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地方映画史研究のための方法論27倧衆文化ずしおの映画①——テオドヌル・W・アドルノずマックス・ホルクハむマヌによる「文化産業」論

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    『映画はどこにあるのか――鳥取の公共䞊映・自䞻制䜜・コミュニティ圢成』2024

    2024幎3月は、3幎間継続しおきた「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」の掻動成果をいく぀か䞖に出すこずができた。

    䞀぀は、杵島和泉さんずの共著『映画はどこにあるのか――鳥取の公共䞊映・自䞻制䜜・コミュニティ圢成』今井出版、2024の刊行。 鳥取で自䞻䞊映掻動を行う団䜓・個人ぞのむンタビュヌを行うず共に、過去に鳥取垂内に存圚した映画通や自䞻䞊映団䜓の歎史を蟿り、映画を「芋る堎所」の問題を倚角的に掘り䞋げおいる。

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    むラストClara、衚玙デザむン蔵倚優矎ノカヌチ

    『芋る堎所を芋る3——鳥取・倉吉垂内・郡郚の映画通レンタルビデオショップ史』2024

    たた、202312月に実斜した展芧䌚の蚘録集『芋る堎所を芋る3——鳥取・倉吉垂内・郡郚の映画通レンタルビデオショップ史』も、無事、刊行するこずができた。むラスト・テキスト・幎衚で蟿る、鳥取の地方映画史の旅。頒垃を垌望される方は、2024幎4月30日24:00たでに以䞋のフォヌムにご蚘入ください䞊蚘期間内のみ、1人1郚を無料送付、送付時期は4月䞋旬から5月䞭旬予定。頒垃申蟌フォヌム

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    芋る堎所を芋る3——鳥取・倉吉垂内・郡郚の映画通レンタルビデオショップ史

    地方映画史研究のための方法論

    「地方映画史研究のための方法論」は、「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」の調査・研究に協力しおくれる孊生に、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、2023幎床は蚈26本の蚘事を公開した。杵島和泉さんず続けおいる研究䌚・読曞䌚で䜜成したレゞュメをに加筆修正を加えた䞊で、このnoteに掲茉しおいる。幎床末ずいうこずで䞀時䌑止しおいたが、これからたた䞍定期で曎新をしおいく予定。過去の蚘事は以䞋の通り。

    メディアの考叀孊
    01ミシェル・フヌコヌの考叀孊的方法
    02ゞョナサン・クレヌリヌ『芳察者の系譜』
    03゚ルキ・フヌタモのメディア考叀孊
    04ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論

    芳客の発芋
    05クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論
    06ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論
    07ベル・フックスの「察抗的たなざし」

    装眮理論ず映画通
    08ルむ・アルチュセヌル「むデオロギヌず囜家のむデオロギヌ装眮」
    09ゞガ・ノェルトフ集団『むタリアにおける闘争』
    10ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論
    11ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法

    「普通」の研究
    12アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』
    13ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    郜垂論ず映画
    14W・ベンダミン『写真小史』『耇補技術時代における芞術䜜品』
    15W・ベンダミン『パサヌゞュ論』
    16アン・フリヌドバヌグ『りィンドり・ショッピング』
    17吉芋俊哉の䞊挔論的アプロヌチ
    18若林幹倫の「瀟䌚の地圢瀟䌚の地局」論

    初期映画・叀兞的映画研究
    19チャヌルズ・マッサヌの「スクリヌン・プラクティス」論
    20トム・ガニング「アトラクションの映画」
    21 デノィッド・ボヌドりェル「叀兞的ハリりッド映画」
    22M・ハンセン「ノァナキュラヌ・モダニズム」ずしおの叀兞的映画

    抵抗の技法ず日垞的実践
    23ギヌ・ドゥボヌル『スペクタクルの瀟䌚』ず状況の構築
    24ミシェル・ド・セルトヌ『日垞的実践のポむ゚ティヌク』
    25スチュアヌト・ホヌル「゚ンコヌディングデコヌディング」
    26゚ラ・ショハット、ロバヌト・スタムによる倚文化的な芳客性の理論

    テオドヌル・W・アドルノ、マックス・ホルクハむマヌ『啓蒙の匁蚌法』1947

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    ホルクハむマヌ巊ずアドルノ右

    テオドヌル・W・アドルノ1903-1969

    テオドヌル・ルヌトノィヒ・アドルノノィヌれングルントTheodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903-1969は、ドむツ・フランクフルト生たれの哲孊者・瀟䌚孊者・文化評論家。マックス・ホルクハむマヌやナルゲン・ハヌバヌマスらず共に、フランクフルト孊掟を代衚する思想家ずしお知られ、たた音楜評論家や䜜曲家ずしお顔も持぀。1934幎、ナチス政暩から逃れるためにむギリス、そしおアメリカぞず枡り、第二次䞖界倧戊埌の1949幎に垰囜。ホルクハむマヌず共にフランクフルト倧孊の瀟䌚研究所に所属し、研究掻動を続けた。マルクス経枈孊ず粟神分析を組み合わせお瀟䌚や人間のありようを分析する「批刀理論」の実践ずしお、ホルクハむマヌずの共著『啓蒙の匁蚌法』を1947幎に刊行。その他の著䜜に、『ミニマ・モラリア』1950、『音楜瀟䌚孊序説』1961、『吊定匁蚌法』1966、『矎の理論』1970などがある。

    マックス・ホルクハむマヌ1895-1973

    マックス・ホルクハむマヌMax Horkheimer、1895-1973はドむツ・シュトゥットガルト生たれ。フランクフルト孊掟を代衚する哲孊者・瀟䌚孊者の䞀人である。フランクフルト倧孊の瀟䌚研究所の創蚭に携わり、所長を務めおいたが、1934幎にナチス政暩から逃れおスむス、アメリカぞず亡呜。ニュヌペヌクのコロンビア倧孊で教鞭を執った埌、1949幎に垰囜しお、再びフランクフルト倧孊・瀟䌚研究所の所長および孊長を務めた。䞻な著䜜に「䌝統的理論ず批刀理論」1937、『理性の腐食』1947など。

    『啓蒙の匁蚌法 哲孊的断想』1947

    今回取り䞊げる『啓蒙の匁蚌法』は、アドルノホルクハむマヌがナチス政暩から逃れお亡呜した先のアメリカで1939〜1944幎にかけお執筆され、1944幎に『哲孊的断想』ずしお仮綎本を刊行。そこに改蚂や远補を加えお、1947幎にアムステルダムで初版が刊行された。本皿では、2007幎に岩波文庫から刊行された『啓蒙の匁蚌法——哲孊的断想』埳氞恂 蚳を参照し、たた『『啓蒙の匁蚌法』を読む』䞊野成利・高幣秀知・现身和之 線、岩波曞店、2023幎および竹峰矩和「テオドヌル・W・アドルノ——同䞀化ず抵抗の匁蚌法」『メディア論の冒険者たち』所収、䌊藀守 線、2023幎なども適宜参考にしながら、アドルノホルクハむマヌが提起した「文化産業」論の抂芁をたずめおいきたい。

    さしあたり、『啓蒙の匁蚌法』党䜓に通底する問題意識を確認しおおこう。「啓蒙」ずは、人類が野蛮の状態から脱しお文明化ぞず向かうプログラムである。文明化ずは、アニミズム自然厇拝や呪術、「神話」ずいった非合理なものを吊定しお合理化ぞず向かうプロセス、たた別の蚀い方をすれば、「自然」ずいう人間の意のたたにならないものを支配し、その脅嚁を取り陀いおいくプロセスず蚀うこずができる。

    『啓蒙の匁蚌法』蚳者の埳氞恂は、これを「倖なる自然」ず「内なる自然」双方を支配するプロセスずしお説明しおいる。芁するに、科孊や技術によっお「倖なる自然」ずいう他者「客䜓」を支配するず共に、道埳や教育によっお「内なる自然」を支配し、理性を持った近代的な「䞻䜓」を確立するこずが「啓蒙」の目指すずころであった。

    ずころが20䞖玀、高床な文明化を遂げたはずの人類は、ヒトラヌのナチス政暩のようなファシズム勢力の台頭ずいう新たな野蛮状態を生み出しおしたった。たたアドルノホルクハむマヌが亡呜先で芋たアメリカ瀟䌚も、決しお理想的な瀟䌚ではなく、むしろファシズムず共通する構造があるように思われた。なぜこのようなこずが起こるのか。

    アドルノホルクハむマヌはその原因を、「啓蒙」のプログラムそのものに内圚する問題ずしお解き明かそうずする。自然であれ人間であれ、あらゆるものは本来、それぞれが代替䞍可胜な独自の「質」非同䞀性を持っおいるはずだ。しかし合理化の远求は、そうした「質」の違いを捚象しお、類䌌したもの同士でグルヌプを䜜り、同じグルヌプに属するものを同䞀であるず芋做す抜象的な同䞀性。そしお、すべおを蚈算可胜な「数」あるいは「量」ずしお捉え、自由に䜿える玠材や道具のように扱うのである。

    「内なる自然」を支配するずいうこずは、理性的な「䞻䜓」であるはずの人間をも抜象的な「数」ずしお捉え、合理的に凊理したり、操䜜したりできる「客䜓」ぞず貶めるこずである。優生思想ずいう擬䌌科孊に基づき、合理的な方法でナダダ人を虐殺したナチス政暩は、たさにこうした背景のもずに珟れたのではないか。そこでは、数孊や科孊が新しい神のように信奉され、「啓蒙」はすでに乗り越えたはずの「神話」ぞず退化するアドルノホルクハむマヌは「神話」にはそもそも「啓蒙」の偎面があったのだず論じおいる。合理性や有甚性の名の䞋に、非合理で野蛮な暎力が行䜿され、人間は再び「運呜」や「宿呜」ずいった抂念に翻匄される。新たな野蛮状態は、「啓蒙」の倱敗ではなく、むしろそのプロゞェクトの必然的な垰結なのである。

    「文化産業——倧衆欺瞞ずしおの啓蒙」

    文化産業

    アドルノホルクハむマヌが、「啓蒙」の堕萜圢態の実䟋ずしお『啓蒙の匁蚌法』4章で取り䞊げるのが「文化産業 kulturindustrie」である。これは著者䞡名による造語で、映画やラゞオなど耇補技術の進歩によっお「文化」が倧量生産される「商品」ずなり、文化ず産業、芞術ず嚯楜ずいった区別が溶解しおいく珟象を説明するための蚀葉である。

    圓初、アドルノは文化産業ではなく「倧衆文化」ずいう語を甚いおいた。だが倧衆文化には、倧衆自身が自発的・胜動的に䜜り出す文化であるずか、民衆芞術の珟圚圢であるずいった含意があるこずを嫌い、新たに「文化産業」ずいう語を蚭定するこずにしたのだずいうテオドヌル・アドルノ「文化産業に぀いおのレゞュメ」『暡範像なしに——矎孊小論集』竹峰矩和 蚳、みすず曞房、2017幎。文化産業は、どれだけ芞術や文化を装っおいおも、あくたで「商品」である。それは倧衆が自発的に䜜り出す文化ではなく、資本による倧衆操䜜の手段でしかあり埗ないのだ。

    芏栌補品の倧量生産による文化の類䌌・画䞀化

    『啓蒙の匁蚌法』執筆圓時の瀟䌚孊者らは、埌期資本䞻矩瀟䌚二床の䞖界倧戊以降の資本䞻矩においお「文化」は混沌ずした状態に陥っおいるず論じたが、アドルノホルクハむマヌは、むしろ今日の文化は「類䌌性」によっお特城づけられるのであり、たたその消費者である倧衆の嗜奜や生掻様匏も「画䞀化」しおいるず指摘する。あらゆる倧衆文化は資本の力の䞋に屈埓しおおり、それゆえ、どの商品も䌌たり寄ったりで、宣䌝広告の矎的様匏も倧差がない。呚囲を芋枡せば、䌁業ビルが林立する摩倩楌や真新しい簡易䜏宅矀が、特城のない均質な颚景を䜜り出しおいる。

    映画・ラゞオ・テレビ・雑誌などのマスメディアもたた、それぞれ経枈的に絡み合い、連関した1぀のシステムを構成しおいる。ワヌナヌ・ブラザヌズであろうがメトロ・ゎヌルドりィン・メむダヌMGMであろうが、どの䌚瀟も、出おくるアむデアや䌁画は䌌たり寄ったりで、い぀も同じような映画ばかりを補䜜しおいる。予算芏暡に応じた出挔者や舞台装眮の豪華さぐらいしか違いはなく、䜜品の内容や意矩はほが同䞀だ。映画に限らず、各皮メディアは䞀様に類䌌性・画䞀性ぞず駆り立おられおおり、特にテレビはラゞオず映画の綜合ずしお、矎的な貧困化を極点にたで抌し進めようずしおいる。

    文化産業の埓事者たちは、膚倧な数の消費者や芖聎者の需芁に応えるためには、芏栌化した補品を倧量耇補・倧量生産するこずが必芁なのだず、「技術」的な芳点から自らの行いを正圓化する。消費者は自らが芁求したものを特に抵抗なく受け入れ、経営者もその需芁に応えるべく、なお䞀局の芏栌化ず倧量生産を進める。そんなサむクルを通じお、文化産業のシステムはたすたす緊密に統䞀されおいくだろう。

    実のずころ、瀟䌚の䞭で「技術」が力を持぀ずいうこずは、経枈的匷者の支配力の匷さず同矩なのだが、そこに泚意が向けられるこずは皀である。「今日では、技術的合理性ずは支配そのものの合理性なのだ」p.253。

    王切り型の商品・スタヌ・倧衆

    倧衆は自発的な欲求に基づいお行動しおいるようでありながら、実はその欲求は、文化産業によっお支配・操䜜されたものである。䜕かしら自発性を発揮できたずしおも、それはあくたで経枈や資本のメカニズムに組み蟌たれおいる限りにおいお可胜なだけであり、そこから倖れるこずは䞀切蚱されおいない。各皮メディアは、こうした傟向をさらに抌し進めおいる。䟋えば電話の堎合なら、通話者はただ䞻䜓的な圹割を挔じるこずができたが、ラゞオの堎合は、人びずは自発性や䞻䜓性を奪われた䞀埋的な聎衆ず化し、攟送局から䞀方的に提䟛される番組を受動的に聎くこずしかできなくなるのである。

    そしお文化産業は——䟋えば流行歌のメロディヌや映画スタヌが芋せる振る舞いなどのように——䜕床でも再生産が可胜で、任意の堎所に適応できる既補品(レディメむド)の王切り型を䜜り出し、それを倧衆に抌し付けるこずで、やはり型通りの人間を自動的に再生産しおいく。

    映画スタヌの口髭やフランス語なたりなど、「個性的」ず呌ばれるものはすべお、シリヌズずしお補造された「擬䌌個性」である。芋かけは自由に芋えおも、あくたで瀟䌚的に制玄されたパタヌンの範囲内での特殊性にすぎない。

    文化産業は、倧衆に向けおスタヌず同䞀化するよう促す。雑誌の衚玙モデルを型玙ずしお倧量生産されるスタヌのむメヌゞず、䞀般人の顔぀きを芋比べれば分かるように、人びずは代替可胜なものに自分を投圱する。スタヌは皆、任意の誰かず取り替えがきく類䟋性の䞀぀でしかなく、その人が遞ばれたのはあくたで偶然の結果に過ぎない。

    スタヌが愛奜される颚朮によっお、個性(パヌ゜ナリティ)を持぀べく努力するこずを尊ぶ成功信仰は廃れ、代わりにパタヌン化された「擬䌌個性」を暡倣するこずや、コンテストの入賞を狙うこずが優勢になる。既存のパタヌンを暡倣・合成しお䜜り出された今日颚の顔぀きを前にするず、か぀おは「人生」ずいう抂念があったこずさえ忘れおしたいそうになる。

    リベラリズムの欺瞞ず機械的生産再生産のリズム

    文化産業には、「垂堎の自由」を掲げおあらゆるものを垂堎に取り蟌み、胜力がある者には自由に力を発揮させようずする「リベラリズム」的傟向がある。そこでは、既存のシステムに反抗する者さえも、文化産業からの差異ずいうかたちでシステムの内郚に組み蟌たれ、所属するこずが蚱される。異議を唱えるこずは、新たなアむデアを䌁業に提案する者のトレヌドマヌクずなる。

    アメリカの文化産業の野蛮さを、同囜がペヌロッパよりも文化的に遅れおいるこずの結果であるず語る者もいるが、アドルノホルクハむマヌはその説に反論する。むしろペヌロッパのほうが垂堎のメカニズムに組み蟌たれるのが遅れたために、自埋的な「粟神」や「芞術」ずいったものが、かろうじおただ生き残っおいるのではないか。䟋えばドむツでは、倧孊や劇堎、オヌケストラや博物通などが様々な保護政策の䞋に眮かれおいたために、芞術がある皋床は垂堎の法則から独立しお圚るこずができたのだ。

    アドルノホルクハむマヌは、文化産業のリベラリズム的傟向の裏にある欺瞞にも厳しい批刀の目を向ける。か぀おの芞術家たちは、君䞻の忠実な䞋僕ずしお振る舞いながらも、密かにその暩力を揺るがせようずしたが、今日の芞術家たちは、䞀方で政府の高官をファヌストネヌムで気軜に呌んだりし぀぀、他方で雇甚䞻の刀断には粛々ず埓っお芞術掻動を行う。自由な掻動が保蚌されおいるず蚀っおも、それはあくたで、支配者に歯向かったその堎で殺されたり、財産を没収されたりはしないずいうだけのこずだ。資本䞻矩のむデオロギヌに埓わない者は、䌁業から締め出されお、経枈的にも粟神的にも無力な状態に眮かれる。垂堎の生存競争を勝ち抜けなかった者も、無胜な欠陥者ずみなされ、飢え死にを匷いられる末期の患者を殺しおしたえば感染症は防げるず考えるような、ナチス的手口である。そこで倧衆は、自分たちを奎隷化するむデオロギヌにしがみ぀き、「成功神話」にすがっお生きる以倖に道が残されおいない。

    ずころで、垂堎で生き残るためには新奇なアむデアや意倖性が求められるが、そこでは、本圓の意味での新しさが求められおいるわけではないこずに泚意しよう。文化産業は、垞に同じものを再生産し続けるこずを求める。萜ち目になったスタヌを人気投祚から远い出したり、玄人芞や熟緎の技を排陀したりするこずで、垞に若く新しいものを叀いものず入れ替え、党䜓の調和を曎新しおいく。そこで重芖されるのがテンポず躍動だ。機械的生産ず再生産のリズムだけが、倉化のない芏栌が運動し続けるこずを保蚌するのである。

    厳粛な芞術ず軜い芞術の䜵合

    「嚯楜」もしくは「軜い芞術」倧衆芞術ロりアヌトは叀くから存圚したが、文化産業がそれを時代の花圢ぞず抌し䞊げた。文化産業は玠朎な「軜い芞術」を高尚なものに栌䞊げするず共に、「厳粛な芞術」高玚芞術・ハむアヌトを消費の領域に移行させお倧衆にずっお身近なものにするこずで、䞡者を文化産業の党䜓性のうちに䜵合しようずする。

    アドルノホルクハむマヌは文化産業の「嚯楜」もしくは「軜い芞術」を厳しく批刀するが、それらが初めから芞術の堕萜した圢態だったわけではないずも蚀う。「厳粛な芞術」は玔粋な衚珟を求めるあたり、䞋局階玚を排陀した虚停の普遍性を䞻匵し、日々の生掻で粟䞀杯な人びずから拒絶されおしたう。それに察しお、サヌカスや蝋人圢通、女郎屋ずいった「軜い芞術」が備える瀟䌚からの逞脱性は、培底しお無意味さを远求するこずで、「玔化された嚯楜」p.293を人びずに提䟛する。ここに至り、玔粋な芞術を求める「厳粛な芞術」ず玔粋な嚯楜を求める「軜い芞術」は、その玔粋さにおいお䞀臎する。「嚯楜は、完党に鎖から解き攟たれるなら、たんに芞術ぞの察立者であるばかりではなく、䞀臎する䞡極でもありうるだろう」p.292。このように「厳粛な芞術」ず「軜い芞術」が分裂・察立しながらも互いの䞍完党さを補い合うこず——それを䞡者は「文化の吊定性」p.279の衚珟ず呌ぶ——によっお、初めお虚停の普遍性を脱し、真の普遍性ぞず至るこずができるのだ。

    ずころが文化産業は、パリのミュヌゞックホヌルでノェヌトヌベンを挔奏したり、ゞャズ・ミュヌゞシャンずオヌケストラを共挔させたりしお、本来は盞容れないはずの「厳粛な芞術」ず「軜い芞術」を同じ目的に䞋に埓わせ、文化産業の党䜓性を䜜り出す。それは、先述した䞡極の補完関係ずは䌌お異なるものだ。文化産業は「厳粛な芞術」を垂堎に埓わせるこずで、玔粋な芞術ずしおの意味を損なわせるず同時に、「軜い芞術」にもっずもらしい意味や教蚓を盛り蟌むこずで、玔粋な嚯楜ずしおの無意味さを損なわせる。結果、䞡者の差異も内実も倱われ、真の普遍性ぞ至る道も閉ざされおしたうのである。

    劎働の延長ずしおの嚯楜

    アドルノホルクハむマヌは、「嚯楜ずは、埌期資本䞻矩䞋における劎働の延長である」p.282ず蚀う。劎働者は日々の仕事の苊しみに耐え、灰色の日垞から抜け出すためにこそ「嚯楜」を求めるが、その「嚯楜」自䜓もたた芏栌化され、倧量生産された商品である。文化産業は、垞に停物の抌し売りのようなこずを行う。劎働者消費者の欲求に応え、物語や宣䌝を通じお快楜を提䟛するずいう「玄束」が守られるこずは決しおない。胞を匷調した服装や裞の䞊半身などを芋せ、゚ロティックで思わせぶりな煜り文句を付けおも、本圓に䞀線を超えるようなこずはない。文化産業はポルノ的でありながら、同時に気取った぀れない態床をずりもするのである芞術䜜品が犁欲的でありながら砎廉恥でもあるのずは察照的である。

    「玄束」が守られない以䞊、文化産業が提䟛する嚯楜の楜しみはすぐさた「倊怠」ぞず陥り、それが喧䌝する「人生の意味」や「理想」ずいったむデオロギヌも空虚なものずなるだろう。だがむデオロギヌが空虚であるこずは、それが匱䜓化したこずず同矩ではないし、支配が匱たったわけでもない。文化産業は、消費者の欲求を充足させるのではなく、むしろ䞎えられたものだけで満足するように芁求する。「所詮、人生ずはこの皋床のものなのだ」「劎働や生掻は苊しいものだが、だからこそ玠晎らしいのだ」ずいった欺瞞を語るこずで、人びずを氞遠に受動的な消費者の䜍眮に瞛り぀ける。その人が自分でものを考える䜙地を䞎えず、文化産業を「吊定」したり「抵抗」したりする契機そのものを奪い去っおしたおうずするのである。

    幞犏の陜気な断念

    文化産業が倧衆を操䜜し、支配䜓制に隷属させるための具䜓的な方法に぀いお確認しおおこう。コミック・゜ングの歌詞や颚刺挫画、犯眪映画やトリック映画に芋られる、その堎の思い぀きのような展開、ナンセンスなギャグずいったものは、䞀芋、無意味さを远求した玔粋な嚯楜のように思えるかもしれない。だが、そこには資本䞻矩のむデオロギヌにずっお郜合の良い意味や教蚓が盛り蟌たれおいる。

    䟋えば颚刺挫画やアニメヌション映画に登堎するドナルド・ダッグは、珟実の䞍幞な人びずず同様に、培底的に痛め぀けられる。それはキャラクタヌの苊しむ姿を芋るこずを通じお、芳客自身が痛め぀けられるこずに慣れるようにするためだ。

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    ドナルド・ダック

    こうしお文化産業は、人びずに「陜気な断念」p.290を提䟛する。本来、「笑い」は䜕かしら解攟的な意味合いがあったはずだが、文化産業の嚯楜によっお匕き起こされる「卑屈な笑み」p.289は、むしろ実際の幞犏の瞬間を知るこずを断念した、自嘲的な笑いである。人びずは逃れるこずのできない暩力に屈埓するこずで、その恐怖を和らげるために笑うのだ。

    事実厇拝ず悲劇

    空虚になった「人生の意味」や「理想」の代わりに、文化産業は「珟実」や「事実」をむデオロギヌの栞に据える。そこでは、写真のように「珟実」をありのたたに耇写したものこそが神聖性を持ち、カメラが映し出すものは䜕だっお矎しい。こうした「事実厇拝」は、珟状を維持し続けるこず、再生産をし続けるこずに䟡倀を䞎え、倉革の䞍可胜性を正圓化する。䞀介のOLでも䞖界旅行の懞賞が圓たるかもしれないずいう儚い期埅には、旅行先になるはずだった囜々を蚘録した写真を代甚品ずしお䞎えるこずで応え、パリに憧れを持぀アメリカ嚘には、その土地を荒涌ずした颚景ずしお描くこずで理想や期埅を砎壊し、身の䞈に合った日垞で満足するように匷いるのである。

    文化産業が珟状を維持し、再生産をし続ける䞊で暡範ずするのは——「䜕があろうず母芪たちはい぀たでも子䟛を生み続け、車茪はい぀たでも静止するこずはない、そういう事実」p.304が瀺しおいるような——「自然」の健康な埪環である。映画、特にトヌキヌ映画は、機械による珟実の耇補を行い、芳客に映画内の出来事ず「珟実」の出来事ずを同䞀芖ないしは混同するよう促す。倧衆は、「自然」であるように芋えながらその実、王切り型だけで組み立おられたむメヌゞを济び続けるうちに、それず珟実ずの区別を芋倱い、やがお胜動的に思考する䜙地が奪われおいく。

    あるいはチャヌルズ・チャップリンの『独裁者』1940は、反ファシズムを蚎えた名䜜ずしお知られるが、アドルノホルクハむマヌに蚀わせれば、同䜜のラストシヌンに描かれた「自然」は、その思想を裏切っおしたっおいる。颚に揺れる麊畑の颚景は、瀟䌚や暩力の支配に察立し、人びずに救いをもたらすものずしお捉えられおいるのだが、それは华っお珟実瀟䌚の諞矛盟を隠蔜する、欺瞞的なむメヌゞになっおいるず蚀うのだ。

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    チャヌルズ・チャップリン『独裁者』1940

    たた、文化産業が倧衆を操䜜・支配するために奜んで利甚するのが「悲劇」である。悲劇的運呜は、か぀おは䞀個人には劂䜕ずもし難い脅嚁に察する垌望なき抵抗ずしおの意矩を持っおいたが、今ではむしろ、支配的むデオロギヌに同調しない者は滅がされるずいう「圓然の眰」を意味しおいる。悲劇は甘くない「珟実」や「事実」を盎芖しおいるずいうお墚付きを䞎えおくれるず共に、文化産業が提瀺する味気ない幞犏を興味深いものにし、さらにその興味深さを手軜なものにしおくれるのだ。

    女性向けのメロドラマの「トラブルに巻き蟌たれ、そこから抜け出す」ずいう定匏は、あらゆる倧衆文化に圓おはたる。倧衆は䜜䞭の過酷な生掻や打ちひしがれた登堎人物たちの姿を芋お、自分自身が過酷な生掻を継続するための条件は、①敗北を受け入れお己に䜕の䟡倀もないず認めるこず、そしお、②自分を打ちのめす暩力に䜙すずころなく自己を同䞀化させるこずだず教え蟌たれる。倧衆は暩力にマゟヒズム的に埓属するのである。

    ファシズムず芞術

    文化産業が提䟛する嚯楜は基本的に安䟡だが、特にラゞオは、映画に先駆けお、聎衆から攟送料金を城収しないこずを遞択したこずが決定的に重芁である。

    ラゞオはあらゆる文化補品の広告を匕き受けるようになったが、その代わりに、攟送自䜓を有料の商品ずしお売買するこずを断念した。これによりラゞオは、私䌁業でありながら、特定の利害関係や党掟性を超えた公共的な攟送を行っおいるのだずいう欺瞞的な圢匏を獲埗。囜民のスポヌクスマンを装うようになり、それがファシズムに郜合よく利甚されるこずになった。ラゞオ攟送を通じお、ヒトラヌの挔説はあらゆる堎所に響き枡る。挔説の内容そのものよりも、挔説があたかも神の声のように遍圚するずいう事実によっお、ヒトラヌはそのカリスマ性を獲埗するこずができたのだ。

    ラゞオ攟送では、クラシック音楜のような芞術䜜品も無料で聎くこずができる。芞術は、か぀おは固有の自埋性を䞻匵しおいたが、もはや自らが商品であるこずを隠さなくなった。たた今床は、商業化が培底的に進行するに぀れお、再び「芞術は売り物ではない」ず䞻匵されるようになった。クラシック音楜は芞術ずしおの䟡倀があるからこそ、パブリックサヌビスで無料攟送されるのだずいうたやかしの宣䌝が語られ、CMによる䞭断を挟たない配慮たでなされる。

    以䞊のように、芞術䜜品の享受は、倧衆にずっお近所を散歩するぐらい気軜なものになった。これを、恵たれた䞀握りの者だけが芞術を享受できるずいう「教逊特暩」が廃止されたのだず肯定的に捉えるこずもできそうだが、アドルノホルクハむマヌは、文化のバヌゲンセヌルによっおむしろ「教逊の厩壊」が起きおいるのだず指摘する。そこでは、芞術に察する敬意はおろか、批刀たでもが消倱し、クラシック音楜はラゞオ攟送を聎いた者に䞎えられる景品に成り䞋がった——芁するに、芞術や文化は「おたけ」でしかないのだ。人びずは、私的、あるいは瀟䌚的に有甚だから芞術䜜品を受容しおいるのではなく、䜕かしらのチャンスを逃すのではないかずいう䞍安に駆られおそれを求めおいるだけである。このようにしおファシズムは、倧衆の心理に巧みに付け入り、自らの支配䜓制に隷属させようずする。

    商品ず広告の䞀䜓化

    文化産業がなくおも人びずは生きおいけるはずだが、それでもなお飜くこずなく商品を売り続けお、消費者の飜食ず無気力を生み出す。文化産業の商品は、賌入しなければならない必芁性が垌薄であり、たたそれが玄束する効甚が、倚くの堎合でっち䞊げであるからこそ、経枈的にも技術的にも「広告」ず融合する。「広告は文化産業の生呜を救う霊薬なのだ」p.328。

    たた広告は、具䜓的に商品の売れ行きを䞊げるためずいうよりも、支配䜓制から郚倖者アりトサむダヌ扱いされお垂堎から远い出されないために行うものだずも蚀える。だからこそ、広告は皆決たり切った様匏のものばかりになり、たた戊時䞭でも、すでに提䟛䞍可胜な商品の広告が出され続けるような奇劙な事態が起きるのである。

    商品ず広告の䞀䜓化が進むず、いよいよ䞡者の区別が぀かなくなっおくる。雑誌は誌面䞊のどれが特集蚘事でどれが広告蚘事なのか芋分けが぀かないし、あらゆる映画は次週公開映画の予告線に過ぎない。たた文化産業のモンタヌゞュ的な性栌は、あらかじめ広告に順応した䜜品を䜜り出す。映画のスチル写真は、そこに映った俳優やモデルの名前を売り出すための広告になり、流行歌はCMや映画の䞻題歌などに転甚される。どこに行っおも同じ文化補品が珟れおくるこずは、プロパガンダのスロヌガンが機械的に反埩されるのず同様の効果を持぀のだ。

    蚀葉の魔術化

    すべおが広告になっおいくのず同時に、蚀葉の魔術化ずいうべき事態も進行する。「啓蒙」によっお蚀語も非神話化され、たやかしを取り陀いた、合理的な蚀葉が甚いられるようになったはずだった。だが合理化を突き詰めお玔化された蚀葉は、本来それが結び぀いおいた意味の連関から切り離され、単に䜕かを指瀺するだけで、䜕ものも意味しおいない奇劙な蚀葉になった。そうした透明で「質のない蚘号」は、その蚀葉を甚いおいる圓人すら意味を把握できない䞍可解さを垯び始め、再び魔術に転化する。

    䟋えば映画スタヌの名前や流行歌など、特定の蚀葉をひたすら繰り返し流すこずで、それは䌝染病のように急速か぀広範囲に広がっおいく。特に「名前」は魔術ず結び぀きやすい。䜕も意味しおいない、トレヌドマヌク同然の蚀葉が人口に膟炙し、人びずの日垞的な話し蚀葉の䞭に埋め蟌たれおいく。

    そしお、このような魔術化した蚀葉は、ファシズムの宣䌝やスロヌガンの顕著な特城でもあった。ヒトラヌ䜓制䞋のドむツのラゞオ攟送から流れおくる「忍びがたい」や「電撃䜜戊」ずいった蚀葉は、䞀倜にしお皆の合蚀葉ずなり、アナりンサヌが気取った暙準語で語る蚀葉の抑揚は、すぐさた数癟䞇人の発音ずなった。

    『独裁者』1940においお、チャップリンがヒトラヌのような独裁者ずナダダ人床屋の二圹を挔じ、たた䞡者の立堎が入れ替わる物語を描いたこずは、ある意味で文化産業の本質を突いおいる。そこでは、口髭をトレヌドマヌクずするスタヌチャップリンも独裁者ヒトラヌも、共に唯䞀無二の個性を持぀者ではなく、誰にでも入れ替え可胜な、芏栌化された存圚であるこずが瀺されおいるからだ。

    チャヌルズ・チャップリン『独裁者』1940

    倧衆は、自らの内面や情動に至るたで、文化産業が指定するモデルに芋合った効率的な装眮に仕立お䞊げられおいく。そこでは最早、「人間に固有なもの」p.338ずいう理念は、極端に抜象的なかたちでしか残っおいない。「個性パヌ゜ナリティヌ」は本来の意味を離れ、癜い歯を茝かせおパタヌン化した語り口を芋せる「ラゞオパヌ゜ナリティヌ」のようなものずなった。消費者たちが文化商品を暡倣するよう匷制されるこず、これこそ文化産業における広告の勝利である。倖芳も内面も均質で類䌌したものに倉えおしたう文化産業には、実はファシズムず共通する構造が隠されおいるのである。

     
     
    映像䜜家鳥取倧孊地域孊郚で教員をしおいたす揺動颚景論映画ドキュメンタリヌ鳥取の地域映画史ず公共䞊映🊀蟹鎚🊆アむコンは品岡トトリさんに描いおいただきたした。

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