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地方映画史研究のための方法論35パラテクスト分析③ゞョナサン・グレむによるオフ・スクリヌン・スタディヌズ

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    展芧䌚「芋る堎所を芋る3+——芪子で楜しむ映画の歎史」

    2024幎8月22日朚から31日土たで、展芧䌚「芋る堎所を芋る3+——芪子で楜しむ映画の歎史」を鳥取垂立䞭倮図曞通で開催する。か぀おの鳥取では、教育目的の映画が「い぀でも・どこでも・誰でも」映画が芋られるずいう鑑賞機䌚確保に倧きな圹割を果たしおいた。その時代の颚景を想像できるような展芧䌚にできればず思う。

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    展芧䌚「芋る堎所を芋る3+——芪子で楜しむ映画の歎史」

    たた8月24日土には、関連䌁画ずしお䞊映䌚「16mmフィルム映画で芋る「動く絵本」」を開催。鳥取垂芖聎芚ラむブラリヌに収蔵されおいるアニメ映画『おばけうんどうかい』ず『もぐらシリヌズ トッピィず森の仲間たち』の䞊映を行う。同じ䜜品でも、DVDや動画配信で芋るのずはたた異なる独自の質感を持぀フィルム䞊映を、若い䞖代にも䜓隓しおもらえたら。

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    䞊映䌚「16mmフィルム映画で芋る「動く絵本」」

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、米子垂立図曞通での巡回展「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」、「芋る堎所を芋る3——アヌティストによる鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」を開催した。

    2024幎3月には、杵島和泉さんずの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共䞊映・自䞻制䜜・コミュニティ圢成』今井出版、2024幎を刊行した。同曞では、 鳥取で自䞻䞊映掻動を行う団䜓・個人ぞのむンタビュヌを行うず共に、過去に鳥取垂内に存圚した映画通や自䞻䞊映団䜓の歎史を蟿り、映画を「芋る堎所」の問題を倚角的に掘り䞋げおいる。今井出版りェブストアamazon.co.jp

    地方映画史研究のための方法論

    「地方映画史研究のための方法論」は、「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」の調査・研究に協力しおくれる孊生に、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、杵島和泉さんず共同で行っおいる研究䌚・読曞䌚で䜜成したレゞュメを加筆修正し、このnoteに掲茉しおいる。過去の蚘事は以䞋の通り。

    メディアの考叀孊
    01ミシェル・フヌコヌの考叀孊的方法
    02ゞョナサン・クレヌリヌ『芳察者の系譜』
    03゚ルキ・フヌタモのメディア考叀孊
    04ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論

    芳客の発芋
    05クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論
    06ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論
    07ベル・フックスの「察抗的たなざし」

    装眮理論ず映画通
    08ルむ・アルチュセヌル「むデオロギヌず囜家のむデオロギヌ装眮」
    09ゞガ・ノェルトフ集団『むタリアにおける闘争』
    10ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論
    11ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法

    「普通」の研究
    12アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』
    13ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    郜垂論ず映画
    14W・ベンダミン『写真小史』『耇補技術時代における芞術䜜品』
    15W・ベンダミン『パサヌゞュ論』
    16アン・フリヌドバヌグ『りィンドり・ショッピング』
    17吉芋俊哉の䞊挔論的アプロヌチ
    18若林幹倫の「瀟䌚の地圢瀟䌚の地局」論

    初期映画・叀兞的映画研究
    19チャヌルズ・マッサヌの「スクリヌン・プラクティス」論
    20トム・ガニング「アトラクションの映画」
    21 デノィッド・ボヌドりェル「叀兞的ハリりッド映画」
    22M・ハンセン「ノァナキュラヌ・モダニズム」ずしおの叀兞的映画

    抵抗の技法ず日垞的実践
    23ギヌ・ドゥボヌル『スペクタクルの瀟䌚』ず状況の構築
    24ミシェル・ド・セルトヌ『日垞的実践のポむ゚ティヌク』
    25スチュアヌト・ホヌル「゚ンコヌディングデコヌディング」
    26゚ラ・ショハット、ロバヌト・スタムによる倚文化的な芳客性の理論

    倧衆文化ずしおの映画
    27T・W・アドルノずM・ホルクハむマヌによる「文化産業」論
    28ゞヌクフリヌト・クラカりアヌ『カリガリからヒトラヌぞ』
    29F・ゞェむム゜ン「倧衆文化における物象化ずナヌトピア」
    30暩田保之助『民衆嚯楜問題』
    31鶎芋俊茔による限界芞術倧衆芞術ずしおの映画論
    32䜐藀忠男の任䟠映画・剣戟映画論

    パラテクスト分析
    33ロラン・バルト「䜜品からテクストぞ」
    34ゞェラヌル・ゞュネット『スむナ——テクストから曞物ぞ』
    35ゞョナサン・グレむのオフ・スクリヌン・スタディヌズ

    ゞョナサン・グレむずオフ・スクリヌン・スタディヌズ

    ゞョナサン・グレむ

    ゞョナサン・グレむJonathan Grayは、カナダ・トロント生たれのメディア研究者・文化研究者。「オフ・スクリヌン・スタディヌズOff-Screen Studies」を掲げ、嚯楜メディアず芖聎者が盞互に䜜甚し合う䞭で、いかにしお意味や䟡倀が生み出されおいるのかを明らかにするこずを目的ずした研究掻動を行っおいる。

    グレむはトロントからむギリスサリヌ州、オヌストラリアパヌス、シンガポヌル、銙枯、そしお再びカナダぞず、各囜を転々ずしながら育ったずいう。1996幎にバンクヌバヌのブリティッシュコロンビア倧孊を卒業し、1997幎にリヌズ倧孊で修士号を取埗。その埌、2000幎にロンドン倧孊ゎヌルドスミス・カレッゞで2぀目の修士号を埗お、2003幎には同倧孊で博士号を取埗した。2003幎からカリフォルニア倧孊バヌクレヌ校、2005幎からニュヌペヌク垂のフォヌドハム倧孊に勀め、2009幎にりィスコンシン倧孊マディ゜ン校コミュニケヌション芞術孊科に赎任。珟圚は同倧孊の教授を務めおいる。

    䞻な著䜜に、『シンプ゜ンズず共に芋る——テレビ、パロディ、間テクスト性 Watching with The Simpsons: Television, Parody, and Intertextuality』ニュヌペヌク・ラりトレッゞ、2006幎、未邊蚳、『別売されるショヌ——プロモヌション、スポむラヌ、その他のメディアのパラテクスト Show Sold Separately: Promos, Spoilers, and Other Media Paratexts』ニュヌペヌク倧孊出版局、2010幎、未邊蚳、『反感を抱く心——メディア、芳客、そしお味のダむナミクス Dislike-Minded: Media, Audiences, and the Dynamics of Taste』ニュヌペヌク倧孊出版局、2021幎、未邊蚳など。

    オフ・スクリヌン・スタディヌズ

    ゞョナサン・グレむは『別売されるショヌ——プロモヌション、スポむラヌ、その他のメディアのパラテクスト Show Sold Separately: Promos, Spoilers, and Other Media Paratexts』ニュヌペヌク倧孊出版局、2010幎、未邊蚳においお、前回取り䞊げたゞェラヌル・ゞュネットの「パラテクスト」抂念を、映画やテレビ番組などのメディア研究に適甚するこずを詊みおいる。本皿では、地方映画史研究におけるノンフィルム資料の分析を行うための理論や方法論を埗るこずを目的ずしお、『別売されるショヌ』の䞻に序章ず1章郚分的に2章の内容を芁玄しおみたい。

    映画であれテレビ番組であれ、もっずも䞀般的な分析の方法は、スクリヌンに映し出されるものの粟緻な読解だろう。だが、そのテクストの瀟䌚的な意味や掻甚のされ方、芖聎者がテクストに出䌚い、受容するたでのプロセスを怜蚎するためには、画面の粟緻な読解だけでなく、そのテクストに付随するパラテクストを分析するこずが䞍可欠である。パラテクストは、倧なり小なりテクストの意味を倉える可胜性を持぀ずグレむは蚀う。䟋えば映画の予告線は、本線を鑑賞する前にゞャンルやテヌマなどに関する情報を䌝え、テクストの読解や解釈の枠組みを構築する働きをするだろうし、ネット䞊のディスカッションサむトは、そうした枠組みを匷化したり、倉化を加えたりもするだろう。たたビデオゲヌムやコミックはテクストの物語䞖界を拡匵し、より没入感の高い環境を䜜り䞊げおいく。パラテクストは、私たちがテクストに到達するたでの道のりで通過しなければならないフィルタヌであり、たた、テクストの受容ず同時もしくは途䞭からテクストの性質を倉えたり、ある偎面を増幅させたり、新たな䜕かを付け加えたりもする。

    このように、予告線やDVDの映像特兞、りェブサむトやレビュヌ、ファンが䜜る䜜品など、映画やテレビ番組を取り巻くパラテクストが、芖聎者にどのように働きかけ、どのような反応を匕き起こしおいるかを分析するこずで、それらが映画やテレビの䜍眮付けや定矩付け、意味の生産にどのように関䞎しおいるのかを明らかにするこずがグレむの研究目的であり、圌はその取り組みを——映画研究ずテレビ研究を包括する孊問領域である「スクリヌン・スタディヌズ」ず察応させるかたちで——「オフ・スクリヌン・スタディヌズ Off-Screen Studies」ず呌んでいる。

    日本では、瀟䌚孊者・メディア研究者の近藀和郜がいち早くグレむを参照し、戊前期の「映画通プログラム」の分析を行っおいる『映画通ず芳客のメディア論——戊前期日本の「映画を読む曞く」ずいう経隓』青匓瀟、2020幎。ノンフィルム資料の分析を進める䞊で、オフ・スクリヌン・スタディヌズは重芁か぀貎重な理論的枠組みを提䟛しおくれるだろう。

    パラテクストに関連する甚語ず理論

    広告ずプロモヌション

    『別売されるショヌ』の序章ず第1章では、映画やテレビ番組などのメディア研究におけるパラテクスト分析に関連する甚語ず理論の抂説がなされおいる。

    初めにグレむは、パラテクストが「広告」や「プロモヌション」ず倚くの面で重なり合っおおり、たた䞡者は、非垞によく䌌た方法で機胜しおいるず指摘する。「広告 advertisement/advertising」の目的は商品を売り蟌むこずだが、単なる販売行為に限らず、認知床の向䞊やむメヌゞの向䞊ずいった目的も䜵せ持っおおり、特にその面を匷調したい堎合には「プロモヌション promotion」ずいう語が甚いられるこずも倚い。珟代の広告は、商品の機胜を列挙したり、その本質や由来を説明したりするこずには消極的である。代わりに倚くの広告は、ブランドを確立し、付加䟡倀を玄束するこずで商品を売り蟌もうずする。䟋えばスナックフヌドの広告は、空腹な十代の息子に母芪がスナックフヌドを䞎え、家族の幞犏な時間が生たれる物語を描くこずで、「スナックフヌド」ず「家族の幞犏」を結び぀け、商品の説明を超えた意味や付加䟡倀を䞎えおいる。

    別の蚀い方をするならば、広告は商品をテクスト化し、ポピュラヌカルチャヌの䞀郚ず芋做されるこずを目指しおいる。スタヌやアむドルの起甚、むベントやテレビ番組などずのタむアップを通じお、それらを商品のブランドアむデンティティず結び぀けるこずの有効性は叀くから認識されおきた。䟋えばデュ・モヌリ゚の煙草は、長幎モントリオヌル・ゞャズ・フェスティバルのスポンサヌ商品ずなり、フェスティバルのむメヌゞを借甚しおきた。広告䞻は商品やブランド自䜓がある堎ではなく、広告やプロモヌションの堎で商品やブランドの意味を創造しようずする。

    ハむプ誇倧広告ずシナゞヌ

    通垞の広告を超えた、過剰で匷烈な広告やプロモヌションは「ハむプ Hype」誇倧広告ず呌ばれる。この蚀葉は膚匵や増殖、加速ずいったむメヌゞを喚起する。倧芏暡な広告ずプロモヌションを展開しお宣䌝察象を急速か぀熱狂的に売り蟌むこずで、䞀時的にその存圚感を高め、やがおスロヌダりンしおいくのである。そこには、宣䌝察象に察する過倧評䟡や䞍正・異垞な方法ずいったむメヌゞもたずわり぀いおいるが、グレむは、ハむプはありふれたものであり、通垞の商業掻動の䞀皮であるず䞻匵しおいる。

    ハリりッド映画やテレビ番組は、こうしたハむプによっお広く宣䌝されるず共に、シナゞヌのネットワヌクに組み蟌たれ、さらに存圚感を増しおいく。「シナゞヌ Synergy」ずは、耇数の組織や補品、テクスト、その他の芁因の盞互䜜甚や協力関係によっお、個々の独立した効果の合蚈を䞊回る効果を生み出すこずを意味する。゚ンタメ業界においおは、シナゞヌずは、玩具やDVD、ビデオゲヌムなど様々なメディアの補品を他のプラットフォヌムずリンクさせ、それぞれの補品がお互いに広告し合い、豊かなメディア経隓を䜜り䞊げる戊略を指す蚀葉である。

    パラテクスト

    ゞェラヌル・ゞェネットは1987幎に刊行した著䜜『スむナ——テクストから曞物ぞ』和泉涌䞀 蚳、氎声瀟、2001幎においお、テクストに付随しお珟れ、そのテクストの受容するための入口ずしお機胜したり、その意味や解釈を方向づける働きをするものを「パラテクストParatext」ず名付けた。メディアの䞖界においお、パラテクストはポスタヌやビデオゲヌム、ポッドキャスト、レビュヌ、映画やテレビ番組の関連商品ずいった具䜓的なかたちを持っお珟れるこずが倚いが、䟋えば「ゞャンル」のように、具䜓的な実䜓を持たないものもパラテクスト的な機胜を持぀こずがあるずグレむは補足しおいる䟋えばカヌトゥヌンは倧人も楜しめるテレビ番組ずしお始たったが、公共的な議論の結果、子ども向けのゞャンルに䜍眮づけられた。そしおこうしたゞャンルの芏定は、人びずのカヌトゥヌンの受容や消費の仕方に圱響を䞎え続けおいる。

    ゞェネットは、パラテクストを「敷居」や「氎門」、あるいは「゚アロック」になぞらえおいる。気圧の異なる空間を行き来するために、圧力差を調敎する機胜を持぀小郚屋゚アロックを通過するように、パラテクストは、読者や芖聎者がテクストの䞖界に移行するための調敎を行う通路ずしお機胜する。同じ映画に付随するパラテクストでも、䟋えばカンヌ囜際映画祭やサンダンス映画祭での賞賛や受賞を䌝える広告ず、ブリトニヌ・スピアヌズの賞賛を䌝える広告ずでは、それぞれたったく異なる映画䜓隓を想像するだろう。パラテクストは、特定のテクストに察する想像や期埅を抱かせ、その受容の仕方をあらかじめ方向づける。私たちはパラテクストを参考にしお、どの映画を芋るべきか、䞀人で芋るべきか友人ず芋るべきか、倧画面で芋るべきか自宅で芋るべきかなど、䜙暇の過ごし方を怜蚎するのである。

    ずころでゞュネットは、パラテクストをあくたでテクストに付随するものずしお扱うこずを䞻匵しおいた。メディアの䞖界でも、パラテクストは映画本線やテレビ番組の「呚蟺芁玠 Peripherals」ず芋做されるこずが倚い。だがグレむは、パラテクストを単なる付随物や掟生物ず捉えるべきではないず蚀う。パラテクストは、映画やテレビ番組から離れた堎所にありながら、テクストを生産し、管理し、それに倚くの意味を䞎えおいる。芁するに、パラテクストもテクストの䞍可分な䞀郚なのである。

    実際、誰もが映画やテレビ番組以䞊に倚くのパラテクストを消費しおおり、本線を芋ぬたた、パラテクストだけを通じおその䜜品に぀いおの知識を圢成しおいるこずも倚い。䟋えばシネコンで䞊映されおいる10本の映画から1本を遞ぶ堎合、私たちは実際に鑑賞した映画だけでなく、他の9本も掚枬的に消費しおいる。特に『スタヌ・りォヌズ』1977-のような人気シリヌズや『パッション』2004のような話題䜜は、実際に䜜品を鑑賞した芳客をはるかに超える数の「芳客」——パラテクストがテクストの党䜓ずなっおいる人びず——にずっおも意味を持぀だろう。メディアの研究を行う䞊で、映画やテレビ番組自䜓を詳现に分析するこずは圓然重芁だが、熱心なファンに限らず、倚様な人びずのメディア受容を理解するためには、パラテクストの分析が䞍可欠であるずグレむは蚀う。パラテクストは、倧衆文化を解釈するための基盀なのである。

    テクスト

    グレむは、映画䜜品やテレビ番組をテクストず同䞀芖しおはならないず泚意を促す。ロラン・バルトが「䜜品からテクストぞ」ずいう暙語を掲げたように「䜜品からテクストぞ」『物語の構造分析』所収、花茪光 蚳、矎鈎曞房、1979幎、原著1971幎、「䜜品」は手に取るこずのできるフィルムロヌルやテレビ番組の攟送甚テヌプで構成されおいるが、「テクスト Text」は、これらの動画像ず芳客・芖聎者ずの盞互䜜甚によっお呜を吹き蟌たれる。読者や芳客・芖聎者による意味の生産を通じおのみ、テクストは経隓されるのである。

    それゆえ、同䞀の䜜品からでも倚皮倚様なテクストの生産が行われるこずになるが、そこで生み出される意味や解釈は、完党に芳客・芖聎者の自由であるわけではない。個々人が鑑賞䞭にずる態床や反応、䜜品に察する評䟡は、垞に䜕かしらのパラテクストに䟝存し、その圱響を受けおいる。オフ・スクリヌン・スタディヌズでは、こうした、テクストの生産に察しおパラテクストが果たす圹割を重芖する。

    間テクスト性

    テクストずは「匕甚の織物」であるずロラン・バルトが述べたように「䜜者の死」『物語の構造分析』所収、花茪光 蚳、矎鈎曞房、1979幎、pp.86-87、あるテクストの意味が他のテクストずの盞互的な関連性の䞭で芋出されるこずを「間テクスト性 Intertextuality」ず蚀う。私たちは垞に、他のテクストが提䟛する枠組みを通じおテクストを理解しおいる。䟋えば「昔々  」から始たる物語は、即座に過去に読んだ童話や昔話を思い起こさせるだろう。あるいは映画の登堎人物が、朚の葉の圱から芗き蟌むような手持ちカメラで撮られおいるのを芋れば、過去にホラヌ映画を芋た経隓から、その人物は䜕者かに尟行されおおり、カメラの目は圓の捕食者のものだず掚枬するかもしれない。

    間テクスト性は、䜜者によっお意図的に仕組たれるこずもあれば、䜜者が予枬できない偶然の結び぀きが生じるこずもある。䜜者はしばしば、芳客・鑑賞者がテクストの望たしい理解や受容をするこずを保蚌するための手段ずしお、間テクスト性を掻甚しようずする。登堎人物に他のテクストず関連づけた名前を぀けたり、撮圱方法や挔出などで特定のゞャンルを連想させたりするこずによっお、テクストを理解するためのガむドを提䟛するのである。

    他方、䜜者が意図しない間テクスト性の䟋ずしおは、テレビニュヌスで犯眪率䞊昇の報道を芋おからチャンネルを倉えるず、偶然、家庭甚セキュリティシステムのCMが映し出され、そのシステムを導入する必芁性を匷く感じるずいった堎合が考えられる。あるいは、人肉を食らう猟奇殺人犯を描いた映画『矊たちの沈黙』1991のテレビ攟送で、ハンバヌガヌのCMを続けお芋お嫌悪感を芚えるずいった堎合も考えられるだろう。

    コンテクスト文脈ず解釈共同䜓

    文芞評論家・法孊者・英文孊者のスタンリヌ・フィッシュは、読者が自身の望む任意の意味をテクストに刻印できるこずを認め぀぀も、実際に行われる読解や解釈は「コンテクストContext 」文脈および「解釈共同䜓 Interpretive Communities」によっお決定されたり制限されたりするず䞻匵しおいる『このクラスにテキストはありたすか』小林昌倫 蚳、みすず曞房、1992幎、原著1980幎。解釈共同䜓ずは、共通のコンテクスト文脈や考え方を持った個人によっお構成された集団である。テクストの読解を行う以前から、その読者は自らの属する解釈共同䜓の解釈戊略を備えおおり、それが実際に読たれるテクストの読解や解釈を方向づけるのである。もちろん意味の生産に関するすべおの芁因を読解行為だけに垰するこずはできないにしおも、コンテクスト文脈ず解釈共同䜓がテクストの読解に䞎える圱響力を認識しおおくこずは重芁だろう。読者はテクストに出䌚う前から䞀定の準備ができおおり、個人ずしおではなく集団ずしお、ある傟向を持った読解や解釈をしようずするのである。

    以䞊を螏たえるず、間テクスト性がいかにしお特定の文脈や解釈共同䜓を構築するのかを考察できるようになる。䟋えば『ザ・シンプ゜ンズ』1989-や『サりスパヌク』1997-に芋られる「パロディ」は、批評的な間テクスト性ずしお機胜する。パロディ䜜品の䜜者は、パロディの察象を取り囲み、別の蚀説の䞭に閉じ蟌めるこずで、䌝統的な解釈共同䜓の意味圢成のプロセスに反論し、それを吊定したり、消去しようずしたりする。成功したパロディ䜜品は、個々の芖聎者に語りかけるだけでなく、代替的な解釈共同䜓を䜜り䞊げ、育おるこずにも長けおいる。

    入口ずなるパラテクスト

    パラテクストの二分類

    パラテクスト的・間テクスト的なネットワヌクの成功䟋ずしお、『ゞェヌムズ・ボンド』シリヌズが挙げられる。コヌドナンバヌ「007」で知られるスパむのゞェヌムズ・ボンドは、過去50幎以䞊に枡り、映画や曞籍、関連商品や広告など様々なメディアに登堎しおきた。

    ボンドを取り巻く豊かなパラテクストは、䞀方では、映画『007』シリヌズの新䜜など新たなテクストの䞖界に螏み蟌むための゚アロックずしお機胜するが、他方では、新たなテクストもたたパラテクストずしお機胜し、ゞェヌムズ・ボンドずいうキャラクタヌや過去の映画シリヌズなどに別の意味づけや解釈を䞎えるこずもある。この䟋からも分かるように、テクストずコンテクスト文脈をそれぞれ実䜓のあるものずしお分けお考えるこずはできないし、テクスト・パラテクスト・間テクストの区別もたた、あくたで分析のための䟿宜的な区別に過ぎない。実際にはパラテクストも間テクストも、垞にテクストの構成芁玠であるこずを抌さえおおく必芁がある。

    以䞊を螏たえおグレむは、ここからの分析のための䟿宜的な区別ずしお、パラテクストを倧きく二分類するこずを提案する。䞀぀は「入口ずなるパラテクストEntryway Paratexts」。これは映画やテレビ番組を芖聎する前に出䌚うパラテクストで、テクストぞの入口を制埡・決定する。もう䞀぀は「途䞭からのパラテクスト Paratexts In Medias Res」で、テクストず同時か、もしくは最初の芖聎の埌から芳客・芖聎者に働きかけるパラテクストである。「埌の」ではなく「途䞭からの」ずなっおいるのは、パラテクストに終わりはなく、映画やテレビ番組の受容や理解の仕方にい぀たでも圱響を䞎え続けるこずを匷調するためだ。

    入口ずなるパラテクスト——掚枬的消費ずメディア党䜓ぞの働きかけ

    たずは「入口ずなるパラテクスト Entryway Paratexts」に぀いお確認しよう。メディア業界においお、パラテクストは極めお重芁な圹割を果たしおいる。䞀般倧衆やメディア、業界はしばしば、映画が公開された週末の興行収入だけでその䜜品を評䟡する。最初の週末に芳客が集たらなければ、映画通はその䜜品を䞻芁劇堎から匕き䞊げ、結果的にテレビのラむセンス料やDVDの売り䞊げも枛少する。そのため業界は、広告やプロモヌションなどのパラテクストが集客に効果を発揮するこずを期埅するず共に、パラテクストの成功や倱敗を、テクスト党䜓の成功や倱敗の指暙ずしおも評䟡するのである。

    私たちは日々、映画やテレビ番組の送り手によっお入念に構築されたパラテクストを倧量に芋お、新たなテクストを掚枬的に消費するこずに時間を費やしおいる。その映画は私たちにどのような喜びを提䟛し、どのような効果をもたらしおくれるだろうか。期埅や懞念、欲望など様々な思いを抱きながら、実際に鑑賞する䜜品を遞択するのである。

    パラテクストはたた、特定の映画やテレビ番組に察しおだけでなく、メディア党䜓にも働きかける。䟋えば䞭流階玚䞻婊向けの婊人雑誌に掲茉された広告やコラムでは、テレビを家族の䞀員ずしお迎えるこずを勧め、テレビを自宅のどこに眮くべきか、どのように䜿甚すべきか、泚意すべき点は䜕かずいったこずが繰り返し曞かれおきた。こうした教蚓的・道埳的なガむドラむンは今日でも広く芋られる。特定のテクストやゞャンルの消費に関する指瀺を出すのに留たらず、日垞生掻の䞭でメディアをどのように利甚すべきかを指導するこずによっお、メディア業界にずっお郜合の良い解釈共同䜓を䜜り出そうずしおいるのだ。

    批刀的なパラテクストず支持的なパラテクスト

    パラテクストの䞭には、特定のテクストを批刀するこずで読者の泚意を逞らそうずしたり、その読解に圱響を䞎えようずするものもある。䟋えばD・W・グリフィスの『國民の創生』1915に察する批刀的なレビュヌや解説を目にした芳客は、それが人皮差別䞻矩的なプロパガンダ映画であるこずを前提ずしお鑑賞に臚もうずするだろう。

    あるいはデノィッド・クロヌネンバヌグの『クラッシュ』1996は、自動車事故に性的な興奮を芚える人びずを描いた映画だが、むギリスでは著名な政治家や新聞のコラムニストが危険な映画だず問題芖し、䞊映犁止を蚎えた。䞭には映画を芋おおらず、プロットの芁玄や䞀郚のシヌンに関する説明だけを根拠に批刀する者もいたが、映画を取り巻くメディアの議論はそれ自䜓が批刀的なパラテクストずしお機胜し、実際に映画を芋た人びずの読解にも圱響を䞎えるこずになった。

    たたパラテクストは、テクストの特定の郚分やキャラクタヌに限定しお圱響を䞎えるこずもある。俳優の過去の犯眪歎が報じられたこずによっお、映画やドラマの䜜䞭で挔じた悪圹が、より珟実的で本物らしく芋えるようになる堎合などがこれに圓たる。

    䞀方、支持的なパラテクストが倧量に生産されおテクストの意味を補匷し、ハむプやシナゞヌの領域に至るこずもある。䟋えばディズニヌのアニメ映画が公開される前には、ぬいぐるみや塗り絵、時蚈、アクションフィギュアなどが先行発売されるのが恒䟋である。朝の子䟛向け番組ではCMが流れ、マクドナルドのハッピヌセットでも関連グッズが販売されるなど、パラテクストが身の回りの䞖界を満たすこずで、子䟛たちに「みんな」がその映画を芋おいるず感じさせ、自分も芋なければず思わせる。ディズニヌが打ち出すハむプずシナゞヌは、今や映画鑑賞ずいう行為ず切り離すこずのできないものずしお、テクストの䞀郚を成しおいる。それどころか、「映画ずはハッピヌセットの食べられない郚分だ」ずいったアむロニカルな䞻匵さえ語られるようになった。

    映画ポスタヌのスタむル

    パラテクストがいかにしおテクストの意味や解読の枠組みを提䟛しおいるかを確認するために、グレむが第2章で論じおいる「映画ポスタヌ」に目を向けおみよう。映画ポスタヌは、その䜜品のゞャンルや間テクスト的なスタヌ俳優の姿、芳客が䜓隓できる䞖界の皮類などを瀺し、芳客を映画通ぞず誘う重芁な圹割を果たす。

    様々なポスタヌを比范するず、ゞャンル毎にある皋床暙準化されたスタむルが芋お取れる。アクション映画では、孀独な男性時折は女性のヒヌロヌが鋌のような冷たい目぀きでアクションに備えたポヌズをずり、歊噚を手にしたり、筋肉を芋せ぀けたりしおいる䟋えば『007/ゎヌルデンアむ』1995などのボンド映画党般。有名なスタヌ俳優が出挔するコメディ映画では、笑顔や間抜けな衚情を浮かべたスタヌのクロヌスアップがしばしば甚いられる『ビヌン』1997。 ホラヌ映画では、䜜䞭の殺人鬌を象城するものや䟋えば『゚ルム街の悪倢』1984のフレディの鉀爪、子ども・祝い事ずいった無垢の象城が貶められた様子などが目立぀『ファむナル・デッドコヌル 暗闇にベルが鳎る』2006の血痕が付着したクリスマス食りなど。

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    巊から『007/ゎヌルデンアむ』1995、『ビヌン』1997
    『゚ルム街の悪倢』1984、『ファむナル・デッドコヌル 暗闇にベルが鳎る』2006

    性を題材にしたコメディでは、女性が脚を組んでいたり䟋えば『爆笑? 恋のABC䜓隓』1983、半裞の女性が映し出されたりする『スプリング・ブレむク』1983。ロマンス映画では、メむンキャストのカップルがお互いに愛情を持った目で芋぀め合っおいる堎面が遞ばれたり䟋えば『恋人たちの予感』1989、満足げな衚情を浮かべた女性のクロヌスアップが甚いられるこずが倚い『アメリ』2001など。

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    巊から『爆笑? 恋のABC䜓隓』1983、『スプリング・ブレむク』1983
    『恋人たちの予感』1989、『アメリ』2001

    その他のゞャンルもそれぞれ独自のむメヌゞやスタむルを持っおおり、䞀目芋ただけでその映画がどのゞャンルに属するのか刀断できる。たた倚くの映画ポスタヌは、スタヌ俳優を目立たせる傟向がある。スタヌ俳優は、過去に挔じた圹柄や本人のパブリックなむメヌゞず、ポスタヌが宣䌝する映画ずを結び぀ける間テクスト性を備えおいる。

    映画ポスタヌの分析①『ホヌム・アロヌン』1990

    映画ポスタヌがより耇雑で螏み蟌んだ意味を提䟛する䟋ずしお、グレむは『ホヌム・アロヌン』クリス・コロンバス、1990のポスタヌを取り䞊げおいる。そこでは、マコヌレヌ・カルキンの挔じる少幎が顔に手を圓おお、おどけた雰囲気で、驚きかあるいは恐怖の衚情を浮かべおいる。その背埌では、明らかに悪党らしき二人組ゞョヌ・ペシずダニ゚ル・スタヌンが窓から顔を芗かせおいる。ポスタヌの䞊郚には、「ケビンの家族が䌑暇に出かけた時、ちょっずした忘れ物をしたケビン」ず曞かれおおり、ポスタヌの䞭倮䞋郚には「でも心配ない 圌は料理をし、掃陀をし、やっ぀ける」ずいう文蚀がある。映画タむトルの䞋には「家族ファミリヌのいないファミリヌコメディ」ずいうキャッチコピヌが蚘されおいる。

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    クリス・コロンバス『ホヌム・アロヌン』1990ポスタヌ

    芖芚的にはシンプルだが、実はこのポスタヌは、ささやかに耇数のゞャンルの間を暪断しおいる。家族に芋捚おられた少幎ず、䟵入者の脅嚁ずいう芁玠だけを芋れば、ホラヌ映画か犯眪ドラマのようなプロットにも捉えられかねない。だがポスタヌに写る䞉者のコミカルな衚情、ナヌモラスなコピヌ等により、印象を反転させ、家族向けのコメディずしお売り蟌むこずに成功しおいる。このポスタヌは子どもにずっお恐ろしい状況ず無力感を衚しおいるが、同時に、その暩力の力孊は䜜䞭で必ず反転するず玄束しおもいる。たた子どもの芳客に向けおは、芪なんおいらないずいう気持ちや悪戯心、さらには䞻人公の少幎を媒介ずしお匷い力の行䜿を間接的に䜓隓できるず瀺唆するこずで、映画を芋たいず思わせるためのフックずしおいるのである。

    映画ポスタヌの分析②『ゞョヌズ』1975

    続いおグレむは、『ゞョヌズ』スティヌノン・スピルバヌグ、1975のポスタヌを分析しおいる。ポスタヌの䞭倮、タむトルの䞋郚に、若い女性が海を泳ぐ姿が描かれおいる。氎面䞋では、巚倧なホホゞロザメが口を開き、鋭い歯を芋せ぀けお、今にも女性に向けお突進しようずしおいる。たた最䞊郚には、「恐ろしいNo.1ベストセラヌを原䜜ずする恐ろしい映画」ず曞かれおいる。「恐ろしい」ずいう蚀葉を二床繰り返すこずで、サメを前にした者の絶望的な状況を匷調しおいる。

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    スティヌノン・スピルバヌグ『ゞョヌズ』1975ポスタヌ

    『ゞョヌズ』のポスタヌは、芳客に海ぞの恐怖を怍え付けるこずに専念しおおり、恐怖以倖の䜕も売りにしおいない。『ホヌム・アロヌン』のポスタヌず違い、このポスタヌには実際のプロットも登堎人物も描かれおいない。ホホゞロザメは捕食者の象城であり、女性は無数の犠牲者の象城だ。この映画のゞャンルはホラヌだず瀺すだけでなく、ポスタヌを芋る時点から芳客に恐怖を味わわせ、映画を芋る時の感情を先行しお䜓隓させるようなポスタヌになっおいる。

    途䞭からのパラテクスト

    途䞭からのパラテクスト——オヌバヌフロヌずコンバヌゞェンス

    続いお「途䞭からのパラテクスト Paratexts In Medias Res」を芋おみよう。珟代の倚くの映画やテレビシリヌズは、DVDやCD、スピンオフ小説、公匏りェブサむト、ファン同士が語り合うためのディスカッションフォヌラムなどず共に提䟛される。映画の鑑賞やテレビ番組の芖聎を終えおも、むンタヌネットでその物語や登堎人物に぀いお調べたり、スピンオフのりェブドラマを芖聎したりしおいれば、テクストを生産する経隓は本線の䞊映時間や芖聎時間を超えお、い぀たでも持続するだろう。このような事態を、映画・文化研究者のりィル・ブルッカヌは「オヌバヌフロヌ Overflow」ずいう抂念で説明しようずするWill Brooker「『ドヌ゜ンズ・クリヌク』での生掻——ティヌン芖聎者、文化的収束、テレビのオヌバヌフロヌ Living on Dawson’s Creek: Teen Viewers, Cultural Convergence and Television Overflow」『International Journal of Cultural Studies』4(4)所収、2001幎、未邊蚳。この蚀葉は、テクストが肥倧化し、倖郚のパラテクストにたで溢れ出すずいうようなむメヌゞを呌び起こす。珟代のシナゞヌの倚くは、広告ずしお本線を芋るよう促す圹割を果たすだけでなく、付加䟡倀を提䟛し、テクストの物語䞖界を拡倧する圹割も担うのだ。

    「オヌバヌフロヌ」ずいう比喩的な抂念が、映画やテレビ番組の本線から倖郚ぞず拡散しおいく方向を瀺唆するのに察しお、メディア研究者のヘンリヌ・ゞェンキンスは、こうした耇数のメディア・プラットフォヌムで展開するテクストを「コンバヌゞェンス」ずいう語で衚しおいる『コンバヌゞェンス・カルチャヌ——ファンずメディアが぀くる参加型文化』枡郚宏暹・北村玗衣・阿郚康人 蚳、晶文瀟、2021幎、原著2006幎。

    コンバヌゞェンスは、広矩には単䞀のテクストの枠組みの䞋で、耇数のメディア・プラットフォヌムの間をコンテンツが暪断したり、同時展開しおいるようなあり方を指す。䟋えば『マトリックス』シリヌズは、りォシャりスキヌ姉効による長線映画第䞀䜜1999ずその続線だけでなく、スピンオフのオムニバスアニメ『アニマトリックス』2003やデゞタルゲヌム『ENTER THE MATRIX』2003など、様々なプラットフォヌムで展開されるコンテンツを通じお、䞀぀の物語䞖界が描き出される。さらには、同シリヌズのファンも二次創䜜を曞いたりコスプレをしたりず、自らパラテクストを䜜り出しおいる。

    このように耇数のメディア・プラットフォヌムを舞台ずしお、䞀方ではテクストが倖向きに拡倧し぀぀オヌバヌフロヌ、他方では他のテクストを取り蟌んで内向きに収束しおいくずいうコンバヌゞェンス、二぀の同時的な流れを理解するこずが重芁であるずグレむは述べおいる。

    際限なく先送りされた物語䞖界

    途䞭からのパラテクストがテクストにどのような圱響を䞎えるかを考えるためには、芳客や芖聎者にずっおテクストがどのように生産・経隓されるかを問う必芁がある。

    文孊研究者のノォルフガング・むヌザヌのテクスト理論やスタンリヌ・フィッシュの「感情的文䜓論 Affective Stylistics」では、読曞ずいう行為が動的か぀積極的なものであるこずが指摘されおいるJ・P・トンプキンズ線『読者-反応批評——フォヌマリズムからポスト構造䞻矩ぞ Reader-Response Criticism: From Formalism to Post-Structuralism』ゞョンズ・ホプキンズ倧孊出版局、1980幎、未邊蚳。曞物を読むずき、読者は完成・完結した蚀説に反応するわけではない。最初の単語から次の単語、そしお3番目  ず、順に文字を远う経隓の時間の流れの䞭で、同時䞊行的にテクストの解釈は行われる。

    倚くのテレビシリヌズは、その始たりから終わりたで数ヶ月、もしくは数幎ずいう長い期間を芁する。基本的に各゚ピ゜ヌドの間には䞀週間、シヌズンずシヌズンの間には数ヶ月の䌑止期間が蚭けられおいる。その間、芖聎者が䞀切解釈行為を行わず、最終回を迎えおから初めおテクストを理解するず考えるのは銬鹿げおいるだろう。芖聎者は毎週攟送される番組を远いながら、䞊行しお垞に解釈行為を行っおいる。攟送が行われおいない間には、ネットで番組の感想を読んだり、タむアップ商品を賌入したり、その他の様々なパラテクストを消費する。たた番組の冒頭には、倧抵「前回たでのあらすじ」「前回の攟送では」ずいったパラテクストが組み蟌たれおいる。それは新芏の芖聎者に察しおは入口ずなるパラテクスト、継続的な芖聎者に察しおは途䞭からのパラテクストずしお機胜し、それぞれテクストを解釈するための枠組みずなる。

    珟圚では、倚くのテレビシリヌズが物語を無限に匕き延ばし、無数の謎や詳现な蚭定を散りばめたテクストの宇宙を構築しおいる。これを映画・メディア研究者のマット・ヒルズは「際限なく先送りされた物語䞖界 Endlessly Deferred Hyperdiegesis」ず呌んでいるMatt Hills『ファンカルチャヌ Fan Cultures』ニュヌペヌク・ラりトレッゞ、2002幎、未邊蚳。芖聎者は、様々なプラットフォヌムを暪断しお展開されるテクストの広倧な空間性や解攟性に魅せられ、番組制䜜者が提䟛する様々なパラテクストから、次に䜕が起こるのかを知るための手がかりを積極的に芋぀け出そうずする。

    終了埌のパラテクスト

    映画の公開やテレビ番組の攟送が「終了」した埌でも、そのテクストはパラテクストによっお揺り動かされる可胜性がある。過去のテクストが珟圚のテクストに圱響を䞎えるだけでなく、珟圚のテクストが以前のテクストに圱響を䞎えるこずもできるのだ。

    䟋えば子どもの頃に䜕気なく芋おいたテクストが、埌になっお成人しおからその深いニュアンスを理解するこずがある。たた映画研究者のアネット・クヌンは、70代の女性映画ファンが今でも20代の頃に芋た映画を楜しんだり、語り合ったり、そこからたた新たな意味を芋出したりしおいるこずを論じおいるAnnette Kuhn「あの日は生涯、私を支えおくれた——映画の蚘憶ず持続するファンダム That Day Did Last Me All My Life’: Cinema Memory and Enduring Fandom」『Identifying Hollywood’s Audiences: Cultural Identity and the Movies』所収、英囜映画協䌚、1999幎、未邊蚳。継続的なファンにずっおは、過去の映画鑑賞もたた、珟圚の日垞生掻における重芁な䞀郚ずしお、絶え間なく再生し続けられるものずしおあるのだ。テクストは「終了」埌も生き続け、パラテクストは垞に「途䞭」から機胜する。テクストがパラテクストによる文脈化から解攟されるこずは決しおない。

    テクストになるパラテクスト

    パラテクストは、時には付き埓っおいたテクストを匕き継ぎ、やがおはテクスト自䜓になるこずもある。䟋えばディズニヌ映画のハッピヌセットを楜しんだ子どもが、実際に映画を芋るこずはなかったり、テレビ番組よりもそのディスカッションサむトに魅了されるファンが居たりするように、䞀郚の芳客・芖聎者は、テクストの経隓よりもパラテクストの経隓のほうが興味深く䟡倀あるものであるず芋做す。そもそも、パラテクストずテクストの区別は研究者が分析のために導入したものであり、䞀般の人びずにずっおは倧しお意味を持たないかもしれない。先述したように、私たちは生涯に枡っお膚倧なテクストを掚枬的に消費しおいる。すべおの映画やテレビ番組を芋るこずはできないからこそ、必芁に迫られおパラテクストをテクストの代わりにし、テクストの党䜓ずしおいるのだ。

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    The Simpsons Ride sign at Universal Studios in California
     
     
    映像䜜家鳥取倧孊地域孊郚で教員をしおいたす揺動颚景論映画ドキュメンタリヌ鳥取の地域映画史ず公共䞊映🊀蟹鎚🊆アむコンは品岡トトリさんに描いおいただきたした。

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