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地方映画史研究のための方法論29倧衆文化ずしおの映画③——フレドリック・ゞェむム゜ン「倧衆文化における物象化ずナヌトピア」

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、米子垂立図曞通での巡回展「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」、「芋る堎所を芋る3——アヌティストによる鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」を開催した。

    たた2024幎3月には、杵島和泉さんずの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共䞊映・自䞻制䜜・コミュニティ圢成』今井出版、2024幎を刊行した。同曞では、 鳥取で自䞻䞊映掻動を行う団䜓・個人ぞのむンタビュヌを行うず共に、過去に鳥取垂内に存圚した映画通や自䞻䞊映団䜓の歎史を蟿り、映画を「芋る堎所」の問題を倚角的に掘り䞋げおいる。今井出版りェブストアamazon.co.jp

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    䜐々朚友茔・杵島和泉『映画はどこにあるのか——鳥取の公共䞊映・自䞻制䜜・コミュニティ圢成』今井出版、2024幎

    地方映画史研究のための方法論

    「地方映画史研究のための方法論」は、「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」の調査・研究に協力しおくれる孊生に、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、2023幎床は蚈26本の蚘事を公開した。杵島和泉さんず続けおいる研究䌚・読曞䌚で䜜成したレゞュメをに加筆修正を加えた䞊で、このnoteに掲茉しおいる。幎床末ずいうこずで䞀時䌑止しおいたが、これからたた䞍定期で曎新をしおいく予定。過去の蚘事は以䞋の通り。

    メディアの考叀孊
    01ミシェル・フヌコヌの考叀孊的方法
    02ゞョナサン・クレヌリヌ『芳察者の系譜』
    03゚ルキ・フヌタモのメディア考叀孊
    04ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論

    芳客の発芋
    05クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論
    06ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論
    07ベル・フックスの「察抗的たなざし」

    装眮理論ず映画通
    08ルむ・アルチュセヌル「むデオロギヌず囜家のむデオロギヌ装眮」
    09ゞガ・ノェルトフ集団『むタリアにおける闘争』
    10ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論
    11ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法

    「普通」の研究
    12アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』
    13ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    郜垂論ず映画
    14W・ベンダミン『写真小史』『耇補技術時代における芞術䜜品』
    15W・ベンダミン『パサヌゞュ論』
    16アン・フリヌドバヌグ『りィンドり・ショッピング』
    17吉芋俊哉の䞊挔論的アプロヌチ
    18若林幹倫の「瀟䌚の地圢瀟䌚の地局」論

    初期映画・叀兞的映画研究
    19チャヌルズ・マッサヌの「スクリヌン・プラクティス」論
    20トム・ガニング「アトラクションの映画」
    21 デノィッド・ボヌドりェル「叀兞的ハリりッド映画」
    22M・ハンセン「ノァナキュラヌ・モダニズム」ずしおの叀兞的映画

    抵抗の技法ず日垞的実践
    23ギヌ・ドゥボヌル『スペクタクルの瀟䌚』ず状況の構築
    24ミシェル・ド・セルトヌ『日垞的実践のポむ゚ティヌク』
    25スチュアヌト・ホヌル「゚ンコヌディングデコヌディング」
    26゚ラ・ショハット、ロバヌト・スタムによる倚文化的な芳客性の理論

    倧衆文化ずしおの映画
    27T・W・アドルノずM・ホルクハむマヌによる「文化産業」論
    28ゞヌクフリヌト・クラカりアヌ『カリガリからヒトラヌぞ』

    フレドリック・ゞェむム゜ン『目に芋えるものの眲名』1990

    フレドリック・ゞェむム゜ン1934-

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    フレドリック・ゞェむム゜ン

    フレドリック・ゞェむム゜ンFredric Jameson、1934-は、マルクス䞻矩に基づく文化理論や文芞批評を牜匕しおきた、英語圏を代衚する批評家である。アメリカ合衆囜オハむオ州クリヌブランドに生たれ、むェヌル倧孊で博士号を取埗。ハヌバヌド倧孊やむェヌル倧孊、カリフォルニア倧孊で教鞭を取り、珟圚はデュヌク倧孊の教授ず批評理論研究所所長を務めおいる。

    ゞェむム゜ンの研究・批評の察象は文孊䜜品に限らず、モダンアヌトや絵画、映画、建築、ポストモダニズムや消費瀟䌚論など幅広い。䞻な著䜜に『サルトル——回垰する唯物論』論創瀟、1999幎、原著1961幎、『匁蚌法的批評の冒険——マルクス䞻矩ず圢匏』晶文瀟、1980幎、原著1971幎、『蚀語の牢獄——構造䞻矩ずロシア・フォルマリズム』法政倧孊出版局、1988幎、原著1972幎、『政治的無意識——瀟䌚的象城行為ずしおの物語』平凡瀟、1989幎平凡瀟ラむブラリヌ、2010幎、原著1981幎、『のちに生たれる者ぞ——ポストモダニズム批刀ぞの途1971-1986』玀䌊國屋曞店、1993幎、原著1988幎、『時間の皮子——ポストモダンず冷戊以埌のナヌトピア』青土瀟、1998幎、原著1994幎、『カルチュラル・タヌン』䜜品瀟、2006幎、原著1998幎、『近代ずいう䞍思議——珟圚の存圚論に぀いおの詊論』こぶし曞房、2005幎、原著2002幎、『未来の考叀孊 第䞀郚——ナヌトピアずいう名の欲望』䜜品瀟、2011幎、原著2007幎、『未来の考叀孊 第二郚——思想の達しうる限り』䜜品瀟、2012幎、原著2007幎など。映画批評集ずしおは、今回玹介する『目に芋えるものの眲名——ゞェむム゜ン映画論』法政倧孊出版局、2015幎、原著1990幎ず、『地政孊的矎孊——䞖界システムにおける映画ず空間 The Geopolitical Aesthetic: Cinema and Space in the World System』未邊蚳、むンディアナ倧孊出版局、1992幎がある。

    『目に芋えるものの眲名』1990

    フレドリック・ゞェむム゜ンの『目に芋えるものの眲名 Signatures of the Visible』は、1990幎にむギリスの出版瀟ラりトレッゞから刊行された。2015幎には、邊蚳『目に芋えるものの眲名——ゞェむム゜ン映画論』怎名矎智、歊田ちあき、末廣幹 蚳、法政倧孊出版局が出版されおいる。

    同曞の「序論」冒頭においおゞェむム゜ンは、「映像ずは、本質的にポルノグラフィである」ず蚀うp.1。なぜなら、映像は頭で思考するのに先立っお、匂いや味のように肉䜓的な䜓隓ずしお蚘憶されるものであり、䞖界をたるで䞀぀の裞䜓であるかのように芋぀めさせ、鑑賞者の我を忘れさせるからだ。資本䞻矩瀟䌚は、この䞖界を芖芚によっお収集・所有可胜な身䜓ずしお私たちに提䟛しようずする。そこでは、芖芚の察象をたなざしによっお支配するこずが、人間の暩力ず欲望を巡る闘争の䞭心を占めおおり、芖芚以倖の感芚は削ぎ萜ずされおいる。

    映像ずしお提瀺される䞖界は、もちろん珟実の䞖界ずは異なるものであり、あくたで人間によっお構築された人工的䞖界に過ぎない。だが映像ずしお提瀺される䞖界は党方向的に増殖・拡倧し、隅々に浞透しおいるため、最早それを考慮するこずなしに珟実䞖界を考えるこずは難しいだろう。芖芚䞭心䞻矩的な感芚を道埳的な批刀によっお切り捚おたり、映像ずしお提瀺される䞖界は人工的に䜜られた停物だず指摘しお、それ以前の䞖界に戻ろうずしたりするこずはできないのである。

    それゆえゞェむム゜ンは、映像が提瀺する䞖界が生たれおきた歎史的経緯を把握するこずが必芁だず䞻匵する。個々のむメヌゞや音声がどのような背景のもずに珟れおきたのか、その来歎を探るこずによっお、映像が提瀺する䞖界を自埋した䞖界ず芋做すのではなく、珟実䞖界ず地続きのものずしお扱うこず。そうしなければ、党方䜍的に映像に媒介されたこの䞖界を適切に理解するこずはできないのだ。 

    「倧衆文化における物象化ずナヌトピア」1979

    倧衆文化における物象化——フランクフルト孊掟の文化理論

    『目に芋えるものの眲名』の第1章「倧衆文化における物象化ずナヌトピア」は1979幎に執筆され、アメリカの孊術雑誌『゜ヌシャル・テクスト』に掲茉された。この論文では、はじめに倧衆文化mass cultureに぀いお語られおきた埓来の理論や議論の再怜蚎が行われる。

    倧衆文化はしばしば、高玚文化high cultureずの察立関係を前提ずしお論じられおきた。䟋えば゚リヌト䞻矩を批刀する議論の倚くは、単にその文化に関わる人数が倚いこずを根拠ずしお倧衆文化の優䜍性を䞻匵し、高玚文化よりもテレビや映画のほうが、はるかに瀟䌚的䟡倀があるず語る。だがこうした倧衆䞻矩(ポピュリズム)の掚進者は、吊定のための吊定をしおいるだけであり、高玚文化はもちろんのこず、倧衆文化に察しおも、その内実を詳しく解き明かす方法を持ち合わせおいない。

    こうした立堎の察極にあるのが、フランクフルト孊掟の文化理論である。テオドヌル・アドルノやマックス・ホルクハむマヌずいった思想家たちは、マルクス䞻矩における「物象化」の理論を、倧衆文化が䜜り出した䜜品の分析に揎甚しおみせた地方映画史研究のための方法論27「T・W・アドルノずM・ホルクハむマヌによる「文化産業」論」。

    「物象化」の理論に拠れば、資本䞻矩のもずではあらゆるものが商品化され、亀換の察象ずなる。個々の商品は本来備えおいた固有の目的や䟡倀を倱い、すべおが「消費」ずいう唯䞀の目的のための手段に成り䞋がっおしたうのである。同様に、䌝統的な人間の掻動も断片化され、効率的か぀合理的なモデルによっお再構築される。フランクフルト孊掟が「道具化」ず呌ぶ事態——すなわち、人間の掻動の「手段」ず「目的」ずを切り分けた䞊で、目的や䟡倀の偎面よりも手段や道具ずしおの偎面が前面に抌し出されおいくのである。

    文化の商品化の䟋ずしおしばしば取り䞊げられるのが「ツヌリズム」だ。アメリカ人旅行者は、目の前の颚景をただ眺めるのではなく、それをスナップ写真に撮り、空間を物質的な映像に倉換しお個人の所有物にする。ゞャン=リュック・ゎダヌルは『カラビニ゚』1963においお、こうした倉換行為を鮮やかに描き出した。戊争から垰還した若い略奪者たちは、ピラミッドやパルテノン神殿、ベルサむナ宮殿など各地の絵はがきを戊利品ずしお、たるで猥耻写真を持っおいるかのように芋せびらかす。ギヌ・ドゥボヌルが指摘するように、珟代の消費瀟䌚における究極の商品の物象化圢態は「むメヌゞ」そのものなのだ地方映画史研究のための方法論23「ギヌ・ドゥボヌル『スペクタクルの瀟䌚』ず状況の構築」参照。私たちは機胜よりもコンセプトを求めお自動車を賌入したり、CMに登堎する俳優のむメヌゞを求めお煙草を吞ったりするのである。

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    ゞャン=リュック・ゎダヌル『カラビニ゚』1963

    道具化された物語

    文化商品化および道具化は「物語」に察しおも行われる。䟋えば探偵小説や昔颚の冒険小説を読む際、私たちは事件の解決や倧団円の結末に蟿り着くこずを求めおそれらを読み進める。終わりに向かうこずや消費するこずの満足だけを目的ずし、物語の残りの郚分は、そのための぀たらない手段に貶められおいるのである。こうした読曞のあり方は、゚ヌリヒ・アり゚ルバッハが『ミメヌシス』1946で述べる詩のあり方——各段萜ずむメヌゞはそれ自䜓で氞遠的か぀内圚的であるべきで、その前埌に来る段萜やむメヌゞずの必然的もしくは䞍可欠な結び぀きはないずする考え方——ずは察照的だず蚀えるだろう。

    加えおゞェむム゜ンは、䟋えば家庭小説における運呜芳や、様々なサヌガ長線の英雄物語、倧河小説を指すにおける地球芏暡・歎史的芏暡の倧倉動が生み出す叙事詩的なリズムのように、メむンプロットず䞊行しお断続的に描き出される「感情のトヌン」p.17があるこずを指摘しおいる。感情のトヌンもたた物象化された商品の䞀぀であり、語りはそうした商品を消費するための道具にすぎない。このこずは、小説が映画化される際に感情のトヌンが「映画音楜」ずしお衚珟され、物質性を持぀——぀たりは所有の察象ずなる——こずからも明らかだろう。

    倧衆文化ず高玚文化の盞互䟝存関係

    以䞊のように、ゞェむム゜ンはフランクフルト孊掟による倧衆文化の分析を高く評䟡し、自らの研究の基瀎に据えおいる。だがゞェむム゜ンは、フランクフルト孊掟が倧衆文化の䟡倀を枬る際に、䌝統的なモダニズムの高玚芞術の「自埋性」を評䟡基準に据えおいるこずに぀いおは䞍満があるず蚀う。「自埋」した高玚文化を定点に据え、そこからの距離を枬るこずによっお倧衆文化の「堕萜」した状態を明らかにするずいう二元論的な発想では、実は高玚文化ず倧衆文化は盞互浞透し合っおいるずいう事実を適切に取り扱うこずができないからだ。

    ここでゞェむム゜ンは、普遍的な矎孊的刀断ではなく、歎史的・匁蚌法的アプロヌチをずるべきだず䞻匵する。すなわち、高玚文化ず倧衆文化は共に、資本䞻矩のもずに生たれおきた矎的な生産物であり、二方向に分裂しおはいるが、完党に切り離すこずのできない匁蚌法的な盞互䟝存関係を結んでいるものず捉えるべきだず蚀うのである。この考え方に埓うなら、高玚文化ずはすなわちモダニズムであり、資本䞻矩の隆盛以前に曞かれたギリシャ悲劇やシェむクスピア、『ドン・キホヌテ』などを高玚文化ず呌ぶこずはできないずいうこずになる。たた同時に、叀くから様々な民族集団が䜜り出しおきた民衆芞術も、倧衆文化ずは区別しお捉える必芁があるだろう。 

    倧衆文化における「反埩」

    ゞェむム゜ンは、倧衆文化ずモダニズムの双方が盎面し、察照的な方法で解決を図っおいる瀟䌚的・矎孊的な状況の分析こそが、カルチュラル・スタディヌズが取り組むべき新しい研究分野なのだず語る。そしお、その䞀䟋ずしお取り䞊げるのが「反埩」の抂念だ。

    ゞャン・ボヌドリダヌルは、「シミュラヌクル」の反埩構造こそが資本䞻矩瀟䌚・消費瀟䌚の商品構造の特城であるず述べた。シミュラヌクルずは、起源ずなるものオリゞナルを持たないコピヌの再生産が反埩されるこずを指す蚀葉である。私たちは無数のシミュラヌクルに囲たれ、虚構であったはずのそれがむしろ珟実を芏定し始めるような䞖界に生きおいるのであり、この状況ぞの2通りの察応、もしくは反発の結果ずしお珟れおきたのが、倧衆文化ずモダニズムなのである。

    䞀方で、「反埩」は倧衆文化に決定的な圱響をもたらした。倧衆は同じものを䜕床も繰り返し芋たがるものであり、そのため「ゞャンル」ずいう構造ず蚘号が芁請される。SFやミステリヌ、䌝蚘やポルノグラフィヌずいった特定のゞャンルの䜜品を鑑賞するずき、私たちは王切り型の型匏が「反埩」されるこずを期埅しおそれを芋る。極論を蚀えば、ゞャンル映画であれポップミュヌゞックであれ、倧衆文化においおは「初めお」芋る映画も「初めお」聎く音楜も存圚しない。「反埩」によっおオリゞナルはきれいぱっさり消滅させられおおり、それゆえ倧衆文化の研究者は、研究すべき䞀次資料を持たないのだ。

    ゞェむム゜ンによれば、映画の䞖界では、アメリカ映画ず倖囜映画の区別が制床化されおいるずいう。アメリカ映画ではゞャンルの「反埩」が培底されおおり、芳客もそれを期埅しお鑑賞するが、倖囜映画を鑑賞する際には、芳客は高玚文化的な蚀説や芞術映画を受容すべく、「期埅の地平」をギアチェンゞするこずが習慣づけられおいるのである。

    モダニズムにおける「反埩」ぞの反発

    他方のモダニズムは、こうした「反埩」に反発する方向に向かう。叀兞的な英米のモダニズムの理論枠組みに基づいお、過去の様匏ず断絶した革新性や目新しさを远求したり、ガヌトルヌド・スタむンやアラン・ロブ=グリ゚のようにあえお「反埩」を盗甚するこずで、毒をもっお毒を制す戊略に出たりするこずもある。そこでは、「反埩」ずいうスキャンダラスで耐え難い刺激物を矎孊的なプロセスに匕き蟌むこずによっお、それを培底的に調べ䞊げ、象城的に䞭和するこずが詊みられおいるのだずいう。

    アラン・ロブ=グリ゚『去幎マリ゚ンバヌトで』1961

    たたモダニズムは、䟋えばマルセル・プルヌストの『倱われた時を求めお』1913-1927やゞェヌムズ・ゞョむスの『フィネガンズ・りェむク』1939のように、再読されるこずを前提ずした本の制䜜においおも「反埩」を暡倣しおいる。ただしそうした難解なテクストは、䜕床も繰り返し回垰するこずができる安定した実䜓オリゞナルを持぀点で、倧衆文化の生産物ずは倧きく異なっおいるず蚀えるだろう。

    倧衆の操䜜手段ずしおの文化、真正なる文化的創造の困難

    ここでゞェむム゜ンは、フランクフルト孊掟が提起した、もう䞀぀の倧衆文化ぞのアプロヌチを取り䞊げる。それは、䟋えばアドルノずホルクハむマヌが『啓蒙の匁蚌法』1947で論じたような、文化産業が倧衆を「操䜜」し、支配䜓制に隷属させるのだずいう芋方である。

    フランクフルト孊掟を僅かな䟋倖ずしお、マルクス䞻矩の䌝統は珟実の瀟䌚生掻を問題にする際、政治的・むデオロギヌ的・法埋的な問題を重芖する䞀方で、文化的な契機は軜芖しおきた。だがゞェむム゜ンは、「文化」は消費瀟䌚そのものだず指摘する。珟代瀟䌚ほど映像が遍圚し、蚘号やメッセヌゞに溢れた瀟䌚はない。ギヌ・ドゥボヌルが指摘するように、実業家のハワヌド・ゞャヌノィスであれゞミヌ・カヌタヌ元倧統領であれ、カストロであれ赀い旅団であれ、ベトナム戊争であれストラむキであれ、すべおのものは映像——぀たりは文化的な衚象——に媒介されお、私たちのもずに届けられるのである。

    このように、私たちの生掻の隅々にたで浞透したシステムを打ち厩し、その倖郚に出るこずは容易ではない。倧衆文化ずも高玚文化ずも異なる、資本䞻矩瀟䌚以前の「真正なる文化的創造」p.34を実珟させるためには、物象化ないしは道具化の圱響が及んでいない真正なる集合生掻、有機的な瀟䌚集団の生呜力がなくおはならないが、そうした条件を満たせる堎は、今やあたりにも皀有なものになっおしたった。今日、「真正なる文化的創造」ず蚀えるのは、黒人の文孊やブルヌス、むギリスの劎働者階玚のロック、女性文孊、ゲむ文孊、ケベック・ロマンス、第䞉䞖界文孊など、資本䞻矩システムの呚瞁に䜍眮する孀立地垯で、集団的経隓を掻かしお䜜り出されたものだけだろうずゞェむム゜ンは蚀う。だがそれらが成立するのも、あくたで圌圌女らの集団生掻が垂堎や商品のシステムに䟵されきっおいない間だけだ。

    真正なる文化的創造

    ゞェむム゜ンは、䞀方で、倧衆文化の䞭から「真正なる文化的創造」が生たれる可胜性に぀いお悲芳的な芋解を瀺し぀぀も、他方では、その倖郚に出るこずが容易ではないずいう条件も螏たえ、あくたで倧衆文化の内偎に、システムを打ち厩すような集団的実践——より具䜓的には階玚闘争——の萌芜を芋぀け出そうずする。

    そこでゞェむム゜ンが泚目するのが、文芞評論家のノヌマン・ホランドが『文孊的反応のダむナミックス』1968で提唱した、芞術䜜品に関する「修正された」フロむトのモデルだ。そこでは、商業的な芞術䜜品がどのようにしお倧衆を操䜜するのかを説明するために圹立぀枠組みが提瀺されおいる。具䜓的には、芞術䜜品の心理的な機胜には、①願望を充足させる機胜ず、②象城を䜜り䞊げるこずで、実珟するこずも消し去るこずもできない欲望や願望を瞬間的に鎮め、管理する機胜の二぀があるずいう。

    ゞェむム゜ンはこのモデルを螏たえお、倧衆文化を虚しい嚯楜や単なる虚停意識ずしお捉えるのではなく、「瀟䌚的、政治的䞍安や幻想を倉圢する䜜業」p.38ずしお捉えるこずを提唱する。倧衆文化は、瀟䌚的な䞍安や政治的な䞍安ずいった問題を想像の䞊で解決する語りを䜜り出し、瀟䌚の調和を幻想ずしお芋せるむメヌゞを提瀺するこずで、それらの䞍安を抑圧する働きをする。ゞェむム゜ンは、そのような倧衆の無意識を分析するこずを通じお、既存のシステムを打ち厩す集団的実践を可胜にするような、人びずの共同䜓ぞの志向を芋぀け出そうずするのである。

    高玚文化やモダニズムの䜜品であろうず、倧衆文化や商業文化の䜜品であろうず、珟代の芞術䜜品にはすべお、その基瀎に流れる衝動ずしお、しばしば歪曲され、抑圧された無意識のかたちではあるが、わたしたちが珟圚生きおいるような瀟䌚ず、瀟䌚はこう生きるべきだずわたしたちが盎感的に感じおいる瀟䌚の、䞡方の意味での瀟䌚生掻の本質に぀いおの痛切なる幻想がこめられおいる。商品にずり぀かれ、倧䌁業のむデオロギヌ的なスロヌガンに攻めたおられおいる状況で、私有化され、心理孊的に䜜甚しおいる瀟䌚のたん䞭で、いかに埮匱でわずかであろうずも、モダニズムの叀兞的な䜜品においおず同じように、倧衆文化の堕萜した䜜品のほずんどに確実に感じられる、共同䜓を志向する根深い衝動の感芚を再びよびさたすこず、これこそがたさしく、珟代文化にマルクス䞻矩を意矩深く介入させるために絶察に必芁な前提条件なのである。

    フレドリック・ゞェむム゜ン『目に芋えるものの眲名——ゞェむム゜ン映画論』
    怎名矎智、歊田ちあき、末廣幹 蚳、法政倧孊出版局、2015幎、p.52 

    むデオロギヌ的機胜ずナヌトピア的・超越的機胜——スティヌノン・スピルバヌグ『ゞョヌズ』1975

    ゞェむム゜ンは分析の実䟋ずしお、スティヌノン・スピルバヌグの『ゞョヌズ』1975ず、その原䜜であるピヌタヌ・ベンチリヌのベストセラヌ小説を取り䞊げおいる。

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    スティヌノン・スピルバヌグ『ゞョヌズ』1975ポスタヌ

    『ゞョヌズ』の公開圓時、同䜜の鮫が䜕を象城しおいるのかに぀いお——共産䞻矩や第䞉䞖界ずいったアメリカ瀟䌚を脅かす他者であるずか、誕生や性亀、死ずいった人間の生物的な問題や粟神分析的な䞍安ずいったように——様々な解釈が行われた。それらのいずれも間違いずは蚀えないが、より重芁なのは、こうした耇数の解釈が出おくるこず自䜓であるずゞェむム゜ンは蚀う。象城的な媒䜓ずしおの鮫は、特定の芳客が持぀固有の問題だけに関わるのではなく、性質の異なる様々な䞍安を吞い䞊げ、たずめ䞊げる胜力を持っおいる。瀟䌚的・歎史的な皮々の䞍安を、人間に害を及がす生物の襲来ずいう、芋るからに自然な䞍安に眮き換えお衚珟するこずで、本来の䞍安をその䞭に抌し蟌んでしたうずいう意味で、『ゞョヌズ』の倚矩性は匷力な「むデオロギヌ的機胜」を備えおいるず蚀えるだろう。 

    スティヌノン・スピルバヌグ『ゞョヌズ』1975

    映画でも原䜜小説でも、人喰い鮫に立ち向かうのは海掋孊者フヌパヌ、島の譊官ブロディ、鮫ハンタヌのクむントの3名である。だが小説では、䞊流階玚出身の退廃的なプレむボヌむであるフヌパヌず、島民であるブロディずダンキヌのクむントの間の階玚闘争が明癜に衚珟されおいたのに察しお、映画では、そうした階玚に関する意味合いが意図的に無芖ないしは抑圧されおいる。フヌパヌは若く枩厚な科孊技術の専門家、ブロディは郜䌚出身の匕退した譊察官に倉えられお、䞡者の結蚗は、倚囜籍䌁業の新たな技術䞻矩瀟䌚ず法ず秩序の暩力が手を組んだこずの寓意アレゎリヌずなっおいる。たた、原䜜ではさほど重芁でない圹柄であったクむントは、第二次䞖界倧戊の回想録を曞き、アメリカの遠い過去ず自分自身ずを重ね合わせおいる人物ずしお描かれる。そんなクむントの死ず、フヌパヌおよびブロディの生還は、叀く䌝統的なアメリカのむメヌゞの終焉ず、それに代わる新たな暩力䜓制の誕生を䌝えるナヌトピア的ノィゞョンを芳客に提瀺する。

    このように、倧衆文化の䜜品が「むデオロギヌ的機胜」を発揮するためには、暗瀺的であれ明瀺的であれ、同時に「ナヌトピア的・超越的機胜」を備えおいなければならないのだずゞェむム゜ンは蚀う。倧衆の無自芚な䞍安を呌び起こすだけではなく、その共同䜓の深局にある根源的な垌望や幻想を描き出さなければ、倧衆文化はその圹割を十党に果たすこずはできないのだ。 

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    Jaws Movie Scene for Universal Hollywood Backlot tour

    フランシス・フォヌド・コッポラ『ゎッドファヌザヌ』1972

    フランシス・フォヌド・コッポラ『ゎッドファヌザヌ』1972におけるマフィア神話の「むデオロギヌ的機胜」は、アメリカの資本䞻矩瀟䌚の問題をマフィア瀟䌚の問題ぞず眮き換えるこずだず解釈できる。すなわち、自らの日垞生掻が、利益のためには生態系の砎壊や非人間的な行いも厭わない倧䌁業や倚囜籍䌁業に頌りきりになっおいるこずぞの䞍安が、䞍正行為や犯眪行為を犯すマフィアの物語ずしお描き出されるのである。

    こうしたマフィア神話は、アメリカの日垞生掻の退廃は経枈的な問題ではなく倫理的な問題であり、芏範からの逞脱こそが犯眪なのだずいうむデオロギヌを怍え付ける。革呜のように芏範そのものを取っお代えるこずではなく、枅廉朔癜や誠実さ、犯眪の撲滅、芁するに法ず秩序の遵守こそが瀟䌚的矛盟の最良の解決策だず提案するのだ。

    たた同䜜の「ナヌトピア的・超越的機胜」は、映画のタむトルにも瀺されおいるように、「家族」ずいう共同䜓をナヌトピア的な憧れの察象ずする芋方に衚れおいる。アメリカにおいお支配的立堎にある癜人䞭流階玚の共同䜓が厩壊し、家族の堕萜、自由攟任の増倧、父暩の倱墜ずいった諞問題に盎面する䞭で、マフィア家族の密接な絆ずゎッドファヌザヌカトリック䞖界における「名付け芪」の意。転じおマフィアのボスを指すの安党保障の力は、家父長制的・暩嚁的な家族による瀟䌚の再統合ずいうナヌトピア幻想を芋せおくれるのである。

    フランシス・フォヌド・コッポラ『ゎッドファヌザヌ』1972 

    フランシス・フォヌド・コッポラ『ゎッドファヌザヌPART2』1974

    『ゎッドファヌザヌ』では、むデオロギヌずナヌトピアの2぀の次元が、共にマフィア映画ずいうゞャンル構造の内郚で衚珟されおおり、ゞャンルの玄束事自䜓が砎られるこずはなかった。それに察しお続線のフランシス・フォヌド・コッポラ『ゎッドファヌザヌ PARTⅡ』1974では、マフィア映画の構造を厩壊させるこずで、その裏に隠されおいた「むデオロギヌ的機胜」の実態を暎露するずいう、自己批刀的な詊みが行われおいるずゞェむム゜ンは蚀う。

    フランシス・フォヌド・コッポラ『ゎッドファヌザヌPARTⅡ』1974 

    第䞀䜜では、マフィアずいう題材が䌁業によるビゞネスの代替物ずしお機胜しおいたのに察しお、二䜜目では、マフィアの掻動がビゞネスそのものになっおいく様が描かれおいる。この物語は、珟実のマフィアが合法的なビゞネスを停装しおいるうちに本圓のビゞネスマンになっおいくずいう歎史の流れず連動したものずしお芋るこずができるだろう。映画においおも珟実においおも、アメリカのビゞネスは囜内勢力を䌞ばし、囜倖にたでその芏暡を広げおいこうずするが、キュヌバ革呜ずいう真のナヌトピア的展望によっお拡倧を遮られおしたうのだ。

    さらには、第䞀䜜に描かれた家父長制的・暩嚁的なマフィア家族ずいう「ナヌトピア的・超越的機胜」もたた、その背埌にある性差別や暎力の存続が描かれるこずによっお、正䜓を暎かれるこずになる。 第䞀䜜のゎッドファヌザヌであるノィトヌ・コルレオヌネの跡を継いだマむケルは、父芪のように安定したマフィア家族を圢成するこずができない。父暩を発揮し、匷力な暩嚁を守ろうずすればするほど裏切りに遭い、次々に家族を倱っおいくのである。


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