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地方映画史研究のための方法論26抵抗の技法ず日垞的実践④——゚ラ・ショハット、ロバヌト・スタムによる倚文化的な芳客性の理論

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、米子垂立図曞通での巡回展「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」、「芋る堎所を芋る3——アヌティストによる鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」を開催した。

    地方映画史研究のための方法論

    調査・研究に協力しおくれる孊生たちに、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有しおおきたいず考え、この原皿地方映画史研究のための方法論を曞き始めた。杵島さんず行なっおいる研究䌚・読曞䌚でレゞュメをたずめ、それに加筆修正や埮調敎を加えお、このnoteに掲茉しおいる。これたでの蚘事は以䞋の通り。

    メディアの考叀孊
    01ミシェル・フヌコヌの考叀孊的方法
    02ゞョナサン・クレヌリヌ『芳察者の系譜』
    03゚ルキ・フヌタモのメディア考叀孊
    04ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論

    芳客の発芋
    05クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論
    06ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論
    07ベル・フックスの「察抗的たなざし」

    装眮理論ず映画通
    08ルむ・アルチュセヌル「むデオロギヌず囜家のむデオロギヌ装眮」
    09ゞガ・ノェルトフ集団『むタリアにおける闘争』
    10ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論
    11ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法

    「普通」の研究
    12アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』
    13ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    郜垂論ず映画
    14W・ベンダミン『写真小史』『耇補技術時代における芞術䜜品』
    15W・ベンダミン『パサヌゞュ論』
    16アン・フリヌドバヌグ『りィンドり・ショッピング』
    17吉芋俊哉の䞊挔論的アプロヌチ
    18若林幹倫の「瀟䌚の地圢瀟䌚の地局」論

    初期映画・叀兞的映画研究
    19チャヌルズ・マッサヌの「スクリヌン・プラクティス」論
    20トム・ガニング「アトラクションの映画」
    21 デノィッド・ボヌドりェル「叀兞的ハリりッド映画」
    22M・ハンセン「ノァナキュラヌ・モダニズム」ずしおの叀兞的映画

    抵抗の技法ず日垞的実践
    23ギヌ・ドゥボヌル『スペクタクルの瀟䌚』ず状況の構築
    24ミシェル・ド・セルトヌ『日垞的実践のポむ゚ティヌク』
    25スチュアヌト・ホヌル「゚ンコヌディングデコヌディング」

    ゚ラ・ショハット、ロバヌト・スタム

    ゚ラ・ショハット1959-

    ゚ラ・ショハットElla Shohatは1959幎生たれの文化研究者。䞭東のメディア研究・映画研究を専門ずし、ニュヌペヌク垂立倧孊ずニュヌペヌク倧孊で教授ずしお教鞭をずる。むラク出身のアラブ系ナダダ人で、幌少期にむスラ゚ルに移䜏したが、ペヌロッパ出自のナダダ人の支配的文化の䞭で抑圧を感じながら日々を過ごしたずいう。その埌、アメリカに枡り孊業を修め、そのたた同地で研究者ずなった。䞻ずしお、アラブ系ナダダ人文化や、むスラ゚ルパレスチナ文化に関する研究を倚く行っおいる。

    䞻な著曞に『むスラ゚ル映画——東西ず映画衚象の政治孊 Israeli Cinema: East/West and the Politics of Representation』(テキサス倧孊出版局、1989幎)、『Taboo Memories, Diasporic Voices』 (デュヌク倧孊出版䌚、2006幎)など。『新映画理論集成① 歎史人皮ゞェンダヌ』岩本憲児、歊田朔、斎藀綟子線、フィルムアヌト瀟、1998幎に収録されおいる「関係性ずしおの民族性——アメリカ映画のマルチカルチュラル的な読解に向けお」ずちぎあきら蚳は、今回玹介する『支配ず抵抗の映像文化——西掋䞭心䞻矩ず他者を考える Unthinking Eurocentrism: Multi- culturalism and the Media』ロバヌト・スタムずの共著、法政倧孊出版局、2019幎、原著1994幎の第6章の元になった論考の䞀郚である。

    ロバヌト・スタム1941-

    ロバヌト・スタムRobert Stamはアメリカ・ニュヌゞャヌゞヌ生たれの映画研究者。アメリカ・フランス・ポルトガルを察象地域ずした比范文孊研究や、䞭南米の文孊や映画、特にブラゞル映画を専門ずした研究を行っおいる。䞻な著䜜に『転倒させる快楜——バフチン、文化批評、映画 Subversive Pleasures: Bakhtin, Cultural Criticism and Film』浅野敏倫蚳、法政倧孊出版局、2002幎、原著1989幎、『映画蚘号論入門 New Vocabularies in Film Semiotics: Structuralism, Post-Structuralism and Beyond』ロバヌト・バヌゎむン、サンディ・フリッタマンルむスずの共著、束柏瀟、2006幎、原著1992幎、「映画衚珟における怍民地䞻矩ず人皮差別 序説」ルむス・スペンスずの共著、奥村賢 蚳、『新映画理論集成① 歎史人皮ゞェンダヌ』所収、原著1983幎などがある。

    『支配ず抵抗の映像文化——西掋䞭心䞻矩ず他者を考える』1994

    今回は、ショハットずスタムの共著『支配ず抵抗の映像文化——西掋䞭心䞻矩ず他者を考える』の第9章「ポストモダン時代における倚文化䞻矩のポリティクス」を芁玄・玹介する。西掋䞭心䞻矩および怍民地䞻矩を批刀し、倚文化䞻矩・倚䞭心䞻矩的な映画研究およびカルチュラル・スタディヌズの必芁性を論じる本曞の䞭でも、この章はポストモダン時代における倚文化的な「芳客性 Spectatorship」の理論化が詊みられおおり、芳客論や映画通研究、地方映画史研究にも特に関わりが深いず蚀えるだろう。

    ポストモダン時代における倚文化䞻矩のポリティクス

    「革呜」から「抵抗」ぞ

    1980幎代以降、「革呜」や「解攟」ずいったナヌトピア的で倧きな物語は力を倱い、代わりに「抵抗」のような局地的で脱䞭心的な闘いに焊点が圓おられるようになった。たたそれに䌎い、「階玚」や「民族」ずいった蚀葉も特暩的な地䜍から陥萜し、代わりに「人皮」や「ゞェンダヌ」「セクシュアリティ」ずいった語が台頭しおいる。

    たた珟代の政治や文化を論じるためには、「ポストモダニズム」ず呌ばれる珟象を考慮しなければならない。ポストモダニズムずは、資本䞻矩の新たな段階であり、垂堎文化が䞖界的に遍圚し、文化ず情報が闘いの重芁な領域ずなるような状況を意味しおいる。ポストモダンの時代においおは、「革呜」を掲げる共産䞻矩や囜際䞻矩マルクス䞻矩に基づいお各囜の劎働者階玚が囜際的に連垯するこずを求める政治思想はすでに䞋火になっおおり、資本䞻矩瀟䌚に生きる人びずはデモに参加するよりもテレビのドラマやスポヌツ番組を芋るこずに匷い関心を瀺す。たた「革呜」に代わる「抵抗」も、そうした、「ポピュラヌ・カルチャヌ popular culture」ず混ざり合うかたちで行われるのだ。

    ポピュラヌ・カルチャヌずは䜕か

    ではポピュラヌ・カルチャヌを通じた「抵抗」の戊略には、どれほどの有効性や可胜性があるだろうか。この問いに答えるために、さしあたり、ショハットスタムは、ポピュラヌ・カルチャヌずいう語には察照的な2぀のニュアンスが含たれおいるこずを指摘する。

    第䞀に、マルクス䞻矩や第䞉䞖界䞻矩の蚀説、カルチュラル・スタディヌズの蚀説においお、ポピュラヌ・カルチャヌは「民衆(ピヌプル)」の文化、あるいは「倧衆に指瀺された(ポピュラヌ)」文化を意味し、反乱の゚ネルギヌや、瀟䌚倉容に向けお人びずを錓舞するようなニュアンスが含たれおいる。

    他方、ポピュラヌ・カルチャヌずよく䌌た語に「マスカルチャヌ mass culture」あるいは「倧衆文化」があるが、こちらには、倧量消費瀟䌚に䞀郚品ずしお組み蟌たれた受動的な人びずずいったニュアンスや、たたその過皋で他の人びずから切り離され、個々人が孀立した状態にあるようなニュアンスが含たれおいるだろう。

    ポピュラヌ・カルチャヌずは、民衆が自分たちのために胜動的に生産する文化なのか、それずも、倧衆が受動的に消費する文化に過ぎないのだろうか。ショハットスタムはこうした二者択䞀の思考を批刀した䞊で、ポピュラヌ・カルチャヌを「倚元的で、生産ず消費の察立する過皋に関わる倚様な共同䜓間の亀枉」p.427ず捉えるべきだず䞻匵する。

    本曞は、倧衆文化ずポピュラヌ・カルチャヌは抂念的に区別できるが、盞互に重なっおいるずずらえる。どちらもいた珟圚を特城づけ、緊匵をはらみ、掻力に満ちおいる。マスメディアの蚎求力は、ある皋床、平等なコムニタスの文化の蚘憶や未来に察する垌望を商品化する胜力に基づく。こうしおメディアは、腹の底から笑うカヌニバルを、虚像の祝祭の録音した拍手に代えようずする。しかしポピュラヌ・カルチャヌは、もはや最新機械を嫌っお蟲業を懐叀したり、「人民よ進め」や「䞍屈の民」を感傷的にたた歌ったりはしない。ポピュラヌ・カルチャヌは、政治的志向が䜕であれ、「自由」を賛矎する人々が生みだしたものだろうず、カりチポテト族が消費したものだろうず、いたでは囜家を超えおグロヌバル化したテクノ・カルチャヌに完党に巻き蟌たれおいる。したがっお、ポピュラヌ・カルチャヌを倚元的で、生産ず消費の察立する過皋に関わる倚様な共同䜓間の亀枉ずずらえるのは理にかなっおいるのだ。

    ショハットスタム『支配ず抵抗の映像文化』p.427

    ポリティカル・コレクトネス——䜕が「正しい」のか

    「革呜」ずいう倧きな物語が「抵抗」ずいう小さな闘いに解䜓されおいく流れの䞭で、たすたす重芁性を増しおいるのが「ポリティカル・コレクトネス Political Correctness」政治的公平さ、政治的正しさ、政治的劥圓性、PCず呌ばれる抂念である。

    ポリティカル・コレクトネスは「特定の蚀葉や所䜜に差別的な意味や誀解が含たれないように、政治的にpolitically適切なcorrect甚語や政策を掚奚する態床」を意味する抂念であり、䟋えば倧航海時代の誀解から「むンディアン」ず呌ばれおいたアメリカ先䜏民を「ネむティノ・アメリカン」ず呌び替えたり、肌の色に基づいた呌称「ブラック黒人」を「アフロ・アメリカン」ず改めたりするこずが、PCによる蚀語衚珟の是正の代衚的事䟋であるずされる。

    高橋聡倪「ポリティカル・コレクトネス」Artwordsアヌトワヌド

    ポリティカル・コレクトネスが必芁ずされたのは、囜際的な連垯ず反怍民地䞻矩地域ごずの思想や䟡倀芳の尊重の䞡立が目指される䞭で、耇数の共同䜓同士の関係性を調敎する基準ずなる䜜法やしきたり、分裂した巊翌の各グルヌプの駆け匕きを管理する非人栌的な芏範を蚭けるこずが求められたためである。

    だが倚くの共同䜓においおは、むしろポリティカル・コレクトネスに抵觊するような悪態を぀いたり、猥談を亀わしたりするこずが、芪密さや仲間意識の蚌ずなっおおり、コレクトネス公正やポラむトネス瀌儀正しさずいった抂念自䜓が関係性の遠さやよそよそしさを感じさせる目暙ずなっおいる。

    ポリティカル・コレクトネスはこれたで行われおきた差別や抑圧を考慮し、各共同䜓が互いを尊重し合い、倫理的責任の意識を高めるこずを隠れた目暙ずしおきた。だが実際には、この抂念がうたく機胜せず、「眪深いリベラルのSM的な自責や、サバルタンどうしのどちらがより虐げられおいるか競争に堕するこずが倚い」p.428。ポストモダン時代においおは、各自のアむデンティティもたた商品化され、被害者意識を持぀こずPCを過剰に内面化するこずや䞀歩遅れた人であるこずPCをあえお無芖するこずが文化資本になるのだずショハットスタムは指摘する。

    自己衚象ずアむデンティティ・ポリティクス——「誰が」語るのか

    今日のポリティカル・コレクトネスは、「アむデンティティ・ポリティクス Identity Politics」アむデンティティ政治や「自己衚象」の問題ず深く結び぀いおいる。

    アむデンティティ・ポリティクスずは、「人皮、民族、性的指向、ゞェンダヌなどの特定のアむデンティティヌを持぀集団が瀟䌚的に䞍圓な扱いを受けおいる堎合に、瀟䌚的地䜍の向䞊を目指しお行う掻動」「identity politicsずは」英蟞郎on the WEBを意味しおおり、呚瞁的な共同䜓に属する者に察しお「自己衚象」を行うこず——぀たりは「本圓の自分を䌝える」こず——を求めおきた。

    フェミニズムやポスト怍民地䞻矩など、差別ず戊うために甚いられおきた理論は、䞀方では、アむデンティティを固定されたものず芋做したり、ゞェンダヌ・人皮・性的嗜奜を生物孊的に決定されたものず芋做す「本質䞻矩」的思考を吊定・批刀し、それらはみな瀟䌚的に構築されおきたものであり、倉曎も可胜であるずいう「構築䞻矩」の立堎を衚明しおきたが、他方では、珟実の差別を是正するためには、自らが吊定する本質䞻矩的な区分に基づく「アファヌマティブ・アクション」積極的差別改善措眮の政策を支持する必芁があるずいう葛藀を抱えおきたのである。

    アむデンティティ・ポリティクスは、人びずは明確に特定の瀟䌚集団に垰属しおおり、委任された代衚者が集団を代匁しお語るこずができるずいう発想に基づいおいるが、厳密に「構築䞻矩」的思考を突き詰めるならば、自分自身も含め、誰かが誰かのアむデンティティやゞェンダヌ、人皮、性的嗜奜を代匁するこずなど䞍可胜だずいうこずになるだろう。

    こうしお、「誰」が——い぀、どのように、誰の名においお——語るのかずいうこずが重倧な問題ずなる。䟋えば映画監督のスパむク・リヌは、黒人解攟運動の指導者であるマルコムXの䌝蚘映画『マルコムX』スパむク・リヌ、1992を監督する暩利を持぀のはアフリカ系アメリカ人だけだず䞻匵した。癜人以倖の圹柄を癜人が挔じるこずは、「ホワむトりォッシングWhitewashing」であるずしお批刀されるようになった。他方、こうしたマむノリティの暩利獲埗の動きに察しお、これたでマゞョリティに属しおいた者は、自らの暩利・特暩を奪われたず感じお恐怖や䞍安を芚えたり、過剰な眪の意識が同情疲劎や自己愛に転化し、時には憀りや敵意を抱いたり、自らをマむノリティや被抑圧者偎に䜍眮づけようずするこずもあるだろう。

    文化的ポリフォニヌの可胜性——「どのような関係性で」語るか

    ショハットスタムは、以䞊のような状況を怜蚎・打開するためには、マむノリティずマゞョリティ、抑圧者ず被抑圧者ずいった単玔な二分法では䞍十分であり、支配、埓属、協力ずいった広範で耇雑な「関係性」を考慮するこずが必芁であるず述べおいる。本質䞻矩の眠に嵌たっお凝り固たった「正しさ」を求めるのでもなければ、構築䞻矩を突き止めた果おに政治的な無力感に陥るのでもなく、「どのような関係性で」語るのか——すなわち、「誰が語るこずができるか尋ねるのではなく、どのように語り合うか、さらに重芁なのは倚様な察話をどのように進めるか尋ねる」p.434こず——によっおこそ、歎史的に圢成されおきた芪近感に基づく共同䜓間の連合を圢成するこずができるのだ、ず。

    われわれの声をどのように織り亀ぜよう。合唱か、亀唱か、コヌルアンドレスポンスか、倚声音楜か。集団の話はどんな圢でするのか。人は他者を代匁できるず思い蟌むのは危険だが他者に堎所ごず取っお代わるこずになる、連合を組むずいう意味で他者ず話したり䞀緒に話すのは、それずたったく違う。この堎合は、人が「持っおいる」アむデンティティに関心があるのではなく、人が「するこず」に䞀䜓感を芚える。垰属意識は亀差するずいう考え方は、支配に察する批刀および衚象の重荷を共有する理論可胜性や政治的必芁を喚起する。それにより衚象の重荷は枛り、逆に衚象をめぐる集団の喜びや責任は増える。連合はもちろん争いのない空間ではなく、䞍安定なこずが倚い。察話は痛みを䌎い、ポリフォニヌは䞍協和音ずなる。しかし、文化的ポリフォニヌは、より平等なやり方で暩力を再構築するこずに関心を持぀すべおの人々の倚元的な察話を線成線曲するだろう。

    ショハットスタム『支配ず抵抗の映像文化』p.434

    亀枉する芳客性

    ポストモダン時代の芳客性——怍民地䞻矩的たなざしず察抗的たなざし

    以䞊の前提を螏たえお、ショハットスタムは映画の「芳客性 Spectatorship」に぀いおの議論を進める。

    ポストモダン時代においおは、メディアがアむデンティティの圢成に関䞎する。実際に䌚ったこずのない人びずず共同䜓を圢成したり、自分自身の先祖ずは無関係な䌝統の圱響を受けたりするこずもある。メディアは、他者の文化を゚キゟチックなものずしお瀺すこずもできるし、逆に暙準的なものずしお瀺すこずもできる。支配的なありようずは異なる、オルタナティノな共同䜓やアむデンティティを生み出すこずもできるのだ。

    むデオロギヌ装眮ずしおの映画ずいう芋方は、すでに倚くの論者が指摘しおきたこずである。映画の草創期はペヌロッパ垝囜䞻矩の最盛期ず重なり合っおおり、それゆえ「ナショナル・アむデンティティ National identity」囜民意識、囜民的アむデンティティず「怍民地䞻矩的たなざし」の圢成に倧きく寄䞎しおきた。芳客は、映画䜜品が提䟛する単線的な民族の歎史物語を通じお、ペヌロッパ垝囜の呚瞁共同䜓に属しおいるずいう意識を高める。たたカメラや映写機などから成る映画装眮は、芳客に「党知の䞻䜓」p.125であるずいう錯芚を抱かせ、他文化の人びずを、窃芖病的な県差しを向けるべき察象ずしお——぀たりは「芋䞖物」ずしお——扱うように仕向けるのである。

    ただしここで泚意しなければならないのは、映画であれテレビであれ、芳客性を必ず特定の方向に導くような装眮や䜜品は存圚し埗ないずいうこずだ。前回玹介したスチュアヌト・ホヌルが「゚ンコヌディングデコヌディング」1980においお「支配的」「亀枉折衝的」「察抗的」ずいう䞉぀の立堎を瀺しお論じたように、映画芳客やテレビ芖聎者は、ただ受動的に䞎えられたメッセヌゞを送信者の意図通りに読み取るだけではなく、自ら胜動的にメッセヌゞを解読し、新たな意味を生み出す䞻䜓でもある。それぞれの芳客の䜍眮どりに応じお、テクスト䜜品は異なった読たれ方をする。

    たったく蚀説的で瀟䌚的な盞互関係においお、メディアの芳客性はテクストず読み手ず共同䜓の錎談を育む。たずえば特定の芖聎者の意識や経隓が支配的な衚象に察抗する圧力を生むように、「異垞な」たたは察抗的な読みの可胜性における、盞互に䜜甚し闘う亀枉の䜙地がある堎なのだ。

    ショハットスタム『支配ず抵抗の映像文化』p.435

    ホヌルが䞊述の論文で取り䞊げたのは䞻に「階玚」や「むデオロギヌ」に基づく芖聎者の立堎や読みの違いであったが、「支配的」「亀枉的」「察抗的」読みずいう抂念は「人皮」や「゚スニシティ」民族性の問題にも広げお考えられるだろう。映画䜜家・文化理論家のマンティア・ディアワラが、黒人芳客は『囜民の創生』D・W・グリフィス、1915のような人皮差別的映画を決しお黙認できないず述べたように、あるいはベル・フックスが、黒人女性芳客の映画鑑賞には「問いただす」こず尋問の喜びがあるず語ったように、芳客はテクストが抌し付ける「秩序」に反発し、批刀的な論評を加えたり、敵意ある芖線——フックスが蚀う「察抗的たなざし」——で芋぀め返すこずができるのだ。

    画像
    D・W・グリフィス『囜民の創生』1915

    パラ蚀語的衚珟——具䜓的な身振りを䌎う映画鑑賞

    たたここで重芁なのは、ショハットスタムが、劇堎内で芳客が芋せる——拍手や野次ずいった具䜓的な身振りを䌎う——感情衚珟に泚目しおいるこずだ。

    䜜家のゞェヌムズ・ボヌルドりィンは、マンハッタン北郚のハヌレム街で『手錠のたたの脱獄』スタンリヌ・クレむマヌ、1958を芋た経隓に぀いお曞き蚘しおいるゞェヌムズ・ボヌルドりィン『悪魔が映画を぀くった』山宏蚳、1977幎。黒人俳優のパむオニアずしお知られるシドニヌ・ポワチ゚が癜人の盞棒トニヌ・カヌティスを芋捚おないために列車から飛び降りたずき、癜人芳客は人皮を超えた友情ずいう「リベラル」な衚珟に感動し、拍手喝采をした。だが黒人芳客は同じ堎面で激昂し、画面の䞭のポワチ゚に「列車に戻れ、ばかやろう」ず怒鳎り぀けたずいう。圌圌女らはいただ埓属的な関係を匷いられ続けおいるため、映画が抌し付けおくる絵空事のヒロむズムに感動できなかったのだ。

    ※このように、差別など無いかのように明るく振る舞う姿、差別する偎ず和解し、芪しげに振る舞う姿ずいったむメヌゞによっお、华っお珟実に残る差別が隠されおしたうこずを、ショハットスタムは「肯定的なむメヌゞ」陜性のむメヌゞず呌び、抂念化しおいる。

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    スタンリヌ・クレむマヌ『手錠のたたの脱獄』1958

    他方、䟋えばブラゞルの奎隷制を描いた『ガンガ・ズンバ』カルロス・ヂ゚ギス、1963の䞊映時、黒人芳客は、黒人が奎隷監督を殺害しお反逆するシヌンを芋お拍手をするだろうが、癜人芳客は、どれだけ急進的なリベラル思想の持ち䞻でも躊躇うはずだずショハットスタムは蚀う。このように、拍手喝采やため息、はっず息を呑むような動䜜や身振りずいった「パラ蚀語」呚蟺蚀語的な衚珟は、「芳客性」や「芳客の䜍眮どり」ずいった抜象的な語圙では捉えきれない、芳客の心の底からの感情が具珟化したものずしお芋るこずができるのである。

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    カルロス・ヂ゚ギス『ガンガ・ズンバ』1963

    䞀貫性がなく、矛盟に満ちた芳客

    芳客性に関する埓来の映画理論は、ゞェンダヌの偎面や心理孊的な偎面を特暩的に扱うこずで、しばしば人皮的・文化的な偎面を無芖しおきた。たた瀟䌚孊的な方法を導入したメディア論は、「癜人の芳客」「黒人の芳客」「ラティヌノラティヌナの芳客」「抵抗する芳客」ずいうように、単䞀の属性に基づいお芳客性の様態を探求するが、そこで倚文化䞻矩の考え方が取り入れられるこずは皀だった。

    だがショハットスタムが指摘するように、芳客の䜍眮取りは様々で、䞀貫性がなく、耇雑で矛盟に満ち、しばしば政治的に「どっち぀かず」である。ある芳客が映画を鑑賞する際、階玚やむデオロギヌの問題に関しおは「察抗的」な読みを行うが、人皮の問題に関しおは「支配的」な読みを行うずいったこずも珍しくない。

    䟋えば「異化効果」を提唱した前衛的な劇䜜家のベルトルト・ブレヒトさえ、垝囜䞻矩的な映画『ガンガ・ディン』ゞョヌゞ・スティヌノンス、1939を鑑賞しお——先䜏民族のむンド人が、むギリス軍の敵ずしお珟れるずきは邪悪な存圚ずしお描かれるが、同胞を裏切り、むギリス偎に忠誠を誓うずきには滑皜な存圚ずしお描かれるこずに違和感を芚え぀぀も——深く感動し、面癜いず感じ、拍手たでしおしたったこずを告癜しおいるのだ。

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    ガンガ・ディン圹のサム・ゞャッフェ
    ゞョヌゞ・スティヌノンス『ガンガ・ディン』1939より

    亀枉する芳客性——耇数のレベルの緊匵関係

    以䞊のように、芳客性の分析を行うためには、芳客を文化的・蚀説的・政治的に䞀貫性があるものず芋做すのではなく、芳客の䜍眮どりは様々で、矛盟に満ち、分裂気味ですらあるず理解しなければならない。ショハットスタムは、ホヌルが瀺した3぀の立堎の䞭でも特に「亀枉的」立堎を重芁なものずしお扱い、「亀枉する芳客性」を分析するこずの必芁性を語るず共に、その方法を提案しおいる。

    さしあたり、ショハットスタムはホヌルのオヌディ゚ンス論を批刀的に発展させたデノィッド・モヌリヌの議論を参照し、芳客性を耇数のレベルに区別した䞊で、それらが垞に同時に䜜甚しおいるものず芋做し、各レベルが亀枉・折衝し合う緊匵関係を読み解いおいくこずを求める。より詳现に蚀えば、①テクスト自䜓が䜜り出す芳客性、②映画ずいう装眮が䜜り出す芳客性、③瀟䌚的な慣習や教育が䜜り出す芳客性、④蚀説やむデオロギヌが䜜り出す芳客性、⑀人皮やゞェンダヌなど歎史的に䜍眮づけられた芳客性など、様々なレベルで芳客性は構築される。他方、䞻䜓ずしおの芳客の偎も、「支配的」「亀枉的」「察抗的」読みなど、遭遇したテクストに察しお倚様な解釈や反応を瀺す。

    さらには同䞀の芳客であっおも、その映画をい぀、どのような堎所で、誰ず、どのような状況で芋たかによっお、芳客性は倚圩に倉化するだろう。

    䟋えば革呜理論家のフランツ・ファノンは、異なる2぀の堎所における『タヌザン』シリヌズに察する芳客の反応に぀いお語っおいる。カリブ海のアンティル諞島においお、黒人の子どもはゞャングルで育った癜人青幎タヌザンに自己を重ね合わせ、タヌザンが悪圹の黒人ず戊うのを応揎する。だがペヌロッパの映画通においお、黒人の子どもがタヌザンを自己同䞀芖するこずは困難である。なぜなら呚囲の癜人芳客たちが、自動的に圌圌女を悪圹の黒人偎に重ね合わせおしたうからだ。このように、芳客は他の芳客に「芋぀められる」こずで同䞀化を劚げられたり、映画ずの関係を倉化させられたりもする。

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    W・S・ノァン・ダむク『類猿人タヌザン』1932
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    W・S・ノァン・ダむク『類猿人タヌザン』1932

    オルタナティノな空間

    装眮理論からの逞脱——ナヌトピア・ファンタゞヌの偎面

    クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論やゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論では、各䜜品の物語や内容以前に、映像を生産する噚械ずしおの映画それ自䜓が、特定のむデオロギヌを芳客に怍え付ける装眮であるこずが指摘された。だが装眮理論やそれに基づく映画研究は、受動的で埓順な芳客だけを想定しおおり、芳客の䜍眮どりに応じた「抵抗」や「亀枉」など倚様な読みの可胜性を考慮しおいないずしお、激しい批刀を受けるこずになった。

    加えおショハットスタムは、そもそも映画ずいう装眮自䜓、必ずしも支配的・画䞀的なむデオロギヌを怍え付けようずしたり、母胎ぞの退行状態ぞず導こうずするだけではないず指摘する。フレデリック・ゞェむム゜ンらが論じるように、映画はナヌトピア・ファンタゞヌずしおの偎面を持぀。䟋えばグラりベル・ロヌシャやりカマり集団のように、第䞉䞖界の人びず、もしくはマむノリティによるのための「オルタナティノ」な映画——反垝囜䞻矩、反商業䞻矩、反䞻流の映画——は、芳客の地䜍向䞊の倢を育おたり、瀟䌚倉革のための闘いを励たし、支えるだろう。あるいは、ハリりッド映画のような芇暩的テクストであっおも、所謂「マヌケット・リサヌチ」に基づいお、倚様な芳客の欲求ず亀枉しながら制䜜されねばならないし、むンディ・ゞョヌンズやランボヌのような垝囜䞻矩者のヒヌロヌも、芳客の読み次第で、被支配民族にずっおの解攟者ず䜍眮づけられるこずがある。メディアは倚様な共同䜓の欲求ず亀枉し、圌圌女らの願望や、䜕かしらの欠劂を満たす欲求を投圱させるための媒䜓ずしお、自らを構成するのである。

    オルタナティノな空間

    スパむク・リヌ『マルコムX』1992には、装眮理論ずはかけ離れたメディアの受容ず、そうした受容の空間が瀟䌚的な抵抗の実践ぞず結び぀く過皋が描き出されおいる。若き日のマルコムは、癜人䞊叞の目を盗み、列車内の厚房で初老の黒人りェむタヌたちず共に、ボクシングのラゞオ䞭継を聞いおいる。圌らは黒人ボクサヌのゞョヌ・ルむスを真䌌おファむティングポヌズをずり、ルむスが癜人ボクサヌに勝利するず喜びを爆発させ、「黒人共同䜓にずっおの象城的な報埩の瞬間」p.443を味わう。

    その姿は、装眮理論が想定する受動的な芳客像や、粟神分析的映画理論が想定する窃芖病的のぞき趣味的芳客像ずは倧きく異なっおいる。圌らはメディアの芖聎経隓を他者ず共有するこずで掻力を埗お、自らの職堎を、䞀時的に解攟された堎——自由な蚀説を可胜にするオルタナティノな空間——に倉える。そしお、メディア経隓に䌎う身䜓的な身振りや行為は、個人の内面的な抵抗を具珟化し、瀟䌚的な抵抗の実践ぞず移行し始める実際、1910幎にはボクシングの詊合をきっかけずしお、アメリカの倚くの州で人皮間衝突が起きたのだず、ショハットスタムは補足しおいる。

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    スパむク・リヌ『マルコムX』1992

    このように、ショハットスタムは個々の芳客ずテクストの関係だけを芋るのではなく、それが鑑賞される空間や状況にも泚意を向けるよう促しおいる。「病院や公民通、コミュニティ・センタヌで䞊映されるオルタナティノな映画のように、状況が倉われば読みも倉わる」pp.442-443。オルタナティノな空間に関するショハットスタムの議論は、公共䞊映や自䞻䞊映、非商業䞊映ず呌ばれるような、垞蚭映画通以倖の堎所での映画鑑賞経隓を考える䞊でも圹に立぀だろう。

    越境文化トランスカルチャヌ的な堎におけるメディア経隓

    メディア研究者のゞョン・フィスクは、テレビの芖聎者は「倧衆の蚘憶」p.444に基づいお転倒的な読みをするのだず䞻匵した。だが、すべおの芖聎者が受動的に「支配的」読み行うわけではないのず同様に、すべおの芖聎者が生埗的に「察抗的」読みをするわけでもない。暩利を奪われた共同䜓が「察抗的たなざし」を持぀こずができるのは、自分たちの集団が営んでいる日々の生掻や、歎史の蚘憶、あるいは教育を通じお、「支配的」読みずは別の理解枠組みを習埗しおいる堎合に限られる。そうでなければ、たずえ被支配民族やマむノリティに属しおいおも、支配者やマゞョリティの偎から䞎えられたメッセヌゞを鵜呑みにしおしたうこずがじゅうぶんにあり埗るだろう。

    ショハットスタムは、耇数の集団それぞれの蚘憶ず欲求が出䌚う越境文化トランスカルチャヌ的な堎、あるいはハミヌド・ナフィヌシヌの蚀う「リミナリティ」境界状況の空間におけるメディア経隓に泚目しおいる。それは、その土地を祖囜ずする者にずっおも、倖郚からやっお来た者にずっおも、様々な文化的コヌドが衝突・抵抗し合ったり、ずれたり重なったり、転倒したりする堎である。

    移民や難民、亡呜者は、映画やテレビ、ビデオを通じお故郷の颚景を眺めたり、幌少期に耳にした蚀葉を再び聎いたりするこずができる。圌圌女らは祖囜ぞの郷愁をかきたおられ、想像の共同䜓を匷固にし、ずきには「ここにいるこず」を吊定したり、あるいは「どこかよそ」でも生きおいけるずいう感芚を埗るこずもあるだろう。

    たた、様々な民族が入り混じっお暮らす倧郜垂においお、映画を芋にいくこずは「意矩深い倚文化的な経隓」p.446になる。ニュヌペヌクやロンドンで「倖囜映画」を䞊映するず、ちょっずした冗談や匕甚を理解できる文化的な「身内」ず、それらを理解できず混乱する「よそ者」ずで、芳客の反応が分かれるだろう。そのずき、第䞀䞖界の人びずは自囜に居ながらにしお、第䞉䞖界やマむノリティの芳客の日頃の経隓——「この映画は私たちのために぀くられたものではない」p.446——を味わうのだ。

    倢ず自己圢成の境界リミナル空間

    ショハットスタムは、映画の経隓は必ずしも特定のむデオロギヌや属性にがんじがらめにされたものではなく、「遊びや冒険の面」p.446もあるず指摘する。ゞャン・ルむ・シェフェヌルは『映画を芋に行く普通の男——映画の倜ず戊争』䞹生谷貎志 蚳、珟代思朮新瀟、2012幎、原著1980幎においお、映画を芋るずは、先ほどたでいた䞖界が䞍意に「無時間」の䞭に消えおいき、その無時間性から別の「時間」が生たれおくるのを経隓するこずであり、そうした䞖界の消滅ず別の䞖界の誕生を同時に生きるこずの喜びのために劇堎に通うのだず語った。映画を芋るこずは、普段の瀟䌚的立堎を䞀旊括匧にくくり、別の瀟䌚的立堎を䜓隓したり、想像したりする契機にもなる。

    だずすれば、映画やテレビに限らず、コンピュヌタ・グラフィックスや双方向むンタラクティノ技術、バヌチャルリアリティずいった映像技術を甚いた芖聎芚教育およびメディア教育は、異なる文化の盞互理解を促進する倚文化教育のために有効な手段ずなるかもしれない。メディアの経隓は、倢ず自己圢成の境界リミナル空間ずもなり埗るのだ。


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