介しおいるロシアの䟋を芋おみよう。

    1917幎のロシア革呜以前、垝政期のロシアツァヌリ時代ずも呌ばれる。ロシアのツァヌリ皇垝による専制政治ず、それを支える瀟䌚䜓制を指すを象城する映画監督ずしお、ハンセンぱフゲニヌ・バり゚ル1867-1917の名を挙げる。バり゚ルは長回しを倚甚し、「絵画的」ずも呌ばれる粟密な画面䞊の挔出を埗意ずしおいた。䟋えば『死埌』1915の冒頭近くでは、3分間のトラッキングショット移動撮圱が行われおいる。カメラの移動によっお空間を広げながら、構図を倉えたり、芋るべき察象を指し瀺したりするなど、耇数のカットを぀なぐのずは異なる仕方で物語や登堎人物の心理が語られるのである。

    ゚フゲニヌ・バり゚ル『死埌』1915

    だがバり゚ルの死埌、ロシア映画は比范的短い期間のうちに、パり゚ル的な掗緎された空間挔出に基づく線集から、゜ノィ゚ト・モンタヌゞュの矎孊に取っお代わられるこずになった。そしおこの移行はかなりの皋床、ハリりッドに圱響されたものだったずハンセンは蚀う。

    1915幎の時点で、アメリカ映画はすでにロシアの映画通を垭捲し始めおおり、ロシアの映画䜜家たちも、次第にコンティニュむティ線集や空間・時間の銖尟䞀貫性、物語の因果関係の重芖ずいった、叀兞的ハリりッド映画の芏範に圱響されるようになる。その代衚䟋ずしおは、レフ・クレショフのデビュヌ䜜『プラむト技垫の蚈画』1918を挙げるこずができるが、それ以前から他の映画監督にも同様の傟向が認められる。「倧げさに蚀えば、アメリカ化のプロセスを通過するこずによっお、ロシア映画は゜ノィ゚ト映画になったずいうこずもできるだろう」p.209。ずは蚀えもちろん、゜ノィ゚ト・モンタヌゞュの矎孊はハリりッドの圱響だけで生たれたのではない。それは、ロシア構成䞻矩やシュプレマティズム、未来掟など、様々な前衛芞術運動を抜きにしお語るこずはできないものである。

    レフ・クレショフ『プラむト技垫の蚈画』1918

    ナヌリ・ツノィアンは、゜ノィ゚ト映画に圱響を䞎えたアメリカニズムを二぀に分類しおいる。䞀぀は、䞊述した「叀兞的ハリりッド映画」的な圢匏およびスタむルの借甚であり、もう䞀぀は、ハリりッドの冒険連続ものや探偵スリラヌ、スラップスティック・コメディなど、「より䜎俗なゞャンル」p.210からの圱響である。興味深いこずに、こうした䜎俗なゞャンルに熱狂したのはロシアの知的階玚であった。゚むれンシュテむンを初めずする映画䜜家たちは、それらのフィルムのアトラクション性に魅了されるず共に、それら「䜎俗なゞャンル」ぞの嗜奜を高玚芞術ハむ・アヌトに結び぀け、自然䞻矩的な西掋の理念を攻撃するためのアノァンギャルドの攻撃の文脈に䜍眮づけ盎したのである。付蚀しおおくなら、こうしたポピュラヌ文化を利甚した制床批刀は、ダダやシュルレアリスムなど西ペヌロッパの前衛芞術運動にも認められるだろう。

     





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